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{{基礎情報 公家
'''大津 大浦'''(おおつ の おおうら、生年不詳 - [[宝亀]]6年[[5月17日 (旧暦)|5月17日]]([[775年]][[6月19日]]))は、[[奈良時代]]の[[陰陽家]]。[[カバネ|姓]]は[[連]]次いで[[宿禰]]、のち連。[[官位]]は[[従四位|従四位上]]・[[陰陽寮|陰陽頭]]。
| 氏名 = 大津大浦
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| 時代 = [[奈良時代]]
| 生誕 = 不明
| 死没 = [[宝亀]]6年[[5月17日 (旧暦)|5月17日]]([[775年]][[6月19日]])
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| 墓所 =
| 官位 = [[従四位|従四位上]][[陰陽寮|陰陽頭]]
| 主君 = [[孝謙天皇|称徳天皇]]→[[光仁天皇]]
| 氏族 = 大津[[連]]→[[宿禰]]→連
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'''大津 大浦'''(おおつ の おおうらは、[[奈良時代]]の[[貴族]]・[[陰陽家]]。[[カバネ|姓]]は[[連]]次いで[[宿禰]]、のち連。[[官位]]は[[従四位|従四位上]]・[[陰陽寮|陰陽頭]]。


== 出自 ==
== 出自 ==
大津氏(大津造、大津連)は[[摂津国]]を根拠とする一族で、氏の名は[[難波津|難波大津]]の名称に因む<ref name="sei">太田[1963: 1216]</ref>。一説では[[毛野氏]]の一族とされ<ref name="sei" />、[[和銅]]7年([[714年]])には大津意毗登が[[占術]]を用いることにより[[還俗]]を許され[[叙爵]]されるなど<ref>『続日本紀』和銅7年3月10日条</ref>、代々[[陰陽家]]を務めたという<ref name="a">『続日本紀』宝亀6年5月17日条</ref>。
大津氏(大津造、大津連)は[[摂津国]]を根拠とする一族で、氏の名は[[難波津|難波大津]]の名称に因む<ref name="sei">太田[1963: 1216]</ref>。一説では[[毛野氏]]の一族とされ<ref name="sei" />、[[和銅]]7年([[714年]])には[[大津首|大津意毗登]]が[[占術]]を用いることにより[[還俗]]を許され[[叙爵]]されるなど<ref>『続日本紀』和銅7年3月10日条</ref>、代々[[陰陽家]]を務めたという<ref name="a">『続日本紀』宝亀6年5月17日条</ref>。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
代々の[[陰陽道]]の家で陰陽学を習得し、[[藤原仲麻呂]]に非常に信頼されて事の吉兆を占っていた。大浦は仲麻呂の意向が反逆の謀計に及んでいることを知り、災いが自身に降りかかることを恐れ、そのことを[[朝廷]]に密告した<ref name="a" />。果たして[[天平宝字]]8年([[764年]])9月に[[藤原仲麻呂の乱]]が発生すると、[[正七位|正七位上]]から[[従四位|従四位上]]へ一挙に10階昇進され、[[連]]姓から[[宿禰]]姓への[[改姓]]を許される<ref>『続日本紀』天平宝字8年9月11日条</ref>。さらにまもなく、[[兵衛府|左兵衛佐]]<ref>『続日本紀』天平宝字8年9月25日条</ref>兼[[美作国#国司|美作守]]<ref>『続日本紀』天平宝字8年10月20日条</ref>に任ぜられた。
代々の[[陰陽道]]の家で陰陽学を習得し、[[藤原仲麻呂]]に非常に信頼されて事の吉兆を占っていた。大浦は仲麻呂の意向が反逆の謀計に及んでいることを知り、災いが自身に降りかかることを恐れ、そのことを[[朝廷 (日本)|朝廷]]に[[密告]]した<ref name="a" />。果たして[[天平宝字]]8年([[764年]])9月に[[藤原仲麻呂の乱]]が発生すると、[[正七位|正七位上]]から[[従四位|従四位上]]へ一挙に10階加階され、[[連]]姓から[[宿禰]]姓への[[改姓]]を許される。さらにまもなく、[[兵衛府|左兵衛佐]]兼[[美作国#国司|美作守]]に任ぜられた。


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翌[[天平神護]]元年([[765年]])3月に同じく藤原仲麻呂の乱で功績のあった[[和気王]]と共に[[功田]]を与えられた。しかし、同年8月には和気王の[[謀反]]が発生した際、それまで和気王の邸宅で飲食をにするなど親しく交際していたため[[連座]]、[[兵部省|兵部大輔]]から[[日向国#国司|日向守]]に[[左遷]]の上で[[位封]]を剥奪され、姓も連に戻された。さらに[[神護景雲]]元年([[767年]])には日向員外介の[[官職]]を解任の上、所持する[[天文道|天文]]や陰陽などの書物も没収されて官有とされた<ref>『続日本紀』神護景雲元年9月16日条</ref>。


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== 官歴 ==
『[[続日本紀]]』による。
*時期不詳:[[正七位|正七位上]]
*[[天平宝字]]8年([[764年]]) 9月11日:[[従四位|従四位上]]、[[連]]姓から[[宿禰]]姓へ[[改姓]]。9月25日:[[兵衛府|左兵衛佐]]。10月20日:兼[[美作国#国司|美作守]]
*時期不詳:[[兵部省|兵部大輔]]
*[[天平神護]]元年([[765年]]) 3月10日:[[功田]]15町。8月1日:[[日向国#国司|日向守]]、宿禰姓から連姓に改姓
*時期不詳:日向員外介
*[[神護景雲]]元年([[767年]]) 9月16日:解日向員外介
*[[宝亀]]元年([[770年]]) 日付不詳:原罪入京
*宝亀2年([[771年]]) 7月23日:[[陰陽寮|陰陽頭]]<ref name="a" />
*宝亀5年([[774年]]) 3月5日:兼[[安芸国#国司|安芸守]]
*宝亀6年([[775年]]) 5月17日:[[崩御#卒去|卒去]](従四位上陰陽頭兼安芸守)


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
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2023年11月14日 (火) 11:23時点における最新版

 
大津大浦
時代 奈良時代
生誕 不明
死没 宝亀6年5月17日775年6月19日
官位 従四位上陰陽頭
主君 称徳天皇光仁天皇
氏族 大津宿禰→連
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大津 大浦(おおつ の おおうら)は、奈良時代貴族陰陽家次いで宿禰、のち連。官位従四位上陰陽頭

出自

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大津氏(大津造、大津連)は摂津国を根拠とする一族で、氏の名は難波大津の名称に因む[1]。一説では毛野氏の一族とされ[1]和銅7年(714年)には大津意毗登占術を用いることにより還俗を許され叙爵されるなど[2]、代々陰陽家を務めたという[3]

経歴

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代々の陰陽道の家で陰陽学を習得し、藤原仲麻呂に非常に信頼されて事の吉兆を占っていた。大浦は仲麻呂の意向が反逆の謀計に及んでいることを知り、災いが自身に降りかかることを恐れ、そのことを朝廷密告した[3]。果たして天平宝字8年(764年)9月に藤原仲麻呂の乱が発生すると、正七位上から従四位上へ一挙に10階加階され、姓から宿禰姓への改姓を許される。さらにまもなく、左兵衛佐美作守に任ぜられた。

天平神護元年(765年)3月に同じく藤原仲麻呂の乱で功績のあった和気王と共に功田を与えられた。しかし、同年8月には和気王の謀反が発生した際、それまで和気王の邸宅で飲食を共にするなど親しく交際していたため連座兵部大輔から日向守左遷の上で位封を剥奪され、姓も連に戻された。さらに神護景雲元年(767年)には日向員外介の官職を解任の上、所持する天文や陰陽などの書物も没収されて官有とされた[4]

光仁朝に入ると、宝亀元年(770年)に罪を赦されて帰京し、宝亀2年(771年)陰陽頭に任ぜられ、宝亀5年(775年)には安芸守を兼ねた。 宝亀6年(775年)5月17日卒去。最終官位は従四位上陰陽頭兼安芸守。

官歴

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続日本紀』による。

脚注

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  1. ^ a b 太田[1963: 1216]
  2. ^ 『続日本紀』和銅7年3月10日条
  3. ^ a b c 『続日本紀』宝亀6年5月17日条
  4. ^ 『続日本紀』神護景雲元年9月16日条

参考文献

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