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== 歴史 == |
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⚫ | そもそも西階城周辺一帯の地域は古代の[[臼杵郡]][[延岡市|英多]](あがた、後に[[延岡市|縣]])郷の中心地域と考えられ、城域内または周辺に臼杵[[郡衙]]や古代川辺駅の所在地が比定されている。そして、[[平安時代|平安]]末期から[[鎌倉時代|鎌倉]]期以降には[[島津氏|島津]]領寄郡大貫荘の中心地として、さらに14世紀以降は[[島津氏]]が[[地頭職]]を有する臼杵院の中心が置かれていたことも容易に想定される。縣土持家の[[本城]]としての中世西階城だけに限らず、この地域に各時代の拠点となった城館ないし施設の存在したことが容易に推定できるのである<ref>宮崎県教育委員会 1999 pp.195-196</ref>。 |
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== 概況 == |
== 概況 == |
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城取りは、北流する[[五ヶ瀬川]]と南流する[[大瀬川]]の2本に五ヶ瀬川が分流する分岐点の丘陵を選地している。 |
城取りは、北流する[[五ヶ瀬川]]と南流する[[大瀬川]]{{要曖昧さ回避|date=2016年6月}}の2本に五ヶ瀬川が分流する分岐点の丘陵を選地している。金堂ヶ池周辺の「本城」、[[天正]]6年([[1578年]])の大友合戦直前に[[縣土持氏]]の武道指南役となった[[伊賀流|伊賀]]系[[忍者|忍び]]の系統という竜仙寺のある「東の城」、県立高校生徒寮の西に現在はすっかり公園化された「南の城」の3郭で構成され、すぐ東を走る当時の幹線「川辺街道」に睨みを利かせていた。城の北、旧[[宮崎県立延岡西高等学校|延岡西高校]]の西にあって現在サンヒルズ野地団地が造成された丘陵も「北の城」であったといわれているが、開発の名の下に完全に破壊されてしまった。これらを総合すると、城域は従来曲輪Ⅰ-Ⅳ程度にしか認識されていなかったが、南北約600メートル、東西約400メートルに拡大・展開することとなった。 |
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城の周辺部はかつては低湿地に囲まれていたようで、「本城」の北側には河跡湖と考えられる沼池があり、「東の城」の北東の団地は膝までぬかるむ[[迫田]]であったという。『 |
城の周辺部はかつては低湿地に囲まれていたようで、「本城」の北側には河跡湖と考えられる沼池があり、「東の城」の北東の団地は膝までぬかるむ[[迫田]]であったという。『有馬家中延岡城下屋敷付絵図』でもこの周辺には現存しない河川や河跡湖と考えられる沼池が点在しており、金堂ヶ池もそのような[[河跡湖]]の1つであると考えられる。五ヶ瀬川と大瀬川そのものも[[堀]]としての防御性を持っている。 |
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「本城」の最高所の標高は61. |
「本城」の最高所の標高は61.7メートル、比高約50メートル。[[曲輪]]Ⅰ・Ⅲに立つと、西から流れて2キロメートル北の[[松尾城 (日向国)|松尾城]]方面へ流れる[[五ヶ瀬川]]が一望のもとにあり、南端の曲輪Dからは[[大瀬川]]をはさんで2キロメートル東の[[井上城]]を見渡すことができる。 |
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「本城」の縄張り構成は、曲輪 |
「本城」の縄張り構成は、曲輪Ⅰ-Ⅳが[[本丸]]および主体部、曲輪Ⅶが[[二の丸]]、曲輪Ⅵが[[三の丸]]、曲輪A-Eが[[土橋]]で連結された物見曲輪的役割を担ったものと考えられ、発掘調査の成果が望まれる。構造的には、中世山城のあらゆる構成要素の施された曲輪Ⅰ-Ⅴにかけての主体部が防御機能的に最も工夫を凝らされている。主体となる曲輪Ⅰ-Ⅴの構造および曲輪Ⅶ-Ⅷ間の比高12メートルに達する[[切岸]]はとくに見事である。曲輪Ⅰには[[天守台]]あるいは[[櫓|櫓台]]とも考えられる土台も残っている。 |
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本丸とほぼ同じ広さを持つ二の丸の曲輪 |
本丸とほぼ同じ広さを持つ二の丸の曲輪Ⅶには、中央部に櫓台と考えられる土台があるが、構造がかなり複雑である。その東側の曲輪Ⅷにも櫓台と考えられる土台が残っている。「東の城」は南北の両端に物見曲輪を置き、中央の主体部と土橋で結ばれている。主体部は配水池の建設で変形を受けているが、土塁ないしは櫓台跡と思われる土台が残っており、曲輪Hの西下には井戸跡がある。また、この「本城」のすぐ北側、開削され団地になっている所には「馬場」、現[[延岡市立西階中学校|西階中学校]]地には「御屋敷」があったという。 |
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遺構としては、[[空堀]]・[[竪堀]]・[[土塁]]・[[堀切]]・ |
[[遺構]]としては、[[空堀]]・[[竪堀]]・[[土塁]]・[[堀切]]・櫓台・[[犬走り]]・[[土橋]]など[[中世]][[山城]]の構成要素がよくそろっており、延岡地域における中世山城の教科書的城跡といえる。 |
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現状は都市公園化が進められて一部に階段や東屋が、また[[竜泉寺]]のある東の城には給水タンクが建設されて若干の破壊が見られるものの、おおむね保存状態は良好であり、市民のジョギング・ウォーキングコースとして親しまれている。 |
現状は都市公園化が進められて一部に階段や東屋が、また[[竜泉寺]]のある東の城には給水タンクが建設されて若干の破壊が見られるものの、おおむね保存状態は良好であり、市民のジョギング・ウォーキングコースとして親しまれている。 |
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== 脚注 == |
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<references/> |
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== 参考文献 == |
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*延岡市教育委員会 1994「西階城周辺遺跡(第1次)」『[https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/3604 延岡市文化財調査報告書12(平成5年度市内遺跡発掘調査事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書)]』延岡市 |
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*宮崎県教育委員会 1998『[https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/7790 宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書Ⅰ(地名表・分布地図編)]』宮崎県 |
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*宮崎県教育委員会 1999『[https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/7573 宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書Ⅱ(詳説編)]』宮崎県 |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [[日本の城一覧]] |
* [[日本の城一覧]] |
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*『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書Ⅰ』(宮崎県教育委員会、1998年) |
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*『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書Ⅱ』(宮崎県教育委員会、1999年) |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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* [http://www.wainet.ne.jp/~tenmei/nishishinajonawabari.jpg 西階城縄張り図 |
* [http://www.wainet.ne.jp/~tenmei/nishishinajonawabari.jpg 西階城縄張り図] |
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[[Category:宮崎県の城]] |
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[[Category:延岡市の建築物|廃にししなしよう]] |
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[[Category:延岡市の歴史]] |
2023年12月30日 (土) 03:44時点における最新版
西階城 (宮崎県) | |
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別名 | 宝坂城・中の城 |
城郭構造 | 山城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 土持全宣? |
築城年 | 正長2年/永享元年(1429年)? |
主な城主 | 土持氏 |
廃城年 | 文安3年(1446年) |
遺構 | 曲輪空堀・竪堀・土塁・堀切・櫓台・犬走り・土橋など |
指定文化財 | 未指定 |
位置 | 北緯32度34分12.7秒 東経131度38分06.2秒 / 北緯32.570194度 東経131.635056度座標: 北緯32度34分12.7秒 東経131度38分06.2秒 / 北緯32.570194度 東経131.635056度 |
地図 |
西階城(にししなじょう)は、宮崎県延岡市にあった日本の城。別名宝坂城・中の城。
歴史
[編集]正長2年/永享元年(1429年)に土持全宣が築城して井上城から移り、文安3年(1446年)に松尾城に移るまでの17年間しか在城しなかったという(『延陵旧記』・『延陵世鑑』)。しかし、発掘調査では曲輪Xから13世紀前半の備前焼水甕の口縁部が出土しており[1]、また縄張り調査によって従来考えられていた以上に城域の広大なことが判明したことから、縣土持家の本城としては17年間の居城だが、城館ないし軍事施設としてはその前後の幅広い時期にわたって機能していたと考えられる。次の松尾城築城後も「中の城」と呼ばれ、代々城代を勤めた土持一族が「中城」姓を名乗っている[2]。
そもそも西階城周辺一帯の地域は古代の臼杵郡英多(あがた、後に縣)郷の中心地域と考えられ、城域内または周辺に臼杵郡衙や古代川辺駅の所在地が比定されている。そして、平安末期から鎌倉期以降には島津領寄郡大貫荘の中心地として、さらに14世紀以降は島津氏が地頭職を有する臼杵院の中心が置かれていたことも容易に想定される。縣土持家の本城としての中世西階城だけに限らず、この地域に各時代の拠点となった城館ないし施設の存在したことが容易に推定できるのである[3]。
概況
[編集]城取りは、北流する五ヶ瀬川と南流する大瀬川[要曖昧さ回避]の2本に五ヶ瀬川が分流する分岐点の丘陵を選地している。金堂ヶ池周辺の「本城」、天正6年(1578年)の大友合戦直前に縣土持氏の武道指南役となった伊賀系忍びの系統という竜仙寺のある「東の城」、県立高校生徒寮の西に現在はすっかり公園化された「南の城」の3郭で構成され、すぐ東を走る当時の幹線「川辺街道」に睨みを利かせていた。城の北、旧延岡西高校の西にあって現在サンヒルズ野地団地が造成された丘陵も「北の城」であったといわれているが、開発の名の下に完全に破壊されてしまった。これらを総合すると、城域は従来曲輪Ⅰ-Ⅳ程度にしか認識されていなかったが、南北約600メートル、東西約400メートルに拡大・展開することとなった。
城の周辺部はかつては低湿地に囲まれていたようで、「本城」の北側には河跡湖と考えられる沼池があり、「東の城」の北東の団地は膝までぬかるむ迫田であったという。『有馬家中延岡城下屋敷付絵図』でもこの周辺には現存しない河川や河跡湖と考えられる沼池が点在しており、金堂ヶ池もそのような河跡湖の1つであると考えられる。五ヶ瀬川と大瀬川そのものも堀としての防御性を持っている。
「本城」の最高所の標高は61.7メートル、比高約50メートル。曲輪Ⅰ・Ⅲに立つと、西から流れて2キロメートル北の松尾城方面へ流れる五ヶ瀬川が一望のもとにあり、南端の曲輪Dからは大瀬川をはさんで2キロメートル東の井上城を見渡すことができる。
「本城」の縄張り構成は、曲輪Ⅰ-Ⅳが本丸および主体部、曲輪Ⅶが二の丸、曲輪Ⅵが三の丸、曲輪A-Eが土橋で連結された物見曲輪的役割を担ったものと考えられ、発掘調査の成果が望まれる。構造的には、中世山城のあらゆる構成要素の施された曲輪Ⅰ-Ⅴにかけての主体部が防御機能的に最も工夫を凝らされている。主体となる曲輪Ⅰ-Ⅴの構造および曲輪Ⅶ-Ⅷ間の比高12メートルに達する切岸はとくに見事である。曲輪Ⅰには天守台あるいは櫓台とも考えられる土台も残っている。
本丸とほぼ同じ広さを持つ二の丸の曲輪Ⅶには、中央部に櫓台と考えられる土台があるが、構造がかなり複雑である。その東側の曲輪Ⅷにも櫓台と考えられる土台が残っている。「東の城」は南北の両端に物見曲輪を置き、中央の主体部と土橋で結ばれている。主体部は配水池の建設で変形を受けているが、土塁ないしは櫓台跡と思われる土台が残っており、曲輪Hの西下には井戸跡がある。また、この「本城」のすぐ北側、開削され団地になっている所には「馬場」、現西階中学校地には「御屋敷」があったという。
遺構としては、空堀・竪堀・土塁・堀切・櫓台・犬走り・土橋など中世山城の構成要素がよくそろっており、延岡地域における中世山城の教科書的城跡といえる。
現状は都市公園化が進められて一部に階段や東屋が、また竜泉寺のある東の城には給水タンクが建設されて若干の破壊が見られるものの、おおむね保存状態は良好であり、市民のジョギング・ウォーキングコースとして親しまれている。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 延岡市教育委員会 1994「西階城周辺遺跡(第1次)」『延岡市文化財調査報告書12(平成5年度市内遺跡発掘調査事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書)』延岡市
- 宮崎県教育委員会 1998『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書Ⅰ(地名表・分布地図編)』宮崎県
- 宮崎県教育委員会 1999『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書Ⅱ(詳説編)』宮崎県