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「東区 (大阪市)」の版間の差分

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|画像の説明 = 東区役所跡地に建つ大阪産業創造館
|廃止日 = 1989年2月13日
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'''東区'''(ひがしく)は、かつて[[大阪府]]・[[大阪市]]にあった[[区]]。現在の大阪市[[中央区 (大阪市)|中央区]]北部・東部に相当する。
'''東区'''(ひがしく)は、[[1989年]]([[平成]]元年)まで[[大阪府]]・[[大阪市]]にあった[[行政区#行政区の一覧|区]]。現在の大阪市[[中央区 (大阪市)|中央区]]北部・東部に相当する。


== 概要 ==
== 概要 ==
[[File:Ikoma-bld.jpg|thumb|right|[[平野町 (大阪市)|平野町]]にある生駒時計店の本社[[生駒ビルヂング]]]]
東を[[大阪環状線]]、南をおおむね[[長堀通]]・安堂寺橋通・順慶町通、西を[[西横堀川]]([[阪神高速1号環状線]]北行き)、北を[[土佐堀川]]・[[旧淀川|大川]]・[[寝屋川]]に囲まれた、ほぼ長方形の区域であった。[[郵便番号]]は東部が540、西部が541。
[[File:Konishi Gisuke Shoten.jpg|thumb|[[道修町]]にある[[旧小西家住宅史料館]](小西儀助商店〈現・[[コニシ]]〉旧社屋)]]


東を[[大阪環状線]]、南をおおむね[[長堀通]]・[[安堂寺橋通]][[順慶町通]]、西を[[西横堀川]]([[阪神高速1号環状線]]北行き)、北を[[土佐堀川]]・[[旧淀川|大川]]・[[寝屋川]]に囲まれた、ほぼ長方形の区域であった。[[日本の郵便番号|郵便番号]]は東部が540、西部が541。
大阪のシンボルである[[大坂城]]や江戸時代から大阪経済の中心地であった[[船場 (大阪市)|船場]]を包含するエリアであったため、大阪市内におけるステタスエリアもなっており、繁華な南区に対し「東区」にる者がとりわけ年配者に多い。東区役所跡地には大阪産業創造館が建っている。

大阪のシンボルである[[大坂城]]や[[江戸時代]]から大阪経済の中心地であった[[船場 (大阪市)|船場]]の大半管轄していたため、[[歓楽街]]のイメージがあ南区に対して、ステタス([[社会的地位]])としての「東区」にこだわる者が現在でも年配者を中心に多い。東区役所跡地には大阪産業創造館が建っている。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
[[1879年]]の[[郡区町村編制法]]施行により大阪府東区が発足。[[1889年]]の[[市制]]施行により区域と名称はそのまま大阪市の下部組織へ移行したが、決して東区が吸収されたわけではなかった。現在のような行政区ではなく、[[東京市]]、[[京都市]]の区と共に[[法人格]]を有し(明治44([[1911年]])9月市政改正勅令)、議会(正式には区会)を持ち、明治23年([[1890年]])学事通達により学校設置区(当初は[[高等小学校]]、後に[[実業学校]]を設置)でもあり、中等教育と財産区を併せ持った性格の法人区であった。
[[1879年]]([[明治]]12年)の[[郡区町村編制法]]施行により大阪府東区が発足。[[1889年]]の[[市制]]施行により、そのままの区域と名称大阪市の下部組織へ移行したが、決して東区が吸収されたわけではなかった。現在のような行政区ではなく、[[東京市]]、[[京都市]]の区と共に[[法人格]]を有し(明治44([[1911年]])9月市政改正勅令)、選挙で員を選ぶ独自の「区会(区会)を持ち、明治23年([[1890年]])学事通達により学校設置区(当初は[[高等小学校]]、後に[[実業学校]]を設置)でもあり、中等教育と[[財産区]]を併せ持った性格の法人区であった。


しかし、[[1940年]]4月の地方税法改正により区の独自課税権を奪われ、区立女学校の維持管理ができなくなり、1943年9月「[[大東亜戦争|大東亜戦]]([[太平洋戦争]]時下、時局の重大性に鑑み、大阪市政の運営とこれの発展向上に寄与するため」「区有財産の大阪市への寄付に関する議案」区会が可決<ref>東区会史より</ref>、更には1943年11月には、区議会が解散を決議、法人区としての53年の歴史を終えた<ref>東区会史より</ref>
しかし、[[1940年]]([[昭和]]15年)4月の[[地方税法]]改正により区の独自課税権(徴収権)を奪われ、区立の[[実業学校]]「高等東女学校」(現・[[大阪市立東高等学校]])の維持管理ができなくなり、[[1943年]]9月[[太平洋戦争]]時下、時局の重大性に鑑み、大阪市政の運営とこれの発展向上に寄与するため」「区有財産の大阪市への寄付に関する議案」区会が可決<ref name="#1">東区会史より</ref>、更には年11月には、区議会が解散を決議、法人区としての53年の歴史を終えた<ref name="#1"/><ref>
[http://www.pref.aichi.jp/kikaku/bunken/torikumi/pdf/230731/oosaka.pdf それぞれの大都市にふさわしい自治体構造へ~ “国のかたち”の再構築~ 2011.7.31 [[大阪府知事]] [[橋下徹]]] - 東区会史(東区役所編)を[[プレゼンテーション]]資料として使用</ref>。


[[1989年]]([[平成]]元年)2月13日、[[南区 (大阪市)|南区]]と統合されて[[中央区 (大阪市)|中央区]]となり、110年に及ぶ歴史の幕を閉じた。
以下の最後の東区会議長あいさつ(東区会史)を読むと、大東亜決戦戦時体制構築のために大阪市が区を廃止に追い込んだことがわかる。
:「このほど、決戦国体体制の整備、行政簡素化の国策に従い東区会の解散を断行するもの。思えば昭和15年(1940年)の税制改正で財源を失い、学区制解散、東女学校の市移管などをやむを得ず行ってきた。53年の歴史のある区会を解散することは東区民の長年の努力を考えると感慨無量で堪え難い。我が子を失う気持ちだ。長年の努力の結果の成果を更に高めていってもらえると信じて大阪市に引き渡すので市長以下誠心誠意をもって対処をお願いする」


=== 年表 ===
1989年2月13日、[[南区 (大阪市)|南区]]と統合されて[[中央区 (大阪市)|中央区]]となり、100余年に及ぶ歴史の幕を閉じた。
* [[1869年]]([[明治]]2年) - [[大坂三郷]]再編により、'''東大組'''が発足。

* [[1869年]]([[明治]]2年) - [[大坂三郷]]再編により、東大組が発足
* [[1875年]](明治8年)[[4月30日]] - [[大区小区制]]施行により、東大組が'''第1大区'''となる
* [[1875年]](明治8年) - [[大区小区制]]施行により、東大組が第1大区となる。
* [[1879年]](明治12年)[[2月10日]] - [[町村編]]施行により、第1大区が'''東区'''となる。区役所を[[備後町 (大阪市)|備後町]]2丁目に設置
* [[1879年]](明治12年) - [[郡区村編制法]]施行により、第1大区が東区となる。区役所を備後町2丁目に設置
* [[1880年]](明治13年) - 区役所を[[淡路町 (大阪市)|淡路町]]1丁目に移転
* [[1880年]](明治13年) - 区役所を淡路町1丁目に移転。
* [[1886年]](明治19年) - 区役所を[[高麗橋]]1丁目に移転。
* [[1886年]](明治19年) - 区役所を[[高麗橋]]1丁目に移転。
* [[1889年]](明治22年) - [[市制]]施行により、大阪市の行政区へ移行。
* [[1889年]](明治22年)[[4月1日]] - [[市制]]施行により、大阪市の行政区へ移行。
* [[1897年]](明治30年 - 大阪市第1次市域拡張により、[[東成郡]][[玉造 (大阪市)|玉造町]]・清堀村・東平野町・西高津村の全域と中本村の猫間川以西・鶴橋村の[[大阪鉄道 (初代)|大阪鉄道]](現在の[[大阪環状線]])以西を東区へ編入。
* [[1897年]](明治30年)4月1日 - 大阪市第1次市域拡張により、[[東成郡]][[玉造 (大阪市)|玉造町]]・[[清堀村]][[東平 (大阪市)|東平野町]][[西高津村]]の全域と[[中本町|中本村]]の猫間川以西・[[鶴橋町|鶴橋村]]の[[大阪鉄道 (初代)|大阪鉄道]](現・[[西日本旅客鉄道|JR]][[大阪環状線]])以西を東区へ編入。
* [[1901年]](明治34年) - 区役所を[[本町 (大阪市)|本町]]1丁目に移転。
* [[1901年]](明治34年) - 区役所を[[本町 (大阪市)|本町]]1丁目に移転。
* [[1925年]]([[大正]]14年 - 上記のうち旧東平野町・西高津村域を[[天王寺区]]へ分区。
* [[1925年]]([[大正]]14年)4月1日 - 上記のうち旧東平野町・西高津村域を[[天王寺区]]へ分区。
* [[1943年]]([[昭和]]18年 - [[旭区 (大阪市)|旭区]]より鴫野町の[[城東線]](現在の大阪環状線)以西を編入し、城東線以東を[[城東区]]・[[東成区]]へ、[[長堀通|末吉橋通]]以南を天王寺区へ移譲。
* [[1943年]]([[昭和]]18年)4月1日 - [[旭区 (大阪市)|旭区]]より[[鴫野]]町の[[鉄道省|鉄道]][[大阪環状線#城東線|城東線]](現・JR大阪環状線)以西を編入し、城東線以東を[[城東区]]・[[東成区]]へ、[[長堀通|末吉橋通]]以南を天王寺区へ移譲。
* [[1989年]]([[平成]]元年) - [[南区 (大阪市)|南区]]と統合され、[[中央区 (大阪市)|中央区]]となる。
* [[1989年]]([[平成]]元年)[[2月13日]] - [[南区 (大阪市)|南区]]と統合され、[[中央区 (大阪市)|中央区]]となる。同日東区廃止


== 出身有名人 ==
== 人 ==
* 1920年 206,121
* 1925年 172,411
* 1930年 166,241
* 1935年 171,263
* 1940年 148,580
* 1945年  9,875
* 1947年  20,322
* 1950年  37,976
* 1955年  56,523
* 1960年  59,704
* 1965年  50,728
* 1970年  38,564
* 1975年  28,953
* 1980年  27,109
* 1985年  27,585

== 区長 ==
* [[傍士定治]]

== 著名な出身者 ==
* [[浅原源七]] - [[日産自動車]]社長
* [[石井好二郎]] - [[同志社大学]]教授、旧東区出身
* [[石井好二郎]] - [[同志社大学]]教授、旧東区出身
* [[市田忠義]] - [[国会議員|参議院議員]]、[[日本共産党]]書記局長
* [[市田忠義]] - [[国会議員|参議院議員]]、[[日本共産党]]書記局長
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* [[岡田彰布]] - [[阪神タイガース]]及び[[オリックス・バファローズ]]の選手・監督を歴任
* [[岡田彰布]] - [[阪神タイガース]]及び[[オリックス・バファローズ]]の選手・監督を歴任
* [[岡田圭右]] - お笑いタレント([[ますだおかだ]])
* [[岡田圭右]] - お笑いタレント([[ますだおかだ]])
* [[山茶花究]] - [[俳優]]、芸人
* [[田中徳三]] - [[映画監督]]
* [[田中徳三]] - [[映画監督]]
* [[内藤剛志]] - [[俳優]]
* [[内藤剛志]] - 俳優
* [[中井一夫]] - 元衆議院議員・[[神戸市]]長、旧東区瓦町(船場)出身
* [[中井一夫]] - 元衆議院議員・[[神戸市]]長、旧東区瓦町(船場)出身
* [[松尾昭典]] - 映画監督
* [[松尾昭典]] - 映画監督
72行目: 99行目:
== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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{{Reflist}}
<references />


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[北区 (大阪市)]]
* [[北区 (大阪市)]]
* [[区 (大阪市)]]
** [[大淀区]](''かつて存在した'')
* [[中央区 (大阪市)]]
** [[南区 (大阪市)]](''かつて存在した'')
* [[西区 (大阪市)]]
* [[西区 (大阪市)]]
* [[大阪市立東高等学校]] - 東区立の[[女学校]]を起源とする。

* [[大阪市立汎愛高等学校]] - 東区立の[[旧制中学校]]を起源とする。
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[[Category:1879年に成立した行政区画]]
[[Category:1989年に廃止された行政区画]]

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ひがしく
東区
東区役所跡地に建つ大阪産業創造館
東区役所跡地に建つ大阪産業創造館
廃止日 1989年2月13日
廃止理由 新設合併
東区南区中央区
現在の行政区 中央区
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 近畿地方
都道府県 大阪府
大阪市
団体コード 27105-5
面積 5.93km2
総人口 27,585
(国勢調査、1985年)
隣接自治体
隣接行政区
大阪市北区都島区西区天王寺区南区東成区城東区
東区役所
所在地 541
大阪府大阪市東区本町1丁目25番地
ウィキプロジェクト

東区(ひがしく)は、1989年平成元年)まで大阪府大阪市にあった。現在の大阪市中央区北部・東部に相当する。

概要

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平野町にある生駒時計店の本社生駒ビルヂング
道修町にある旧小西家住宅史料館(小西儀助商店〈現・コニシ〉旧社屋)

東を大阪環状線、南をおおむね長堀通安堂寺橋通順慶町通、西を西横堀川阪神高速1号環状線北行き)、北を土佐堀川大川寝屋川に囲まれた、ほぼ長方形の区域であった。郵便番号は東部が540、西部が541。

大阪のシンボルである大坂城江戸時代から大阪経済の中心地であった船場の大半を管轄していたため、歓楽街のイメージがある南区に対して、ステータス(社会的地位)としての「東区」にこだわる者が現在でも年配者を中心に多い。東区役所の跡地には大阪産業創造館が建っている。

歴史

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1879年明治12年)の郡区町村編制法施行により大阪府東区が発足。1889年市制施行により、そのままの区域と名称で大阪市の下部組織へ移行したが、決して東区が吸収されたわけではなかった。現在のような行政区ではなく、東京市京都市の区と共に法人格を有し(明治44(1911年)9月市政改正勅令)、選挙で議員を選ぶ独自の「区会(区議会)」を持ち、明治23年(1890年)学事通達により学校設置区(当初は高等小学校、後に実業学校を設置)でもあり、中等教育と財産区を併せ持った性格の法人区であった。

しかし、1940年昭和15年)4月の地方税法改正により区の独自課税権(徴収権)を奪われ、区立の実業学校「高等東女学校」(現・大阪市立東高等学校)の維持管理ができなくなり、1943年9月太平洋戦争時下、時局の重大性に鑑み、大阪市政の運営とこれの発展向上に寄与するため」「区有財産の大阪市への寄付に関する議案」区会が可決[1]、更には同年11月には、区議会が解散を決議、法人区としての53年の歴史を終えた[1][2]

1989年平成元年)2月13日、南区と統合されて中央区となり、110年に及ぶ歴史の幕を閉じた。

年表

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人口

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  • 1920年 206,121
  • 1925年 172,411
  • 1930年 166,241
  • 1935年 171,263
  • 1940年 148,580
  • 1945年  9,875
  • 1947年  20,322
  • 1950年  37,976
  • 1955年  56,523
  • 1960年  59,704
  • 1965年  50,728
  • 1970年  38,564
  • 1975年  28,953
  • 1980年  27,109
  • 1985年  27,585

区長

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著名な出身者

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脚注

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関連項目

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