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'''矢貫 俊之'''(やぬき としゆき、[[1983年]][[12月15日]] - )は、[[福島県]][[西白河郡]][[西郷村]]出身の元[[プロ野球選手]]([[投手]])。右投右打。
'''矢貫 俊之'''(やぬき としゆき、[[1983年]][[12月15日]] - )は、[[福島県]][[西白河郡]][[西郷村]]出身の元[[プロ野球選手]]([[投手]])、[[プロ野球コーチ|コーチ]]。右投右打。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
=== プロ入り前 ===
=== プロ入り前 ===
5歳の時に父親の仕事の都合で[[フィリピン]]に移住する<ref name="shuube20130826P56">週刊ベースボール2013年8月26日号 P56</ref>。フィリピン現地の日本人の子供と共に野球と触れ合うようになる<ref name="shuube20130826P56"></ref>。小学校3年時に日本に帰国<ref name="shuube20130826P57">週刊ベースボール2013年8月26日号 P57</ref>。小田倉小学校4年の時に小田倉スポーツ少年団で[[ソフトボール]]を始め、エースで4番と活躍。その後西郷第二中学校1年から、軟式野球部で野球を始める。
5歳の時に父親の仕事の都合で[[フィリピン]]に移住する<ref name="shuube20130826P56">週刊ベースボール2013年8月26日号 P56</ref>。フィリピンの[[マニラ日本人学校]]に通いつつ、現地の日本人の子供と共に野球と触れ合うようになる<ref name="manila">{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2020/01/16/kiji/20200115s00001173397000c.html |title=【巨人 球団スタッフがマニラ日本人学校で野球教室 OB矢貫俊之氏の母校 |publisher=スポニチ Sponichi Annex |date=2020-01-16 |accessdate=2022-01-29}}</ref><ref name="shuube20130826P56"></ref>。小学校3年時に日本に帰国<ref name="shuube20130826P57">週刊ベースボール2013年8月26日号 P57</ref>。小田倉小学校4年の時に小田倉スポーツ少年団で[[ソフトボール]]を始め、エースで4番と活躍。その後[[西郷村立西郷第二中学校|西郷第二中学校]]1年から、軟式野球部で野球を始める。


中学2年時に本格的に投手へ転向したが、卒業後に進学した[[仙台育英学園高等学校|仙台育英高校]]では、公式戦に登板する機会がなかった<ref name="shuube20130826P58">週刊ベースボール2013年8月26日号 P58</ref>。チームは在学中の{{by|2001年}}春[[第73回選抜高等学校野球大会]]で準優勝を果たしたが、矢貫自身は[[阪神甲子園球場#スタンド|甲子園球場のアルプススタンド]]で応援団の一員として大太鼓を叩いていた<ref>{{Cite web |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/08/16/kiji/K20120816003913360.html |title=日本ハム7人完封 ブルペン投球なしの矢貫 2年ぶり白星 |publisher=スポニチ Sponichi Annex |date=2012-08-16 |accessdate=2012-08-17}}</ref>。また、高校時代のチームメイトに[[中谷翼]]や[[菊池俊夫]]がいたが、自身は「12番手ぐらいの控え投手」だったという<ref name="restart">{{Cite web |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/12/08/kiji/K20161208013868700.html |title=【決断】巨人・矢貫、あえて家族呼ばずも…トライアウトが“最後の登板”に |publisher=スポニチ Sponichi Annex |date=2016-12-08|accessdate=2016-12-08}}</ref>。
中学2年時に本格的に投手へ転向したが、卒業後に進学した[[仙台育英学園高等学校|仙台育英高校]]では、公式戦に登板する機会がなかった<ref name="shuube20130826P58">週刊ベースボール2013年8月26日号 P58</ref>。在学中にチームは{{by|2001年}}春[[第73回選抜高等学校野球大会]]で準優勝するなど通算4度の甲子園大会に出場したが、矢貫自身はいずれの大会にも出場メンバーに入れず、[[阪神甲子園球場#スタンド|甲子園球場のアルプススタンド]]で太鼓を担当するなど応援団の一員だった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/08/16/kiji/K20120816003913360.html |title=日本ハム7人完封 ブルペン投球なしの矢貫 2年ぶり白星 |publisher=スポニチ Sponichi Annex |date=2012-08-16 |accessdate=2012-08-17}}</ref>。また、高校時代のチームメイトに[[中谷翼]]や[[菊池俊夫]]がいたが、自身は「12番手ぐらいの控え投手」だったという<ref name="restart">{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/12/08/kiji/K20161208013868700.html |title=【決断】巨人・矢貫、あえて家族呼ばずも…トライアウトが“最後の登板”に |publisher=スポニチ Sponichi Annex |date=2016-12-08|accessdate=2016-12-08}}</ref>。


高校卒業後は、AO入試で[[常磐大学硬式野球部|常磐大学]]に進学<ref name="shuube20130826P58"></ref>。2年春からベンチ入りし、秋にリーグ戦初勝利。[[関甲新学生野球連盟|関甲新リーグ]]通算10勝11敗。同大学の3学年上に[[小野寺力 (野球)|小野寺力]]、[[久保田智之]]が在籍していた。
高校卒業後は、AO入試で[[常磐大学硬式野球部|常磐大学]]に進学<ref name="shuube20130826P58"></ref>。2年春からベンチ入りし、秋にリーグ戦初勝利。[[関甲新学生野球連盟|関甲新リーグ]]通算10勝11敗。同大学の3学年上に[[小野寺力 (野球)|小野寺力]]、[[久保田智之]]が在籍していた。
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=== 日本ハム時代 ===
=== 日本ハム時代 ===
{{by|2009年}}は一軍出場はなかったが、10月7日から11月23日まで[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に野球留学し、フェニックス・デザートドッグスの一員として[[アリゾナ・フォールリーグ|アリゾナ秋季リーグ]]に参加した。10試合に登板し13.2回を投げ、被安打10、四死球8、三振14、失点・自責点1、防御率0.66の成績を残し、同リーグ最優秀防御率に輝いた<ref>[http://www.fighters.co.jp/news/detail/1026.html 北海道日本ハムファイターズ公式サイト]</ref>。
[[File:NF-Toshiyuki-Yanuki20130309.jpg|right|thumb|日ハム時代(2013年)]]
{{by|2009年}}は一軍出場はなかったが、[[10月7日]]から[[11月23日]]まで[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に野球留学し、フェニックス・デザートドッグスの一員として[[アリゾナ・フォールリーグ|アリゾナ秋季リーグ]]に参加した。10試合に登板し13.2回を投げ、被安打10、四死球8、三振14、失点・自責点1、防御率0.66の成績を残し、同リーグ最優秀防御率に輝いた<ref>[http://www.fighters.co.jp/news/detail/1026.html 北海道日本ハムファイターズ公式サイト]</ref>。


{{by|2010年}}[[6月29日]]の[[埼玉西武ライオンズ]]戦で先発投手を務め、6回途中まで投げ2失点に抑えてプロ初[[勝利投手|勝利]]を挙げた。同年[[8月16日]]に右肘関節内骨片除去手術を受けた。その後はリハビリに専念し、二軍でも登板はなかった。
{{by|2010年}}6月29日の[[埼玉西武ライオンズ]]戦で先発投手を務め、6回途中まで投げ2失点に抑えてプロ初[[勝利投手|勝利]]を挙げた。同年8月16日に右肘関節内骨片除去手術を受けた。その後はリハビリに専念し、二軍でも登板はなかった。


{{by|2011年}}[[10月13日]]の[[福岡ソフトバンクホークス]]戦で先発投手を務め、5回途中まで投げ1失点に抑えたが、打線の援護が無く敗戦投手となっている。なお、一軍ではこの1試合のみで留まった。
{{by|2011年}}10月13日の[[福岡ソフトバンクホークス]]戦で先発投手を務め、5回途中まで投げ1失点に抑えたが、打線の援護が無く敗戦投手となっている。なお、一軍ではこの1試合のみで留まった。


{{by|2012年}}は[[リリーフ]]として22試合に登板、[[7月6日]]にプロ初[[ホールド]]、[[8月1日]]にはプロ初[[セーブ]]を挙げた。
{{by|2012年}}は[[リリーフ]]として22試合に登板、7月6日にプロ初[[ホールド]]、8月1日にはプロ初[[セーブ]]を挙げた。


{{by|2013年}}は開幕戦である[[3月29日]]の西武戦で、負傷降板した[[武田勝]]の後を受け、4回途中から登板すると2イニングを1失点にまとめて1勝目を挙げた。その後は主にロングリリーフとして起用されたが、防御率1点台と安定した投球を見せていたため[[セ・パ交流戦|交流戦]]中から接戦でも起用されるようになった。更に監督推薦により[[2013年のオールスターゲーム_(日本プロ野球)|この年のオールスターゲーム]]の出場選手に選ばれ、第3戦では地元の福島([[いわきグリーンスタジアム]])での登板を果たした<ref>{{Cite news |url=http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20130723-1161644.html |title=今江、矢貫が福島開催に思いはせる/球宴 |newspaper=nikkansports.com |publisher=日刊スポーツ新聞社 |date=2013-07-23 |accessdate=2014-02-18}}</ref>。夏場に入ると疲労の色を隠せず、8月と9月に2度登録抹消され、防御率も3点台まで下がるなど打ち込まれる場面が増えた。それでも最終的には自己最多の57試合に登板、13ホールドを記録した。
{{by|2013年}}は開幕戦である3月29日の西武戦で、負傷降板した[[武田勝]]の後を受け、4回途中から登板すると2イニングを1失点にまとめて1勝目を挙げた。その後は主にロングリリーフとして起用されたが、防御率1点台と安定した投球を見せていたため[[セ・パ交流戦|交流戦]]中から接戦でも起用されるようになった。更に監督推薦により[[2013年のオールスターゲーム_(日本プロ野球)|この年のオールスターゲーム]]の出場選手に選ばれ、第3戦では地元の福島([[いわきグリーンスタジアム]])での登板を果たした<ref>{{Cite news |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20130723-1161644.html |title=今江、矢貫が福島開催に思いはせる/球宴 |newspaper=nikkansports.com |publisher=日刊スポーツ新聞社 |date=2013-07-23 |accessdate=2014-02-18}}</ref>。夏場に入ると疲労の色を隠せず、8月と9月に2度登録抹消され、防御率も3点台まで下がるなど打ち込まれる場面が増えた。それでも最終的には自己最多の57試合に登板、13ホールドを記録した。


{{by|2014年}}は前年同様ロングリリーフとして起用され、[[4月10日]]の[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]戦で3と2/3イニングを無失点に抑え勝利投手になった<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/04/10/kiji/K20140410007949840.html 日本ハム 西川逆転3ラン!斎藤佑乱調もリリーフ陣が無失点リレー] スポーツニッポン 2014年4月10日付記事</ref>。しかしシーズン全体では安定感を欠いて、登録と抹消を繰り返し、登板数、防御率共に大きく数字を落とした。
{{by|2014年}}は前年同様ロングリリーフとして起用され、4月10日の[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]戦で3と2/3イニングを無失点に抑え勝利投手になった<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/04/10/kiji/K20140410007949840.html 日本ハム 西川逆転3ラン!斎藤佑乱調もリリーフ陣が無失点リレー] スポーツニッポン 2014年4月10日付記事</ref>。しかしシーズン全体では安定感を欠いて、登録と抹消を繰り返し、登板数、防御率共に大きく数字を落とした。


{{by|2015年}}には、後述する[[読売ジャイアンツ]]への移籍が決まるまで、一軍公式戦9試合に登板。勝敗は付かず、防御率は3.60であった。
{{by|2015年}}には、後述する[[読売ジャイアンツ]]への移籍が決まるまで、一軍公式戦9試合に登板。勝敗は付かず、防御率は3.60であった。


=== 巨人時代 ===
=== 巨人時代 ===
[[File:Giantsyanuki48.JPG|thumb|巨人時代]]
{{by|2015年}}[[6月10日]]に、[[矢野謙次]]・[[須永英輝]]との交換トレードで、[[北篤]]と共に巨人へ移籍<ref>{{Cite news |url=http://www.fighters.co.jp/news/detail/5459.html |title=読売ジャイアンツとトレードが成立 |publisher=北海道日本ハムファイターズ |}}</ref>。移籍後は、一軍公式戦3試合に登板したものの、防御率が13.50に達した。
{{by|2015年}}6月10日に、[[矢野謙次]]・[[須永英輝]]との交換トレードで、[[北篤]]と共に巨人へ移籍<ref>{{Cite news |url=http://www.fighters.co.jp/news/detail/5459.html |title=読売ジャイアンツとトレードが成立 |publisher=北海道日本ハムファイターズ |}}</ref>。移籍後は、一軍公式戦3試合に登板したものの、防御率が13.50に達した。


{{by|2016年}}には、一軍公式戦8試合に登板。[[6月18日]]には、シーズン初の出場選手登録を経て登板した対ロッテ戦(東京ドーム)で[[速球|ストレート]]を投じた際に、自己最速の151km/hを計測した。一軍公式戦の通算防御率は2.61であったが、7月に登録を抹消。抹消後の8月にオーバーワークの影響で背中の疲労骨折に見舞われる<ref name="restart" />と、[[10月2日]]に球団から[[戦力外通告]]を受けた<ref>{{Cite web |date=2016-10-02 |url=http://www.giants.jp/G/gnews/news_3911094.html |title=来季の契約について |publisher=読売巨人軍公式サイト |accessdate=2016-10-03}}</ref>。[[12月2日]]付で、[[NPB]]から[[自由契約選手]]として公示<ref>{{Cite web |date=2016-12-02 |url=http://npb.jp/announcement/2016/pn_released.html |title=自由契約選手|2016年度公示 |publisher=NPB.jp 日本野球機構 |accessdate=2016-12-03}}</ref>。
{{by|2016年}}には、一軍公式戦8試合に登板。6月18日には、シーズン初の出場選手登録を経て登板した対[[千葉ロッテマリーンズ]]戦(東京ドーム)で[[速球|ストレート]]を投じた際に、自己最速の151km/hを計測した。一軍公式戦の通算防御率は2.61であったが、7月に登録を抹消。抹消後の8月にオーバーワークの影響で背中の疲労骨折に見舞われる<ref name="restart" />と、10月2日に球団から[[戦力外通告]]を受けた<ref>{{Cite web|和書|date=2016-10-02 |url=http://www.giants.jp/G/gnews/news_3911094.html |title=来季の契約について |publisher=読売巨人軍公式サイト |accessdate=2016-10-03}}</ref>。12月2日付で、[[NPB]]から[[自由契約選手]]として公示<ref>{{Cite web|和書|date=2016-12-02 |url=http://npb.jp/announcement/2016/pn_released.html |title=自由契約選手|2016年度公示 |publisher=NPB.jp 日本野球機構 |accessdate=2016-12-03}}</ref>。


矢貫自身は、NPB他球団での現役続行を希望していたことから、[[2016年]][[11月12日]]に[[12球団合同トライアウト]]([[阪神甲子園球場]])へ参加。[[打撃 (野球)#練習|シートバッティング]]形式で打者3人と対戦すると、[[速球|ストレート]]で最速146km/hを記録するとともに、1奪三振1被安打という結果を残した<ref>{{Citenews|url=http://www.nikkansports.com/baseball/news/1736002.html|title=65人が参加/12球団合同トライアウト詳細|newspaper=日刊スポーツ|date=2016-11-12|accessdate=2016-11-13}}</ref>。しかし、NPB他球団から獲得のオファーを受けるまでには至らず、同年12月に現役から引退することを決断した<ref>{{Citenews|url=http://www.nikkansports.com/baseball/news/1748388.html|title=巨人戦力外の矢貫が現役引退 昨年日本ハムから移籍|newspaper=日刊スポーツ|date=2016-12-07|accessdate=2016-12-07}}</ref>。
矢貫自身は、NPB他球団での現役続行を希望していたことから、[[2016年]]11月12日に[[12球団合同トライアウト]]([[阪神甲子園球場]])へ参加。[[打撃 (野球)#練習方法|シートバッティング]]形式で打者3人と対戦すると、[[速球|ストレート]]で最速146km/hを記録するとともに、1奪三振1被安打という結果を残した<ref>{{Citenews|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/1736002.html|title=65人が参加/12球団合同トライアウト詳細|newspaper=日刊スポーツ|date=2016-11-12|accessdate=2016-11-13}}</ref>。しかし、NPB他球団から獲得のオファーを受けるまでには至らず、同年12月に現役から引退することを決断した<ref>{{Citenews|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/1748388.html|title=巨人戦力外の矢貫が現役引退 昨年日本ハムから移籍|newspaper=日刊スポーツ|date=2016-12-07|accessdate=2016-12-07}}</ref>。


=== 現役引退後 ===
=== 現役引退後 ===
[[2017年]]以降も巨人に所属。同年[[1月1日]]付で、営業企画部兼運営部の職員に転身する<ref>{{Citenews|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/12/20/kiji/20161220s00001173251000c.html|title=矢貫氏 再出発は巨人球団職員「自分の中で区切りをつけた」|newspaper=スポーツニッポン|date=2016-12-20|accessdate=2016-12-20}}</ref>。[[2019年]]からは広報部に動。
[[2017年]]以降も球団職員として巨人に所属。同年1月1日付で、営業企画部兼運営部の職員に転身する<ref>{{Citenews|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/12/20/kiji/20161220s00001173251000c.html|title=矢貫氏 再出発は巨人球団職員「自分の中で区切りをつけた」|newspaper=スポーツニッポン|date=2016-12-20|accessdate=2016-12-20}}</ref>。[[2019年]]からは広報部に<ref>{{Cite news|title=元巨人・小山雄輝ら、プロ野球の現場でセカンドキャリアを広げる男たち|newspaper=DRAMATIC BASEBALL|date=2019-02-22|url=https://www.ntv.co.jp/baseball/articles/34bbzfvyu58hyj4bqk.html|accessdate=2020-06-25|publisher=日本テレビ}}</ref>

{{by|2020年}}8月1日付けでファームディレクター補佐に就任<ref>{{Cite web|和書|title=【巨人】矢貫俊之広報がファームディレクター補佐に配置転換 大塚副代表「若手の教育係」 |url=https://hochi.news/articles/20200731-OHT1T50176.html?page=1|website=スポーツ報知 |date=2020-07-31 |accessdate=2022-01-17 |language=ja}}</ref>。

{{by|2021年}}5月24日、三軍投手コーチに就任した。背番号は'''107'''<ref>{{Cite web|和書|title=巨人コーチ陣を配置転換 パ・リーグ知る実松2軍バッテリーコーチを1軍に|url=https://www.nikkansports.com/m/baseball/news/202105230001491_m.html?mode=all|website=日刊スポーツ|date=2021-05-24|accessdate=2021-05-24}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=2021年度 監督・コーチ一覧|url=https://npb.jp/announcement/2021/managers_g.html|website=NPB|accessdate=2021-05-24}}</ref>。{{by|2023年}}限りで退任、{{by|2024年}}からは再びファームディレクターとなる。


== 選手としての特徴 ==
== 選手としての特徴 ==
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* '''33''' (2009年 - 2015年途中)
* '''33''' (2009年 - 2015年途中)
* '''48''' (2015年途中 - 2016年)
* '''48''' (2015年途中 - 2016年)
* '''107''' (2021年5月24日 - 2023年)


=== 登場曲 ===
=== 登場曲 ===
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[[Category:北海道日本ハムファイターズ及びその前身球団の選手]]
[[Category:北海道日本ハムファイターズ及びその前身球団の選手]]
[[Category:読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手]]
[[Category:読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手]]
[[Category:日本の野球指導者]]
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[[Category:帰国子女]]
[[Category:帰国子女]]

2024年2月21日 (水) 11:21時点における最新版

矢貫 俊之
日ハム時代(2013年)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福島県西白河郡西郷村
生年月日 (1983-12-15) 1983年12月15日(40歳)
身長
体重
190 cm
95 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 2008年 ドラフト3位
初出場 2010年6月10日
最終出場 2016年7月28日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 読売ジャイアンツ (2021 - 2023)

矢貫 俊之(やぬき としゆき、1983年12月15日 - )は、福島県西白河郡西郷村出身の元プロ野球選手投手)、コーチ。右投右打。

経歴

[編集]

プロ入り前

[編集]

5歳の時に父親の仕事の都合でフィリピンに移住する[1]。フィリピンのマニラ日本人学校に通いつつ、現地の日本人の子供と共に野球と触れ合うようになる[2][1]。小学校3年時に日本に帰国[3]。小田倉小学校4年の時に小田倉スポーツ少年団でソフトボールを始め、エースで4番と活躍。その後西郷第二中学校1年から、軟式野球部で野球を始める。

中学2年時に本格的に投手へ転向したが、卒業後に進学した仙台育英高校では、公式戦に登板する機会がなかった[4]。在学中にチームは2001年春の第73回選抜高等学校野球大会で準優勝するなど通算4度の甲子園大会に出場したが、矢貫自身はいずれの大会にも出場メンバーに入れず、甲子園球場のアルプススタンドで太鼓を担当するなど応援団の一員だった[5]。また、高校時代のチームメイトに中谷翼菊池俊夫がいたが、自身は「12番手ぐらいの控え投手」だったという[6]

高校卒業後は、AO入試で常磐大学に進学[4]。2年春からベンチ入りし、秋にリーグ戦初勝利。関甲新リーグ通算10勝11敗。同大学の3学年上に小野寺力久保田智之が在籍していた。

大学卒業後は、2006年三菱ふそうトラック・バスに入社。同社の硬式野球部で、先発・中継ぎ要員として、チームの2008年夏の都市対抗野球大会出場に貢献した。

2008年のプロ野球ドラフト会議で、北海道日本ハムファイターズから3巡目で指名。契約金5,500万円、年俸900万円(金額は推定)という条件で入団した。背番号は33

日本ハム時代

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2009年は一軍出場はなかったが、10月7日から11月23日までアメリカに野球留学し、フェニックス・デザートドッグスの一員としてアリゾナ秋季リーグに参加した。10試合に登板し13.2回を投げ、被安打10、四死球8、三振14、失点・自責点1、防御率0.66の成績を残し、同リーグ最優秀防御率に輝いた[7]

2010年6月29日の埼玉西武ライオンズ戦で先発投手を務め、6回途中まで投げ2失点に抑えてプロ初勝利を挙げた。同年8月16日に右肘関節内骨片除去手術を受けた。その後はリハビリに専念し、二軍でも登板はなかった。

2011年10月13日の福岡ソフトバンクホークス戦で先発投手を務め、5回途中まで投げ1失点に抑えたが、打線の援護が無く敗戦投手となっている。なお、一軍ではこの1試合のみで留まった。

2012年リリーフとして22試合に登板、7月6日にプロ初ホールド、8月1日にはプロ初セーブを挙げた。

2013年は開幕戦である3月29日の西武戦で、負傷降板した武田勝の後を受け、4回途中から登板すると2イニングを1失点にまとめて1勝目を挙げた。その後は主にロングリリーフとして起用されたが、防御率1点台と安定した投球を見せていたため交流戦中から接戦でも起用されるようになった。更に監督推薦によりこの年のオールスターゲームの出場選手に選ばれ、第3戦では地元の福島(いわきグリーンスタジアム)での登板を果たした[8]。夏場に入ると疲労の色を隠せず、8月と9月に2度登録抹消され、防御率も3点台まで下がるなど打ち込まれる場面が増えた。それでも最終的には自己最多の57試合に登板、13ホールドを記録した。

2014年は前年同様ロングリリーフとして起用され、4月10日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦で3と2/3イニングを無失点に抑え勝利投手になった[9]。しかしシーズン全体では安定感を欠いて、登録と抹消を繰り返し、登板数、防御率共に大きく数字を落とした。

2015年には、後述する読売ジャイアンツへの移籍が決まるまで、一軍公式戦9試合に登板。勝敗は付かず、防御率は3.60であった。

巨人時代

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巨人時代

2015年6月10日に、矢野謙次須永英輝との交換トレードで、北篤と共に巨人へ移籍[10]。移籍後は、一軍公式戦3試合に登板したものの、防御率が13.50に達した。

2016年には、一軍公式戦8試合に登板。6月18日には、シーズン初の出場選手登録を経て登板した対千葉ロッテマリーンズ戦(東京ドーム)でストレートを投じた際に、自己最速の151km/hを計測した。一軍公式戦の通算防御率は2.61であったが、7月に登録を抹消。抹消後の8月にオーバーワークの影響で背中の疲労骨折に見舞われる[6]と、10月2日に球団から戦力外通告を受けた[11]。12月2日付で、NPBから自由契約選手として公示[12]

矢貫自身は、NPB他球団での現役続行を希望していたことから、2016年11月12日に12球団合同トライアウト阪神甲子園球場)へ参加。シートバッティング形式で打者3人と対戦すると、ストレートで最速146km/hを記録するとともに、1奪三振1被安打という結果を残した[13]。しかし、NPB他球団から獲得のオファーを受けるまでには至らず、同年12月に現役から引退することを決断した[14]

現役引退後

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2017年以降も球団職員として巨人に所属。同年1月1日付で、営業企画部兼運営部の職員に転身する[15]2019年からは広報部に異動[16]

2020年8月1日付けでファームディレクター補佐に就任[17]

2021年5月24日、三軍投手コーチに就任した。背番号は107[18][19]2023年限りで退任、2024年からは再びファームディレクターとなる。

選手としての特徴

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身長190cmという長身からのオーバースローで、平均球速約144km/h[20]・最速151km/hの速球を投じたほか、スライダー、縦のカーブフォークボールを武器にしていた。

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
2010 日本ハム 6 6 0 0 0 1 2 0 0 .333 130 29.0 33 6 13 0 1 22 2 0 16 14 4.34 1.59
2011 1 1 0 0 0 0 1 0 0 .000 21 5.0 3 0 4 0 0 4 1 0 1 1 1.80 1.40
2012 22 0 0 0 0 1 0 1 1 1.000 144 33.1 34 4 15 0 0 23 2 0 12 12 3.24 1.47
2013 57 0 0 0 0 2 3 0 13 .400 279 65.2 61 2 27 0 2 59 3 0 30 25 3.43 1.37
2014 15 0 0 0 0 2 2 0 1 .500 118 27.0 27 1 10 0 2 18 1 1 15 15 5.00 1.37
2015 9 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 60 15 15 1 4 0 0 11 2 0 6 6 3.60 1.27
巨人 3 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 8 1.1 3 0 1 0 0 2 0 0 2 2 13.50 2.73
'15計 12 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 68 16.1 18 1 5 0 0 13 2 0 8 8 4.41 1.41
2016 8 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 42 10.1 10 0 5 0 0 11 1 0 3 3 2.67 1.45
通算:7年 121 7 0 0 0 6 8 1 15 .429 802 186.2 186 14 79 0 5 150 12 1 85 78 3.76 1.42

記録

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初記録
その他の記録

背番号

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  • 33 (2009年 - 2015年途中)
  • 48 (2015年途中 - 2016年)
  • 107 (2021年5月24日 - 2023年)

登場曲

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  • 「Rising Sun」EXILE (2012年 - 2016年)

脚注

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  1. ^ a b 週刊ベースボール2013年8月26日号 P56
  2. ^ 【巨人 球団スタッフがマニラ日本人学校で野球教室 OB矢貫俊之氏の母校”. スポニチ Sponichi Annex (2020年1月16日). 2022年1月29日閲覧。
  3. ^ 週刊ベースボール2013年8月26日号 P57
  4. ^ a b 週刊ベースボール2013年8月26日号 P58
  5. ^ 日本ハム7人完封 ブルペン投球なしの矢貫 2年ぶり白星”. スポニチ Sponichi Annex (2012年8月16日). 2012年8月17日閲覧。
  6. ^ a b 【決断】巨人・矢貫、あえて家族呼ばずも…トライアウトが“最後の登板”に”. スポニチ Sponichi Annex (2016年12月8日). 2016年12月8日閲覧。
  7. ^ 北海道日本ハムファイターズ公式サイト
  8. ^ “今江、矢貫が福島開催に思いはせる/球宴”. nikkansports.com (日刊スポーツ新聞社). (2013年7月23日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20130723-1161644.html 2014年2月18日閲覧。 
  9. ^ 日本ハム 西川逆転3ラン!斎藤佑乱調もリリーフ陣が無失点リレー スポーツニッポン 2014年4月10日付記事
  10. ^ “読売ジャイアンツとトレードが成立”. 北海道日本ハムファイターズ. http://www.fighters.co.jp/news/detail/5459.html 
  11. ^ 来季の契約について”. 読売巨人軍公式サイト (2016年10月2日). 2016年10月3日閲覧。
  12. ^ 自由契約選手|2016年度公示”. NPB.jp 日本野球機構 (2016年12月2日). 2016年12月3日閲覧。
  13. ^ “65人が参加/12球団合同トライアウト詳細”. 日刊スポーツ. (2016年11月12日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/1736002.html 2016年11月13日閲覧。 
  14. ^ “巨人戦力外の矢貫が現役引退 昨年日本ハムから移籍”. 日刊スポーツ. (2016年12月7日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/1748388.html 2016年12月7日閲覧。 
  15. ^ “矢貫氏 再出発は巨人球団職員「自分の中で区切りをつけた」”. スポーツニッポン. (2016年12月20日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/12/20/kiji/20161220s00001173251000c.html 2016年12月20日閲覧。 
  16. ^ “元巨人・小山雄輝ら、プロ野球の現場でセカンドキャリアを広げる男たち”. DRAMATIC BASEBALL (日本テレビ). (2019年2月22日). https://www.ntv.co.jp/baseball/articles/34bbzfvyu58hyj4bqk.html 2020年6月25日閲覧。 
  17. ^ 【巨人】矢貫俊之広報がファームディレクター補佐に配置転換 大塚副代表「若手の教育係」”. スポーツ報知 (2020年7月31日). 2022年1月17日閲覧。
  18. ^ 巨人コーチ陣を配置転換 パ・リーグ知る実松2軍バッテリーコーチを1軍に”. 日刊スポーツ (2021年5月24日). 2021年5月24日閲覧。
  19. ^ 2021年度 監督・コーチ一覧”. NPB. 2021年5月24日閲覧。
  20. ^ 『2014 プロ野球オール写真選手名鑑』日本スポーツ企画出版社、2014年、92頁頁。ISBN 978-4-905411-17-8 

関連項目

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外部リンク

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