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「パーリ仏典」の版間の差分

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== 概要 ==
== 概要 ==
{{出典の明記|date=2017年7月21日 (金) 04:29 (UTC)|section=1}}
{{出典の明記|date=2017年7月21日 (金) 04:29 (UTC)|section=1}}
パーリ仏典は、[[部派仏教]]時代に使われていた[[プラークリット]](俗語)の1つであり、(釈迦が生きた北東[[インド]]のマガダ地方の方言ではなく)西インド系<ref name=pali>[http://kotobank.jp/word/パーリ語 パーリ語とは] - 世界の主要言語がわかる事典/[[講談社]]/[[コトバンク]]</ref>の、より具体的には[[ウッジャイン]]周辺で用いられた[[ピシャーチャ語]]の一種であると推定される[[パーリ語]]で書かれている<ref>『バウッダ [佛教]』 [[中村元 (哲学者)|中村元]] [[講談社学術文庫]] p.100</ref>。第1回-第3回の[[結集]]や、後代における[[仏典]]の[[サンスクリット]]化からも分かる通り、仏典はその歴史の過程で編纂・増広・翻訳が繰り返されており、パーリ仏典はその歴史過程における、インド部派仏教時代の形態を強く留めている、現存する唯一の仏典だと言える。
パーリ仏典は、[[部派仏教]]時代に使われていた[[プラークリット]](俗語)の1つであり、(釈迦が生きた北東[[インド]]のマガダ地方の方言ではなく)西インド系<ref name=pali>[https://kotobank.jp/word/%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AA%E8%AA%9E-116896 パーリ語とは] - 世界の主要言語がわかる事典/[[講談社]]/[[コトバンク]]</ref>の、より具体的には[[ウッジャイン]]周辺で用いられた[[ピシャーチャ語]]の一種であると推定される[[パーリ語]]で書かれている<ref>『バウッダ [佛教]』 [[中村元 (哲学者)|中村元]] [[講談社学術文庫]] p.100</ref>。第1回-第3回の[[結集]]や、後代における[[仏典]]の[[サンスクリット]]化からも分かる通り、仏典はその歴史の過程で編纂・増広・翻訳が繰り返されており、パーリ仏典はその歴史過程における、インド部派仏教時代の形態を強く留めている、現存する唯一の仏典だと言える。


上座部仏教では伝統的に、この仏典の言語であるパーリ語が、釈迦が用いたいわゆる[[マガダ語]]であると信じられてきたが、学問的知見が広まった今日においてはそうした主張は弱まってきている。ただし、マガダ語とパーリ語は、実際には言語的にそれほど相違しておらず、語彙をほぼ共有し、文法上の差異もさほどないなど、むしろかなり近似的な関係にあったと推定されている<ref>『バウッダ [佛教]』 [[中村元 (哲学者)|中村元]] [[講談社学術文庫]] p.101</ref>。
上座部仏教では伝統的に、この仏典の言語であるパーリ語が、釈迦が用いたいわゆる[[マガダ語]]であると信じられてきたが、学問的知見が広まった今日においてはそうした主張は弱まってきている。ただし、マガダ語とパーリ語は、実際には言語的にそれほど相違しておらず、語彙をほぼ共有し、文法上の差異もさほどないなど、むしろかなり近似的な関係にあったと推定されている<ref>『バウッダ [佛教]』 [[中村元 (哲学者)|中村元]] [[講談社学術文庫]] p.101</ref>。


なお、「パーリ」とは聖典の意であり<ref name=pali />、各経典に関して「〜聖典」(-pali)という表現もよく用いられる。パーリ語という言語名も「聖典(パーリ)の言葉」「聖典語」というところから付けられた通称に過ぎない。
なお、「パーリ」とは聖典の意であり<ref name=pali />、各経典に関して「〜聖典」(-pāḷi)という表現もよく用いられる。パーリ語という言語名も「聖典(パーリ)の言葉」「聖典語」というところから付けられた通称に過ぎない。


現在、[[スリランカ]]・[[ミャンマー]]・[[タイ王国|タイ]]等の上座部仏教文化圏で流通しているパーリ仏典は、[[分別説部]]([[紅衣部|赤銅鍱部]])と呼ばれる上座部一派の流れをくむ、[[スリランカ仏教]][[アヌラーダプラ・マハーヴィハーラ|大寺派]]に起源を持つものが、[[12世紀]]以降に広まったものであり、瑣末な差異こそあれ、基本的に同一のテキストである。
現在、[[スリランカ]]・[[ミャンマー]]・[[タイ王国|タイ]]等の上座部仏教文化圏で流通しているパーリ仏典は、[[分別説部]]([[紅衣部|赤銅鍱部]])と呼ばれる上座部一派の流れをくむ、[[スリランカ仏教]][[アヌラーダプラ・マハーヴィハーラ|大寺派]]に起源を持つものが、[[12世紀]]以降に広まったものであり、瑣末な差異こそあれ、基本的に同一のテキストである。
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== 写本の成立年代 ==
== 写本の成立年代 ==
パーリ語仏典の写本は、近代以前のものはほとんど現存していない。<br>
パーリ語仏典の宗教書としての価値は別として、原始仏教や初期仏教を研究するための歴史資料として過大評価すべきではない、と主張する学者もいる。21世紀現在の学界では、「あらゆるパーリ語仏典は、サンスクリット仏典や漢訳仏典よりも古く、釈迦在世当時の仏教の教えを忠実に伝えている」という「神話」は、もはや通用しなくなっている。
山中行雄によれば「東南アジア地域においては,現存写本の数自体が膨大である一方,高温多湿の気候,写本の保存体制の不備等から,古写本の保存が極めて困難で,'''15世紀以前の写本を発見することは,かなり稀'''である」<ref>山中行雄「東南アジアおよび南アジアにおけるパーリ語文献の写本伝承」印度學佛教學研究 65 (2), 757-756, 2017 NII論文ID 130006314815</ref>。<br>

[[下田正弘]]は「K. R.ノーマンおよびO.フォン=ヒニューバによれば'''現在利用可能なパーリ語の写本はほとんどが18世紀から19世紀'''というきわめて近年のものである(von Hinüber 1983, 78; 1994, 188; Geiger and Norman 1994, XXV).しかもこれらの写本がどのような過程をたどって現在に至ったかほとんど情報がないため近代以前の足跡は写本自身から知りえないこの点漢訳の諸経典が古い時代―『道安録』を起点とするなら四世紀以降―より翻訳状況の記録とともに継承されていることに比するとその'''歴史資料としての価値にはかなりの限界がある'''.」<ref>下田 正弘「正典概念とインド仏教史を再考する――直線的歴史観からの解放――」印度學佛究 68 (2), 1043-1035, 2020-03-20  NII論文ID 130007899192</ref>と述べる。<br>
インド哲学者の[[下田正弘]]は論文の中で、近代の写本しかないパーリ語仏典を根拠として紀元前のインドの仏教を論ずるあやうさを、以下のように説明している。
パーリ仏典の古写本が少ないことは、学術的な研究上のネックにはなるものの、信仰の対象としての価値を減ずるものではない。そもそも上座部仏教の教義では、聖典の本質は、書写された経巻そのものにあるのではなく、それが[[衆生|有情]]によって記憶・実践・暗誦されていることにこそある(清水2018<ref name="清水2018">清水俊史「パーリ上座部における正法と書写聖典」、『[[佛教大学]]仏教学会紀要 23』pp.19-41, 2018-03-25</ref>pp.26-27)とされてきたことにも注意すべきである。<br>
{{quotation|K.R.ノーマンおよび O.フォン=ヒニューバによれば'''現在利用可能なパーリ語の写本はほとんどが18世紀から19世紀というきわめて近年のもの'''である(von Hinüber 1983,78; 1994,188; Geiger and Norman 1994,XXV)。しかもこれらの写本がどのような過程をたどって現在に至ったかほとんど情報がないため近代以前の足跡は写本自身から知りえないこの点漢訳の諸経典が古い時代―『道安録』を起点とするなら四世紀以降―より翻訳状況の記録とともに継承されていることに比するとその'''歴史資料としての価値にはかなりの限界がある'''。一般に理解されているように、パーリ語仏典が紀元前の古代スリランカから始まって東南アジア全体に伝播したと仮定しても、伝承の系譜が不明な近代写本のテクストを根拠とし、それより二千数百年も前の古代インドの、マガダ地方という途方もなく離れた過去の空間と時間の一点を特定することは不可能であろう。インド亜大陸内部に発見されるパーリ語とみられる碑文もスリランカからの巡礼者に向けて立てられたものであり、'''インド亜大陸におけるパーリ語の流布を証拠づけるものと決定しえない'''ことが指摘されている(Collins 1998, 46–47)。<ref>下田正弘「正典概念とインド仏教史を再考する直線的歴史観からの解放、日本印度学仏教学会『印度學佛68 2号』令和2年3月</ref>}}
ちなみに、パーリ語以外の現存の仏教古写本の情況を見ると、[[ガンダーラ語仏教写本]]は1世紀から、漢訳写本は[[釈道安]]を起点とするなら4世紀から、サンスクリット語写本は6世紀から<ref>ユネスコ「世界の記憶」公式サイト(英語) “Gilgit Manuscrpit”(ギルギット写本) の項。https://www.unesco.org/en/memory-world/gilgit-manuscript </ref>、と、[[1千年紀|紀元1千年紀]]の古写本が存在する。「写経」や「納経」の功徳を重視する大乗仏教は古写本が多く残っている。日本に限っても、[[奈良時代]]に書写された仏教経典が一千数百巻、また、その奈良時代のものから転写したと想定される平安時代から鎌倉時代の古写経が一万巻以上も現存しており<ref>日本古写経研究所 https://www.icabs.ac.jp/research/koshakyo 閲覧日2023年11月11日</ref>、パーリ仏典の古写本の少なさと著しい対比をなす。


==内容==
==内容==
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[[国立国会図書館]]は、「[[近代デジタルライブラリー]]」事業の一環として、[[2007年]]7月からは『大正新脩大蔵経』の大正期刊行分を、[[2013年]]2月からは『大正新脩大蔵経』の昭和期刊行分と『南伝大蔵経』を、著作権切れの刊行物としてインターネット公開を始めたが、2008年からこれらを出版物として扱っている[[大蔵出版]]から抗議を受けるようになった。それに対して国立国会図書館は、2013年5-6月より、それらのインターネット公開を一時停止し、抗議内容を検討した。
[[国立国会図書館]]は、「[[近代デジタルライブラリー]]」事業の一環として、[[2007年]]7月からは『大正新脩大蔵経』の大正期刊行分を、[[2013年]]2月からは『大正新脩大蔵経』の昭和期刊行分と『南伝大蔵経』を、著作権切れの刊行物としてインターネット公開を始めたが、2008年からこれらを出版物として扱っている[[大蔵出版]]から抗議を受けるようになった。それに対して国立国会図書館は、2013年5-6月より、それらのインターネット公開を一時停止し、抗議内容を検討した。


[[2014年]]1月、半年間の検討期間を経て、国立国会図書館は、『大正新脩大蔵経』のインターネット公開は再開するが、『南伝大蔵経』は当分の間は館内公開に留め、インターネット公開は行わないと発表した<ref>{{Cite web|url=http://www.j-cast.com/2014/01/08193708.html?p=all|title=全文表示|著作権切れ書籍データのネット公開停止 出版社側からの抗議に国会図書館が折れる : J-CASTニュース|accessdate=2015-11-09}}</ref>。この「南伝大蔵経問題」の一連の経緯は、図書館の「無料原則」「民業圧迫の回避」や著作権問題と合わせて様々な議論を巻き起こした<ref>湯浅俊彦編著「電子出版と電子図書館の最前線を創り出す」(出版メディアパル、2015)、pp.201-203。</ref>。
[[2014年]]1月、半年間の検討期間を経て、国立国会図書館は、『大正新脩大蔵経』のインターネット公開は再開するが、『南伝大蔵経』は当分の間は館内公開に留め、インターネット公開は行わないと発表した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.j-cast.com/2014/01/08193708.html?p=all|title=全文表示|著作権切れ書籍データのネット公開停止 出版社側からの抗議に国会図書館が折れる : J-CASTニュース|accessdate=2015-11-09}}</ref>。この「南伝大蔵経問題」の一連の経緯は、図書館の「無料原則」「民業圧迫の回避」や著作権問題と合わせて様々な議論を巻き起こした<ref>湯浅俊彦編著「電子出版と電子図書館の最前線を創り出す」(出版メディアパル、2015)、pp.201-203。</ref>。


国立国会図書館は、この件における経緯と対応について、「インターネット提供に対する出版社の申出への対応について」という文書をインターネット上に発表している<ref>{{Cite web|url=http://www.ndl.go.jp/jp/news/fy2013/report140107.pdf|title=インターネット提供に対する出版社の申出への対応について|accessdate=2015-11-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180115073313/http://www.ndl.go.jp/jp/news/fy2013/report140107.pdf|archivedate=2018-01-15|publisher=}} 国立国会図書館、2014年1月</ref>。
国立国会図書館は、この件における経緯と対応について、「インターネット提供に対する出版社の申出への対応について」という文書をインターネット上に発表している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ndl.go.jp/jp/news/fy2013/report140107.pdf|title=インターネット提供に対する出版社の申出への対応について|accessdate=2015-11-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180115073313/http://www.ndl.go.jp/jp/news/fy2013/report140107.pdf|archivedate=2018-01-15|publisher=}} 国立国会図書館、2014年1月</ref>。


==日本語訳==
==日本語訳==
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'''経蔵相応部 全訳'''
'''経蔵相応部 全訳'''
*『原始仏典II 相応部経典』(全6巻)中村元監修 春秋社
*『原始仏典II 相応部経典』(全6巻)中村元監修 春秋社
*『パーリ仏典 相応部(サンユッタニカーヤ)』(全10巻既刊8巻)片山一良訳 大蔵出版
*『パーリ仏典 相応部(サンユッタニカーヤ)』(全10巻既刊9<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.daizoshuppan.jp/book/b583499.html |title = ☆ シリーズ最新刊!! ☆パーリ仏典 3-9相応部(サンユッタニカーヤ)大篇Ⅰ|website = www.daizoshuppan.jp|publisher = 大蔵出版|date = |accessdate = 2023-06-20}}</ref>)片山一良訳 大蔵出版


'''有偈篇 全訳'''
'''有偈篇 全訳'''
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'''経蔵小部 全訳'''
'''経蔵小部 全訳'''
*『小部経典』 全10巻、[[正田大観]]、Evolving/Kindle 2015年
*『小部経典』 全10巻、[[正田大観]]、Evolving/Kindle 2015年
*『小部経典』 全16巻、中村 元 監修・訳、春秋社、2023年から刊行中<ref>{{Cite web |url = https://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:f8ynVQWZLYQJ:https:%2F%2Fwww.shunjusha.co.jp%2Fsmp%2Fbook%2F9784393113646.html&sca_esv=578392941&hl=ja&gl=jp&strip=1&vwsrc=0 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20231101055334/https://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:f8ynVQWZLYQJ:https:%2F%2Fwww.shunjusha.co.jp%2Fsmp%2Fbook%2F9784393113646.html&sca_esv=578392941&hl=ja&gl=jp&strip=1&vwsrc=0 |author = 春秋社|title = 小部経典 第一巻|website = webcache.googleusercontent.com|publisher = www.shunjusha.co.jp|date = 2023-07-14|archivedate = 2023-11-01|accessdate = 2023-11-01}}</ref>

'''ダンマパダ(法句経)'''
'''ダンマパダ(法句経)'''
*『ブッダの真理のことば・感興のことば』中村元訳 岩波文庫
*『ブッダの真理のことば・感興のことば』中村元訳 岩波文庫
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'''テーリーガーター(長老尼偈経)'''
'''テーリーガーター(長老尼偈経)'''
*『尼僧の告白―テーリーガーター』中村元訳 岩波文庫
*『尼僧の告白―テーリーガーター』中村元訳 岩波文庫
*『パーリ文『テーリー・ガーター』翻訳語彙典』([[植木雅俊]]、[[法蔵館]]、2023年)


'''ジャータカ(本生経)'''
'''ジャータカ(本生経)'''

2023年11月11日 (土) 04:41時点における最新版

パーリ仏典(タイ国)

パーリ仏典パーリ語仏典パーリ聖典Pali Canon)、あるいはパーリ三蔵: Tipiṭaka, ティピタカ三蔵のこと)は、南伝の上座部仏教に伝わるパーリ語で書かれた仏典である。北伝の大乗仏教に伝わる漢語・チベット語の仏典と並ぶ三大仏典群の1つ。パーリ経典パーリ語経典)とも呼ばれることがある。

日本でも戦前に輸入・翻訳され、漢訳大蔵経(北伝大蔵経)、チベット大蔵経に対して、『南伝大蔵経』『パーリ大蔵経』(パーリ語大蔵経)などとしても知られる。

概要[編集]

パーリ仏典は、部派仏教時代に使われていたプラークリット(俗語)の1つであり、(釈迦が生きた北東インドのマガダ地方の方言ではなく)西インド系[1]の、より具体的にはウッジャイン周辺で用いられたピシャーチャ語の一種であると推定されるパーリ語で書かれている[2]。第1回-第3回の結集や、後代における仏典サンスクリット化からも分かる通り、仏典はその歴史の過程で編纂・増広・翻訳が繰り返されており、パーリ仏典はその歴史過程における、インド部派仏教時代の形態を強く留めている、現存する唯一の仏典だと言える。

上座部仏教では伝統的に、この仏典の言語であるパーリ語が、釈迦が用いたいわゆるマガダ語であると信じられてきたが、学問的知見が広まった今日においてはそうした主張は弱まってきている。ただし、マガダ語とパーリ語は、実際には言語的にそれほど相違しておらず、語彙をほぼ共有し、文法上の差異もさほどないなど、むしろかなり近似的な関係にあったと推定されている[3]

なお、「パーリ」とは聖典の意であり[1]、各経典に関して「〜聖典」(-pāḷi)という表現もよく用いられる。パーリ語という言語名も「聖典(パーリ)の言葉」「聖典語」というところから付けられた通称に過ぎない。

現在、スリランカミャンマータイ等の上座部仏教文化圏で流通しているパーリ仏典は、分別説部赤銅鍱部)と呼ばれる上座部一派の流れをくむ、スリランカ仏教大寺派に起源を持つものが、12世紀以降に広まったものであり、瑣末な差異こそあれ、基本的に同一のテキストである。

近代以降は、1881年ロンドンに設立されたパーリ聖典協会(Pali Text Society, PTS)の校訂出版本[注釈 1]や、1954年ビルマミャンマー)のヤンゴンラングーン)で行われた第6回結集によって編纂された聖典テキスト(第六回結集本)[注釈 2]等が、共通の底本となっている。

写本の成立年代[編集]

パーリ語仏典の写本は、近代以前のものはほとんど現存していない。
山中行雄によれば「東南アジア地域においては,現存写本の数自体が膨大である一方,高温多湿の気候,写本の保存体制の不備等から,古写本の保存が極めて困難で,15世紀以前の写本を発見することは,かなり稀である」[4]
下田正弘は「K. R.ノーマンおよびO.フォン=ヒニューバによれば,現在利用可能なパーリ語の写本はほとんどが18世紀から19世紀という,きわめて近年のものである(von Hinüber 1983, 78; 1994, 188; Geiger and Norman 1994, XXV).しかもこれらの写本がどのような過程をたどって現在に至ったかほとんど情報がないため,近代以前の足跡は写本自身から知りえない.この点,漢訳の諸経典が古い時代―『道安録』を起点とするなら四世紀以降―より翻訳状況の記録とともに継承されていることに比すると,その歴史資料としての価値にはかなりの限界がある.」[5]と述べる。
パーリ仏典の古写本が少ないことは、学術的な研究上のネックにはなるものの、信仰の対象としての価値を減ずるものではない。そもそも上座部仏教の教義では、聖典の本質は、書写された経巻そのものにあるのではなく、それが有情によって記憶・実践・暗誦されていることにこそある(清水2018[6]pp.26-27)とされてきたことにも注意すべきである。
ちなみに、パーリ語以外の現存の仏教古写本の情況を見ると、ガンダーラ語仏教写本は1世紀から、漢訳写本は釈道安を起点とするなら4世紀から、サンスクリット語写本は6世紀から[7]、と、紀元1千年紀の古写本が存在する。「写経」や「納経」の功徳を重視する大乗仏教は古写本が多く残っている。日本に限っても、奈良時代に書写された仏教経典が一千数百巻、また、その奈良時代のものから転写したと想定される平安時代から鎌倉時代の古写経が一万巻以上も現存しており[8]、パーリ仏典の古写本の少なさと著しい対比をなす。

内容[編集]

は中国やチベットにそれぞれ伝わっているものとは異なる独自のもので、通称『パーリ律』と呼ばれる。

は漢訳大蔵経で言えば、概ね「阿含部」「本縁部」に相当するもので、当然のことながら大乗仏教経典は含まれていない。

構成[編集]

漢訳仏典、チベット語訳仏典と同じく、律蔵(Vinaya Piṭaka(ヴィナヤ・ピタカ))、経蔵(Sutta Piṭaka(スッタ・ピタカ))、論蔵(Abhidhamma Piṭaka(アビダンマ・ピタカ))の三蔵(Tipiṭaka(ティピタカ))から成る。順序としては、律蔵が軽視されて後回しにされる漢訳とは異なり、チベット仏典と同じく、律蔵が最初に来る。

律蔵[編集]

経蔵[編集]

論蔵[編集]

  • 論蔵(Abhidhamma Piṭaka(アビダンマ・ピタカ)):解説・注釈
    • 法集論(Dhammasaṅgaṇī
    • 分別論(Vibhaṅga
    • 界論(Dhātukathā
    • 人施設論(Puggalapaññatti
    • 論事(Kathāvatthu
    • 双論(Yamaka
    • 発趣論(Paṭṭhāna

注釈・復注釈[編集]

また、パーリ仏典には、

と呼ばれる注釈文献群が付属しており、パーリ仏典の内容解釈に際して参照される。

ちなみに、下掲する日本語訳の中では、大蔵出版片山一良訳 『パーリ仏典』シリーズが、これら注釈文献を参照した日本語訳として知られている[10]

南伝アビダンマの綱要書である『アビダンマッタサンガハ』はティーカー(復注釈書)に含まれる。

その他[編集]

その他の付属・関連文献(Anya アニヤと表現される)としては、ブッダゴーサの『清浄道論』や、レディ・サヤドーの文献等がある。

南伝大蔵経[編集]

南伝大蔵経
編集者 高楠順次郎
訳者 上田天瑞
発行日 1936年1月8日
発行元 大蔵出版
ジャンル 仏教聖典
日本
言語 日本語
形態 聖典、仏典
公式サイト インターネットアーカイブnandendaizokyovol01
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パーリ語仏典の日本語翻訳(全訳)は、1935年から1941年にかけて南伝大蔵経全65巻70冊として刊行・出版された。パーリ聖典協会(Pali Text Society, PTS)の校訂出版本を底本とし、漢訳仏典の集成である『大正新脩大蔵経』(1923年-1934年、全88巻)を手がけた高楠順次郎らによってなされた[11]

パブリックアクセス問題[編集]

国立国会図書館は、「近代デジタルライブラリー」事業の一環として、2007年7月からは『大正新脩大蔵経』の大正期刊行分を、2013年2月からは『大正新脩大蔵経』の昭和期刊行分と『南伝大蔵経』を、著作権切れの刊行物としてインターネット公開を始めたが、2008年からこれらを出版物として扱っている大蔵出版から抗議を受けるようになった。それに対して国立国会図書館は、2013年5-6月より、それらのインターネット公開を一時停止し、抗議内容を検討した。

2014年1月、半年間の検討期間を経て、国立国会図書館は、『大正新脩大蔵経』のインターネット公開は再開するが、『南伝大蔵経』は当分の間は館内公開に留め、インターネット公開は行わないと発表した[12]。この「南伝大蔵経問題」の一連の経緯は、図書館の「無料原則」「民業圧迫の回避」や著作権問題と合わせて様々な議論を巻き起こした[13]

国立国会図書館は、この件における経緯と対応について、「インターネット提供に対する出版社の申出への対応について」という文書をインターネット上に発表している[14]

日本語訳[編集]

全訳[編集]

  • 『南伝大蔵経』(全65巻70冊) 大蔵出版
    • 『律蔵』(5巻5冊)
    • 『経蔵』(39巻42冊)
    • 『論蔵』(14巻15冊)
    • 『蔵外』(7巻8冊)

部分訳[編集]

経蔵長部[編集]

経蔵長部 全訳

サーマンニャパラ経(沙門果経)

マハーパリニッバーナ経(大般涅槃経)

  • 『ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経』中村元訳 岩波文庫

経蔵中部[編集]

経蔵中部 全訳

  • 『原始仏典 中部経典1-4』(第4-7巻)中村元監修 春秋社
  • 『パーリ仏典 中部(マッジマニカーヤ)』(全6巻)片山一良訳 大蔵出版

マハー(大)ハッティパドーパマ経(象跡喩大経)

  • 『世界の名著〈1〉バラモン教典, 原始仏典 』「象の足跡のたとえ」中央公論社

チューラ(小)マールキヤ経(摩羅迦小経)

  • 『世界の名著〈1〉バラモン教典, 原始仏典 』「毒矢のたとえ」中央公論社

アングリマーラ経(鴦掘摩経)

  • 『世界の名著〈1〉バラモン教典, 原始仏典 』「兇賊の帰依」中央公論社

アッサラーヤナ経(阿摂惒経)

  • 『世界の名著〈1〉バラモン教典, 原始仏典 』「階級の平等」中央公論社

バフダートゥカ経(多界経)

  • 『世界の名著〈1〉バラモン教典, 原始仏典 』「種々の界」中央公論社

経蔵相応部[編集]

経蔵相応部 全訳

  • 『原始仏典II 相応部経典』(全6巻)中村元監修 春秋社
  • 『パーリ仏典 相応部(サンユッタニカーヤ)』(全10巻既刊9巻[15])片山一良訳 大蔵出版

有偈篇 全訳

  • 『ブッダ神々との対話―サンユッタ・ニカーヤ1 』中村元訳 岩波文庫
  • 『ブッダ悪魔との対話――サンユッタ・ニカーヤ2 』中村元訳 岩波文庫

デーヴァター相応(諸天相応)

  • 『世界の名著〈1〉バラモン教典, 原始仏典 』「サミッディの出家」中央公論社

ブラフマ相応(梵天相応)

  • 『世界の名著〈1〉バラモン教典, 原始仏典 』「説法の要請(梵天勧請)」中央公論社

サッチャ相応(諦相応)

  • 『世界の名著〈1〉バラモン教典, 原始仏典 』「はじめての説法(初転法輪)」中央公論社

経蔵増支部[編集]

  • 『原始仏典III 増支部経典』(全8巻)中村元監修 春秋社

経蔵小部[編集]

経蔵小部 全訳

  • 『小部経典』 全10巻、正田大観、Evolving/Kindle 2015年
  • 『小部経典』 全16巻、中村 元 監修・訳、春秋社、2023年から刊行中[16]

ダンマパダ(法句経)

  • 『ブッダの真理のことば・感興のことば』中村元訳 岩波文庫

スッタニパータ(経集)

テーラガーター(長老偈経)

  • 『仏弟子の告白―テーラガーター』中村元訳 岩波文庫

テーリーガーター(長老尼偈経)

  • 『尼僧の告白―テーリーガーター』中村元訳 岩波文庫
  • 『パーリ文『テーリー・ガーター』翻訳語彙典』(植木雅俊法蔵館、2023年)

ジャータカ(本生経)

  • 『ジャータカ全集』(全10巻)中村元監修 春秋社

ミリンダパンハ(弥蘭陀王問経)

ペータヴァットゥ(餓鬼事)

  • 『餓鬼事経 死者たちの物語』藤本晃訳 サンガ

ヴィマーナヴァットゥ(天宮事)

  • 『天宮事経 天界往生の物語』藤本晃訳 サンガ

その他[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『南伝大蔵経』や、中村元らの翻訳本は、これを底本としている。
  2. ^ 現在、大蔵出版から刊行され続けている片山一良訳の『パーリ仏典』シリーズは、これを底本としている。

出典[編集]

  1. ^ a b パーリ語とは - 世界の主要言語がわかる事典/講談社/コトバンク
  2. ^ 『バウッダ [佛教]』 中村元 講談社学術文庫 p.100
  3. ^ 『バウッダ [佛教]』 中村元 講談社学術文庫 p.101
  4. ^ 山中行雄「東南アジアおよび南アジアにおけるパーリ語文献の写本伝承」印度學佛教學研究 65 (2), 757-756, 2017 NII論文ID 130006314815
  5. ^ 下田 正弘「「正典概念とインド仏教史」を再考する――直線的歴史観からの解放――」印度學佛教學研究 68 (2), 1043-1035, 2020-03-20  NII論文ID 130007899192
  6. ^ 清水俊史「パーリ上座部における正法と書写聖典」、『佛教大学仏教学会紀要 23』pp.19-41, 2018-03-25
  7. ^ ユネスコ「世界の記憶」公式サイト(英語) “Gilgit Manuscrpit”(ギルギット写本) の項。https://www.unesco.org/en/memory-world/gilgit-manuscript
  8. ^ 日本古写経研究所 https://www.icabs.ac.jp/research/koshakyo 閲覧日2023年11月11日
  9. ^ 増一阿含経
  10. ^ パーリ仏典 片山良一訳 - 大蔵出版
  11. ^ 南伝大蔵経とは - ブリタニカ国際大百科事典/コトバンク
  12. ^ 全文表示|著作権切れ書籍データのネット公開停止 出版社側からの抗議に国会図書館が折れる : J-CASTニュース”. 2015年11月9日閲覧。
  13. ^ 湯浅俊彦編著「電子出版と電子図書館の最前線を創り出す」(出版メディアパル、2015)、pp.201-203。
  14. ^ インターネット提供に対する出版社の申出への対応について”. 2018年1月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年11月9日閲覧。 国立国会図書館、2014年1月
  15. ^ ☆ シリーズ最新刊!! ☆パーリ仏典 3-9相応部(サンユッタニカーヤ)大篇Ⅰ”. www.daizoshuppan.jp. 大蔵出版. 2023年6月20日閲覧。
  16. ^ 春秋社 (2023年7月14日). “小部経典 第一巻”. webcache.googleusercontent.com. www.shunjusha.co.jp. 2023年11月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年11月1日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]