「中野城 (紀伊国)」の版間の差分
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*(財)和歌山市文化体育振興事業団 1998『[https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/30098 中野遺跡第2次発掘調査概報]』和歌山市文化体育振興事業団調査報告書16 |
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2023年12月9日 (土) 09:02時点における最新版
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---|---|
城郭構造 | 平城 |
築城年 | 不明 |
主な城主 | 貴志教信 |
廃城年 | 不明 |
遺構 | 石垣、大溝 |
指定文化財 | 史跡等未指定[1] |
埋蔵文化財 包蔵地番号 | 48「中野遺跡」[2] |
位置 | 北緯34度15分22.0秒 東経135度08分23.1秒 / 北緯34.256111度 東経135.139750度座標: 北緯34度15分22.0秒 東経135度08分23.1秒 / 北緯34.256111度 東経135.139750度 |
地図 |
中野城(なかのじょう)は、紀伊国(和歌山県和歌山市中野)にあった日本の城。
概要
[編集]築城時期は不明であるが、貴志教信の城であった。戦国時代は、雑賀衆の支城としての役割を果たしていた。
孝子峠越えと大川峠越えのルートが集まる要衝で、和泉国方面から紀伊国の入口にあたるという地理的条件から、天正5年(1577年)、織田信長による第1次紀州征伐を迎え撃つための前線基地となった。しかし、2月に中野城は落城し、織田信忠が本陣を構えた。居城の雑賀城を攻められた鈴木孫一(雑賀孫一)ら雑賀衆は3月に降伏した(『信長公記』)。
遺構として、石垣が民家の塀の下に使用され残っている。また、現在「中野遺跡」と呼ばれる埋蔵文化財包蔵地にあったと推定されており[2]、発掘調査により大溝(堀)や輸入陶磁器等の遺物が出土している[1]。
脚注
[編集]- ^ a b 「中野遺跡(和歌山市の文化財・遺跡)」和歌山市公式HP
- ^ a b 和歌山市文化体育振興事業団 1998
参考文献
[編集]- (財)和歌山市文化体育振興事業団 1998『中野遺跡第2次発掘調査概報』和歌山市文化体育振興事業団調査報告書16