コンテンツにスキップ

「天中軒雲月」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
タグ: モバイル編集 モバイルアプリ編集 Androidアプリ編集
 
(13人の利用者による、間の44版が非表示)
4行目: 4行目:


== 初代 ==
== 初代 ==

''' 天中軒 雲月'''([[1895年]]3月 - [[1945年]][[4月6日]])本名は原田定治。
''' 天中軒 雲月'''([[1895年]]3月 - [[1945年]][[4月6日]])本名は原田定治。


[[九州]][[佐賀県]]の生まれ、10歳で浪曲の世界入り、12歳で[[早川勘之助]](原田宝山)の門下で養子になり名前を浪曲界の大家[[桃中軒雲右衛門]]に因んで天中軒雲月を拝命。天才少年浪曲師として九州一帯で名を馳せる。[[1912年]](明治45年)、両国[[国技館]]での[[二六新報]]社主催の独演会を開く。初代[[木村重友]]、[[東家楽燕]]、3代目[[鼈甲斎虎丸]]と共に浪曲[[四天王 (通称)|四天王]]の一人として活躍。余芸で[[米山甚句]]や[[都々逸]]を響かせた。1926年8月20日、ラジオが三局時代から、[[日本放送協会]]発足当時に出演した「赤穂義士伝」のうち「神崎東下り」 <ref>年表下p.80</ref>。得意は「赤穂義士伝」「佐倉義民伝」など。[[1931年]]地方巡業中に脳病で倒れ、長い療養生活を送る。墓所は佐賀県唐津市松雲寺。その療養生活を支えた妻は、日本浪曲協会から表彰された。
[[九州]][[佐賀県]]の生まれ、10歳で浪曲の世界入り、12歳で[[早川勘之助]](原田宝山)の門下で養子になり名前を浪曲界の大家[[桃中軒雲右衛門]]に因んで天中軒雲月を拝命。天才少年浪曲師として九州一帯で名を馳せる。[[1912年]](明治45年)、両国[[国技館]]での[[二六新報]]社主催の独演会を開く。初代[[木村重友]]、[[東家楽燕]]、3代目[[鼈甲斎虎丸]]と共に浪曲[[四天王 (通称)|四天王]]の一人として活躍。余芸で[[米山甚句]]や[[都々逸]]を響かせた。1926年8月20日、ラジオが三局時代から、[[日本放送協会]]発足当時に出演した「赤穂義士伝」のうち「神崎東下り」 <ref name="初代ラジオ">年表下p.80</ref>。得意は「赤穂義士伝」「佐倉義民伝」など。[[1931年]]地方巡業中に脳病で倒れ、長い療養生活を送る。墓所は佐賀県唐津市松雲寺。その療養生活を支えた妻は、[[日本浪曲協会]]から表彰された。

=== ラジオ出演 ===
=== ラジオ出演 ===
*1926年8月20日、ラジオが三局時代から、[[日本放送協会]]発足当時に出演した「赤穂義士伝」のうち「神崎東下り」<ref name="初代ラジオ" />。他。
*


== 2代目 ==
== 2代目 ==
15行目: 15行目:


6歳の時に藤原朝子(ともこ)の名で初舞台。1922年には座長。当時、役柄により[[声色]]を老若男女巧みに使い分ける「七色の声」で一躍有名になる。18歳のとき、天中軒雲月の[[名跡]]を預かる[[永田貞雄]]と結婚し、天中軒雲月嬢を名乗る。[[1934年]]に2代目雲月を襲名。この継承時に、同門の如雲月と継承を巡って混乱が起き、東家楽燕の仲裁で落着する。(如雲月は東家の由緒ある名を継ぐ。2代目三楽である。<ref>内山p.214</ref>)
6歳の時に藤原朝子(ともこ)の名で初舞台。1922年には座長。当時、役柄により[[声色]]を老若男女巧みに使い分ける「七色の声」で一躍有名になる。18歳のとき、天中軒雲月の[[名跡]]を預かる[[永田貞雄]]と結婚し、天中軒雲月嬢を名乗る。[[1934年]]に2代目雲月を襲名。この継承時に、同門の如雲月と継承を巡って混乱が起き、東家楽燕の仲裁で落着する。(如雲月は東家の由緒ある名を継ぐ。2代目三楽である。<ref>内山p.214</ref>)
戦中期に「杉野兵曹長の妻」や「九段の母」など、時局色の強い主題で人気を呼び、広沢虎造や寿々木米若と並び一時代を築く。
戦中期に「杉野兵曹長の妻」や「[[九段の母]]」など、時局色の強い主題で人気を呼び、広沢虎造や寿々木米若と並び一時代を築く。
映画出演も戦中期を中心に多数。
映画出演も戦中期を中心に多数。


戦後になり、'''[[伊丹秀子]]'''の名に変え終生活躍。晩年は名古屋で隠棲。兄・義理の姉も[[雲井式部]]の名の浪曲師、元夫が浪曲師出身の[[興行|興行師]]、[[永田貞雄]](元・天中軒雲衛)。次女は3代目雲月(後の[[永田とよ子]])。
戦後になり、'''[[伊丹秀子]]'''の名に変え終生活躍。晩年は名古屋で隠棲。兄・二代目[[港家小柳]]、義理の姉も[[雲井式部]]の名の浪曲師、元夫が浪曲師出身の[[興行|興行師]]、[[永田貞雄]](元・天中軒雲衛)。次女は3代目雲月(後の[[永田とよ子]])。
その二代目襲名までの労苦を綴った「哀怨の記 天中軒雲月」は戦前の最盛期、座付き作家であった[[川内康範]]の処女作とされた。
その二代目襲名までの労苦を綴った「哀怨の記 天中軒雲月」は戦前の最盛期、座付き作家であった[[川内康範]]の処女作とされた。


門下に現役の曲師[[伊丹秀敏]](浪曲師「浜乃一舟」)がいる。
門下に現役の曲師[[伊丹秀敏]](浪曲師「浜乃一舟」)がいる。

=== 映画 ===
=== 映画 ===
413.420.424.425.428.430.431(451.458
413.420.424.425.428.430.431(451.458

=== レコード ===
=== レコード ===
41)29.31.41.44.46.48.50.53.55.57.61.62.(65
41)29.31.41.44.46.48.50.53.55.57.61.62.(65
33行目: 35行目:
''' 天中軒 雲月'''([[1928年]] - [[1987年]][[12月22日]])
''' 天中軒 雲月'''([[1928年]] - [[1987年]][[12月22日]])


2代目雲月(伊丹秀子)の次女。後に[[歌手]]に転じ永田豊子を終生名乗る。昭和26年、デビュー作は「涙の娘浪曲師」作詞[[石本美由起]]、作曲[[上原げんと]]<ref>『昭和演歌の歴史』p.239欄外</ref>、[[歌謡浪曲]]であった(ヒットせず)<ref>http://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3568761 れきおん</ref>。元夫は歌手の[[青木光一]]。代表曲は「津軽の子守唄」等。引退し芸能関連会社役員を務めた。
2代目雲月(伊丹秀子)の次女。後に[[歌手]]に転じ永田とよこを終生名乗る。昭和26年、デビュー作は「涙の娘浪曲師」作詞[[石本美由起]]、作曲[[上原げんと]]<ref>『昭和演歌の歴史』p.239欄外</ref>、[[歌謡浪曲]]であった(ヒットせず)<ref>http://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3568761 れきおん</ref>。元夫は歌手の[[青木光一]]。代表曲は「津軽の子守唄」等。引退し芸能関連会社役員を務めた。


== 4代目 ==
== 4代目 ==
*'''[[天中軒雲月 (4代目)|4代目天中軒雲月]]''' - 当該項目参照。


== 5代目 ==
''' 天中軒 雲月'''([[1916年]][[3月31日]] - [[1995年]][[3月31日]])本名は立石弘。
*'''[[天中軒雲月 (5代目)|5代目天中軒雲月]]''' - 当該項目参照。

[[福岡県]][[直方市]]の生まれ、[[1930年]]4月に初代雲月に入門し月坊、初代が病で倒れたために独立し少年浪曲師として一座を組み地方を転々、戦中に[[シンガポール]](昭南)に出征していたことから付けた「天中軒昭南」から戦後に本名を使った'''立石弘志'''を経て、[[1950年]]6月に4代目雲月を襲名。[[木村若衛]]、初代[[東家浦太郎]]、[[松平国十郎]]と共に戦後浪曲四天王の一人。[[1966年]]より[[日本浪曲協会]]会長を務めた。[[1987年]]([[昭和]]62年)[[カルロス・ゴメス賞]]([[ブラジル]]文化勲章)受勲。[[1989年]]([[平成]]元年)[[勲四等瑞宝章]]受勲。得意演目は「[[佐倉惣五郎|佐倉義民伝]]」。その弱点を克服した熱演型の舞台で人気を呼ぶ。
[[File:4代目天中軒雲月の放送原稿。NHK-BS用。.jpg|thumb|4代目天中軒雲月の「佐倉義民伝」放送用原稿。宗吾霊堂宝物殿にて。]]
弟子には天中軒龍月([[国本武春]]の父)、5代目天中軒雲月。

== 5代目(当代)==
5代目''' 天中軒 雲月'''(てんちゅうけん うんげつ、[[1953年]]([[昭和]]28年)[[11月25日]] - )は、[[岐阜県]]出身の[[浪曲師]]。[[一般社団法人]][[日本浪曲協会]]理事、[[公益社団法人]][[浪曲親友協会]]理事を兼任。[[家紋|定紋]]は『上がり藤』。本名、福本幸代(ふくもと さちよ)(旧姓、内藤)。

[[1968年]]2月に[[名古屋]][[中日劇場]]で4代目天中軒雲月に入門、[[1969年]]7月に天中軒月子として、香川県坂出市城山温泉センターにおいて「若き日の小村寿太郎」で初舞台。歌手志望だったが、師より「浪曲に向いている」と薦められ浪曲師となる。1974年独立し、2年間大阪で修業。[[1981年]]9月に[[御園座|名古屋御園座]]「東西顔見世豪華浪曲名人大会」にて真打昇進披露。2006年、念願の歌謡曲を吹き込む。[[2009年]][[8月10日]]に5代目天中軒雲月襲名。[[2011年]]大阪府知事表彰。[[2011年|2018年]][[一般社団法人]][[日本浪曲協会]]理事に就任し、当代では唯一東西両浪曲協会の理事を兼任することになった。同年、「天中軒雲月芸能生活50周年記念講演」を国立演芸場(東京)、名古屋特殊陶業市民会館の2会場で開催。

SNS発信など若い力に理解がある浪曲師の一人である。

=== 主な演目 ===
古典演目として『忠臣蔵外伝』『[[佐倉惣五郎|佐倉義民伝]]』『決戦巌流島』など。

=== LP・カセット・CD ===
*「涙の歌謡劇場」([[笹みどり]]とのデュエット、[[クラウンレコード]])
*「芸能生活35周年記念盤」([[キングレコード]])
*「雪の南部坂」「流転じょんがら」([[ウイングジャパン]])
*「芸能生活35周年記念盤」([[キングレコード]])
*「[[瑶泉院]]・涙の南部坂」([[キングレコード]]、同社[[レコチョク]]にて史上初の浪曲ネット配信)
*「佐倉義民伝」「人生ひとすじ」([[キングレコード]])
*「郡上音頭」「郡上宝暦義民伝」([[キングレコード]])

=== 弟子 ===
*[[天中軒涼月|天中軒富士美]]
*[[天中軒涼月]]
*[[天中軒景友]]
*[[天中軒涼月|天中軒すみれ]]


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{Reflist}}


=== 外部リンク ===
== 外部リンク ==
*[http://rokyoku.or.jp/index.php?%E5%A4%A9%E4%B8%AD%E8%BB%92%E9%9B%B2%E6%9C%88 天中軒雲月 - 日本浪曲協会]
* {{Twitter|ungetsu1125|5代目天中軒雲月}}


{{entertainer-stub}}
{{entertainer-stub}}


{{DEFAULTSORT:てんちゆうけん うんけつ}}
{{デフォルトソート:てんちゆうけん うんけつ}}
[[Category:浪曲の名跡]]
[[Category:浪曲の名跡]]
[[Category:浪曲師]]
[[Category:演歌歌手]]
[[Category:岐阜県出身の人物]]

2024年2月24日 (土) 11:19時点における最新版

天中軒 雲月(てんちゅうけん うんげつ)は浪曲名跡。当代は5代目。

初代と四代が男性、二代・三代・五代が女性と、男女が交互に襲名している、芸の世界でも極めて珍しい名跡[1]である。

初代

[編集]

天中軒 雲月1895年3月 - 1945年4月6日)本名は原田定治。

九州佐賀県の生まれ、10歳で浪曲の世界入り、12歳で早川勘之助(原田宝山)の門下で養子になり名前を浪曲界の大家桃中軒雲右衛門に因んで天中軒雲月を拝命。天才少年浪曲師として九州一帯で名を馳せる。1912年(明治45年)、両国国技館での二六新報社主催の独演会を開く。初代木村重友東家楽燕、3代目鼈甲斎虎丸と共に浪曲四天王の一人として活躍。余芸で米山甚句都々逸を響かせた。1926年8月20日、ラジオが三局時代から、日本放送協会発足当時に出演した「赤穂義士伝」のうち「神崎東下り」 [2]。得意は「赤穂義士伝」「佐倉義民伝」など。1931年、地方巡業中に脳病で倒れ、長い療養生活を送る。墓所は佐賀県唐津市松雲寺。その療養生活を支えた妻は、日本浪曲協会から表彰された。

ラジオ出演

[編集]
  • 1926年8月20日、ラジオが三局時代から、日本放送協会発足当時に出演した「赤穂義士伝」のうち「神崎東下り」[2]。他。

2代目

[編集]

天中軒 雲月1909年10月14日 - 1995年10月28日)本名は伊丹とめ。

6歳の時に藤原朝子(ともこ)の名で初舞台。1922年には座長。当時、役柄により声色を老若男女巧みに使い分ける「七色の声」で一躍有名になる。18歳のとき、天中軒雲月の名跡を預かる永田貞雄と結婚し、天中軒雲月嬢を名乗る。1934年に2代目雲月を襲名。この継承時に、同門の如雲月と継承を巡って混乱が起き、東家楽燕の仲裁で落着する。(如雲月は東家の由緒ある名を継ぐ。2代目三楽である。[3]) 戦中期に「杉野兵曹長の妻」や「九段の母」など、時局色の強い主題で人気を呼び、広沢虎造や寿々木米若と並び一時代を築く。 映画出演も戦中期を中心に多数。

戦後になり、伊丹秀子の名に変え終生活躍。晩年は名古屋で隠棲。兄・二代目港家小柳、義理の姉も雲井式部の名の浪曲師、元夫が浪曲師出身の興行師永田貞雄(元・天中軒雲衛)。次女は3代目雲月(後の永田とよ子)。 その二代目襲名までの労苦を綴った「哀怨の記 天中軒雲月」は戦前の最盛期、座付き作家であった川内康範の処女作とされた。

門下に現役の曲師伊丹秀敏(浪曲師「浜乃一舟」)がいる。

映画

[編集]

413.420.424.425.428.430.431(451.458

レコード

[編集]

41)29.31.41.44.46.48.50.53.55.57.61.62.(65

参考文献

[編集]
  • 真鍋昌賢『浪花節 流動する語り芸―演者と聴衆の近代』せりか書房、2017年3月。ISBN 978-4796703635

3代目

[編集]

天中軒 雲月1928年 - 1987年12月22日

2代目雲月(伊丹秀子)の次女。後に歌手に転じ永田とよこを終生名乗る。昭和26年、デビュー作は「涙の娘浪曲師」作詞石本美由起、作曲上原げんと[4]歌謡浪曲であった(ヒットせず)[5]。元夫は歌手の青木光一。代表曲は「津軽の子守唄」等。引退し芸能関連会社役員を務めた。

4代目

[編集]

5代目

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 他に東家三楽2018年10月に5代目襲名
  2. ^ a b 年表下p.80
  3. ^ 内山p.214
  4. ^ 『昭和演歌の歴史』p.239欄外
  5. ^ http://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3568761 れきおん

外部リンク

[編集]