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{{Infobox baseball player |
{{Infobox baseball player |
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|選手名 |
|選手名 = 備前 喜夫 |
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|選手写真ファイル名 = |
|選手写真ファイル名 = Yoshio Bizen 1959 Scan10001.jpg |
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|写真サイズ |
|写真サイズ = 275 |
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|写真のコメント |
|写真のコメント = |
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|国籍 |
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|出身地 |
|出身地 = [[広島県]][[尾道市]] |
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|生年月日 |
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1933|10|9|no}} |
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|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1933|10|9|2015|9|7}} |
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|身長 |
|身長 = 170 |
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|体重 |
|体重 = 64 |
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|利き腕 = 右 |
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|打席 = 右 |
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|守備位置 |
|守備位置 = [[投手]] |
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|プロ入り年度 |
|プロ入り年度 = 1952年 |
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|ドラフト順位 |
|ドラフト順位 = |
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|初出場 |
|初出場 = 1952年3月21日 |
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|最終出場 |
|最終出場 = 1962年9月9日 |
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|経歴 |
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* [[広島県立尾道商業高等学校|広島県尾道西高等学校]] |
* [[広島県立尾道商業高等学校|広島県尾道西高等学校]] |
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* [[広島東洋カープ|広島カープ]] (1952 - 1962) |
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|経歴補足題 |
|経歴補足題 = 監督・コーチ歴 |
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|経歴補足 |
|経歴補足 = |
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* 広島カープ<br />広島東洋カープ (1963 - 1974, 1979 - 1981) |
* 広島カープ<br />広島東洋カープ (1963 - 1974, 1979 - 1981) |
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'''備前 喜夫'''(びぜん よしお、[[1933年]][[10月9日]] - [[2015年]][[9月7日]])は、[[広島県]][[尾道市]]出身の[[プロ野球選手]]([[投手]])。引退後は[[広島東洋カープ]]コーチ、二軍監督、[[スカウト (勧誘)|スカウト]]を務めた。旧 |
'''備前 喜夫'''(びぜん よしお、[[1933年]][[10月9日]] - [[2015年]][[9月7日]])は、[[広島県]][[尾道市]]出身の[[プロ野球選手]]([[投手]])。引退後は[[広島東洋カープ]]コーチ、二軍監督、[[スカウト (勧誘)|スカウト]]を務めた。旧姓は'''大田垣'''(おおたがき)。 |
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== 経歴 == |
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尾道西高校(現・[[広島県立尾道商業高等学校|尾道商業高校]])では、エースとして[[木織武美]]とバッテリーを組む。{{by|1951年}}[[全国高等学校野球選手権西中国大会|夏の甲子園予選西中国大会]]決勝に進むが、[[山口県立下関西高等学校|下関西高]]に惜敗、甲子園出場を逸する。同年秋の[[第6回国民体育大会|広島国体]]に出場、2回戦(初戦)で[[岡山県立岡山東商業高等学校|岡山東高]]の[[秋山登]]と投げ合い1-0で完封勝ち。準々決勝に進むが[[兵庫県立芦屋高等学校|芦屋高]]の[[植村義信]]に[[ノーヒットノーラン]]を喫し0-1で敗退。木織以外のチームメートに控え投手の榊原盛毅をはじめ[[原田信吉]]、菊地博仁がおり、3人とも[[広島東洋カープ|広島カープ]]に入団している。 |
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⚫ | オープン戦で好投し、[[3月21日]]の対[[松竹ロビンス]]戦に新人ながら[[開幕投手]]として初登板、[[完投]][[勝利]]を飾る。当時の[[エース (野球)|エース]]・[[長谷川良平]]は[[中日ドラゴンズ|中日]]移籍騒動があり、結局は残留したものの広島に戻ったのが3月20で<ref>『広島カープ―苦難を乗りこえた男たちの軌跡』59頁</ref>、開幕に調整が間に合わなかったことから、大田垣に[[白羽の矢]]が立ったものであった。18歳5ヶ月での開幕戦勝利は、現在もプロ野球史上最年少記録である。2リーグ制以降、開幕投手を務めた高卒新人は大田垣、[[梶本隆夫]]、[[牧野伸]]と3人いるが、9回完投したのも大田垣一人である([[2013年]]まで)<ref>[[スポーツニッポン]]、2013年3月29日</ref><ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20130325-1102522.html 大谷まず一刀で開幕8番右翼スタメン濃厚]</ref>。また、広島は前年も新人の[[杉浦竜太郎]]が開幕投手を務めて完投勝利を挙げており、2年連続で新人が開幕完投勝利を収めるという珍しい記録を作った。また、{{by|1990年}}に[[佐々岡真司]]が38年ぶりに新人の初登板初勝利を記録するまで、広島の新人で初登板初勝利を挙げたのも長らくこの2人のみであった<ref>杉浦、大田垣、佐々岡の他の顔ぶれは[[山内泰幸]]、[[黒田博樹]]、[[小林幹英]](唯一の救援勝利)、[[齊藤悠葵]]、[[福井優也]]、[[九里亜蓮]]である。このうち、高卒新人は大田垣と齊藤の2人(([[2011年]]5月現在))。</ref>。同年大田垣は新人ながら主戦投手として23試合に先発して、[[規定投球回]](180回)を達成。[[防御率]]4.30は投手成績最下位(19位)であったが、チーム3位となる7勝を重ねて球団初の最下位脱出に貢献した。 |
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翌{{by|1953年}}には長谷川に次ぐ13勝を挙げるが敗戦も20を数え、この年から5年連続で2桁勝利を挙げるものの、{{by|1956年}}も22敗と2度の年間20敗を記録している。しかし、備前家の[[婿養子]]となって[[姓]]が変わり、[[野球の背番号|背番号]]も16番に変更した{{by|1957年}}には20勝(13敗)を記録した。{{by|1959年}}は17勝を挙げリーグ5位の防御率2.19を記録するが、自身3度目の年間20敗となった。またこの年には、ルーキーだった[[王貞治]]にシーズン[[本塁打]]7本のうち2本を献上している。この間、[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスター戦]]に2回出場([[1956年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|1956年]]、[[1959年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|1959年]])しているが、いずれも年間20敗を記録したシーズンであった。 |
翌{{by|1953年}}には長谷川に次ぐ13勝を挙げるが敗戦も20を数え、この年から5年連続で2桁勝利を挙げるものの、{{by|1956年}}も22敗と2度の年間20敗を記録している。しかし、備前家の[[婿養子]]となって[[姓]]が変わり、[[野球の背番号|背番号]]も16番に変更した{{by|1957年}}には20勝(13敗)を記録した。{{by|1959年}}は17勝を挙げリーグ5位の防御率2.19を記録するが、自身3度目の年間20敗となった。またこの年には、ルーキーだった[[王貞治]]にシーズン[[本塁打]]7本のうち2本を献上している。この間、[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスター戦]]に2回出場([[1956年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|1956年]]、[[1959年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|1959年]])しているが、いずれも年間20敗を記録したシーズンであった。 |
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=== 引退後 === |
=== 引退後 === |
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引退後は広島の投手[[プロ野球コーチ|コーチ]]や[[二軍監督]]を歴任したのち、{{by|1977年}}から[[スカウト]]に転身。{{by|1979年}}途中からは二軍監督に復帰し、若手を育成しながら勝つ教育を注入し、{{by|1981年}}まで務めた。{{by|1982年}}からは再びスカウトとなり、{{by|1987年}}にはチーフスカウトに就任。計25年間に亘りスカウトとして活躍し、[[ドミニカ共和国|ドミニカ]]の[[ |
引退後は広島の投手[[プロ野球コーチ|コーチ]]や[[二軍監督]]を歴任したのち、{{by|1977年}}から[[スカウト]]に転身。{{by|1979年}}途中からは二軍監督に復帰し、若手を育成しながら勝つ教育を注入し、{{by|1981年}}まで務めた。{{by|1982年}}からは再びスカウトとなり、{{by|1987年}}にはチーフスカウトに就任。計25年間に亘りスカウトとして活躍し、[[ドミニカ共和国|ドミニカ]]の[[カープアカデミー]]開設にも尽力した。広島球団草創期に在籍した選手のうち、広島一筋に半世紀もの間、一度も球団から離れることのなかった唯一の人物である。現在の広島のコーチ・主力選手には、スカウトとしてほぼ全員と関わっている。{{by|2002年}}退団。 |
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2015年9月7日に[[肺炎]]のため死去 |
2015年9月7日に[[肺炎]]のため死去。81歳没。 |
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== 選手としての特徴 == |
== 選手としての特徴・エピソード == |
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[[身長]]170センチ、[[体重]]60キロと小柄ながら、強いリストを効かしたキレのいい直球に、縦に大きく割れる[[カーブ (球種)|カーブ]]と[[石本秀一]][[プロ野球監督|監督]]直伝といわれる[[球種 (野球)|シンカー]]で<ref name="c60">『広島東洋カープ60年史 -躍動!赤ヘル軍団-』36頁</ref>、[[長谷川良平]]と並んでエースとして草創期の弱小カープを支えた。特にシンカーは、[[藤村富美男]]に「手が腫れるから打ちとうない」と言わせる<ref name="c60" />ほどの威力があり、シンカーというより[[シュート (球種)|シュート]]に近い球を投げていたものと思われる。 |
[[身長]]170センチ、[[体重]]60キロと小柄ながら、強いリストを効かしたキレのいい直球に、縦に大きく割れる[[カーブ (球種)|カーブ]]と[[石本秀一]][[プロ野球監督|監督]]直伝といわれる[[球種 (野球)|シンカー]]で<ref name="c60">『広島東洋カープ60年史 -躍動!赤ヘル軍団-』36頁</ref>、[[長谷川良平]]と並んでエースとして草創期の弱小カープを支えた。特にシンカーは、[[藤村富美男]]に「手が腫れるから打ちとうない」と言わせる<ref name="c60" />ほどの威力があり、シンカーというより[[シュート (球種)|シュート]]に近い球を投げていたものと思われる。 |
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また、子鹿のように飛び跳ねるピッチングフォームから「[[バンビ (童話)|'''バンビ''']]」という[[ニックネーム]]で親しまれた。 |
また、子鹿のように飛び跳ねるピッチングフォームから「[[バンビ (童話)|'''バンビ''']]」という[[ニックネーム]]で親しまれた。 |
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1957年に背番号を「14」から「16」に変更した。これは直近2年と自己最高成績が背番号「14」での13勝止まりだったことから「背番号を16に変えれば15勝はいける」という験担ぎだった。そして変更した1957年に6年目にして初の20勝を挙げた<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.chugoku-np.co.jp/carp/article/article.php?comment_id=578099&comment_sub_id=0&category_id=1225|title= カープ50年史 よみがえる熱球 <3>備前喜夫|accessdate=2021-03-27}}</ref>。またこの年から、「大田垣」から夫人の姓である「備前」に改姓していた。 |
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=== 年度別投手成績 === |
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* 各年度の'''太字'''はリーグ最高 |
* 各年度の'''太字'''はリーグ最高 |
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===記録=== |
=== 記録 === |
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; 初記録 |
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* 初出場 [[1952年]][[3月21日]] 対[[松竹ロビンス]]([[呉市営二河球場|呉二河球場]]) |
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* 初勝利 |
* 初登板・初勝利:1952年3月21日、対[[松竹ロビンス]]1回戦([[呉市営二河球場|呉二河球場]]) |
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; その他の記録 |
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* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場 |
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:2回 (1956年、1959年) |
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===背番号=== |
=== 背番号 === |
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* '''14''' (1952年 - 1956年) |
* '''14''' (1952年 - 1956年) |
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* '''16''' (1957年 - 1962年) |
* '''16''' (1957年 - 1962年) |
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* '''65''' (1965年 - 1967年) |
* '''65''' (1965年 - 1967年) |
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* '''62''' (1968年 - 1974年) |
* '''62''' (1968年 - 1974年) |
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* '''68''' (1979年 - 1981年) |
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===登録名=== |
===登録名=== |
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*'''大田垣 喜夫''' (おおたがき よしお、1952年 - 1956年) |
*'''大田垣 喜夫''' (おおたがき よしお、1952年 - 1956年) |
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*'''備前 喜夫''' (びぜん よしお、1957年 - |
*'''備前 喜夫''' (びぜん よしお、1957年 - 1981年) |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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*『広島東洋カープ60年史 -躍動!赤ヘル軍団-』[[ベースボール・マガジン]] |
*『広島東洋カープ60年史 -躍動!赤ヘル軍団-』[[ベースボール・マガジン社]]、2009年 |
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*松永郁子著、駒沢悟監修『広島カープ―苦難を乗りこえた男たちの軌跡』宝島社〔宝島社文庫〕、2002年 |
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==関連項目== |
==関連項目== |
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==外部リンク== |
==外部リンク== |
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{{NPB|81283805|備前喜夫}} |
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*[http://www.chugoku-np.co.jp/Carp/50y/retu/2/990204.html 備前 喜夫]([http://www.chugoku-np.co.jp/Carp/50y/retu/index.html カープ50年選手列伝]より){{リンク切れ|date=2012年2月}} |
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[[Category:ドミニカ共和国の野球に関する人物]] |
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[[Category:広島県出身の人物]] |
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2023年11月13日 (月) 07:41時点における最新版
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 広島県尾道市 |
生年月日 | 1933年10月9日 |
没年月日 | 2015年9月7日(81歳没) |
身長 体重 |
170 cm 64 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1952年 |
初出場 | 1952年3月21日 |
最終出場 | 1962年9月9日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
| |
監督・コーチ歴 | |
| |
この表について
|
備前 喜夫(びぜん よしお、1933年10月9日 - 2015年9月7日)は、広島県尾道市出身のプロ野球選手(投手)。引退後は広島東洋カープコーチ、二軍監督、スカウトを務めた。旧姓は大田垣(おおたがき)。
経歴
[編集]尾道西高校(現・尾道商業高校)では、エースとして木織武美とバッテリーを組む。1951年夏の甲子園予選西中国大会決勝に進むが、下関西高に惜敗、甲子園出場を逸する。同年秋の広島国体に出場、2回戦(初戦)で岡山東高の秋山登と投げ合い1-0で完封勝ち。準々決勝に進むが芦屋高の植村義信にノーヒットノーランを喫し0-1で敗退。木織以外のチームメートに控え投手の榊原盛毅をはじめ原田信吉、菊地博仁がおり、3人とも広島カープに入団している。
1952年に創設3年目の広島カープに入団。契約金は10万円[1]。当時の広島県内の有力選手は、影響力が強かった広島球団後援会の援助をプロ入り前から受けており、大田垣も「他のチームに行ったら承知しない」と脅されていたという[2]。
オープン戦で好投し、3月21日の対松竹ロビンス戦に新人ながら開幕投手として初登板、完投勝利を飾る。当時のエース・長谷川良平は中日移籍騒動があり、結局は残留したものの広島に戻ったのが3月20で[3]、開幕に調整が間に合わなかったことから、大田垣に白羽の矢が立ったものであった。18歳5ヶ月での開幕戦勝利は、現在もプロ野球史上最年少記録である。2リーグ制以降、開幕投手を務めた高卒新人は大田垣、梶本隆夫、牧野伸と3人いるが、9回完投したのも大田垣一人である(2013年まで)[4][5]。また、広島は前年も新人の杉浦竜太郎が開幕投手を務めて完投勝利を挙げており、2年連続で新人が開幕完投勝利を収めるという珍しい記録を作った。また、1990年に佐々岡真司が38年ぶりに新人の初登板初勝利を記録するまで、広島の新人で初登板初勝利を挙げたのも長らくこの2人のみであった[6]。同年大田垣は新人ながら主戦投手として23試合に先発して、規定投球回(180回)を達成。防御率4.30は投手成績最下位(19位)であったが、チーム3位となる7勝を重ねて球団初の最下位脱出に貢献した。
翌1953年には長谷川に次ぐ13勝を挙げるが敗戦も20を数え、この年から5年連続で2桁勝利を挙げるものの、1956年も22敗と2度の年間20敗を記録している。しかし、備前家の婿養子となって姓が変わり、背番号も16番に変更した1957年には20勝(13敗)を記録した。1959年は17勝を挙げリーグ5位の防御率2.19を記録するが、自身3度目の年間20敗となった。またこの年には、ルーキーだった王貞治にシーズン本塁打7本のうち2本を献上している。この間、オールスター戦に2回出場(1956年、1959年)しているが、いずれも年間20敗を記録したシーズンであった。
小柄な体格からか、やや体力に乏しかったともいわれ怪我が多く、1勝に終わった1962年限りで現役を引退した。
引退後
[編集]引退後は広島の投手コーチや二軍監督を歴任したのち、1977年からスカウトに転身。1979年途中からは二軍監督に復帰し、若手を育成しながら勝つ教育を注入し、1981年まで務めた。1982年からは再びスカウトとなり、1987年にはチーフスカウトに就任。計25年間に亘りスカウトとして活躍し、ドミニカのカープアカデミー開設にも尽力した。広島球団草創期に在籍した選手のうち、広島一筋に半世紀もの間、一度も球団から離れることのなかった唯一の人物である。現在の広島のコーチ・主力選手には、スカウトとしてほぼ全員と関わっている。2002年退団。
2015年9月7日に肺炎のため死去。81歳没。
選手としての特徴・エピソード
[編集]身長170センチ、体重60キロと小柄ながら、強いリストを効かしたキレのいい直球に、縦に大きく割れるカーブと石本秀一監督直伝といわれるシンカーで[7]、長谷川良平と並んでエースとして草創期の弱小カープを支えた。特にシンカーは、藤村富美男に「手が腫れるから打ちとうない」と言わせる[7]ほどの威力があり、シンカーというよりシュートに近い球を投げていたものと思われる。
また、子鹿のように飛び跳ねるピッチングフォームから「バンビ」というニックネームで親しまれた。
1957年に背番号を「14」から「16」に変更した。これは直近2年と自己最高成績が背番号「14」での13勝止まりだったことから「背番号を16に変えれば15勝はいける」という験担ぎだった。そして変更した1957年に6年目にして初の20勝を挙げた[8]。またこの年から、「大田垣」から夫人の姓である「備前」に改姓していた。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1952 | 広島 | 43 | 23 | 5 | 0 | 1 | 7 | 17 | -- | -- | .292 | 770 | 180.0 | 186 | 8 | 60 | -- | 4 | 42 | 5 | 0 | 98 | 86 | 4.30 | 1.37 |
1953 | 49 | 26 | 3 | 1 | 1 | 13 | 20 | -- | -- | .394 | 1066 | 249.0 | 282 | 9 | 62 | -- | 6 | 82 | 2 | 1 | 130 | 105 | 3.80 | 1.38 | |
1954 | 30 | 21 | 9 | 1 | 2 | 10 | 10 | -- | -- | .500 | 704 | 170.1 | 198 | 14 | 33 | -- | 2 | 54 | 1 | 1 | 83 | 73 | 3.84 | 1.36 | |
1955 | 45 | 31 | 15 | 2 | 2 | 13 | 18 | -- | -- | .419 | 1173 | 290.0 | 270 | 11 | 64 | 5 | 5 | 101 | 0 | 0 | 106 | 82 | 2.54 | 1.15 | |
1956 | 48 | 30 | 9 | 3 | 2 | 13 | 22 | -- | -- | .371 | 1006 | 247.0 | 219 | 18 | 61 | 7 | 5 | 112 | 4 | 1 | 110 | 86 | 3.13 | 1.13 | |
1957 | 51 | 34 | 11 | 2 | 2 | 20 | 13 | -- | -- | .606 | 1044 | 258.2 | 225 | 9 | 61 | 4 | 4 | 128 | 0 | 0 | 95 | 72 | 2.50 | 1.11 | |
1958 | 29 | 13 | 5 | 1 | 1 | 9 | 10 | -- | -- | .474 | 541 | 135.0 | 121 | 5 | 30 | 2 | 1 | 52 | 1 | 0 | 44 | 36 | 2.40 | 1.12 | |
1959 | 55 | 35 | 18 | 6 | 5 | 17 | 20 | -- | -- | .459 | 1162 | 291.2 | 259 | 16 | 67 | 5 | 5 | 153 | 2 | 0 | 86 | 71 | 2.19 | 1.12 | |
1960 | 33 | 17 | 2 | 2 | 0 | 7 | 8 | -- | -- | .467 | 509 | 127.0 | 106 | 7 | 40 | 7 | 1 | 45 | 0 | 0 | 30 | 22 | 1.56 | 1.15 | |
1961 | 40 | 11 | 0 | 0 | 0 | 5 | 8 | -- | -- | .385 | 480 | 118.2 | 101 | 5 | 39 | 3 | 3 | 42 | 1 | 0 | 42 | 35 | 2.65 | 1.18 | |
1962 | 23 | 6 | 1 | 0 | 0 | 1 | 3 | -- | -- | .250 | 229 | 52.0 | 69 | 1 | 5 | 0 | 2 | 24 | 0 | 0 | 35 | 30 | 5.19 | 1.42 | |
通算:11年 | 446 | 247 | 78 | 18 | 16 | 115 | 149 | -- | -- | .436 | 8684 | 2119.1 | 2036 | 103 | 522 | 33 | 38 | 835 | 16 | 3 | 859 | 698 | 2.96 | 1.21 |
- 各年度の太字はリーグ最高
記録
[編集]- 初記録
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:2回 (1956年、1959年)
背番号
[編集]- 14 (1952年 - 1956年)
- 16 (1957年 - 1962年)
- 63 (1963年)
- 64 (1964年)
- 65 (1965年 - 1967年)
- 62 (1968年 - 1974年)
- 68 (1979年 - 1981年)
登録名
[編集]- 大田垣 喜夫 (おおたがき よしお、1952年 - 1956年)
- 備前 喜夫 (びぜん よしお、1957年 - 1981年)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『広島東洋カープ60年史 -躍動!赤ヘル軍団-』ベースボール・マガジン社、2009年
- 松永郁子著、駒沢悟監修『広島カープ―苦難を乗りこえた男たちの軌跡』宝島社〔宝島社文庫〕、2002年
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 備前喜夫 - NPB.jp 日本野球機構