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「土岐頼元」の版間の差分

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{{基礎情報 武士
'''土岐 頼元'''(とき よりもと、生年不詳 - [[慶長]]13年[[10月19日 (旧暦)|10月19日]][[1608年]][[11月26日]]))は[[土岐頼芸]]の四男。生母は[[六角定頼|佐々木定頼]]の娘。別名は頼重。通称は五郎左衛門、越前守、道庵。
| 氏名 = 土岐 頼元
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| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[江戸時代]]初期
| 生誕 = 生年不詳
| 死没 = [[慶長]]13年[[10月19日 (旧暦)|10月19日]]([[1608年]][[11月26日]])
| 改名 = 頼元→道庵
| 別名 = 頼重、[[仮名 (通称)|通称]]:五郎左衛門
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| 官位 = [[越前国|越前守]]
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| 主君 = [[斎藤道三]]→[[斎藤義龍|義龍]]→[[斎藤龍興|龍興]]→[[武田信玄]]→[[豊臣秀吉]]→[[豊臣秀頼|秀頼]]→[[徳川家康]]→[[徳川秀忠|秀忠]]
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| 父母 = 父:[[土岐頼芸]]、母:[[六角定頼]]娘
| 兄弟 = [[土岐頼栄|頼栄]]、[[土岐頼次|頼次]]、[[土岐頼宗|頼宗]]、'''頼元'''
| 妻 =
| 子 = '''[[土岐持益|持益]]'''
| 特記事項 =
| 花押 =
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'''土岐 頼元'''(とき よりもと)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての[[武将]][[土岐頼芸]]の四男。別名は頼重。'''斎藤頼元'''とも。[[仮名 (通称)|通称]]は五郎左衛門、越前守、号は道庵。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[美濃国]]の[[守護大名]]・土岐頼芸の四男として誕生。母は[[六角定頼]]の娘。兄に[[土岐頼次|頼次]]。
父・頼芸が追放されたとき、幼少だったために[[斎藤氏]]の扶助を受けることを許された。斎藤滅亡後は各地を転々とし、[[武田氏]]、[[豊臣氏]]そして[[徳川氏]]に仕えて、[[土岐氏]]の家名を存続した。[[豊臣秀吉]]から河内古市郡内に500石を与えられた。[[関ヶ原の戦い]]後は[[徳川家康]]に仕えて、美濃国内に知行を与えられたという。隠居後は道庵と称した。『[[寛政重修諸家譜]]』によれば、慶長13年(1608年)10月19日死去、年齢不詳とする。土岐家は息子[[土岐持益|持益]]が相続した。なお、頼元は斉藤姓を称し、息子持益が土岐姓に戻したという

父・頼芸が家臣の[[斎藤道三]]に追放されたとき、幼少だったために[[斎藤氏|斎藤家]]の扶助を受けることを許された。斎藤滅亡後は各地を転々とし、[[武田氏|武田家]]、[[豊臣氏|豊臣家]]そして[[徳川氏|徳川家]]に仕えて、[[土岐氏]]の家名を存続した。[[豊臣秀吉]]から[[河内国|河内]][[古市郡]]内に500石を与えられた。[[関ヶ原の戦い]]後は[[徳川家康]]に仕えて、美濃国内に知行を与えられたという。隠居後は道庵と称した。

『[[寛政重修諸家譜]]』によれば、慶長13年(1608年)10月19日死去、年齢は不詳。家督は子・[[土岐持益|持益]]が相続した。なお、頼元は斎藤姓を称し、子の持益が土岐姓に戻したという。


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2024年2月25日 (日) 07:42時点における最新版

 
土岐 頼元
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 生年不詳
死没 慶長13年10月19日1608年11月26日
改名 頼元→道庵
別名 頼重、通称:五郎左衛門
官位 越前守
幕府 江戸幕府旗本
主君 斎藤道三義龍龍興武田信玄豊臣秀吉秀頼徳川家康秀忠
氏族 土岐氏
父母 父:土岐頼芸、母:六角定頼
兄弟 頼栄頼次頼宗頼元
持益
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土岐 頼元(とき よりもと)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将土岐頼芸の四男。別名は頼重。斎藤頼元とも。通称は五郎左衛門、越前守、号は道庵。

経歴

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美濃国守護大名・土岐頼芸の四男として誕生。母は六角定頼の娘。兄に頼次

父・頼芸が家臣の斎藤道三に追放されたとき、幼少だったために斎藤家の扶助を受けることを許された。斎藤家滅亡後は各地を転々とし、武田家豊臣家、そして徳川家に仕えて、土岐氏の家名を存続した。豊臣秀吉から河内古市郡内に500石を与えられた。関ヶ原の戦い後は徳川家康に仕えて、美濃国内に知行を与えられたという。隠居後は道庵と称した。

寛政重修諸家譜』によれば、慶長13年(1608年)10月19日死去、年齢は不詳。家督は子・持益が相続した。なお、頼元は斎藤姓を称し、子の持益が土岐姓に戻したという。