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'''樋口 弘'''(ひぐち ひろし、[[1947年]][[1月20日]]-)は[[日本中央競馬会]] (JRA) に所属した[[騎手]][[調教助手]]。[[神奈川県]]出身
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'''樋口 弘'''(ひぐち ひろし、[[1947年]][[1月20日]] - )は[[神奈川県]]出身の元[[騎手]][[調教助手]]。子息の喬啓もJRA調教助手


== 経歴 ==
== 経歴 ==
1947年神奈川県生まれ。[[1962年]]に[[馬事公苑]]騎手養成長期課程を受け、[[1964年]]3月に勝又忠厩舎にて騎手見習となり、[[1965年]]に同厩舎所属騎手としてデビュー。初年度10勝ながら年には19勝3年目25勝と成績が良くなり、アラブ王冠にて初重賞制覇するなど、関東の若手騎手として頭角を現した。この間、勝又厩舎から[[蛯名武五郎]]厩舎移籍したが、師匠の急死により[[藤本冨良]]厩舎、さらに[[古山良司]]厩舎へ移籍した。
[[1962年]]に[[馬事公苑]]騎手養成長期課程を受け、[[1964年]][[3月]][[東京競馬場|東京]]・勝又忠厩舎にて騎手見習となり、[[1965年]]に同厩舎所属としてデビュー。[[3月6日]]の東京第5競走4歳以上30万下・ダイニシンエイ(7頭中5着)で初騎乗を果たし、[[4月29日]]の東京第3競走4歳未勝利・シントネオーで初勝利を挙げる。初年度から2桁の10勝をマークし2目の[[1966年]]には25勝(平地19勝, 障害6勝)を記録。3年目の[[1967年]]から平地の騎乗に専念し始め勝又厩舎から[[蛯名武五郎]]厩舎に移籍。[[アラブ王冠 (中央競馬)|アラブ王冠(秋)]]で蛯名厩舎のタイセイユウ騎乗し、重賞制覇関東の若手騎手として頭角を現し、[[1968年]]には自己最多の43を挙げて自己最高の全国12位にランクイン。[[1970年]]に師匠の急死により[[藤本冨良]]厩舎、さらに[[1972年]]には[[古山良司]]厩舎へ移籍。同年は[[京成杯オータムハンデキャップ|京王杯AH]]・[[トーヨーアサヒ]]で4年ぶりの重賞勝ちを決めたほか、[[7月]]の[[ラジオNIKKEI賞|日本短波賞]]からコンビを組んでいた[[タカイホーマ]]で[[クイーンステークス|クイーンS]]を制す。[[1973年]][[1月]]に交通事故を起こ、同年[[2月1日]]付けで樋口自ら騎手免許を返上し、いっん引退


[[1978年]]には騎手への復帰が認められて[[3月1日]]付で復帰したが、以前の関東ではなく、[[栗東トレーニングセンター|栗東]]・日迫良一厩舎に所属。その後すぐに[[柳田次男]]厩舎に移籍し、同年の[[有馬記念]]では、[[エリモジョージ]]に騎乗する[[福永洋一]]から乗り替わった[[インターグロリア]]で2着に入る。[[1981年]]には[[宝塚記念]]・[[カツアール]]で[[競馬の競走格付け|GI]]級レース初制覇を果たし、[[1984年]]には[[エリザベス女王杯]]を[[サラブレッド系種|サラ系]]の[[キョウワサンダー]]で制す。当日は14番人気と全く人気は無かったが、最後方から一気の追い込みで[[キクノペガサス]]以下をアタマ差で差しきり優勝、GI初制覇に導いた。
しかし、[[1973年]]1月に交通事故を起こし、[[2月1日]]付けで騎手免許を返上した。


[[1985年]]からはフリーとなるが、[[1989年]]より[[中尾正]]厩舎に所属し、[[1990年]]の[[小倉大賞典]]・ミスターヤマノが最後の重賞制覇となる。小倉大賞典では実力馬[[ラッキーゲラン]]や後にGIIを2勝する[[オースミシャダイ]]を下し、2着馬に8馬身もの差をつけて鮮やかに栄冠をものにした<ref name="ミスターヤマノ">[https://uma-furusato.com/column/53414.html ミスターヤマノを訪ねて~高橋啓牧場 | 馬産地コラム | 競走馬の ふるさと案内所]</ref>。[[アンバーシャダイ]]産駒として最初に重賞を制した馬であり、長きにわたって頼れる内国産種牡馬として活躍したアンバーシャダイの評価を真っ先に高めた一頭となった<ref name="ミスターヤマノ" />。
[[1978年]]、騎手への復帰が認められて[[3月1日]]付で復帰したが、以前の関東ではなく、栗東の[[日迫良一]]厩舎に所属した。


[[1992年]]の[[阪神ジュベナイルフィリーズ|阪神3歳牝馬S]]・プランタンバンブーが最後のGI騎乗、[[1993年]]の[[毎日杯]]・マルブツハヤブサが最後の重賞騎乗となった。同年[[6月27日]]の[[京都競馬場|京都]]第7競走4歳以上500万下・アイリスバンブーが最後の勝利となり、[[11月28日]]の京都第12競走4歳以上900万下・ビッグジョージ(9頭中8着)を最後に騎乗が無くなると、[[1995年]][[2月28日]]付で現役を引退。
その後すぐに[[柳田次男]]厩舎に転厩、同年の[[有馬記念]]では、[[エリモジョージ]]に騎乗する[[福永洋一]]から乗り代わった[[インターグロリア]]で2着に入ると、[[1981年]]には[[宝塚記念]]を[[カツアール]]で制覇した。その後も、年間の勝ち鞍は20勝前後ながら、[[1984年]]には[[エリザベス女王杯]]を[[キョウワサンダー]]で勝利し、G1競走制覇を果たした。


その後、一時期フリーとなった後、[[1989年]]より[[中尾正]]厩舎に所属して、引き続き騎乗を続けていたが、[[1995年]][[2月28日]]付で騎手を引退して中尾正厩舎所属の調教助手となった。
引退後は中尾正厩舎の調教助手となった。


== 騎手通算成績 ==
[[スダホーク]]にも同馬の現役最晩年の1度のみ騎乗していた。

== 成績 ==
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!平地
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*初騎乗 1965年3月6日 2回東京5日目第5レース ダイニシンエイ(5着)
*初勝利 1965年4月29日 3回東京1日目第3レース シントネオー(18戦目)
*全国最高12位(1968年・43勝)
*重賞競走11勝(うちGI級競走2勝)


=== 重賞勝利 ===
=== 主な騎乗馬 ===
※'''太字'''はGIレース。
* タイセイユウ([[アラブ王冠|アラブ王冠・秋]])
* タイセイユウ([[1967年]][[アラブ王冠 (中央競馬)|アラブ王冠・秋]])
* [[ライトワールド]]([[京成杯]])
* [[トーヨーアサヒ]]([[京成杯オータムハンデキャップ|京王杯オータムハンデキャップ]])
* ライトワールド([[1968年]][[京成杯]])
* [[トーヨーアサヒ]]([[1972年]][[京成杯オータムハンデキャップ|京王杯オータムハンデキャップ]])
* [[タカイホーマ]][[クイーンステークス]])
* [[タカイホーマ]](1972年[[クイーンステークス]])
* [[インターグロリア]]([[京都牝馬ステークス|京都牝馬特別]])
* [[インターグロリア]]([[1979年]][[京都牝馬ステークス|京都牝馬特別]])
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* [[カツアール]](1981年'''[[宝塚記念]]'''
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* オーゴンタケル(1984年[[小倉記念]])
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* キョウワシンザン([[1985年]][[小倉2歳ステークス|小倉3歳ステークス]])
* [[ダイナカンパリー]]([[ラジオNIKKEI杯2歳ステークス|ラジオたんぱ杯3歳牝馬ステークス]])
* ダイナカンパリー(1985年[[ホープフルステークス (中央競馬)|ラジオたんぱ杯3歳牝馬ステークス]])
* [[ミスターヤマノ]][[小倉大賞典]])
* ミスターヤマノ([[1990年]][[小倉大賞典]])
;その他
* [[スダホーク]]
* [[イブキマイカグラ]]


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*『中央競馬年鑑』(昭和40年平成7年版)(日本中央競馬会)
*『中央競馬年鑑』(昭和40年 - 平成7年版)(日本中央競馬会)

== 脚注 ==
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[[Category:神奈川県出身の人物]]
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樋口弘
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 神奈川県
生年月日 (1947-01-20) 1947年1月20日(77歳)
騎手情報
所属団体 日本中央競馬会(JRA)
所属厩舎 東京・勝又忠(1965 - 1967)
東京・蛯名武五郎(1967 - 1970)
東京・藤本冨良(1970 - 1972)
東京・古山良司(1972 - 1973)
栗東・日迫良一(1978)
栗東・柳田次男(1978 - 1985)
栗東・フリー(1985 - 1989)
栗東・中尾正(1989 - 1994)
初免許年 1965年3月6日
免許区分 平地(初期には障害の免許も保持)
騎手引退日 1995年2月28日
重賞勝利 11勝
G1級勝利 2勝
通算勝利 395勝
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樋口 弘(ひぐち ひろし、1947年1月20日 - )は、神奈川県出身の元騎手調教助手。子息の喬啓もJRA調教助手。

経歴

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1962年馬事公苑騎手養成長期課程を受け、1964年3月東京・勝又忠厩舎にて騎手見習となり、1965年に同厩舎所属としてデビュー。3月6日の東京第5競走4歳以上30万下・ダイニシンエイ(7頭中5着)で初騎乗を果たし、4月29日の東京第3競走4歳未勝利・シントネオーで初勝利を挙げる。初年度から2桁の10勝をマークし、2年目の1966年には25勝(平地19勝, 障害6勝)を記録。3年目の1967年からは平地の騎乗に専念し始め、勝又厩舎から蛯名武五郎厩舎に移籍。アラブ王冠(秋)で蛯名厩舎のタイセイユウに騎乗し、重賞初制覇。関東の若手騎手として頭角を現し、1968年には自己最多の43勝を挙げて自己最高の全国12位にランクイン。1970年には師匠の急死により藤本冨良厩舎、さらに1972年には古山良司厩舎へ移籍。同年は京王杯AHトーヨーアサヒで4年ぶりの重賞勝ちを決めたほか、7月日本短波賞からコンビを組んでいたタカイホーマクイーンSを制す。1973年1月に交通事故を起こし、同年2月1日付けで樋口自ら騎手免許を返上し、いったん引退。

1978年には騎手への復帰が認められて3月1日付で復帰したが、以前の関東ではなく、栗東・日迫良一厩舎に所属。その後すぐに柳田次男厩舎に移籍し、同年の有馬記念では、エリモジョージに騎乗する福永洋一から乗り替わったインターグロリアで2着に入る。1981年には宝塚記念カツアールGI級レース初制覇を果たし、1984年にはエリザベス女王杯サラ系キョウワサンダーで制す。当日は14番人気と全く人気は無かったが、最後方から一気の追い込みでキクノペガサス以下をアタマ差で差しきり優勝、GI初制覇に導いた。

1985年からはフリーとなるが、1989年より中尾正厩舎に所属し、1990年小倉大賞典・ミスターヤマノが最後の重賞制覇となる。小倉大賞典では実力馬ラッキーゲランや後にGIIを2勝するオースミシャダイを下し、2着馬に8馬身もの差をつけて鮮やかに栄冠をものにした[1]アンバーシャダイ産駒として最初に重賞を制した馬であり、長きにわたって頼れる内国産種牡馬として活躍したアンバーシャダイの評価を真っ先に高めた一頭となった[1]

1992年阪神3歳牝馬S・プランタンバンブーが最後のGI騎乗、1993年毎日杯・マルブツハヤブサが最後の重賞騎乗となった。同年6月27日京都第7競走4歳以上500万下・アイリスバンブーが最後の勝利となり、11月28日の京都第12競走4歳以上900万下・ビッグジョージ(9頭中8着)を最後に騎乗が無くなると、1995年2月28日付で現役を引退。

引退後は中尾正厩舎の調教助手となった。

騎手通算成績

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通算成績 1着 2着 3着 4着以下 騎乗回数 勝率 連対率
平地 389 342 368 2,366 3,765 .103 .194
障害 6 4 5 20 35 .171 .286
395 346 373 2,386 3,800 .104 .195

主な騎乗馬

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太字はGIレース。

その他

参考文献

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  • 『中央競馬年鑑』(昭和40年 - 平成7年版)(日本中央競馬会)

脚注

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