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'''夏侯威'''('''かこうい'''、生没年不詳)は、[[魏]]の[[武将]]。[[夏侯淵]]の四男([[三国志演義]]では次男)。[[字]]は季権(季權)。子は[[夏侯駿]]・[[夏侯荘]]。孫に、夏侯湛・夏侯淳・夏侯琬・夏侯瑫・夏侯謨・夏侯總・夏侯瞻ら(いずれも夏侯荘の子)、曾孫に、夏侯承(夏侯淳の子)らがいる。
'''夏侯 威'''(かこう い、生没年不詳)は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[魏 (三国)|魏]]の武将・政治家。[[字 (人名)|字]]は'''季権'''。父は[[夏侯淵]]。兄は夏侯衡・[[夏侯覇]]・[[夏侯称]]。弟は[[夏侯栄]]・[[夏侯恵]]・[[夏侯和]]。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏志「諸夏侯曹伝」「方技伝」・『[[晋書]]』「[[羊祜]]伝」に記述がある。


== 人物 ==
男気のある人物で、父に劣らぬ勇将だった。[[蜀|蜀漢]]との戦いで活躍し、[[荊州]][[刺史]]を務めた。兄の[[夏侯覇]]が[[司馬懿]]に反乱を起こして、[[雍州]]刺史の[[郭淮]]に敗れて止むなく蜀漢に亡命した。その時に甥の[[夏侯献]]ら夏侯覇の諸子が司馬懿によって[[楽浪郡]]に流罪された後も、彼は引き続き司馬懿に仕えて忠実に役目を遂行したという。
男気のある人物だったという(「諸夏侯曹伝」が引く『世語』)。[[太和 (魏)|太和]]年間、他の3人の兄弟と共に[[関内侯]]に封じられた(「諸夏侯曹伝」)。


ある年、[[泰山郡]]に赴任した時、泰山の名門出身である羊祜と出会って相互に語り合った結果、夏侯威はこの青年が只者ではないと評価し、[[姪]](夏侯覇の娘)を羊祜に嫁がせ縁戚関係を結んだという(「羊祜伝」)。
る日、人相[[朱建平]]という人物が、夏侯威の寿命は49歳の時災難があり、それを乗り越えれば70歳まで生きれるだろうと予言した。49歳の時12月になると病にかか夏侯威は覚悟を決めた。ところが、は快方に向かっていったので、50歳になる([[数え年]]では新年ごとに年齢を増やす)前日回復祝いの酒宴を開き「朱建平の戒めた時期も、確かに無事に過ごせた」と言った。ところが、その日の深夜に病が再発し死去したという。


[[荊州]][[刺史]]を務めた後、最終的には[[兗州]]刺史となった(「諸夏侯曹伝」及び同伝引く『世語』)。
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これより以前、[[曹丕]]が太子(五官中郎将)でったころ[[曹操]]に召し出されていた人相見[[朱建平]]という人物を呼び出し、自分や周囲の人達の人相を見させたことあった。このとき朱建平は夏侯威の人相を見て、49歳の時には州牧(刺史より権限が強いが、魏ではほとんど任命されなかった)に昇るが、そのときに災難があり、それを乗り越えれば70歳まで生き、天子の後見役を任されるだろうと予言した。夏侯威はほぼ予言通り州刺史になっていたが、49歳の時12月上旬になると病にかかったため朱建平の言葉を思い出し覚悟を決め、遺言を作り葬儀の準備をさせた。ところが、12月下旬に病が快方に向かっていったので、50歳になる([[数え年]]では新年ごとに年齢を増やす)前日回復祝いの酒宴を開き「朱建平の戒めた時期も、確かに無事に過ごせた」と言った。ところが、その日の深夜に病が再発し死去したという(「方技伝」)
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子孫は[[司馬氏]]と通婚関係を結び、[[東晋]]の帝室の[[外戚]]となるなど栄えた(「諸夏侯曹伝」が引く『世語』)。
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小説『[[三国志演義]]』では、兄弟の夏侯覇・夏侯恵・夏侯和と共に[[司馬懿]]の抜擢を受け、[[諸葛亮]]の[[北伐]]の防衛に当たる魏将として登場する。

== 一族 ==
=== 妻妾 ===
*曹夫人([[曹真]]の末妹)

=== 子 ===
*[[夏侯駿]](字は長容)
*[[夏侯荘]](字は仲容)

=== 孫 ===
*[[夏侯湛]](字は孝若)
*[[夏侯淳]](字は孝沖)
*[[夏侯]]
*[[夏侯瑫]]
*[[夏侯謨]]
*[[夏侯総]]
*[[夏侯瞻]]
*夏侯光姫(字は銅環、西晋の琅邪王[[司馬覲]]の夫人で、東晋の元帝[[元帝 (東晋)|司馬睿]]の生母)
:いずれも夏侯荘の子。

=== 曾孫 ===
*[[夏侯承]](字は'''文子'''、夏侯淳の子)

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[[Category:夏侯氏|い]]
[[Category:曹操軍の人物]]
[[Category:魏の人物]]
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[[Category:生没年不詳]]

2023年12月21日 (木) 19:04時点における最新版

夏侯 威(かこう い、生没年不詳)は、中国三国時代の武将・政治家。季権。父は夏侯淵。兄は夏侯衡・夏侯覇夏侯称。弟は夏侯栄夏侯恵夏侯和。『三国志』魏志「諸夏侯曹伝」「方技伝」・『晋書』「羊祜伝」に記述がある。

人物

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男気のある人物だったという(「諸夏侯曹伝」が引く『世語』)。太和年間、他の3人の兄弟と共に関内侯に封じられた(「諸夏侯曹伝」)。

ある年、泰山郡に赴任した時、泰山の名門出身である羊祜と出会って相互に語り合った結果、夏侯威はこの青年が只者ではないと評価し、(夏侯覇の娘)を羊祜に嫁がせ縁戚関係を結んだという(「羊祜伝」)。

荊州刺史を務めた後、最終的には兗州刺史となった(「諸夏侯曹伝」及び同伝引く『世語』)。

これより以前、曹丕が太子(五官中郎将)であったころ、曹操に召し出されていた人相見の朱建平という人物を呼び出し、自分や周囲の人達の人相を見させたことがあった。このとき、朱建平は夏侯威の人相を見て、49歳の時には州牧(刺史より権限が強いが、魏ではほとんど任命されなかった)に昇るが、そのときに災難があり、それを乗り越えれば70歳まで生き、天子の後見役を任されるだろうと予言した。夏侯威はほぼ予言通り州刺史になっていたが、49歳の時12月上旬になると病にかかったため、朱建平の言葉を思い出し覚悟を決め、遺言を作り葬儀の準備をさせた。ところが、12月下旬には病が快方に向かっていったので、50歳になる(数え年では新年ごとに年齢を増やす)前日に回復祝いの酒宴を開き「朱建平の戒めた時期も、確かに無事に過ごせた」と言った。ところが、その日の深夜に病が再発し死去したという(「方技伝」)。

子孫は司馬氏と通婚関係を結び、東晋の帝室の外戚となるなど栄えた(「諸夏侯曹伝」が引く『世語』)。

小説『三国志演義』では、兄弟の夏侯覇・夏侯恵・夏侯和と共に司馬懿の抜擢を受け、諸葛亮北伐の防衛に当たる魏将として登場する。

一族

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妻妾

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  • 曹夫人(曹真の末妹)

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いずれも夏侯荘の子。

曾孫

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  • 夏侯承(字は文子、夏侯淳の子)