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{{anotheruse|アニメーター・漫画家|幕末・維新期官僚|坂本政均|樋口一葉の元婚約者で秋田・山梨県知事を務めた人物|阪本三郎}}
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== 生涯 ==
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[[サンライズ (アニメ制作ブランド)|日本サンライズ(現・サンライズ)]]の『[[伝説巨神イデオン]]』や『[[聖戦士ダンバイン]]』などで[[作画監督]]などを務める。一連の[[富野由悠季]]監督作品では『イデオン』『[[戦闘メカ ザブングル]]』『ダンバイン』と3作続けて最終の作画監督を担当した。

1996年2月23日に死去<ref name="nt" />。満60歳没。作画監督としては『[[少年アシベ2]]』の第25話(最終話)Bパート「さよなら[[イエティ]]」が本人の遺作となった。


== 作品歴 ==
== 作品歴 ==
*『[[宇宙戦艦ヤマト]]』作画監督
*『[[男一匹ガキ大将]]』(1969年〜1970年)作画監督
*『[[勇者ライディ]]』作画監督
*『[[ゼロテスター]]』(1973年〜1974年)作画監督
*『[[超電磁ロボ コン・バラーV]]』作画監督
*『[[宇宙戦艦ヤマト]]』(1974年〜1975年)作画監督
*『[[超電磁マシーン ボルテスV]]』作画監督
*『[[勇者ライディーン]]』(1975年〜1976年)作画監督
*『[[銀河鉄道999 (アニメ)|銀河鉄道999]]』作画監督
*『[[超電磁ロボ コン・バトラーV]]』(1976年〜1977年)作画監督
*『伝説巨神イデオン』作画監督
*『[[超電磁マシー ボルテスV]](1977年〜1978年)作画監督
*『[[最強ロボ ダイオージャ]]』作画監督
*『[[闘将ダイモス]]』(1978年〜1979年)作画監督
*『戦闘メカザブングル』作画監督
*『[[未来ロボ ダタニアス]](1979年〜1980年)作画監督
*『聖戦士ダンバイン』作画監督
*『[[銀河鉄道999 (アニメ)|銀河鉄道999]](1979年)作画監督
*『[[重戦機エルガ]]』作画監督
*『[[ボーグ009 (アニメ)|サイボーグ009]]』(1979年〜1980年)作画監督
*『[[ダーティペア]]』
*『[[伝説巨神イデオン]]』(1980年〜1981年)作監督
*『[[機甲戦記ドラグナー]]』
*『[[最強ロボ ダイオジャ]]』(1981年〜1982年)作監督
*『[[鎧伝サムライトーパー]]』
*『[[戦闘メカ ザブングル]]』(1982年〜1983年)作監督
*『[[聖戦士ダンバイン]]』(1983年〜1984年)作画監督
*『[[重戦機エルガイム]]』(1984年〜1985年)作画監督
*『[[ダーティペア (アニメ)|ダーティペア]]』(1985年)原画
*『[[アリオン (漫画)|アリオン]]』(1986年)原画
*『[[機甲戦記ドラグナー]]』(1987年〜1988年)原画
*『[[バツ&テリー]]』(1987年)原画
*『[[鎧伝サムライトルーパー]]』(1988年〜1989年)原画
*『[[ちびまる子ちゃん]]』(1990年〜)作画監督
*『[[少年アシベ2]]』(1992年〜1993年)作画監督 ※[[遺作]]

==脚注==
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坂本 三郎(さかもと さぶろう、1935年昭和10年〉5月22日 - 1996年平成8年〉2月23日[1])は、日本の男性漫画家アニメーター

生涯

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東京生まれで、三人兄弟の三男[2]1954年6月に福井英一が死去した後、『漫画少年』9月号の追悼特集に「思い出の訪問記」と題した漫画形式の回想を寄稿している[3]。同年、藤子不二雄寺田ヒロオとともに新漫画党を結成。トキワ荘などの漫画家仲間からは絵の上手さで一目おかれる存在だったが、編集者にケチをつけられたことから[4]漫画家を引退しアニメーターに転身。

日本サンライズ(現・サンライズ)の『伝説巨神イデオン』や『聖戦士ダンバイン』などで作画監督などを務める。一連の富野由悠季監督作品では『イデオン』『戦闘メカ ザブングル』『ダンバイン』と3作続けて最終話の作画監督を担当した。

1996年2月23日に死去[1]。満60歳没。作画監督としては『少年アシベ2』の第25話(最終話)Bパート「さよならイエティ」が本人の遺作となった。

作品歴

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脚注

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  1. ^ a b 「訃報」『月刊ニュータイプ』1996年5月号、p.45
  2. ^ 中川右介『手塚治虫とトキワ壮』集英社
  3. ^ 「思い出の訪問記」『漫画少年』1954年9月号、p.143
  4. ^ 山内ジョージ『トキワ荘最後の住人の記録』東京書籍、2011年、p.216