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'''ガリア戦争'''(ガリアせんそう、[[ラテン語]]:'''Bellum Gallicum''', ベッルム・ガッリクム/ベルルム・ガルリクム)は、[[紀元前58年]]から[[紀元前51年]]にかけて、[[共和政ローマ|ローマ]]のガリア地区総督[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]が[[ガリア]](現:[[フランス]]、[[ベルギー]]、[[スイス]]等)に遠征してその全域を征服し、[[共和政ローマ]]の[[属州]]とした一連の[[戦争]]を指す。
'''ガリア戦争'''(ガリアせんそう、[[ラテン語]]:'''Bellum Gallicum''', ベッルム・ガッリクム/ベルルム・ガルリクム)は、[[紀元前58年]]から[[紀元前51年]]にかけて、[[共和政ローマ]]のガリア地区総督[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]が[[ガリア]](現:[[フランス]]、[[ベルギー]]、[[スイス]]等)に遠征してその全域を征服し、共和政ローマの[[属州]]とした一連の[[戦争]]を指す。


== ガリア戦争までの経緯 ==
== ガリア戦争までの経緯 ==
{{出典の明記|date=2017年1月|section=1}}

当時のガリアは、[[スエビ族]]出身の[[ゲルマン人|ゲルマニア人]][[アリオウィストゥス]]が{{仮リンク|マゲトブリガの戦い|en|Battle of Magetobriga}}([[紀元前63年]]頃)で[[ガリア人]]を破り、レヌス川(現:[[ライン川]])に近いガリア一帯に勢力圏を形成し、更にガリア人を追いやってその支配領域を広げつつあった<ref>カエサル『ガリア戦記』1.31</ref>。
当時のガリアは、[[スエビ族]]出身の[[ゲルマン人|ゲルマニア人]][[アリオウィストゥス]]が{{仮リンク|マゲトブリガの戦い|en|Battle of Magetobriga}}([[紀元前63年]]頃)で[[ガリア人]]を破り、レヌス川(現:[[ライン川]])に近いガリア一帯に勢力圏を形成し、更にガリア人を追いやってその支配領域を広げつつあった<ref>カエサル『ガリア戦記』1.31</ref>。


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== 戦争の経過 ==
== 戦争の経過 ==
=== 紀元前58年(ガリア戦争1年目) ===
=== 紀元前58年(ガリア戦争1年目) ===
ガリア・キサルピナとガリア・トランサルピナ、イリュリアの各属州の総督であったカエサルは、ゲルマニア人に圧迫される形で西方へ移住を始めた現在のスイスの山岳地帯にいたガリア人系[[ヘルウェティイ族]]へ戦争を仕掛けて、{{仮リンク|アラル川の戦い|en|Battle of the Arar}}、{{仮リンク|ビブラクテの戦い|en|Battle of Bibracte}}でこれを破り、元の居住地に押し戻した。
ガリア・キサルピナとガリア・トランサルピナ、イリュリアの各属州の総督であったカエサルは、ゲルマニア人に圧迫される形で西方へ移住を始めた現在のスイスの山岳地帯にいたガリア人系[[ヘルウェティイ族]]へ戦争を仕掛けて、[[アラル川の戦い]]、{{仮リンク|ビブラクテの戦い|en|Battle of Bibracte}}でこれを破り、元の居住地に押し戻した。


ヘルウェティイ族を討伐した後に、カエサルは[[ハエドゥイ族]]らガリア人の要請により、ローマのガリア制覇への大きな障害となりつつあったアリオウィストゥス率いるゲルマニア人と戦い、[[プブリウス・リキニウス・クラッスス]](クラッススの息子)の活躍もあって[[ウォセグスの戦い]]で勝利を収め、ゲルマニア人をレヌス川の向こうへと追いやった。
ヘルウェティイ族を討伐した後に、カエサルは[[ハエドゥイ族]]らガリア人の要請により、ローマのガリア制覇への大きな障害となりつつあったアリオウィストゥス率いるゲルマニア人と戦い、[[プブリウス・リキニウス・クラッスス]](クラッススの息子)の活躍もあって[[ウォセグスの戦い]]で勝利を収め、ゲルマニア人をレヌス川の向こうへと追いやった。


=== 紀元前57年(ガリア戦争2年目) ===
=== 紀元前57年(ガリア戦争2年目) ===
アリオウィストゥスをゲルマニアへ追いやったローマに対して、[[スエッシオネス族]]の族長[[ガルバ (スエッシオネス族)|ガルバ]]を中心として[[ネルウィ族]]、[[アトレバテス族]]、[[モリニ族]]らの[[ベルガエ|ベルガエ人]]が一斉に反乱を起し({{仮リンク|オクトドゥルスの戦い|fr|Bataille d'Octodure|de|Schlacht von Octodurus}})、ベルガエ人は[[レミ族]]の町であるビブラクス<ref>カエサル『ガリア戦記』2.6</ref>を攻撃していた。カエサルがレミ族支援の為に[[ビブラクテ]]方面へ進軍するとベルガエ人はローマ軍を迎え撃ったが[[アクソナ川の戦い]]で敗北し、ガルバは人質をカエサルに出して降伏した。なおも[[ボドゥオグナトゥス]](Boduognatus)をリーダーとするネルウィイ族や[[ウィロマンドゥイ族]]らはローマへの抵抗を続けたが、激戦の末[[サビス川の戦い]]で敗北して、ローマ軍に降伏した<ref>カエサル『ガリア戦記』2.6。ガリア戦記には「ネルウィ族はほぼ壊滅状態となった」と記載があるが、実際にはその後もネルウィ族は勢力を保っている。</ref>。また、プブリウス・クラッススによって[[ウェネティ族 (ガリア)|ウェネティ族]]ら大西洋沿岸部族がローマに帰順した。
アリオウィストゥスをゲルマニアへ追いやったローマに対して、[[スエッシオネス族]]の族長[[ガルバ (スエッシオネス族)|ガルバ]]を中心として[[ネルウィ族]]、[[アトレバテス族]]、[[モリニ族]]らの[[ベルガエ|ベルガエ人]]が一斉に反乱を起し({{仮リンク|オクトドゥルスの戦い|fr|Bataille d'Octodure|de|Schlacht von Octodurus}})、ベルガエ人は[[レミ族]]の町であるビブラクス<ref>カエサル『ガリア戦記』2.6</ref>を攻撃していた。カエサルがレミ族支援の為に[[ビブラクテ]]方面へ進軍するとベルガエ人はこれを迎え撃ったが[[アクソナ川の戦い]]で敗北し、ガルバは人質をカエサルに出して降伏した。なおも[[ボドゥオグナトゥス]](Boduognatus)をリーダーとするネルウィイ族や[[ウィロマンドゥイ族]]らはローマへの抵抗を続けたが、激戦の末[[サビス川の戦い]]で敗北して、ローマ軍に降伏した<ref>カエサル『ガリア戦記』2.6。ガリア戦記には「ネルウィ族はほぼ壊滅状態となった」と記載があるが、実際にはその後もネルウィ族は勢力を保っている。</ref>。また、プブリウス・クラッススによって[[ウェネティ族 (ガリア)|ウェネティ族]]ら大西洋沿岸部族がローマに帰順した。


=== 紀元前56年(ガリア戦争3年目) ===
=== 紀元前56年(ガリア戦争3年目) ===
前年にローマに一度は帰順した部族で、大西洋岸に勢力を持ち海軍力のあったウェネティ族が同地区に駐屯していたローマ軍に反乱を起した。[[ティトゥス・ラビエヌス]]をベルガエ人やゲルマニア人、プブリウス・クラッススを[[アクィタニア人]]への抑えに回し、カエサルはウェネティ族討伐に向かい[[モルビアン県|モルビアン]]へ到着した。海戦の経験に乏しいカエサル軍であったが、[[デキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌス|デキムス・ユニウス・ブルトゥス]]が率いるローマがウェネティ族らのを[[モルビアン湾の海戦]]で撃破し、反乱を鎮圧した。
前年にローマに一度は帰順した部族で、大西洋岸に勢力を持ち海軍力のあったウェネティ族が同地区に駐屯していたローマ軍に対して反乱を起した。カエサルは、[[ティトゥス・ラビエヌス]]をベルガエ人やゲルマニア人、プブリウス・クラッススを[[アクィタニア人]]への抑えに回し、自身はウェネティ族討伐に向かい[[モルビアン県|モルビアン]]へ到着した。海戦の経験に乏しいカエサル軍であったが、[[デキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌス|デキムス・ユニウス・ブルトゥス]]が率いるローマ艦隊がウェネティ族らの艦隊を[[モルビアン湾の海戦]]で撃破し、反乱を鎮圧した。


また、同時期に反乱を起したウィリドウィクスが率いる[[ウネッリ族]]や[[アウレルキ族]]、[[エブロウィケス族]]らには[[クィントゥス・ティトゥリウス・サビヌス]]が当り、プブリウス・クラッススが赴いたアクィタニア人の居住地区でもソティアヌス族等からローマに対する攻撃が生じたが、いずれの騒乱も平定した。
また、同時期に反乱を起したウィリドウィクスが率いる[[ウネッリ族]]や[[アウレルキ族]]、[[エブロウィケス族]]らには[[クィントゥス・ティトゥリウス・サビヌス]]が当り、プブリウス・クラッススが赴いたアクィタニア人の居住地区でもソティアヌス族等からローマに対する攻撃が生じたが、いずれの騒乱も平定した。


この年、カエサル・ポンペイウス・クラッススの3者が[[ルッカ]]で会談して、紀元前55年にポンペイウス及びクラッススが執政官へ立候補すること及びカエサルのガリア総督の任期を5年延長することが内約された<ref>プルタルコス「英雄伝」ポンペイウス51</ref>。
この年、カエサル・ポンペイウス・クラッススの3者が[[ルッカ]]で会談して、紀元前55年にポンペイウス及びクラッススが執政官へ立候補すること及びカエサルのガリア総督の任期を5年延長することが内約された<ref>プルタルコス「英雄伝」ポンペイウス51</ref>。
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=== 紀元前55年(ガリア戦争4年目) ===
=== 紀元前55年(ガリア戦争4年目) ===
[[ファイル:Il ponte di Cesare sul Reno.jpg|thumb|250px|レヌス川を渡るローマ軍]]
[[ファイル:Il ponte di Cesare sul Reno.jpg|thumb|250px|レヌス川を渡るローマ軍]]
ゲルマン系でも弱小[[ウシペテス族]]と[[テンクテリ族]]がスエビ族に圧迫される形でレヌス川を越えてガリアへ侵入した為、カエサルはレヌス川の向こうへ戻るように警告した。交渉の為に一時停戦約束であったものの、ゲルマニア人は反故にしてローマ騎兵へ攻撃を仕掛けたことから、ローマ軍はゲルマニア人を襲撃して多くを殺戮、捕虜とした。
ゲルマン系の中でも弱小であった[[ウシペテス族]]と[[テンクテリ族]]がスエビ族に圧迫される形でレヌス川を越えてガリアへ侵入した為、カエサルはレヌス川の向こうへ戻るように警告した。交渉の為に双方が一時停戦する約束であった、ゲルマニア人はこれを反故にしてローマ騎兵へ攻撃を仕掛けたことから、ローマ軍はゲルマニア人を襲撃して多くを殺戮、捕虜とした。


その後、カエサルはこれに関ったゲルマニアへの牽制としてレヌス川に橋を架けてゲルマニアへ渡って、ウシペテス族とテンクテリ族の残党を匿ったスガンブリ族の集落を焼き討ちにしたものの、森の奥深くへ陣を構えたスエビ族らとの戦いには臨まずに、ガリア側へ引き上げた。
その後、カエサルはこれに関ったゲルマニアへの牽制としてレヌス川に橋を架けてゲルマニアへ渡、ウシペテス族とテンクテリ族の残党を匿ったスガンブリ族の集落を焼き討ちにしたものの、森の奥深くへ陣を構えたスエビ族らとの戦いには臨まずに、ガリア側へ引き上げた。


ウェネティ族の蜂起の際に[[ブリタンニア]]人がこれに加担していたことから、これを牽制する為、ガリアの守りをラビエヌスに任せ、カエサルはブリタンニアへ渡った。海が荒れたことにより軍船の一部が破損してしまったことや兵站の乏しさ、ブリタンニア人の騎兵と戦車による攻撃で苦戦を強いられたものの、兵の強さで勝るローマ軍ブリタンニア人を大破し、ローマ軍船の修理が済むと共にガリアへ戻った([[ローマによるブリタンニア侵攻 (紀元前55年-紀元前54年)|ブリタンニア遠征]])。
ウェネティ族の蜂起の際に[[ブリタンニア]]人がこれに加担していたことから、これを牽制する為、ガリアの守りをラビエヌスに任せ、カエサルはブリタンニアへ渡った。海が荒れたことにより軍船の一部が破損してしまったことや兵站の乏しさ、ブリタンニア人の騎兵と[[チャリオット|戦車]]による攻撃で苦戦を強いられたものの、兵の強さで勝るローマ軍ブリタンニア人を大破し、ローマ軍船の修理が済むと共にガリアへ戻った([[ローマによるブリタンニア侵攻 (紀元前55年-紀元前54年)|ブリタンニア遠征]])。


なお、前年の「ルッカ会談」での密約通りにポンペイウスとクラッススは執政官に当選し、カエサルのガリア総督としての任期も5年延長された。また、紀元前54年よりポンペイウスは[[ヒスパニア]]、クラッススは[[シリア属州|シリア]]の属州総督に就くことが決まった<ref>プルタルコス「英雄伝」クラッスス15</ref>。
なお、前年の「ルッカ会談」での密約通りにポンペイウスとクラッススは執政官に当選し、カエサルのガリア総督としての任期も5年延長された。また、紀元前54年よりポンペイウスは[[ヒスパニア]]、クラッススは[[シリア属州|シリア]]の属州総督に就くことが決まった<ref>プルタルコス「英雄伝」クラッスス15</ref>。


=== 紀元前54年(ガリア戦争5年目) ===
=== 紀元前54年(ガリア戦争5年目) ===
ピルスタエ族の暴動を調停した後、カエサルは元々遺恨のあったハエドゥイ族のドゥムノリクスを誅殺した上で、再び船隊を率いてブリタンニアへ遠征した。前年同様に嵐によって船舶の一部に損害が生じたこともあって、ブリタンニア人は[[カッシウェラウヌス]]をリーダーにローマに対して蜂起したが、ローマ軍は多くのブリタニア人を戦いで殺戮し、ブリタンニア人を降伏させた。
ピルスタエ族の暴動を調停した後、カエサルは元々遺恨のあったハエドゥイ族のドゥムノリクスを誅殺した上で、再び船隊を率いてブリタンニアへ遠征した。前年同様に嵐によって船舶の一部に損害が生じたこともあって、ブリタンニア人は[[カッシウェラウヌス]]をリーダーにローマに対して蜂起したが、ローマ軍は多くのブリタニア人を戦いで殺戮し、ブリタンニア人を降伏させた。
[[ファイル:Ambiorix.jpg|thumb|アンビオリクス像]]
[[ファイル:Ambiorix.jpg|thumb|アンビオリクス像]]
ガリアへ戻ったカエサルはガリア人監視の意味もあって、[[レガトゥス]](総督副官)を各地に冬営の為に派遣した。[[エブロネス族]]の地へはクィントゥス・サビヌスと[[ルキウス・アウルンクレイウス・コッタ]]が派遣されたが、エブロネス族の族長[[アンビオリクス]]の計略に掛かって、サビヌスらが率いたローマ軍は指揮官共々壊滅した([[アドゥアトゥカの戦い]])。
ガリアへ戻ったカエサルはガリア人監視の意味もあって、[[レガトゥス]](総督副官)を各地に[[冬営]]の為に派遣した。[[エブロネス族]]の地へはクィントゥス・サビヌスと[[ルキウス・アウルンクレイウス・コッタ]]が派遣されたが、エブロネス族の族長[[アンビオリクス]]の計略に掛かって、サビヌスらが率いたローマ軍は指揮官共々壊滅した([[アドゥアトゥカの戦い]])。


アンビオリクスは他のローマ軍を攻撃するように焚き付けて、ネルウィ族は[[クィントゥス・トゥッリウス・キケロ]]が冬営する駐屯地を攻撃したが、キケロは持ち堪え、駆けつけたカエサル軍によってネルウィ族は敗退した。[[トレウェリ族]]の[[インドゥティオマルス]](Indutiomarus)がゲルマニア人も呼び込んでの蜂起を企てたが、不首尾に終わった為に単独で蜂起したが、ラビエヌス率いるローマ軍に敗北し、インドゥティオマルスは戦死した。
アンビオリクスは他のローマ軍を攻撃するように焚き付けて、ネルウィ族は[[クィントゥス・トゥッリウス・キケロ]]が冬営する駐屯地を攻撃したが、キケロは持ち堪え、駆けつけたカエサル軍によってネルウィ族は敗退した。[[トレウェリ族]]の[[インドゥティオマルス]](Indutiomarus)がゲルマニア人も呼び込んでの蜂起を企てたが、不首尾に終わった為に単独で蜂起したが、ラビエヌス率いるローマ軍に敗北し、インドゥティオマルスは戦死した。


=== 紀元前53年(ガリア戦争6年目) ===
=== 紀元前53年(ガリア戦争6年目) ===
インドゥティオマルス戦死後もトレウェリ族は[[セノネス族]]や[[カルヌテス族]]らと共に抵抗し、[[アッコ]](Acco)を首謀者として蜂起したがカエサルはセノネス族やカルヌテス族を降伏させた。さらに、カエサルはアンビオリクスを匿う姿勢を見せた[[メナピイ族]]へ攻め込んで降伏させた。
インドゥティオマルス戦死後もトレウェリ族は[[セノネス族]]や[[カルヌテス族]]らと共に抵抗し、アッコ(Acco)を首謀者として蜂起したがカエサルはセノネス族やカルヌテス族を降伏させた。さらに、カエサルはアンビオリクスを匿う姿勢を見せた[[メナピイ族]]へ攻め込んで降伏させた。


トレウェリ族へはラビエヌスを派遣し、スエビ族がレヌス川を越えてトレウェリ族へ援軍を送ったものの、ローマ軍はこれを撃破した。トレウェリ族を指導していたインドゥティオマルスの親族はゲルマニアへと逃れ、新たにキンゲトリスク(Cingetorix)がトレウェリ族の指導者となった。カエサル再びゲルマニア遠征を行ったが、主な討伐対象であったスエビ族は森の奥深くへと退いてローマ軍を迎え撃つ姿勢を示したことから、カエサルも深追いせずに撤退した。
トレウェリ族へはラビエヌスを派遣し、スエビ族がレヌス川を越えてトレウェリ族へ援軍を送ったものの、ローマ軍はこれを撃破した。トレウェリ族を指導していたインドゥティオマルスの親族はゲルマニアへと逃れ、新たにキンゲトリスク(Cingetorix)がトレウェリ族の指導者となった。カエサル再びゲルマニア遠征を行ったが、主な討伐対象であったスエビ族は森の奥深くへと退いてローマ軍を迎え撃つ姿勢を示したことから、カエサルも深追いせずに撤退した。


カエサルはアンビオリクスの追討戦を始め、エブロネス族のもう1人の族長であった[[カタウウォルクス]]は自殺したものの、アンビオリクスはアルドゥエンナの森(Arduenna、現在の[[アルデンヌ]]地方及び[[サンブル川]]からライン川に至る地域)へと逃れた。カエサルは[[輜重]]をアドゥアトゥカへ置いた上でクィントゥス・キケロに守らせ、海岸地方へはラビエヌス、アトゥアトゥキ族への抑えに[[ガイウス・トレボニウス]]を派遣した。カエサルはエブロネス族に対して、他のガリア人やゲルマニア人が攻撃させるように仕向けたが、逆にゲルマン系[[スカンブリ族]]アドゥアトゥカのローマ軍輜重部隊襲撃し大きな成果はかった。カエサルはセノネス族らが反乱を起した件でアッコを処刑した<ref>[[笞刑]]を加えて死に至らしめ、その後斬首するという方法であった</ref>。
カエサルはアンビオリクスの追討戦を始め、エブロネス族のもう1人の族長であった[[カタウウォルクス]]は自殺したものの、アンビオリクスはアルドゥエンナの森(Arduenna、現在の[[アルデンヌ]]地方及び[[サンブル川]]からライン川に至る地域)へと逃れた。カエサルは[[輜重]]をアドゥアトゥカへ置いた上でクィントゥス・キケロに守らせ、海岸地方へはラビエヌス、アトゥアトゥキ族への抑えに[[ガイウス・トレボニウス]]を派遣した。カエサルは、他のガリア人やゲルマニア人がエブロネス族を攻撃るように仕向けたが、逆にゲルマン系[[スカンブリ族]]アドゥアトゥカのローマ軍輜重部隊襲撃されるなど大きな成果は得られなかった。カエサルはセノネス族らが反乱を起した件でアッコを処刑した<ref>[[笞刑]]を加えて死に至らしめ、その後斬首するという方法であった</ref>。


なお、この年に第一回三頭政治の一角であるクラッススと息子のプブリウスが[[パルティア]]との戦いで戦死([[カルラエの戦い]])、前年にはポンペイウスの妻でありカエサルの娘であった[[ユリア (ガイウス・ユリウス・カエサルの娘)|ユリア]]も死去しており、[[マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス|マルクス・ポルキウス・カト]](小カト)ら元老院の反カエサル派の暗躍もあって両者の間に隙間風が徐々に差し込みつつあった。
なお、この年に第一回三頭政治の一角であるクラッススと息子のプブリウスが[[パルティア]]との戦いで戦死([[カルラエの戦い]])、前年にはポンペイウスの妻でありカエサルの娘であった[[ユリア (ガイウス・ユリウス・カエサルの娘)|ユリア]]も死去しており、[[マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス|マルクス・ポルキウス・カト]](小カト)ら元老院の反カエサル派の暗躍もあって両者の間に隙間風が徐々に差し込みつつあった。


=== 紀元前52年(ガリア戦争7年目) ===
=== 紀元前52年(ガリア戦争7年目) ===
[[ファイル:Statue Vercingetorix Alesia.jpg|thumb|left|ウェルキンゲトリクス像]]
[[ファイル:Alise-Sainte-Reine_statue_Vercingetorix_par_Millet_2crop.jpg|thumb|left|ウェルキンゲトリクス像]]
アッコの処刑によって大いに自尊心を傷つけられたカルヌテス族は、全ガリア部族が一丸となって反ローマに立ち上がるよう密談を重ね、そんな中でコトゥアトゥスやコンコンネトドゥムヌスらはケナブム(現:[[オルレアン]])を攻撃して多数のローマ人を殺害した。
アッコの処刑によって大いに自尊心を傷つけられたカルヌテス族は、全ガリア部族が一丸となって反ローマに立ち上がるよう密談を重ね、その密談が進む間もコトゥアトゥスやコンコンネトドゥムヌスらはケナブム(現:[[オルレアン]])を攻撃して多数のローマ人を殺害した。


また、セノネス、[[パリシイ族|パリシイ]]、ピクトネス、カドゥルキ、アウレルキ等ガリア各族は[[アルウェルニ族]]の[[ウェルキンゲトリクス]]にガリア軍の最高指揮権を委ねることで合意した。早速、ウェルキンゲトリクスは[[ビドゥリゲス族]]やルテニ族、ニティオブロゲス族らをガリア連合軍に引入れるのに成功した。更に、かつてカエサルのブリタンニア遠征に参加していたアトレバテス族の族長[[コンミウス]]も反乱に加わった。
また、セノネス、[[パリシイ族|パリシイ]]、ピクトネス、カドゥルキ、アウレルキ等ガリア各族は[[アルウェルニ族]]の[[ウェルキンゲトリクス]]にガリア軍の最高指揮権を委ねることで合意した。早速、ウェルキンゲトリクスは[[ビドゥリゲス族]]やルテニ族、ニティオブロゲス族らをガリア連合軍に引入れるのに成功した。更に、かつてカエサルのブリタンニア遠征に参加していたアトレバテス族の族長[[コンミウス]]も反乱に加わった。


以上はカエサルがローマ滞在中の出来事であり、カエサルはクラッスス父子の戦死や[[プブリウス・クロディウス・プルケル]]の暗殺等による事後対応でローマ内の政争に足を取られていたことから、これらガリア人の動きに対して後手に回ることとなった。
以上はカエサルがローマ滞在中の出来事であり、カエサルはクラッスス父子の戦死や[[プブリウス・クロディウス・プルケル]]の暗殺等による事後対応でローマ本国の政争に足を取られていたことから、これらガリア人の動きに対して後手に回ることとなった。


カエサルはガリア到着次第、軍を率いてビドゥリゲス族の主邑・ゴルゴビナ([[:en:Gorgobina|en]])へ進軍した。その道中でセノネス族のウェッラウノドゥヌム(Vellaunodunum、現:[[ヴィヨン (ヨンヌ県)|ヴィヨン]])、カルヌテス族のケナブム、ビドリゲス族のノウィオドゥヌム(現:[[ヌヴェール]])等を攻略した。
カエサルはガリア到着次第、軍を率いてビドゥリゲス族の主邑・ゴルゴビナ([[:en:Gorgobina|en]])へ進軍した。その道中でセノネス族のウェッラウノドゥヌム(Vellaunodunum、現:[[ヴィヨン (ヨンヌ県)|ヴィヨン]])、カルヌテス族のケナブム、ビドリゲス族のノウィオドゥヌム(現:[[ヌヴェール]])等を攻略した。


ウェルキンゲトリクスはここで「[[焦土作戦]]」を考案して、ローマ軍の兵站の寸断を図るべく多くの城市を焼き払うが、アウァリクム(現:[[ブールジュ]])は住民の嘆願もあって「焦土作戦」からは外された。カエサル軍はこのアウァリクムを攻略し、全市民40,000人の内1000名弱が脱出できたのみで残りは殺戮された<ref>カエサル「ガリア戦記」7.28</ref>([[アウァリクム包囲戦]])。
ウェルキンゲトリクスはここで「[[焦土作戦]]」を考案して、ローマ軍の兵站の寸断を図るべく多くの城市を焼き払うが、アウァリクム(現:[[ブールジュ]])は住民の嘆願もあって「焦土作戦」からは外された。カエサル軍はこのアウァリクムを攻略したがこの時脱出できたのは全市民40,000人の内1000名弱のみで残りは殺戮された<ref>カエサル「ガリア戦記」7.28</ref>([[アウァリクム包囲戦]])。


カエサルは6軍団をもってアルウェルニ族の主邑・ゲルゴウィア攻略に乗り出した。しかし、これまで親ローマで兵站を担っていたハエドゥイ族がウェルキンゲトリクス側へ軸足を移しつつあり、ゲルゴウィア攻略も長期化の様相を呈したことから、ローマ軍はゲルコウィア攻略を断念した([[ゲルゴウィアの戦い]])。
カエサルは6軍団をもってアルウェルニ族の主邑・ゲルゴウィア攻略に乗り出した。しかし、これまで親ローマで兵站を担っていたハエドゥイ族がウェルキンゲトリクス側へ軸足を移しつつあり、ゲルゴウィア攻略も長期化の様相を呈したことから、ローマ軍はゲルコウィア攻略を断念した([[ゲルゴウィアの戦い]])。
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== 影響 ==
== 影響 ==
{{出典の明記|date=2017年1月|section=1}}
一連のガリア戦争によって、カエサルはガリア全域をローマの支配圏に組み入れた。この戦争により、カエサル自身も将軍としての実績を積んで権威を高め、ガリアからの莫大な戦利品により財産を蓄えた。また、長年の苦楽を共にした将兵たちは、共和政ローマにではなくカエサル個人に忠誠を誓うようになり、精強な私兵[[ローマ軍団|軍団]]を形成した。
一連のガリア戦争によって、カエサルはガリア全域をローマの支配圏に組み入れた。この戦争により、カエサル自身も将軍としての実績を積んで権威を高め、ガリアからの莫大な戦利品により財産を蓄えた。また、長年の苦楽を共にした将兵たちは、共和政ローマにではなくカエサル個人に忠誠を誓うようになり、精強な私兵[[ローマ軍団|軍団]]を形成した。


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== 史料 ==
== 史料 ==
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[[File:Caesar campaigns gaul-en.svg|thumb|200px|right|ガリア戦争要図]]
[[File:Caesar campaigns gaul-en.svg|thumb|200px|right|ガリア戦争要図]]
ガリア戦争の史料としては、カエサル自身の著書『[[ガリア戦記]]』が第一級史料となり、[[プルタルコス]]『[[対比列伝]]』や[[スエトニウス]]『{{仮リンク|皇帝伝|en|The Twelve Caesars}}』等の該当箇所がそれに続く形となる。なお、カエサル自身が一方の当事者(総司令官)であったので、ガリア戦記は多分に[[プロパガンダ]]の要素が混在していると考えられる。ただし、事実関係に関してはカエサルと敵対関係にあった小カトら元老院議員による批判は無い。
ガリア戦争の史料としては、カエサル自身の著書『[[ガリア戦記]]』が第一級史料となり、[[プルタルコス]]『[[対比列伝]]』や[[スエトニウス]]『{{仮リンク|皇帝伝|en|The Twelve Caesars}}』等の該当箇所がそれに続く形となる。なお、カエサル自身が一方の当事者(総司令官)であったので、ガリア戦記は多分に[[プロパガンダ]]の要素が混在していると考えられる。ただし、事実関係に関してはカエサルと敵対関係にあった小カトら元老院議員による批判は無い。
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*[[カトゥウェッラウニ族]]
*[[カトゥウェッラウニ族]]
etc.
etc.

== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*ユリウス・カエサル、[[近山金次]]訳『ガリア戦記』[[岩波文庫]]
*ユリウス・カエサル、[[近山金次]]訳『ガリア戦記』[[岩波文庫]]
**[[原吉之助]]訳『ガリア戦記』[[講談社学術文庫]]、1994年。
**[[原吉之助]]訳『ガリア戦記』[[講談社学術文庫]]、1994年。
**[[中倉玄喜]]訳『新訳 [[ガリア]]戦記』[[PHP研究所]]、2008年。
**中倉玄喜訳『新訳 ガリア戦記』[[PHP研究所]]、2008年。
**[[石垣憲一]]他訳『ガリア戦記』[[平凡社ライブラリー]]、2009年。
**石垣憲一ほか訳『ガリア戦記』[[平凡社ライブラリー]]、2009年。
*[[ガイウス・スエトニウス・トランクィッルス|スエトニウス]]、原吉之助訳『ローマ皇帝伝〈上〉』[[岩波文庫]]
*[[ガイウス・スエトニウス・トランクィッルス|スエトニウス]]、原吉之助訳『ローマ皇帝伝〈上〉』[[岩波文庫]]
*[[プルタルコス]]著、[[村川堅太郎]]編集『プルタルコス英雄伝〈下〉』[[ちくま学芸文庫]]
*[[プルタルコス]][[対比列伝|プルタルコス英雄伝]]〈下〉』[[ちくま学芸文庫]]。[[村川堅太郎]]編
*[[塩野七生]]ユリウス・カエサル ルビコン以前 [[ローマの物語]]IV』[[新潮社]]、[[新潮文庫]]全3冊
*トム・ホランド『ルビコン 共和政ローマ崩壊への物語』[[小林朋則]]訳、[[本村凌二]]監修、[[中央公論]]、2006年。
*[[トム・ホランド]]著、[[小林朋則]]訳、[[本村凌二]]監修『[[ルビコン]] [[共和政ローマ]]崩壊への物語』[[中央公論新社]]、2006年。

== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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**[[3世紀の危機]]([[235年]] - [[284年]])
**[[3世紀の危機]]([[235年]] - [[284年]])
**[[ゲルマン民族の大移動]]([[375年]])・・・[[フン族]]に押されて[[ゴート族]]が南下
**[[ゲルマン民族の大移動]]([[375年]])・・・[[フン族]]に押されて[[ゴート族]]が南下
**{{仮リンク|ゴート戦争 (376年–382年)|en|Gothic War (376–382)|label=ゴート戦争}}
**[[ゴート戦争 (376年–382年)|ゴート戦争]]
***[[ハドリアノポリスの戦い]]([[378年]])
***[[ハドリアノポリスの戦い]]([[378年]])
**[[東ローマ帝国]]成立([[395年]])
**[[東ローマ帝国]]成立([[395年]])
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*[http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Caes.+Gal.+toc C.Julius Caesar,Gallic War]
*[http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Caes.+Gal.+toc C.Julius Caesar,Gallic War]


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2024年1月18日 (木) 13:42時点における最新版

ガリア戦争
ガリア(紀元前1世紀)
戦争ガリア戦争
年月日紀元前58年 - 紀元前51年
場所ガリア全土
結果ローマ軍の勝利
交戦勢力
共和政ローマ ガリア人
ゲルマニア人
ブリトン人
指導者・指揮官
ユリウス・カエサル
ティトゥス・ラビエヌス
プブリウス・クラッスス
デキムス・ブルトゥス
アリオウィストゥス
アンビオリクス
ウェルキンゲトリクス
カッシウェラウヌス
コンミウス
ガリア戦争

ガリア戦争(ガリアせんそう、ラテン語Bellum Gallicum, ベッルム・ガッリクム/ベルルム・ガルリクム)は、紀元前58年から紀元前51年にかけて、共和政ローマのガリア地区総督ガイウス・ユリウス・カエサルガリア(現:フランスベルギースイス等)に遠征してその全域を征服し、共和政ローマの属州とした一連の戦争を指す。

ガリア戦争までの経緯

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当時のガリアは、スエビ族出身のゲルマニア人アリオウィストゥスマゲトブリガの戦い英語版紀元前63年頃)でガリア人を破り、レヌス川(現:ライン川)に近いガリア一帯に勢力圏を形成し、更にガリア人を追いやってその支配領域を広げつつあった[1]

紀元前60年グナエウス・ポンペイウスマルクス・リキニウス・クラッスス第一回三頭政治を結成、紀元前59年執政官(コンスル)の任期を終えたカエサルは、翌紀元前58年からプロコンスル(前執政官)としてイリュリアガリア・キサルピナアルプス以南のガリア)、ガリア・トランサルピナ(アルプス以北のガリア)の属州総督となった。

ガリア・キサルピナは既に属州ガリアとしてローマ支配下にあったが、ガリア・トランサルピナはいまだローマの勢力が及んでおらず、カエサルは5年間のインペリウム(軍事指揮権)を元老院より委ねられた。

戦争の経過

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紀元前58年(ガリア戦争1年目)

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ガリア・キサルピナとガリア・トランサルピナ、イリュリアの各属州の総督であったカエサルは、ゲルマニア人に圧迫される形で西方へ移住を始めた現在のスイスの山岳地帯にいたガリア人系ヘルウェティイ族へ戦争を仕掛けて、アラル川の戦いビブラクテの戦い英語版でこれを破り、元の居住地に押し戻した。

ヘルウェティイ族を討伐した後に、カエサルはハエドゥイ族らガリア人の要請により、ローマのガリア制覇への大きな障害となりつつあったアリオウィストゥス率いるゲルマニア人と戦い、プブリウス・リキニウス・クラッスス(クラッススの息子)の活躍もあってウォセグスの戦いで勝利を収め、ゲルマニア人をレヌス川の向こうへと追いやった。

紀元前57年(ガリア戦争2年目)

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アリオウィストゥスをゲルマニアへ追いやったローマに対して、スエッシオネス族の族長ガルバを中心としてネルウィ族アトレバテス族モリニ族らのベルガエ人が一斉に反乱を起し(オクトドゥルスの戦いフランス語版ドイツ語版)、ベルガエ人はレミ族の町であるビブラクス[2]を攻撃していた。カエサルがレミ族支援の為にビブラクテ方面へ進軍するとベルガエ人はこれを迎え撃ったが、アクソナ川の戦いで敗北し、ガルバは人質をカエサルに出して降伏した。なおもボドゥオグナトゥス(Boduognatus)をリーダーとするネルウィイ族やウィロマンドゥイ族らはローマへの抵抗を続けたが、激戦の末サビス川の戦いで敗北して、ローマ軍に降伏した[3]。また、プブリウス・クラッススによってウェネティ族ら大西洋沿岸部族がローマに帰順した。

紀元前56年(ガリア戦争3年目)

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前年にローマに一度は帰順した部族で、大西洋岸に勢力を持ち海軍力のあったウェネティ族が同地区に駐屯していたローマ軍に対して反乱を起した。カエサルは、ティトゥス・ラビエヌスをベルガエ人やゲルマニア人へ、プブリウス・クラッススをアクィタニア人への抑えに回し、自身はウェネティ族の討伐に向かい、モルビアンへ到着した。海戦の経験に乏しいカエサル軍であったが、デキムス・ユニウス・ブルトゥスが率いるローマ艦隊がウェネティ族らの艦隊をモルビアン湾の海戦で撃破し、反乱を鎮圧した。

また、同時期に反乱を起したウィリドウィクスが率いるウネッリ族アウレルキ族エブロウィケス族らにはクィントゥス・ティトゥリウス・サビヌスが当り、プブリウス・クラッススが赴いたアクィタニア人の居住地区でも、ソティアヌス族等からローマに対する攻撃が生じたが、いずれの騒乱も平定した。

この年、カエサル・ポンペイウス・クラッススの3者がルッカで会談して、紀元前55年にポンペイウス及びクラッススが執政官へ立候補すること及びカエサルのガリア総督の任期を5年延長することが内約された[4]

紀元前55年(ガリア戦争4年目)

[編集]
レヌス川を渡るローマ軍

ゲルマン系の中でも弱小であったウシペテス族テンクテリ族が、スエビ族に圧迫される形でレヌス川を越えてガリアへ侵入した為、カエサルはレヌス川の向こうへ戻るように警告した。交渉の為に双方が一時停戦する約束であったが、ゲルマニア人はこれを反故にしてローマ騎兵へ攻撃を仕掛けたことから、ローマ軍はゲルマニア人を襲撃して多くを殺戮、捕虜とした。

その後、カエサルはこれに関ったゲルマニアへの牽制として、レヌス川に橋を架けてゲルマニアへ渡り、ウシペテス族とテンクテリ族の残党を匿ったスガンブリ族の集落を焼き討ちにしたものの、森の奥深くへ陣を構えたスエビ族らとの戦いには臨まずに、ガリア側へ引き上げた。

ウェネティ族の蜂起の際にブリタンニア人がこれに加担していたことから、これを牽制する為、ガリアの守りをラビエヌスに任せ、カエサルはブリタンニアへ渡った。海が荒れたことにより軍船の一部が破損してしまったことや兵站の乏しさ、ブリタンニア人の騎兵と戦車による攻撃で苦戦を強いられたものの、兵の強さで勝るローマ軍はブリタンニア人を大破し、ローマ軍船の修理が済むと共にガリアへ戻った(ブリタンニア遠征)。

なお、前年の「ルッカ会談」での密約通りにポンペイウスとクラッススは執政官に当選し、カエサルのガリア総督としての任期も5年延長された。また、紀元前54年よりポンペイウスはヒスパニア、クラッススはシリアの属州総督に就くことが決まった[5]

紀元前54年(ガリア戦争5年目)

[編集]

ピルスタエ族の暴動を調停した後、カエサルは元々遺恨のあったハエドゥイ族のドゥムノリクスを誅殺した上で、再び船隊を率いてブリタンニアへ遠征した。前年同様に嵐によって船舶の一部に損害が生じたこともあって、ブリタンニア人はカッシウェラウヌスをリーダーにローマに対して蜂起したが、ローマ軍は多くのブリタンニア人を戦いで殺戮し、ブリタンニア人を降伏させた。

アンビオリクス像

ガリアへ戻ったカエサルはガリア人監視の意味もあって、レガトゥス(総督副官)を各地に冬営の為に派遣した。エブロネス族の地へはクィントゥス・サビヌスとルキウス・アウルンクレイウス・コッタが派遣されたが、エブロネス族の族長アンビオリクスの計略に掛かって、サビヌスらが率いたローマ軍は指揮官共々壊滅した(アドゥアトゥカの戦い)。

アンビオリクスは他のローマ軍を攻撃するように焚き付けて、ネルウィ族はクィントゥス・トゥッリウス・キケロが冬営する駐屯地を攻撃したが、キケロは持ち堪え、駆けつけたカエサル軍によってネルウィ族は敗退した。トレウェリ族インドゥティオマルス(Indutiomarus)がゲルマニア人も呼び込んでの蜂起を企てたが、不首尾に終わった為に単独で蜂起したが、ラビエヌス率いるローマ軍に敗北し、インドゥティオマルスは戦死した。

紀元前53年(ガリア戦争6年目)

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インドゥティオマルス戦死後もトレウェリ族はセノネス族カルヌテス族らと共に抵抗し、アッコ(Acco)を首謀者として蜂起したが、カエサルはセノネス族やカルヌテス族を降伏させた。さらに、カエサルはアンビオリクスを匿う姿勢を見せたメナピイ族へ攻め込んで降伏させた。

トレウェリ族へはラビエヌスを派遣し、スエビ族がレヌス川を越えてトレウェリ族へ援軍を送ったものの、ローマ軍はこれを撃破した。トレウェリ族を指導していたインドゥティオマルスの親族はゲルマニアへと逃れ、新たにキンゲトリスク(Cingetorix)がトレウェリ族の指導者となった。カエサルは再びゲルマニア遠征を行ったが、主な討伐対象であったスエビ族は森の奥深くへと退いてローマ軍を迎え撃つ姿勢を示したことから、カエサルも深追いせずに撤退した。

カエサルはアンビオリクスの追討戦を始め、エブロネス族のもう1人の族長であったカタウウォルクスは自殺したものの、アンビオリクスはアルドゥエンナの森(Arduenna、現在のアルデンヌ地方及びサンブル川からライン川に至る地域)へと逃れた。カエサルは、輜重をアドゥアトゥカへ置いた上でクィントゥス・キケロに守らせ、海岸地方へはラビエヌス、アトゥアトゥキ族への抑えにガイウス・トレボニウスを派遣した。カエサルは、他のガリア人やゲルマニア人がエブロネス族を攻撃するように仕向けたが、逆にゲルマン系スカンブリ族にアドゥアトゥカのローマ軍輜重部隊が襲撃されるなどし、大きな成果は得られなかった。カエサルはセノネス族らが反乱を起した件でアッコを処刑した[6]

なお、この年に第一回三頭政治の一角であるクラッススと息子のプブリウスがパルティアとの戦いで戦死(カルラエの戦い)、前年にはポンペイウスの妻でありカエサルの娘であったユリアも死去しており、マルクス・ポルキウス・カト(小カト)ら元老院の反カエサル派の暗躍もあって両者の間に隙間風が徐々に差し込みつつあった。

紀元前52年(ガリア戦争7年目)

[編集]
ウェルキンゲトリクス像

アッコの処刑によって大いに自尊心を傷つけられたカルヌテス族は、全ガリア部族が一丸となって反ローマに立ち上がるよう密談を重ね、その密談が進む間もコトゥアトゥスやコンコンネトドゥムヌスらはケナブム(現:オルレアン)を攻撃して多数のローマ人を殺害した。

また、セノネス、パリシイ、ピクトネス、カドゥルキ、アウレルキ等ガリア各族はアルウェルニ族ウェルキンゲトリクスにガリア軍の最高指揮権を委ねることで合意した。早速、ウェルキンゲトリクスはビドゥリゲス族やルテニ族、ニティオブロゲス族らをガリア連合軍に引入れるのに成功した。更に、かつてカエサルのブリタンニア遠征に参加していたアトレバテス族の族長コンミウスも反乱に加わった。

以上はカエサルがローマ滞在中の出来事であり、カエサルはクラッスス父子の戦死やプブリウス・クロディウス・プルケルの暗殺等による事後対応でローマ本国内での政争に足を取られていたことから、これらガリア人の動きに対して後手に回ることとなった。

カエサルはガリア到着次第、軍を率いてビドゥリゲス族の主邑・ゴルゴビナ(en)へ進軍した。その道中でセノネス族のウェッラウノドゥヌム(Vellaunodunum、現:ヴィヨン)、カルヌテス族のケナブム、ビドリゲス族のノウィオドゥヌム(現:ヌヴェール)等を攻略した。

ウェルキンゲトリクスはここで「焦土作戦」を考案して、ローマ軍の兵站の寸断を図るべく多くの城市を焼き払うが、アウァリクム(現:ブールジュ)は住民の嘆願もあって「焦土作戦」からは外された。カエサル軍はこのアウァリクムを攻略したが、この時脱出できたのは全市民40,000人の内1000名弱のみで、残りは殺戮された[7]アウァリクム包囲戦)。

カエサルは6軍団をもってアルウェルニ族の主邑・ゲルゴウィア攻略に乗り出した。しかし、これまで親ローマで兵站を担っていたハエドゥイ族がウェルキンゲトリクス側へ軸足を移しつつあり、ゲルゴウィア攻略も長期化の様相を呈したことから、ローマ軍はゲルコウィア攻略を断念した(ゲルゴウィアの戦い)。

山岳地とアルウェルニ族支配地域を迂回するため、ローマ軍は一度北上してから東方へ転じた。ウェルキンゲトリクスはローマ軍を追尾して攻撃を仕掛けた。しかし、ゲルマン騎兵とローマ重装歩兵の共同行動によってガリア軍は敗退した。ガリア軍は逆に追われる立場となり、マンドゥビイ族の都市アレシアへ逃げ込んだ[8]

一方で、アウレルキ族やセノネス族らを抑えるべくカエサルとは別に4軍団を率いていたラビエヌスは、アウレルキ族のカムロゲヌスらとルテティア(現:パリ)で衝突して、これに勝利を収めてカムロゲヌスを討ち取った(ルテティアの戦いフランス語版英語版)。

なお、これに先立って、親ローマのレミ族及びリンゴネス族、ゲルマニア人の攻撃により身動きの取れないトレウェリ族以外のガリア部族の代表が集結し、全会一致でウェルキンゲトリクスを最高司令官にすることを決議した。

カエサルはウェルキンゲトリクスらガリア軍が立て篭もるアレシアを包囲。激戦の末、アレシアを陥落させてガリア軍を破った。詳細な経過はアレシアの戦いを参照。

紀元前51年(ガリア戦争8年目)

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アレシアでの戦い以降も抵抗を続けていた部族の内、ベッロウァキ族アトレバテス族、アウレルキ族、カレテス族らが反乱を起したものの、ローマ軍はこれを鎮圧した。セノネス族やカドゥルキ族らはウクセッロドゥヌム(現:ケルシ、Quercy)に籠城したものの兵糧攻めによりこれを下した(ウクセッロドゥヌムの戦い英語版)。カエサルはアクィタニア人の領域へ進軍したが、全アクィタニア人がローマに従うと表明。ゲルマニア人と結んで抗していたトレウェリ族もローマに降伏して、ガリア全土のローマ属州化が成った。

影響

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一連のガリア戦争によって、カエサルはガリア全域をローマの支配圏に組み入れた。この戦争により、カエサル自身も将軍としての実績を積んで権威を高め、ガリアからの莫大な戦利品により財産を蓄えた。また、長年の苦楽を共にした将兵たちは、共和政ローマにではなくカエサル個人に忠誠を誓うようになり、精強な私兵軍団を形成した。

名声高まるカエサルの勢力を恐れた元老院派はポンペイウスと結んでカエサルと対抗する姿勢を強め、紀元前49年1月10日のカエサル及び配下のローマ軍団によるルビコン川渡河から始まるポンペイウス及び元老院派との内戦へ突入することとなった。

史料

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ガリア戦争要図

ガリア戦争の史料としては、カエサル自身の著書『ガリア戦記』が第一級史料となり、プルタルコス対比列伝』やスエトニウス皇帝伝英語版』等の該当箇所がそれに続く形となる。なお、カエサル自身が一方の当事者(総司令官)であったので、ガリア戦記は多分にプロパガンダの要素が混在していると考えられる。ただし、事実関係に関してはカエサルと敵対関係にあった小カトら元老院議員による批判は無い。

ガリア戦争に関与した主な人物

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ローマ軍

[編集]

→上記の本文等を参照。

ガリア・ゲルマニア側

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ガリアの部族一覧を参照。

etc.

ブリタンニア人

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etc.

脚注

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  1. ^ カエサル『ガリア戦記』1.31
  2. ^ カエサル『ガリア戦記』2.6
  3. ^ カエサル『ガリア戦記』2.6。ガリア戦記には「ネルウィ族はほぼ壊滅状態となった」と記載があるが、実際にはその後もネルウィ族は勢力を保っている。
  4. ^ プルタルコス「英雄伝」ポンペイウス51
  5. ^ プルタルコス「英雄伝」クラッスス15
  6. ^ 笞刑を加えて死に至らしめ、その後斬首するという方法であった
  7. ^ カエサル「ガリア戦記」7.28
  8. ^ カエサル「ガリア戦記」7.67

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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