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{{Expand English|James A. Garfield|date=2021年4月|fa=yes}}
{{Infobox President
{{大統領
|nationality = {{USA}}
| 人名 = ジェームズ・ガーフィールド
|image = James Abram Garfield, photo portrait seated.jpg
| 各国語表記 = James Garfield
|imagesize = 245px
| 画像 = James_Abram_Garfield%2C_photo_portrait_seated.jpg
|caption = <!--[[マシュー・ブラディ]]、[[レヴィン・コービン・ハンディ]]撮影-->
| 画像サイズ = 250px
|order = [[歴代アメリカ合衆国大統領の一覧|第20代]] [[アメリカ合衆国大統領]]
| 国名 = {{USA1877}}
|term_start = 1881年3月4日
| 代数 = 第20
|term_end = 1881年9月19日
| 職名 = [[アメリカ合衆国大統領|大統領]]
|predecessor = [[ラザフォード・ヘイズ]]
| 就任日 = [[1881年]][[3月4日]]
|successor = [[チェスター・A・アーサー|チェスター・アーサー]]
| 退任日 = 1881年[[9月19日]]
|office2 = 下院歳出委員会委員長
| 副大統領 = [[チェスター・A・アーサー]]
|term_start2 = 1871年
| 副大統領職 = 副大統領
|term_end2 = 1875年
| 国名2 = {{USA1867}}
|preceded2 = [[ヘンリー・ドウズ]]
| 職名2 = 下院歳出委員会委員長
|succeeded2 = [[サミュエル・ランダル]]
| 就任日2 = [[1871年]]
|state3 = [[オハイオ州]]
| 退任日2 = [[1875年]]
|district3 = [[オハイオ州第19選挙区|第19選挙区]]
| 国名3 = {{USA1877}}
|term_start3 = 1863年3月4日
| 職名3 = [[アメリカ合衆国下院|下院議員]]
|term_end3 = 1881年3月3日
| 就任日3 = [[1863年]]3月4日
|predecessor3 = [[アルバート・リドル]]
| 退任日3 = 1881年[[3月3日]]
|successor3 = [[エズラ・テイラー]]
| 出生日 = [[1831年]][[11月19日]]
|birth_date = {{Birth date|mf=yes|1831|11|19|mf=y}}
|birth_place = [[オハイオ州]][[モアランド・ヒルズ (オハイオ州)|モアランド・ヒルズ]]
| 生地 = {{USA1822}} [[オハイオ州]][[モアランド・ヒルズ (オハイオ州)|モアランド・ヒルズ]]
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1831|11|19|1881|9|19}}
|birthname = James Abram Garfield
| 没地 = {{USA1877}} [[ニュージャージー州]][[エルバロン (ニュージャージー州)|エルバロン]]
|death_date = {{Death date and age|mf=yes|1881|9|19|1831|11|19}}
| 出身校 = [[:en:Hiram College|ハイラム大学]]<br/>[[ウィリアムズ大学]]
|death_place = [[ニュージャージー州]][[エルバロン (ニュージャージー州)|エルバロン]]
| 配偶者 = [[ルクレティア・ガーフィールド]]
|restingplace = [[オハイオ州]][[クリーブランド]]
|spouse = [[ルクレティア・ガーフィールド|クレティア・ルドルフ・ガーフィールド]]
| 子女 = エリザ・アーベラ・ガーフィールド<br/>[[ハリー・オーガスタス・ガーフィールド]]<br/>[[ジェームズ・ドルフ・ガーフールド]]<br/>メリーガーフィールド<br/>アーヴィン・M・ガーフィード<br/>エイブラム・ガーィールド<br/>エドワード・ガーフィールド
| 政党 = [[共和党 (アメリカ)|共和党]]
|children = エリザ・アーベラ・ガーフィールド<br/>[[ハリー・オーガスタス・ガーフィールド]]<br/>[[ジェームズ・ルドルフ・ガーフィールド]]<br/>メアリー・ガーフィールド<br/>アーヴィン・M・ガーフィールド<br/>エイブラム・ガーフィールド<br/>エドワード・ガーフィールド
| サイン = James_Abram_Garfield_Signature.svg
|occupation = [[弁護士]], [[教育|教育者]], [[教役者]]
}}
|party = [[共和党 (アメリカ)|共和党]]
{{基礎情報 軍人
|vicepresident = [[チェスター・A・アーサー|チェスター・アーサー]]
|氏名= ジェームズ・ガーフィールド
|religion = [[宗教回復運動|キリスト教会]]
|各国語表記= James Garfield
|alma_mater = [[ハイラム大学|ウエスタン・リザーブ折衷学研究所]]<br/>[[ウィリアムズ大学]]
|所属組織= {{USA}}
|signature = James Abram Garfield Signature.svg
|軍歴= 1861年 - 1863年
|signature_alt = Cursive signature in ink
|最終階級= [[少将]]
|allegiance = {{USA}}
}}
|serviceyears = 1861年 - 1863年
|rank = [[少将]]
|commands = [[:w:en:42nd Ohio Infantry|第42オハイオ義勇歩兵連隊]]<br/>[[オハイオ州陸軍]]第6師団第20旅団
|unit =
|battles = [[南北戦争]]<br/>
*[[ミドルクリークの戦い]]
*[[シャイローの戦い]]
*[[コリンスの包囲戦]]
*[[チカマウガの戦い]]
|awards=}}
'''ジェームズ・エイブラム・ガーフィールド'''('''{{lang|en|James Abram Garfield}}''', [[1831年]][[11月19日]] - [[1881年]][[9月19日]])は、第20代[[アメリカ合衆国大統領]]。暗殺された二人目の大統領<ref name="Frederic D. Schwarz">[http://www.americanheritage.com/articles/magazine/ah/2006/3/2006_3_72.shtml Frederic D. Schwarz] "1881: President Garfield Shot," ''American Heritage'', June/July 2006.</ref>であり、初の左利きの大統領でもあり、大統領に選出された唯一の現職下院議員でもある<ref>[http://www.ohiohistorycentral.org/entry.php?rec=170 Ohio Historical Society]</ref>。大統領選挙史上最も僅差(約1万票)で当選したが、在任は[[ウィリアム・ハリソン]]に次いで短く6ヶ月と15日に過ぎなかった。


'''ジェームズ・エイブラム・ガーフィールド'''({{lang|en|James Abram Garfield}}, [[1831年]][[11月19日]] - [[1881年]][[9月19日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[政治家]]、[[弁護士]]。第20代[[アメリカ合衆国大統領]]。暗殺された2人目の大統領<ref name="Frederic D. Schwarz">[http://www.americanheritage.com/articles/magazine/ah/2006/3/2006_3_72.shtml Frederic D. Schwarz] "1881: President Garfield Shot," ''American Heritage'', June/July 2006.</ref>であり、初の左利きの大統領でもあり、大統領に選出された唯一の現職下院議員でもある<ref>[http://www.ohiohistorycentral.org/entry.php?rec=170 Ohio Historical Society]</ref>。在任は[[ウィリアム・ハリソン]]に次いで短く6か月と15日に過ぎなかった。
ガーフィールドはオハイオ州[[モアランド・ヒルズ (オハイオ州)|モアランド・ヒルズ]]に生まれ、1856年にマサチューセッツ州のウィリアムズ大学を卒業した。1858年にルクレティア・ルドルフと結婚し、オハイオ州上院議員(1859年 - 61年)時の1860年に法曹界入りを認められた。ガーフィールドは南北戦争の間、少将として合衆国陸軍に勤務し、[[シャイローの戦い]]に参加した。奴隷制度と南部諸州の連邦離脱に反対し、1863年に共和党員として下院議員に選出された。[[1880年アメリカ合衆国大統領選挙|1880年の大統領選]]では[[ユリシーズ・S・グラント|ユリシーズ・グラント]]、[[ジェイムズ・G・ブレイン|ジェームズ・ブレイン]]、[[ジョン・シャーマン (政治家)|ジョン・シャーマン]]といった共和党の主な候補者が大統領候補指名に必要な代議員を得ることができない中、ガーフィールドは妥協の産物として党大統領候補に指名されたが、本戦では首尾良く[[民主党 (アメリカ)|民主党]]候補の[[ウィンフィールド・スコット・ハンコック|ウィンフィールド・ハンコック]]に勝利した<ref name="James Garfield ">{{cite web |url=http://www.whitehouse.gov/about/presidents/jamesgarfield/ |title=James Garfield |publisher='''United States Government''', Biographical archives |<span style="font-size:7pt">|accessdate=2010-10-31}} </span></font></ref>

ガーフィールドはオハイオ州[[モアランド・ヒルズ (オハイオ州)|モアランド・ヒルズ]]に生まれ、1856年にマサチューセッツ州のウィリアムズ大学を卒業した。1858年にルクレティア・ルドルフと結婚し、オハイオ州上院議員(1859年 - 61年)時の1860年に法曹界入りを認められた。ガーフィールドは南北戦争の間、少将として合衆国陸軍に勤務し、[[シャイローの戦い]]に参加した。奴隷制度と南部諸州の連邦離脱に反対し、1863年に共和党員として下院議員に選出された。[[1880年アメリカ合衆国大統領選挙|1880年の大統領選]]では[[ユリシーズ・S・グラント|ユリシーズ・グラント]]、[[ジェイムズ・G・ブレイン|ジェームズ・ブレイン]]、[[ジョン・シャーマン (政治家)|ジョン・シャーマン]]といった共和党の主な候補者が大統領候補指名に必要な代議員を得ることができない中、ガーフィールドは妥協の産物として党大統領候補に指名されたが、本戦では首尾良く[[民主党 (アメリカ)|民主党]]候補の[[ウィンフィールド・スコット・ハンコック|ウィンフィールド・ハンコック]]に勝利した<ref name="James Garfield ">{{cite web |url=http://www.whitehouse.gov/about/presidents/jamesgarfield/ |title=James Garfield |publisher='''United States Government''', Biographical archives |<span style="font-size:7pt"> |accessdate=2010-10-31 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090122233941/http://www.whitehouse.gov/about/presidents/jamesgarfield/ |archivedate=2009年1月22日 |deadurldate=2017年9月 }} </span></font></ref>
。その就任演説でガーフィールドは多くの官庁改革を提案、そのほとんどが後継者の[[チェスター・A・アーサー|チェスター・アーサー]]により達成された([[ペンドルトン公務員改革法]]、1883年成立)。
。その就任演説でガーフィールドは多くの官庁改革を提案、そのほとんどが後継者の[[チェスター・A・アーサー|チェスター・アーサー]]により達成された([[ペンドルトン公務員改革法]]、1883年成立)。


ガーフィールドは1881年7月2日に[[ワシントンD.C.|首都ワシントン]]の鉄道駅で[[チャールズ・J・ギト|チャールズ・ギト]]によって銃撃され、長期の療養を余儀なくされたが、約2月後に死去した。在任が短かったことからその業績はかなものだった。
ガーフィールドは1881年7月2日に[[ワシントンD.C.|首都ワシントン]]の鉄道駅で[[チャールズ・J・ギト|チャールズ・ギト]]によって銃撃され<ref>{{Cite web|和書| url=https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170702-00000001-storyfulp-soci.view-004|title=【写真特集】今日は何の日?7月2日 ヘミングウェイ死去、ガーフィールド大統領暗殺事件など(アフロ) |publisher=Yahoo!ニュース|date=2017-07-02|accessdate=2020-07-01}}</ref>、長期の療養を余儀なくされたが、約2月後に死去した。在任が短かったことからその業績はわずかなものだった。


== 生い立ち ==
== 生 ==
=== 生い立ち ===
ガーフィールドは1831年11月19日に[[クリーブランド (オハイオ州)|クリーブランド]]の南東、[[オハイオ州]][[カヤホガ郡 (オハイオ州)|カヤホガ郡]]オレンジ郡区(現在のオハイオ州[[モアランド・ヒルズ (オハイオ州)|モアランド・ヒルズ]])の丸太小屋で、5人兄弟の末っ子として生まれた<ref name=jgf>http://jamesgarfieldfacts.com/</ref>。彼は父親のエイブラム・ガーフィールドおよび年長の兄ジェームズ・バルー・ガーフィールドに名付けられた。父はその大きな体躯で地域ではレスラーとして有名であったが<ref>[[#Peskin|Peskin]] (1978), p.4</ref>、ガーフィールドが17か月のとき<ref name="reeves164">{{Cite book| last = Reeves | first = Thomas C. | authorlink = | coauthors = | title = Gentleman Boss | publisher = Alfred A. Knopf | year = 1975 | location = NY, NY | pages = 164 | isbn = 0-394-46095-2}}</ref>、[[1833年]]に死去した<ref name=ohc170>[http://www.ohiohistorycentral.org/entry.php?rec=170 Ohiohistorycentral.org]</ref>。ウェールズの祖先を持つガーフィールドは母親のイライザ・バロウとおじによって育てられた。母親は「彼は私が育てた最も大きな赤ん坊で、赤いアイルランド人のように見えた。」と語っている<ref>[[#Peskin|Peskin]] (1978), p.6.</ref>。両親は使徒教会に加わり、それは後に彼らの息子へ深く影響を及ぼした<ref>[[#Peskin|Peskin]] (1978), p.8</ref>。
ガーフィールドは1831年11月19日に[[クリーブランド (オハイオ州)|クリーブランド]]の南東、[[オハイオ州]][[カヤホガ郡 (オハイオ州)|カヤホガ郡]]オレンジ郡区(現在のオハイオ州[[モアランド・ヒルズ (オハイオ州)|モアランド・ヒルズ]])の丸太小屋で、5人兄弟の末っ子として生まれた<ref name=jgf>http://jamesgarfieldfacts.com/</ref>。彼は父親のエイブラム・ガーフィールドおよび年長の兄ジェームズ・バルー・ガーフィールドに名付けられた。父はその大きな体躯で地域ではレスラーとして有名であったが<ref>[[#Peskin|Peskin]] (1978), p.4</ref>、ガーフィールドが17か月のとき<ref name="reeves164">{{Cite book| last = Reeves | first = Thomas C. | authorlink = | coauthors = | title = Gentleman Boss | publisher = Alfred A. Knopf | year = 1975 | location = NY, NY | pages = 164 | isbn = 0-394-46095-2}}</ref>、[[1833年]]に死去した<ref name=ohc170>[http://www.ohiohistorycentral.org/entry.php?rec=170 Ohiohistorycentral.org]</ref>。ウェールズの祖先を持つガーフィールドは母親のイライザ・バロウとおじによって育てられた。母親は「彼は私が育てた最も大きな赤ん坊で、赤いアイルランド人のように見えた。」と語っている<ref>[[#Peskin|Peskin]] (1978), p.6.</ref>。1833年、両親は[[ディサイプルス]]教会に加わり、それは後に彼らの息子へ深く影響を及ぼした<ref>[[#Peskin|Peskin]] (1978), p.8</ref>。
[[ファイル:Garfield-at-16.jpg|200px|thumb|16歳の時に撮影]]
[[ファイル:Garfield-at-16.jpg|200px|thumb|16歳の時に撮影]]
ガーフィールドはオレンジ郡区の学校に入学したが、16歳のときに自ら退学し船員となり、クリーブランドの近くの運河で6週間働いた。病気のため帰宅を強いられたが、回復後はジアーガ・アカデミーに入学する。同校で彼は生涯に渡って継続した学問へのインスピレーション、学ぶことと教えることの両方を得た。ガーフィールドは後にこの時代を回想し、「私は貧困の中に生まれ、幼年期を混沌の中で過ごし、どんなインスピレーションをも捕らえる前に17年が過ぎてしまったことを嘆く...その17年は父親といくらかの富を持つ少年が男らしく修正されたかもしれない貴重な17年であった。」と語った。<!--彼は1849年に思いがけず教職への着任を申し込まれ、それを引き受けた。その後「私の人生の法則」になった「場所の探知」の個人的な拒絶を発達させた。-->1850年にガーフィールドは省みることの無かった教会への礼拝を再開し、洗礼を受けた。
ガーフィールドはオレンジ郡区の学校に入学したが、16歳のときに自ら退学し船員となり、クリーブランドの近くの運河で6週間働いた。病気のため帰宅を強いられたが、回復後はジアーガ・アカデミーに入学する。同校で彼は生涯に渡って継続した学問へのインスピレーション、学ぶことと教えることの両方を得た。ガーフィールドは後にこの時代を回想し、「私は貧困の中に生まれ、幼年期を混沌の中で過ごし、どんなインスピレーションをも捕らえる前に17年が過ぎてしまったことを嘆く...その17年は父親といくらかの富を持つ少年が男らしく修正されたかもしれない貴重な17年であった。」と語った。<!--彼は1849年に思いがけず教職への着任を申し込まれ、それを引き受けた。その後「私の人生の法則」になった「場所の探知」の個人的な拒絶を発達させた。-->1850年にガーフィールドは省みることの無かった教会への礼拝を再開し、洗礼を受けた。
64行目: 57行目:
ガーフィールドは法律を学び[[1860年]]にオハイオ州の法曹界に入った。その前の1859年にオハイオ州議会議員に選出され政界入りし、1861年まで熱心な共和党員として貢献した。
ガーフィールドは法律を学び[[1860年]]にオハイオ州の法曹界に入った。その前の1859年にオハイオ州議会議員に選出され政界入りし、1861年まで熱心な共和党員として貢献した。


== 軍歴 ==
=== 軍歴 ===
[[南北戦争]]が始まり、ガーフィールドは北軍に入隊し、第42オハイオ志願兵連隊の指揮官に任命された。[[1861年]]11月、東ケンタッキーから南部連邦軍を排除する任務を[[ドン・カルロス・ビューエル]]将軍より授かる。第18旅団を与えられると、12月に第40、第42オハイオ歩兵師団、第14、第22ケンタッキー歩兵師団、第2ヴァージニア騎兵隊、マクローリン騎兵師団と共に[[ケンタッキー州]]ケトレッツバーグを出発した。行軍はケンタッキー州ペインツヴィルに達するまで何事も起こらなかった。南部連邦軍はケンタッキー州プレストンバーグからヴァージニア州方面へ2マイルのミドル・クリークに後退、ガーフィールドは[[1862年]]1月9日に攻撃を命じたが、南部連邦軍は戦場から撤退した。ガーフィールドは追撃は行わず、兵員補充後は部隊にプレストンバーグからの撤退を命じている。この戦闘での功績が認められ、4月には[[シャイローの戦い]]に参加するため西に移動した。チカマウガでも戦闘に参加し、最終的には少将の位にまで昇任した。
[[南北戦争]]が始まり、ガーフィールドは北軍に入隊し、第42オハイオ志願兵連隊の指揮官に任命された。[[1861年]]11月、東ケンタッキーから南部連邦軍を排除する任務を[[ドン・カルロス・ビューエル]]将軍より授かる。第18旅団を与えられると、12月に第40、第42オハイオ歩兵師団、第14、第22ケンタッキー歩兵師団、第2ヴァージニア騎兵隊、マクローリン騎兵師団と共に[[ケンタッキー州]]ケトレッツバーグを出発した。行軍はケンタッキー州ペインツヴィルに達するまで何事も起こらなかった。南部連邦軍はケンタッキー州プレストンバーグからヴァージニア州方面へ2マイルのミドル・クリークに後退、ガーフィールドは[[1862年]]1月9日に攻撃を命じたが、南部連邦軍は戦場から撤退した。ガーフィールドは追撃は行わず、兵員補充後は部隊にプレストンバーグからの撤退を命じている。この戦闘での功績が認められ、4月には[[シャイローの戦い]]に参加するため西に移動した。チカマウガでも戦闘に参加し、最終的には少将の位にまで昇任した。


== 政治経歴 ==
=== 政治経歴 ===
[[1863年]]には下院議員に選任され、再び政界入りした。彼は[[1878年]]まで2年ごとに再選された。この時代は、「[[金ぴか時代]]」と呼ばれ産業の発展により様々な業種で合併が進み、独占資本が形成されたが政財界の癒着が強まり汚職事件が多発した。
[[1863年]]には下院議員に選任され、再び政界入りした。彼は[[1878年]]まで2年ごとに再選された。この時代は、「[[金ぴか時代]]」と呼ばれ産業の発展により様々な業種で合併が進み、独占資本が形成されたが政財界の癒着が強まり汚職事件が多発した。
[[File:PresidentJamesAGarfieldStandingFacingLeft.jpg|200px|thumb|1870年代に撮影]]
[[File:PresidentJamesAGarfieldStandingFacingLeft.jpg|200px|thumb|1870年代に撮影]]
ガーフィールドは[[ユリシーズ・グラント|グラント]]政権下でおきた鉄道利権をめぐる大規模な収賄事件である「[[クレディ・モビリエ事件]]」で、起訴された容疑者の一人として名を連ねた。しかし、議員辞職することは無かった。
ガーフィールドは[[ユリシーズ・グラント|グラント]]政権下でおきた鉄道利権をめぐる大規模な収賄事件である「[[クレディ・モビリエ事件]]」で、起訴された容疑者の一人として名を連ねた。しかし、議員辞職することは無かった。


== 大統領職 ==
=== 大統領職 ===
ガーフィールドは[[1880年アメリカ合衆国大統領選挙|1880年の大統領選挙]]に共和党の大統領候補として指名された。選挙戦では、豊富な資金力を背景に民主党の対立候補[[ウィンフィールド・スコット・ハンコック]]に対し優位に進め、第20代大統領に当選した。しかし、当選後は党内の有力政治家たちが主要ポストをめぐり対立した。
ガーフィールドは[[1880年アメリカ合衆国大統領選挙|1880年の大統領選挙]]に共和党の大統領候補として指名された。選挙戦では、豊富な資金力を背景に民主党の対立候補[[ウィンフィールド・スコット・ハンコック]]に対し優位に進め、第20代大統領に当選した。しかし、当選後は党内の有力政治家たちが主要ポストをめぐり対立した。


=== 内閣 ===
==== 内閣 ====
{|class="wikitable"
{| cellpadding="1" cellspacing="4" style="margin:3px; border:3px solid #000000;" align="left"
!職名!!氏名!!任期
!bgcolor="#000000" colspan="3"|
|-
|-
|[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]||ジェームズ・ガーフィールド||1881年
|align="left"|'''職名'''||align="left"|'''氏名'''||align="left"|'''任期'''
|-
|-
|[[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]]||[[チェスター・A・アーサー]]||1881年
!bgcolor="#000000" colspan="3"|
|-
|-
|align="left"|[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]||align="left"|'''ジェムズ・ガーフィールド'''||align="left"|1881
|[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]||[[ジェムズ・G・ブレイン]]||1881
|-
|-
|align="left"|[[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]]||align="left"|'''[[チェスター・A・アーサー]]'''||align="left"|1881
|[[アメリカ合衆国財務長官|財務長官]]||[[ウィリアムウィンダム (財務長官)|ウィリム・ウィンダム]]||1881
|-
|-
|[[アメリカ合衆国陸軍長官|陸軍長官]]||[[ロバート・トッド・リンカーン|ロバート・T・リンカーン]]||1881年
!bgcolor="#000000" colspan="3"|
|-
|-
|align="left"|[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]||align="left"|'''[[ェイムズG・ブレイン]]'''||align="left"|1881
|[[アメリカ合衆国司法長官|司法長官]]||[[ェイマクヴェーグ]]||1881
|-
|-
|align="left"|[[アメリカ合衆国財務長官|財務長官]]||align="left"|'''[[ウィリアムウィンダム (政治家)|ウィリアムウィンダム]]'''||align="left"|1881
|[[アメリカ合衆国郵政長官|郵政長官]]||[[トーマスLジェー]]||1881
|-
|-
|align="left"|[[アメリカ合衆国軍長官|軍長官]]||align="left"|'''[[ロバート・トッド・リンカーン|ロバート・T・リンカーン]]'''||align="left"|1881
|[[アメリカ合衆国軍長官|軍長官]]||[[ウィリアムヘンリー・ハト (海軍長官)|ウィリアムヘンリー・ハ]]||1881
|-
|-
|align="left"|[[アメリカ合衆国司法長官|司法長官]]||align="left"|'''[[ウェインヴェーグ]]'''||align="left"|1881
|[[アメリカ合衆国内務長官|内務長官]]||[[サミュエルJ・カーウッド]]||1881
|-
|align="left"|[[アメリカ合衆国郵政長官|郵政長官]]||align="left"|'''[[トーマス・L・ジェームズ]]'''||align="left"|1881
|-
|align="left"|[[アメリカ合衆国海軍長官|海軍長官]]||align="left"|'''[[ウィリアム・ヘンリー・ハント (海軍長官)|ウィリアム・ヘンリー・ハント]]'''||align="left"|1881
|-
|align="left"|[[アメリカ合衆国内務長官|内務長官]]||align="left"|'''[[サミュエル・J・カークウッド]]'''||align="left"|1881
|}
|}
<br clear="all">


== 暗殺 ==
=== 暗殺 ===
[[ファイル:AssasinationPresGarfield.JPG|200px|thumb|1881年7月2日]]
[[ファイル:AssasinationPresGarfield.JPG|200px|thumb|1881年7月2日]]
{{Main|ガーフィールド大統領暗殺事件}}
{{Main|ガーフィールド大統領暗殺事件}}
[[File:GarfieldMonument.jpg|200px|thumb|1890年に建立された[[ガーフィールド記念館]]]]
[[File:GarfieldMonument.jpg|200px|thumb|1890年に建立された[[ガーフィールド記念館]]]]
当時は猟官制が幅を利かせており、選挙民に賄賂を握らせたり候補者の宣伝を買って出た者も多かったとされる。その中にチャールズ・J・ギトと呼ばれる男がいた。ギトは、自分が選挙活動でガーフィールドを応援した見返りを求めていたが、彼は何の役職にも就けず、この一件で大いにガーフィールドを恨んだ。ギトは精神病歴を持つ弁護士で、神が大統領を殺すことを命じたと思いこんでいた。
当時は[[猟官制]]が幅を利かせており、選挙民に[[賄賂]]を握らせたり候補者の宣伝を買って出た者も多かったとされる。その中に[[チャールズ・J・ギトー|チャールズ・ギトー]]と呼ばれる男がいた。ギトは、自分が選挙活動でガーフィールドを応援した見返りを求めていたが、彼は何の役職にも就けず、この一件で大いにガーフィールドを恨んだ。ギトは精神病歴を持つ弁護士で、神が大統領を殺すことを命じたと思いこんでいた。

ガーフィールドは[[1881年]][[7月2日]]、大統領就任の4か月後にギトーによって銃撃された。[[ワシントンD.C.]]の鉄道駅で、背後からガーフィールドを44口径リボルバーで撃った。弾丸はガーフィールドの体内で発見することが出来ず、[[アレクサンダー・グラハム・ベル]]は弾丸を見つけようとして、[[金属探知機]]を考案した。しかし探知機は金属のベッドフレームを誤認し見つけることは出来なかった。ガーフィールドは感染症で病状が悪化したうえ、衰弱した体で転地したため、1881年9月19日に転地療養先の[[ニュージャージー州]]エルバロンで死去した。医師が弾丸摘出のために滅菌しない指で患部を探ったり、手を突っ込んだり、針で肝臓を傷つけるなどの荒療治がなかったら死ぬことはなかったとされる。

[[レイクビュー墓地]]内の[[ガーフィールド記念館]]の地下にはガーフィールド夫妻の棺が並んで安置されている<ref>{{Cite web|url=http://www.lakeviewcemetery.com/garfield.php|title=James A. Garfield Monument|publisher=The Lake View Cemetery|language=英語|accessdate=2014年2月23日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110228203419/http://www.lakeviewcemetery.com/garfield.php|archivedate=2011年2月28日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。

== トリビア ==
最も博学の大統領で、片手で[[ラテン語]]、もう一方の手で[[ギリシャ語]]を同時に書くことができた<ref>『ちょっと笑える話』[[ベネット・サーフ]]著、[[常盤新平]]訳、[[文藝春秋]]文春文庫、p25</ref>。


大学の学長({{仮リンク|ハイラム大学|en|Hiram College}})出身の初の大統領でもある<ref>『アメリカ大統領を読む事典』[[宇佐美滋]]著、[[講談社]]+α文庫、p310、p422</ref>。
ガーフィールドは[[1881年]][[7月2日]]、大統領就任の4か月後にギトウによって銃撃された。[[ワシントンD.C.]]の鉄道駅で、背後からガーフィールドを44口径リボルバーで撃った。弾丸はガーフィールドの体内で発見することが出来ず、[[アレクサンダー・グラハム・ベル]]は弾丸を見つけようとして、金属探知器を考案した。しかし探知機は金属のベッドフレームを誤認し見つけることは出来なかった。ガーフィールドは感染症で病状が悪化し、1881年9月19日に[[ニュージャージー州]]エルバロンで死去した。医師が弾丸摘出のために滅菌しない指で患部を探ったり、手を突っ込んだり、針で肝臓を傷つけるなどの荒療治がなかったら死ぬことはなかったとされる。


身長は6[[フィート]](約183cm)だった<ref>[https://www.businessinsider.com/us-president-first-lady-height-differences-2018-7 The height differences between all the US presidents and first ladies] [[ビジネス・インサイダー]]</ref>。
[[レイクビュー墓地]]内の[[ガーフィールド記念館]]にはガーフィールド夫妻の棺が並んで安置されている<ref>{{Cite web|url=http://www.lakeviewcemetery.com/garfield.php|title=James A. Garfield Monument|publisher=The Lake View Cemetery|language=英語|accessdate=2014年2月23日}}</ref>。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[1880年アメリカ合衆国大統領選挙]]
*[[1880年アメリカ合衆国大統領選挙]]
*[[リチャード・ガーフィールド]]-5世代後の孫にあたる。[[トレーディングカードゲーム]]「[[マジック:ザ・ギャザリング]]」のデザイナーとして有名。
*[[リチャード・ガーフィールド]]-5世代後の孫にあたる。[[トレーディングカードゲーム]]「[[マジック:ザ・ギャザリング]]」のデザイナーとして有名。
*[[ピタゴラスの定理]]-[[1876年]]に[[台形]]を用いた証明を発表した。
*[[怒りの用心棒]] - 1969年の[[マカロニ・ウェスタン]]。[[ガーフィールド大統領暗殺事件]]をモチーフとしており、[[ヴァン・ジョンソン]]がガーフィールドを演じた。


==参照==
== 出典 ==
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*[http://www.lewrockwell.com/bonner/bonner84.html Garfield, Harding, and Arthur]
*[http://www.lewrockwell.com/bonner/bonner84.html Garfield, Harding, and Arthur]
*[http://www.whitehouse.gov/history/presidents/jg20.html Official whitehouse.gov biography]
*[http://www.whitehouse.gov/history/presidents/jg20.html Official whitehouse.gov biography]
<!--* [http://virtual-grub-street.blogspot.com/2006/04/grant-tries-for-third-term-1880_08.html Grant Tries for a Third Term (1880)] Edwin Erle Sparks describes how the 1880 Republican convention began with Ulysses S. Grant well in the lead and ended with James A. Garfield -- the darkest of dark-horses -- walking away with the nomination.-->
<!--* [https://virtual-grub-street.blogspot.com/2006/04/grant-tries-for-third-term-1880_08.html Grant Tries for a Third Term (1880)] Edwin Erle Sparks describes how the 1880 Republican convention began with Ulysses S. Grant well in the lead and ended with James A. Garfield -- the darkest of dark-horses -- walking away with the nomination.-->
*[http://www.usa-presidents.info/inaugural/garfield.html Inaugural Address]
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*[http://home.nycap.rr.com/useless/garfield/index.html Article about assassination and "treatment" by doctors]
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* [http://encarta.msn.com/encyclopedia_761566237/James_Garfield.html Encarta] ([http://www.webcitation.org/5kwrk9clX Archived] October 31, 2009)
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*[http://www.americanpresident.org/history/jamesgarfield/ AmericanPresident.org]
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*[http://www.blastbooks.com/RAWDEAL/Garfield/fr2gar.htm Raw Deal]
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*[http://mathworld.wolfram.com/PythagoreanTheorem.html MathWorld: Pythagorean Theorem]
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*[http://www.mun.ca/rels/restmov/texts/jtbrown/coc/COC1306.HTM Biography from John T. Brown's ''Churches of Christ'' (1904)]
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*[http://www.nps.gov/jaga/index.htm James A Garfield National Historic Site]
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*[http://www.morelandhills.com/historical.html James A. Garfield Birthplace]
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* [http://www.deadohio.com/garfieldmonument.htm Garfield Monument] {{CongBio|G000063}} Retrieved on February 12, 2008
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* [http://www.loc.gov/rr/program/bib/presidents/garfield/index.html James Garfield: A Resource Guide] from the Library of Congress
* [http://www.loc.gov/rr/program/bib/presidents/garfield/index.html James Garfield: A Resource Guide] from the Library of Congress
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2023年12月24日 (日) 02:25時点における最新版

ジェームズ・ガーフィールド
James Garfield


任期 1881年3月4日 – 1881年9月19日
副大統領 チェスター・A・アーサー

アメリカ合衆国
下院歳出委員会委員長
任期 1871年1875年

任期 1863年3月4日 – 1881年3月3日

出生 1831年11月19日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 オハイオ州モアランド・ヒルズ
死去 (1881-09-19) 1881年9月19日(49歳没)
アメリカ合衆国 ニュージャージー州エルバロン
政党 共和党
出身校 ハイラム大学
ウィリアムズ大学
配偶者 ルクレティア・ガーフィールド
子女 エリザ・アーベラ・ガーフィールド
ハリー・オーガスタス・ガーフィールド
ジェームズ・ルドルフ・ガーフィールド
メアリー・ガーフィールド
アーヴィン・M・ガーフィールド
エイブラム・ガーフィールド
エドワード・ガーフィールド
署名
ジェームズ・ガーフィールド
James Garfield
所属組織 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
軍歴 1861年 - 1863年
最終階級 少将
テンプレートを表示

ジェームズ・エイブラム・ガーフィールドJames Abram Garfield, 1831年11月19日 - 1881年9月19日)は、アメリカ合衆国政治家弁護士。第20代アメリカ合衆国大統領。暗殺された2人目の大統領[1]であり、初の左利きの大統領でもあり、大統領に選出された唯一の現職下院議員でもある[2]。在任はウィリアム・ハリソンに次いで短く6か月と15日に過ぎなかった。

ガーフィールドはオハイオ州モアランド・ヒルズに生まれ、1856年にマサチューセッツ州のウィリアムズ大学を卒業した。1858年にルクレティア・ルドルフと結婚し、オハイオ州上院議員(1859年 - 61年)時の1860年に法曹界入りを認められた。ガーフィールドは南北戦争の間、少将として合衆国陸軍に勤務し、シャイローの戦いに参加した。奴隷制度と南部諸州の連邦離脱に反対し、1863年に共和党員として下院議員に選出された。1880年の大統領選ではユリシーズ・グラントジェームズ・ブレインジョン・シャーマンといった共和党の主な候補者が大統領候補指名に必要な代議員を得ることができない中、ガーフィールドは妥協の産物として党大統領候補に指名されたが、本戦では首尾良く民主党候補のウィンフィールド・ハンコックに勝利した[3] 。その就任演説でガーフィールドは多くの官庁改革を提案、そのほとんどが後継者のチェスター・アーサーにより達成された(ペンドルトン公務員改革法、1883年成立)。

ガーフィールドは1881年7月2日に首都ワシントンの鉄道駅でチャールズ・ギトーによって銃撃され[4]、長期の療養を余儀なくされたが、約2か月後に死去した。在任が短かったことから、その業績はわずかなものだった。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

ガーフィールドは1831年11月19日にクリーブランドの南東、オハイオ州カヤホガ郡オレンジ郡区(現在のオハイオ州モアランド・ヒルズ)の丸太小屋で、5人兄弟の末っ子として生まれた[5]。彼は父親のエイブラム・ガーフィールドおよび年長の兄ジェームズ・バルー・ガーフィールドに名付けられた。父はその大きな体躯で地域ではレスラーとして有名であったが[6]、ガーフィールドが17か月のとき[7]1833年に死去した[8]。ウェールズの祖先を持つガーフィールドは母親のイライザ・バロウとおじによって育てられた。母親は「彼は私が育てた最も大きな赤ん坊で、赤いアイルランド人のように見えた。」と語っている[9]。1833年、両親はディサイプルス教会に加わり、それは後に彼らの息子へ深く影響を及ぼした[10]

16歳の時に撮影

ガーフィールドはオレンジ郡区の学校に入学したが、16歳のときに自ら退学し船員となり、クリーブランドの近くの運河で6週間働いた。病気のため帰宅を強いられたが、回復後はジアーガ・アカデミーに入学する。同校で彼は生涯に渡って継続した学問へのインスピレーション、学ぶことと教えることの両方を得た。ガーフィールドは後にこの時代を回想し、「私は貧困の中に生まれ、幼年期を混沌の中で過ごし、どんなインスピレーションをも捕らえる前に17年が過ぎてしまったことを嘆く...その17年は父親といくらかの富を持つ少年が男らしく修正されたかもしれない貴重な17年であった。」と語った。1850年にガーフィールドは省みることの無かった教会への礼拝を再開し、洗礼を受けた。

1851年から1854年まで、使徒教会がオハイオ州ハイラムに設立したウエスタン・リザーブ折衷学研究所(後のハイラム大学)で学んだ。同校で彼はプラット・ロジャース・スペンサーの指導を受け、ギリシャ語とラテン語の研究に最も興味を示した。彼は在学中に教鞭を執るようになり、隣接する教会での説教を行い、1度の説教につき1ドルの報酬を得た。その後、マサチューセッツ州ウィリアムズタウンのウィリアムズ大学に移り、デルタ・ウプシロンのメンバーとなった。ガーフィールドは科学以外のすべての科目で優をとり、1856年に卒業した。卒業後は折衷学研究所の教員となり、1856年から1857年まで古語の教授、1857年から1860年まで研究所の所長を務めた。

妻のルクレティア(1870年代に撮影)

1858年11月11日にルクレティア・ルドルフと結婚、彼らは5人の子供をもうけた。息子のジェームズ・ルドルフ・ガーフィールドは父の跡を継いで政治家になり、セオドア・ルーズベルトの下で内務長官に就任した。

ガーフィールドは法律を学び1860年にオハイオ州の法曹界に入った。その前の1859年にオハイオ州議会議員に選出され政界入りし、1861年まで熱心な共和党員として貢献した。

軍歴[編集]

南北戦争が始まり、ガーフィールドは北軍に入隊し、第42オハイオ志願兵連隊の指揮官に任命された。1861年11月、東ケンタッキーから南部連邦軍を排除する任務をドン・カルロス・ビューエル将軍より授かる。第18旅団を与えられると、12月に第40、第42オハイオ歩兵師団、第14、第22ケンタッキー歩兵師団、第2ヴァージニア騎兵隊、マクローリン騎兵師団と共にケンタッキー州ケトレッツバーグを出発した。行軍はケンタッキー州ペインツヴィルに達するまで何事も起こらなかった。南部連邦軍はケンタッキー州プレストンバーグからヴァージニア州方面へ2マイルのミドル・クリークに後退、ガーフィールドは1862年1月9日に攻撃を命じたが、南部連邦軍は戦場から撤退した。ガーフィールドは追撃は行わず、兵員補充後は部隊にプレストンバーグからの撤退を命じている。この戦闘での功績が認められ、4月にはシャイローの戦いに参加するため西に移動した。チカマウガでも戦闘に参加し、最終的には少将の位にまで昇任した。

政治経歴[編集]

1863年には下院議員に選任され、再び政界入りした。彼は1878年まで2年ごとに再選された。この時代は、「金ぴか時代」と呼ばれ産業の発展により様々な業種で合併が進み、独占資本が形成されたが政財界の癒着が強まり汚職事件が多発した。

1870年代に撮影

ガーフィールドはグラント政権下でおきた鉄道利権をめぐる大規模な収賄事件である「クレディ・モビリエ事件」で、起訴された容疑者の一人として名を連ねた。しかし、議員辞職することは無かった。

大統領職[編集]

ガーフィールドは1880年の大統領選挙に共和党の大統領候補として指名された。選挙戦では、豊富な資金力を背景に民主党の対立候補ウィンフィールド・スコット・ハンコックに対し優位に進め、第20代大統領に当選した。しかし、当選後は党内の有力政治家たちが主要ポストをめぐり対立した。

内閣[編集]

職名 氏名 任期
大統領 ジェームズ・ガーフィールド 1881年
副大統領 チェスター・A・アーサー 1881年
国務長官 ジェイムズ・G・ブレイン 1881年
財務長官 ウィリアム・ウィンダム 1881年
陸軍長官 ロバート・T・リンカーン 1881年
司法長官 ウェイン・マクヴェーグ 1881年
郵政長官 トーマス・L・ジェームズ 1881年
海軍長官 ウィリアム・ヘンリー・ハント 1881年
内務長官 サミュエル・J・カークウッド 1881年

暗殺[編集]

1881年7月2日
1890年に建立されたガーフィールド記念館

当時は猟官制が幅を利かせており、選挙民に賄賂を握らせたり候補者の宣伝を買って出た者も多かったとされる。その中にチャールズ・ギトーと呼ばれる男がいた。ギトーは、自分が選挙活動でガーフィールドを応援した見返りを求めていたが、彼は何の役職にも就けず、この一件で大いにガーフィールドを恨んだ。ギトーは精神病歴を持つ弁護士で、神が大統領を殺すことを命じたと思いこんでいた。

ガーフィールドは1881年7月2日、大統領就任の4か月後にギトーによって銃撃された。ワシントンD.C.の鉄道駅で、背後からガーフィールドを44口径リボルバーで撃った。弾丸はガーフィールドの体内で発見することが出来ず、アレクサンダー・グラハム・ベルは弾丸を見つけようとして、金属探知機を考案した。しかし探知機は金属のベッドフレームを誤認し見つけることは出来なかった。ガーフィールドは感染症で病状が悪化したうえ、衰弱した体で転地したため、1881年9月19日に転地療養先のニュージャージー州エルバロンで死去した。医師が弾丸摘出のために滅菌しない指で患部を探ったり、手を突っ込んだり、針で肝臓を傷つけるなどの荒療治がなかったら死ぬことはなかったとされる。

レイクビュー墓地内のガーフィールド記念館の地下にはガーフィールド夫妻の棺が並んで安置されている[11]

トリビア[編集]

最も博学の大統領で、片手でラテン語、もう一方の手でギリシャ語を同時に書くことができた[12]

大学の学長(ハイラム大学英語版)出身の初の大統領でもある[13]

身長は6フィート(約183cm)だった[14]

関連項目[編集]

出典[編集]

  1. ^ Frederic D. Schwarz "1881: President Garfield Shot," American Heritage, June/July 2006.
  2. ^ Ohio Historical Society
  3. ^ James Garfield”. United States Government, Biographical archives. 2009年1月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年10月31日閲覧。
  4. ^ 【写真特集】今日は何の日?7月2日 ヘミングウェイ死去、ガーフィールド大統領暗殺事件など(アフロ)”. Yahoo!ニュース (2017年7月2日). 2020年7月1日閲覧。
  5. ^ http://jamesgarfieldfacts.com/
  6. ^ Peskin (1978), p.4
  7. ^ Reeves, Thomas C. (1975). Gentleman Boss. NY, NY: Alfred A. Knopf. pp. 164. ISBN 0-394-46095-2 
  8. ^ Ohiohistorycentral.org
  9. ^ Peskin (1978), p.6.
  10. ^ Peskin (1978), p.8
  11. ^ James A. Garfield Monument” (英語). The Lake View Cemetery. 2011年2月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年2月23日閲覧。
  12. ^ 『ちょっと笑える話』ベネット・サーフ著、常盤新平訳、文藝春秋文春文庫、p25
  13. ^ 『アメリカ大統領を読む事典』宇佐美滋著、講談社+α文庫、p310、p422
  14. ^ The height differences between all the US presidents and first ladies ビジネス・インサイダー

外部リンク[編集]

公職
先代
ラザフォード・B・ヘイズ
アメリカ合衆国の旗アメリカ合衆国大統領
1881年3月4日 - 1881年9月19日
次代
チェスター・A・アーサー
アメリカ合衆国下院
先代
アルバート・G・リドル
オハイオ州選出下院議員
オハイオ州第19選挙区

1863年3月4日 - 1881年3月4日
次代
エズラ・B・テイラー
党職
先代
ラザフォード・B・ヘイズ
共和党大統領候補
1880年
次代
ジェームズ・G・ブレイン
名誉職
先代
ヘンリー・ウィルソン
アメリカ合衆国議会議事堂ロタンダに棺が安置された者
1881年9月21日 - 1881年9月23日
次代
ジョン・A・ローガン