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'''カウシャーンビー'''({{lang-sa|कौशाम्बी}} {{unicode|kauśāmbī}})は、[[インド]]古代の都市で、[[十六大国]]のひとつ[[ヴァツサ国]]の首都であった。現在の[[ウッタル・プラデーシュ州]]カウシャーンビー県にあたる。


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カウシャーンビーで発見された最古期の城壁は紀元前7世紀にさかのぼると考えられる。6世紀に[[エフタル]]の{{仮リンク|トラマーナ|en|Toramana}}による侵略によって破壊されたらしい<ref>水谷訳(1999) p.230</ref>。


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[[ウダヤナ]]王の時代、カウシャーンビーは交通の要地であり、商業が発達していた。[[パーリ仏典]]によれば、[[祇園精舎]]と同様に、裕福な商人であるゴーシタ、クックタ、パーヴァーリカの3人は[[安居]]のための施設を作って仏陀を招いた<ref name="ghositarama"/>。
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== 外部リンク ==
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カウシャーンビー
都市
カウシャーンビー
カウシャーンビーで鋳造された紀元前1世紀の銅貨。「Kosabi」の刻文あり(大英博物館
カウシャーンビー
カウシャーンビー
カウシャーンビー
カウシャーンビー
カウシャーンビー
カウシャーンビー
座標:北緯25度20分20秒 東経81度23分34秒 / 北緯25.338984度 東経81.392899度 / 25.338984; 81.392899座標: 北緯25度20分20秒 東経81度23分34秒 / 北緯25.338984度 東経81.392899度 / 25.338984; 81.392899
インドの旗 インド

カウシャーンビーサンスクリット: कौशाम्बी kauśāmbī)は、インド古代の都市で、十六大国のひとつヴァツサ国の首都であった。現在のウッタル・プラデーシュ州カウシャーンビー県にあたる。

パーリ語ではコーサンビーkosambī)と呼ぶ。ウダヤナ王の時代に仏陀が訪れた、仏教にとって重要な地でもある。

仏国記』で「拘睒弥」、『大唐西域記』で「憍賞弥」と記すほか、漢字表記は多様である。

位置

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カウシャーンビーの位置については長らく議論があった。玄奘大唐西域記』にプラヤーガ(今のイラーハーバード)から西南500の所にあるといい、『大慈恩寺三蔵法師伝』ではプラヤーガから7日かかるとしている[1]。しかし実際にはカウシャーンビーはイラーハーバードの南西70キロメートルほどの、ヤムナー川北岸にあった[2]。玄奘の記述は距離を過大に書いていたことになる。一帯は現在カウシャーンビー県と呼ばれている。

1861年にアレキサンダー・カニンガムは、ヤムナー川の北岸の地をカウシャーンビーと同定した。1940年代から1950年代にかけて、G.R.シャルマの率いるイラーハーバード大学の考古学的調査により、カウシャーンビーの跡から多数の遺物が発見され、この推定の正しさが明らかとなった[2]

歴史

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カウシャーンビーで発見された最古期の城壁は紀元前7世紀にさかのぼると考えられる。6世紀にエフタルトラマーナ英語版による侵略によって破壊されたらしい[3]

プラーナ文献の一部は、クル国のジャナメージャヤ(アルジュナの玄孫)から4代目の王のときに首都のハスティナープラガンジス川の洪水で被害を受けたためにカウシャーンビーに遷都したとするが、ハスティナープラとカウシャーンビーでは離れすぎている[4]

ウダヤナ王の時代、カウシャーンビーは交通の要地であり、商業が発達していた。パーリ仏典によれば、祇園精舎と同様に、裕福な商人であるゴーシタ、クックタ、パーヴァーリカの3人は安居のための施設を作って仏陀を招いた[2]

現在イラーハーバードにあるアショーカ王の石柱は、本来はカウシャーンビーに立てられていたものと伝えられる。碑文にはコーサンビーの大官(マハーマートラ)にあてて、サンガを分裂させる者を罰するという内容が書かれている[5]

玄奘はカウシャーンビーで、ウダヤナ王が刻んだと伝えられる、栴檀の木を刻んで作った仏像を見ている。またゴーシラ(ゴーシタ)の家の跡があることも伝えている[6]

脚注

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  1. ^ 水谷訳(1999) 巻2 pp.228-230
  2. ^ a b c Rohan L. Jayetilleke (2007-12-05), The Ghositarama of Kaushambi, Daily News, オリジナルの2007-12-05時点におけるアーカイブ。, https://web.archive.org/web/20110604160714/http://www.dailynews.lk/2007/12/05/fea06.asp 
  3. ^ 水谷訳(1999) p.230
  4. ^ Pargiter (1922) p.285
  5. ^ Salomon (1998) p.139
  6. ^ 水谷訳(1999) pp.230-233

参考文献

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  • Pargiter, F.E. (1922). Ancient Indian Historical Tradition. Oxford University Press. https://archive.org/details/ancientindianhis00parguoft 
  • Salomon, Richard (1998). Indian Epigraphy. Oxford University Press. ISBN 0195099842 
  • 玄奘 著、水谷真成 訳『大唐西域記』 2巻、平凡社東洋文庫、1999年。ISBN 4582806554 

外部リンク

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