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「三輪休和」の版間の差分

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== 来歴 ==
== 来歴 ==
1895年(明治28年)[[山口県]][[萩市]]の旧萩藩御用窯三輪家の9代雪堂の次男として生まれる<ref name=":0">{{Cite web|title=萩の人物データベース - 三輪休和(みわきゅうわ)|url=https://sites.google.com/site/hagijinbutsu/list/67|website=sites.google.com|accessdate=2020-10-29|language=ja}}</ref>。1908年(明治41年)、[[明倫館]]の流れを汲む[[山口県立萩高等学校|萩中学校]]に入学し、優秀な成績で2年に進むが、祖父雪山の「職人に学問は要らぬ」という説得により、同校を2年で退学、作陶を父の九代雪堂に学び、家業に従事する<ref name=":1">{{Cite web|title=三輪休和 :: 東文研アーカイブデータベース|url=https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9876.html|website=www.tobunken.go.jp|accessdate=2020-10-29}}</ref>。また、祖父の勧めから[[江戸千家|江戸千家流]]の[[阿部直彦]]について茶道を学び、また[[宝生流]]の[[渡辺蒿蔵]]に謡曲を習うなど、諸芸の修業を積んだ<ref name=":1" />。[[1937年]](昭和2年)三輪窯を継承して10代休雪を襲名した<ref name=":0" />。[[1942年]](昭和7年)に[[川喜田半泥子]]、[[金重陶陽]]、[[荒川豊蔵]]らと「からひね会」を結成するが、具体的な芸術活動には至らなかった<ref name=":1" />。[[1956年]](昭和31年)山口県指定無形文化財萩焼保持者に認定されるも、 [[1967年]](昭和42年)自ら隠居して休雪名を実弟の節夫に譲り、自らは「休和」と号した<ref name=":0" />。[[1967年]]に[[紫綬褒章]]を受章、[[1970年]]には重要無形文化財「萩焼」保持者に認定<ref name=":0" /><ref name=":1" />。[[1972年]]に萩市[[名誉市民]]となり、翌[[1973年]]、[[勲等|勲四等]][[旭日章|旭日小綬章]]を受章した<ref name=":1" />。[[1981年]]、逝去。1970年から毎年萩市に贈った寄付金は「三輪休和芸術文化奨学金」として活用されている<ref name=":0" />。
1895年(明治28年)[[山口県]][[萩市]]の旧萩藩御用窯三輪家の9代雪堂の次男として生まれる<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=萩の人物データベース - 三輪休和(みわきゅうわ)|url=https://sites.google.com/site/hagijinbutsu/list/67|website=sites.google.com|accessdate=2020-10-29|language=ja}}</ref>。1908年(明治41年)、[[明倫館]]の流れを汲む[[山口県立萩高等学校|萩中学校]]に入学し、優秀な成績で2年に進むが、祖父雪山の「職人に学問は要らぬ」という説得により、同校を2年で退学、作陶を父の九代雪堂に学び、家業に従事する<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=三輪休和 :: 東文研アーカイブデータベース|url=https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9876.html|website=www.tobunken.go.jp|accessdate=2020-10-29}}</ref>。また、祖父の勧めから[[江戸千家|江戸千家流]]の[[阿部直彦]]について茶道を学び、また[[宝生流]]の[[渡辺蒿蔵]]に謡曲を習うなど、諸芸の修業を積んだ<ref name=":1" />。[[1937年]](昭和2年)三輪窯を継承して10代休雪を襲名した<ref name=":0" />。[[1942年]](昭和7年)に[[川喜田半泥子]]、[[金重陶陽]]、[[荒川豊蔵]]らと「からひね会」を結成するが、具体的な芸術活動には至らなかった<ref name=":1" />。[[1956年]](昭和31年)山口県指定無形文化財萩焼保持者に認定されるも、 [[1967年]](昭和42年)自ら隠居して休雪名を実弟の節夫に譲り、自らは「休和」と号した<ref name=":0" />。[[1967年]]に[[紫綬褒章]]を受章、[[1970年]]には重要無形文化財「萩焼」保持者に認定<ref name=":0" /><ref name=":1" />。[[1972年]]に萩市[[名誉市民]]となり、翌[[1973年]]、[[勲等|勲四等]][[旭日章|旭日小綬章]]を受章した<ref name=":1" />。[[1981年]]、逝去。1970年から毎年萩市に贈った寄付金は「三輪休和芸術文化奨学金」として活用されている<ref name=":0" />。


作風は高麗茶碗に和風を調和させた温和な作風が特徴で、萩焼特有の藁灰釉を工夫することによって春雪のような温味のある白を完成し、1955年前後から「休雪白」の名で呼ばれるようになった<ref name=":1" />。
作風は高麗茶碗に和風を調和させた温和な作風が特徴で、萩焼特有の藁灰釉を工夫することによって春雪のような温味のある白を完成し、1955年前後から「休雪白」の名で呼ばれるようになった<ref name=":1" />。

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三輪休和(みわ きゅうわ、1895年4月20日 - 1981年10月24日)は日本の陶芸家。第十代三輪休雪。1970年に人間国宝に認定。本名は邦広

来歴

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1895年(明治28年)山口県萩市の旧萩藩御用窯三輪家の9代雪堂の次男として生まれる[1]。1908年(明治41年)、明倫館の流れを汲む萩中学校に入学し、優秀な成績で2年に進むが、祖父雪山の「職人に学問は要らぬ」という説得により、同校を2年で退学、作陶を父の九代雪堂に学び、家業に従事する[2]。また、祖父の勧めから江戸千家流阿部直彦について茶道を学び、また宝生流渡辺蒿蔵に謡曲を習うなど、諸芸の修業を積んだ[2]1937年(昭和2年)三輪窯を継承して10代休雪を襲名した[1]1942年(昭和7年)に川喜田半泥子金重陶陽荒川豊蔵らと「からひね会」を結成するが、具体的な芸術活動には至らなかった[2]1956年(昭和31年)山口県指定無形文化財萩焼保持者に認定されるも、 1967年(昭和42年)自ら隠居して休雪名を実弟の節夫に譲り、自らは「休和」と号した[1]1967年紫綬褒章を受章、1970年には重要無形文化財「萩焼」保持者に認定[1][2]1972年に萩市名誉市民となり、翌1973年勲四等旭日小綬章を受章した[2]1981年、逝去。1970年から毎年萩市に贈った寄付金は「三輪休和芸術文化奨学金」として活用されている[1]

作風は高麗茶碗に和風を調和させた温和な作風が特徴で、萩焼特有の藁灰釉を工夫することによって春雪のような温味のある白を完成し、1955年前後から「休雪白」の名で呼ばれるようになった[2]

脚注

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  1. ^ a b c d e 萩の人物データベース - 三輪休和(みわきゅうわ)”. sites.google.com. 2020年10月29日閲覧。
  2. ^ a b c d e f 三輪休和 :: 東文研アーカイブデータベース”. www.tobunken.go.jp. 2020年10月29日閲覧。