コンテンツにスキップ

「三輪休和」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
→‎略歴: +{{Normdaten}}
m Bot作業依頼#Cite webの和書引数追加
 
(2人の利用者による、間の2版が非表示)
1行目: 1行目:
'''三輪休和'''(みわ きゅうわ、[[1895年]][[4月20日]] - [[1981年]][[10月24日]])は日本の[[陶芸家]]。第十代[[三輪休雪]]。1970年に[[人間国宝]]に認定。本名は'''邦'''。
'''三輪休和'''(みわ きゅうわ、[[1895年]][[4月20日]] - [[1981年]][[10月24日]])は日本の[[陶芸家]]。第十代[[三輪休雪]]。1970年に[[人間国宝]]に認定。本名は'''邦'''。


== 歴 ==
== 歴 ==
1895年(明治28年)[[山口県]][[萩市]]の旧萩藩御用窯三輪家の9代雪堂の次男として生まれる<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=萩の人物データベース - 三輪休和(みわきゅうわ)|url=https://sites.google.com/site/hagijinbutsu/list/67|website=sites.google.com|accessdate=2020-10-29|language=ja}}</ref>。1908年(明治41年)、[[明倫館]]の流れを汲む[[山口県立萩高等学校|萩中学校]]に入学し、優秀な成績で2年に進むが、祖父雪山の「職人に学問は要らぬ」という説得により、同校を2年で退学、作陶を父の九代雪堂に学び、家業に従事する<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=三輪休和 :: 東文研アーカイブデータベース|url=https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9876.html|website=www.tobunken.go.jp|accessdate=2020-10-29}}</ref>。また、祖父の勧めから[[江戸千家|江戸千家流]]の[[阿部直彦]]について茶道を学び、また[[宝生流]]の[[渡辺蒿蔵]]に謡曲を習うなど、諸芸の修業を積んだ<ref name=":1" />。[[1937年]](昭和2年)三輪窯を継承して10代休雪を襲名した<ref name=":0" />。[[1942年]](昭和7年)に[[川喜田半泥子]]、[[金重陶陽]]、[[荒川豊蔵]]らと「からひね会」を結成するが、具体的な芸術活動には至らなかった<ref name=":1" />。[[1956年]](昭和31年)山口県指定無形文化財萩焼保持者に認定されるも、 [[1967年]](昭和42年)自ら隠居して休雪名を実弟の節夫に譲り、自らは「休和」と号した<ref name=":0" />。[[1967年]]に[[紫綬褒章]]を受章、[[1970年]]には重要無形文化財「萩焼」保持者に認定<ref name=":0" /><ref name=":1" />。[[1972年]]に萩市[[名誉市民]]となり、翌[[1973年]]、[[勲等|勲四等]][[旭日章|旭日小綬章]]を受章した<ref name=":1" />。[[1981年]]、逝去。1970年から毎年萩市に贈った寄付金は「三輪休和芸術文化奨学金」として活用されている<ref name=":0" />。
[[山口県]][[萩市]]にて、江戸時代初期から[[長州藩|萩藩]]の御用窯として代々[[萩焼]]を継承していた三輪窯の次男として生まれる。[[1910年]]に[[旧制中学校]]を中退し、八代である祖父・雪山、九代である父・雪堂に師事。作陶への道を進む事となる。[[1927年]]に雪堂が隠居するにあたって、十代休雪を襲名した。


作風は高麗茶碗に和風を調和させた温和な作風が特徴で、萩焼特有の藁灰釉を工夫することによって春雪のような温味のある白を完成し、1955年前後から「休雪白」の名で呼ばれるようになった<ref name=":1" />。
[[1942年]]に[[川喜田半泥子]]、[[金重陶陽]]、[[荒川豊蔵]]らと「からひね会」を結成する。「従来の桃山茶陶に固執するのではなく、時代に心を通わせた作陶を」と、自由な思想の元で互いの交流を深めた。同時に焼成の方法を根本から見直すことに励む。[[1956年]]、山口県指定無形文化財保持者に認定される。[[1959年]]には萩焼陶芸会会長に就任。


== 脚注 ==
萩焼の原型である高麗茶碗を研究し、高麗茶碗に和風を取り入れた独特の作風を完成させた。特に萩焼の特色である[[白釉]]に関しても独特の技法を編み出し、「休雪白」とよばれるようになった。[[1967年]]に弟である[[三輪壽雪|節夫]]が十一代休雪を襲名し、自らは休和と名乗る様になる。
{{reflist}}{{Normdaten}}

[[1967年]]に[[紫綬褒章]]受章。[[1970年]]4月25日、重要無形文化財「萩焼」保持者に認定。陶芸の中では比較的歴史の新しい萩焼を、[[瀬戸焼]]や[[備前焼]]等に代表される古窯と同等レベルにまで引き上げることに貢献した。[[1972年]]に萩市[[名誉市民]]となり、翌[[1973年]]、[[勲等|勲四等]][[旭日章|旭日小綬章]]を受章した。

[[1981年]]逝去。

{{Normdaten}}
{{Artist-stub}}
{{Artist-stub}}


20行目: 15行目:
[[Category:紫綬褒章受章者]]
[[Category:紫綬褒章受章者]]
[[Category:勲四等旭日小綬章受章者]]
[[Category:勲四等旭日小綬章受章者]]
[[Category:山口県立萩高等学校出身の人物]]
[[Category:山口県出身の人物]]
[[Category:山口県出身の人物]]
[[Category:1895年生]]
[[Category:1895年生]]

2023年11月11日 (土) 08:53時点における最新版

三輪休和(みわ きゅうわ、1895年4月20日 - 1981年10月24日)は日本の陶芸家。第十代三輪休雪。1970年に人間国宝に認定。本名は邦広

来歴

[編集]

1895年(明治28年)山口県萩市の旧萩藩御用窯三輪家の9代雪堂の次男として生まれる[1]。1908年(明治41年)、明倫館の流れを汲む萩中学校に入学し、優秀な成績で2年に進むが、祖父雪山の「職人に学問は要らぬ」という説得により、同校を2年で退学、作陶を父の九代雪堂に学び、家業に従事する[2]。また、祖父の勧めから江戸千家流阿部直彦について茶道を学び、また宝生流渡辺蒿蔵に謡曲を習うなど、諸芸の修業を積んだ[2]1937年(昭和2年)三輪窯を継承して10代休雪を襲名した[1]1942年(昭和7年)に川喜田半泥子金重陶陽荒川豊蔵らと「からひね会」を結成するが、具体的な芸術活動には至らなかった[2]1956年(昭和31年)山口県指定無形文化財萩焼保持者に認定されるも、 1967年(昭和42年)自ら隠居して休雪名を実弟の節夫に譲り、自らは「休和」と号した[1]1967年紫綬褒章を受章、1970年には重要無形文化財「萩焼」保持者に認定[1][2]1972年に萩市名誉市民となり、翌1973年勲四等旭日小綬章を受章した[2]1981年、逝去。1970年から毎年萩市に贈った寄付金は「三輪休和芸術文化奨学金」として活用されている[1]

作風は高麗茶碗に和風を調和させた温和な作風が特徴で、萩焼特有の藁灰釉を工夫することによって春雪のような温味のある白を完成し、1955年前後から「休雪白」の名で呼ばれるようになった[2]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e 萩の人物データベース - 三輪休和(みわきゅうわ)”. sites.google.com. 2020年10月29日閲覧。
  2. ^ a b c d e f 三輪休和 :: 東文研アーカイブデータベース”. www.tobunken.go.jp. 2020年10月29日閲覧。