「ネーデルラント17州」の版間の差分
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{{基礎情報 過去の国 |
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| 日本語国名 = ハプスブルク領ネーデルラント |
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| 公式国名 = Habsburgse Nederlanden |
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| 建国時期 = [[1482年]] |
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| 亡国時期 = [[1581年]] |
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| 変遷年月日1 = 1482年 |
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| 変遷1 = 成立 |
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| 変遷2 = [[国事詔書 (1549年)|国事詔書]] |
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| 変遷年月日2 = 1549年 |
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| 先代1 = ブルゴーニュ領ネーデルラント |
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| 先旗1 = Banner of the Burgundian Cross of Burgundy.svg |
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| 次代1 = ネーデルラント連邦共和国 |
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| 次旗1 = Statenvlag.svg |
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| 次代2 = 南ネーデルラント#スペイン領ネーデルラント |
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| 次旗2 = Bandera cruz de Borgoña 2.svg |
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| 国旗画像 = Bandera cruz de Borgoña 2.svg |
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| 国章画像 = Coat of Arms of Philip IV of Burgundy.svg |
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| 位置画像 = Spanish Netherlands.svg |
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| 位置画像説明 = 1560年 |
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| 首都 = [[ブリュッセル]] |
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| 公用語 = [[オランダ語]]<br>[[低ザクセン語]]<br>[[西フリジア語]]<br>[[ワロン語]]<br>[[ルクセンブルク語]]<br>[[フランス語]] |
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| 宗教 = [[カトリック教会|カトリック]]<br>[[プロテスタント]] |
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| 現在 = {{NED}}<br>{{BEL}}<br>{{LUX}}<br>{{FRA}}<br>{{GER}} |
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| 元首等肩書 = [[スペイン君主一覧|国王]] |
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| 元首等氏名1 = [[フェリペ1世 (カスティーリャ王)|フィリップ4世]] |
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| 変遷年月日3 = 1581年 |
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| 変遷3 = 独立宣言 |
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| 元首等氏名2 = [[フェリペ2世 (スペイン王)|フィリップ5世]] |
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| 元首等年代始1 = 1482年 |
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| 元首等年代始2 = 1556年 |
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| 元首等年代終1 = 1506年 |
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| 元首等年代終2 = 1581年 |
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| 次代2略 = スペイン領南ネーデルラント |
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}} |
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{{Netherlands state}} |
{{Netherlands state}} |
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'''ネーデルラント |
'''ハプスブルク領ネーデルラント'''({{lang-nl|Habsburgse Nederlanden}})は[[ネーデルラント|低地諸国]]に[[16世紀]]に存在した、[[カスティーリャ君主一覧|カスティーリャ国王]]・[[スペイン君主一覧|スペイン国王]]を君主とする[[同君連合]]下の国家群である。現在の[[オランダ|オランダ王国]]・[[ベルギー|ベルギー王国]]・[[ルクセンブルク|ルクセンブルク大公国]]・そして[[フランス|フランス共和国]]北部の[[アルトワ]](Artois)・[[ノール県|ノール]](Nord)と[[ドイツ|ドイツ連邦共和国]]の一部を含む地域を含んだ領域に存在した。 |
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== 17州の一覧 == |
== 17州の一覧 == |
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[[ファイル:Map Burgundian Netherlands 1477-en.png|thumb|left|350px|図1.[[1477年]]におけるネーデルラント17州の地図]] |
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[[ファイル:Map-1477 Low Countries.png|thumb|right|350px|図1.[[1477年]]におけるネーデルラント17州の地図]] |
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図1に示す17州には、以下の諸侯領が存在した。 |
図1に示す17州には、以下の諸侯領が存在した。 |
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#{{仮リンク|アルトワ伯国|en|County of Artois}} |
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#[[フランドル伯|フランドル伯国]]([[リール (フランス)|リール]]、[[ドゥエー]]、[[オルシー]]等の都市を含む) |
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#{{仮リンク|メヘレン領主領|en|Lordship of Mechelen}} |
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#{{仮リンク|ナミュール伯国|en|County of Namur}} |
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#{{仮リンク|エノー伯国|en|County of Hainaut}} |
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#{{仮リンク|ゼーラント伯国|en|County of Zeeland}} |
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#{{仮リンク|ホラント伯国|en|County of Holland}} |
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#[[ブラバント公国]]([[アントウェルペン]]を含む) |
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#[[リンブルフ公国]]<small>([[:en:Duchy of Limburg|英語版]])</small> |
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#[[ルクセンブルク公国]]<small>([[:en:Duchy of Luxembourg|英語版]])</small> |
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#{{仮リンク|ユトレヒト領主領|en|Lordship of Utrecht}} |
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#{{仮リンク|フリースラント領主領|en|Lordship of Frisia}} |
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#[[ゲルデルン公|ヘルレ公国]]([[1543年]]以降) |
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#{{仮リンク|フローニンゲン領主領|en|Lordship of Groningen}} |
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#{{仮リンク|ドレンテ領主領|en|County of Drenthe}}([[リンゲン]]を含む) |
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#{{仮リンク|オーファーアイセル領主領|en|Lordship of Overijssel}} |
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#{{仮リンク|ズトフェン伯領|en|Zutphen County}} |
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[[トゥルネー]]の町のある場所である[[リール (フランス)|リール]]と[[モンス]]の間の青いエリアは17州の1つであると考えられていた。一方、[[リエージュ司教領]]はこれらの州の一員と考えられていなかった。この17州は、ネーデルラント全国三部会に代表者を送っていた州と常に同じ17州ではなかった。時には1つの代表が他の代表とまとめられたこともあった。通常、ズトフェンはゲルデルンの一部であったし、リンブルフはブラバントを頼っていた。一方、フランドルのフランス語を話す都市は、別々の州と認められることもあった。 |
[[トゥルネー]]の町のある場所である[[リール (フランス)|リール]]と[[モンス]]の間の青いエリアは17州の1つであると考えられていた。一方、[[リエージュ司教領]]はこれらの州の一員とは考えられていなかった。この17州は、ネーデルラント全国三部会に代表者を送っていた州と常に同じ17州ではなかった。時には1つの代表が他の代表とまとめられたこともあった。通常、ズトフェンはゲルデルンの一部であったし、リンブルフはブラバントを頼っていた。一方、フランドルのフランス語を話す都市は、別々の州と認められることもあった。 |
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更にネーデルラントには、17州に含まれない領土が存在した。その最大のものはリエージュ司教領だった。北には[[フランス革命]]まで自らの支配者を持ち続けた[[アメラント島]] |
更にネーデルラントには、17州に含まれない領土が存在した。その最大のものはリエージュ司教領だった。北には[[フランス革命]]まで自らの支配者を持ち続けた[[アーメラント|アメラント島]]のような、いくつかの小さな領域も存在した。 |
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==歴史== |
==歴史== |
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ネーデルラント17州の歴史は、[[1477年]]に[[ブルゴーニュ公国]]を治めていた[[シャルル (ブルゴーニュ公)|シャルル突進公]]が戦死した際に男子の継承者がいなかったために、娘の[[マリー |
ネーデルラント17州の歴史は、[[1477年]]に[[ブルゴーニュ公国]]を治めていた[[シャルル (ブルゴーニュ公)|シャルル突進公]]が戦死した際に男子の継承者がいなかったために、娘の[[マリー・ド・ブルゴーニュ|マリー女公]]の夫である[[ハプスブルク家]]の[[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン大公]]によって継承されたのが始まりである。マリーが落馬によって死亡した後、公国内の有力貴族が反乱を起こし、マクシミリアンはブルゴーニュ公の退位を余儀なくされる。 |
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その後、この地域は息子の[[フェリペ1世 (カスティーリャ王)|フィリップ美公]]が治め、急死後 |
その後、この地域は息子の[[フェリペ1世 (カスティーリャ王)|フィリップ美公]]が治め、その急死後はその長子[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|シャルル]]が公国を相続した([[1515年]]1月に全国議会で即位)。 |
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さらにシャルルは[[1516年]]には[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]・[[アラゴン連合王国|アラゴン]]両王国の君主となり、[[1519年]]には対抗馬の[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]を破って、[[神聖ローマ皇帝]][[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]となった。カールの時代に17州全てが統合された。その最後が[[1543年]]のゲルデルン州であった。こうして東は[[トランシルヴァニア]]から西は[[スペイン]]にいたる、ヨーロッパ全体を包含するかのような「帝国」が形成された。 |
さらにシャルルは[[1516年]]には[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]・[[アラゴン連合王国|アラゴン]]両王国の君主となり、[[1519年]]には対抗馬の[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]を破って、[[神聖ローマ皇帝]][[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]となった。カールの時代に17州全てが統合された。その最後が[[1543年]]のゲルデルン州であった。こうして東は[[トランシルヴァニア]]から西は[[スペイン]]にいたる、ヨーロッパ全体を包含するかのような「帝国」が形成された。 |
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この帝国には一体的な国家組織がなく、個別の国家が単にカール5世のもとに集約されているに過ぎなかった。しかし、低地地方はその中で位置的には辺境であるにもかかわらず、対フランスの軍事的・政治的拠点であり、さらに[[アントウェルペン]]の金融は「帝国」の重要な財源であった。 |
この「帝国」には一体的な国家組織がなく、個別の国家が単にカール5世のもとに集約されているに過ぎなかった。しかし、低地地方はその中で位置的には辺境であるにもかかわらず、対フランスの軍事的・政治的拠点であり、さらに[[アントウェルペン]]の金融は「帝国」の重要な財源であった。 |
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カールは低地地方の行政的中心を[[ブリュッセル]]におき、中央集権化を進めて政治的統一を促進させる一方、周辺地域の武力的制圧を進め、メルセン条約以来分断されていた低地地方を初めて統一した。 |
カールは低地地方の行政的中心を[[ブリュッセル]]におき、中央集権化を進めて政治的統一を促進させる一方、周辺地域の武力的制圧を進め、メルセン条約以来分断されていた低地地方を初めて統一した。 |
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これらの州の大部分は[[神聖ローマ帝国]]の下に置かれ、カール自身はマクシミリアンの後継皇帝となった。フランドルとアルトワの2州はフランスの領土であったが、1529年の[[カンブレー講和条約]]によりハプスブルク家に譲渡された。1549年の国 |
これらの州の大部分は[[神聖ローマ帝国]]の下に置かれ、カール自身はマクシミリアンの後継皇帝となった。フランドルとアルトワの2州はフランスの領土であったが、1529年の[[カンブレー講和条約]]によりハプスブルク家に譲渡された。1549年の[[国事詔書 (1549年)|国事詔書]]では、これらの州は将来も統一された状態でないといけないと記された。 |
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低地地方が17州<ref>ところで、この17州というのが具体的にどの州を数え上げたものかについては数説あり、一致した見解が得られているとは言えず、不明確である。あるいは中世ヨーロッパにおいて17という数字は不特定多数の寓意でもあったので、それに由来するのではという示唆も[[ヨハン・ホイジンガ|ホイジンガ]]から出されている。詳細は川口博「「十七州」考」(『身分制国家とネーデルランド』所収)参照。</ref>と呼ばれるのは、このカール5世が帯びた、低地地方の17の称号に由来し、[[1548年]]のアウクスブルク帝国議会で正式に承認された。[[1549年]]には低地地方が「永久に不可分」な形でハプスブルク家に継承されることを定めた国事詔書(プラグマティック・サンクシオン)が発布され、全国議会で承認された。 |
低地地方が17州<ref>ところで、この17州というのが具体的にどの州を数え上げたものかについては数説あり、一致した見解が得られているとは言えず、不明確である。あるいは中世ヨーロッパにおいて17という数字は不特定多数の寓意でもあったので、それに由来するのではという示唆も[[ヨハン・ホイジンガ|ホイジンガ]]から出されている。詳細は川口博「「十七州」考」(『身分制国家とネーデルランド』所収)参照。</ref>と呼ばれるのは、このカール5世が帯びた、低地地方の17の称号に由来し、[[1548年]]のアウクスブルク帝国議会で正式に承認された。[[1549年]]には低地地方が「永久に不可分」な形でハプスブルク家に継承されることを定めた国事詔書(プラグマティック・サンクシオン)が発布され、全国議会で承認された。 |
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[[ファイル:Habsburg Map 1547.jpg|thumb|center|400px|ミュールベルグの戦いの後 |
[[ファイル:Habsburg Map 1547.jpg|thumb|center|400px|ミュールベルグの戦いの後のヨーロッパにおけるハプスブルク家の領土(緑)。ケンブリッジ・モダン・ヒストリー・アトラス(Cambridge Modern History Atlas, 1912)より]] |
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[[1556年]]のカール5世の退位の後、ハプスブルク家の領土は息子[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]と弟[[フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント1世]]に分けられた。そしてネーデルラントはスペイン王位とともに息子フェリペに相続された。 |
[[1556年]]のカール5世の退位の後、ハプスブルク家の領土は息子[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]と弟[[フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント1世]]に分けられた。そしてネーデルラントはスペイン王位とともに息子フェリペに相続された。 |
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現在と昔のネーデルラントを区別するため、オランダ人は、通常、現在の国を示す場合には複数形にしないで単数形を利用する。彼らは、現在の国を示す際には''Nederland''、カール5世の支配下のものは''de Nederlanden''と示す。他の言語では、これは適用されない。ただし、英語では、この広い地域のことを「低地諸国(Low Countries)」と示す。「ネーデルラント」と言う言葉が異なった歴史的意味を示すと言う事実は、正確に彼ら(の国)を表すことが難しいことを表している。例えば、16世紀から構成されている領域は、ネーデルラント群(''Nederlandse School'')に属していると言われる。その語自体には意味は無いが、今日では、その言葉が北により作成されたものと言う間違った印象を与える。実際、それらは南を除いているからである。 |
現在と昔のネーデルラントを区別するため、オランダ人は、通常、現在の国を示す場合には複数形にしないで単数形を利用する。彼らは、現在の国を示す際には''Nederland''、カール5世の支配下のものは''de Nederlanden''と示す。他の言語では、これは適用されない。ただし、英語では、この広い地域のことを「低地諸国(Low Countries)」と示す。「ネーデルラント」と言う言葉が異なった歴史的意味を示すと言う事実は、正確に彼ら(の国)を表すことが難しいことを表している。例えば、16世紀から構成されている領域は、ネーデルラント群(''Nederlandse School'')に属していると言われる。その語自体には意味は無いが、今日では、その言葉が北により作成されたものと言う間違った印象を与える。実際、それらは南を除いているからである。 |
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==紋章== |
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File:Flag of the Low Countries.svg|17州 |
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Image:Artois Arms.svg|I. {{仮リンク|アルトワ伯国|en|County of Artois}} |
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Image:Armoiries Brabant.svg|II. [[ブラバント公国]] |
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Image:Blason_de_Tournai.svg|III. [[トゥルネー]]司教領 |
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Image:Arms of Flanders.svg|IV. [[フランドル伯|フランドル伯国]] |
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File:Friesland (kleine wapen).svg|V. {{仮リンク|フリースラント領主領|en|Lordship of Frisia}} |
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File:Groningen coa small.png|VI. {{仮リンク|フローニンゲン領主領|en|Lordship of Groningen}}及びオメランデン |
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File:Guelders-Jülich Arms.svg|VII. [[ゲルデルン公|ヘルレ公国]] |
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Image:Blason fr Hainaut ancien.svg|VIII. {{仮リンク|エノー伯国|en|County of Hainaut}} |
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Image:Counts of Holland Arms.svg|IX. {{仮リンク|ホラント伯国|en|County of Holland}} |
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Image:Limburg New Arms.svg|X. [[リンブルフ公国]]<small>([[:en:Duchy of Limburg|英語版]])</small> |
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Image:Arms of the Count of Luxembourg.svg|XI. [[ルクセンブルク公国]]<small>([[:en:Duchy of Luxembourg|英語版]])</small> |
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File:Escudo de Malinas 1581.svg|XII. {{仮リンク|メヘレン領主領|en|Lordship of Mechelen}} |
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Image:Arms of Namur.svg|XIII. {{仮リンク|ナミュール伯国|en|County of Namur}} |
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File:Small coat of arms of Overijssel.svg|XIV. {{仮リンク|オーファーアイセル領主領|en|Lordship of Overijssel}} |
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Image:Utrecht - coat of arms.png|XV. 公司教領、のち{{仮リンク|ユトレヒト領主領|en|Lordship of Utrecht}} |
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File:Coat of arms of Zeeland.svg|XVI. {{仮リンク|ゼーラント伯国|en|County of Zeeland}} |
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Image:Zutphen wapen.svg|XVII. {{仮リンク|ズトフェン伯領|en|Zutphen County}} |
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== 参考文献 == |
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* {{Cite book|和書|author=川口博|authorlink=川口博 (歴史学者)|title=身分制国家とネーデルランドの反乱|date=1995|publisher=[[彩流社]]|isbn=4882023709|ref=harv}}<!-- 島根大学・静岡大学教授 --> |
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*[[ハプスブルク家]] |
*[[ハプスブルク家]] |
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*[[神聖ローマ帝国]] |
*[[神聖ローマ帝国]] |
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*[[ベネルクス]] |
*[[ベネルクス]] |
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*[[ユグノー]] |
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*[[政教分離の歴史]] |
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==外部リンク== |
== 外部リンク == |
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* [http://www.wazamar.org/Nederlanden/zeventien-prov.htm ネーデルラント17州の地図(Map of the Seventeen Provinces (1555))] |
* [http://www.wazamar.org/Nederlanden/zeventien-prov.htm ネーデルラント17州の地図(Map of the Seventeen Provinces (1555))] |
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* contemporary map [http://www.riesa-efau.de/forum/elemente/bilder_teilnehmer/1Dlugaiczyk%20Leo%20Belgicus_2.jpg Leo Belgicus] |
* contemporary map [http://www.riesa-efau.de/forum/elemente/bilder_teilnehmer/1Dlugaiczyk%20Leo%20Belgicus_2.jpg Leo Belgicus] |
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[[Category:名数17]] |
[[Category:名数17]] |
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[[Category:同君連合]] |
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[[de:Siebzehn Provinzen]] |
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[[en:Seventeen Provinces]] |
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[[es:Diecisiete Provincias]] |
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[[fr:Dix-sept Provinces]] |
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[[gl:Dezasete Provincias]] |
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[[he:שבעה-עשר המחוזות]] |
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[[it:Diciassette Province]] |
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[[nds-nl:Zeaventien Proveensien]] |
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[[nl:Zeventien Provinciën]] |
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[[nn:Dei sytten provinsane]] |
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[[no:De sytten nederlandske provinsene]] |
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[[pl:Zjednoczone Prowincje Niderlandów]] |
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[[pt:Dezessete Províncias]] |
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[[ro:Cele Șaptesprezece Provincii]] |
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[[ru:Семнадцать провинций]] |
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[[sv:De sjutton provinserna]] |
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[[vls:Zeventien Provinciën]] |
2024年1月20日 (土) 14:14時点における最新版
- ハプスブルク領ネーデルラント
- Habsburgse Nederlanden
-
← 1482年 - 1581年 →
→
(国旗) (国章)
1560年-
公用語 オランダ語
低ザクセン語
西フリジア語
ワロン語
ルクセンブルク語
フランス語宗教 カトリック
プロテスタント首都 ブリュッセル 現在 オランダ
ベルギー
ルクセンブルク
フランス
ドイツ
低地諸国の歴史 |
---|
リエージュ司教領 (980年-1794年) |
ブルゴーニュ領ネーデルラント (1384年-1477年) |
ネーデルラント17州 (1477年-1556年) |
ネーデルラント連邦共和国 (1581年-1795年) |
南ネーデルラント (1581年-1815年) |
ベルギー合衆国 (1790年) |
バタヴィア共和国 (1795年-1806年) |
ホラント王国 (1806年-1810年) |
ネーデルラント連合王国 (1815年-1830年) |
ネーデルラント王国 (1830年-現在) |
ベルギー王国 (1830年-現在) |
ルクセンブルク大公国 (1815年-現在) |
ハプスブルク領ネーデルラント(オランダ語: Habsburgse Nederlanden)は低地諸国に16世紀に存在した、カスティーリャ国王・スペイン国王を君主とする同君連合下の国家群である。現在のオランダ王国・ベルギー王国・ルクセンブルク大公国・そしてフランス共和国北部のアルトワ(Artois)・ノール(Nord)とドイツ連邦共和国の一部を含む地域を含んだ領域に存在した。
17州の一覧[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d8/Map_Burgundian_Netherlands_1477-en.png/350px-Map_Burgundian_Netherlands_1477-en.png)
図1に示す17州には、以下の諸侯領が存在した。
- アルトワ伯国
- フランドル伯国(リール、ドゥエー、オルシー等の都市を含む)
- メヘレン領主領
- ナミュール伯国
- エノー伯国
- ゼーラント伯国
- ホラント伯国
- ブラバント公国(アントウェルペンを含む)
- リンブルフ公国(英語版)
- ルクセンブルク公国(英語版)
- ユトレヒト領主領
- フリースラント領主領
- ヘルレ公国(1543年以降)
- フローニンゲン領主領
- ドレンテ領主領(リンゲンを含む)
- オーファーアイセル領主領
- ズトフェン伯領
トゥルネーの町のある場所であるリールとモンスの間の青いエリアは17州の1つであると考えられていた。一方、リエージュ司教領はこれらの州の一員とは考えられていなかった。この17州は、ネーデルラント全国三部会に代表者を送っていた州と常に同じ17州ではなかった。時には1つの代表が他の代表とまとめられたこともあった。通常、ズトフェンはゲルデルンの一部であったし、リンブルフはブラバントを頼っていた。一方、フランドルのフランス語を話す都市は、別々の州と認められることもあった。
更にネーデルラントには、17州に含まれない領土が存在した。その最大のものはリエージュ司教領だった。北にはフランス革命まで自らの支配者を持ち続けたアメラント島のような、いくつかの小さな領域も存在した。
歴史[編集]
ネーデルラント17州の歴史は、1477年にブルゴーニュ公国を治めていたシャルル突進公が戦死した際に男子の継承者がいなかったために、娘のマリー女公の夫であるハプスブルク家のマクシミリアン大公によって継承されたのが始まりである。マリーが落馬によって死亡した後、公国内の有力貴族が反乱を起こし、マクシミリアンはブルゴーニュ公の退位を余儀なくされる。
その後、この地域は息子のフィリップ美公が治め、その急死後はその長子シャルルが公国を相続した(1515年1月に全国議会で即位)。
さらにシャルルは1516年にはカスティーリャ・アラゴン両王国の君主となり、1519年には対抗馬のフランソワ1世を破って、神聖ローマ皇帝カール5世となった。カールの時代に17州全てが統合された。その最後が1543年のゲルデルン州であった。こうして東はトランシルヴァニアから西はスペインにいたる、ヨーロッパ全体を包含するかのような「帝国」が形成された。
この「帝国」には一体的な国家組織がなく、個別の国家が単にカール5世のもとに集約されているに過ぎなかった。しかし、低地地方はその中で位置的には辺境であるにもかかわらず、対フランスの軍事的・政治的拠点であり、さらにアントウェルペンの金融は「帝国」の重要な財源であった。
カールは低地地方の行政的中心をブリュッセルにおき、中央集権化を進めて政治的統一を促進させる一方、周辺地域の武力的制圧を進め、メルセン条約以来分断されていた低地地方を初めて統一した。
これらの州の大部分は神聖ローマ帝国の下に置かれ、カール自身はマクシミリアンの後継皇帝となった。フランドルとアルトワの2州はフランスの領土であったが、1529年のカンブレー講和条約によりハプスブルク家に譲渡された。1549年の国事詔書では、これらの州は将来も統一された状態でないといけないと記された。
低地地方が17州[1]と呼ばれるのは、このカール5世が帯びた、低地地方の17の称号に由来し、1548年のアウクスブルク帝国議会で正式に承認された。1549年には低地地方が「永久に不可分」な形でハプスブルク家に継承されることを定めた国事詔書(プラグマティック・サンクシオン)が発布され、全国議会で承認された。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7a/Habsburg_Map_1547.jpg/400px-Habsburg_Map_1547.jpg)
1556年のカール5世の退位の後、ハプスブルク家の領土は息子フェリペ2世と弟フェルディナント1世に分けられた。そしてネーデルラントはスペイン王位とともに息子フェリペに相続された。
フェリペ2世とネーデルラント人との争いは1568年に始まる八十年戦争となった。北部7州(フローニンゲン、フリースランド、オーファーアイセル、ゲルデルン(上部4分の1以外)、ユトレヒト、ホラント、ゼーラント)はネーデルラント連邦共和国として独立を得た。
南部のフランドル、ブラバント、ナミュール、エノー、ルクセンブルクなどの州は、パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼの軍事・政治的な力によりスペインの支配下に戻された。特に有名なのが、アントウェルペン包囲(1584年 - 1585年)である。そのため、これらの州は「スペイン領ネーデルラント」もしくは「南ネーデルラント」として知られていた。北部の連合州は八十年戦争の間、リンブルフ、ブラバント、フランドルの各地域を保持し続けた(Generality Lands参照)。
この戦争は1648年のヴェストファーレン条約で終結した。アルトワとフランドルの一部とエノーは、17世紀から18世紀の間にフランスに譲渡された。
経済[編集]
16世紀中頃までに首都はメヘレンからブリュッセルに移動し、ブラバントのアントウェルペンはネーデルラントにおける経済的、政治的、文化的中心となった。その頃、フランドルのブルッヘは北ヨーロッパの経済中心地としての突出した位置を既に失っており、ホラント州が15世紀から16世紀において徐々にその重要性を増加させていった。
しかし、八十年戦争で北部7州(ネーデルラント連邦共和国)が独立したことにより、それまで利用していたスヘルデ川が共和国領内を通過するために利用できなくなり、多くの人々が南部の州から北部の州へ移住していった。繁栄の中心地は南部のブルッヘ、アントウェルペン、ヘント、ブリュッセルから、北部のホラント州にあるアムステルダムやハーグ、ロッテルダムへ移動していった。
紋章[編集]
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17州
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I. アルトワ伯国
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II. ブラバント公国
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III. トゥルネー司教領
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IV. フランドル伯国
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V. フリースラント領主領
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VI. フローニンゲン領主領及びオメランデン
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VII. ヘルレ公国
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VIII. エノー伯国
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IX. ホラント伯国
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XII. メヘレン領主領
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XIII. ナミュール伯国
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XIV. オーファーアイセル領主領
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XV. 公司教領、のちユトレヒト領主領
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XVI. ゼーラント伯国
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XVII. ズトフェン伯領
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 川口博『身分制国家とネーデルランドの反乱』彩流社、1995年。ISBN 4882023709。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- ネーデルラント17州の地図(Map of the Seventeen Provinces (1555))
- contemporary map Leo Belgicus