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'''郭 頒'''(かく はん、生没年不詳)は、[[中国]]の[[晋 (王朝)|西晋代]]の[[政治家]]、[[歴史家]]。[[字]]は長公<ref>『[[水経注]]』巻22</ref>。 |
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[[晋 (王朝)|西晋]]に仕え、令史となった<ref>[[三国志]]魏書 |
[[晋 (王朝)|西晋]]に仕え、令史となった<ref>『[[三国志]]』巻4魏書三 少帝紀 裴松之注「案張璠、虞溥、郭頒皆晋之令史,璠、頒出為官長,溥、鄱陽内史」</ref>。後に[[襄州区|襄陽]][[県令]]となった<ref>『[[隋書]]』巻33経籍志二</ref>。著作に『[[三国志 (歴史書)#裴松之の注に引用された主要文献|魏晋世語]]』10巻、『群英論』1巻<ref>『隋書』巻34経籍志三</ref>がある。これらの著作はいずれも散逸し、『[[三国志]]』に[[裴松之]]が注釈としてつけた部分のみが現存している。『魏晋世語』は後世には[[唐]]の太宗[[太宗 (唐)|李世民]]の諱を避け、『魏晋代語』<ref>『[[旧唐書]]』巻46経籍志上</ref>、『魏晋代説』<ref>『[[新唐書]]』巻58芸文志二</ref>などと呼ばれた。 |
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裴松之は「見識が乏しく、文章は音の響きも悪い。最も卑劣な作だが、変わった記事が多いので世間によく読まれており、[[干宝]]、[[孫盛]]らが多く採用している。そのなかには誤りが多い」と極めて辛 |
裴松之は「見識が乏しく、文章は音の響きも悪い。最も卑劣な作だが、変わった記事が多いので世間によく読まれており、[[干宝]]、[[孫盛]]らが多く採用している。そのなかには誤りが多い」と極めて辛辣な評価をくだしている<ref>『[[三国志]]』巻4魏書三 少帝紀 裴松之注「蹇乏全無宮商,最為鄙劣,以時有異事,故頗行於世。干宝、孫盛等多采其言以為晋書,其中虚錯如此者,往往而有之」</ref>。 |
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== 注釈 == |
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2023年12月23日 (土) 16:49時点における最新版
郭 頒(かく はん、生没年不詳)は、中国の西晋代の政治家、歴史家。字は長公[1]。
経歴
[編集]西晋に仕え、令史となった[2]。後に襄陽県令となった[3]。著作に『魏晋世語』10巻、『群英論』1巻[4]がある。これらの著作はいずれも散逸し、『三国志』に裴松之が注釈としてつけた部分のみが現存している。『魏晋世語』は後世には唐の太宗李世民の諱を避け、『魏晋代語』[5]、『魏晋代説』[6]などと呼ばれた。
評価
[編集]裴松之は「見識が乏しく、文章は音の響きも悪い。最も卑劣な作だが、変わった記事が多いので世間によく読まれており、干宝、孫盛らが多く採用している。そのなかには誤りが多い」と極めて辛辣な評価をくだしている[7]。