「玉川勝太郎」の版間の差分
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| 本名 = 鈴木 鎌治郎 |
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| 死没地 = |
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| 生年 = 1881 |
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| 没年 = 1926 |
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| 師匠 = 青木昇 |
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| 弟子 = 小金井太郎<br>二代目玉川勝太郎 |
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| 名跡 = 1. 青木勝太郎<br>2. 初代玉川勝太郎 |
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[[東京府]][[東京市]][[本所区]](現在の[[東京都]][[墨田区]])の生まれ。[[青木昇]]の弟子で、故あって青木勝太郎から玉川勝太郎となった。小音ながら新内調の節で、「越後伝吉」や「天保水滸伝」など侠客物を得意にし、「玉川勝太郎の浪花節を有するは実に東京の誇りなり」(樋口罔象もうしょう による賛辞)とまで讃えられる。向島言問に寄席「玉川亭」を経営するが失敗し、喉を痛めて千葉県[[市川市|市川]]に隠棲する。 |
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== 2代目 == |
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| 画像コメント = 巨漢のエピソードが残る。 |
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| 生年 = 1896 |
| 生年 = 1896 |
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| 師匠 = [[玉川勝太郎#初代|初代玉川勝太郎]] |
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| 配偶者 =玉川花江 |
| 配偶者 = 玉川花江 |
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2代目'''玉川 勝太郎'''([[1896年]][[5月1日]] - [[1969年]][[8月13日]])本名は石渡 金久。 |
2代目'''玉川 勝太郎'''([[1896年]][[5月1日]] - [[1969年]][[8月13日]])本名は石渡 金久。 |
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東京府東京市[[牛込区]](現在の東京都[[新宿区]])の生まれ。浪曲好きの父の影響で、17歳で初代に入門し玉川次郎、兄弟子の[[小金井太郎|玉川太郎]]とともに「玉川の両翼」と称される。はじめ治郎、のち次郎で真打。剃髪して袈裟姿で「玉川教風」を号したのち、次郎に戻り[[1932年]]に2代目勝太郎を襲名<ref>『実録浪曲史』p.322</ref>。師匠譲りの関東節で任侠物を磨き上げ、「清水次郎長伝」「 |
東京府東京市[[牛込区]](現在の東京都[[新宿区]])の生まれ。浪曲好きの父の影響で、17歳で初代に入門し玉川次郎、兄弟子の[[小金井太郎|玉川太郎]]とともに「玉川の両翼」と称される。はじめ治郎、のち次郎で真打。剃髪して袈裟姿で「玉川教風」を号したのち、次郎に戻り[[1932年]]に2代目勝太郎を襲名<ref>『実録浪曲史』p.322</ref>。師匠譲りの関東節で任侠物を磨き上げ、「[[天保水滸伝]]」「[[清水次郎長伝]]」「国定忠治」などを十八番にした。中でも「天保水滸伝」の外題付け「〽利根の川風、袂に入れて…」([[正岡容]]作)の名調子は、[[レコード]]に吹き込まれて一世を風靡した。のちに勝太郎は正岡について「このネタは僕のものだが歌詞は彼がすっかり変えて、ご存知のような名文になった」「蔵が建った(それほどではないが…)現在の僕にしてくれたのは正岡容なのだから」と述べている<ref>{{Cite news|和書|author=玉川勝太郎|title=名文「天保水滸伝」 正岡容との友情|newspaper=読売新聞夕刊|date=1954-06-14|page=4}}</ref>。一方の正岡も勝太郎を評して「五月の大利根を見るような洋々たる節調」「豪放な中に一抹のセンチメンタリズムが加味されるにいたった」と述べている<ref>{{Cite book|和書|author=正岡容|title=日本浪曲史|publisher=南北社|date=1968-01|pages=282-283}}</ref>。その長く尾をひいて歌う哀調の節は、勝太郎が自宅で飼っていた[[カナリア#品種|ローラーカナリア]]の鳴き声にヒントを得て作られたものである<ref>『独習で上達する浪曲の習い方』 広沢竜造編より</ref><ref>『浪花節一代』 玉川勝太郎自身の一文より</ref>。 |
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中でも『[[天保水滸伝]]』([[正岡容]]作)の外題付け「〽利根の川風、袂に入れて…」の名調子は、[[レコード]]に吹き込まれて一世を風靡した。その長く尾をひいて歌う哀調の節は、勝太郎が自宅で飼っていた[[カナリア#品種|ローラーカナリア]]の鳴き声にヒントを得て作られたものである<ref>『独習で上達する浪曲の習い方』 広沢竜造編より</ref><ref>『浪花節一代』 玉川勝太郎自身の一文より</ref>。 |
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[[1964年]]の帝国劇場で娘婿の福太郎に勝太郎を譲って「玉川勝翁」を名乗り引退、新作にも挑戦した。極度の近視、かつ巨躯で、数々の逸話がある。1969年に脳軟化症で死去。 |
[[1964年]]の[[帝国劇場]]で娘婿の福太郎に勝太郎を譲って「玉川勝翁」を名乗り引退、新作にも挑戦した。極度の[[近視]]、かつ巨躯で、数々の逸話がある。1969年に[[脳軟化症]]で死去。 |
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=== 主な弟子 === |
=== 主な弟子 === |
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== 3代目 == |
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| 芸名 = 3代目 {{ruby|玉川|たまがわ}} {{ruby|勝太郎|かつたろう}} |
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| 死没地 = |
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| 生年 = 1933 |
| 生年 = 1933 |
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| 主な作品 = |
| 主な作品 = |
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| 受賞歴 = |
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| 備考 = [[日本浪曲協会]]会長 |
| 備考 = [[日本浪曲協会]]会長(1994年 - 1995年) |
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3代目'''玉川 勝太郎'''([[1933年]][[5月20日]] - [[2000年]][[10月4日]])本名は石渡 栄太郎(2代目の娘婿)。 |
3代目'''玉川 勝太郎'''([[1933年]][[5月20日]] - [[2000年]][[10月4日]])本名は石渡 栄太郎(2代目の娘婿)。 |
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東京・日本橋生まれ。[[1947年]]に[[わかの浦孤舟]]に入門し<ref>「実録 浪曲史」P.323</ref>、翌年[[玉川勝太郎#2代目|2代目玉川勝太郎]]門下に移り、「桜丸」から初代[[玉川福太郎|福太郎]]を名乗る<ref>[ |
東京・日本橋生まれ。[[1947年]]に[[わかの浦孤舟]]に入門し<ref>「実録 浪曲史」P.323</ref>、翌年[[玉川勝太郎#2代目|2代目玉川勝太郎]]門下に移り、「桜丸」から初代[[玉川福太郎|福太郎]]を名乗る<ref>[https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/plays/search_each.do;jsessionid=2BA9EDB1886B59D1594BB7A6E426D68B?division=plays&rid=2001923&ititle=%E7%8E%89%E5%B7%9D+%E6%A1%9C%E4%B8%B8&trace=result&istart=all&iselect=%E3%81%9F&ikana=%E3%81%9F%E3%81%BE%E3%81%8C%E3%82%8F+%E3%81%95%E3%81%8F%E3%82%89%E3%81%BE%E3%82%8B&class=buyo_hogaku&pid=3&type=person 文化デジタルライブラリー 人物履歴]</ref>。[[1964年]]に3代目勝太郎を襲名し、玉川一門のお家芸とも言える任侠物を継承。浪曲不振の時代にあって、日本テレビ「[[お昼のワイドショー]]」にて市井の人物の半生を取り上げ浪曲化するコーナー「人間シリーズ」を担当するなど、現代性を足した持ち味であった。[[1989年]]に[[芸術祭 (文化庁)|文化庁芸術祭賞]]受賞。[[1994年]]には[[日本浪曲協会]]会長<ref>{{Cite web|和書|url=https://rokyoku.or.jp/about/successive/ |title=歴代会長紹介 |publisher=日本浪曲協会 |date= |accessdate=2022-05-07}}</ref>。2000年に[[肝臓癌]]で死去。{{没年齢|1933|5|20|2000|10|4}}。 |
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=== 主な弟子 === |
=== 主な弟子 === |
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*[[玉川カルテット# |
*[[玉川カルテット#構成員|玉川ゆたか(玉川カルテット初代リーダー)]] |
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*[[イエス玉川]] |
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*[[玉川福太郎|2代目玉川福太郎]] |
*[[玉川福太郎|2代目玉川福太郎]] |
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2023年11月28日 (火) 05:06時点における最新版
初代[編集]
初代 | |
本名 | 鈴木 鎌治郎 |
---|---|
生年月日 | 1881年3月10日 |
没年月日 | 1926年6月24日(45歳没) |
出身地 | 日本・東京府東京市本所区 |
師匠 | 青木昇 |
弟子 | 小金井太郎 二代目玉川勝太郎 |
名跡 | 1. 青木勝太郎 2. 初代玉川勝太郎 |
玉川 勝太郎(1881年3月10日 - 1926年6月24日)本名は鈴木鎌治郎[注 1]。
東京府東京市本所区(現在の東京都墨田区)の生まれ。青木昇の弟子で、故あって青木勝太郎から玉川勝太郎となった。小音ながら新内調の節で、「越後伝吉」や「天保水滸伝」など侠客物を得意にし、「玉川勝太郎の浪花節を有するは実に東京の誇りなり」(樋口罔象もうしょう による賛辞)とまで讃えられる。向島言問に寄席「玉川亭」を経営するが失敗し、喉を痛めて千葉県市川に隠棲する。
主な弟子[編集]
2代目[編集]
2代目 | |
巨漢のエピソードが残る。 | |
本名 | |
---|---|
生年月日 | 1896年5月1日 |
没年月日 | 1969年8月13日(73歳没) |
出身地 | 日本・東京府東京市牛込区 |
師匠 | 初代玉川勝太郎 |
配偶者 | 玉川花江 |
2代目玉川 勝太郎(1896年5月1日 - 1969年8月13日)本名は石渡 金久。
東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区)の生まれ。浪曲好きの父の影響で、17歳で初代に入門し玉川次郎、兄弟子の玉川太郎とともに「玉川の両翼」と称される。はじめ治郎、のち次郎で真打。剃髪して袈裟姿で「玉川教風」を号したのち、次郎に戻り1932年に2代目勝太郎を襲名[1]。師匠譲りの関東節で任侠物を磨き上げ、「天保水滸伝」「清水次郎長伝」「国定忠治」などを十八番にした。中でも「天保水滸伝」の外題付け「〽利根の川風、袂に入れて…」(正岡容作)の名調子は、レコードに吹き込まれて一世を風靡した。のちに勝太郎は正岡について「このネタは僕のものだが歌詞は彼がすっかり変えて、ご存知のような名文になった」「蔵が建った(それほどではないが…)現在の僕にしてくれたのは正岡容なのだから」と述べている[2]。一方の正岡も勝太郎を評して「五月の大利根を見るような洋々たる節調」「豪放な中に一抹のセンチメンタリズムが加味されるにいたった」と述べている[3]。その長く尾をひいて歌う哀調の節は、勝太郎が自宅で飼っていたローラーカナリアの鳴き声にヒントを得て作られたものである[4][5]。
1964年の帝国劇場で娘婿の福太郎に勝太郎を譲って「玉川勝翁」を名乗り引退、新作にも挑戦した。極度の近視、かつ巨躯で、数々の逸話がある。1969年に脳軟化症で死去。
主な弟子[編集]
映画出演[編集]
レコード[編集]
41.47.48.49.55.58.71.
3代目[編集]
3代目 | |
本名 | |
---|---|
生年月日 | 1933年5月20日 |
没年月日 | 2000年10月4日(67歳没) |
出身地 | 日本・東京府東京市日本橋区 |
師匠 | 2代目玉川勝太郎 |
活動期間 | 1947年 - 2000年 |
所属 | 日本浪曲協会 |
備考 | |
日本浪曲協会会長(1994年 - 1995年) | |
3代目玉川 勝太郎(1933年5月20日 - 2000年10月4日)本名は石渡 栄太郎(2代目の娘婿)。
東京・日本橋生まれ。1947年にわかの浦孤舟に入門し[9]、翌年2代目玉川勝太郎門下に移り、「桜丸」から初代福太郎を名乗る[10]。1964年に3代目勝太郎を襲名し、玉川一門のお家芸とも言える任侠物を継承。浪曲不振の時代にあって、日本テレビ「お昼のワイドショー」にて市井の人物の半生を取り上げ浪曲化するコーナー「人間シリーズ」を担当するなど、現代性を足した持ち味であった。1989年に文化庁芸術祭賞受賞。1994年には日本浪曲協会会長[11]。2000年に肝臓癌で死去。67歳没。
主な弟子[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 勝木青太郎、との記述(安斎:浪曲事典)あるが、誤り