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[[File:Monument to Strategy Room of Northern Army.JPG|280px|thumb|旧北部軍管区司令部防空作戦室跡]]
'''月寒送信所'''(つきさむそうしんじょ)は、[[札幌市]][[豊平区]]月寒東2条1丁目に所在していた[[陸上自衛隊]]通信施設である。
'''月寒送信所'''(つきさむそうしんじょ)は、[[札幌市]][[豊平区]]月寒東2条1丁目に所在していた[[陸上自衛隊]]通信施設である。本項ではその前身である'''北部軍防空作戦室'''についても取り扱う


== 北部軍防空作戦室 ==
==概要==
[[1940年]]([[昭和]]15年)12月2日に創設された[[大日本帝国陸軍]][[北部軍 (日本軍)|北部軍]]司令部本部の建物は、[[木構造 (建築)|木造]]2階建てだった{{Sfn|掘る会|2010|pp=86 - 87}}。そのため[[アメリカ軍]]の[[空襲]]に耐えられる施設が求められるようになり、[[1942年]](昭和17年)、司令部広場の北西に[[コンクリート]]製の作戦室の建設が始まった。通常であれば3年かかる工事は、[[タコ部屋労働|タコ部屋]]労働によって翌[[1943年]](昭和18年)に完了した{{Sfn|掘る会|2010|p=90}}。
かつては[[北部方面隊]][[札幌駐屯地]]飛び地という扱いになっており、国有財産台帳上、陸上自衛隊札幌駐屯地月寒送信所の名称が与えられている。


建物は地上2階・地下3階で、1トン爆弾の攻撃にも耐えうる厚さ1メートルを超える壁や二重化された耐弾構造を持ち<ref>{{Cite web|和書|date= |url=https://www.city.sapporo.jp/ncms/shimin/heiwa/rekishi_senseki/senseki/senseki_20/index.html |title=北部軍管区司令部防空作戦室 |publisher=札幌市市民文化局地域振興部 |website=札幌市平和バーチャル資料館 |accessdate=2019-08-15}}</ref>、最深部からは司令部への[[地下道]]が延びていたらしい{{Sfn|掘る会|2010|p=90}}。当時は地上1階から地下1階までが吹き抜けになっており、正面の壁には[[青森県]]・[[北海道]]のみならず、南[[樺太]]や[[千島列島]]まで収めた巨大な地図が掲げられていた。
[[月寒]]は、戦前から駐屯地が置かれており、[[大日本帝国陸軍]]第25歩兵連隊が駐屯していた。[[2006年]]に[[ウクライナ]]から[[岩手県]][[洋野町]]への一時帰国を果たした[[上野石之助]]が、かつて所属していた部隊でもある。


[[通信]]業務に当たったのは、女学校卒業後に集められた[[女子挺身隊]]約280名で、[[シフト勤務#24時間制|3交替による24時間体制]]だった。通信隊員の操作によって地図上の情報入手箇所のランプが点灯し、[[参謀]]らがそれを見ながら[[作戦]]を練ったという{{Sfn|掘る会|2010|pp=100 - 101}}。
送信所は1943年(昭和18年)に設置され、戦前は、「[[大日本帝国陸軍]][[北部軍 (日本軍)|北部軍]]防空指揮所」が置かれ、通信所では[[青森県]]・[[北海道]]のみならず、[[樺太]]や[[千島列島]]とも通信を行い、敵軍情報を収集して[[空襲]][[警報]]を発令していた。近傍には[[本土決戦]]に備えて編成された[[北部軍管区 (日本軍)|北部軍管区]]([[青森県]]以北を所轄)北部司令官官邸(現「つきさっぷ郷土資料館」)があったため、別名「北の[[大本営]]」とも呼ばれていた。


== 月寒送信所 ==
戦後は、送信所のみの陸上自衛隊通信所、ついで通信士の教育施設として使われていたが、近年遊休地化し、末期は施設警備のための人員が派遣されているだけであった。施設の売却も取りざたされており、札幌に現存する貴重な戦争遺跡であることから保存運動の声が上がっていたが、[[2007年]][[11月26日]]に一般公開され、現在は解体されている。なお、当送信所閉鎖後の通信機能は[[真駒内駐屯地]]に移転している。
戦後は[[北部方面隊]][[札幌駐屯地]]飛び地という扱いになっており、[[国有財産台帳]]上、陸上自衛隊札幌駐屯地月寒送信所の名称が与えられた。送信所のみの陸上自衛隊通信所、ついで[[通信士]]の教育施設として使われていたが、末期は施設[[警備]]のための人員が派遣されているだけであった


札幌市に現存する貴重な[[戦争遺跡]]であることから[[保存]]運動の声が上がっていたが、[[2007年]]([[平成]]19年)11月26日に一般公開した後、[[2008年]](平成20年)1 - 2月に取り壊された。

跡地には[[官舎|国家公務員宿舎]]が建っている。なお、当送信所閉鎖後の通信機能は[[真駒内駐屯地]]に移転している。

== 脚注 ==
<references />
== 参考文献 ==
* {{cite book|和書|author=札幌郷土を掘る会|title=写真で見る札幌の戦跡|publisher=北海道新聞社|date=2010-12-28|isbn=978-4-89453-578-7|ref={{SfnRef|掘る会|2010}}}}
== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* [http://www.tanken.com/hokubugun.html 札幌・北部軍司令部を観光]
* [http://www.tanken.com/hokubugun.html 札幌・北部軍司令部を観光]
* [http://tkss.jp/pjn/archives/2007/11/26235959.php 旧北部軍司令部防空指揮所の一般公開]
* [http://tkss.jp/pjn/archives/2007/11/26235959.php 旧北部軍司令部防空指揮所の一般公開]
* [http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kokuyuzaisan/9901/06sono1.html 平成14年度末までに用途廃止・売却可能と見込まれる財産一覧表]
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[[Category:戦前の札幌]]
[[Category:戦後の札幌]]

2023年11月23日 (木) 20:56時点における最新版

旧北部軍管区司令部防空作戦室跡

月寒送信所(つきさむそうしんじょ)は、札幌市豊平区月寒東2条1丁目に所在していた陸上自衛隊通信施設である。本項ではその前身である北部軍防空作戦室についても取り扱う。

北部軍防空作戦室

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1940年昭和15年)12月2日に創設された大日本帝国陸軍北部軍司令部本部の建物は、木造2階建てだった[1]。そのためアメリカ軍空襲に耐えられる施設が求められるようになり、1942年(昭和17年)、司令部広場の北西にコンクリート製の作戦室の建設が始まった。通常であれば3年かかる工事は、タコ部屋労働によって翌1943年(昭和18年)に完了した[2]

建物は地上2階・地下3階で、1トン爆弾の攻撃にも耐えうる厚さ1メートルを超える壁や二重化された耐弾構造を持ち[3]、最深部からは司令部への地下道が延びていたらしい[2]。当時は地上1階から地下1階までが吹き抜けになっており、正面の壁には青森県北海道のみならず、南樺太千島列島まで収めた巨大な地図が掲げられていた。

通信業務に当たったのは、女学校卒業後に集められた女子挺身隊約280名で、3交替による24時間体制だった。通信隊員の操作によって地図上の情報入手箇所のランプが点灯し、参謀らがそれを見ながら作戦を練ったという[4]

月寒送信所

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戦後は北部方面隊札幌駐屯地飛び地という扱いになっており、国有財産台帳上、陸上自衛隊札幌駐屯地月寒送信所の名称が与えられた。送信所のみの陸上自衛隊通信所、ついで通信士の教育施設として使われていたが、末期は施設警備のための人員が派遣されているだけであった。

札幌市に現存する貴重な戦争遺跡であることから保存運動の声が上がっていたが、2007年平成19年)11月26日に一般公開した後、2008年(平成20年)1 - 2月に取り壊された。

跡地には国家公務員宿舎が建っている。なお、当送信所閉鎖後の通信機能は真駒内駐屯地に移転している。

脚注

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  1. ^ 掘る会 2010, pp. 86–87.
  2. ^ a b 掘る会 2010, p. 90.
  3. ^ 北部軍管区司令部防空作戦室”. 札幌市平和バーチャル資料館. 札幌市市民文化局地域振興部. 2019年8月15日閲覧。
  4. ^ 掘る会 2010, pp. 100–101.

参考文献

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  • 札幌郷土を掘る会『写真で見る札幌の戦跡』北海道新聞社、2010年12月28日。ISBN 978-4-89453-578-7 

外部リンク

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