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'''アリウス派'''(ありうすは)とは、[[アレクサンドリア]]の[[司祭]]、[[アリウス]]([[古典ギリシア語]]表記で[[アレイオス]]<ref group="注釈">{{lang-el|Άρειος}}、{{lang-la|Arius}}…古典ギリシア語再建音からは「アレイオス」、[[現代ギリシア語]]からは「アリオス」、ラテン語からは「アリウス」と転写し得る。</ref>、[[250年]]頃 - [[336年]]頃)とその追随者の集団を指す。


'''アリウス派'''(アリウスは、[[コイネー]]: Ἀρειανισμός)は、[[アレクサンドリア]]の[[司祭]]、[[アリウス]]([[古典ギリシア語]]表記で[[アレイオス]]<ref group="注釈">{{lang-el|Άρειος}}、{{lang-la|Arius}}…古典ギリシア語再建音からは「アレイオス」、[[現代ギリシア語]]からは「アリオス」、ラテン語からは「アリウス」と転写し得る。</ref>、[[250年]]頃 - [[336年]]頃)とその追随者の集団を指す。この派の名前は、この教義を提唱したアリウスの名前に由来している<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E6%B4%BE-27954 |title=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「アリウス派」の解説 |access-date=2202-05-22}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.biblicalcyclopedia.com/A/arianism.html |title=International Standard Bible EncyclopediaのArianism |access-date=2202-05-22}}</ref>。[[325年]]に開かれた[[第1ニカイア公会議]]において[[アタナシオス派|ニカイア派(アタナシオス派)]]と対峙し、ニカイア派を主導する[[アレクサンドロス1世 (アレクサンドリア主教)|アレクサンドリアの主教アレクサンドロス]]によって弾劾・[[破門]]されたが、アリウス派はゲルマン人への布教により、教団としてはその後も200年ほど存続した。
集団は「アリウス派」と呼ば、その主張内容も「'''アリウス主義'''」({{lang-la-short|Arianismus}}、{{lang-en-short|Arianism}})として知られるが、アリウスがこの種の主張始めたわけではないとされる<ref name="PEA">[http://www.pravenc.ru/text/75936.html {{lang|ru|АРИАНСТВО «Православная Энциклопедия»}}]</ref><ref name="RCA">[http://www.newadvent.org/cathen/01707c.htm CATHOLIC ENCYCLOPEDIA: Arianism]</ref>。創始者としては{{仮リンク|サモサタのパウロス|en|Paul of Samosata}}が挙げられ<ref name="RCA" />、{{仮リンク|アンティオキアのルキアノス|en|Lucian of Antioch}}の影響も指摘される<ref name="PEA" /><ref name="yama32">『山川 世界史小辞典』p32, 山川出版社; 改訂新版 (2004/01)、ISBN 9784634621107</ref>(ただしルキアノスは殉教したことにより列聖され、[[教会]]および[[カトリック教会]]において[[聖人]]<ref group="注釈">[[致命者]]・[[殉教者]]</ref>として崇敬されている<ref>[http://www.holytrinityorthodox.com/iconoftheday/los/October/15-02.htm The Monk Martyr Lucian, Presbyter of Antioch (Commemorated on October 15)] ([http://www.holytrinityorthodox.com/calendar/ Orthodox Calendar. HOLY TRINITY RUSSIAN ORTHODOX CHURCH, a parish of the Patriarchate of Moscow])</ref><ref>[http://www.catholic.org/saints/saint.php?saint_id=4326 St. Lucian of Antioch - Saints & Angels - Catholic Online]</ref>)。

集団は「アリウス派」と呼ばれ、その主張内容は「'''アリウス主義'''」({{lang-la-short|Arianismus}}、{{lang-en-short|Arianism}})として知られており、この教義の本質であるイエスは被造物である、という考え方はアリウスに起因している<ref name=":0" /><ref name="PEA" />。

== 概説 ==
アリウス主義の教義に含まれている、キリストの神性を父なる神よりも下位に置く{{仮リンク|キリスト従属説|en|Subordinationism}}は、アリウスが最初に主張を始めたわけではなく、ユスティノスやオリゲネスなど、[[教父|護教教父]]たち<ref>{{Cite book|洋書|title=A short history of the early church|date=1976|publisher=Eerdmans|page=P110|author=Harry R. Boer|isbn=9780802813398}}</ref>も教えていたものである<ref name="PEA">[http://www.pravenc.ru/text/75936.html {{lang|ru|АРИАНСТВО «Православная Энциклопедия»}}]</ref><ref name="RCA">[http://www.newadvent.org/cathen/01707c.htm CATHOLIC ENCYCLOPEDIA: Arianism]</ref><ref name="sonobe219">『初代教会史論考』pp.219-222</ref><ref>The International Standard Bible Encyclopedia, 1982, Volume 2, 513ページ</ref><ref>A Short History of the Early Church, by Harry R. Boer,110ページ</ref>。

だからといって、護教教父たちが、アリウスと同じ従属説を認識していたのではない。護教教父たちは、子は父に従属はするが、「子が父と本性的に同等なものである<ref>{{Cite book|和書|title=中世思想原典集成 別巻 中世思想史/総索引|date=2002|publisher=平凡社|page=P17}}</ref>」ことも主張していた。アリウスは従属説を極端に推し進めた。その結果生じたのが、イエスは被造物である、という考えである<ref name=":1">{{Cite book|和書|title=中世思想原典集成1 初期ギリシャ教父|date=1995|publisher=平凡社|page=P37}}</ref>。

このアリウスの思想は「アンティオケイアのイグナティオスとテルトゥリアヌスがすでに表現していた教会の基本的理解、つまりイエスは真なる神であると同時に人間であるという理解から逸脱<ref name=":1" />」していた。

に近い思想持つ人物としては{{仮リンク|サモサタのパウロス|en|Paul of Samosata}}が挙げられるが<ref name="RCA" />、アリウスの教説は彼の師であった神学者、{{仮リンク|アンティオキアのルキアノス|en|Lucian of Antioch}}(サモサタ出身、240以前-312年)から継承れたものと言われる<ref name="PEA" /><ref name="yama32">『山川 世界史小辞典』p32, 山川出版社; 改訂新版 (2004/01)、ISBN 9784634621107</ref><ref name="sonobe219" />(ただしルキアノスは殉教したことにより列聖され、[[カトリック教会]]および[[教会]]において[[聖人]]<ref group="注釈">[[致命者]]・[[殉教者]]</ref>として崇敬されている<ref>[http://www.holytrinityorthodox.com/iconoftheday/los/October/15-02.htm The Monk Martyr Lucian, Presbyter of Antioch (Commemorated on October 15)] ([http://www.holytrinityorthodox.com/calendar/ Orthodox Calendar. HOLY TRINITY RUSSIAN ORTHODOX CHURCH, a parish of the Patriarchate of Moscow])</ref><ref>[http://www.catholic.org/saints/saint.php?saint_id=4326 St. Lucian of Antioch - Saints & Angels - Catholic Online]</ref>)。


== 主張内容 ==
== 主張内容 ==
===アリウス派の主張===
アリウス派の主張内容については、「[[イエス・キリスト]]の神性を否定した」とも<ref name="RCA" />、あるいは「イエス・キリストは神的であるとは言おうとしていたが、その神性は神の養子とされたことによる<ref name="jg19">{{Harvtxt|ゴンサレス|2010|p=19}}</ref>」とも、「イエス・キリストの人性を主張し、[[三位一体]]説を退けた」とも<ref name="yama32" />言われる。
アリウス派の主張内容については、「[[イエス・キリスト]]の神性を否定した」とも<ref name="RCA" />、あるいは「イエス・キリストは神的であるとは言おうとしていたが、その神性は神の養子とされたことによる<ref name="jg19">{{Harvtxt|ゴンサレス|2010|p=19}}</ref>」とも、「イエス・キリストの人性を主張し、[[三位一体]]説を退けた」とも<ref name="yama32" />言われる。


ただし、「人性の主張」との要約についてはやや正確さを欠くもので、アリウス派と対峙した[[アタナシオス派|ニカイア派(アタナシス派)]]も、イエスの神性と人性の両方を認めている<ref group="注釈">[[ニカイア信条]]、および[[ニカイア・コンスタンティノポリス信条|ニカイア・コンスタンティノポリス信条(ニケア・コンスタンティノポリ信経)]]の両方に、「人となり」(人柄という意味では無く「人となって」の意)の文言が入っている。後者の該当箇所は以下の通り。{{Quotation|{{lang|el|...και σαρκωθέντα εκ Πνεύματος άγιου και Μαρίας της Παρθένου και '''ενανθρωπήσαντα.'''}}|{{lang|el|Το Σύμβολο της Πίστεως (ΠΙΣΤΕΥΩ)}}|[http://www.imilias.gr/to-simbolo-tis-pisteos-kai-i-ermineia-tou.html {{lang|el|ΙΕΡΑ ΜΗΤΡΟΠΟΛΙΣ ΗΛΕΙΑΣ, Με την επιφύλαξη παντός δκαιώματος}}]}}</ref>。さらに「神を否定した」ついては正統派立場から見た場合の話で先述のように「神的であるとは言おうとして評される事もあり、議論がわかれる。
ただし、「人性の主張」との要約についてはやや正確さを欠くもので、アリウス派と対峙した[[アタナシオス派|ニカイア派(アタナシス派)]]も、イエスの神性と人性の両方を認めている<ref group="注釈">[[ニカイア信条]]、および[[ニカイア・コンスタンティノポリス信条|ニカイア・コンスタンティノポリス信条(ニケア・コンスタンティノポリ信経)]]の両方に、「人となり」(人柄という意味では無く「人となって」の意)の文言が入っている。後者の該当箇所は以下の通り。{{Quotation|{{lang|el|...και σαρκωθέντα εκ Πνεύματος άγιου και Μαρίας της Παρθένου και '''ενανθρωπήσαντα.'''}}|{{lang|el|Το Σύμβολο της Πίστεως (ΠΙΣΤΕΥΩ)}}|[http://www.imilias.gr/to-simbolo-tis-pisteos-kai-i-ermineia-tou.html {{lang|el|ΙΕΡΑ ΜΗΤΡΟΠΟΛΙΣ ΗΛΕΙΑΣ, Με την επιφύλαξη παντός δκαιώματος}}]}}</ref>。またアリウスは[[キリストの先在]](マリアよる出産以前からまた万物創造以前から、キリストが自立存在として存在し)を認めている。
アリウス自身はキリストを「ロゴスなる神」「独り子なる神」として言及している<ref name="toConstantine">{{Cite web |url=http://www.fourthcentury.com/index.php/urkunde-30 |title= Arius and Euzoius to the Emperor Constantine |accessdate=2017-04-29}}</ref><ref name="thalia">{{Cite web|url=http://www.fourthcentury.com/index.php/arius-thalia-intro |title= Thalia |accessdate=2017-04-29}}</ref>


さらに、「神性を否定した」については、正統派の立場から見た場合の話で、先述のように「神的であるとは言おうとしていた」と評される事もあり、議論が分かれる。アリウス自身はキリストを「ロゴスなる神」「独り子なる神」として言及している<ref name="toConstantine">{{Cite web |url=http://www.fourthcentury.com/index.php/urkunde-30 |title= Arius and Euzoius to the Emperor Constantine |accessdate=2017-04-29}}</ref><ref name="thalia">{{Cite web|url=http://www.fourthcentury.com/index.php/arius-thalia-intro |title= Thalia |accessdate=2017-04-29}}</ref>。このように、アリウスと正統派の違いは当事者以外にとっては論点を捉えにくい微妙な問題である。
なお、アリウス派と対峙した、いわゆる正統派となった派を「アタナシオス派」(もしくは[[ラテン語]]から転写して「アタナシウス派」)と呼ぶ例が高校世界史で一般的であるが、こちらの派もアタナシオスが創始したわけではない。実際、初期にアリウスと対峙し、アリウスを破門したのは[[アレクサンドロス1世 (アレクサンドリア主教)|アレクサンドリアの主教アレクサンドロス]]である。そのため、専門書では、いわゆるアタナシオス派は[[ニカイア信条]]から名をとって「ニカイア派」などと呼ばれる<ref name="jg195">{{Harvtxt|ゴンサレス|2010|p=195}}</ref><ref name="dai19">{{Harvtxt|キリスト教大事典|s48|p=19-20}}</ref>。


そこで彼らの主張を理解するためには、[[アリウス]]と[[アレクサンドリアのアタナシオス|アタナシウス]]の主張の違いよりも、まず双方の共通認識に注目する必要がある。

彼らに共通する認識で重要なものは神による「無からの(万物の)創造」の教義であった。アリウスもアタナシウスも「無からの創造」の教義をきわめて明確な形で持っていた。「無からの創造」の教義は異教哲学のまったく知らないものであり、しかも、初期キリスト教神学のなかで徐々に漠然とした仕方で現れて来たものであり<ref group="注釈">2世紀の文書『ヘルマスの牧者』の「第一のいましめ」の節には、{{quotation|「何よりもまず、万物を創られ、秩序づけられ万物を無から有へと造られ万物を包容したもうが、御自らは包容されることのない方でありたもう神を、信じなければならない。」}}という記述がある。(荒井献/編『使徒教父文書』より引用)</ref>、それはきわめて驚くべきことであった。「無からの創造」の教義は彼らにとって、神と被造物の間には完全な断絶があることを意味していたからである。神と世界の間には、両者を媒介するどのような領域も存在しないのである。

これ以前の初期のキリスト教徒たちは、神と世界との関係についての理解を定式化する試みに際し、ある中間領域を設定して、これを神のロゴスと同一視していた。ところがもはや、このような中間領域は認められなくなってしまった。

アリウス論争において提示されたのは、このような状況のなかで神と世界との関係をいかに考えなおすか、ということだったのである。そして、この再考の結果は劇的な結果をもたらした。[[アレクサンドロス1世 (アレクサンドリア主教)|主教アレクサンドロス]]や[[アレクサンドリアのアタナシオス|アタナシウス]]が神のロゴス(キリスト)を厳密な意味で神の領域に帰したのに対し、ルキアノスやアリウスはロゴス(キリスト)を被造物の領域に帰したのである。

このような考え方から、キリストを「被造物から神への養子」と考える「[[養子的キリスト論|養子論]]的従属説」は生まれた。養子としての神、あるいは神格は被造性を持った神格となる。このことからアリウス主義はキリストの被造性を主張することにその本質があることがわかる。キリストの被造性を主張することには、当然その永遠性を否定することも含まれる<ref>『キリスト教神秘思想の源流』 pp.135-136。</ref>。そして、神の被造物たるイエスは、神から直接創造された被造物であり、他の被造物はキリストを介して創造された、と理解されている<ref>{{Cite book|和書|title=中世思想原典集成 別巻 中世思想史/総索引|date=2002|publisher=平凡社|page=P37}}</ref>。

=== アリウスの教義の問題点 ===
先に述べられているように、アリウスの思想は教会の基本的理解から逸脱<ref name=":1" />している。このアリウスの神に対する概念はギリシャ的<ref>{{Cite book|洋書|title=A short history of the early church|date=1976|publisher=Eerdmans|pages=108-114|author=Harry R. Boer|isbn=9780802813398}}</ref><ref group="注釈">A short history of the early church、P114に「アリウスの見解は、波紋されたサモサタのパウロ、テオドトスに比べて劣っている」 ''A short history of Christian doctrine、P50に「''必然的に完全で不十分な啓示の教義に繋がった」とある。</ref>であり、アリウスの教義によって、長い間隠れていた従属説の潜在的な危険が表面化した<ref name=":2">{{Cite book|洋書|title=A short history of Christian doctrine|date=1966|publisher=Fortress Press|pages=P37-50|author=Bernhard Lohse|isbn=978-0800613419}}</ref>。さらに、この見解は、従属主義の極端な見解に位置し、新しい多神教の形に繋がる要素があった<ref name=":2" /><ref group="注釈">Bernhard Lohseの''A short history of Christian doctrine''.P50、アリウスの教義は、「新しい形の多神教に繋がる」それは、「イエスにおける神の啓示を否定するか、複数の神がいると仮定しなければならないことを意味している」と書かれている。</ref>。

アリウスの教義には矛盾がある。

第一に、多神教の形になる要素を持っている<ref name=":2" /><ref group="注釈">''A short history of Christian doctrine、P50「''アリウスの教義は、「新しい形の多神教に繋がる」それは、「イエスにおける神の啓示を否定するか、複数の神がいると仮定しなければならないことを意味している」と書かれている。</ref>。

第二に、神は不変だと聖書は語っているが、イエスが被造物である場合、父なる神はずっと父ではなかったことになる<ref name=":2" /><ref>{{Cite book|洋書|title=How Jesus Became God: The Exaltation of a Jewish Preacher from Galilee|date=2014|publisher=HarperOne|author=Bart D. Ehrman|ASIN=B00DB39V2Q}}</ref>。何故なら、父なる神はイエスを創造して初めて「父」になれるのだ。

アリウスの立場に同情的だったエウセビオスも、アリウスの教義の本質であるイエスは「造られた」という主張には断固反対していた<ref>{{Cite book|和書|title=中世思想原典集成1 初期ギリシャ教父|date=1995|publisher=平凡社|page=P701}}</ref>。

===ニカイア派===
なお、アリウス派と対峙した、いわゆる正統派となった派を「アタナシオス派」(もしくは[[ラテン語]]から転写して「アタナシウス派」)と呼ぶ例が高校世界史で一般的であるが、こちらの派もアタナシオスが創始したわけではない。実際、初期にアリウスと対峙し、アリウスを破門したのは[[アレクサンドロス1世 (アレクサンドリア主教)|アレクサンドリアの主教アレクサンドロス]]である。そのため、専門書では、いわゆるアタナシオス派は[[ニカイア信条]]から名をとって「ニカイア派」と呼ばれる<ref name="jg195">{{Harvtxt|ゴンサレス|2010|p=195}}</ref><ref name="dai19">{{Harvtxt|キリスト教大事典|s48|p=19-20}}</ref>。
===比較===
アリウス派の主張内容と、[[アタナシオス派|ニカイア派(アタナシオス派)]]の主張を、以下の表で比較する。
アリウス派の主張内容と、[[アタナシオス派|ニカイア派(アタナシオス派)]]の主張を、以下の表で比較する。
{| class="wikitable" style="width:90%"
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| style="text-align:left" | イエスにおいて受肉したロゴスは被造物であった<ref name="jg19" />。
| style="text-align:left" | イエスにおいて受肉したロゴスは被造物であった<ref name="jg19" />。
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| style="text-align:left" | ロゴスは全被造物よりも前に、最初に無から創られた被造物でこのロゴスを通じて神は全被造物世界を創ったが、それでもロゴスは被造物である<ref name="RCA" /><ref name="jg19" />
| style="text-align:left" | ロゴスは全被造物よりも前に、最初に無から創られた被造物である。このロゴスを通じて神は全被造物世界を創ったが、それでもロゴスは被造物である<ref name="RCA" /><ref name="jg19" />
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| style="text-align:left" | スローガン「御子が存在しない時があった」<ref name="jg19" />
| style="text-align:left" | スローガン「御子が存在しない時があった」<ref name="jg19" />
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| style="text-align:left" | 三位体は否定する。「父」の位格と「子」の位格互いに類似性は無い<ref name="PEA" />。
| style="text-align:left" | 神観を強調する。「父」の位格と「子」の位格互いにその本質を異にする(ヘテロウーシオス)<ref name="PEA" /><ref>『初代教会史論考』p.224。</ref>。
| style="text-align:left" | 神は、一つの[[実体]](本質、{{lang-el-short|ουσία}}<ref group="注釈" name="ウシア">(ousia):[[古典ギリシア語]][[再建]]音からはウーシア、[[現代ギリシア語]]からはウシアもしくはウシーアと転写し得る(現代ギリシア語のアクセントは長音のように転写されることも多いが、厳密には現代ギリシア語には長短の区別は無い)。</ref>, {{lang-la-short|substantia}})と、「[[父なる神]]」・「[[ロゴス]]」({{lang|el|λόγος}}) である子なる神([[イエス・キリスト]])・および「[[聖霊|聖霊(聖神)]]<ref group="注釈" name="seishin">[[聖霊]]について、正教会の一員である[[日本ハリストス正教会]]は「聖霊」ではなく、「[[日本ハリストス正教会#「聖神」(せいしん)|聖神]](せいしん)」「神聖神(かみせいしん)」を訳語として採用している</ref>」の三つの位格({{lang-el-short|υπόστασις}}<ref group="注釈" name="イポスタシス">(hypostasis):[[古典ギリシア語]][[再建]]音からはヒュポスタシス、[[現代ギリシア語]]からはイポスタシスと転写し得る。</ref>, {{lang-la-short|persona}})において、永遠に存在する<ref group="注釈">当初の議論は「子」の神性を巡ってのものであったが、聖霊の神性、聖霊も同本質としての神なのかについての議論が起こって来た。[[第1ニカイア公会議]](第一全地公会、[[325年]])から議論が続き、[[第1コンスタンティノポリス公会議]](第二全地公会、[[381年]])で、[[三位一体]]の定式がまとめられた。</ref>。
| style="text-align:left" | 神は、一つの[[本質]]({{lang-el-short|ουσία}}、[[ウーシア]]<ref group="注釈" name="ウシア">(ousia):[[古典ギリシア語]][[再建]]音からはウーシア、[[現代ギリシア語]]からはウシアもしくはウシーアと転写し得る(現代ギリシア語のアクセントは長音のように転写されることも多いが、厳密には現代ギリシア語には長短の区別は無い)。</ref>, {{lang-la-short|substantia}})と、「[[父なる神]]」・「[[ロゴス]]」({{lang|el|λόγος}}) である子なる神([[イエス・キリスト]])・および「[[聖霊|聖霊(聖神)]]<ref group="注釈" name="seishin">[[聖霊]]について、正教会の一員である[[日本ハリストス正教会]]は「聖霊」ではなく、「[[アーメン|聖神]](せいしん)」「神聖神(かみせいしん)」を訳語として採用している</ref>」の三つの位格({{lang-el-short|υπόστασις}}、[[位格的結合#「ヒュポスタシス」の用法|ヒュポスタシス]]<ref group="注釈" name="イポスタシス">(hypostasis):[[古典ギリシア語]][[再建]]音からはヒュポスタシス、[[現代ギリシア語]]からはイポスタシスと転写し得る。</ref>, {{lang-la-short|persona}})において、永遠に存在する<ref group="注釈">当初の議論は「子」の神性を巡ってのものであったが、聖霊の神性、聖霊も同本質としての神なのかについての議論が起こって来た。[[第1ニカイア公会議]](第一全地公会、[[325年]])から議論が続き、[[第1コンスタンティノポリス公会議]](第二全地公会、[[381年]])で、[[三位一体]]の定式がまとめられた。</ref>。
|}
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== 歴史 ==
== 歴史 ==
アリウス派と呼ばれる(いわゆる正統派からみた場合のいわゆる)異端の登場は、ローマ帝国において迫害が停止した後の最初の大規模な神学論争のきっかけとなった<ref name="jg19" />。
アリウス派と呼ばれる(いわゆる正統派からみた場合のいわゆる)[[異端]]、もしくは神学的誤謬の登場は、ローマ帝国において迫害が停止した後の最初の大規模な神学論争のきっかけとなった<ref name="jg19" />。


アリウス派の思想は、初めに[[第1ニカイア公会議]](第一全地公会、[[325年]])で否定された<ref name="jg19" />第一全地公会(325年)の後もアリウス派を巡る議論は継続した。、半アリウス主義と呼ばれる様々な主張も登場したが、それらの中のある者はニカイア派と和解が成立し、ある者は決裂を迎えた。
アリウス派の思想は、[[第1ニカイア公会議]](第一全地公会、[[325年]])で否定された<ref name="jg19" />、の後もアリウス派を巡る議論は収まることなく継続した。アリウス派はそ三つの派に分裂し半アリウス主義と呼ばれる主張も登場したが、それらの中のある者はニカイア派と和解が成立し、ある者は決裂を迎えた<ref name="sonobe248">『初代教会史論考』pp.248-252。</ref>


アリウス派は[[第1コンスタンティノポリス公会議]](第二全地公会、[[381年]])で再び否定された<ref name="jg19" />。
アリウス派は[[第1コンスタンティノポリス公会議]](第二全地公会、[[381年]])でエウノミオス派(アノモイオス派、非類似派)、{{仮リンク|プネウマトマコイ派|en|Pneumatomachi}}(マケドニオス主義、聖霊神性否定論)、[[サベリウス派]]、[[アポリナリオス主義|アポリナリオス派]]などの異説と共に再び否定された<ref name="jg19" /><ref name="sonobe395">『初代教会史論考』pp.395-396。</ref>。


西ローマ帝国領、東ローマ帝国領のアリウス派は国法で禁じられ、「正統派」(ニカイア派)へ合流していった<ref name="jg19" />。しかし、それ以前にアリウス派の元で学び、{{仮リンク|ニコメディアのエウセビオス|en|Eusebius of Nicomedia}}によって主教に叙階されたゴート人の[[ウルフィラ|ウルフィラス]]はすでに[[ゴート族]]の間にキリスト教を布教していた<ref name="marrou">H・I・マルー『キリスト教史<2>教父時代』pp.127-130</ref>。彼は[[ゴート文字]]を考案し、聖書を[[ゴート語]]に翻訳した。そしてその後、彼の弟子たちが広くゲルマン系諸民族に布教して行った<ref name="marrou" />。こうしてアリウス派は[[ゲルマン民族]]の間で、その後も約200年にわたり存続することになる。
その後、[[ゲルマン人|ゲルマン系諸族]]に対してアリウス派が布教していた為、ゲルマン諸族が西ローマ帝国領に侵入して来た際には、一時的に西欧においてアリウス派が復活した。しかし結局はそれらのアリウス派も「正統派」(ニカイア派)へ合流していき、アリウス派は消滅した<ref name="jg19" />。

[[東ゴート族]]は553年まで、[[西ゴート族]]は589年の[[トレド教会会議]]まで、[[ヴァンダル族]]は530年頃まで、[[ブルグント族]]は534年[[フランク王国]]に統合されるまで、イタリアの[[ロンゴバルド族]]は7世紀中ごろまで、それぞれアリウス派であった<ref name="sonobe395" />。

== アリウス同情派三派 ==
===分裂===
[[アレクサンドリアのアタナシオス|アタナシオス]]はその生涯に五回の追放刑を受けたが、第二回追放の帰還から第三回追放までの十年間(346-356)はニカイア派にとって平和な期間であった。ところが、ニカイア派の保護者[[コンスタンス1世|コンスタンス帝]]が帝位簒奪者[[マグネンティウス]](在位:350-353)によって殺され、さらにアリウス同情派の[[コンスタンティウス2世|コンスタンティウス帝]](在位:337-361)がマグネンティウスを滅ぼして天下を統一すると万事が逆転してきた。アリウス派の指導者{{仮リンク|ムルサのウァレンス|en|Valens of Mursa}}とコンスタンティウス帝が結び合ってニカイア派の指導者を次々と追放し、アリウス主義が再興された。そしてアタナシオスの第三回追放後の357年頃からアリウス同情派はそれぞれの主張の違いから三派に分かれていった<ref name="sonobe287">『初代教会史論考』pp.287-316</ref>。

===アノモイオス派(非類似派) ===
「父と子は本性において非類似である」と主張する。アリウスが示唆した方向にその教説を発展させたアリウス以上の過激的アリウス主義者の一団である。創始者は{{仮リンク|アエティオス|en|Aetius of Antioch}}(-367年)であり、その弟子{{仮リンク|キュジコスのエウノミオス|en|Eunomius of Cyzicus}}(在位:360-364)が大成者である。他にムルサのウァレンス、シンギドゥヌムのウルサキウス、コンスタンティノポリス主教の{{仮リンク|エウドクシオス|en|Eudoxius of Antioch}}(在位:360-370)等がいる<ref name="sonobe287" />。{{main2|[[w:Anomoeanism]]}}

=== ホモイウシオス派(類似本質派) ===
「子は父と本質において類似している」と主張する。{{仮リンク|半アリウス派|en|Semi-Arianism}}とも呼ばれる。アタナシオス、[[ポワティエのヒラリウス]]、カパドキア教父の働きかけによって、この派の多くは後にニカイア正統派に合流した。この派には、[[アンキュラのバシレイオス]](在位:336-360)、[[エルサレムのキュリロス]](在位:348/9-386)、[[セバステのエウスタティオス]](在位:357-380)、キュジコスのエレウシオス、ラオディケイアのゲオルギオス等がいる。コンスタンティウス帝も一時期、ホモイウシオス派に傾いていた<ref name="sonobe287" /> 。{{main2|[[w:Homoiousian]]}}

この派の一部は「聖霊は被造物である」と主張する聖霊神性否定論を主張し{{仮リンク|プネウマトマコイ派|en|Pneumatomachi}}と呼ばれ、後にマケドニオス派とも呼ばれた<ref name="sonobe287" />。「プネウマトマコイ」は「聖霊に対して戦う人々」を意味する。

=== ホモイオス派(類似派) ===
本質(ウーシア)という言葉を避け「父と子はあらゆることにおいて類似している」あるいは単に「父と子は類似している」と極めて漠然と主張する。思想的には非類似派に近い。{{仮リンク|アカキオス|en|Acacius of Caesarea}}(在位:339/40-364/68)がその主唱者であり、{{仮リンク|アカキオス派|en|Acacians}}とも呼ばれる。この派はホモウシオス派(同質派:ニカイア派)を排撃すると共に、ホモイウシオス派(類似本質派)も排撃する。エルサレムのキュリロス、アンキュラのバシレイオス、セバステのエウスタティオスはアカキオスによって主教職を罷免されている。359年から360年にかけてコンスタンティウス帝を抱きこみ、首都コンスタンティノポリスの地方会議(360年)で「コンスタンティノポリス信条(ホモイオン信条)」を確立し、政治的に自派を勝利に導いた。しかし、[[フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス|ユリアヌス帝]]討伐に向かうコンスタンティウス帝が病没(361年)するとホモイオス派の政治的基盤は崩れていった<ref name="sonobe287" />。


== 他の三位一体否定論との違い ==
== 他の三位一体否定論との違い ==
三位一体を否定する考えはアリウス主義の他にもある。例えば[[様態論]]等が挙げられる。
三位一体を否定する考えはアリウス主義の他にもある。例えば[[様態論]](様態論的[[モナルキア主義]])等が挙げられる。
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[[ユニテリアン主義]]は近代になって起きた思想潮流であるが、キリストの神性も否定する<ref name="jg19" />点がアリウス派と異なる上に、罪を善である人間性における一過性の不完全さと捉える傾向があるなど、三位一体論の否定に止まらない面をもっており<ref name="jg19" />、単純にアリウス主義と同じではない。


ブリタニカ国際大百科事典によると、「エホバの証人のキリスト論は、父なる神の一致と優越性を支持するため、アリウス主義の一形態である<ref>{{Cite web |url=https://www.britannica.com/topic/Arianism |title=Arius |access-date=2202-05-22 |publisher=Encyclopædia Britannica}}</ref>」という。
== 注釈 ==

== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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}}
* {{仮リンク|アンドルー・ラウス|en|Andrew Louth}}(著)、水落健治(訳)『キリスト教神秘思想の源流 プラトンからディオニシオスまで』[[教文館]]、1988年1月初版。ISBN 4-7642-7125-7。
* 『初代教会史論考』 [[園部不二夫]]著作集<3>、キリスト新聞社、1980年12月。
* H・I・マルー(著)『キリスト教史<2> 教父時代』上智大学中世思想研究所 編訳/監修、講談社、1990年。ISBN 4-06-190982-7。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[ニカイア信条]](原ニケア信条)
* [[アレクサンドリアのアタナシオス]]
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* [[ポワティエのヒラリウス]]
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* [[キリストの先在]]


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2024年1月22日 (月) 12:48時点における版

アリウス派(アリウスは、コイネー: Ἀρειανισμός)は、アレクサンドリア司祭アリウス古典ギリシア語表記でアレイオス[注釈 1]250年頃 - 336年頃)とその追随者の集団を指す。この派の名前は、この教義を提唱したアリウスの名前に由来している[1][2]325年に開かれた第1ニカイア公会議においてニカイア派(アタナシオス派)と対峙し、ニカイア派を主導するアレクサンドリアの主教アレクサンドロスによって弾劾・破門されたが、アリウス派はゲルマン人への布教により、教団としてはその後も200年ほど存続した。

集団は「アリウス派」と呼ばれ、その主張内容は「アリウス主義」(: Arianismus: Arianism)として知られており、この教義の本質であるイエスは被造物である、という考え方はアリウスに起因している[1][3]

概説

アリウス主義の教義に含まれている、キリストの神性を父なる神よりも下位に置くキリスト従属説英語版は、アリウスが最初に主張を始めたわけではなく、ユスティノスやオリゲネスなど、護教教父たち[4]も教えていたものである[3][5][6][7][8]

だからといって、護教教父たちが、アリウスと同じ従属説を認識していたのではない。護教教父たちは、子は父に従属はするが、「子が父と本性的に同等なものである[9]」ことも主張していた。アリウスは従属説を極端に推し進めた。その結果生じたのが、イエスは被造物である、という考えである[10]

このアリウスの思想は「アンティオケイアのイグナティオスとテルトゥリアヌスがすでに表現していた教会の基本的理解、つまりイエスは真なる神であると同時に人間であるという理解から逸脱[10]」していた。

これに近い思想を持つ人物としてはサモサタのパウロス英語版が挙げられるが[5]、アリウスの教説は彼の師であった神学者、アンティオキアのルキアノス英語版(サモサタ出身、240以前-312年)から継承されたものと言われる[3][11][6](ただしルキアノスは殉教したことにより列聖され、カトリック教会および正教会において聖人[注釈 2]として崇敬されている[12][13])。

主張内容

アリウス派の主張

アリウス派の主張内容については、「イエス・キリストの神性を否定した」とも[5]、あるいは「イエス・キリストは神的であるとは言おうとしていたが、その神性は神の養子とされたことによる[14]」とも、「イエス・キリストの人性を主張し、三位一体説を退けた」とも[11]言われる。

ただし、「人性の主張」との要約についてはやや正確さを欠くもので、アリウス派と対峙したニカイア派(アタナシウス派)も、イエスの神性と人性の両方を認めている[注釈 3]。また、アリウスはキリストの先在性(マリアによる出産以前から、また万物の創造以前から、キリストが自立存在として存在したこと)を認めている。

さらに、「神性を否定した」については、正統派の立場から見た場合の話で、先述のように「神的であるとは言おうとしていた」と評される事もあり、議論が分かれる。アリウス自身はキリストを「ロゴスなる神」「独り子なる神」として言及している[15][16]。このように、アリウスと正統派の違いは当事者以外にとっては論点を捉えにくい微妙な問題である。

そこで彼らの主張を理解するためには、アリウスアタナシウスの主張の違いよりも、まず双方の共通認識に注目する必要がある。

彼らに共通する認識で重要なものは神による「無からの(万物の)創造」の教義であった。アリウスもアタナシウスも「無からの創造」の教義をきわめて明確な形で持っていた。「無からの創造」の教義は異教哲学のまったく知らないものであり、しかも、初期キリスト教神学のなかで徐々に漠然とした仕方で現れて来たものであり[注釈 4]、それはきわめて驚くべきことであった。「無からの創造」の教義は彼らにとって、神と被造物の間には完全な断絶があることを意味していたからである。神と世界の間には、両者を媒介するどのような領域も存在しないのである。

これ以前の初期のキリスト教徒たちは、神と世界との関係についての理解を定式化する試みに際し、ある中間領域を設定して、これを神のロゴスと同一視していた。ところがもはや、このような中間領域は認められなくなってしまった。

アリウス論争において提示されたのは、このような状況のなかで神と世界との関係をいかに考えなおすか、ということだったのである。そして、この再考の結果は劇的な結果をもたらした。主教アレクサンドロスアタナシウスが神のロゴス(キリスト)を厳密な意味で神の領域に帰したのに対し、ルキアノスやアリウスはロゴス(キリスト)を被造物の領域に帰したのである。

このような考え方から、キリストを「被造物から神への養子」と考える「養子論的従属説」は生まれた。養子としての神、あるいは神格は被造性を持った神格となる。このことからアリウス主義はキリストの被造性を主張することにその本質があることがわかる。キリストの被造性を主張することには、当然その永遠性を否定することも含まれる[17]。そして、神の被造物たるイエスは、神から直接創造された被造物であり、他の被造物はキリストを介して創造された、と理解されている[18]

アリウスの教義の問題点

先に述べられているように、アリウスの思想は教会の基本的理解から逸脱[10]している。このアリウスの神に対する概念はギリシャ的[19][注釈 5]であり、アリウスの教義によって、長い間隠れていた従属説の潜在的な危険が表面化した[20]。さらに、この見解は、従属主義の極端な見解に位置し、新しい多神教の形に繋がる要素があった[20][注釈 6]

アリウスの教義には矛盾がある。

第一に、多神教の形になる要素を持っている[20][注釈 7]

第二に、神は不変だと聖書は語っているが、イエスが被造物である場合、父なる神はずっと父ではなかったことになる[20][21]。何故なら、父なる神はイエスを創造して初めて「父」になれるのだ。

アリウスの立場に同情的だったエウセビオスも、アリウスの教義の本質であるイエスは「造られた」という主張には断固反対していた[22]

ニカイア派

なお、アリウス派と対峙した、いわゆる正統派となった派を「アタナシオス派」(もしくはラテン語から転写して「アタナシウス派」)と呼ぶ例が高校世界史で一般的であるが、こちらの派もアタナシオスが創始したわけではない。実際、初期にアリウスと対峙し、アリウスを破門したのはアレクサンドリアの主教アレクサンドロスである。そのため、専門書では、いわゆるアタナシオス派はニカイア信条から名をとって「ニカイア派」と呼ばれる[23][24]

比較

アリウス派の主張内容と、ニカイア派(アタナシオス派)の主張を、以下の表で比較する。

アリウス派の主張 ニカイア派(アタナシオス派)の主張
救い主の神性は本性によるのではなく、養子とされたことによる[14] 「子」(子なる神、ロゴス、イエス・キリスト)は完全に永遠に神である[14]
「子」は二番目の、もしくは(「父」より)劣った神である[5]
イエスにおいて受肉したロゴスは被造物であった[14]
ロゴスは全被造物よりも前に、最初に無から創られた被造物である。このロゴスを通じて神は全被造物世界を創ったが、それでもロゴスは被造物である。[5][14]
スローガン「御子が存在しない時があった」[14]
唯一神観を強調する。「父」の位格と「子」の位格は互いにその本質を異にする(ヘテロウーシオス)[3][25] 神は、一つの本質: ουσίαウーシア[注釈 8], : substantia)と、「父なる神」・「ロゴス」(λόγος) である子なる神(イエス・キリスト)・および「聖霊(聖神)[注釈 9]」の三つの位格(: υπόστασιςヒュポスタシス[注釈 10], : persona)において、永遠に存在する[注釈 11]

歴史

アリウス派と呼ばれる(いわゆる正統派からみた場合のいわゆる)異端、もしくは神学的誤謬の登場は、ローマ帝国において迫害が停止した後の最初の大規模な神学論争のきっかけとなった[14]

アリウス派の思想は、第1ニカイア公会議(第一全地公会、325年)で否定されたが[14]、その後もアリウス派を巡る議論は収まることなく継続した。アリウス派はその後、三つの派に分裂し半アリウス主義と呼ばれる主張も登場したが、それらの中のある者はニカイア派と和解が成立し、ある者は決裂を迎えた[26]

アリウス派は第1コンスタンティノポリス公会議(第二全地公会、381年)でエウノミオス派(アノモイオス派、非類似派)、プネウマトマコイ派英語版(マケドニオス主義、聖霊神性否定論)、サベリウス派アポリナリオス派などの異説と共に再び否定された[14][27]

西ローマ帝国領、東ローマ帝国領のアリウス派は国法で禁じられ、「正統派」(ニカイア派)へ合流していった[14]。しかし、それ以前にアリウス派の元で学び、ニコメディアのエウセビオス英語版によって主教に叙階されたゴート人のウルフィラスはすでにゴート族の間にキリスト教を布教していた[28]。彼はゴート文字を考案し、聖書をゴート語に翻訳した。そしてその後、彼の弟子たちが広くゲルマン系諸民族に布教して行った[28]。こうしてアリウス派はゲルマン民族の間で、その後も約200年にわたり存続することになる。

東ゴート族は553年まで、西ゴート族は589年のトレド教会会議まで、ヴァンダル族は530年頃まで、ブルグント族は534年フランク王国に統合されるまで、イタリアのロンゴバルド族は7世紀中ごろまで、それぞれアリウス派であった[27]

アリウス同情派三派

分裂

アタナシオスはその生涯に五回の追放刑を受けたが、第二回追放の帰還から第三回追放までの十年間(346-356)はニカイア派にとって平和な期間であった。ところが、ニカイア派の保護者コンスタンス帝が帝位簒奪者マグネンティウス(在位:350-353)によって殺され、さらにアリウス同情派のコンスタンティウス帝(在位:337-361)がマグネンティウスを滅ぼして天下を統一すると万事が逆転してきた。アリウス派の指導者ムルサのウァレンス英語版とコンスタンティウス帝が結び合ってニカイア派の指導者を次々と追放し、アリウス主義が再興された。そしてアタナシオスの第三回追放後の357年頃からアリウス同情派はそれぞれの主張の違いから三派に分かれていった[29]

アノモイオス派(非類似派)

「父と子は本性において非類似である」と主張する。アリウスが示唆した方向にその教説を発展させたアリウス以上の過激的アリウス主義者の一団である。創始者はアエティオス英語版(-367年)であり、その弟子キュジコスのエウノミオス英語版(在位:360-364)が大成者である。他にムルサのウァレンス、シンギドゥヌムのウルサキウス、コンスタンティノポリス主教のエウドクシオス英語版(在位:360-370)等がいる[29]

ホモイウシオス派(類似本質派)

「子は父と本質において類似している」と主張する。半アリウス派英語版とも呼ばれる。アタナシオス、ポワティエのヒラリウス、カパドキア教父の働きかけによって、この派の多くは後にニカイア正統派に合流した。この派には、アンキュラのバシレイオス(在位:336-360)、エルサレムのキュリロス(在位:348/9-386)、セバステのエウスタティオス(在位:357-380)、キュジコスのエレウシオス、ラオディケイアのゲオルギオス等がいる。コンスタンティウス帝も一時期、ホモイウシオス派に傾いていた[29]

この派の一部は「聖霊は被造物である」と主張する聖霊神性否定論を主張しプネウマトマコイ派英語版と呼ばれ、後にマケドニオス派とも呼ばれた[29]。「プネウマトマコイ」は「聖霊に対して戦う人々」を意味する。

ホモイオス派(類似派)

本質(ウーシア)という言葉を避け「父と子はあらゆることにおいて類似している」あるいは単に「父と子は類似している」と極めて漠然と主張する。思想的には非類似派に近い。アカキオス英語版(在位:339/40-364/68)がその主唱者であり、アカキオス派英語版とも呼ばれる。この派はホモウシオス派(同質派:ニカイア派)を排撃すると共に、ホモイウシオス派(類似本質派)も排撃する。エルサレムのキュリロス、アンキュラのバシレイオス、セバステのエウスタティオスはアカキオスによって主教職を罷免されている。359年から360年にかけてコンスタンティウス帝を抱きこみ、首都コンスタンティノポリスの地方会議(360年)で「コンスタンティノポリス信条(ホモイオン信条)」を確立し、政治的に自派を勝利に導いた。しかし、ユリアヌス帝討伐に向かうコンスタンティウス帝が病没(361年)するとホモイオス派の政治的基盤は崩れていった[29]

他の三位一体否定論との違い

三位一体を否定する考えはアリウス主義の他にもある。例えば様態論(様態論的モナルキア主義)等が挙げられる。

ユニテリアン主義は近代になって起きた思想潮流であるが、キリストの神性も否定する[14]点がアリウス派と異なる上に、罪を善である人間性における一過性の不完全さと捉える傾向があるなど、三位一体論の否定に止まらない面をもっており[14]、単純にアリウス主義と同じではない。

ブリタニカ国際大百科事典によると、「エホバの証人のキリスト論は、父なる神の一致と優越性を支持するため、アリウス主義の一形態である[30]」という。

脚注

注釈

  1. ^ ギリシア語: Άρειοςラテン語: Arius…古典ギリシア語再建音からは「アレイオス」、現代ギリシア語からは「アリオス」、ラテン語からは「アリウス」と転写し得る。
  2. ^ 致命者殉教者
  3. ^ ニカイア信条、およびニカイア・コンスタンティノポリス信条(ニケア・コンスタンティノポリ信経)の両方に、「人となり」(人柄という意味では無く「人となって」の意)の文言が入っている。後者の該当箇所は以下の通り。
    ...και σαρκωθέντα εκ Πνεύματος άγιου και Μαρίας της Παρθένου και ενανθρωπήσαντα. — Το Σύμβολο της Πίστεως (ΠΙΣΤΕΥΩ)ΙΕΡΑ ΜΗΤΡΟΠΟΛΙΣ ΗΛΕΙΑΣ, Με την επιφύλαξη παντός δκαιώματος
  4. ^ 2世紀の文書『ヘルマスの牧者』の「第一のいましめ」の節には、
    「何よりもまず、万物を創られ、秩序づけられ万物を無から有へと造られ万物を包容したもうが、御自らは包容されることのない方でありたもう神を、信じなければならない。」
    という記述がある。(荒井献/編『使徒教父文書』より引用)
  5. ^ A short history of the early church、P114に「アリウスの見解は、波紋されたサモサタのパウロ、テオドトスに比べて劣っている」 A short history of Christian doctrine、P50に「必然的に完全で不十分な啓示の教義に繋がった」とある。
  6. ^ Bernhard LohseのA short history of Christian doctrine.P50、アリウスの教義は、「新しい形の多神教に繋がる」それは、「イエスにおける神の啓示を否定するか、複数の神がいると仮定しなければならないことを意味している」と書かれている。
  7. ^ A short history of Christian doctrine、P50「アリウスの教義は、「新しい形の多神教に繋がる」それは、「イエスにおける神の啓示を否定するか、複数の神がいると仮定しなければならないことを意味している」と書かれている。
  8. ^ (ousia):古典ギリシア語再建音からはウーシア、現代ギリシア語からはウシアもしくはウシーアと転写し得る(現代ギリシア語のアクセントは長音のように転写されることも多いが、厳密には現代ギリシア語には長短の区別は無い)。
  9. ^ 聖霊について、正教会の一員である日本ハリストス正教会は「聖霊」ではなく、「聖神(せいしん)」「神聖神(かみせいしん)」を訳語として採用している
  10. ^ (hypostasis):古典ギリシア語再建音からはヒュポスタシス、現代ギリシア語からはイポスタシスと転写し得る。
  11. ^ 当初の議論は「子」の神性を巡ってのものであったが、聖霊の神性、聖霊も同本質としての神なのかについての議論が起こって来た。第1ニカイア公会議(第一全地公会、325年)から議論が続き、第1コンスタンティノポリス公会議(第二全地公会、381年)で、三位一体の定式がまとめられた。

出典

  1. ^ a b ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「アリウス派」の解説”. 2202年5月22日閲覧。
  2. ^ International Standard Bible EncyclopediaのArianism”. 2202年5月22日閲覧。
  3. ^ a b c d АРИАНСТВО «Православная Энциклопедия»
  4. ^ Harry R. Boer (1976). A short history of the early church. Eerdmans. p. P110. ISBN 9780802813398 
  5. ^ a b c d e CATHOLIC ENCYCLOPEDIA: Arianism
  6. ^ a b 『初代教会史論考』pp.219-222
  7. ^ The International Standard Bible Encyclopedia, 1982, Volume 2, 513ページ
  8. ^ A Short History of the Early Church, by Harry R. Boer,110ページ
  9. ^ 『中世思想原典集成 別巻 中世思想史/総索引』平凡社、2002年、P17頁。 
  10. ^ a b c 『中世思想原典集成1 初期ギリシャ教父』平凡社、1995年、P37頁。 
  11. ^ a b 『山川 世界史小辞典』p32, 山川出版社; 改訂新版 (2004/01)、ISBN 9784634621107
  12. ^ The Monk Martyr Lucian, Presbyter of Antioch (Commemorated on October 15) (Orthodox Calendar. HOLY TRINITY RUSSIAN ORTHODOX CHURCH, a parish of the Patriarchate of Moscow)
  13. ^ St. Lucian of Antioch - Saints & Angels - Catholic Online
  14. ^ a b c d e f g h i j k l ゴンサレス (2010, p. 19)
  15. ^ Arius and Euzoius to the Emperor Constantine”. 2017年4月29日閲覧。
  16. ^ Thalia”. 2017年4月29日閲覧。
  17. ^ 『キリスト教神秘思想の源流』 pp.135-136。
  18. ^ 『中世思想原典集成 別巻 中世思想史/総索引』平凡社、2002年、P37頁。 
  19. ^ Harry R. Boer (1976). A short history of the early church. Eerdmans. pp. 108-114. ISBN 9780802813398 
  20. ^ a b c d Bernhard Lohse (1966). A short history of Christian doctrine. Fortress Press. pp. P37-50. ISBN 978-0800613419 
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  22. ^ 『中世思想原典集成1 初期ギリシャ教父』平凡社、1995年、P701頁。 
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  25. ^ 『初代教会史論考』p.224。
  26. ^ 『初代教会史論考』pp.248-252。
  27. ^ a b 『初代教会史論考』pp.395-396。
  28. ^ a b H・I・マルー『キリスト教史<2>教父時代』pp.127-130
  29. ^ a b c d e 『初代教会史論考』pp.287-316
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参考文献

関連項目