「楠安夫」の版間の差分
56whitestone (会話 | 投稿記録) |
m 曖昧さ回避ページコンバートへのリンクを解消、リンク先をコンバート (野球)に変更(DisamAssist使用) |
||
(13人の利用者による、間の24版が非表示) | |||
1行目:
{{Infobox baseball player
|選手名 = 楠 安夫
|選手写真ファイル名 = Yasuo Kusunoki 1950 Scan10005.jpg
|写真サイズ = 250
|写真のコメント = 西鉄クリッパーズ時代(1950年撮影)
|国籍 = {{JPN}}
|出身地 = [[香川県]]<ref name=jinmei>プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、196ページ</ref>
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1920|6|21|no}}
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1920|6|21|2000|10|9}}
15 ⟶ 18行目:
|最終出場 = {{by|1955年}}
|経歴 =
* [[香川県立高松商業高等学校|旧制香川県立高松商業学校]]
* [[日本大学硬式野球部|日本大学]](中退)
* [[読売ジャイアンツ|東京巨人軍]] (1938 - 1942,1946)
* [[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]] (1947 - 1949)
* [[埼玉西武ライオンズ|西鉄クリッパース]] (1950)
* 読売ジャイアンツ (1951 - 1954)
* [[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]] (1955)
|経歴補足 =
* [[東京ヤクルトスワローズ|サンケイアトムズ<br />アトムズ]] (1968 - 1969)
}}
'''楠 安夫'''(くすのき やすお、[[1920年]][[6月21日]] - [[2000年]][[10月9日]])は、[[香川県]]出身の[[プロ野球選手]]([[投手]]、[[捕手]])・[[プロ野球コーチ|コーチ]]、[[野球解説者|解説者]]・[[野球評論家|評論家]]。
== 経歴 ==
[[香川県立高松商業高等学校|高松商業]]では投手として、[[徳島県立徳島商業高等学校|徳島商業]]の[[林義一]]([[大映ユニオンズ|大映]]→[[オリックス・バファローズ|阪急]])・[[愛媛県立松山商業高等学校|松山商業]]の[[千葉茂 (野球)|千葉茂]]([[読売ジャイアンツ|巨人]])と共に、[[四国]]の投手ビッグ3と称された<ref>『巨人軍の男たち』70頁</ref>。
戦後は{{by|1945年}}に巨人に復帰し、同年11月に行われた東西対抗戦にも出場する<ref>『大下弘 虹の生涯』56頁</ref>。しかし、翌{{by|1946年}}の春のキャンプ中に[[結核]]と診断され、退団した<ref>『大下弘 虹の生涯』81頁</ref>。{{by|1947年}}に[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]
{{by|1951年}}に西鉄と合併した[[西日本パイレーツ]]から日比野武が移籍してきたため、約10年ぶりに巨人へ復帰。復帰にあたって、[[読売新聞社]]副社長であった[[安田庄司]]の「あんなポンコツをとってどうする」との発言に奮起<ref name="ke40">『報知グラフ 別冊 巨人軍栄光の40年』177頁</ref>。[[藤原鉄之助]]・[[武宮敏明]]を押しのけて正捕手となり、71試合にマスクを被って打率.292の好成績を挙げる。同年に行われた[[福岡ソフトバンクホークス|南海]]との[[1951年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では、全試合にマスクを被って[[木塚忠助]]・[[蔭山和夫]]・[[飯田徳治]]ら「百万ドルの内野陣」の足をわずか1盗塁と完璧に封じ込み、巨人の2リーグ分裂後初の日本一に大きく貢献<ref>『巨人軍の男たち』72頁</ref>。南海の監督兼四番打者として打率.421と気を吐いた[[鶴岡一人]]に「楠がマスク越しにいろいろ言うのが、一番イヤだった」と言わしめたほど、あらゆる面で頭脳プレーを見せた<ref name="ke40" />。その後は、{{by|1952年}}に[[ハワイ]]から来日した[[広田順]]に押されて出場試合が徐々に減少した。{{by|1955年}}に[[手塚明治]]とともに[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]へ移籍、[[目時富士雄]]の控えとして50試合に出場するが、同年引退。
引退後は[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]・[[テレビ朝日|日本教育テレビ]]・[[フジテレビジョン|フジテレビ]]・[[ニッポン放送]]・[[文化放送]][[野球解説者|解説者]]を経て、{{by|1968年}}からは監督の[[別所毅彦]]の招聘で[[東京ヤクルトスワローズ|サンケイアトムズ→アトムズ]]のヘッドコーチとなり、{{by|1969年}}まで務めた<ref>森岡浩編著『プロ野球人名事典 1999』[[日外アソシエーツ]]</ref>。▼
▲引退後は[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]・[[テレビ朝日|日本教育テレビ]]・[[フジテレビジョン|フジテレビ]]・[[ニッポン放送]]・[[文化放送]]
2000年10月9日に死去。{{没年齢|1920|6|21|2000|10|9}}。
== 人物 ==
大変な読書家で、大量の蔵書を誇っていた。また、本を大事にし、手作りの表紙を作って「楠蔵書」という判子を押し、全ての本に装着していた<ref>『猛牛一代』333-334頁</ref>。
== 詳細情報 ==
40 ⟶ 51行目:
{| {{投手成績|リーグ=日本プロ野球}}
|-
|style="text-align: center;"|{{by2|1938}}秋
|rowspan="3" style="text-align: center;"|[[読売ジャイアンツ|巨人]]
|4||0||0||0||0||0||0||--||--||----||61||14.0||10||1||7||--||0||2||0||0||7||3||1.93||1.21
|-
|style="text-align: center;"|{{by2|1939}}
|14||10||4||0||0||6||2||--||--||.750||298||70.2||57||3||32||--||5||23||0||0||25||
|-
|style="text-align: center;"|{{by2|1940}}
|5||5||1||0||0||1||1||--||--||.500||105||21.2||20||2||17||--||1||6||0||0||12||6||2.45||1.71
|-
112 ⟶ 123行目:
=== 背番号 ===
* '''12''' (1938年 - 1942年、1946年途中)
* '''5''' (1946年途中 - 同年終了)
* '''2''' (1947年)
* '''3''' (1948年 - 1950年)
* '''27''' (1951年 - 1954年)
* '''1''' (1955年)
* '''50''' (1968年 - 1969年)
=== 登録名 ===
* '''楠 安夫''' (くすのき やすお、1938年 - 1948年、1968年 - 1969年)
* '''楠 協郎''' (くすのき やすお、1949年 - 1953年)
* '''楠 拡応''' (くすのき やすお、1954年 - 1955年)
== 参考文献 ==▼
*[[千葉茂 (野球)|千葉茂]]『巨人軍の男たち』[[東京スポーツ|東京スポーツ新聞社]]、1984年▼
*千葉茂『猛牛一代』恒文社、1977年
*『報知グラフ 別冊 巨人軍栄光の40年』報知新聞社、1974年
*[[辺見じゅん]]『大下弘 虹の生涯』[[新潮文庫]]、1995年
== 脚注 ==
{{Reflist}}▼
== 関連項目 ==
* [[香川県出身の人物一覧]]
* [[日本大学の人物一覧]]
* [[読売ジャイアンツの選手一覧]]
* [[オリックス・バファローズの選手一覧]]
130 ⟶ 153行目:
* [[横浜DeNAベイスターズの選手一覧]]
==
{{NPB|81383876|楠拡応}}
▲{{Reflist}}
{{リダイレクトの所属カテゴリ
▲== 参考文献 ==
|redirect1 = 楠協郎
▲*[[千葉茂 (野球)|千葉茂]]『巨人軍の男たち』[[東京スポーツ|東京スポーツ新聞社]]、1984年
|redirect2 = 楠拡応
|2-1 = 横浜DeNAベイスターズ及びその前身球団の選手
}}
{{DEFAULTSORT:くすのき やすお}}
[[Category:日本の野球選手]]
[[Category:
[[Category:読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手]]
[[Category:オリックス・バファローズ及びその前身球団の選手]]
[[Category:
▲[[Category:横浜DeNAベイスターズ及びその前身球団の選手]]
[[Category:NPBオールスターゲーム選出選手]]
[[Category:日本の野球指導者]]
[[Category:東京ヤクルトスワローズ関連人物]]
[[Category:野球解説者]]
[[Category:香川県立高松商業高等学校出身の
[[Category:香川県出身の人物]]
[[Category:1920年生]]
|
2023年11月20日 (月) 05:40時点における最新版
西鉄クリッパーズ時代(1950年撮影) | |
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 香川県[1] |
生年月日 | 1920年6月21日 |
没年月日 | 2000年10月9日(80歳没) |
身長 体重 |
175 cm 70 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 捕手、投手 |
プロ入り | 1938年 |
初出場 | 1938年 |
最終出場 | 1955年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
コーチ歴 | |
| |
この表について
|
楠 安夫(くすのき やすお、1920年6月21日 - 2000年10月9日)は、香川県出身のプロ野球選手(投手、捕手)・コーチ、解説者・評論家。
経歴
[編集]高松商業では投手として、徳島商業の林義一(大映→阪急)・松山商業の千葉茂(巨人)と共に、四国の投手ビッグ3と称された[2]。
日本大学を中退し、1938年秋に東京巨人軍へ投手として入団[1]。1939年には6勝を挙げる。1940年に三塁手、1941年に捕手にコンバートされ[1]、1942年には応召した吉原正喜の後釜として正捕手となり、90試合でマスクを被った。
戦後は1945年に巨人に復帰し、同年11月に行われた東西対抗戦にも出場する[3]。しかし、翌1946年の春のキャンプ中に結核と診断され、退団した[4]。1947年に阪急ブレーブスに入団して復帰。阪急では戦前からの正捕手であった日比野武がいたために、しばしば一塁を守るなど出場機会には恵まれなかった。1950年の二リーグ分裂に伴って、新球団の西鉄クリッパースに移籍し、チームの初代4番打者を務める。
1951年に西鉄と合併した西日本パイレーツから日比野武が移籍してきたため、約10年ぶりに巨人へ復帰。復帰にあたって、読売新聞社副社長であった安田庄司の「あんなポンコツをとってどうする」との発言に奮起[5]。藤原鉄之助・武宮敏明を押しのけて正捕手となり、71試合にマスクを被って打率.292の好成績を挙げる。同年に行われた南海との日本シリーズでは、全試合にマスクを被って木塚忠助・蔭山和夫・飯田徳治ら「百万ドルの内野陣」の足をわずか1盗塁と完璧に封じ込み、巨人の2リーグ分裂後初の日本一に大きく貢献[6]。南海の監督兼四番打者として打率.421と気を吐いた鶴岡一人に「楠がマスク越しにいろいろ言うのが、一番イヤだった」と言わしめたほど、あらゆる面で頭脳プレーを見せた[5]。その後は、1952年にハワイから来日した広田順に押されて出場試合が徐々に減少した。1955年に手塚明治とともに大洋ホエールズへ移籍、目時富士雄の控えとして50試合に出場するが、同年引退。
引退後は日本テレビ・日本教育テレビ・フジテレビ・ニッポン放送・文化放送解説者や日刊スポーツ評論家を経て、1968年からは別所毅彦監督の招聘でサンケイアトムズ→アトムズのヘッドコーチとなり、1969年まで務めた[7]。
2000年10月9日に死去。80歳没。
人物
[編集]大変な読書家で、大量の蔵書を誇っていた。また、本を大事にし、手作りの表紙を作って「楠蔵書」という判子を押し、全ての本に装着していた[8]。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1938秋 | 巨人 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | ---- | 61 | 14.0 | 10 | 1 | 7 | -- | 0 | 2 | 0 | 0 | 7 | 3 | 1.93 | 1.21 |
1939 | 14 | 10 | 4 | 0 | 0 | 6 | 2 | -- | -- | .750 | 298 | 70.2 | 57 | 3 | 32 | -- | 5 | 23 | 0 | 0 | 25 | 17 | 0.89 | 1.26 | |
1940 | 5 | 5 | 1 | 0 | 0 | 1 | 1 | -- | -- | .500 | 105 | 21.2 | 20 | 2 | 17 | -- | 1 | 6 | 0 | 0 | 12 | 6 | 2.45 | 1.71 | |
通算:3年 | 23 | 15 | 5 | 0 | 0 | 7 | 3 | -- | -- | .700 | 464 | 106.1 | 87 | 6 | 56 | -- | 6 | 31 | 0 | 0 | 44 | 26 | 2.19 | 1.34 |
年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1938秋 | 巨人 | 6 | 9 | 8 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | -- | 0 | -- | 1 | -- | 0 | 3 | -- | .250 | .333 | .250 | .583 |
1939 | 31 | 57 | 44 | 7 | 9 | 2 | 1 | 0 | 13 | 11 | 1 | -- | 0 | 0 | 13 | -- | 0 | 13 | -- | .205 | .386 | .295 | .681 | |
1940 | 35 | 68 | 59 | 4 | 10 | 2 | 1 | 0 | 14 | 5 | 1 | -- | 0 | 1 | 8 | -- | 0 | 15 | -- | .169 | .269 | .237 | .506 | |
1941 | 38 | 91 | 67 | 13 | 13 | 3 | 0 | 1 | 19 | 12 | 0 | -- | 1 | -- | 23 | -- | 0 | 14 | -- | .194 | .400 | .284 | .684 | |
1942 | 90 | 386 | 299 | 40 | 68 | 12 | 6 | 1 | 95 | 26 | 3 | 1 | 3 | -- | 82 | -- | 2 | 50 | -- | .227 | .397 | .318 | .715 | |
1947 | 阪急 | 36 | 90 | 83 | 4 | 11 | 1 | 0 | 0 | 12 | 5 | 0 | 0 | 0 | -- | 6 | -- | 1 | 9 | -- | .133 | .200 | .145 | .345 |
1948 | 64 | 152 | 137 | 12 | 38 | 6 | 2 | 2 | 54 | 22 | 3 | 0 | 1 | -- | 14 | -- | 0 | 17 | -- | .277 | .344 | .394 | .739 | |
1949 | 41 | 89 | 80 | 7 | 23 | 4 | 0 | 1 | 30 | 13 | 3 | 0 | 0 | -- | 9 | -- | 0 | 16 | -- | .288 | .360 | .375 | .735 | |
1950 | 西鉄 | 73 | 286 | 262 | 27 | 67 | 10 | 2 | 8 | 105 | 42 | 7 | 2 | 0 | -- | 24 | -- | 0 | 37 | 6 | .256 | .318 | .401 | .719 |
1951 | 巨人 | 84 | 286 | 243 | 38 | 71 | 19 | 0 | 6 | 108 | 52 | 6 | 2 | 6 | -- | 36 | -- | 1 | 28 | 11 | .292 | .386 | .444 | .830 |
1952 | 73 | 221 | 185 | 27 | 54 | 11 | 3 | 3 | 80 | 24 | 1 | 1 | 4 | -- | 32 | -- | 0 | 20 | 6 | .292 | .396 | .432 | .829 | |
1953 | 26 | 55 | 50 | 6 | 8 | 1 | 0 | 0 | 9 | 0 | 0 | 0 | 1 | -- | 4 | -- | 0 | 4 | 0 | .160 | .222 | .180 | .402 | |
1954 | 4 | 3 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | -- | 0 | 0 | 0 | .000 | .333 | .000 | .333 | |
1955 | 大洋 | 50 | 140 | 126 | 4 | 24 | 3 | 0 | 0 | 27 | 5 | 2 | 2 | 0 | 0 | 14 | 0 | 0 | 21 | 7 | .190 | .271 | .214 | .486 |
通算:14年 | 651 | 1933 | 1645 | 189 | 398 | 74 | 15 | 22 | 568 | 218 | 27 | 8 | 16 | 1 | 267 | 0 | 4 | 247 | 30 | .242 | .349 | .345 | .694 |
記録
[編集]背番号
[編集]- 12 (1938年 - 1942年、1946年途中)
- 5 (1946年途中 - 同年終了)
- 2 (1947年)
- 3 (1948年 - 1950年)
- 27 (1951年 - 1954年)
- 1 (1955年)
- 50 (1968年 - 1969年)
登録名
[編集]- 楠 安夫 (くすのき やすお、1938年 - 1948年、1968年 - 1969年)
- 楠 協郎 (くすのき やすお、1949年 - 1953年)
- 楠 拡応 (くすのき やすお、1954年 - 1955年)
参考文献
[編集]- 千葉茂『巨人軍の男たち』東京スポーツ新聞社、1984年
- 千葉茂『猛牛一代』恒文社、1977年
- 『報知グラフ 別冊 巨人軍栄光の40年』報知新聞社、1974年
- 辺見じゅん『大下弘 虹の生涯』新潮文庫、1995年
脚注
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 楠拡応 - NPB.jp 日本野球機構