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「李続宜」の版間の差分

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[[File:平定粵匪功臣像─李續宜像.jpg|thumb|200px|李続宜]]
'''李 続宜'''(り ぞくぎ、''Li Xuyi''、[[1822年]] ‐ [[1863年]])、字は'''希庵'''。[[清]]末の官僚、[[湘軍]]の指揮官。
'''李 続宜'''(り ぞくぎ、''Lǐ Xùyí''、[[1822年]] ‐ [[1863年]])は、[[清]]末の官僚、[[湘軍]]の指揮官。字は'''希庵'''。[[湖南省]][[湘郷市|湘郷県]](現在の[[漣源市]]荷塘鎮古楼村<ref>[http://www.ldnews.cn/xzpeople/lsmr/201403/270640.shtml 婁底新聞网 李続賓:剣鋒上的火焔]</ref>)出身。


[[湖南省]][[湘郷市|湘郷県]](現在の[[漣源市]]荷塘鎮古楼村<ref>[http://www.ldnews.cn/xzpeople/lsmr/201403/270640.shtml 娄底新闻网 李续宾:剑锋上的火焰]</ref>)出身。兄の[[李続賓]]も湘軍の将領である。李続宜の部隊は[[羅沢南]]軍に属して[[江西省]]・[[安徽省]]を転戦し、同知に抜擢された。さらに[[1856年]]の[[武昌区|武昌]]奪回に功績をあげ、湖北巡撫の[[胡林翼]]の推薦で知府となった。
兄の[[李続賓]]も湘軍の将領である。李続宜の部隊は[[羅沢南]]軍に属して[[江西省]]・[[安徽省]]を転戦し、同知に抜擢された。さらに[[1856年]]の[[武昌区|武昌]]奪回に功績をあげ、湖北巡撫の[[胡林翼]]の推薦で知府となった。


その後、再び[[江西省]]・[[安徽省]]を転戦し、しばしば[[太平天国]]の[[陳玉成]]軍を破った。[[1859年]]、宜施道となり、[[石達開]]に包囲された[[邵陽市|宝慶]]の救援にあたった。[[1860年]]、安徽按察使となった。陳玉成が[[桐城市|桐城]]を攻撃した際には、[[ドロンガ]](多隆阿)と連合して1万人近くの太平天国軍を斃し、[[安慶市|安慶]]奪回に大きく貢献した。
その後、再び[[江西省]]・[[安徽省]]を転戦し、しばしば[[太平天国]]の[[陳玉成]]軍を破った。[[1859年]]、宜施道となり、[[石達開]]に包囲された[[邵陽市|宝慶]]の救援にあたった。[[1860年]]、安徽按察使となった。陳玉成が[[桐城市|桐城]]を攻撃した際には、[[ドロンガ]](多隆阿)と連合して1万人近くの太平天国軍を斃し、[[安慶市|安慶]]奪回に大きく貢献した。


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2023年11月9日 (木) 05:25時点における最新版

李続宜

李 続宜(り ぞくぎ、Lǐ Xùyí1822年1863年)は、末の官僚、湘軍の指揮官。字は希庵湖南省湘郷県(現在の漣源市荷塘鎮古楼村[1])出身。

兄の李続賓も湘軍の将領である。李続宜の部隊は羅沢南軍に属して江西省安徽省を転戦し、同知に抜擢された。さらに1856年武昌奪回に功績をあげ、湖北巡撫の胡林翼の推薦で知府となった。

その後、再び江西省安徽省を転戦し、しばしば太平天国陳玉成軍を破った。1859年、荊宜施道となり、石達開に包囲された宝慶の救援にあたった。1860年、安徽按察使となった。陳玉成が桐城を攻撃した際には、ドロンガ(多隆阿)と連合して1万人近くの太平天国軍を斃し、安慶奪回に大きく貢献した。

1861年、安徽巡撫に任命されたが、胡林翼が病死すると後任の湖北巡撫となり、捻軍と戦った。その後再び安徽巡撫に転任となり、1862年には捻軍の張楽行を破って潁州の包囲を解いた。さらに欽差大臣も兼任し安徽全省の軍務を統括したが、母の死で郷里に帰ったところ病に倒れ、翌年に死去した。死後、勇毅の諡号が贈られた。

脚注

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先代
翁同書
安徽巡撫
1861
次代
彭玉麟
先代
胡林翼
湖北巡撫
1861
次代
厳樹森
先代
彭玉麟
安徽巡撫
1861-1862
次代
唐訓方