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'''関本 四十四'''(せきもと しとし、[[1949年]][[5月1日]] - )は、[[新潟県]][[糸魚川市]]出身の[[プロ野球選手]]([[投手]])・指導者・[[野球解説者|解説者]]・[[野球評論家|評論家]]。大洋時代の登録名は'''関本 充宏'''(せきもと みつひろ)。 |
'''関本 四十四'''(せきもと しとし、[[1949年]][[5月1日]] - )は、[[新潟県]][[糸魚川市]]<ref name=jinmei>プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、305ページ</ref>出身の元[[プロ野球選手]]([[投手]])・指導者・[[野球解説者|解説者]]・[[野球評論家|評論家]]。大洋時代の登録名は'''関本 充宏'''(せきもと みつひろ)。 |
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== 経歴 == |
== 経歴 == |
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[[新潟県立糸魚川白嶺高等学校|糸魚川商工]]では3年次の{{by|1967年}}、エースとして[[全国高等学校野球選手権北越大会|夏の甲子園予選北越大会]]準決勝に進出するが、[[富山県立新湊高等学校|新湊高]]に完封を喫し甲子園には届かなかった。 |
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[[新潟県立糸魚川白嶺高等学校|新潟県立糸魚川商工高等学校]]から{{by|1967年}}の[[1967年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト]]10位で[[読売ジャイアンツ]](巨人)に入団。同期に[[高田繁]]らがいる。ドラフトで指名されながら、[[打撃投手]]としての扱いしか受けず入団3年間は一軍登坂なし。{{by|1971年}}より一軍ローテーションに定着し、10勝11敗の成績をあげ、[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]の[[若松勉]]との新人王争いを制す。入団4年目での新人王受賞は[[小関竜也]]({{by|1997年}}、[[埼玉西武ライオンズ|西武]])と並ぶ。{{by|1974年}}にも10勝をマークし、防御率2.28で[[最優秀防御率]]を獲得する。 |
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[[1967年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|同年のドラフト]]10位で[[読売ジャイアンツ]]に入団<ref name=jinmei />。ドラフトで指名されながら、[[打撃投手]]としての扱いしか受けず3年間は一軍登板が無かった。 |
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しかし、[[長嶋茂雄]]監督の{{by|1975年}}の最下位による戦力補強のあおりを受け、{{by|1976年}}に[[加藤初]]、[[伊原春樹]]とのトレードで[[埼玉西武ライオンズ|太平洋クラブライオンズ]]へ移籍、{{by|1977年}}には[[山下律夫]]投手とのトレードで[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]へ移籍し、横浜大洋ホエールズとなった{{by|1978年}}に引退。 |
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{{by|1971年}}に一軍ローテーションに抜擢され、10勝・[[防御率]]2.14(リーグ5位)の成績を残して、[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]の[[若松勉]]との新人王争いを制す。入団4年目での新人王受賞は[[小関竜也]]({{by|1998年}}、[[埼玉西武ライオンズ|西武]])と並ぶ記録であるが、同期入団で1年目に新人王になった[[高田繁]]からは「セキ、お前のは新人王じゃない。インチキ新人賞だ」といつも言われていたという<ref>[https://www.excite.co.jp/news/article/Real_Live_875/ 球界地獄耳・関本四十四の巨人軍、ダッグアウト秘話(21) 天才高田さん excite.ニュース、2010年7月22日]</ref>。同年の[[オリックス・バファローズ|阪急]]との[[1971年の日本シリーズ|日本シリーズ]]でも、2試合に先発し第3戦では完投勝利を挙げ、チーム日本一に大きく寄与した。 |
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⚫ | 引退後は[[文化放送]]解説者 |
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{{by|1972年}}は2勝と落ち込む。 |
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{{by|1973年}}も主戦投手として18試合に先発して規定投球回数もクリアするが4勝に留まる。なおこの年には、敬遠で満塁策を取りながら次の打者に押し出し四球を与えることを2度も記録している<ref name="G65">宇佐美[2000: 291]</ref>。 |
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{{by|1974年}}は10勝をマークし、防御率2.28で[[最優秀防御率 (日本プロ野球)|最優秀防御率]]を獲得した。同年[[6月9日]]のヤクルト戦では初回に[[ロジャー・レポーズ]]に許した左前安打のみの1安打[[完封]]勝利を飾るが、残りは全て内野への打球または三振で、外野への飛球僅か1本という記録を残している<ref name="G65" />。 |
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{{by|1975年}}は0勝に終わる。同年の[[中日ドラゴンズ|中日]]戦の大乱闘(後述)をきっかけに素行および性格面が問題視された。 |
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{{by|1976年}}に[[加藤初]]・[[伊原春樹]]とのトレードで[[玉井信博]]と共に[[埼玉西武ライオンズ|太平洋クラブライオンズ]]へ移籍する<ref name="jinmei" />。太平洋でも僅か1勝と不本意の成績に終わる。 |
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{{by|1977年}}には[[山下律夫]]・[[高垣義広]]とのトレードで[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]へ移籍する。 |
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{{by|1978年}}に現役を引退<ref name="jinmei" />。 |
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⚫ | 引退後は[[文化放送]]野球解説者・[[テレビ朝日]]ベンチリポーター<ref>文化放送では平日の『ライオンズナイター』には解説者、土・日の『ホームランナイター』にはリポーターとして出演していたことがある(参考:1985年春の番組表。[[三才ブックス]]発行の『[[ラジオ番組表|ラジオ新番組速報版]]』1985年春号、『ラジオマニア』2010年版にも掲載)。</ref>・[[ベースボール・マガジン社]]顧問を経て、巨人で二軍投手コーチ({{by|1986年}} - {{by|1989年}})→三軍投手コーチ({{by|1990年}} - {{by|1991年}})を務めた。退団後は[[アール・エフ・ラジオ日本|ラジオ日本]]解説者・[[デイリースポーツ]]評論家({{by|1992年}} - {{by|2003年}})を経て、巨人二軍投手コーチ({{by|2004年}} - {{by|2005年}})を務めた。{{by|2006年}}からは再びラジオ日本解説者・デイリースポーツ評論家を務め、{{by|2014年}}[[3月]]に夫人が出身である縁から[[玉川大学硬式野球部|玉川大学]]特別コーチに就任<ref name="hochi20140318">{{Cite web|url= http://hochi.yomiuri.co.jp/baseball/ama/news/20140318-OHT1T00185.htm|title=巨人OB寮長・樋沢氏、玉川大新監督就任「ワクワクしている」 |publisher=スポーツ報知 |accessdate=2014-03-18}}</ref>。 |
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{{by|2020年}}3月退任。その後復帰している。 |
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== 人物 == |
== 人物 == |
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名前の「四十四」は、関本の父が44歳の時に生まれたことに由来する。その父は[[相撲]]が好きで野球に興味がなかったらしく、関本がドラフトで巨人に指名された際にも「背番号は何番だ、1番か」(高校野球では主戦投手が1番だったため)「お前、背番号44はもらえんのか」と心配しており、プロ入りが決まった後も「もし駄目だったら[[立浪部屋]]へ電話するから」と言う始末(当時の[[羽黒山政司|立浪親方]]が新潟県出身だったため)。関本の父は巨人の44番が[[外野手]]の[[才所俊郎]]であるばかりか、1番が当時6年連続本塁打王だった[[王貞治]]であることさえ知らなかったという(後述の加藤との対談より)。 |
名前の「四十四」は、関本の父が44歳の時に生まれたことに由来する。その父は[[相撲]]が好きで野球に興味がなかったらしく、関本がドラフトで巨人に指名された際にも「背番号は何番だ、1番か」(高校野球では主戦投手が1番だったため)「お前、背番号44はもらえんのか」と心配しており、プロ入りが決まった後も「もし駄目だったら[[立浪部屋]]へ電話するから」と言う始末(当時の[[羽黒山政司|立浪親方]]が新潟県出身だったため)。関本の父は巨人の44番が[[外野手]]の[[才所俊郎]]であるばかりか、1番が当時6年連続本塁打王だった[[王貞治]]であることさえ知らなかったという(後述の加藤との対談より)。 |
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1971年には1軍での登板がないにもかかわらず、背番号が53から20に変更されたが、これは当時の[[川上哲治]]監督の独断によるものである。それまでの巨人の20番は[[大友工]]や[[堀本律雄]]がつけるなど「準エース」のイメージが強かったため[[牧野茂 (野球)|牧野茂]]ヘッドコーチなどは猛反対したが、川上監督が「俺が来年関本を使うんだ」と押し切ったという。関本は川上の期待に応えて新人王を獲得したが、現役引退後の[[ベースボールマガジン]]で[[加藤博一]]と背番号について対談した際に、「まだ海の物とも山の物とも分からないような奴によく20番なんか与えたもんだよ」と苦笑しながら話していた。その後関本は1975年の1年間だけ背番号を自分の名前にちなんだ44番にするが、当時から背番号を大きくすることは「降格」を意味することと考えられており、しかも、最優秀防御率のタイトルを獲得した投手が大きな番号への変更を申し出た前例はなかった。しかし関本がフロントに「背番号を20から44に変更したい」と伝えたところ、その場で了承されたという<ref>なお、それまで関本がつけていた「20」は、この年のドラフト1位で入団した[[定岡正二]]がつけることとなった。</ref>。44へのこだわりはやはり強く、巨人の |
1971年には1軍での登板がないにもかかわらず、背番号が53から20に変更されたが、これは当時の[[川上哲治]]監督の独断によるものである。それまでの巨人の20番は[[大友工]]や[[堀本律雄]]がつけるなど「準エース」のイメージが強かったため[[牧野茂 (野球)|牧野茂]]ヘッドコーチなどは猛反対したが、川上監督が「俺が来年関本を使うんだ」と押し切ったという。関本は川上の期待に応えて新人王を獲得したが、現役引退後の[[ベースボールマガジン]]で[[加藤博一]]と背番号について対談した際に、「まだ海の物とも山の物とも分からないような奴によく20番なんか与えたもんだよ」と苦笑しながら話していた。その後関本は1975年の1年間だけ背番号を自分の名前にちなんだ44番にするが、当時から背番号を大きくすることは「降格」を意味することと考えられており、しかも、最優秀防御率のタイトルを獲得した投手が大きな番号への変更を申し出た前例はなかった。しかし関本がフロントに「背番号を20から44に変更したい」と伝えたところ、その場で了承されたという<ref>なお、それまで関本がつけていた「20」は、この年のドラフト1位で入団した[[定岡正二]]がつけることとなった。</ref>。44へのこだわりはやはり強く、巨人の三軍コーチを務めた1990年から2年間は背番号144を使用した(背番号144というのは選手は勿論の事、監督・コーチ陣においても非常に珍しい)。 |
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太平洋に移籍した時の背番号が18番で、巨人では[[エースナンバー]]とされていた事から、『独特の雰囲気があり、オレには相応しくない。案の定、1年だけだった。大洋に再移籍して14番をもらった時にはホッとしたよ』と前述の加藤との対談で語っていた。 |
太平洋に移籍した時の背番号が18番で、巨人では[[エースナンバー]]とされていた事から、『独特の雰囲気があり、オレには相応しくない。案の定、1年だけだった。大洋に再移籍して14番をもらった時にはホッとしたよ』と前述の加藤との対談で語っていた。 |
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== 選手としての特徴 == |
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大柄な体を生かして力強い球を投げた<ref>[https://www.jiji.com/jc/d4?p=vic009-16jpp08025600&d=d4_vv V9巨人とその時代 写真特集 「ひねた新人」関本四十四 時事通信社]</ref>。一方で、とにかく投げさせてみなければわからない、気分にムラがある投手だった<ref name="G65" />。 |
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== エピソード == |
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1975年7月3日、[[札幌市円山球場]]で中日ドラゴンズとの試合中、三塁走者だった[[髙木守道]]は、俊足を生かしピッチャーゴロで本塁突入を試みるが、そのときの投手だった関本に三本間で挟まれタッチアウトとなる。しかし、関本がタッチの際に髙木の顔面にグラブを当てたことで髙木は激昂。ラフプレーの当事者である関本は謝るどころか、憤る高木を殴りつけ乱闘騒ぎとなった<ref>[https://www.chunichi.co.jp/article/15054 高木守道が乱闘の主役になった日 短気で強くて純粋だった男【コラム】:中日スポーツ・東京中日スポーツ]</ref>。 |
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== 詳細情報 == |
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=== 登録名 === |
=== 登録名 === |
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* '''関本 四十四''' (せきもと しとし、1968年 - |
* '''関本 四十四''' (せきもと しとし、1968年 - 1976年) |
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* '''関本 充宏''' (せきもと みつひろ、 |
* '''関本 充宏''' (せきもと みつひろ、1977年 - 1978年) |
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== 関連情報 == |
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* [[文化放送ライオンズナイター]]([[文化放送]]。解説者) |
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* [[文化放送ホームランナイター]](文化放送。解説者、ベンチリポーター) |
* [[文化放送ホームランナイター]](文化放送。解説者、ベンチリポーター) |
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* [[関本四十四のプロ野球おもしろ情報]](文化放送) |
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* [[ラジオ日本ジャイアンツナイター]]([[アール・エフ・ラジオ日本]]。解説者) |
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== 脚注 == |
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*宇佐美徹也『宇佐美徹也の記録巨人軍65年』説話社、2000年 |
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2024年1月2日 (火) 14:06時点における最新版
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 新潟県糸魚川市 |
生年月日 | 1949年5月1日(75歳) |
身長 体重 |
183 cm 75 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投両打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1967年 ドラフト10位 |
初出場 | 1971年4月11日 |
最終出場 | 1978年5月6日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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この表について
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関本 四十四(せきもと しとし、1949年5月1日 - )は、新潟県糸魚川市[1]出身の元プロ野球選手(投手)・指導者・解説者・評論家。大洋時代の登録名は関本 充宏(せきもと みつひろ)。
経歴[編集]
糸魚川商工では3年次の1967年、エースとして夏の甲子園予選北越大会準決勝に進出するが、新湊高に完封を喫し甲子園には届かなかった。
同年のドラフト10位で読売ジャイアンツに入団[1]。ドラフトで指名されながら、打撃投手としての扱いしか受けず3年間は一軍登板が無かった。
1971年に一軍ローテーションに抜擢され、10勝・防御率2.14(リーグ5位)の成績を残して、ヤクルトの若松勉との新人王争いを制す。入団4年目での新人王受賞は小関竜也(1998年、西武)と並ぶ記録であるが、同期入団で1年目に新人王になった高田繁からは「セキ、お前のは新人王じゃない。インチキ新人賞だ」といつも言われていたという[2]。同年の阪急との日本シリーズでも、2試合に先発し第3戦では完投勝利を挙げ、チーム日本一に大きく寄与した。
1972年は2勝と落ち込む。
1973年も主戦投手として18試合に先発して規定投球回数もクリアするが4勝に留まる。なおこの年には、敬遠で満塁策を取りながら次の打者に押し出し四球を与えることを2度も記録している[3]。
1974年は10勝をマークし、防御率2.28で最優秀防御率を獲得した。同年6月9日のヤクルト戦では初回にロジャー・レポーズに許した左前安打のみの1安打完封勝利を飾るが、残りは全て内野への打球または三振で、外野への飛球僅か1本という記録を残している[3]。
1975年は0勝に終わる。同年の中日戦の大乱闘(後述)をきっかけに素行および性格面が問題視された。
1976年に加藤初・伊原春樹とのトレードで玉井信博と共に太平洋クラブライオンズへ移籍する[1]。太平洋でも僅か1勝と不本意の成績に終わる。
1977年には山下律夫・高垣義広とのトレードで大洋ホエールズへ移籍する。
引退後は文化放送野球解説者・テレビ朝日ベンチリポーター[4]・ベースボール・マガジン社顧問を経て、巨人で二軍投手コーチ(1986年 - 1989年)→三軍投手コーチ(1990年 - 1991年)を務めた。退団後はラジオ日本解説者・デイリースポーツ評論家(1992年 - 2003年)を経て、巨人二軍投手コーチ(2004年 - 2005年)を務めた。2006年からは再びラジオ日本解説者・デイリースポーツ評論家を務め、2014年3月に夫人が出身である縁から玉川大学特別コーチに就任[5]。
2020年3月退任。その後復帰している。
人物[編集]
名前の「四十四」は、関本の父が44歳の時に生まれたことに由来する。その父は相撲が好きで野球に興味がなかったらしく、関本がドラフトで巨人に指名された際にも「背番号は何番だ、1番か」(高校野球では主戦投手が1番だったため)「お前、背番号44はもらえんのか」と心配しており、プロ入りが決まった後も「もし駄目だったら立浪部屋へ電話するから」と言う始末(当時の立浪親方が新潟県出身だったため)。関本の父は巨人の44番が外野手の才所俊郎であるばかりか、1番が当時6年連続本塁打王だった王貞治であることさえ知らなかったという(後述の加藤との対談より)。
1971年には1軍での登板がないにもかかわらず、背番号が53から20に変更されたが、これは当時の川上哲治監督の独断によるものである。それまでの巨人の20番は大友工や堀本律雄がつけるなど「準エース」のイメージが強かったため牧野茂ヘッドコーチなどは猛反対したが、川上監督が「俺が来年関本を使うんだ」と押し切ったという。関本は川上の期待に応えて新人王を獲得したが、現役引退後のベースボールマガジンで加藤博一と背番号について対談した際に、「まだ海の物とも山の物とも分からないような奴によく20番なんか与えたもんだよ」と苦笑しながら話していた。その後関本は1975年の1年間だけ背番号を自分の名前にちなんだ44番にするが、当時から背番号を大きくすることは「降格」を意味することと考えられており、しかも、最優秀防御率のタイトルを獲得した投手が大きな番号への変更を申し出た前例はなかった。しかし関本がフロントに「背番号を20から44に変更したい」と伝えたところ、その場で了承されたという[6]。44へのこだわりはやはり強く、巨人の三軍コーチを務めた1990年から2年間は背番号144を使用した(背番号144というのは選手は勿論の事、監督・コーチ陣においても非常に珍しい)。
太平洋に移籍した時の背番号が18番で、巨人ではエースナンバーとされていた事から、『独特の雰囲気があり、オレには相応しくない。案の定、1年だけだった。大洋に再移籍して14番をもらった時にはホッとしたよ』と前述の加藤との対談で語っていた。
選手としての特徴[編集]
大柄な体を生かして力強い球を投げた[7]。一方で、とにかく投げさせてみなければわからない、気分にムラがある投手だった[3]。
エピソード[編集]
1975年7月3日、札幌市円山球場で中日ドラゴンズとの試合中、三塁走者だった髙木守道は、俊足を生かしピッチャーゴロで本塁突入を試みるが、そのときの投手だった関本に三本間で挟まれタッチアウトとなる。しかし、関本がタッチの際に髙木の顔面にグラブを当てたことで髙木は激昂。ラフプレーの当事者である関本は謝るどころか、憤る高木を殴りつけ乱闘騒ぎとなった[8]。
詳細情報[編集]
年度別投手成績[編集]
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1971 | 巨人 | 35 | 19 | 3 | 1 | 0 | 10 | 11 | -- | -- | .476 | 587 | 146.2 | 118 | 6 | 39 | 3 | 3 | 68 | 1 | 0 | 49 | 35 | 2.14 | 1.07 |
1972 | 23 | 10 | 2 | 0 | 0 | 2 | 6 | -- | -- | .250 | 304 | 70.2 | 79 | 4 | 25 | 0 | 1 | 34 | 2 | 0 | 37 | 34 | 4.31 | 1.47 | |
1973 | 38 | 18 | 4 | 1 | 0 | 4 | 10 | -- | -- | .286 | 593 | 140.0 | 143 | 17 | 46 | 4 | 3 | 69 | 0 | 0 | 63 | 53 | 3.41 | 1.35 | |
1974 | 37 | 18 | 6 | 3 | 0 | 10 | 5 | 1 | -- | .667 | 652 | 162.0 | 136 | 9 | 39 | 3 | 11 | 55 | 1 | 0 | 45 | 41 | 2.28 | 1.08 | |
1975 | 14 | 11 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | -- | .000 | 220 | 47.2 | 59 | 7 | 19 | 2 | 3 | 18 | 0 | 0 | 27 | 21 | 3.94 | 1.64 | |
1976 | 太平洋 | 11 | 7 | 1 | 0 | 0 | 1 | 4 | 0 | -- | .200 | 188 | 41.0 | 56 | 4 | 13 | 0 | 1 | 11 | 0 | 0 | 24 | 22 | 4.83 | 1.68 |
1977 | 大洋 | 4 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 27 | 6.0 | 9 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 5 | 4 | 6.00 | 1.50 |
1978 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 30 | 5.1 | 10 | 3 | 2 | 0 | 1 | 1 | 1 | 0 | 9 | 6 | 10.80 | 2.25 | |
通算:8年 | 166 | 84 | 16 | 5 | 0 | 27 | 41 | 1 | -- | .397 | 2601 | 619.1 | 610 | 52 | 183 | 12 | 23 | 257 | 6 | 0 | 259 | 216 | 3.14 | 1.28 |
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル[編集]
- 最優秀防御率:1回 (1974年)
表彰[編集]
- 新人王 (1971年)
記録[編集]
- オールスターゲーム出場:1回 (1974年)
背番号[編集]
- 53 (1968年 - 1970年)
- 20 (1971年 - 1974年)
- 44 (1975年)
- 18 (1976年)
- 14 (1977年 - 1978年)
- 84 (1986年 - 1989年、2004年 - 2005年)
- 144 (1990年 - 1991年)
登録名[編集]
- 関本 四十四 (せきもと しとし、1968年 - 1976年)
- 関本 充宏 (せきもと みつひろ、1977年 - 1978年)
関連情報[編集]
出演番組[編集]
- ゴールデンナイター/プロ野球中継(テレビ朝日。ベンチリポーター)
- 文化放送ライオンズナイター(文化放送。解説者)
- 文化放送ホームランナイター(文化放送。解説者、ベンチリポーター)
- 関本四十四のプロ野球おもしろ情報(文化放送)
- ラジオ日本ジャイアンツナイター(アール・エフ・ラジオ日本。解説者)
連載[編集]
- 球界地獄耳・関本四十四の巨人軍、ダッグアウト秘話(リアルライブ、2010年4月26日 - 8月11日の全26回)
著書[編集]
- 誰も書かなかった ジャイアンツ二軍生活の内幕(1983年1月、恒文社発行。書籍コード:ISBN 477040543X)
脚注[編集]
- ^ a b c d プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、305ページ
- ^ 球界地獄耳・関本四十四の巨人軍、ダッグアウト秘話(21) 天才高田さん excite.ニュース、2010年7月22日
- ^ a b c 宇佐美[2000: 291]
- ^ 文化放送では平日の『ライオンズナイター』には解説者、土・日の『ホームランナイター』にはリポーターとして出演していたことがある(参考:1985年春の番組表。三才ブックス発行の『ラジオ新番組速報版』1985年春号、『ラジオマニア』2010年版にも掲載)。
- ^ “巨人OB寮長・樋沢氏、玉川大新監督就任「ワクワクしている」”. スポーツ報知. 2014年3月18日閲覧。
- ^ なお、それまで関本がつけていた「20」は、この年のドラフト1位で入団した定岡正二がつけることとなった。
- ^ V9巨人とその時代 写真特集 「ひねた新人」関本四十四 時事通信社
- ^ 高木守道が乱闘の主役になった日 短気で強くて純粋だった男【コラム】:中日スポーツ・東京中日スポーツ
参考文献[編集]
- 宇佐美徹也『宇佐美徹也の記録巨人軍65年』説話社、2000年
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 個人年度別成績 関本充宏 - NPB.jp 日本野球機構