「望月卓也」の版間の差分
編集の要約なし |
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
||
(18人の利用者による、間の27版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
{{Infobox baseball player |
{{Infobox baseball player |
||
|選手名 = 望月 卓也 |
|選手名 = 望月 卓也 |
||
|英語表記 = |
|||
|所属球団 = |
|所属球団 = |
||
|背番号 = |
|背番号 = |
||
|選手写真ファイル名 = |
|選手写真ファイル名 = |
||
|写真サイズ = |
|||
|写真のコメント = |
|写真のコメント = |
||
|国籍 = {{JPN}} |
|国籍 = {{JPN}} |
||
|出身地 = [[広島県]][[豊田郡]][[東野町]](現 |
|出身地 = [[広島県]][[豊田郡]][[東野町]](現:同郡[[大崎上島町]]) |
||
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1956|5|8}} |
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1956|5|8}} |
||
|没年月日 = |
|没年月日 = |
||
18行目: | 16行目: | ||
|プロ入り年度 = {{NPBドラフト|1974}} |
|プロ入り年度 = {{NPBドラフト|1974}} |
||
|ドラフト順位 = ドラフト2位 |
|ドラフト順位 = ドラフト2位 |
||
|初出場 = 1977年 |
|初出場 = 1977年4月2日 |
||
|最終出場 = 1983年 |
|最終出場 = 1983年7月3日 |
||
|年俸 = |
|年俸 = |
||
|経歴 = |
|経歴 = |
||
* [[広島県立竹原高等学校]] |
* [[広島県立竹原高等学校]] |
||
* [[広島東洋カープ]] |
* [[広島東洋カープ]] (1975 - 1978) |
||
* [[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]] |
* [[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]] (1979 - 1983) |
||
|選出国 = |
|選出国 = |
||
|選出年 = |
|選出年 = |
||
30行目: | 28行目: | ||
|選出方法 = |
|選出方法 = |
||
}} |
}} |
||
'''望月 卓也'''(もちづき たくや、[[1956年]][[5月8日]] - )は、[[広島県]][[豊田郡]][[東野町]](現 |
'''望月 卓也'''(もちづき たくや、[[1956年]][[5月8日]] - )は、[[広島県]][[豊田郡]][[東野町]](現:同郡[[大崎上島町]])出身の元[[プロ野球選手]]([[投手]])。 |
||
投法はサイドスローで、直球とシュートが主な武器であった。 |
|||
== 来歴・人物 == |
== 来歴・人物 == |
||
竹原高校では3年時 |
[[広島県立竹原高等学校|竹原高校]]では3年時の{{by|1974年}}、[[全国高等学校野球選手権広島大会|夏の広島県大会]]で、エースとしてチームを決勝まで導く活躍を見せた。川島日出雄([[埼玉西武ライオンズ|太平洋]])のいた[[盈進中学高等学校|盈進高校]]との決勝戦では奮投したが、7回裏に勝ち越し点を許して1対3で惜敗し、高校3年間で甲子園に出場することはなかった。 |
||
[[1974年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1974年のドラフト会議]]で[[広島東洋カープ]]から2位指名され、入団。同期には[[高橋慶彦]]がいた。[[大石清]]投手コーチのアドバイスで、当時の[[読売ジャイアンツ|巨人]]のエース・[[小林繁]]のフォームを参考にして右足と左足が交差する瞬間に投球モーションを停止させることで相手打者のタイミングを外しにかかり、しなやかな上体と長いリーチをフルに生かした変則フォームへ改造すると、[[サイドスロー]]からくり出す[[速球]]と[[カーブ (球種)|カーブ]]、[[スライダー (球種)|スライダー]]、[[シュート (球種)|シュート]]、[[シンカー・スクリューボール|シンカー]]を武器に、主に[[リリーフ]]として活躍した。 |
|||
⚫ | |||
⚫ | |||
引退後は運輸会社に勤め、2019年に退職するまで管理職を務めた<ref>{{Cite news |title=江夏獲得報道で揺れた若き投手 <7>望月卓也さん(65) 【「移籍話」の動揺】 |newspaper=中国新聞デジタル |date=2021-12-21|url=https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/124050|accessdate=2023-12-29}}</ref>。 |
|||
{{by|1979年}}5月12日、オリオンズは[[後楽園球場]]での[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]との試合で「1試合7与死球」という不名誉なプロ野球記録を樹ち立ててしまったが、望月はこの試合で3番手投手としてマウンドに上がり、1イニングで3連続死球を記録した<ref name = "sanspo140704">{{Cite news |title=中日・田島が1イニング3死球で球場騒然…プロ野球タイ記録 |newspaper=サンケイスポーツ |date=2014-07-04|url=http://www.sanspo.com/baseball/news/20140704/dra14070422130003-n1.html |accessdate=2014-07-05}}</ref>。これは日本プロ野球タイ記録であり、3連続死球に限定すると望月の後には{{by|2014年}}に[[田島慎二]]([[中日ドラゴンズ|中日]])が記録するまで35年間記録されなかった<ref name = "sanspo140704" />。 |
|||
== エピソード == |
== エピソード == |
||
ロッテ時代のチームメイトだった[[愛甲猛]]は、試合中に初めて望月の真横の席に座った際に「おい愛甲、両掌をくっつけたあと開いてみ」と望月に言われ、「この人、いきなり何言ってるんだ?」と疑問に思いながらもその通りにしたら、両掌に望月が噛んでいたガムを吐き捨てられたと、高橋のYouTubeチャンネルにゲスト出演した愛甲が語っている<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=0-HHCaPf5pg 【横浜高校時代より悪い先輩】広島カープからロッテ来た慶彦さんよりもヤバい2人⑤【プロ野球OB】【広島カープ】【ロッテ】【愛甲猛】 - YouTube]</ref>。 |
|||
1979年5月12日、オリオンズは敵地・後楽園球場での[[日本ハムファイターズ]]との試合で「1試合7与死球」という不名誉なプロ野球記録を樹ち立ててしまったが、望月はこの試合で3番手投手としてマウンドに上がっている。 |
|||
また広島時代の高橋は、「俺と同い年のアイツ(望月)と[[土居正史|土居(正史)]]はそういうイタズラをしょっちゅうやってたし、俺とはまた違ったヤンチャさがあったね。ここ(YouTubeチャンネル)では話せないヤバいエピソードもたくさんある」と語っている<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=5AuiAn3qm50 【一気見】愛甲猛編 狂犬VS野良犬対決は永久保存版です【高橋慶彦】【広島東洋カープ】【千葉ロッテマリーンズ】【プロ野球OB】 - YouTube]</ref>。 |
|||
⚫ | |||
*実働7年 113試合登板 236投球回 6勝10敗1セーブ 74奪三振 107与四死球 防御率5.07 |
|||
== 詳細情報 == |
|||
⚫ | |||
{| {{投手成績|リーグ=日本プロ野球}} |
|||
|- |
|||
|style="text-align:center;"|{{by2|1977}} |
|||
|rowspan="2" style="text-align: center;"|[[広島東洋カープ|広島]] |
|||
|32||4||0||0||0||2||6||0||--||.250||266||64.0||59||7||22||0||1||23||3||0||35||28||3.94||1.27 |
|||
|- |
|||
|style="text-align:center;"|{{by2|1978}} |
|||
|14||0||0||0||0||0||0||0||--||----||55||10.1||18||2||5||0||1||4||0||0||10||10||9.00||2.23 |
|||
|- |
|||
|style="text-align:center;"|{{by2|1979}} |
|||
|rowspan="5" style="text-align: center;"|[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]] |
|||
|27||2||0||0||0||1||1||1||--||.500||254||56.2||68||10||15||0||9||19||0||1||36||36||5.68||1.46 |
|||
|- |
|||
|style="text-align:center;"|{{by2|1980}} |
|||
|3||1||0||0||0||0||1||0||--||.000||34||6.0||10||1||3||0||3||1||0||0||9||9||13.50||2.17 |
|||
|- |
|||
|style="text-align:center;"|{{by2|1981}} |
|||
|22||2||0||0||0||1||1||0||--||.500||258||61.2||63||6||19||0||3||21||2||0||33||26||3.77||1.33 |
|||
|- |
|||
|style="text-align:center;"|{{by2|1982}} |
|||
|7||2||0||0||0||2||0||0||--||1.000||117||27.0||27||2||12||0||5||4||0||0||13||7||2.33||1.44 |
|||
|- |
|||
|style="text-align:center;"|{{by2|1983}} |
|||
|8||1||0||0||0||0||1||0||--||.000||63||10.1||26||2||8||0||1||2||0||0||17||17||14.81||3.29 |
|||
|- |
|||
!colspan="2"|通算:7年 |
|||
|113||12||0||0||0||6||10||1||--||.375||1047||236.0||271||30||84||0||23||74||5||1||153||133||5.07||1.50 |
|||
|} |
|||
=== 記録 === |
|||
* 1イニング3与死球:1979年5月12日、対[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]戦の初回、NPB記録、史上2人目 <ref name = "sanspo140704" /> |
|||
* 3打者連続与死球:同上、NPB記録、史上初<ref>週刊ベースボール2014年7月21日号97ページ</ref> |
|||
=== 背番号 === |
|||
* '''39''' (1975年 - 1978年) |
|||
* '''16''' (1979年 - 1983年) |
|||
== 脚注 == |
|||
{{Reflist}} |
|||
== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
||
*[[広島東洋カープの選手一覧]] |
* [[広島東洋カープの選手一覧]] |
||
*[[千葉ロッテマリーンズの選手一覧]] |
* [[千葉ロッテマリーンズの選手一覧]] |
||
* [[広島県出身の人物一覧]] |
|||
{{広島東洋カープ1974年ドラフト指名選手}} |
{{広島東洋カープ1974年ドラフト指名選手}} |
||
⚫ | |||
⚫ | |||
[[Category:日本の野球選手]] |
[[Category:日本の野球選手]] |
||
[[Category:広島東洋カープ及び広島カープの選手]] |
[[Category:広島東洋カープ及び広島カープの選手]] |
||
57行目: | 101行目: | ||
[[Category:広島県出身の人物]] |
[[Category:広島県出身の人物]] |
||
[[Category:1956年生]] |
[[Category:1956年生]] |
||
[[Category:存命人物]] |
2023年12月29日 (金) 14:10時点における最新版
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 広島県豊田郡東野町(現:同郡大崎上島町) |
生年月日 | 1956年5月8日(68歳) |
身長 体重 |
182 cm 70 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1974年 ドラフト2位 |
初出場 | 1977年4月2日 |
最終出場 | 1983年7月3日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
| |
この表について
|
望月 卓也(もちづき たくや、1956年5月8日 - )は、広島県豊田郡東野町(現:同郡大崎上島町)出身の元プロ野球選手(投手)。
来歴・人物
[編集]竹原高校では3年時の1974年、夏の広島県大会で、エースとしてチームを決勝まで導く活躍を見せた。川島日出雄(太平洋)のいた盈進高校との決勝戦では奮投したが、7回裏に勝ち越し点を許して1対3で惜敗し、高校3年間で甲子園に出場することはなかった。
1974年のドラフト会議で広島東洋カープから2位指名され、入団。同期には高橋慶彦がいた。大石清投手コーチのアドバイスで、当時の巨人のエース・小林繁のフォームを参考にして右足と左足が交差する瞬間に投球モーションを停止させることで相手打者のタイミングを外しにかかり、しなやかな上体と長いリーチをフルに生かした変則フォームへ改造すると、サイドスローからくり出す速球とカーブ、スライダー、シュート、シンカーを武器に、主にリリーフとして活躍した。
1978年オフ、金田留広・渡辺秀武との交換トレードで、平田英之・劔持節雄とともにロッテオリオンズへ移籍。オリオンズでもカープ時代と同様、リリーフとして起用された。1983年オフに現役引退。
引退後は運輸会社に勤め、2019年に退職するまで管理職を務めた[1]。
1979年5月12日、オリオンズは後楽園球場での日本ハムファイターズとの試合で「1試合7与死球」という不名誉なプロ野球記録を樹ち立ててしまったが、望月はこの試合で3番手投手としてマウンドに上がり、1イニングで3連続死球を記録した[2]。これは日本プロ野球タイ記録であり、3連続死球に限定すると望月の後には2014年に田島慎二(中日)が記録するまで35年間記録されなかった[2]。
エピソード
[編集]ロッテ時代のチームメイトだった愛甲猛は、試合中に初めて望月の真横の席に座った際に「おい愛甲、両掌をくっつけたあと開いてみ」と望月に言われ、「この人、いきなり何言ってるんだ?」と疑問に思いながらもその通りにしたら、両掌に望月が噛んでいたガムを吐き捨てられたと、高橋のYouTubeチャンネルにゲスト出演した愛甲が語っている[3]。
また広島時代の高橋は、「俺と同い年のアイツ(望月)と土居(正史)はそういうイタズラをしょっちゅうやってたし、俺とはまた違ったヤンチャさがあったね。ここ(YouTubeチャンネル)では話せないヤバいエピソードもたくさんある」と語っている[4]。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1977 | 広島 | 32 | 4 | 0 | 0 | 0 | 2 | 6 | 0 | -- | .250 | 266 | 64.0 | 59 | 7 | 22 | 0 | 1 | 23 | 3 | 0 | 35 | 28 | 3.94 | 1.27 |
1978 | 14 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 55 | 10.1 | 18 | 2 | 5 | 0 | 1 | 4 | 0 | 0 | 10 | 10 | 9.00 | 2.23 | |
1979 | ロッテ | 27 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 1 | -- | .500 | 254 | 56.2 | 68 | 10 | 15 | 0 | 9 | 19 | 0 | 1 | 36 | 36 | 5.68 | 1.46 |
1980 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 34 | 6.0 | 10 | 1 | 3 | 0 | 3 | 1 | 0 | 0 | 9 | 9 | 13.50 | 2.17 | |
1981 | 22 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | -- | .500 | 258 | 61.2 | 63 | 6 | 19 | 0 | 3 | 21 | 2 | 0 | 33 | 26 | 3.77 | 1.33 | |
1982 | 7 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | -- | 1.000 | 117 | 27.0 | 27 | 2 | 12 | 0 | 5 | 4 | 0 | 0 | 13 | 7 | 2.33 | 1.44 | |
1983 | 8 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 63 | 10.1 | 26 | 2 | 8 | 0 | 1 | 2 | 0 | 0 | 17 | 17 | 14.81 | 3.29 | |
通算:7年 | 113 | 12 | 0 | 0 | 0 | 6 | 10 | 1 | -- | .375 | 1047 | 236.0 | 271 | 30 | 84 | 0 | 23 | 74 | 5 | 1 | 153 | 133 | 5.07 | 1.50 |
記録
[編集]- 1イニング3与死球:1979年5月12日、対日本ハムファイターズ戦の初回、NPB記録、史上2人目 [2]
- 3打者連続与死球:同上、NPB記録、史上初[5]
背番号
[編集]- 39 (1975年 - 1978年)
- 16 (1979年 - 1983年)
脚注
[編集]- ^ “江夏獲得報道で揺れた若き投手 <7>望月卓也さん(65) 【「移籍話」の動揺】”. 中国新聞デジタル. (2021年12月21日) 2023年12月29日閲覧。
- ^ a b c “中日・田島が1イニング3死球で球場騒然…プロ野球タイ記録”. サンケイスポーツ. (2014年7月4日) 2014年7月5日閲覧。
- ^ 【横浜高校時代より悪い先輩】広島カープからロッテ来た慶彦さんよりもヤバい2人⑤【プロ野球OB】【広島カープ】【ロッテ】【愛甲猛】 - YouTube
- ^ 【一気見】愛甲猛編 狂犬VS野良犬対決は永久保存版です【高橋慶彦】【広島東洋カープ】【千葉ロッテマリーンズ】【プロ野球OB】 - YouTube
- ^ 週刊ベースボール2014年7月21日号97ページ