「金炯旭」の版間の差分
死亡宣告は法的な死ですが、逆にいえばほぼ間違いなく、事実としての死の日付ではありません。辻の場合と異なり「蓋然性が高い日付」とみなされているものがあるなら、そちらを優先すべきでしょう。 タグ: 取り消し |
m Bot作業依頼#Cite webの和書引数追加 |
||
(12人の利用者による、間の29版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
[[File:Kim Hyŏng-uk, 27 August 1968.jpg|thumb|1968年8月27日、[[統一革命党事件]]について発表する金炯旭]] |
[[File:Kim Hyŏng-uk, 27 August 1968.jpg|thumb|1968年8月27日、[[統一革命党事件]]について発表する金炯旭]] |
||
{{朝鮮の事物|hanja=金 炯旭|hiragana=きん けいきょく|hangeul=김형욱|katakana=キム・ヒョンウク}} |
|||
'''金炯旭'''(キム・ヒョンウク、{{lang-ko|김형욱}}、[[1925年]][[1月16日]] - [[1979年]][[10月7日]]失踪)は、[[大韓民国]]の[[軍人]]、[[政治家]]。[[第三共和国 (大韓民国)|第三共和国]]時代、[[朴正煕]]の側近として[[大韓民国中央情報部|中央情報部]](KCIA)部長を長く務めた |
'''金 炯旭'''(キム・ヒョンウク、きん けいきょく<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E9%87%91%E8%BC%89%E5%9C%AD-1303257 |title=金載圭 |access-date=2022-07-01 |publisher=世界大百科事典}}</ref>、{{lang-ko|김형욱}}、[[1925年]][[1月16日]] - [[1979年]][[10月7日]]失踪)は、[[大韓民国]]の[[軍人]]、[[政治家]]。[[第三共和国 (大韓民国)|第三共和国]]時代、[[朴正煕]]の側近として[[大韓民国中央情報部|中央情報部]](KCIA)部長を長く務めた。部長解任後の1973年、アメリカ合衆国に亡命。[[コリアゲート]]など[[朴正煕]]政権の不正を暴露するも、1979年10月に[[パリ]]で失踪した。KCIAによって拉致・殺害されたものと見られている。 |
||
== 生涯 == |
== 生涯 == |
||
{{節stub}} |
{{節stub}} |
||
黄海道信川に生まれる{{Sfn|황병주|2013}}。[[1949年]] |
[[日本統治時代の朝鮮|日本統治時代]]の[[黄海道 (日本統治時代)|黄海道]][[信川郡]]に生まれる{{Sfn|황병주|2013}}。[[本貫]]は[[金海金氏]]<ref name=":0">{{Cite web |title=김형욱(金炯旭) |url=https://encykorea.aks.ac.kr/Article/E0073399 |website=[[韓国民族文化大百科事典]] |access-date=2023-08-11}}</ref>。[[1949年]]に[[陸軍士官学校 (韓国)|陸軍士官学校]]第8期を卒業し{{Sfn|황병주|2013}}、[[朝鮮戦争]]中は首都師団中隊長を歴任。[[1961年]][[5月16日]]、[[金鍾泌]]ら陸士8期生とともに核心メンバーとして[[5・16軍事クーデター]]に参与、同年[[5月27日]]に[[国家再建最高会議]]の最高委員へ就任{{Sfn|金炯旭|1980|p=65}}すると、内務分科委員長、運営企画委員長を務めた{{Sfn|황병주|2013}}。 |
||
[[1963年]]7月12日、第4代[[韓国中央情報部]](KCIA)部長に就任。同年10月、陸軍准将の階級で予備役編入{{Sfn|황병주|2013}}。同年に[[慶熙大学校]]政経大学卒業、1968年に同大学院卒業<ref name=":0" /><ref>{{Cite web |title=대한민국헌정회 |url=https://www.rokps.or.kr/profile/profile_view.asp?idx=1628&page=1 |website=www.rokps.or.kr |access-date=2022-07-23}}</ref>。[[人民革命党事件]](1964年)、[[東ベルリン事件]]([[1967年]])、[[統一革命党事件]]([[1968年]])を捜査する。 |
|||
[[3選改憲]]による混乱から、[[1969年]]10月20日にKCIA部長を解任される。[[1971年]]5月の[[第8代総選挙 (大韓民国)|第8代総選挙]]で国会議員に当選するも、1972年に発生した[[十月維新]]で議員職を剥奪されたことから、維新の首謀者である[[朴正煕]]に恨みを抱くようになる。 |
|||
[[1973年]]4月、[[台湾]]経由で[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に[[亡命]]。[[コリアゲート]]の発覚後、朴政権の[[不正]]や[[金大中拉致事件]]への関与を相次いで暴露する。また、2021年に[[延世大学校]]の[[金大中]]図書館が公開した資料によると、金が1977年8月17日に[[韓国民主回復統一促進国民会議]]に第4次総会の開催を祝う電報を送り、激励の言葉を書いたことが分かった<ref>{{Cite web |title=<nowiki>[단독]</nowiki>박정희에 팽당하고 사라진 김형욱···DJ측과 접촉했었다 |url=https://www.khan.co.kr/article/202110140600031 |website=경향신문 |date=2021-10-14 |access-date=2023-09-13 |language=ko |author=이두리}}</ref>。 |
|||
[[1979年]]10月1日、エール・フランスのコンコルド機でケネディ空港を発ち、一人でパリへ向かう。[[オテル・リッツ・パリ]]で10月7日朝まで滞在し、同日午前10時頃、ウエストエンド・ホテルにチェックインした。滞在中、金は連日、カジノ「ルグラン・セルクル」に通っていた。7日午後7時頃に東洋人とカジノを出たのを目撃されたのを最後に消息を絶った{{Sfn|金炯旭|1980|pp=339-345}}。その後の行方についてはパリ郊外殺害説、拉致帰国説などが提起されたが、公式的には確認されていない<ref name=":0" />。 |
|||
== 失踪後 == |
|||
失踪後の1982年、ソウル刑事地方法院は[[欠席裁判]]で金に対し、反国家行為者処罰に関する特別措置法を違反した罪により懲役7年と資格停止7年を宣告した。また、ソウル[[城北区 (ソウル特別市)|城北区]]三仙洞の土地1,369m<sup>2</sup>を含む不動産や株などの財産も没収された。1991年、ソウル家庭法院は「1984年10月8日に死亡したと見なす」という[[失踪宣告]]判決を出した。1996年、反国家行為者処罰に関する特別措置法が[[違憲]]であるという決定により、刑事裁判で金の無罪が宣告された。金の遺族は1995年から訴訟を経て、ほとんどの没収財産を取り戻したが、三仙洞の土地の所有権は国から建設会社に移された上、土地に建てられた連立住宅の入居者に再び移された。遺族は所有権を取り戻せなくなったため、1999年に国と建設会社を相手に18億ウォンの損害賠償を求めて訴訟を起こした<ref>{{Cite web |title=김형욱씨 가족, 국가 상대 18억 손배소 |url=https://www.munhwa.com/news/view.html?no=19991209615 |website=문화일보 |access-date=2023-09-13 |language=ko |date=1999-12-09}}</ref>。 |
|||
遺族は米国に住んでいたが、2004年、金の妻と次男は2001年に48歳で亡くなった長男の未亡人と孫を相手に、[[ニュージャージー州]]の地方裁判所で長男一家の住んでいる家の所有権の51%を主張し、持分を取り戻そうとして訴訟を起こした。その結果、裁判所は原告勝訴の判決を出したため、長男の妻は2004年末に家を売却した。後述の真相究明により、2005年になると韓国の多くのマスコミは長男の妻に対して金炯旭のことについて尋ねたが、遺族の財産訴訟には関心がないことに長男の妻は不満を示した。なお、長男の妻によると、長男は中学生だったごろ、金と共に[[狩り]]に出た際に[[地雷]]を踏んで足を怪我したため、金は生前に長男をとても大事にしていた<ref>{{Cite web |title=‘김형욱 씨 맏며느리 김경옥 씨’와의 전격 인터뷰 |url=https://sundayjournalusa.com/2005/05/05/%ea%b9%80%ed%98%95%ec%9a%b1-%ec%94%a8-%eb%a7%8f%eb%a9%b0%eb%8a%90%eb%a6%ac-%ea%b9%80%ea%b2%bd%ec%98%a5-%ec%94%a8%ec%99%80%ec%9d%98-%ec%a0%84%ea%b2%a9-%ec%9d%b8%ed%84%b0%eb%b7%b0/ |website=sundayjournalusa |date=2005-05-05 |access-date=2023-09-13 |language=en-US}}</ref>。 |
|||
== 真相究明 == |
== 真相究明 == |
||
[[2005年]][[2月3日]]、 |
[[2005年]][[2月3日]]、KCIAの後継機関である[[大韓民国国家情報院|国家情報院]]の「過去事件真実究明を通じた発展委員会(過去事件真実委)」は、[[東ベルリン事件]]、[[民青学連事件]]および[[人民革命党事件]]、[[金大中拉致事件]]、[[大韓航空機爆破事件]]、{{仮リンク|正修奨学会|ko|정수장학회}}問題、{{仮リンク|中部地域党事件|ko|중부지역당 사건}}とともに、金炯旭失踪事件を優先調査対象に選定した<ref name="hankyoreh20050203">{{Cite news|title=KAL폭파사건 등 과거사 7건 본격 조사 착수|newspaper=[[ハンギョレ]]|date=2005-02-03|url=http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/8647.html|accessdate=2020-01-20}}</ref>。同年[[5月25日]]、過去事件真実委は事件に関する中間報告を発表し、金はKCIAの要員によって拉致・殺害されたと認定した。それによれば、事件は当時のKCIA部長[[金載圭]]の指示により、{{仮リンク|李相悦|ko|이상열 (1929년)}}駐フランス公使が計画、フランス研修中のKCIA要員シン某(本名ピョン某)とイ某(本名キム某)に実行させたもので、彼らは[[東ヨーロッパ]]出身者2名を雇い金を拉致・殺害、遺体は付近の山野に遺棄したという<ref name="mchosun200507">{{Cite news|title=(최종 확인) 金炯旭 살해 현장 책임자의 마무리 증언|author=송승호|newspaper=[[月刊朝鮮]]|date=2005年7月|url=http://monthly.chosun.com/client/news/viw.asp?ctcd=&nNewsNumb=200507100026|accessdate=2020-01-20}}</ref>。事件の全貌を知っていると見られた李相悦は、過去事件真実委との面談において自身の関与は認めたものの、具体的な内容については一切語らず、結局真相を明かさないまま2006年4月に病死した<ref name="hankyoreh20050526">{{Cite news|title=김형욱 살해 현지지휘 이상열은 누구인가|newspaper = ハンギョレ|date=2005-05-26|url=http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/37004.html|accessdate=2020-01-20}}</ref><ref name="hankyoreh20130426">{{Cite news|title=그것은 김재규의 마지막 충성이었다|newspaper = ハンギョレ|date=2013-04-26|url=http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/584787.html|accessdate=2020-01-20}}</ref>。 |
||
一方で、 |
一方で、KCIA関係者を中心として、事件への大統領警護室の関与を主張する声もある。金の回顧録を出版した元[[民主党 (韓国)|民主党]]国会議員{{仮リンク|金景梓|ko|김경재 (1942년)}}によれば、事件当時民主化運動の活動家だった{{仮リンク|宋振燮|ko|송진섭}}元[[安山市|安山]]市長が[[西大門刑務所]]に[[収監]]されていた際、[[朴正煕暗殺事件]]に関与して隣房に収監されていた{{仮リンク|朴善浩|ko|박선호 (1934년)}}元KCIA儀典課長から「金は警護室によって拉致され、[[青瓦台]]の地下室で[[車智澈]]警護室長手ずから射殺された」という話を聞いたという。しかし、金景梓自身はソウルまで移送するのは困難だとして、パリでの殺害に傾いている<ref name="donga20050311">{{Cite news|title=김형욱, 청와대 지하실서 차지철 손에 죽었다?|newspaper=[[東亜日報]]|date=2005-03-11|url=http://news.donga.com/3/all/20050311/8168327/1|accessdate=2020-01-20}}</ref>。事件当時KCIA総務局長だった[[李鍾賛 (1936年生)|李鍾賛]]元国家情報院長は、[[朴鐘圭]]元[[大韓民国大統領室|警護室長]]の関与を示唆し、海外担当次長だった{{仮リンク|尹鎰均|ko|윤일균}}もKCIAの関与を否定した<ref name="donga20050204">{{Cite news|title=‘김형욱 실종’ 기관개입 확인땐 유신정권 도덕성 치명타|newspaper=東亜日報|date=2005-02-04|url=http://news.donga.com/3/all/20050204/8157249/1|accessdate=2020-01-20}}</ref>。 |
||
== 著書 == |
== 著書 == |
||
* |
*김형욱『권력과음모』1979年4月。 |
||
** 和 |
** {{Cite book|和書 |author=金炯旭|title=権力と陰謀―元KCIA部長金炯旭が語る|publisher=合同出版|date=1980年12月15日}} |
||
== 脚注 == |
== 脚注 == |
||
19行目: | 33行目: | ||
== 参考資料 == |
== 参考資料 == |
||
{{commonscat|Kim Hyong-uk}} |
|||
* {{ |
* {{Cite book|和書|author=金炯旭|title=権力と陰謀―元KCIA部長金炯旭が語る|publisher=合同出版|date=1980-12-15|ncid=BN01123690|id={{NDLJP|12166798}}|ref={{Sfnref|金炯旭|1980}}}} |
||
* {{Citation|author=황병주|title=[[韓国民族文化大百科事典]]|contribution=김형욱(金炯旭)|year=2013|publisher=[[韓国学中央研究院]]|contribution-url=http://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Item/E0073399|accessdate=2020-01-20|ref={{Sfnref|황병주|2013}}}} |
* {{Citation|author=황병주|title=[[韓国民族文化大百科事典]]|contribution=김형욱(金炯旭)|year=2013|publisher=[[韓国学中央研究院]]|contribution-url=http://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Item/E0073399|accessdate=2020-01-20|ref={{Sfnref|황병주|2013}}}} |
||
*{{Cite web|title=김형욱(金炯旭)|publisher=[[大韓民国憲政会]]|url=http://rokps.or.kr/profile/profile_view.asp?idx=1628|accessdate=2018-10-6|ref={{Sfnref|憲政会}}}} |
*{{Cite web|title=김형욱(金炯旭)|publisher=[[大韓民国憲政会]]|url=http://rokps.or.kr/profile/profile_view.asp?idx=1628|accessdate=2018-10-6|ref={{Sfnref|憲政会}}}} |
||
37行目: | 52行目: | ||
[[Category:韓国陸軍の軍人]] |
[[Category:韓国陸軍の軍人]] |
||
[[Category:韓国の国会議員]] |
[[Category:韓国の国会議員]] |
||
[[Category:朝鮮戦争の人 |
[[Category:朝鮮戦争期の韓国の軍人]] |
||
[[Category:大韓民国中央情報部長]] |
[[Category:大韓民国中央情報部長]] |
||
[[Category:韓国の亡命者]] |
|||
[[Category:内部告発者]] |
|||
[[Category:消息不明となった人物]] |
[[Category:消息不明となった人物]] |
||
[[Category:暗殺された政治家]] |
[[Category:暗殺された政治家]] |
||
[[Category:黄海南道出身の人物]] |
[[Category:黄海南道出身の人物]] |
||
[[Category:金海金氏]] |
|||
[[Category:慶熙大学校出身の人物]] |
|||
[[Category:1925年生]] |
[[Category:1925年生]] |
||
[[Category:1979年没]] |
[[Category:1979年没]] |
2023年12月3日 (日) 17:59時点における最新版
金炯旭 | |
---|---|
各種表記 | |
ハングル: | 김형욱 |
漢字: | 金 炯旭 |
発音: | キム・ヒョンウク |
日本語読み: | きん けいきょく |
金 炯旭(キム・ヒョンウク、きん けいきょく[1]、朝鮮語: 김형욱、1925年1月16日 - 1979年10月7日失踪)は、大韓民国の軍人、政治家。第三共和国時代、朴正煕の側近として中央情報部(KCIA)部長を長く務めた。部長解任後の1973年、アメリカ合衆国に亡命。コリアゲートなど朴正煕政権の不正を暴露するも、1979年10月にパリで失踪した。KCIAによって拉致・殺害されたものと見られている。
生涯[編集]
この節の加筆が望まれています。 |
日本統治時代の黄海道信川郡に生まれる[2]。本貫は金海金氏[3]。1949年に陸軍士官学校第8期を卒業し[2]、朝鮮戦争中は首都師団中隊長を歴任。1961年5月16日、金鍾泌ら陸士8期生とともに核心メンバーとして5・16軍事クーデターに参与、同年5月27日に国家再建最高会議の最高委員へ就任[4]すると、内務分科委員長、運営企画委員長を務めた[2]。
1963年7月12日、第4代韓国中央情報部(KCIA)部長に就任。同年10月、陸軍准将の階級で予備役編入[2]。同年に慶熙大学校政経大学卒業、1968年に同大学院卒業[3][5]。人民革命党事件(1964年)、東ベルリン事件(1967年)、統一革命党事件(1968年)を捜査する。
3選改憲による混乱から、1969年10月20日にKCIA部長を解任される。1971年5月の第8代総選挙で国会議員に当選するも、1972年に発生した十月維新で議員職を剥奪されたことから、維新の首謀者である朴正煕に恨みを抱くようになる。
1973年4月、台湾経由でアメリカに亡命。コリアゲートの発覚後、朴政権の不正や金大中拉致事件への関与を相次いで暴露する。また、2021年に延世大学校の金大中図書館が公開した資料によると、金が1977年8月17日に韓国民主回復統一促進国民会議に第4次総会の開催を祝う電報を送り、激励の言葉を書いたことが分かった[6]。
1979年10月1日、エール・フランスのコンコルド機でケネディ空港を発ち、一人でパリへ向かう。オテル・リッツ・パリで10月7日朝まで滞在し、同日午前10時頃、ウエストエンド・ホテルにチェックインした。滞在中、金は連日、カジノ「ルグラン・セルクル」に通っていた。7日午後7時頃に東洋人とカジノを出たのを目撃されたのを最後に消息を絶った[7]。その後の行方についてはパリ郊外殺害説、拉致帰国説などが提起されたが、公式的には確認されていない[3]。
失踪後[編集]
失踪後の1982年、ソウル刑事地方法院は欠席裁判で金に対し、反国家行為者処罰に関する特別措置法を違反した罪により懲役7年と資格停止7年を宣告した。また、ソウル城北区三仙洞の土地1,369m2を含む不動産や株などの財産も没収された。1991年、ソウル家庭法院は「1984年10月8日に死亡したと見なす」という失踪宣告判決を出した。1996年、反国家行為者処罰に関する特別措置法が違憲であるという決定により、刑事裁判で金の無罪が宣告された。金の遺族は1995年から訴訟を経て、ほとんどの没収財産を取り戻したが、三仙洞の土地の所有権は国から建設会社に移された上、土地に建てられた連立住宅の入居者に再び移された。遺族は所有権を取り戻せなくなったため、1999年に国と建設会社を相手に18億ウォンの損害賠償を求めて訴訟を起こした[8]。
遺族は米国に住んでいたが、2004年、金の妻と次男は2001年に48歳で亡くなった長男の未亡人と孫を相手に、ニュージャージー州の地方裁判所で長男一家の住んでいる家の所有権の51%を主張し、持分を取り戻そうとして訴訟を起こした。その結果、裁判所は原告勝訴の判決を出したため、長男の妻は2004年末に家を売却した。後述の真相究明により、2005年になると韓国の多くのマスコミは長男の妻に対して金炯旭のことについて尋ねたが、遺族の財産訴訟には関心がないことに長男の妻は不満を示した。なお、長男の妻によると、長男は中学生だったごろ、金と共に狩りに出た際に地雷を踏んで足を怪我したため、金は生前に長男をとても大事にしていた[9]。
真相究明[編集]
2005年2月3日、KCIAの後継機関である国家情報院の「過去事件真実究明を通じた発展委員会(過去事件真実委)」は、東ベルリン事件、民青学連事件および人民革命党事件、金大中拉致事件、大韓航空機爆破事件、正修奨学会問題、中部地域党事件とともに、金炯旭失踪事件を優先調査対象に選定した[10]。同年5月25日、過去事件真実委は事件に関する中間報告を発表し、金はKCIAの要員によって拉致・殺害されたと認定した。それによれば、事件は当時のKCIA部長金載圭の指示により、李相悦駐フランス公使が計画、フランス研修中のKCIA要員シン某(本名ピョン某)とイ某(本名キム某)に実行させたもので、彼らは東ヨーロッパ出身者2名を雇い金を拉致・殺害、遺体は付近の山野に遺棄したという[11]。事件の全貌を知っていると見られた李相悦は、過去事件真実委との面談において自身の関与は認めたものの、具体的な内容については一切語らず、結局真相を明かさないまま2006年4月に病死した[12][13]。
一方で、KCIA関係者を中心として、事件への大統領警護室の関与を主張する声もある。金の回顧録を出版した元民主党国会議員金景梓によれば、事件当時民主化運動の活動家だった宋振燮元安山市長が西大門刑務所に収監されていた際、朴正煕暗殺事件に関与して隣房に収監されていた朴善浩元KCIA儀典課長から「金は警護室によって拉致され、青瓦台の地下室で車智澈警護室長手ずから射殺された」という話を聞いたという。しかし、金景梓自身はソウルまで移送するのは困難だとして、パリでの殺害に傾いている[14]。事件当時KCIA総務局長だった李鍾賛元国家情報院長は、朴鐘圭元警護室長の関与を示唆し、海外担当次長だった尹鎰均もKCIAの関与を否定した[15]。
著書[編集]
- 김형욱『권력과음모』1979年4月。
- 金炯旭『権力と陰謀―元KCIA部長金炯旭が語る』合同出版、1980年12月15日。
脚注[編集]
- ^ “金載圭”. 世界大百科事典. 2022年7月1日閲覧。
- ^ a b c d 황병주 2013.
- ^ a b c “김형욱(金炯旭)”. 韓国民族文化大百科事典. 2023年8月11日閲覧。
- ^ 金炯旭 1980, p. 65.
- ^ “대한민국헌정회”. www.rokps.or.kr. 2022年7月23日閲覧。
- ^ 이두리 (2021年10月14日). “[단독]박정희에 팽당하고 사라진 김형욱···DJ측과 접촉했었다” (朝鮮語). 경향신문. 2023年9月13日閲覧。
- ^ 金炯旭 1980, pp. 339–345.
- ^ “김형욱씨 가족, 국가 상대 18억 손배소” (朝鮮語). 문화일보 (1999年12月9日). 2023年9月13日閲覧。
- ^ “‘김형욱 씨 맏며느리 김경옥 씨’와의 전격 인터뷰” (英語). sundayjournalusa (2005年5月5日). 2023年9月13日閲覧。
- ^ “KAL폭파사건 등 과거사 7건 본격 조사 착수”. ハンギョレ. (2005年2月3日) 2020年1月20日閲覧。
- ^ 송승호 (2005年7月). “(최종 확인) 金炯旭 살해 현장 책임자의 마무리 증언”. 月刊朝鮮 2020年1月20日閲覧。
- ^ “김형욱 살해 현지지휘 이상열은 누구인가”. ハンギョレ. (2005年5月26日) 2020年1月20日閲覧。
- ^ “그것은 김재규의 마지막 충성이었다”. ハンギョレ. (2013年4月26日) 2020年1月20日閲覧。
- ^ “김형욱, 청와대 지하실서 차지철 손에 죽었다?”. 東亜日報. (2005年3月11日) 2020年1月20日閲覧。
- ^ “‘김형욱 실종’ 기관개입 확인땐 유신정권 도덕성 치명타”. 東亜日報. (2005年2月4日) 2020年1月20日閲覧。
参考資料[編集]
- 金炯旭『権力と陰謀―元KCIA部長金炯旭が語る』合同出版、1980年12月15日。 NCID BN01123690。NDLJP:12166798。
- 황병주 (2013), “김형욱(金炯旭)”, 韓国民族文化大百科事典, 韓国学中央研究院 2020年1月20日閲覧。
- “김형욱(金炯旭)”. 大韓民国憲政会. 2018年10月6日閲覧。
公職 | ||
---|---|---|
先代 金在春 |
大韓民国中央情報部部長 1963年7月12日 - 1969年10月20日 |
次代 金桂元 |