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{{出典の明記|date=2012年2月|ソートキー=しゆうとしたんついひ世界史}}
{{Otheruseslist|'''[[戦間期]]から[[第二次世界大戦]]初期までに存在した自由都市'''|[[ナポレオン戦争]]期に設立された自由都市|自由都市ダンツィヒ (ナポレオン時代)}}{{出典の明記|date=2012年2月|ソートキー=しゆうとしたんついひ世界史}}
'''自由都市ダンツィヒ'''(じゆうとしダンツィヒ、{{lang-de|'''Freie Stadt Danzig'''}}、{{lang-pl|'''Wolne Miasto Gdańsk'''}})は、現在の[[グダニスク]](ドツ名ダンツィヒ)[[ポーラン国|ポーランド]](お[[プロイセン連合]])時代、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]時代、[[戦間期|両大戦間期]]の3度わたり存在した都市国家である。'''ダンツィヒ自由都市'''や'''ダンツィヒ自由市'''とも表記される。

自由都市ダンツィヒとその周辺の街や村の主な居住者は、[[ドイツ民族]]であった。

== ダンツィヒの独立 ==
[[プロイセン連合]]は、[[ドイツ騎士団国家]][[プロイセン]]に対抗して独立。ダンツィヒのあるプロイセン西部は[[ポーランド王領プロシア]]となる。

1569年、ポーランド王領プロシアの[[等族国家]]は、[[ポーランド・リトアニア共和国]]との併合に同意。

1806年、プロシアはナポレオンに征服される。

== ナポレオン時代のダンツィヒ(1807年 - 1815年) ==
{{see also|en:Free City of Danzig (Napoleonic)}}
{{基礎情報 過去の国
|日本語国名 = 自由都市ダンツィヒ
|公式国名 = {{lang-fr|Ville Libre de Dantzig}}
|建国時期 = 1807年
|亡国時期 = 1815年
|先代1 = プロイセン王国
|先旗1 = Flagge Preußen - Provinz Westpreußen.svg
|次代1 = プロイセン王国
|次旗1 = Flagge Preußen - Provinz Westpreußen.svg
|国旗画像 = Gdansk flag.svg
|国章画像 = Gdansk COA.svg
|位置画像 = Free City of Danzig (1812).svg
|首都 = [[グダニスク|ダンツィヒ]]
|変遷1 = 設立
|変遷年月日1 = [[1807年]][[9月9日]]
|変遷2 = プロイセン王国に併合
|変遷年月日2 = [[1813年]][[1月22日]]
}}
[[ファイル:Duchy of Warsaw and Republic of Danzig.JPG|thumb|left|250px|[[19世紀]]の[[地図]]、自由都市ダンツィヒ(バルト海添いの黄色の小さな地域)と[[ワルシャワ公国]](南の広い地域)]]
最初の'''自由都市ダンツィヒ'''('''ダンツィヒ共和国'''の名が用いられることもある)は、[[ナポレオン戦争]]中の[[1807年]][[9月9日]]に[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]により設立された半独立の州である。その領土は[[プロイセン王国]]の一部とされ、農業が盛んな[[ヴィスワ川]]河口と、[[ヘル半島]]、ヴィスワ岬の南半分にあるダンツィヒの都市で構成されていた。

やがてナポレオンがロシア遠征で敗退した後、ロシア帝国軍の攻撃に晒され、フランス軍も撤退した。この州は[[1814年]]に占領され終わりを迎えた。

[[1815年]]の[[ウィーン会議]]の後、ダンツィヒは再度プロイセンに併合された。[[西プロイセン]]の州都となったが、それ以前から都市が持っていた自治権は大きく制限された。

== 両大戦間期のダンツィヒ(1920年 - 1939年) ==
{{基礎情報 過去の国
{{基礎情報 過去の国
|略名 = ダンツィヒ
|日本語国名 = 自由都市ダンツィヒ
|日本語国名 = 自由都市ダンツィヒ
|公式国名 = {{lang-de|Freie Stadt Danzig}}<br/>{{lang-pl|Wolne Miasto Gdańsk}}
|公式国名 = {{native name|de|Freie Stadt Danzig|italic=no}}<br/>{{native name|pl|Wolne Miasto Gdańsk|italic=no}}
|建国時期 = 1920年
|建国時期 = [[1920年]]
|亡国時期 = 1939年
|亡国時期 = [[1939年]]
|先代1 = ヴァマル共和政
|先代1 = プロセン自由州
|先旗1 = Flag of Germany (3-2 aspect ratio).svg
|先旗1 = Flag of Prussia (1918–1933).svg
|2 = プロイセン
|1 = ダンツィヒ=ヴェストプロイセン帝国大管区
|先旗2 = Flag of Prussia (1918–1933).svg
|先代3 = 西プロイセン
|先旗3 = Flagge Preußen - Provinz Westpreußen.svg
|次代1 = ナチス・ドイツ
|次旗1 = Flag of German Reich (1935–1945).svg
|次旗1 = Flag of German Reich (1935–1945).svg
|国旗画像 = Flag of the Free City of Danzig.svg
|国旗画像 = Flag of the Free City of Danzig.svg
|国章画像 = Wappen Freie Stadt Danzig.svg
|国章画像 = Wappen Freie Stadt Danzig.svg
|国章幅 = 75
|位置画像 = Free City Danzig 1930.svg
|位置画像 = Free City Danzig 1930.svg
|位置画像説明 = 自由都市ダンツィヒの位置(1930年)
|公用語 = [[ドイツ語]][[ポーランド語]]、[[カシューブ語]]など
|公用語 = [[ドイツ語]]<br />[[ポーランド語]]
|首都 = [[グダニスク|ダンツィヒ]]
|首都 = [[グダニスク|ダンツィヒ]]
|宗教 = 65% [[ルター派]]<br>32% [[カトリック]]{{smaller|(1938年)}}
|元首等肩書 = 高等弁務官
|元首等肩書 = 国際連盟高等弁務官
|元首等年代始1 = 1919年
|元首等年代始1 = 1919年
|元首等年代終1 = 1920年
|元首等年代終1 = 1920年
|元首等氏名1 = [[レジナルド・タワー]](初代)
|元首等氏名1 = {{仮リンク|レジナルド・タワー|de|Reginald Thomas Tower}}{{smaller|(初代)}}
|元首等年代始2 = 1937年
|元首等年代始2 = 1937年
|元首等年代終2 = 1939年
|元首等年代終2 = 1939年
|元首等氏名2 = [[カール・ヤーコプ・ブルクハルト]](最
|元首等氏名2 = [[カール・ヤーコプ・ブルクハルト]]{{smaller|(最}}
|面積測定時期1 = 1928年<ref name="Wagner1929">{{cite book|last=Wagner|first=Richard|year=1929|title=Die Freie Stadt Danzig|series=Taschenbuch des Grenz- und Auslanddeutschtums|language=de|edition= 2., Auflage / |location=Berlin|publisher=Deutscher Schutzbund Verlag|page=3}}</ref>
|面積測定時期1 =
|面積値1 = 1,966
|面積値1 = 1,952
|人口測定時期1 = [[1919年]]
|人口測定時期1 = 1919年
|人口値1 = 357,000
|人口値1 = 357,000
|人口測定時期2 = 1923年<ref name="Mason 1946">{{cite book| last = Mason| first = John Brown| title = The Danzig Dilemma, A Study in Peacemaking by Compromise| url = https://books.google.com/books?id=ORWrAAAAIAAJ| access-date = 2011-04-26| year = 1946| publisher = Stanford University Press| isbn = 978-0-8047-2444-9| page = <!--5, 11--> }}</ref>{{rp|11}}
|人口測定時期2 = [[1923年]]
|人口値2 = 366,730
|人口値2 = 366,730
|人口測定時期3 = [[1933年]]
|人口測定時期3 = 1933年
|人口値3 = 407,517
|人口値3 = 407,517
|変遷1 = ヴェルサイユ条約発効
|変遷1 = ヴェルサイユ条約発効
|変遷年月日1 = [[1920年]][[1月20日]]
|変遷年月日1 = 1920年1月20日
|変遷2 = 成立
|変遷2 = 成立
|変遷年月日2 = 1920年[[11月15日]]
|変遷年月日2 = 1920年11月15日
|変遷3 = ドイツのポーランド侵攻開始
|変遷3 = [[ポーランド侵攻]]
|変遷年月日3 = [[1939年]][[9月1日]]
|変遷年月日3 = 1939年9月1日
|変遷4 = ドイツに併合
|変遷4 = [[ナチス・ドイツ|ドイツ]]に併合
|変遷年月日4 = 1939年[[9月2日]]
|変遷年月日4 = 1939年9月2日
|通貨 = [[ダンツィヒ・グルデン]]
|通貨 = [[パピエルマルク]]<br>{{smaller|(1920年 - 1923年)}}<br><br>{{仮リンク|ダンツィヒ・グルデン|en|Danzig gulden}}<br>{{smaller|(1923年 - 1939年)}}
}}
}}

'''自由都市ダンツィヒ'''(じゆうとしダンツィヒ、{{lang-de|'''Freie Stadt Danzig'''}}、{{lang-pl|'''Wolne Miasto Gdańsk'''}})は、[[第一次世界大戦]]後の[[ヴェルサユ条約]]よって[[ドイツ国|ドイツ]]より切り離されてから[[第二次世界大戦]]初期に[[ドイツ国防軍|ドイツ軍]]によって占領されるまでに現在の[[グダニスク]](ドイツ名ダンツィヒ)に存在した都市国家である。'''ダンツィヒ自由都市'''や'''ダンツィヒ自由市'''とも表記される。

ダンツィヒとその周辺は元来は[[スラヴ人|スラヴ民族]]が住んでいた土地だったが、当時の主な居住者は、[[ドイツ民族]]であった。

== 概要 ==
[[ファイル:20 gdanskich guldenow skan.jpeg|thumb|right|250px|ダンツィヒの20[[ダンツィヒ・グルデン]]紙幣]]
[[ファイル:20 gdanskich guldenow skan.jpeg|thumb|right|250px|ダンツィヒの20[[ダンツィヒ・グルデン]]紙幣]]
戦間期におけるダンツィヒの自由都市化は、[[ヴェルサイユ条約]]によって成立した。ヴェルサイユ条約100条から108条はダンツィヒ条項であり、103条はダンツィヒの[[国際連盟]]による保護と独自憲法の制定、6条はダンツィヒとの事前交渉なしにポーランドの如何なる国際条約の締結を禁じる制定などが定められた。
[[戦間期]]におけるダンツィヒの自由都市化は、[[ヴェルサイユ条約]]によって成立した。ヴェルサイユ条約100条から108条はダンツィヒ関連条項であり、103条はダンツィヒの[[国際連盟]]による保護と独自憲法の制定が定められた。


ヴェルサイユ条約自体は1920年1月20日に発効したが、正式に「自由都市ダンツィヒ」の成立が宣言されたのは、1920年11月15日のことであった{{sfn|川手圭一|2009|pp=74}}。
ヴェルサイユ条約自体は1920年1月20日に発効したが、正式に「自由都市ダンツィヒ」の成立が宣言されたのは、1920年11月15日のことであった{{sfn|川手圭一|2009|pp=74}}。


1920年から1925年の間には、ダンツィヒはポーランド系とロシア系ユダヤ人が北米に移民する中心の場所となり、60,000人がアメリカとカナダへ亡命した。
=== 領土 ===
=== 領土 ===
自由都市ダンツィヒは、ダンツィヒ(グダニスク)の都市部分とツォポット ([[:en:Sopot|Zoppot]])、ティーゲンホーフ ([[:en:Nowy Dwór Gdański|Tiegenhof]])、ノイタイヒ ([[:en:Nowy Staw|Neuteich]]) 等の252の村と63の村落を含んでおり、[[東プロイセン]]に挟まれた地域であった。全面積は1966平方kmであり、領土はナポレオン時代の約2倍の大きさである。
自由都市ダンツィヒは、ダンツィヒ(グダニスク)の都市部分とツォポット ([[:en:Sopot|Zoppot]])、ティーゲンホーフ ([[:en:Nowy Dwór Gdański|Tiegenhof]])、ノイタイヒ ([[:en:Nowy Staw|Neuteich]]) 等の252の村と63の村落を含んでおり、[[東プロイセン]]に挟まれた地域であった。全面積は1966平方kmであり、領土は[[自由都市ダンツィヒ (ナポレオン時代)|ナポレオン時代]]の約2倍の大きさである。


=== 人口 ===
=== 人口 ===
人口は増加し、1919年の357,000人から1929年の408,000人となり、95%は[[ドイツ人]]であった<ref>Mason, John Brown (1946). The Danzig Dilemma, A Study in Peacemaking by Compromise. Stanford University Press. ISBN 978-0-8047-2444-9. Retrieved 2011-04-26.</ref>少数民族[[カシューブ人]]と[[ポーランド人]]。
人口は増加し、1919年の357,000人から1929年の408,000人となり、95%は[[ドイツ人]]であ<ref>Mason, John Brown (1946). The Danzig Dilemma, A Study in Peacemaking by Compromise. Stanford University Press. ISBN 978-0-8047-2444-9. Retrieved 2011-04-26.</ref>少数民族として[[カシューブ人]]と[[ポーランド人]]が存在していた


[[ヴェルサイユ条約]]は、ダンツィヒとそれを囲んでいる村をドイツから切り離したが、新しく形成された州は、在住者に基づく[[公民権]]を持つ必要があった。ドイツ住民は自由都市の形成によりドイツの国籍を失ったが、州の成立の最初の2年間はドイツ国籍を再取得する権利を与えられた。しかしそうした場合、ダンツィヒの外のドイツの領域に住む必要があった。
[[ヴェルサイユ条約]]は、ダンツィヒとそれを囲んでいる村をドイツから切り離したが、新しく形成された州は、在住者に基づく[[公民権]]を持つ必要があった。ドイツ住民は自由都市の形成によりドイツの国籍を失ったが、州の成立の最初の2年間はドイツ国籍を再取得する権利を与えられた。しかしそうした場合、ダンツィヒの外のドイツの領域に住む必要があった。
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=== ポーランド人の権利 ===
=== ポーランド人の権利 ===
[[ファイル:Poczta Polska otwarcie UP Nr 3.jpg|thumb|right|250px|[[1925年]][[1月5日]]のポーランド郵便局の開設]]
[[ファイル:Poczta Polska otwarcie UP Nr 3.jpg|thumb|right|250px|[[1925年]][[1月5日]]のポーランド郵便局の開設]]
自由都市という言葉は、[[ポーランド]]から見て国外にあることを示しており、ポーランドと[[関税同盟]]を結んでいた。ポーランドへ接続されている自由都市の鉄道線はポーランドにより管理されていた。同様に、町の港である[[ヴェステルプラッテ]](Westerplatte、以前の都市の海岸地域)には分離された軍の事務所があり、ポーランドに与えられていた。同様に町には2つの郵便局が存在した。1つは都市の郵便局で、もう1つはポーランドのであった。
自由都市という言葉は、[[ポーランド第二共和国|ポーランド]]から見て国外にあることを示しており、ポーランドと[[関税同盟]]を結んでいた。ポーランドへ接続されている自由都市の鉄道線はポーランドにより管理されていた。同様に、町の港である[[ヴェステルプラッテ]](Westerplatte、以前の都市の海岸地域)には分離された軍の事務所があり、ポーランドに与えられていた。同様に町には2つの郵便局が存在した。1つは都市の郵便局で、もう1つはポーランドのであった。


=== 政治 ===
=== 政治 ===
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ダンツィヒ港はポーランドによる利用が認められていたが、[[ポーランド・ソビエト戦争]]の際、ポーランドの軍需物資積み込みを港湾労働者がボイコットする事件が起きた。ポーランドはダンツィヒにかわって近隣の漁港[[グディニャ]]を整備し、新たな港湾都市として建設を開始し、様々な優遇措置を与えた。このためグディニャとダンツィヒの競合関係が生まれ、ザームはこの問題を国際連盟に提訴している{{sfn|川手圭一|2009|pp=77}}。1930年、ザームが[[ベルリン]]市長となり、後任には参事院の副議長であった{{仮リンク|エルンスト・ツィーム|en|Ernst Ziehm}}が就任した。
ダンツィヒ港はポーランドによる利用が認められていたが、[[ポーランド・ソビエト戦争]]の際、ポーランドの軍需物資積み込みを港湾労働者がボイコットする事件が起きた。ポーランドはダンツィヒにかわって近隣の漁港[[グディニャ]]を整備し、新たな港湾都市として建設を開始し、様々な優遇措置を与えた。このためグディニャとダンツィヒの競合関係が生まれ、ザームはこの問題を国際連盟に提訴している{{sfn|川手圭一|2009|pp=77}}。1930年、ザームが[[ベルリン]]市長となり、後任には参事院の副議長であった{{仮リンク|エルンスト・ツィーム|en|Ernst Ziehm}}が就任した。


[[1933年]]5月、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]は自由都市の選挙で勝利した。しかし、彼らは57%を選挙で得ただけで、ダンツィヒ自由都市の組織を変更するのに必要な2/3([[国際連盟]]によって要求された)には不足していた。政府は[[反ユダヤ]]、反[[カトリック教会|カトリック]]の法を導入した。後者は主に、わずかなポーランド人と[[カシューブ語]]を話す住民に対して厳しいものであった。都市はポーランド内のドイツ人の未成年を、[[自衛団]] (''Selbstschutz'') の指揮の中核となった、ドイツ青年党 (''Jungdeutsche Partei'') やドイツ連合 (''Deutsche Vereinigung'') のような組織に採用することにより、訓練拠点を提供した。チームも市長の座から追われ、ナチ党員の{{仮リンク|ヘルマン・ラウシュニング|en|Hermann Rauschning}}が市長となった。1934年にはダンツィヒにおける[[大管区指導者]]代理であった[[アルトゥール・グライザー]]が新市長となり、[[強制的同一化]]がさらに進められた。
[[1933年]]5月、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]は自由都市の選挙で勝利した。しかし、彼らは57%を選挙で得ただけで、ダンツィヒ自由都市の組織を変更するのに必要な2/3([[国際連盟]]によって要求された)には不足していた。政府は[[反ユダヤ主義|反ユダヤ]]、反[[カトリック教会|カトリック]]の法を導入した。後者は主に、わずかなポーランド人と[[カシューブ語]]を話す住民に対して厳しいものであった。都市はポーランド内のドイツ人の未成年を、[[自衛団]] (''Selbstschutz'') の指揮の中核となった、ドイツ青年党 (''Jungdeutsche Partei'') やドイツ連合 (''Deutsche Vereinigung'') のような組織に採用することにより、訓練拠点を提供した。チームも市長の座から追われ、ナチ党員の{{仮リンク|ヘルマン・ラウシュニング|en|Hermann Rauschning}}が市長となった。1934年にはダンツィヒにおける[[大管区指導者]]代理であった[[アルトゥール・グライザー]]が新市長となり、[[強制的同一化]]がさらに進められた。


===歴代高等弁務官===
===歴代高等弁務官===
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| style="text-align: right; padding: 0 1em;" | 1
| style="text-align: right; padding: 0 1em;" | 1
| レジナルド・タワー
| {{仮リンク|レジナルド・タワー|en|Reginald Tower}}
| 1919–1920
| 1919–1920
| {{flag|イギリス}}
| {{flag|イギリス}}
184行目: 152行目:
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| style="text-align: right; padding: 0 1em;" | 5
| style="text-align: right; padding: 0 1em;" | 5
| {{仮リンク|メルヴィン・マクドネル|de|Mervyn MacDonnell}}
| Mervyn Sorley McDonnell
| 1923–1925
| 1923–1925
| {{flag|イギリス}}
| {{flag|イギリス}}
|-
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| style="text-align: right; padding: 0 1em;" | 6
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| Joost Adriaan van Hamel
| {{仮リンク|ヨースト・アドリアーン・ヴァン・ハメル|nl|Joost Adriaan van Hamel}}
| 1925–1929
| 1925–1929
| {{flag|オランダ}}
| {{flag|オランダ}}
|-
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| style="text-align: right; padding: 0 1em;" | 7
| style="text-align: right; padding: 0 1em;" | 7
| {{仮リンク|マンフレディ・グラヴィナ|it|Manfredi Gravina}}
|Manfredi di Gravina
| 1929–1932
| 1929–1932
| {{flagcountry|ITA1861}}
| {{flagcountry|ITA1861}}
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| style="text-align: right; padding: 0 1em;" | 8
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| Helmer Rosting
| {{仮リンク|ヘルメル・ロスティング|da|Helmer Rosting}}
| 1932–1934
| 1932–1934
| {{flag|デンマーク}}
| {{flag|デンマーク}}
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| {{仮リンク|カール・ヤーコプ・ブルクハルト|en|Carl Jacob Burckhardt}}
| [[カール・ヤーコプ・ブルクハルト]]
| 1937–1939
| 1937–1939
| {{flag|スイス}}
| {{flag|スイス}}
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== 第二次世界大戦と戦後 ==
== 第二次世界大戦と戦後 ==
1939年9月1日、それまでポーランドへの友好訪問と称してグダスク湾に停泊していたドイツ戦艦[[シュレスヴィヒ・ホルシュタイン (戦艦)|シュレスヴィヒ・ホルシュタイン]]が何の布告もなくダンツィヒのポーランド軍駐屯地に激しい艦砲射撃を開始、このドイツによる[[ポーランド侵攻]]によって[[第二次世界大戦]]の火ぶたが切られた。ナチス政府は、ポーランドへの侵攻の数日後、[[1939年]][[9月2日]]にドイツへの再編入の投票を行った。
[[1939年]]9月1日、それまで[[ポーランド]]への友好訪問と称して[[グダスク湾]]に停泊していたドイツ戦艦[[シュレスヴィヒ・ホルシュタイン (戦艦)|シュレスヴィヒ・ホルシュタイン]]が何の布告もなくダンツィヒのポーランド軍駐屯地に激しい[[艦砲射撃]]を開始、このドイツによる[[ポーランド侵攻]]によって[[第二次世界大戦]]の火ぶたが切られた。ナチス政府は、ポーランドへの侵攻の数日後、[[1939年]][[9月2日]]にドイツへの再編入の投票を行った。


ユダヤ系住民は[[ホロコースト]]の対象となり強制収容所へと送られ多くが殺された。1920年から1925年の間には、ダンツィヒはポーランド系とロシア系ユダヤ人が北米に移民する中心の場所となり、60,000人がアメリカとカナダへ亡命した、
ユダヤ系住民は[[ホロコースト]]の対象となり強制収容所へと送られ多くが殺された。


都市の90%は[[第二次世界大戦]]の終わりには廃墟となった。
都市の90%は[[第二次世界大戦]]の終わりには廃墟となった。
[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]は[[ヤルタ会談]]において、戦後のダンツィヒがポーランドの一部になるという合意を行っており、この方針は[[ポツダム協定]]によって確認されている。[[1945年]][[3月30日]]、都市は[[赤軍]]より解放された。戦前にいた約90%は死亡したか、1945年までに逃げ出したと考えられており、[[1950年]]までに、約28万5千人に上る自由都市の以前の住民が、連合国支配下のドイツに移住している。この際、1000人の兵士と1万人の避難民が乗っていた船[[ヴィルヘルム・グストロフ (客船)|ヴィルヘルム・グストロフ号]]がソ連の潜水艦により撃沈される出来事が起きている。戦争で旧その90%以上が破壊されて廃墟と化した。
[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]は[[ヤルタ会談]]において、戦後のダンツィヒがポーランドの一部になるという合意を行っており、この方針は[[ポツダム協定]]によって確認されている。[[1945年]]1月30日に1000人の[[兵士]]と1万人の[[避難民]]が乗っていた船[[ヴィルヘルム・グストロフ (客船)|ヴィルヘルム・グストロフ号]]が[[ビエト邦|ソ連]][[潜水艦]]により撃沈されている。[[1945年]][[3月30日]]、都市は[[赤軍]]により解放された。


戦前にいた人口の約90%は死亡したか、1945年までに逃げ出したと考えられている。[[1950年]]までに、約28万5千人に上る自由都市の以前の住民が、[[連合軍軍政期 (ドイツ)|連合国支配下のドイツ]]に移住している。なお、[[1947年]]には{{仮リンク|自由都市ダンツィヒ亡命政府|en|Free City of Danzig Government in Exile}}が[[ベルリン]]で結成されているが、[[ドイツ民主共和国|東]][[西ドイツ|西]]いずれのドイツ政府からも正式に承認されず、活動は低調である。
== 旗と紋章 ==
<gallery>
Gdansk flag.svg|ナポレオン時代の旗。現在でもグダニスク市旗として使用されている。
Flag of the Free City of Danzig.svg|両大戦間期の旗。
Gdansk COA.svg|ナポレオン時代の紋章。
Wappen Freie Stadt Danzig.svg|両大戦間期の紋章。
POL Gdańsk COA.svg|現在のグダニスク市章。
</gallery>


== 脚注 ==
== 脚注 ==
241行目: 202行目:
* [[ポメラニア]]
* [[ポメラニア]]
* [[プロイセン]]
* [[プロイセン]]
* [[西プロイセン]]<!--以下の記事は日本語では存在しないので翻訳後コメントを外す
* [[西プロイセン]]

* [[Alfons Flisykowski]]
* [[Danzig Research Society]]
* [[History of Gdańsk]]
* [[Administrations of Danzig before April 1945]]
* [[Former countries in Europe after 1815]]
* [[Defense of the Polish Post Office in Danzig]]
* [[Arthur Greiser]] (Nazi Politician)
* [[Albert Förster]] (Nazi Politician)
* [[Oliwa]]
-->
== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* [http://www.zum.de/whkmla/region/eceurope/xdanzig.html ダンツィヒ]
* [http://www.zum.de/whkmla/region/eceurope/xdanzig.html ダンツィヒ]
273行目: 225行目:
* [http://www.franciszkanie.org/dmk/gdansk/d/geschich.htm ダンツィヒの千年]
* [http://www.franciszkanie.org/dmk/gdansk/d/geschich.htm ダンツィヒの千年]


{{Normdaten}}
{{フランス革命 - ナポレオン時代の衛星国}}


{{デフォルトソート:しゆうとしたんついひ}}
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[[Category:ポメラニア]]
[[Category:ポメラニア]]
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[[Category:ポーランドの歴史 (1795–1918)]]
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[[Category:グダニスクの歴史]]
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[[Category:保護国]]
[[Category:保護国]]
[[Category:ナポレオン戦争]]
[[Category:姉妹共和国]]
[[Category:戦間期]]
[[Category:戦間期]]
[[Category:都市国家]]
[[Category:都市国家]]
[[Category:国際連盟委任統治]]
[[Category:国際連盟委任統治]]
[[Category:かつてポーランドに存在した国家]]
[[Category:かつてポーランドに存在した国家]]
[[Category:1440年成立した国家・領域]]
[[Category:かつてバルト地方存在した国家]]
[[Category:1807年成立した国家・領域]]
[[Category:かつてプロイセン存在した国家]]
[[Category:1815年に廃止された国家・領域]]
[[Category:1920年に成立した国家・領域]]
[[Category:1939年に廃止された国家・領域]]

2023年12月3日 (日) 06:36時点における最新版

自由都市ダンツィヒ
Freie Stadt Danzig (ドイツ語)
Wolne Miasto Gdańsk (ポーランド語)
プロイセン自由州 1920年 - 1939年 ダンツィヒ=ヴェストプロイセン帝国大管区
ダンツィヒの国旗 ダンツィヒの国章
(国旗) (国章)
ダンツィヒの位置
自由都市ダンツィヒの位置(1930年)
公用語 ドイツ語
ポーランド語
宗教 65% ルター派
32% カトリック(1938年)
首都 ダンツィヒ
国際連盟高等弁務官
1919年 - 1920年 レジナルド・タワードイツ語版(初代)
1937年 - 1939年カール・ヤーコプ・ブルクハルト(最後)
面積
1928年[1]1,952km²
人口
1919年357,000人
1923年[2]:11366,730人
1933年407,517人
変遷
ヴェルサイユ条約発効 1920年1月20日
成立1920年11月15日
ポーランド侵攻1939年9月1日
ドイツに併合1939年9月2日
通貨パピエルマルク
(1920年 - 1923年)

ダンツィヒ・グルデン英語版
(1923年 - 1939年)

自由都市ダンツィヒ(じゆうとしダンツィヒ、ドイツ語: Freie Stadt Danzigポーランド語: Wolne Miasto Gdańsk)は、第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約によってドイツより切り離されてから第二次世界大戦初期にドイツ軍によって占領されるまでに現在のグダニスク(ドイツ名ダンツィヒ)に存在した都市国家である。ダンツィヒ自由都市ダンツィヒ自由市とも表記される。

ダンツィヒとその周辺は元来はスラヴ民族が住んでいた土地だったが、当時の主な居住者は、ドイツ民族であった。

概要

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ダンツィヒの20ダンツィヒ・グルデン紙幣

戦間期におけるダンツィヒの自由都市化は、ヴェルサイユ条約によって成立した。ヴェルサイユ条約100条から108条はダンツィヒ関連条項であり、103条はダンツィヒの国際連盟による保護と独自憲法の制定が定められた。

ヴェルサイユ条約自体は1920年1月20日に発効したが、正式に「自由都市ダンツィヒ」の成立が宣言されたのは、1920年11月15日のことであった[3]

1920年から1925年の間には、ダンツィヒはポーランド系とロシア系ユダヤ人が北米に移民する中心の場所となり、60,000人がアメリカとカナダへ亡命した。

領土

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自由都市ダンツィヒは、ダンツィヒ(グダニスク)の都市部分とツォポット (Zoppot)、ティーゲンホーフ (Tiegenhof)、ノイタイヒ (Neuteich) 等の252の村と63の村落を含んでおり、東プロイセンに挟まれた地域であった。全面積は1966平方kmであり、領土はナポレオン時代の約2倍の大きさである。

人口

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人口は増加し、1919年の357,000人から1929年の408,000人となり、95%はドイツ人であり[4]、少数民族としてカシューブ人ポーランド人が存在していた。

ヴェルサイユ条約は、ダンツィヒとそれを囲んでいる村をドイツから切り離したが、新しく形成された州は、在住者に基づく公民権を持つ必要があった。ドイツ住民は自由都市の形成によりドイツの国籍を失ったが、州の成立の最初の2年間はドイツ国籍を再取得する権利を与えられた。しかしそうした場合、ダンツィヒの外のドイツの領域に住む必要があった。

言語ごとの人口 1923年11月1日
言語 総数 ドイツ語 ドイツ語 と ポーランド語 ポーランド語 カシューブ語 マズルク語

ロシア語 ウクライナ語

ヘブライ語 ユダヤ語

分類不能
ダンツィヒ 335,921 327,827 1,108 6,788 99 22 77
ダンツィヒ以外 30,809 20,666 521 5,239 2,529 580 1,274
総数 366,730 348,493 1,629 12,027 2,628 602 1,351
比率 100.00% 95.03% 0.44% 3.28% 0.72% 0.16% 0.37%

ポーランド人の権利

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1925年1月5日のポーランド郵便局の開設

自由都市という言葉は、ポーランドから見て国外にあることを示しており、ポーランドと関税同盟を結んでいた。ポーランドへ接続されている自由都市の鉄道線はポーランドにより管理されていた。同様に、町の港であるヴェステルプラッテ(Westerplatte、以前の都市の海岸地域)には分離された軍の事務所があり、ポーランドに与えられていた。同様に町には2つの郵便局が存在した。1つは都市の郵便局で、もう1つはポーランドのであった。

政治

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最初の自由都市市長は1919年2月2日から市長であったハインリヒ・ザームドイツ語版であった。1920年1月24日には駐屯していたドイツ軍が退去し、1月31日からは連合国軍が駐屯を開始した。2月13日からは国際連盟暫定高等弁務官レジナルド・タワー英語版が行動を開始し、3月5日にはザームを議長とする参事院を設置した。5月6日からは憲法制定のための議会選挙が行われ、ドイツ国家国民党独立社会民主党ドイツ社会民主党中央党、自由経済連合、ドイツ民主党、ポーランド党などが議席を獲得した。この制憲議会は憲法制定とヴェルサイユ条約104条に基づくポーランド協定の作成のみに権限が限定され、8月11日に最終案を可決した。憲法はその後国際連盟の修正を経て、1922年5月11日に高等弁務官の承認により発効した[5]

ダンツィヒ港はポーランドによる利用が認められていたが、ポーランド・ソビエト戦争の際、ポーランドの軍需物資積み込みを港湾労働者がボイコットする事件が起きた。ポーランドはダンツィヒにかわって近隣の漁港グディニャを整備し、新たな港湾都市として建設を開始し、様々な優遇措置を与えた。このためグディニャとダンツィヒの競合関係が生まれ、ザームはこの問題を国際連盟に提訴している[6]。1930年、ザームがベルリン市長となり、後任には参事院の副議長であったエルンスト・ツィーム英語版が就任した。

1933年5月、ナチスは自由都市の選挙で勝利した。しかし、彼らは57%を選挙で得ただけで、ダンツィヒ自由都市の組織を変更するのに必要な2/3(国際連盟によって要求された)には不足していた。政府は反ユダヤ、反カトリックの法を導入した。後者は主に、わずかなポーランド人とカシューブ語を話す住民に対して厳しいものであった。都市はポーランド内のドイツ人の未成年を、自衛団 (Selbstschutz) の指揮の中核となった、ドイツ青年党 (Jungdeutsche Partei) やドイツ連合 (Deutsche Vereinigung) のような組織に採用することにより、訓練拠点を提供した。チームも市長の座から追われ、ナチ党員のヘルマン・ラウシュニング英語版が市長となった。1934年にはダンツィヒにおける大管区指導者代理であったアルトゥール・グライザーが新市長となり、強制的同一化がさらに進められた。

歴代高等弁務官

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代数 名前 在任期間 所属国
1 レジナルド・タワー英語版 1919–1920 イギリスの旗 イギリス
2 エドワード・ストラット英語版 1920 イギリスの旗 イギリス
3 ベルナルド・アトリコイタリア語版 1920 イタリア王国の旗 イタリア王国
4 リチャード・ハッキング英語版 1921–1923 イギリスの旗 イギリス
5 メルヴィン・マクドネルドイツ語版 1923–1925 イギリスの旗 イギリス
6 ヨースト・アドリアーン・ヴァン・ハメルオランダ語版 1925–1929 オランダの旗 オランダ
7 マンフレディ・グラヴィナイタリア語版 1929–1932 イタリア王国の旗 イタリア王国
8 ヘルメル・ロスティングデンマーク語版 1932–1934 デンマークの旗 デンマーク
9 ショーン・レスター 1934–1936 アイルランドの旗 アイルランド
10 カール・ヤーコプ・ブルクハルト 1937–1939 スイスの旗 スイス

第二次世界大戦と戦後

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1939年9月1日、それまでポーランドへの友好訪問と称してグダニスク湾に停泊していたドイツ戦艦シュレスヴィヒ・ホルシュタインが何の布告もなくダンツィヒのポーランド軍駐屯地に激しい艦砲射撃を開始、このドイツによるポーランド侵攻によって第二次世界大戦の火ぶたが切られた。ナチス政府は、ポーランドへの侵攻の数日後、1939年9月2日にドイツへの再編入の投票を行った。

ユダヤ系住民はホロコーストの対象となり強制収容所へと送られ多くが殺された。

都市の90%は第二次世界大戦の終わりには廃墟となった。 連合国ヤルタ会談において、戦後のダンツィヒがポーランドの一部になるという合意を行っており、この方針はポツダム協定によって確認されている。1945年1月30日に1000人の兵士と1万人の避難民が乗っていた船ヴィルヘルム・グストロフ号ソ連潜水艦により撃沈されている。1945年3月30日、都市は赤軍により解放された。

戦前にいた人口の約90%は死亡したか、1945年までに逃げ出したと考えられている。1950年までに、約28万5千人に上る自由都市の以前の住民が、連合国支配下のドイツに移住している。なお、1947年には自由都市ダンツィヒ亡命政府英語版ベルリンで結成されているが、西いずれのドイツ政府からも正式に承認されず、活動は低調である。

脚注

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  1. ^ Wagner, Richard (1929) (ドイツ語). Die Freie Stadt Danzig. Taschenbuch des Grenz- und Auslanddeutschtums (2., Auflage / ed.). Berlin: Deutscher Schutzbund Verlag. p. 3 
  2. ^ Mason, John Brown (1946). The Danzig Dilemma, A Study in Peacemaking by Compromise. Stanford University Press. ISBN 978-0-8047-2444-9. https://books.google.com/books?id=ORWrAAAAIAAJ 2011年4月26日閲覧。 
  3. ^ 川手圭一 2009, pp. 74.
  4. ^ Mason, John Brown (1946). The Danzig Dilemma, A Study in Peacemaking by Compromise. Stanford University Press. ISBN 978-0-8047-2444-9. Retrieved 2011-04-26.
  5. ^ 川手圭一 2009, pp. 74–75.
  6. ^ 川手圭一 2009, pp. 77.

参考文献

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  • 川手圭一「第一次世界大戦後「自由市ダンツィヒ」のポーランド人マイノリティをめぐる政治的・社会的位相」『東京学芸大学紀要. 人文社会科学系. II』第60巻、東京学芸大学、2009年、73-83頁、NAID 110007030898 

関連項目

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外部リンク

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