「ヌマ・ポンピリウス」の版間の差分
m編集の要約なし |
m編集の要約なし |
||
(5人の利用者による、間の6版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
{{基礎情報 君主 |
{{基礎情報 君主 |
||
| 人名 |
| 人名 = ヌマ・ポンピリウス |
||
| 各国語表記 = Numa Pompilius |
| 各国語表記 = Numa Pompilius |
||
| 君主号 |
| 君主号 = [[ローマ王]] |
||
| 画像 |
| 画像 = Numa Pompilius.jpg |
||
| 画像サイズ = |
| 画像サイズ = |
||
| 画像説明 |
| 画像説明 = ヌマ・ポンピリウスの横顔のイメージ。[[アウグストゥス]]皇帝時代のローマコインに彫られたもの。 |
||
| 在位 |
| 在位 = [[紀元前715年]] - [[紀元前673年]] |
||
| 戴冠日 |
| 戴冠日 = |
||
| 別号 |
| 別号 = |
||
| 全名 |
| 全名 = |
||
| 出生日 |
| 出生日 = [[紀元前753年]]4月21日 |
||
| 生地 = [[ファーラ・イン・サビーナ|クレス]] |
|||
| 生地 = |
|||
| 死亡日 |
| 死亡日 = [[紀元前673年]] |
||
| 没地 |
| 没地 = |
||
| 埋葬日 |
| 埋葬日 = |
||
| 埋葬地 |
| 埋葬地 = |
||
| 継承者 |
| 継承者 = [[トゥッルス・ホスティリウス]] |
||
| 継承形式 |
| 継承形式 = 選出 |
||
| 配偶者1 |
| 配偶者1 = タティア([[ティトゥス・タティウス]]の娘) |
||
| 配偶者2 |
| 配偶者2 = (ルクレティア) |
||
| 子女 = ポンピリア<br>(ポンポン)<br>(ピヌス)<br>(カルプス)<br>(マメルクス) |
|||
| 子女 = |
|||
| 王家 |
| 王家 = |
||
| 王朝 |
| 王朝 = |
||
| 王室歌 |
| 王室歌 = |
||
| 父親 |
| 父親 = ポンポン |
||
| 母親 |
| 母親 = |
||
}} |
}} |
||
'''ヌマ・ポンピリウス'''('''Numa Pompilius''', [[紀元前 |
'''ヌマ・ポンピリウス'''('''Numa Pompilius''', [[紀元前753年]] - [[紀元前673年]])は、[[王政ローマ]]における第2代の[[王]](在位:[[紀元前715年]]- [[紀元前673年]])。この時代のローマは史料に乏しく、一般的には[[伝説]]上の存在だと考えられている人物である。戦争に次ぐ戦争でローマを拡大した初代王[[ロームルス|ロムルス]]とは異なり、42年におよぶ治世中に一度も戦争をせずに内政を充実させたとされている。後世皇帝[[アントニヌス・ピウス]]はヌマに比肩された<ref>4世紀末に成立したとされる『[[ローマ皇帝群像]]』の「アントニヌス・ピウスの生涯」では、その末尾に「アントニヌスは、ヌマ王の幸運と敬虔さ、そして平穏と宗教的儀礼(に対する尊敬)を常に堅持したために、まさしく彼(ヌマ)に比されうるのである」と記している(『ローマ皇帝群像1』(京都大学学術出版会2004年、p131)</ref>。 |
||
== 生涯 == |
== 生涯 == |
||
[[プルタルコス]]によれば、ヌマは[[サビニ人]]の有力者ポンポンの子で、4人兄弟の末っ子として、[[ロームルス]]が[[古代ローマ|ローマ]]を建国したその日に生まれたという<ref>プルタルコス『対比列伝』ヌマ、3.4</ref>。 |
|||
⚫ | ヌマは[[哲学]]と[[瞑想]]を好み、[[ピタゴラス]]学説の思索にあまりに没頭したために、年若くして[[白髪]]になったと言われている<ref>ただしピタゴラスはヌマより後の時代の人物である。[[ローマ帝国|帝政ローマ]]時代の歴史家[[ティトゥス・リウィウス|リウィウス]]も、ヌマがピタゴラスを学んだというのは、彼の思慮深さの理由を求めた作り話ではないかと疑っている(リウィウス 『ローマ建国以来の歴史』岩谷智訳、京都大学学術出版会、2008年、45頁)。</ref>。ヌマはサビニ人の王である[[ティトゥス・タティウス]]の娘を娶って王の義理の息子となったが、権力を望まず森の中にある小さな村で妻と質素で幸福な生活を送っていた。 |
||
⚫ | ヌマは[[哲学]]と[[瞑想]]を好み、[[ピタゴラス]]学説の思索にあまりに没頭したために、年若くして[[白髪]]になったと言われている<ref>ただしピタゴラスはヌマより後の時代の人物である。[[ローマ帝国|帝政ローマ]]時代の歴史家[[ティトゥス・リウィウス|リウィウス]]も、ヌマがピタゴラスを学んだというのは、彼の思慮深さの理由を求めた作り話ではないかと疑っている(リウィウス 『ローマ建国以来の歴史』岩谷智訳、京都大学学術出版会、2008年、45頁)。</ref>。ヌマはサビニ人の王である[[ティトゥス・タティウス]]の娘を娶って王の義理の息子となったが、権力を望まず森の中にある小さな村で妻と質素で幸福な生活を送っていた。しかし妻タティアは結婚13年目に死去したと言われている<ref>プルタルコス『対比列伝』ヌマ、3.7</ref>。 |
||
⚫ | |||
[[File:Antonio Palma (c.1510-1575) - An Allegory of Prophecy (King Numa and the Augurs) - 1257078 - National Trust.jpg|300px|left|thumb|アントニオ・パルマ画、『ヌマ王とアウグルの寓話』([[16世紀]])]] |
|||
⚫ | だが[[紀元前716年]]にローマで王ロームルスが亡くなると、[[元老院 (ローマ)|元老院]]では後継者を定めるまで[[摂政]]制を敷くこととし、[[インテルレクス]]を置いて王の権力を継承していたが、その期間も一年を過ぎ、[[プレブス]](平民)の不満が高まってきたため、元老院が後継者を選ぶこととなった。当時[[ファーラ・イン・サビーナ|クレス]]にいたヌマは、その人格を評価されてローマ第2代の王として指名される。ヌマは要請を何度も断ったが、ロームルスが建国した時行った例に従って鳥占いをするよう言われ、[[ユーピテル]]、[[マールス]]、[[クゥイリーヌス]]の三神が同意したという結果が出たので、王位に就くことを決断した<ref>リウィウス『ローマ建国史』1.18</ref>。彼の妻は若くして亡くなっていたが、その後[[ニュンペー|ニンフ]]の[[エゲリア (ローマ神話)|エゲリア]](ギリシア神話の[[カリオペー]]と同一であるとも)と恋におちて結婚し、政治の助言を貰うためにたびたび[[パラティーノ|パラティヌスの丘]]の南にあるエゲリアの泉で逢瀬を重ねていたと人々は噂した。 |
||
ヌマが即位する前までのローマは、近隣都市からは盗賊の集団と大差ないと思われていたが、彼の治世により法と慣習と祭祀を確立した文化都市へと成長した。ヌマは紀元前673年に天寿をまっとうして死んだが、彼の1人の娘と4人の息子たちはいずれも名門一族の創始者となり、カプリニア氏族や[[アエミリウス氏族]]もここから発した。また死後千年が経過した時代においても、ローマを訪れた人はクィリナスの丘に残るヌマの家を案内されたという。 |
ヌマが即位する前までのローマは、近隣都市からは盗賊の集団と大差ないと思われていたが、彼の治世により法と慣習と祭祀を確立した文化都市へと成長した。ヌマは紀元前673年に天寿をまっとうして死んだが、彼の1人の娘と4人の息子たちはいずれも名門一族の創始者となり、カプリニア氏族や[[アエミリウス氏族]]もここから発した。また死後千年が経過した時代においても、ローマを訪れた人はクィリナスの丘に残るヌマの家を案内されたという。 |
||
40行目: | 43行目: | ||
ヌマの業績の中でもっとも有名なものは、[[ヤヌス神殿]]の建立である。これは始まりと終わりの神[[ヤーヌス]]に捧げられたもので、この神殿の扉は戦争のときは開かれ、平和なときは閉じられるとされた。扉はヌマの治世中はずっと閉じたままであったが、彼の死後は開いたままとなり、ローマが[[ローマ帝国|帝政]]となるまでの間に閉じられたのは[[ポエニ戦争]]後の6年間だけであった。 |
ヌマの業績の中でもっとも有名なものは、[[ヤヌス神殿]]の建立である。これは始まりと終わりの神[[ヤーヌス]]に捧げられたもので、この神殿の扉は戦争のときは開かれ、平和なときは閉じられるとされた。扉はヌマの治世中はずっと閉じたままであったが、彼の死後は開いたままとなり、ローマが[[ローマ帝国|帝政]]となるまでの間に閉じられたのは[[ポエニ戦争]]後の6年間だけであった。 |
||
ヌマの孫にあたる[[アンクス・マルキウス]]は4代ローマ王となった。 |
|||
== 脚注 == |
== 脚注 == |
||
{{reflist}} |
{{reflist}} |
||
===一次史料=== |
|||
* [[プルタルコス]], ''[[対比列伝]]'', ヌマ・ポンピリウスの生涯。 |
|||
* [[リヴィウス]], ''[[ローマ建国史]]'', [[s:From the Founding of the City/Book 1|Liber 1]] |
|||
== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
||
52行目: | 61行目: | ||
{{ローマ神話}} |
{{ローマ神話}} |
||
{{Normdaten}} |
|||
{{DEFAULTSORT:ぬま ほんひりうす}} |
{{DEFAULTSORT:ぬま ほんひりうす}} |
||
[[Category:王政ローマの王]] |
[[Category:王政ローマの王]] |
2023年12月24日 (日) 04:46時点における最新版
ヌマ・ポンピリウス Numa Pompilius | |
---|---|
ローマ王 | |
![]() ヌマ・ポンピリウスの横顔のイメージ。アウグストゥス皇帝時代のローマコインに彫られたもの。 | |
在位 | 紀元前715年 - 紀元前673年 |
出生 |
紀元前753年4月21日 クレス |
死去 |
紀元前673年 |
選出 | トゥッルス・ホスティリウス |
配偶者 | タティア(ティトゥス・タティウスの娘) |
(ルクレティア) | |
子女 |
ポンピリア (ポンポン) (ピヌス) (カルプス) (マメルクス) |
父親 | ポンポン |
ヌマ・ポンピリウス(Numa Pompilius, 紀元前753年 - 紀元前673年)は、王政ローマにおける第2代の王(在位:紀元前715年- 紀元前673年)。この時代のローマは史料に乏しく、一般的には伝説上の存在だと考えられている人物である。戦争に次ぐ戦争でローマを拡大した初代王ロムルスとは異なり、42年におよぶ治世中に一度も戦争をせずに内政を充実させたとされている。後世皇帝アントニヌス・ピウスはヌマに比肩された[1]。
生涯[編集]
プルタルコスによれば、ヌマはサビニ人の有力者ポンポンの子で、4人兄弟の末っ子として、ロームルスがローマを建国したその日に生まれたという[2]。
ヌマは哲学と瞑想を好み、ピタゴラス学説の思索にあまりに没頭したために、年若くして白髪になったと言われている[3]。ヌマはサビニ人の王であるティトゥス・タティウスの娘を娶って王の義理の息子となったが、権力を望まず森の中にある小さな村で妻と質素で幸福な生活を送っていた。しかし妻タティアは結婚13年目に死去したと言われている[4]。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/aa/Antonio_Palma_%28c.1510-1575%29_-_An_Allegory_of_Prophecy_%28King_Numa_and_the_Augurs%29_-_1257078_-_National_Trust.jpg/300px-Antonio_Palma_%28c.1510-1575%29_-_An_Allegory_of_Prophecy_%28King_Numa_and_the_Augurs%29_-_1257078_-_National_Trust.jpg)
だが紀元前716年にローマで王ロームルスが亡くなると、元老院では後継者を定めるまで摂政制を敷くこととし、インテルレクスを置いて王の権力を継承していたが、その期間も一年を過ぎ、プレブス(平民)の不満が高まってきたため、元老院が後継者を選ぶこととなった。当時クレスにいたヌマは、その人格を評価されてローマ第2代の王として指名される。ヌマは要請を何度も断ったが、ロームルスが建国した時行った例に従って鳥占いをするよう言われ、ユーピテル、マールス、クゥイリーヌスの三神が同意したという結果が出たので、王位に就くことを決断した[5]。彼の妻は若くして亡くなっていたが、その後ニンフのエゲリア(ギリシア神話のカリオペーと同一であるとも)と恋におちて結婚し、政治の助言を貰うためにたびたびパラティヌスの丘の南にあるエゲリアの泉で逢瀬を重ねていたと人々は噂した。
ヌマが即位する前までのローマは、近隣都市からは盗賊の集団と大差ないと思われていたが、彼の治世により法と慣習と祭祀を確立した文化都市へと成長した。ヌマは紀元前673年に天寿をまっとうして死んだが、彼の1人の娘と4人の息子たちはいずれも名門一族の創始者となり、カプリニア氏族やアエミリウス氏族もここから発した。また死後千年が経過した時代においても、ローマを訪れた人はクィリナスの丘に残るヌマの家を案内されたという。
業績[編集]
当時のローマ暦は1年が10ヶ月の不正確なものであったが、ヌマはこれに2ヶ月を追加してより正確な暦とした。またローマ内部にあった部族同士のいさかいをなくすために、農民達を「パギ」と呼ばれるさらに小さな集団に分割した。そして商業や手工業に携わる人々は職能別の組織に分割し、それらの共同体を部族よりも重要視させることによって部族対立を消滅させた。そのほか、戦争を抑えるために宣戦布告の権限を「伝令僧」と呼ばれる祭祀職のみに許すようにした。伝令僧は戦争が起こりそうになると対立相手に補償条件を伝え、その回答に満足いかなかったときのみ宣戦布告が行われた。
ヌマの業績の中でもっとも有名なものは、ヤヌス神殿の建立である。これは始まりと終わりの神ヤーヌスに捧げられたもので、この神殿の扉は戦争のときは開かれ、平和なときは閉じられるとされた。扉はヌマの治世中はずっと閉じたままであったが、彼の死後は開いたままとなり、ローマが帝政となるまでの間に閉じられたのはポエニ戦争後の6年間だけであった。
ヌマの孫にあたるアンクス・マルキウスは4代ローマ王となった。
脚注[編集]
- ^ 4世紀末に成立したとされる『ローマ皇帝群像』の「アントニヌス・ピウスの生涯」では、その末尾に「アントニヌスは、ヌマ王の幸運と敬虔さ、そして平穏と宗教的儀礼(に対する尊敬)を常に堅持したために、まさしく彼(ヌマ)に比されうるのである」と記している(『ローマ皇帝群像1』(京都大学学術出版会2004年、p131)
- ^ プルタルコス『対比列伝』ヌマ、3.4
- ^ ただしピタゴラスはヌマより後の時代の人物である。帝政ローマ時代の歴史家リウィウスも、ヌマがピタゴラスを学んだというのは、彼の思慮深さの理由を求めた作り話ではないかと疑っている(リウィウス 『ローマ建国以来の歴史』岩谷智訳、京都大学学術出版会、2008年、45頁)。
- ^ プルタルコス『対比列伝』ヌマ、3.7
- ^ リウィウス『ローマ建国史』1.18
一次史料[編集]
参考文献[編集]
- フィリップ・マティザック 『古代ローマ歴代誌 7人の王と共和政期の指導者たち』 東眞理子訳、創元社、2004年
- グスターフ・シャルク 『ローマ建国の英雄たち 神話から歴史へ』角信雄・長谷川洋訳、白水社、1969年
|
|