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[[紀元前49年]]からの[[ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)|ローマ内戦]]では、ピソは中立としての立場を取った。しかし[[ローマ]]に攻め入ろうとすると彼はカエサルへの抗議の意思としてローマを去るも、カエサルのライバルであるポンペイウスの明確な支持をすることはなかった。 |
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カエサルの{{仮リンク|ガイウス・ユリウス・カエサル暗殺事件|en|Assassination of Julius Caesar|label=暗殺|redirect=1}}後、ピソはカエサルの遺書を厳密に実行するよう主張、最初は[[マルクス・アントニウス]]と対立した。しかし後にアントニウスの支持者となり、対立する[[アウグストゥス|オクタウィアヌス]]との仲を取り持つ役目を負った。 |
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== 関連事物 == |
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上記の[[キケロ]]による弾劾は『ピソ弾劾』({{Lang-la-short|In Pisonem}})として現存しており、罵倒の表現に満ちた弁論作品として知られる<ref>山沢孝至訳「ピーソー弾劾」『キケロー選集2』岩波書店、2000年、ISBN 978-4000922524 訳者解説</ref>。 |
上記の[[キケロ]]による弾劾は『ピソ弾劾』({{Lang-la-short|In Pisonem}})として現存しており、罵倒の表現に満ちた弁論作品として知られる<ref>山沢孝至訳「ピーソー弾劾」『キケロー選集2』岩波書店、2000年、ISBN 978-4000922524 訳者解説</ref>。 |
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同時代の[[ガイウス・カッシウス・ロンギヌス|カッシウス]]や[[ティトゥス・ポンポニウス・アッティクス|アッティクス]]と同様、[[エピクロス主義]]の信奉者であり、エピクロス派哲学者[[ピロデモス]]の[[パトロン]]でもあった<ref>{{Citation|和書|title=哲学の歴史 第2巻 帝国と賢者 古代2|last=小池|first=澄夫|year=2007|publisher=中央公論新社|editor=[[内山勝利]]|pages=103-106|chapter=エピクロス学派の書物 羊皮紙綴本・パピルス・碑文|isbn=9784124035193}}</ref>。 |
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*[[共和政ローマ執政官一覧]] |
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2023年11月1日 (水) 12:56時点における最新版
![]() ルキウス・カルプルニウス・ピソ・カエソニヌス L. Calpurnius L. f. L. n. Piso Caesoninus | |
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![]() | |
出生 | 不明 |
死没 | 紀元前43年ごろ |
出身階級 | プレブス |
一族 | ピソ家 |
氏族 | カルプルニウス氏族 |
官職 |
財務官(紀元前70年?) 按察官(紀元前64年?) 法務官(紀元前61年以前) 前法務官(紀元前60年?) 執政官(紀元前58年) 前執政官(紀元前57年-55年) 監察官(紀元前50年) |
担当属州 |
属州不明(紀元前60年?) マケドニア属州(紀元前57年-55年) |
配偶者 | ルティラ |
後継者 | ルキウス、カルプルニア |
ルキウス・カルプルニウス・ピソ・カエソニヌス(ラテン語: Lucius Calpurnius Piso Caesoninus, 生没年不詳)は、共和政ローマ末期の政治家。同名の息子ルキウスは紀元前15年に執政官を、紀元前50年にはケンソル(監察官)を務めた。また、娘カルプルニアはガイウス・ユリウス・カエサルの妻となった。
経歴[編集]
紀元前58年にアウルス・ガビニウスと共に執政官に選ばれ、カエサルとグナエウス・ポンペイウス、マルクス・リキニウス・クラッススら第一回三頭政治派に属して護民官クロディウスと共謀、マルクス・トゥッリウス・キケロを追放した。報酬として、マケドニア属州の総督として紀元前57年から紀元前55年に元老院に呼び戻されるまで務めた。
呼び戻されたピソを持っていたのはキケロによる元老院での弾劾であり、彼は被告として守勢に立たされ、弁護を要請する書面を提示するが、この時点でキケロは途中で裁判を放棄してしまう。一説には義理の息子であったカエサルを裁判の場に出したくなかったからとも言われている。
紀元前49年からのローマ内戦では、ピソは中立としての立場を取った。しかしローマに攻め入ろうとすると彼はカエサルへの抗議の意思としてローマを去るも、カエサルのライバルであるポンペイウスの明確な支持をすることはなかった。
カエサルの暗殺後、ピソはカエサルの遺書を厳密に実行するよう主張、最初はマルクス・アントニウスと対立した。しかし後にアントニウスの支持者となり、対立するオクタウィアヌスとの仲を取り持つ役目を負った。
関連事物[編集]
上記のキケロによる弾劾は『ピソ弾劾』(羅: In Pisonem)として現存しており、罵倒の表現に満ちた弁論作品として知られる[1]。
同時代のカッシウスやアッティクスと同様、エピクロス主義の信奉者であり、エピクロス派哲学者ピロデモスのパトロンでもあった[2]。
ポンペイ近郊の遺跡ヘルクラネウムのパピルス荘は、ピソが所有したヴィラだったと推定される[3]。
脚注[編集]
- ^ 山沢孝至訳「ピーソー弾劾」『キケロー選集2』岩波書店、2000年、ISBN 978-4000922524 訳者解説
- ^ 小池澄夫 著「エピクロス学派の書物 羊皮紙綴本・パピルス・碑文」、内山勝利 編『哲学の歴史 第2巻 帝国と賢者 古代2』中央公論新社、2007年、103-106頁。ISBN 9784124035193。
- ^ 宮城徳也. “フィレンツェだより第2章備忘録 3月17日”. www.f.waseda.jp. 2022年6月19日閲覧。
関連項目[編集]
公職 | ||
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先代 ガイウス・ユリウス・カエサル I マルクス・カルプルニウス・ビブルス |
執政官 同僚:アウルス・ガビニウス 紀元前58年 |
次代 プブリウス・コルネリウス・レントゥルス・スピンテル クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ネポス |
公職 | ||
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先代 プブリウス・セルウィリウス・ウァティア・イサウリクス マルクス・ウァレリウス・メッサッラ・ニゲル 紀元前55年 |
ケンソル 同僚:アッピウス・クラウディウス・プルケル 紀元前50年 |
次代 ガイウス・アントニウス・ヒュブリダ プブリウス・スルピキウス・ルフス 紀元前42年 |