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'''藤田 健'''(ふじた けん、[[1979年]][[8月27日]] - )は、[[静岡県]][[浜松市]]出身の元[[サッカー選手]]。金髪とヒゲがトレドマークである
'''藤田 健'''(ふじた けん、[[1979年]][[8月27日]] - )は、[[静岡県]][[浜松市]]出身の元[[サッカー選手]]、サッカ指導者


== プロフィール ==
== 経歴 ==
[[1998年]]に[[河村崇大]]らと共に磐田ユースから昇格(ただしプロではなくアマチュア登録)。わずか数ヶ月で「進路変更のため」退団。その後ブラジルへ留学、元磐田の先輩である[[鈴木将方]]の所属する浜松のフットサルクラブでのプレーを経て、[[2000年]]オフに甲府のセレクションに合格し、プロサッカー選手となった
小学生時代からテクニシャンとして知られ、幼少期には、藤田のプレーを見た[[小野伸二]]がサッカーを止めようとした、というエピソードを持つ。


当初はサイドバックなどでプレーしていたが、次第に[[倉貫一毅]]と共に甲府の上位に貢献した。2002年から10番を着用、2010年のシーズンを最後に戦力外通告。
[[1998年]]に[[河村崇大]]らと共に磐田ユースから昇格(ただしプロではなくアマチュア登録)したしかしわずか数ヶ月で「進路変更のため」退団する。その後ブラジルへ留学したり、元磐田の先輩である[[鈴木将方]]の所属する浜松のフットサルクラブでのプレーを経て、[[2000年]]オフに甲府のセレクションに合格し、プロサッカー選手とな

当初は器用さからサイドバックなどでプレーしていたこともあったが、次第に[[倉貫一毅]]と共に多彩な甲府の攻撃を支える司令塔として目されるようになり、甲府の躍進に貢献する。2002年からエースナンバーである10番を着用し続けるなど甲府の顔として君臨し続けてきたが、2010年のシーズンを最後に戦力外通告を受けた


2011年、[[リーガ・インドネシア]]のトップ・リーグ、インドネシア・スーパーリーグの[[スリウィジャヤFC]]のテストに参加していたが、契約には至らなかった<ref>[http://d.hatena.ne.jp/rahmat/20111231/1325343122 スリウィジャヤFC、日本人を含むセレクション2選手と契約を結ばず]</ref>。
2011年、[[リーガ・インドネシア]]のトップ・リーグ、インドネシア・スーパーリーグの[[スリウィジャヤFC]]のテストに参加していたが、契約には至らなかった<ref>[http://d.hatena.ne.jp/rahmat/20111231/1325343122 スリウィジャヤFC、日本人を含むセレクション2選手と契約を結ばず]</ref>。


2012年、[[エストニア]]・[[メスタリリーガ]]の[[JKタリナ・カレフ]]に加入。その後同クラブを退団し、11月から[[コンサドーレ札幌]]に練習参加するも契約には至らなかった<ref>[http://www.nikkansports.com/soccer/news/f-sc-tp1-20121113-1046422.html 【札幌】元甲府藤田、福岡オが練習参加]</ref>。
2012年、[[エストニア]]・[[メスタリリーガ]]の[[JKタリナ・カレフ]]に加入。その後同クラブを退団し、11月から[[北海道コンサドーレ札幌|コンサドーレ札幌]]に練習参加するも契約には至らなかった<ref>[https://www.nikkansports.com/soccer/news/f-sc-tp1-20121113-1046422.html 【札幌】元甲府藤田、福岡オが練習参加]</ref>。

== 特徴・評価 ==
小柄だが背筋を伸ばし狙い済ましたパスを送り前線を操る。すばしっこさもある。また本人が「利き脚は両足」と言うほどで、実際左右どちらの脚も同じように使え、フリーキックもどちらの脚からでも繰り出す。これは甲府の強力な武器になっている。足のサイズは「24.5cm」しかない。その小柄な体格のためか接触プレーには滅法弱い。近年は運動量の多さを生かしてDFラインのカバーに回るなど守備面での貢献度が高くなっている。

足首に爆弾を抱えており、ベストコンディションで出場できる試合は稀である。藤田に代わりうる選手がいないことから怪我をおして出場せざるを得ない状況であったが、[[2008年]]のシーズン後にようやく手術を受けている。

素質は生粋の天才肌で歴代の監督も「天才」と認め、代表中心選手よりも技術があると言われている。


その後現役引退を発表、山梨県でサッカースクールの指導者として活動していたが<ref>[http://fortuna98.co.jp/ フォルトゥナサッカークラブ]</ref>、2020年より[[岐阜県社会人サッカーリーグ]]1部の[[FC大垣KOGANS|FC大垣K']]で現役復帰。
J1の優勝チームや海外からのオファーもあったが、本人は「細く長く」を希望しチームに長く在籍していた。


2021年、[[東海社会人サッカーリーグ]]2部の[[FC.Bombonera]]に移籍<ref>{{Cite web|和書|title=選手|fcbombonera|url=https://fcbombonera.jp/playerandstaff|website=fcbombonera|accessdate=2021-05-21|language=ja|last=fcbombonera}}</ref>。2022年からは監督を務める<ref>{{Cite web|和書|title=https://twitter.com/fcbombonera2022/status/1485895194021367810 |url=https://twitter.com/fcbombonera2022/status/1485895194021367810 |website=Twitter |access-date=2022-04-23 |language=ja}}</ref>。
== エピソード ==
* 2008年度シーズンから2010年度シーズンまで「FKシート」として山梨県の父子家庭をAA席に招待している。
* 甲府時代は坊主+ヒゲのスタイルがトレードマークで、10年近く風貌が変わっていなかったが、JKタリナ・カレフでの選手紹介では髪が伸びている。
* チームメイトの[[吉田豊 (サッカー選手)|吉田豊]]、[[井澤惇]]と共に「藤田組」を結成し、周囲からは「社長」又は「ドン」と呼ばれていた。その後[[片桐淳至]]、[[ハーフナー・マイク]]も組員となり藤田に認められた選手が甲府の主力選手となり飛躍していた。
* 2008年11月からオフィシャル[[ブログ]]を開始したが、現在まで全く更新されていない。
* 2010年も夏場の8月を除いてはほぼフル出場状態であったが、シーズン最終節前に戦力外通告を受けたことが報道され、その後クラブから正式に発表された。戦力外の理由として年齢による衰えや以前から遅刻癖があるなど普段の態度に問題があると判断されたためであるが、経営危機時から甲府の司令塔としてチームを引っ張ってきた功労者の藤田を戦力外にしたことはサポーターにとって衝撃的であり、その後戦力外の撤回を求める署名が1万7,000人分集まりクラブに提出された。


== 所属クラブ ==
== 所属クラブ ==
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* 1986年 - 1991年 [[浜松市立広沢小学校]]
* 1986年 - 1991年 [[浜松市立広沢小学校]]
* 1992年 - 1994年 [[浜松市立中部中学校]]
* 1992年 - 1994年 [[浜松市立中部中学校]]
* 1995年 - 1997年 ジュビロ磐田ユース
* 1995年 - 1997年 ジュビロ磐田ユース([[静岡県立磐田農業高等学校]])
;プロ経歴
;プロ経歴
* 1998年 {{flagicon|JPN}} [[ジュビロ磐田]]
* 1998年 {{flagicon|JPN}} [[ジュビロ磐田]]
* 2001年 - 2010年 {{flagicon|JPN}} [[ヴァンフォーレ甲府]]
* 2001年 - 2010年 {{flagicon|JPN}} [[ヴァンフォーレ甲府]]
* 2012年 {{flagicon|EST}} [[JKタリナ・カレフ]]
* 2012年 {{flagicon|EST}} [[JKタリナ・カレフ]]
*2020年 {{flagicon|JPN}} [[FC大垣KOGANS|FC大垣K']]
*2021年 {{flagicon|JPN}} [[FC.Bombonera]]


== 個人成績 ==
== 個人成績 ==
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* 2005年 [[J1・J2入れ替え戦]](対[[柏レイソル]]戦):2試合0得点
* 2005年 [[J1・J2入れ替え戦]](対[[柏レイソル]]戦):2試合0得点



== 経歴 ==
*Jリーグ初出場 - [[2001年]][[3月17日]] J2 第2節 対[[湘南ベルマーレ]]戦 ([[山梨県小瀬スポーツ公園陸上競技場|小瀬]])
*Jリーグ初出場 - [[2001年]][[3月17日]] J2 第2節 対[[湘南ベルマーレ]]戦 ([[山梨県小瀬スポーツ公園陸上競技場|小瀬]])
*Jリーグ初得点 - 2001年[[4月4日]] J2 第6節 対[[水戸ホーリーホック]]戦 (小瀬)
*Jリーグ初得点 - 2001年[[4月4日]] J2 第6節 対[[水戸ホーリーホック]]戦 (小瀬)
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<references/>
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==外部リンク==
== 外部リンク ==
*{{Sports links}}
*[http://www.jkkalev.ee/meeskond/id/22/voistkond_id/1/mangija_id/165/ Mehed, JK Tallinna Kalev Ken Fujita poolkaitsja]
*[http://www.jkkalev.ee/meeskond/id/22/voistkond_id/1/mangija_id/165/ Mehed, JK Tallinna Kalev Ken Fujita poolkaitsja]


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2023年12月2日 (土) 00:24時点における最新版

藤田 健
名前
カタカナ フジタ ケン
ラテン文字 FUJITA Ken
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1979-08-27) 1979年8月27日(45歳)
出身地 静岡県浜松市
身長 167cm
体重 58kg
選手情報
ポジション MF
利き足 両足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1998
2001-2010
2012
2020
2021
日本の旗 ジュビロ磐田
日本の旗 ヴァンフォーレ甲府
エストニアの旗 JKタリナ・カレフ
日本の旗 FC大垣K'
日本の旗 FC.Bombonera
0 (0)
354 (41)
1. 国内リーグ戦に限る。2021年5月22日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

藤田 健(ふじた けん、1979年8月27日 - )は、静岡県浜松市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。

経歴

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1998年河村崇大らと共に磐田ユースから昇格(ただしプロではなくアマチュア登録)。わずか数ヶ月で「進路変更のため」退団。その後ブラジルへ留学、元磐田の先輩である鈴木将方の所属する浜松のフットサルクラブでのプレーを経て、2000年オフに甲府のセレクションに合格し、プロサッカー選手となった。

当初はサイドバックなどでプレーしていたが、次第に倉貫一毅らと共に甲府の上位進出に貢献した。2002年から10番を着用、2010年のシーズンを最後に戦力外通告。

2011年、リーガ・インドネシアのトップ・リーグ、インドネシア・スーパーリーグのスリウィジャヤFCのテストに参加していたが、契約には至らなかった[1]

2012年、エストニアメスタリリーガJKタリナ・カレフに加入。その後同クラブを退団し、11月からコンサドーレ札幌に練習参加するも契約には至らなかった[2]

その後現役引退を発表、山梨県でサッカースクールの指導者として活動していたが[3]、2020年より岐阜県社会人サッカーリーグ1部のFC大垣K'で現役復帰。

2021年、東海社会人サッカーリーグ2部のFC.Bomboneraに移籍[4]。2022年からは監督を務める[5]

所属クラブ

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ユース経歴
プロ経歴

個人成績

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国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1998 磐田 35 J 0 0 0 0 0 0 0 0
2001 甲府 9 J2 35 4 2 0 3 0 40 4
2002 10 33 5 - 2 0 35 5
2003 39 9 - 1 0 40 9
2004 28 2 - 1 0 29 2
2005 41 10 - 2 0 43 10
2006 J1 26 2 1 0 3 1 30 3
2007 32 2 7 0 1 0 40 2
2008 J2 38 3 - 1 0 39 3
2009 50 2 - 2 0 52 2
2010 32 2 - 1 0 33 2
エストニア リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
2012 タリナカレフ メスタリリーガ
通算 日本 J1 58 4 8 0 4 1 70 5
日本 J2 296 37 2 0 11 0 309 37
エストニア メスタリリーガ
総通算 354 41 10 0 15 1 379 42

その他の公式戦


脚注

[編集]
  1. ^ スリウィジャヤFC、日本人を含むセレクション2選手と契約を結ばず
  2. ^ 【札幌】元甲府藤田、福岡オが練習参加
  3. ^ フォルトゥナサッカークラブ
  4. ^ fcbombonera. “選手|fcbombonera”. fcbombonera. 2021年5月21日閲覧。
  5. ^ https://twitter.com/fcbombonera2022/status/1485895194021367810”. Twitter. 2022年4月23日閲覧。

外部リンク

[編集]