コンテンツにスキップ

「ルキウス・カルプルニウス・ピソ・カエソニヌス」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
SieBot (会話 | 投稿記録)
m ロボットによる 追加: es:Lucio Calpurnio Pisón Cesonino
m Bot作業依頼#Cite webの和書引数追加
 
(26人の利用者による、間の36版が非表示)
1行目: 1行目:
'''ルキウス・カルプルニウス・ピソ・カエソニヌス'''('''Lucius Calpurnius Piso Caesoninus''')は[[共和政ローマ]]末期の[[元老院 (ローマ)|老院]]議員。娘カルプルニアは[[ユリウス・カエサル]]妻となる。
{{otheruses|共和制ローマの政治家|紀元前148年の執政官|ルキウス・カルプルニウス・ピソ・カエソニヌス (前148年執政官)}}
{{Infobox 共和政ローマ
|人名= ルキウス・カルプルニウス・ピソ・カエソニヌス
|ラテン語表記= L. Calpurnius L. f. L. n. Piso Caesoninus
|画像= Statue della famiglia giulio claudia, dal foro di veleia, 14-54 dc ca., lucio calpurnio pisone.jpg
|画像サイズ=
|見出し=
|渾名=
|出生= 不明
|死没= [[紀元前43年]]ごろ
|生地=
|死没地=
|出身階級= [[プレブス]]
|家族名= ピソ家
|氏族名= [[カルプルニウス氏族]]
|官職= [[クァエストル|財務官]]<span style="font-size: smaller">([[紀元前70年]]?)</span><br>[[アエディリス|按察官]]<span style="font-size: smaller">([[紀元前64年]]?)</span><br>[[プラエトル|法務官]]<span style="font-size: smaller">([[紀元前61年]]以前)</span><br>前法務官<span style="font-size: smaller">([[紀元前60年]]?)</span><br>[[執政官]]<span style="font-size: smaller">([[紀元前58年]])</span><br>[[プロコンスル|前執政官]]<span style="font-size: smaller">([[紀元前57年]]-[[紀元前55年|55年]])</span><br>[[ケンソル|監察官]]<span style="font-size: smaller">([[紀元前50年]])</span>
|属州総督= 属州不明<span style="font-size: smaller">([[紀元前60年]]?)</span><br>[[マケドニア属州]]<span style="font-size: smaller">([[紀元前57年]]-[[紀元前55年|55年]])</span>
|指揮戦争=
|配偶者= ルティラ
|後継者= [[ルキウス・カルプルニウス・ピソ・カエソニヌス (紀元前15年の執政官)|ルキウス]]、[[カルプルニア]]
}}


'''ルキウス・カルプルニウス・ピソ・カエソニヌス'''('''{{lang-la|Lucius Calpurnius Piso Caesoninus}}''', 生没年不詳)は、[[共和政ローマ]]末期の政治家。同名の息子[[ルキウス・カルプルニウス・ピソ・カエソニヌス (紀元前15年の執政官)|ルキウス]]は[[紀元前15年]]に[[執政官]]を、[[紀元前50年]]には[[ケンソル]](監察官)を務めた。また、娘[[カルプルニア]]は[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]の妻となった。
[[紀元前58年]]に[[アウルス・グラビニウス]]とともに[[ンスル]]に選ばれ、[[プブリウス・クロディウス・プルケル|クロディウス]]と共謀[[キケロ]]を追放した。その報酬として彼は[[マケドニア属州]]の総督として[[紀元前57年]]から[[紀元前55年]]に元老院に呼び戻されるまでする


== 経歴 ==
呼び戻されたを持っていたのはキケロによる元老院での弾劾であり、彼は被告として守勢に立たされ、弁護を要請する書面を提示するが、この時点でキケロは途中で裁判を放棄してしまう。一説には義理の息子であったカエサルを裁判の場に出したくなかったからとも言われている。
[[紀元前58年]]に[[アウルス・ビニウス]]と執政官に選ばれ、カエサルと[[グナエウス・ポペイウ]]、[[マクス・リキニウス・クラッスス]]ら[[三頭政治|第一回三頭政治]]派属して[[護民官]][[プブリウス・クロディウス・プルケル|クロディウス]]と共謀[[マルクス・トゥッリウス・キケロ]]を追放した。報酬として[[マケドニア属州]]の総督として[[紀元前57年]]から[[紀元前55年]]に[[元老院 (ローマ)|元老院]]に呼び戻されるまで務めた


呼び戻されたピソを持っていたのはキケロによる元老院での弾劾であり、彼は被告として守勢に立たされ、弁護を要請する書面を提示するが、この時点でキケロは途中で裁判を放棄してしまう。一説には義理の息子であったカエサルを裁判の場に出したくなかったからとも言われている。
時代は下ってカエサルが[[ルビコン川]]を越えた時、ピソは中立としての立場を取った。しかし[[ローマ]]に攻め入ろうとすると彼はカエサルへの抗議の意思としてローマを去る。しかしながら彼はカエサルのライバルである[[ポンペイウス]]の明確な指示をするはなかった。


[[紀元前49年]]からの[[ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)|ローマ内戦]]では、ピソは中立としての立場を取った。しかし[[ローマ]]に攻め入ろうとすると彼はカエサルへの抗議の意思としてローマを去るも、カエサルのライバルであるポンペイウスの明確な支持をすることはなかった。
カエサルの暗殺後、ピソはカエサルの遺書を厳密に実行するよう主張、最初は[[マルクス・アントニウス]]と対立した。しかしながら後にアントニウスの支持者となり対立する[[オクタウィアヌス]]との仲を取り持つ役目を負った。


カエサルの{{仮リンク|ガイウス・ユリウス・カエサル暗殺事件|en|Assassination of Julius Caesar|label=暗殺|redirect=1}}後、ピソはカエサルの遺書を厳密に実行するよう主張、最初は[[マルクス・アントニウス]]と対立した。しかし後にアントニウスの支持者となり対立する[[アウグストゥス|オクタウィアヌス]]との仲を取り持つ役目を負った。
[[category:古代ローマ人|ひそ_るきうす_かるふるにうす_かえそにうす]]
[[category:共和政ローマの人物|ひそ_るきうす_かるふるにうす_かえそにうす]]
[[category:カルプルニウス氏族|ひそ_るきうす_るふるにうす_かえそにうす]]


== 関連事物 ==
[[de:Lucius Calpurnius Piso Caesoninus (Konsul 58 v. Chr.)]]
上記の[[キケロ]]による弾劾は『ピソ弾劾』({{Lang-la-short|In Pisonem}})として現存しており、罵倒の表現に満ちた弁論作品として知られる<ref>山沢孝至訳「ピーソー弾劾」『キケロー選集2』岩波書店、2000年、ISBN 978-4000922524 訳者解説</ref>。
[[en:Lucius Calpurnius Piso Caesoninus]]

[[es:Lucio Calpurnio Pisón Cesonino]]
同時代の[[ガイウス・カッシウス・ロンギヌス|カッシウス]]や[[ティトゥス・ポンポニウス・アッティクス|アッティクス]]と同様、[[エピクロス主義]]の信奉者であり、エピクロス派哲学者[[ピロデモス]]の[[パトロン]]でもあった<ref>{{Citation|和書|title=哲学の歴史 第2巻 帝国と賢者 古代2|last=小池|first=澄夫|year=2007|publisher=中央公論新社|editor=[[内山勝利]]|pages=103-106|chapter=エピクロス学派の書物 羊皮紙綴本・パピルス・碑文|isbn=9784124035193}}</ref>。
[[fr:Lucius Calpurnius Piso Caesoninus (consul en -58)]]

[[ko:???]]
[[ポンペイ]]近郊の遺跡[[ヘルクラネウム]]の[[パピルス荘]]は、ピソが所有した[[ヴィラ]]だったと推定される<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=フィレンツェだより第2章備忘録 3月17日 |url=https://www.f.waseda.jp/tokuyam/fir.444.htm |website=www.f.waseda.jp |access-date=2022-06-19 |author=宮城徳也}}</ref>。
[[nl:Lucius Calpurnius Piso Caesoninus (consul in 58 v.Chr.)]]

[[simple:???]]
== 脚注 ==
<references />
== 関連項目 ==
*[[共和政ローマ執政官一覧]]
*[[共和政ローマ監察官一覧]]

{{s-start}}
{{s-off}}
{{s-bef|before=[[ガイウス・ユリウス・カエサル ]] I<br />[[マルクス・カルプルニウス・ビブルス]]}}
{{s-ttl|title=[[共和政ローマ執政官一覧|執政官]]|years=''同僚:[[アウルス・ガビニウス]]<br />[[紀元前58年]]}}
{{s-aft|after=[[プブリウス・コルネリウス・レントゥルス・スピンテル]]<br />[[クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ネポス (紀元前57年の執政官)|クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ネポス]]}}
{{s-end}}

{{s-start}}
{{s-off}}
{{s-bef|before=[[プブリウス・セルウィリウス・ウァティア・イサウリクス (紀元前79年の執政官)|プブリウス・セルウィリウス・ウァティア・イサウリクス]]<br />[[マルクス・ウァレリウス・メッサッラ・ニゲル]]<br />[[紀元前55年]]}}
{{s-ttl|title=[[共和政ローマ監察官一覧|ケンソル]]|years=''同僚:[[アッピウス・クラウディウス・プルケル (紀元前54年の執政官)|アッピウス・クラウディウス・プルケル]]''<br />[[紀元前50年]]}}
{{s-aft|after=[[ガイウス・アントニウス・ヒュブリダ]]<br />[[プブリウス・スルピキウス・ルフス]]<br />[[紀元前42年]]}}}
{{s-end}}

{{DEFAULTSORT:かるふるにうす ひそ かえそにうす るきうす}}
[[Category:紀元前1世紀の古代ローマ人]]
[[Category:カルプルニウス氏族|ひそ えそにうす るきうす]]
[[Category:生没年不詳]]
[[Category:共和政ローマの執政官]]

2023年11月1日 (水) 12:56時点における最新版


ルキウス・カルプルニウス・ピソ・カエソニヌス
L. Calpurnius L. f. L. n. Piso Caesoninus
出生 不明
死没 紀元前43年ごろ
出身階級 プレブス
一族 ピソ家
氏族 カルプルニウス氏族
官職 財務官紀元前70年?)
按察官紀元前64年?)
法務官紀元前61年以前)
前法務官紀元前60年?)
執政官紀元前58年
前執政官紀元前57年-55年
監察官紀元前50年
担当属州 属州不明紀元前60年?)
マケドニア属州紀元前57年-55年
配偶者 ルティラ
後継者 ルキウスカルプルニア
テンプレートを表示

ルキウス・カルプルニウス・ピソ・カエソニヌスラテン語: Lucius Calpurnius Piso Caesoninus, 生没年不詳)は、共和政ローマ末期の政治家。同名の息子ルキウス紀元前15年執政官を、紀元前50年にはケンソル(監察官)を務めた。また、娘カルプルニアガイウス・ユリウス・カエサルの妻となった。

経歴[編集]

紀元前58年アウルス・ガビニウスと共に執政官に選ばれ、カエサルとグナエウス・ポンペイウスマルクス・リキニウス・クラッスス第一回三頭政治派に属して護民官クロディウスと共謀、マルクス・トゥッリウス・キケロを追放した。報酬として、マケドニア属州の総督として紀元前57年から紀元前55年元老院に呼び戻されるまで務めた。

呼び戻されたピソを持っていたのはキケロによる元老院での弾劾であり、彼は被告として守勢に立たされ、弁護を要請する書面を提示するが、この時点でキケロは途中で裁判を放棄してしまう。一説には義理の息子であったカエサルを裁判の場に出したくなかったからとも言われている。

紀元前49年からのローマ内戦では、ピソは中立としての立場を取った。しかしローマに攻め入ろうとすると彼はカエサルへの抗議の意思としてローマを去るも、カエサルのライバルであるポンペイウスの明確な支持をすることはなかった。

カエサルの暗殺英語版後、ピソはカエサルの遺書を厳密に実行するよう主張、最初はマルクス・アントニウスと対立した。しかし後にアントニウスの支持者となり、対立するオクタウィアヌスとの仲を取り持つ役目を負った。

関連事物[編集]

上記のキケロによる弾劾は『ピソ弾劾』(: In Pisonem)として現存しており、罵倒の表現に満ちた弁論作品として知られる[1]

同時代のカッシウスアッティクスと同様、エピクロス主義の信奉者であり、エピクロス派哲学者ピロデモスパトロンでもあった[2]

ポンペイ近郊の遺跡ヘルクラネウムパピルス荘は、ピソが所有したヴィラだったと推定される[3]

脚注[編集]

  1. ^ 山沢孝至訳「ピーソー弾劾」『キケロー選集2』岩波書店、2000年、ISBN 978-4000922524 訳者解説
  2. ^ 小池澄夫 著「エピクロス学派の書物 羊皮紙綴本・パピルス・碑文」、内山勝利 編『哲学の歴史 第2巻 帝国と賢者 古代2』中央公論新社、2007年、103-106頁。ISBN 9784124035193 
  3. ^ 宮城徳也. “フィレンツェだより第2章備忘録 3月17日”. www.f.waseda.jp. 2022年6月19日閲覧。

関連項目[編集]

公職
先代
ガイウス・ユリウス・カエサル I
マルクス・カルプルニウス・ビブルス
執政官
同僚:アウルス・ガビニウス
紀元前58年
次代
プブリウス・コルネリウス・レントゥルス・スピンテル
クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ネポス
公職
先代
プブリウス・セルウィリウス・ウァティア・イサウリクス
マルクス・ウァレリウス・メッサッラ・ニゲル
紀元前55年
ケンソル
同僚:アッピウス・クラウディウス・プルケル
紀元前50年
次代
ガイウス・アントニウス・ヒュブリダ
プブリウス・スルピキウス・ルフス
紀元前42年