コンテンツにスキップ

「松平定則」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
編集の要約なし
 
(5人の利用者による、間の6版が非表示)
1行目: 1行目:
{{別人|松平定法|松平定儀|松平定教}}
{{出典の明記|date=2019年9月10日 (火) 13:19 (UTC)|ソートキー=人1809年没}}
{{出典の明記|date=2019年9月10日 (火) 13:19 (UTC)|ソートキー=人1809年没}}
{{基礎情報 武士
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 松平定則
| 氏名 = 松平 定則
| 画像 = Matsudaira Sadanori(松山藩主).jpg
| 画像 = Matsudaira Sadanori(松山藩主).jpg
| 画像サイズ = 200px
| 画像サイズ = 200px
9行目: 10行目:
| 死没 = [[文化 (元号)|文化]]6年[[7月5日 (旧暦)|7月5日]]([[1809年]][[8月15日]])
| 死没 = [[文化 (元号)|文化]]6年[[7月5日 (旧暦)|7月5日]]([[1809年]][[8月15日]])
| 改名 = 立丸/辰丸(幼名)、定則
| 改名 = 立丸/辰丸(幼名)、定則
| 別名 =
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 = 文楽院殿故伊予州松山城主礼誉興徳義譲大居士
| 戒名 = 文楽院殿故伊予州松山城主礼誉興徳義譲大居士
| 霊名 =
| 墓所 =
| 官位 =
| 幕府 = [[江戸幕府]]
| 幕府 = [[江戸幕府]]
| 主君 = [[徳川家斉]]
| 主君 = [[徳川家斉]]
| 藩 = [[伊予国|伊予]][[伊予松山藩|松山藩]]主
| 藩 = [[伊予国|伊予]][[伊予松山藩|松山藩]]主
| 氏族 = [[久松氏|久松松平家]][[松平定勝|定勝]]流
| 氏族 = [[久松氏|久松松平家]][[松平定勝|定勝]]流
| 父母 = [[松平定国]]、靖操院殿
| 父母 = 父:[[松平定国]]、母:政(藤田氏)
| 兄弟 = 元之丞、'''定則'''、[[松平定通|定通]]、[[酒井忠順 (小浜藩主)|酒井忠順]]室ら
| 兄弟 = 元之丞、'''定則'''、[[松平定通|定通]]、[[酒井忠順 (小浜藩主)|酒井忠順]]室ら
| 妻 = '''[[松平定信]]娘福姫'''
| 妻 = [[松平定信]]・'''福姫'''
| 子 =
| 特記事項 =
| 特記事項 =
}}
}}
'''松平 定則'''(まつだいら さだのり)は、[[江戸時代]]後期の[[大名]]。[[伊予国]][[伊予松山藩|松山藩]]の第10代藩主。定勝系[[久松氏|久松松平家]]宗家11代。官位はなし。

'''松平 定則'''(まつだいら さだのり)は、[[江戸時代]]後期の[[大名]]。[[伊予国]][[伊予松山藩|松山藩]]10代藩主。定勝系[[久松氏|久松松平家]]宗家11代。官位はなし。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
9代藩主・[[松平定国]]の次男として誕生。母は靖操院殿(藤田氏の娘)。幼名は立丸。または辰丸。
9代藩主・[[松平定国]]の次男として誕生した。母は(藤田氏)。幼名は立丸。または辰丸。


長兄・[[松平元之丞|元之丞]]の夭折により、[[寛政]]6年([[1794年]])に嫡男となる。[[文化 (元号)|文化]]元年([[1804年]])、父の死去により家督を継承する。同年には伊予郡松前浜に港が新造される。翌年([[1805年]])、松山二番町横町に初めての[[藩校]][[興徳館]]を設立、[[杉山熊台]]を教授として藩士の指導に当たらせるなど、文化の興隆に貢献した。文化5年([[1808年]])には、菩提寺の一つ[[松山市|松山]]法龍寺の寺格を高めた。
長兄・[[松平元之丞|元之丞]]の夭折により、[[寛政]]6年([[1794年]])に嫡男となる。[[文化 (元号)|文化]]元年([[1804年]])、父の死去により家督を継承する。同年には伊予郡松前浜に港が新造される。翌文化2年([[1805年]])、松山二番町横町に初めての[[藩校]][[興徳館]]を設立、[[杉山熊台]]を教授として藩士の指導に当たらせるなど、文化の興隆に貢献した。文化5年([[1808年]])には、菩提寺の一つ[[松山市|松山]]法龍寺の寺格を高めた。


文化6年([[1809年]])7月3日、病床に伏し弟の勝丸([[松平定通]])を養嗣とし、同5日に江戸松山藩邸愛宕下上屋敷にて卒去。享年20(17歳)。法号は文楽院殿故伊予州松山城主礼誉興徳義譲大居士。遺骸が三田[[済海寺]]に土葬される。遺髪は三田済海寺を発し、木曽路を経て松山古町大林寺へ送られ、法要が営まれた。
文化6年([[1809年]])7月3日、病床に伏し弟の勝丸([[松平定通]])を養嗣とし、同5日に江戸松山藩邸愛宕下上屋敷にて卒去。享年17(15歳)。法号は文楽院殿故伊予州松山城主礼誉興徳義譲大居士。遺骸が三田[[済海寺]]に土葬される。遺髪は三田済海寺を発し、木曽路を経て松山古町大林寺へ送られ、法要が営まれた。


== 系譜 ==
== 系譜 ==

2024年3月4日 (月) 11:00時点における最新版

 
松平 定則
松平定則像
時代 江戸時代後期
生誕 寛政5年7月27日1793年9月2日
死没 文化6年7月5日1809年8月15日
改名 立丸/辰丸(幼名)、定則
戒名 文楽院殿故伊予州松山城主礼誉興徳義譲大居士
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
伊予松山藩
氏族 久松松平家定勝
父母 父:松平定国、母:政(藤田氏)
兄弟 元之丞、定則定通酒井忠順室ら
松平定信の娘・福姫
テンプレートを表示

松平 定則(まつだいら さだのり)は、江戸時代後期の大名伊予国松山藩の第10代藩主。定勝系久松松平家宗家11代。官位はなし。

生涯

[編集]

第9代藩主・松平定国の次男として誕生した。母は政(藤田氏)。幼名は立丸。または辰丸。

長兄・元之丞の夭折により、寛政6年(1794年)に嫡男となる。文化元年(1804年)、父の死去により家督を継承する。同年には伊予郡松前浜に港が新造される。翌文化2年(1805年)、松山二番町横町に初めての藩校興徳館を設立、杉山熊台を教授として藩士の指導に当たらせるなど、文化の興隆に貢献した。文化5年(1808年)には、菩提寺の一つ松山法龍寺の寺格を高めた。

文化6年(1809年)7月3日、病床に伏し、弟の勝丸(松平定通)を養嗣とし、同5日に江戸松山藩邸愛宕下上屋敷にて卒去。享年17(15歳)。法号は文楽院殿故伊予州松山城主礼誉興徳義譲大居士。遺骸が三田済海寺に土葬される。遺髪は三田済海寺を発し、木曽路を経て松山古町大林寺へ送られ、法要が営まれた。

系譜

[編集]