「アルフレート・フォン・シュリーフェン」の版間の差分
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{{基礎情報 軍人 |
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[[Image:Schlieffen Alfred Graf FM 10005099-r1.jpg|thumb|黒鷲勲章を着用したアルフレート・フォン・シュリーフェン(1890年)]] |
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[[画像:Invalidenfriedhof, Grabmal von Schlieffen.jpg|thumb|ベルリン軍人墓地にあるシュリーフェンの墓]] |
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| 氏名 = アルフレート・フォン・シュリーフェン |
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'''アルフレート・フォン・シュリーフェン'''伯爵('''Alfred''' Graf '''von Schlieffen''', [[1833年]][[2月28日]] - [[1913年]][[1月4日]])は、[[ドイツ]]の[[軍人]]。[[元帥 (ドイツ)|陸軍元帥]]。[[ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ|大モルトケ]]の2代あとの、[[ドイツ帝国]][[参謀総長]](1891~1905年)。 |
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| 各国語表記 = Alfred von Schlieffen |
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| 画像 = Alfred von Schlieffen.png |
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| 画像説明 = |
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| 渾名 = |
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| 生年月日 = [[1833年]][[2月28日]] |
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| 生誕地 = {{PRU1803}} [[ベルリン]] |
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| 死没地 = {{DEU1871}}<br />{{PRU}} [[ベルリン]] |
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| 所属組織 = [[File:War Ensign of Prussia (1816).svg|25px]] [[ドイツ陸軍|プロイセン王国陸軍]]<br />[[File:War Ensign of Germany (1903-1918).svg|25px]] [[ドイツ帝国陸軍]] |
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| 軍歴 = [[1854年]] - [[1906年]] |
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| 最終階級 = [[File:DR Generalfeldmarschall 1918.gif|15px]] [[ドイツ陸軍|陸軍]][[元帥 (ドイツ)|元帥]] |
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| 除隊後 = |
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| 墓所 = ベルリン軍人墓地 |
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| 署名 = |
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{{政治家 |
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| 人名 = アルフレート・フォン・シュリーフェン |
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| 各国語表記 = Alfred von Schlieffen |
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| 職名 = [[File:War Ensign of Germany (1903-1918).svg|25px]] ドイツ帝国陸軍<br />第3代[[プロイセン参謀本部|陸軍参謀本部総長]] |
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| 就任日 = [[1891年]][[2月7日]] |
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| 退任日 = [[1906年]][[1月1日]] |
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}} |
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'''アルフレート・フォン・シュリーフェン'''伯爵('''Alfred Graf von Schlieffen''', [[1833年]][[2月28日]] - [[1913年]][[1月4日]])は、[[ドイツ帝国]]の[[軍人]]。[[元帥 (ドイツ)|陸軍元帥]]。 |
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戦 |
軍事戦略家であり、[[第二次世界大戦]]に至るまで使われ続けた、対仏侵攻作戦「[[シュリーフェン・プラン]]」の考案者。 |
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== 来歴 == |
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=== プロイセン軍入隊 === |
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1833年2月に[[ベルリン]]で、[[プロイセン]]軍少将の息子として生まれる。1854年に軍に入り、1863年に参謀本部に移る。[[1866年]]の[[普墺戦争]]には大尉、[[1870年]]~[[1871年]]の[[普仏戦争]]に少佐の参謀将校として参加した。その後近衛[[ウーラン]]連隊長や参謀本部付を務める。1884年に参謀本部局長に就任。[[1888年]]参謀本部次長、[[1891年]]に[[アルフレート・フォン・ヴァルダーゼー]]の後を継いで同総長となった。1903年に[[上級大将]]に昇進。 |
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1833年2月に[[ベルリン]]で、プロイセン軍少将マグヌス・フォン・シュリーフェンの息子として生まれ、1842年に父の領地[[シレジア]]に移り幼少期を過ごした。シュリーフェンは軍人に関心がなかったため士官学校には進まず、ベルリンの大学に進学した{{sfn|Dupuy|1977|p= 128}}。大学では法学を専攻し、1853年に徴兵のためプロイセン陸軍に入隊し、1年間の兵役を務めた<ref name="V.J. Curtis 2003">V. J. Curtis, "Understanding Schlieffen," ''The Army Doctrine and Training Bulletin'' 6, no. 3 (2003), p. 56.</ref>。兵役終了後、シュリーフェンは士官候補生に選ばれ、正規軍人としてプロイセン軍に所属することになった。1868年に従兄妹のアンナ・フォン・シュリーフェンと結婚し、二女(長女エリーザベト・アウグスト・マリー・エルネスティーネ、次女マリー)をもうけるが、アンナはマリーを生んだ際に死去した{{sfn|Dupuy|1977|p= 128}}。アンナの死後、シュリーフェンは家庭を顧みずに軍務に専念するようになった{{sfn|Dupuy|1977|p= 129}}。 |
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=== 参謀総長 === |
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[[1905年]]に仮想敵国[[ロシア帝国]]と[[フランス]]に対する作戦計画「シュリーフェン・プラン」を考案した。この計画は大モルトケやヴァルダーゼーの基本計画を具体化したものであった。露仏両国との二正面戦争を避けるため、開戦後全力を挙げて短期間でのフランス攻略を目指し、次いで鉄道輸送を駆使して部隊を東に輸送して残る敵ロシアを攻撃するという計画であった。この計画を実現するため、シュリーフェン以後のドイツ軍は移動可能な重砲の配備や、輸送部隊を中心とする兵站の充実に力を入れた。この計画は[[第一次世界大戦]]冒頭に改変された形で実行されるが、シュリーフェンの計画とは異なりドイツ軍の進撃は[[マルヌの戦い]]で頓挫し、以後はシュリーフェンの想定しなかった[[塹壕戦]]・[[総力戦]]に移行することになる。シュリーフェンは軍司令官というよりも作戦理論家の性格が強かった。 |
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[[File:Invalidenfriedhof, Grabmal von Schlieffen.jpg|thumb|ベルリン軍人墓地にあるシュリーフェンの墓]] |
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1858年に上官の推薦を得て陸軍大学に入学{{sfn|Dupuy|1977|p= 128}}。1861年にシュリーフェンは優秀な成績を修め陸軍大学を卒業し、翌1862年に[[プロイセン参謀本部]]地形課に配属される{{sfn|Dupuy|1977|p= 128}}。地形課での勤務を通して、地形や天候の戦略的・戦術的価値を認識し、後年の[[シュリーフェン・プラン]]作成に影響を与えた。 |
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1866年の[[普墺戦争]]には大尉として従軍し、[[ケーニヒグレーツの戦い]]に参戦し{{sfn|Dupuy|1977|p= 128}}、大尉に昇進する。その後2年間パリに駐在し、1868年に帰国してハノーバー第10軍団参謀となる<ref>『戦争史概観』 209頁</ref>。1870年[[普仏戦争]]に少佐として従軍した{{sfn|Dupuy|1977|p= 129}}。戦後はバーデン大公[[フリードリヒ1世 (バーデン大公)|フリードリヒ1世]]の幕僚として戦史部門の主任を務めた後、近衛[[ウーラン]]連隊長や参謀本部付を務める。1884年に参謀本部局長に就任、1886年12月4日に少将に昇進し、1888年に参謀次長に任命される{{sfn|Dupuy|1977|p= 129}}。 |
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シュリーフェン・プラン発表の翌1906年に予備役に編入された。その後も私人としてシュリーフェン・プランの改訂を続け、1911年に元帥に列せられたが、純粋に名誉的な措置であった。第一次世界大戦勃発の前年、1913年にベルリンで死去し、軍人墓地に葬られた。墓所には皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]により献花が行われた。 |
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1891年に[[アルフレート・フォン・ヴァルダーゼー]]の後任として[[プロイセン参謀本部#歴代参謀総長|参謀総長]]に就任し、1903年に[[上級大将]]に昇進。1905年に仮想敵国[[ロシア帝国]]と[[フランス第三共和政|フランス]]に対する作戦計画「シュリーフェン・プラン」を考案した。同年8月に幕僚の馬に蹴られて負傷するが、その際に「これでは戦場に出れない!」と叫んだという。これ以降、軍務に支障をきたすようになり、翌1906年に退役する<ref name="V.J. Curtis 2003" />。その後任として[[コルマール・フォン・デア・ゴルツ]]が候補に挙がったが、ヴィルヘルム2世に嫌われていたため任命されず、皇帝のお気に入りだった[[ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ|小モルトケ]]が後任に選ばれた{{sfn|Walter|1967|p= 138}}。 |
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シュリーフェンの最期の言葉として、シュリーフェン・プランと関連した''「我に強い右翼を!(Macht mir den rechten Flügel stark!)」''という言葉が広く知られている。シュリーフェンがフランス攻撃計画で[[ベルギー]]を通過するドイツ軍右翼を最重視して常々この言葉を述べていたのは事実であるが、主治医であるロフス軍医の回顧録によれば、死の床にあるシュリーフェンは軍事や歴史、政治、家族のことなどを支離滅裂に口にする状態であり、実際に「最期の言葉」といえるのは、自分の病状を冷静に分析した''「小さな原因が大きな結果を招く (Kleine Ursachen, große Wirkungen)」''というものだったという。 |
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=== 退役後 === |
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退役後は軍事雑誌に古今の[[軍事史|戦史]]に関する論文を寄稿するなどして後進の啓発に努めた<ref>『戦争史概観』 219頁</ref>。1911年に[[元帥 (ドイツ)|元帥]]に列せられたが、純粋に名誉的な措置であった。[[第一次世界大戦]]勃発の前年、1913年1月4日にベルリンで死去し、軍人墓地に葬られた<ref name="V.J. Curtis 2003" />。墓所には皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]により献花が行われた。 |
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*[[シュリーフェン・プラン]] |
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シュリーフェンの最期の言葉として、シュリーフェン・プランと関連した「我に強い右翼を!(Macht mir den rechten Flügel stark!)」という言葉が広く知られている。シュリーフェンがフランス攻撃計画で[[ベルギー]]を通過するドイツ軍右翼を最重視して常々この言葉を述べていたのは事実であるが、主治医であるロフス軍医の回顧録によれば、死の床にあるシュリーフェンは軍事や歴史、政治、家族のことなどを支離滅裂に口にする状態であり、実際に「最期の言葉」といえるのは、自分の病状を冷静に分析した「小さな原因が大きな結果を招く(Kleine Ursachen, große Wirkungen)」というものだったという。この逸話はシュリーフェンの死後数十年の間に流布したという。 |
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== 対仏露戦略 == |
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=== シュリーフェン・プラン === |
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[[File:Schlieffen Plan.jpg|thumb|240px|left|シュリーフェン・プラン]] |
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{{main|シュリーフェン・プラン}} |
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シュリーフェン・プランは[[ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ|大モルトケ]]やヴァルダーゼーの基本計画を具体化したものであった。[[ロシア帝国|露]][[フランス第三共和政|仏]]両国との[[二正面作戦|二正面戦争]]を避けるため、開戦後全力を挙げて短期間でのフランス攻略を目指し、次いで[[軍用列車|鉄道輸送]]を駆使して部隊を東に輸送して残る敵ロシアを攻撃するという計画であった。この計画は1905年に完成したが不備な点が多くシュリーフェンは改訂を重ねるが、同年に馬に蹴られて負傷して以降体力が衰えてしまい、翌年参謀総長を辞職し退役する。 |
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シュリーフェン・プラン実現のため、シュリーフェン以後のドイツ軍は移動可能な重砲の配備や輸送部隊を中心とする兵站の充実に力を入れたが、後任者の小モルトケは[[第一次世界大戦]]で、みずからによる修正版シュリーフェン・プランを実行するが、ドイツ軍の進撃は[[マルヌ会戦]]で頓挫し、以後はシュリーフェンの想定しなかった[[塹壕戦]]・[[総力戦]]に移行することになる<ref>{{cite journal|author=Otto, Helmut|title=Alfred Graf von Schlieffen: Generalstabschef und Militärtheoretiker des Imperialistischen Deutschen Kaiserreiches Zwischen Weltmachstreben und Revolutionsfurcht|journal=Revue Internationale D'histoire Militaire|volume= 43 |date=July 1979|pages= 74}}</ref>。シュリーフェンは軍司令官というよりも作戦理論家の性格が強かった。 |
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=== 国民皆兵と戦力増強 === |
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[[File:The Imperial German Army 1890 - 1913 HU68406.jpg|thumb|240px|ヴィルヘルム2世臨席の軍事演習(右から5人目がシュリーフェン)]] |
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シュリーフェンはドイツとフランスの徴兵率(独:55%、仏:80%)の格差について、戦術と運用能力では戦力差を埋められないと懸念を抱いていた。この懸念は[[露仏同盟]]の成立により深刻化した。シュリーフェンは[[予備役]]を含めて部隊を増強するため、国民皆兵の徹底を企図した{{sfn|Zuber|2002|pp=138-139}}。 |
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しかし、徴兵を管轄する{{仮リンク|プロイセン戦争省|en|Prussian Ministry of War}}は平時に予算のかかる徴兵率の増加に反対する[[帝国議会 (ドイツ帝国)|帝国議会]]に配慮せざるを得なかった。その中で、シュリーフェンは自身の在任中に戦争が起きた場合に備えて新部隊の編成を訴え、予備役兵を交換大隊として運用することにした{{sfn|Zuber|2002|p=139}}。1891年6月以降、シュリーフェンは旅団規模の交換大隊の増強を訴え始める。しかし、戦争省はコストのかかる交換大隊の増強を受け入れず、[[エーリヒ・ルーデンドルフ]]が台頭する1911年まで主だった戦力増強は行われなかった。彼はシュリーフェン・プランの中でも国民皆兵・戦力増強を前提とした96師団による作戦を立案していたが、前提通りの国民皆兵・戦力増強はされなかった{{sfn|Zuber|2002|p=139}}。また、シュリーフェン自身も、仮に想定通りの師団があったとしても、フランスを包囲することは不可能だと感じていた{{sfn|Zuber|2004|p=195}}。 |
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1893年12月11日に完成された計画書では、ロシア軍を殲滅するためには[[東プロイセン]]に戦力を総動員するべきと主張している。シュリーフェンは東プロイセンの武装民兵を前面に配置し、その背後にドイツ軍を動員してロシア軍を迎え撃つことを想定していた{{sfn|Zuber|2002|p=140}}。 |
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== 参考文献 == |
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*[[四手井綱正]]講述 『[[戦争史概観]]』 [[岩波書店]]、1943年 |
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* {{cite book |ref={{harvid|Dupuy|1977}}|author=Dupuy, T. N.|title=A Genius for War: The German Army and General Staff|place=New Jersey|publisher= Prentice Hall|year= 1977|isbn=0-13-351114-6}} |
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* {{cite book |ref={{harvid|Walter|1967}} |author=Walter, Goerlitz|title=History of The German General Staff|place=New York|publisher= Frederick A. Praeger|year= 1967}} |
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**{{Cite book|和書|author=ヴァルター・ゲルリッツ|translator=[[守屋純]]|year=2000|title=ドイツ参謀本部興亡史 上|publisher=[[学研M文庫]]|isbn=978-4059010173|ref=ゲルリッツ(2000)上}} |
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**{{Cite book|和書|author=ヴァルター・ゲルリッツ|translator=守屋純|year=2000|title=ドイツ参謀本部興亡史 下|publisher=学研M文庫|isbn=978-4059010180|ref=ゲルリッツ(2000)下}} |
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* {{cite book |ref={{harvid|Zuber|2002}} |author=Zuber, Terence|title=Inventing the Schlieffen Plan: German War Planning, 1871–1914|place=New York|publisher= Oxford University Press|year= 2002|isbn=0-19-925016-2}} |
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* {{cite book |ref={{harvid|Zuber|2004}} |author=Zuber, Terence|title=German War Planning, 1891-1914: Sources and Interpretations|place=Woodbridge|publisher= The Boydell Press|year= 2004|isbn=1-84383-108-2}}Cannae |
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* {{cite book |ref={{harvid|Zuber|2010}} |
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|last=Zuber |first=T. |title=The Real German War Plan 1904–14 |edition=e-book |year=2010 |publisher=The History Press |location=New York |isbn=0-75247-290-9}} |
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* {{cite journal |ref={{harvid|Holmes|2014}} |
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|last=Holmes |first=T. M. |title=Absolute Numbers: The Schlieffen Plan as a Critique of German Strategy in 1914 |journal=War in History |volume=21 |issue=2 |date=April 2014 |publisher=Sage |location=Thousand Oaks, CA |issn=0968-3445}} |
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== 出典 == |
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{{Reflist}} |
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== 関連項目 == |
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* [[シュリーフェン・プラン]] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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*[http://www.dhm.de/lemo/html/biografien/SchlieffenAlfred/ ドイツ歴史博物館]経歴紹介(ドイツ語) |
* [http://www.dhm.de/lemo/html/biografien/SchlieffenAlfred/ ドイツ歴史博物館]経歴紹介(ドイツ語) |
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{{Commons|Alfred von Schlieffen}} |
{{Commons|Alfred von Schlieffen}} |
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{{先代次代|[[プロイセン参謀本部|ドイツ帝国陸軍参謀総長]]|1891-1905|[[アルフレート・フォン・ヴァルダーゼー]]|[[ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ|ヘルムート・フォン・モルトケ]]}} |
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| title = [[File:War Ensign of Germany (1903-1918).svg|25px]] [[プロイセン参謀本部|ドイツ帝国陸軍参謀総長]] |
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[[he:אלפרד פון שליפן]] |
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[[hr:Alfred von Schlieffen]] |
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[[hu:Alfred von Schlieffen]] |
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[[it:Alfred von Schlieffen]] |
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[[ka:ალფრედ ფონ შლიფენი]] |
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[[ko:알프레트 폰 슐리펜]] |
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[[lv:Alfrēds fon Šlīfens]] |
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[[nl:Alfred von Schlieffen]] |
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[[no:Alfred Graf von Schlieffen]] |
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[[pl:Alfred von Schlieffen]] |
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[[pt:Alfred von Schlieffen]] |
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[[ru:Шлиффен, Альфред фон]] |
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[[sl:Alfred von Schlieffen]] |
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[[sr:Алфред фон Шлифен]] |
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[[sv:Alfred von Schlieffen]] |
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[[tr:Alfred von Schlieffen]] |
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[[zh:阿尔弗雷德·冯·施里芬]] |
2023年12月12日 (火) 04:55時点における版
アルフレート・フォン・シュリーフェン Alfred von Schlieffen | |
---|---|
生誕 |
1833年2月28日 プロイセン王国 ベルリン |
死没 |
1913年1月4日(79歳没) ドイツ帝国 プロイセン王国 ベルリン |
所属組織 |
プロイセン王国陸軍 ドイツ帝国陸軍 |
軍歴 | 1854年 - 1906年 |
最終階級 | 陸軍元帥 |
墓所 | ベルリン軍人墓地 |
アルフレート・フォン・シュリーフェン Alfred von Schlieffen | |
---|---|
在任期間 | 1891年2月7日 - 1906年1月1日 |
アルフレート・フォン・シュリーフェン伯爵(Alfred Graf von Schlieffen, 1833年2月28日 - 1913年1月4日)は、ドイツ帝国の軍人。陸軍元帥。
軍事戦略家であり、第二次世界大戦に至るまで使われ続けた、対仏侵攻作戦「シュリーフェン・プラン」の考案者。
来歴
プロイセン軍入隊
1833年2月にベルリンで、プロイセン軍少将マグヌス・フォン・シュリーフェンの息子として生まれ、1842年に父の領地シレジアに移り幼少期を過ごした。シュリーフェンは軍人に関心がなかったため士官学校には進まず、ベルリンの大学に進学した[1]。大学では法学を専攻し、1853年に徴兵のためプロイセン陸軍に入隊し、1年間の兵役を務めた[2]。兵役終了後、シュリーフェンは士官候補生に選ばれ、正規軍人としてプロイセン軍に所属することになった。1868年に従兄妹のアンナ・フォン・シュリーフェンと結婚し、二女(長女エリーザベト・アウグスト・マリー・エルネスティーネ、次女マリー)をもうけるが、アンナはマリーを生んだ際に死去した[1]。アンナの死後、シュリーフェンは家庭を顧みずに軍務に専念するようになった[3]。
参謀総長
1858年に上官の推薦を得て陸軍大学に入学[1]。1861年にシュリーフェンは優秀な成績を修め陸軍大学を卒業し、翌1862年にプロイセン参謀本部地形課に配属される[1]。地形課での勤務を通して、地形や天候の戦略的・戦術的価値を認識し、後年のシュリーフェン・プラン作成に影響を与えた。
1866年の普墺戦争には大尉として従軍し、ケーニヒグレーツの戦いに参戦し[1]、大尉に昇進する。その後2年間パリに駐在し、1868年に帰国してハノーバー第10軍団参謀となる[4]。1870年普仏戦争に少佐として従軍した[3]。戦後はバーデン大公フリードリヒ1世の幕僚として戦史部門の主任を務めた後、近衛ウーラン連隊長や参謀本部付を務める。1884年に参謀本部局長に就任、1886年12月4日に少将に昇進し、1888年に参謀次長に任命される[3]。
1891年にアルフレート・フォン・ヴァルダーゼーの後任として参謀総長に就任し、1903年に上級大将に昇進。1905年に仮想敵国ロシア帝国とフランスに対する作戦計画「シュリーフェン・プラン」を考案した。同年8月に幕僚の馬に蹴られて負傷するが、その際に「これでは戦場に出れない!」と叫んだという。これ以降、軍務に支障をきたすようになり、翌1906年に退役する[2]。その後任としてコルマール・フォン・デア・ゴルツが候補に挙がったが、ヴィルヘルム2世に嫌われていたため任命されず、皇帝のお気に入りだった小モルトケが後任に選ばれた[5]。
退役後
退役後は軍事雑誌に古今の戦史に関する論文を寄稿するなどして後進の啓発に努めた[6]。1911年に元帥に列せられたが、純粋に名誉的な措置であった。第一次世界大戦勃発の前年、1913年1月4日にベルリンで死去し、軍人墓地に葬られた[2]。墓所には皇帝ヴィルヘルム2世により献花が行われた。
シュリーフェンの最期の言葉として、シュリーフェン・プランと関連した「我に強い右翼を!(Macht mir den rechten Flügel stark!)」という言葉が広く知られている。シュリーフェンがフランス攻撃計画でベルギーを通過するドイツ軍右翼を最重視して常々この言葉を述べていたのは事実であるが、主治医であるロフス軍医の回顧録によれば、死の床にあるシュリーフェンは軍事や歴史、政治、家族のことなどを支離滅裂に口にする状態であり、実際に「最期の言葉」といえるのは、自分の病状を冷静に分析した「小さな原因が大きな結果を招く(Kleine Ursachen, große Wirkungen)」というものだったという。この逸話はシュリーフェンの死後数十年の間に流布したという。
対仏露戦略
シュリーフェン・プラン
シュリーフェン・プランは大モルトケやヴァルダーゼーの基本計画を具体化したものであった。露仏両国との二正面戦争を避けるため、開戦後全力を挙げて短期間でのフランス攻略を目指し、次いで鉄道輸送を駆使して部隊を東に輸送して残る敵ロシアを攻撃するという計画であった。この計画は1905年に完成したが不備な点が多くシュリーフェンは改訂を重ねるが、同年に馬に蹴られて負傷して以降体力が衰えてしまい、翌年参謀総長を辞職し退役する。
シュリーフェン・プラン実現のため、シュリーフェン以後のドイツ軍は移動可能な重砲の配備や輸送部隊を中心とする兵站の充実に力を入れたが、後任者の小モルトケは第一次世界大戦で、みずからによる修正版シュリーフェン・プランを実行するが、ドイツ軍の進撃はマルヌ会戦で頓挫し、以後はシュリーフェンの想定しなかった塹壕戦・総力戦に移行することになる[7]。シュリーフェンは軍司令官というよりも作戦理論家の性格が強かった。
国民皆兵と戦力増強
シュリーフェンはドイツとフランスの徴兵率(独:55%、仏:80%)の格差について、戦術と運用能力では戦力差を埋められないと懸念を抱いていた。この懸念は露仏同盟の成立により深刻化した。シュリーフェンは予備役を含めて部隊を増強するため、国民皆兵の徹底を企図した[8]。
しかし、徴兵を管轄するプロイセン戦争省は平時に予算のかかる徴兵率の増加に反対する帝国議会に配慮せざるを得なかった。その中で、シュリーフェンは自身の在任中に戦争が起きた場合に備えて新部隊の編成を訴え、予備役兵を交換大隊として運用することにした[9]。1891年6月以降、シュリーフェンは旅団規模の交換大隊の増強を訴え始める。しかし、戦争省はコストのかかる交換大隊の増強を受け入れず、エーリヒ・ルーデンドルフが台頭する1911年まで主だった戦力増強は行われなかった。彼はシュリーフェン・プランの中でも国民皆兵・戦力増強を前提とした96師団による作戦を立案していたが、前提通りの国民皆兵・戦力増強はされなかった[9]。また、シュリーフェン自身も、仮に想定通りの師団があったとしても、フランスを包囲することは不可能だと感じていた[10]。
1893年12月11日に完成された計画書では、ロシア軍を殲滅するためには東プロイセンに戦力を総動員するべきと主張している。シュリーフェンは東プロイセンの武装民兵を前面に配置し、その背後にドイツ軍を動員してロシア軍を迎え撃つことを想定していた[11]。
参考文献
- 四手井綱正講述 『戦争史概観』 岩波書店、1943年
- Dupuy, T. N. (1977). A Genius for War: The German Army and General Staff. New Jersey: Prentice Hall. ISBN 0-13-351114-6
- Walter, Goerlitz (1967). History of The German General Staff. New York: Frederick A. Praeger
- ヴァルター・ゲルリッツ 著、守屋純 訳『ドイツ参謀本部興亡史 上』学研M文庫、2000年。ISBN 978-4059010173。
- ヴァルター・ゲルリッツ 著、守屋純 訳『ドイツ参謀本部興亡史 下』学研M文庫、2000年。ISBN 978-4059010180。
- Zuber, Terence (2002). Inventing the Schlieffen Plan: German War Planning, 1871–1914. New York: Oxford University Press. ISBN 0-19-925016-2
- Zuber, Terence (2004). German War Planning, 1891-1914: Sources and Interpretations. Woodbridge: The Boydell Press. ISBN 1-84383-108-2Cannae
- Zuber, T. (2010). The Real German War Plan 1904–14 (e-book ed.). New York: The History Press. ISBN 0-75247-290-9
- Holmes, T. M. (April 2014). “Absolute Numbers: The Schlieffen Plan as a Critique of German Strategy in 1914”. War in History (Thousand Oaks, CA: Sage) 21 (2). ISSN 0968-3445.
出典
- ^ a b c d e Dupuy 1977, p. 128.
- ^ a b c V. J. Curtis, "Understanding Schlieffen," The Army Doctrine and Training Bulletin 6, no. 3 (2003), p. 56.
- ^ a b c Dupuy 1977, p. 129.
- ^ 『戦争史概観』 209頁
- ^ Walter 1967, p. 138.
- ^ 『戦争史概観』 219頁
- ^ Otto, Helmut (July 1979). “Alfred Graf von Schlieffen: Generalstabschef und Militärtheoretiker des Imperialistischen Deutschen Kaiserreiches Zwischen Weltmachstreben und Revolutionsfurcht”. Revue Internationale D'histoire Militaire 43: 74.
- ^ Zuber 2002, pp. 138–139.
- ^ a b Zuber 2002, p. 139.
- ^ Zuber 2004, p. 195.
- ^ Zuber 2002, p. 140.
関連項目
外部リンク
- ドイツ歴史博物館経歴紹介(ドイツ語)
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