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[[画像:Southshoremichigancity.jpg|250px|right|thumb|[[併用軌道]]を走行するインターアーバン([[サウスショアー線]])]]
[[画像:Peninsular Railway 52 2006.jpg|250px|right|thumb|ウェスタン鉄博物館に保存されていペニンシュラ鉄道のインターアーバン]]
[[画像:Southshoremichigancity.jpg|250px|サムネイル|[[併用軌]]を走行するインターアーバン([[サウスショアー線]])]]
[[画像:Peninsular Railway 52 2006.jpg|250px|サムネイル|ウェスタン鉄道博物館に保存されているペニンシュラ鉄道のインターアーバン]]
'''インターアーバン'''({{Lang-en|Interurban}}、'''都市間電気鉄道''')は、[[都市]]と都市を結ぶ[[電気鉄道]]の一体系を指す。数十km程度の都市間を結ぶ路線であり、都市内輸送を中心とする鉄道、数百kmにも及ぶ長距離路線と対比される。[[北アメリカ|北米]]、[[日本]]、[[西ヨーロッパ]]で普及した。
'''インターアーバン'''({{Lang-en|Interurban}}、'''都市間電気鉄道''')は、都市と都市を結ぶ[[電気鉄道]]の一体系を指す。数十km程度の[[都市]]間を結ぶ路線であり、都市内輸送を中心とする鉄道、数百kmにも及ぶ長距離路線と対比される。[[北アメリカ|北米]]、[[日本]]、[[西ヨーロッパ]]で普及した。


[[英語]]の発音は'''インタ・アーバン'''に近く、そこから転じて日本では'''インターバン'''と呼ばれることもある。一部書籍では[[ドイツ語]]風の'''インターバーン'''という表記も見られるが、英語由来の単語である<ref>そもそも、Interurban は英語で Inter(~間) urban(都市) であって、ドイツ語の「道」bahn と全く別であるから、'''インターバーン'''はドイツ語としては意味をなさない。</ref>。
[[英語]]の発音は'''インタ・アーバン'''に近く、そこから転じて日本では'''インターバン'''と呼ばれることもある。一部書籍では[[ドイツ語]]風の'''インターバーン'''という表記も見られるが、英語由来の単語である<ref group="注釈">そもそも、Interurban は英語で Inter(~間) urban(都市) であって、ドイツ語の「道」bahn と全く別であるから、'''インターバーン'''はドイツ語としては意味をなさない。</ref>。


== インターアーバンの定義 ==
== インターアーバンの定義 ==
[[ファイル:Keihan800-hot-ksm.jpg|thumb|right|250px|日本のインターアーバンは[[20世紀]]半ばまでに廃止されるか[[普通鉄道]]に格上げされてきたが、一部[[地方都市|中小都市]]にはその特徴を色濃く残す路線が現存している。([[京阪京津線]]、[[滋賀県]][[大津市]])]]
[[画像:Keihan800-hot-ksm.jpg|サムネイル|250px|日本のインターアーバンは[[20世紀]]半ばまでに廃止されるか[[普通鉄道]]に格上げされてきたが、一部[[地方都市|中小都市]]にはその特徴を色濃く残す路線が現存している。([[京阪京津線]]、[[滋賀県]][[大津市]])]]
「インターアーバン」は[[アメリカ合衆国]]を発祥とする。
「インターアーバン」は[[アメリカ合衆国]]を発祥とする。


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当時のアメリカ合衆国で、都市間を結ぶ電気鉄道には二種類が存在した。
当時のアメリカ合衆国で、都市間を結ぶ電気鉄道には二種類が存在した。


一つは都市と[[農村]]を連絡するために建設された[[路面電車]]網がお互いに接続することで都市間の[[ネットワーク]]を形成したケースである。この種の路線は主として[[ニューイングランド]]地方で発達した。農村地域での短距離移動や農村から町に出る際には簡便で適切な[[交通機関]]であったが、都市間(拠点間)移動の分野では所要時間がかかりすぎてあまり[[実用]]的な存在ではなかった。
一つは都市と[[農村]]を連絡するために建設された[[路面電車]]網がお互いに接続することで都市間の[[ネットワーク]]{{要曖昧さ回避|date=2023年5月}}を形成したケースである。この種の路線は主として[[ニューイングランド]]地方で発達した。農村地域での短距離移動や農村から町に出る際には簡便で適切な[[交通機関]]であったが、都市間(拠点間)移動の分野では所要時間がかかりすぎてあまり実用的な存在ではなかった。


もう一つは、初めから都市間の直結を意図して建設された高速路線である。一般にインターアーバンとはこの後者の種類の鉄道を指す。
もう一つは、初めから都市間の直結を意図して建設された高速路線である。一般にインターアーバンとはこの後者の種類の鉄道を指す。
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# 市街地では[[併用軌道]]、郊外では[[専用軌道]]を走行する。
# 市街地では[[併用軌道]]、郊外では[[専用軌道]]を走行する。
# 当初から[[電気鉄道]]として建設されたものが中心だが、[[蒸気機関車]]で運行されていた既存の路線を[[鉄道の電化|電化]]したものもある。
# 当初から[[電気鉄道]]として建設されたものが中心だが、蒸気機関車で運行されていた既存の路線を[[鉄道の電化|電化]]したものもある。
# [[旅客輸送]][[収入]]を主な収入源としていた。
# [[旅客輸送]][[収入]]を主な収入源としていた。
# 車両は[[ボギー車]]で、[[増解結|連結運転]]が行われる事もあった。
# 車両は[[ボギー車]]で、[[増解結|連結運転]]が行われる事もあった。
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# [[ダイヤグラム|所要時間と運行間隔]]から、50[[マイル]] (80 km) 程度離れた都市間内で最もその能力を発揮した。
# [[ダイヤグラム|所要時間と運行間隔]]から、50[[マイル]] (80 km) 程度離れた都市間内で最もその能力を発揮した。
# [[1890年代]]から[[1930年代]]までに建設された。
# [[1890年代]]から[[1930年代]]までに建設された。
# [[軌間]]は914 mm(3[[フィート]])のものが多かった。


上記の特徴を持つ路線をアメリカ合衆国では'''インターアーバン'''と呼ぶことが多い。
上記の特徴を持つ路線をアメリカ合衆国では'''インターアーバン'''と呼ぶことが多い。


7、8を除けば、これらの特徴は[[福井鉄道福武線]]、[[京阪京津線]]、[[広島電鉄宮島線]]・[[広島電鉄市内線|市内線]]、[[鹿児島市電谷山線]]など日本に現存する都市近郊路線にも共通するものがあり、また過去にこれらの特徴を持っていた都市近郊路線も多い。[[京王線]]<ref>[http://www.regasu-shinjuku.or.jp/photodb/det.html?data_id=2426 甲州街道京王線]</ref>、[[東急田園都市線]]・[[東急大井町線|大井町線]]<ref>世田谷線は軌道時代の支線を受け継ぐ</ref>、[[京急本線]]、[[近鉄奈良線]]、[[阪神本線]]、[[山陽電気鉄道本線]]<ref>[http://satoyama.in/auto/sharyo/auto552.html 山陽電鉄併用軌道区間]</ref>などがある。
7を除けば、これらの特徴は[[福井鉄道福武線]]、[[京阪京津線]]、[[広島電鉄宮島線]]・市内線、[[鹿児島市電谷山線]]など日本に現存する都市近郊路線にも共通するものがあり、また過去にこれらの特徴を持っていた都市近郊路線も多い。[[京王線]]<ref>[http://www.regasu-shinjuku.or.jp/photodb/det.html?data_id=2426 甲州街道京王線]</ref>、[[東急田園都市線]]・[[東急大井町線|大井町線]]<ref group="注釈">世田谷線は軌道時代の支線を受け継ぐ</ref>、[[京急本線]]、[[近鉄奈良線]]、[[阪神本線]]、[[山陽電気鉄道本線]]<ref>[http://satoyama.in/auto/sharyo/auto552.html 山陽電鉄併用軌道区間]</ref>などがある。


なお、インターアーバンの公式の[[定義]]としては、[[アメリカ合衆国統計局]]が[[1902年]]以降行っていた電気鉄道[[統計]]における区分を挙げることができる。アメリカ合衆国統計局は当初、都市間の電気鉄道と郊外の電気鉄道の全てをインターアーバンと定義し、[[1912年]]以降は会社規模によって区分をおこなった。こうした定義は、上記のようなイメージとはかけ離れた低規格の路面軌道等を含んでしまうため、路面電車やインターアーバンについての研究を行った[[ハーバード大学]]のメーソンや[[イリノイ大学]]のデュー、[[UCLA]]のヒルトンらは、より実態に即した定義を行っている。それらは上記のような、我々のイメージする定義とほぼ一致するものである。
なお、インターアーバンの公式の定義としては、アメリカ合衆国統計局が[[1902年]]以降行っていた電気鉄道統計における区分を挙げることができる。アメリカ合衆国統計局は当初、都市間の電気鉄道と郊外の電気鉄道の全てをインターアーバンと定義し、[[1912年]]以降は会社規模によって区分をおこなった。こうした定義は、上記のようなイメージとはかけ離れた低規格の路面軌道等を含んでしまうため、路面電車やインターアーバンについての研究を行った[[ハーバード大学]]のメーソンや[[イリノイ大学]]のデュー、[[UCLA]]のヒルトンらは、より実態に即した定義を行っている。それらは上記のような、我々のイメージする定義とほぼ一致するものである。


== アメリカのインターアーバン ==
== アメリカのインターアーバン ==
=== 歴史 ===
=== 歴史 ===
==== 黎明期 ====
==== 黎明期 ====
都市間を結ぶ電気鉄道が実用的なものになったのは1890年代の事である。電気モーターで鉄道車両を走行させる駆動システムには初期の試行錯誤はあったものの、[[フランク・スプレイグ]] (Frank Julian Sprague) が[[1887年]]に開発した[[吊り掛け駆動方式]]は、モーターの回転力を安定して車軸に伝える事を可能にし、以後半世紀にわたって電車の駆動システムの主流をなした。この結果、路面電車の急速な発展がもたらされ、やがては都市市街地以外への電車の進出をも促したのである。[[1893年]]ごろからインターアーバンの建設がはじめられ、[[1900年]]までに3000キロほどの路線が建設された。
都市間を結ぶ電気鉄道が実用的なものになったのは[[1890年代]]の事である。電気モーターで鉄道車両を走行させる駆動システムには初期の試行錯誤はあったものの、[[フランク・スプレイグ]] (Frank Julian Sprague) が[[1887年]]に開発した[[吊り掛け駆動方式]]は、モーターの回転力を安定して車軸に伝える事を可能にし、以後半世紀にわたって電車の駆動システムの主流をなした。この結果、路面電車の急速な発展がもたらされ、やがては都市市街地以外への電車の進出をも促したのである。[[1893年]]ごろからインターアーバンの建設がはじめられ、[[1900年]]までに3000キロほどの路線が建設された。


==== 最盛期 ====
==== 最盛期 ====
[[画像:Illinoisrailwaymuseum308.jpg|250px|right|thumb|イリノイ鉄道博物館に保存されているシカゴ・オーロラエルジン鉄道のインターアーバン]]
[[画像:Illinoisrailwaymuseum308.jpg|250px|サムネイル|イリノイ鉄道博物館に保存されている[[シカゴ・オーロラ・アンド・エルジン鉄道]]のインターアーバン]]
インターアーバンが急速に普及したのは[[1901年]]-[[1908年]]のことである。[[1897年]]にスプレイグが発明した[[総括制御]]方式により、連結された複数の電車を先頭車両からの遠隔操作で同調させて運転できるようになり、客車並みの大型の電車を連ねて輸送力を確保できるようになったこと、また[[19世紀]]最後の数年間に建設された路線の業績が好調であったことで、爆発的に路線が広まった。全米で2万4000キロの路線が建設され、[[オハイオ州]]、[[ミシガン州]]、[[インディアナ州]]の路線は相互に連絡して広大な路線網が築かれた。
インターアーバンが急速に普及したのは1901-1908年のことである。[[1897年]]にスプレイグが発明した[[総括制御]]方式により、連結された複数の電車を先頭車両からの遠隔操作で同調させて運転できるようになり、客車並みの大型の電車を連ねて輸送力を確保できるようになったこと、また[[19世紀]]最後の数年間に建設された路線の業績が好調であったことで、爆発的に路線が広まった。全米で2万4000キロの路線が建設され、[[オハイオ州]]、[[ミシガン州]]、[[インディアナ州]]の路線は相互に連絡して広大な路線網が築かれた。


インターアーバンの建設最盛期は1908年に終焉を迎えた。[[1907年恐慌|1907年に起こった恐慌]]の影響が甚大であった事に加え、期待していたほど利益が得られないことが徐々に判明したからである。ミネアポリスから東部に至るアメリカ北東部の隅々を結ぶ路線計画が練られていたが、そのほとんどは実現することがなかった。
インターアーバンの建設最盛期は[[1908年]]に終焉を迎えた。[[1907年恐慌|1907年に起こった恐慌]]の影響が甚大であった事に加え、期待していたほど利益が得られないことが徐々に判明したからである。ミネアポリスから東部に至るアメリカ北東部の隅々を結ぶ路線計画が練られていたが、そのほとんどは実現することがなかった。


インターアーバンの全盛期はその後の10年間である。当初は既存の鉄道路線に比べて格安の運賃も魅力的であったが、中西部の諸州では鉄道の普通[[運賃]]の上限を規制する法律が制定され、既存の鉄道会社とインターアーバンの運賃格差はほとんどなくなってしまった。アメリカの蒸気機関車による客車普通列車は平均40-50km/h程度で走行していたが、インターアーバンでは併用軌道が存在するために、速度は平均30-40km/h程度に抑制され、その点でも不利であった。このため、既存の鉄道会社の1日に数本という運行本数に対し、1時間に1本程度の運行間隔を確保し、既存の鉄道会社の列車が存在しないルートに盛んに列車を運行するフリークエントサービスで、集客を図っていた。電車の機動性・軽便性を活かした頻発運転は、蒸気鉄道にはないメリットであった。
インターアーバンの全盛期はその後の10年間である。当初は既存の鉄道路線に比べて格安の運賃も魅力的であったが、中西部の諸州では鉄道の普通[[運賃]]の上限を規制する法律が制定され、既存の鉄道会社とインターアーバンの運賃格差はほとんどなくなってしまった。アメリカの蒸気機関車による客車普通列車は平均40-50km/h程度で走行していたが、インターアーバンでは併用軌道が存在するために、速度は平均30-40km/h程度に抑制され、その点でも不利であった。このため、既存の鉄道会社の1日に数本という運行本数に対し、1時間に1本程度の運行間隔を確保し、既存の鉄道会社の列車が存在しないルートに盛んに列車を運行するフリークエントサービスで、集客を図っていた。電車の機動性・軽便性を活かした頻発運転は、蒸気鉄道にはないメリットであった。
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インターアーバンの衰退は、[[第一次世界大戦]]後すぐに始まった。第一次大戦期に進められた農村の道路整備により、既にそれ以前から普及し始めていたバスや自家用車が急速に広まり、「[[モータリゼーション]]」が進展したことが原因である。[[1920年代]]のバス路線網の拡張は著しく、1920年代半ばには大陸横断を行うバス路線すら登場した。インターアーバンは軌道維持費用の自己負担など自動車にはない不利な点があった。電鉄各社が自ら[[バス (交通機関)|バス]]の経営に乗り出すことで、1920年代の末頃から路線網の廃止が急速に進んだ。
インターアーバンの衰退は、[[第一次世界大戦]]後すぐに始まった。第一次大戦期に進められた農村の道路整備により、既にそれ以前から普及し始めていたバスや自家用車が急速に広まり、「[[モータリゼーション]]」が進展したことが原因である。[[1920年代]]のバス路線網の拡張は著しく、1920年代半ばには大陸横断を行うバス路線すら登場した。インターアーバンは軌道維持費用の自己負担など自動車にはない不利な点があった。電鉄各社が自ら[[バス (交通機関)|バス]]の経営に乗り出すことで、1920年代の末頃から路線網の廃止が急速に進んだ。


[[1930年代]]、インディアナ州とオハイオ州では、インディアナ鉄道と[[シンシナティ・アンド・レイクエリー鉄道]]が、高性能車両による路線の生き残りを図った。インディアナ鉄道では、[[アルミニウム合金製の鉄道車両|アルミ合金製の軽量車両]]を導入し、平均速度を50km/hから70km/hに上げるなどの施策で存続を図ったが、利用客の減少、[[ニューディール政策]]に関連して制定された収益の上がる電力事業からの内部補助の禁止を定めた法令、道路整備などの逆境に対抗するのは容易ではなく、[[第二次世界大戦]]末期までに中西部の路線のほとんどは消え去った。[[シカゴ]]の近郊路線の[[ノース・ショアー線]]、[[サウスショアー線]]、[[オーロラ・エルジン線]]は、路線の改良を行い高速運転を可能にし(ハイスピード・インターアーバン)、通勤輸送を担った南カリフォルニアの[[パシフィック電鉄]]、貨物輸送で成功を収めたイリノイ州南部の[[イリノイ・ターミナル鉄道]]などとともに[[1950年代]]半ばになっても旅客輸送を続けていたが、これらの路線はサウスショアー線を除き、[[1960年代]]中期までにその営業を取りやめている。
[[1930年代]]、インディアナ州とオハイオ州では、インディアナ鉄道と[[シンシナティ・アンド・レイクエリー鉄道]]が、高性能車両による路線の生き残りを図った。インディアナ鉄道では、[[アルミニウム合金製の鉄道車両|アルミ合金製の軽量車両]]を導入し、平均速度を50km/hから70km/hに上げるなどの施策で存続を図ったが、利用客の減少、[[ニューディール政策]]に関連して制定された収益の上がる電力事業からの内部補助の禁止を定めた法令、道路整備などの逆境に対抗するのは容易ではなく、[[第二次世界大戦]]末期までに中西部の路線のほとんどは消え去った。[[シカゴ]]の近郊路線の[[シカゴ・ノースショアーアンド・ミルウォーキー鉄道|ノースショアー線]]、[[サウスショアー線]]、[[シカゴ・オーロラ・アンド・エルジン鉄道|オーロラ・エルジン線]]は、路線の改良を行い高速運転を可能にし(ハイスピード・インターアーバン)、通勤輸送を担った南カリフォルニアの[[パシフィック電鉄]]、貨物輸送で成功を収めたイリノイ州南部の[[イリノイ・ターミナル鉄道]]などとともに[[1950年代]]半ばになっても旅客輸送を続けていたが、これらの路線はサウスショアー線を除き、[[1960年代]]中期までにその営業を取りやめている。


==== 現在 ====
==== 現在 ====
軌道設備がしっかりとしていて、競合する通勤鉄道会社も存在しなかったサウス・ショアー線はその後も存続し、公営組織であるインディアナ通勤輸送公団 (NICTD) として現在でも営業を続けている。[[フィラデルフィア]][[南東ペンシルベニア交通局#フィラデルフィア・サブアーバン・トランスポート|ノリスタウン線]]も残存している路線の1つであるが、近郊区間だけが残存しているためにインターアーバンとしての意味は薄れてる。
軌道設備がしっかりとしていて、競合する通勤鉄道会社も存在しなかったサウス・ショアー線はその後も存続し、公営組織であるインディアナ州北部通勤輸送公団 (NICTD)<ref>{{Cite web|和書| title=米国・NICTD(インディアナ州北部通勤輸送公団)向け電車 1号車完成記念式典 | author=日本車輌製造 | url=http://www.n-sharyo.co.jp/business/tetsudo/topics/tp090302.html | accessdate=2017-12-10}}</ref>として現在でも営業を続けている。[[フィラデルフィア]][[南東ペンシルベニア交通局|SEPTA]]の{{仮リク|ノリタウン高速線|label=ノリスタウン線|en|Norristown High Speed Line}}も残存している路線の1つであるが、近郊区間だけが残存しているためにインターアーバンとしての意味は薄れており、[[1990年代]]に車両が小型電車に取り替えられたことなどから今日では[[ライトレール]]として扱われることもある。


=== 技術 ===
=== 技術 ===
初期のインターアーバンの車両に用いられた技術は、当時の最新の電気鉄道システムであった。[[架線]]電圧は[[直流電化|直流]]600[[ボルト (単位)|V]]が中心で、早くから[[ボギー車]]が用いられ、20世紀初頭以降に導入された車両は[[総括制御]]も可能であった。軌間は[[標準軌]]である1435mmが中心であるが、アメリカの市街電車では、一般鉄道線貨車の市内への侵入を防ぐために標準軌以外の軌間を採用した都市が多く、それに合わせて特殊な軌間を採用した路線もあった。
初期のインターアーバンの車両に用いられた技術は、当時の最新の電気鉄道システムであった。[[架線]]電圧は[[直流電化|直流]]600[[ボルト (単位)|V]]が中心で、早くから[[ボギー車]]が用いられ、[[20世紀]]初頭以降に導入された車両は[[総括制御]]も可能であった。軌間は[[標準軌]]である1435mmが中心であるが、アメリカの市街電車では、一般鉄道線貨車の市内への侵入を防ぐために標準軌以外の軌間を採用した都市が多く、それに合わせて特殊な軌間を採用した路線もあった。


長距離路線では変電所の運営コストが問題になったため、[[1905年]]ごろからは、送電効率の高い[[交流電化]]の採用も行われ、交流3300V・6600Vでの電化が行われた。しかし交流整流子モーターを用いる交流電車は、当時の技術では重量や[[電気車の速度制御|速度制御]]の面で問題が大きく、採用した路線は一部、導入期間は短期間に留まった。その後、交流電化と直流電化の両方のメリットを取り入れるために、直流1200V・1500Vの高圧[[直流電化]]が行われ、成功を収めた。
長距離路線では変電所の運営コストが問題になったため、[[1905年]]ごろからは、送電効率の高い[[交流電化]]の採用も行われ、交流3300V・6600Vでの電化が行われた。しかし交流整流子モーターを用いる交流電車は、当時の技術では重量や[[電気車の速度制御|速度制御]]の面で問題が大きく、採用した路線は一部、導入期間は短期間に留まった。その後、交流電化と直流電化の両方のメリットを取り入れるために、直流1200V・1500Vの高圧[[直流電化]]が行われ、成功を収めた。


速度に関しては、軌道の水準が低いことと、併用軌道が各所に存在したために、特急電車であっても蒸気機関車牽引の普通列車に比べても劣ることが多かった。インターアーバン各社は低料金のパーラーカーやフリークエントサービス、停車駅を多く設けることなどで既存の鉄道路線に対抗した。
速度に関しては、軌道の水準が低いことと、併用軌道が各所に存在したために、特急電車であっても[[蒸気機関車]]牽引の普通列車に比べても劣ることが多かった。インターアーバン各社は低料金のパーラーカーやフリークエントサービス、停車駅を多く設けることなどで既存の鉄道路線に対抗した。


車両の大きさは、車体長15-20mと路面電車と蒸気運転の鉄道の客車の中間くらいの大きさで、併用軌道区間の急カーブを連結運転で運行できるようにするために長柄の[[連結器]]と連結器の首振り幅に対応した丸みをもった前面形状を持つことが特徴であった。極めて急なカーブにも対応できたのが大きな特徴で、中西部のインターアーバンの統一規格では、直通車両に必要な曲線通過能力として連結運転時の最小通過半径35[[フィート]] (≒10.7m) を要求していた。このため、貫通路を設けることが難しく、一部の例外を除いて車両間の移動を考慮しない車両がほとんどであった。[[食堂車]]の営業を試みた会社も存在したが、車両間に貫通路がないことから列車の全乗客に食事サービスを提供することが難しいため、パーラーカー利用客への軽食のシートサービスとするか、客単価が高く食事時間も長くなることから客の入れ替えを考慮しなくてもいいフルコースの提供をするかのどちらかを選択することがほとんどであった。
車両の大きさは、車体長15-20mと路面電車と蒸気運転の鉄道の客車の中間くらいの大きさで、併用軌道区間の急カーブを連結運転で運行できるようにするために長柄の[[連結器]]と連結器の首振り幅に対応した丸みをもった前面形状を持つことが特徴であった。極めて急なカーブにも対応できたのが大きな特徴で、中西部のインターアーバンの統一規格では、直通車両に必要な曲線通過能力として連結運転時の最小通過半径35[[フィート]] (≒10.7m) を要求していた。このため、貫通路を設けることが難しく、一部の例外を除いて車両間の移動を考慮しない車両がほとんどであった。[[食堂車]]の営業を試みた会社も存在したが、車両間に貫通路がないことから列車の全乗客に食事サービスを提供することが難しいため、パーラーカー利用客への軽食のシートサービスとするか、客単価が高く食事時間も長くなることから客の入れ替えを考慮しなくてもいいフルコースの提供をするかのどちらかを選択することがほとんどであった。
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車体の外見上もう一つの特色は塗色にあり、中西部の会社の標準的な塗装であったオレンジ色に塗られた車両は、インターアーバン産業のシンボルであった。この他、プルマン寝台車の標準的塗装であるプルマングリーンの他、赤などの塗色がよく用いられた。赤色は日本ではパシフィック電鉄の塗装として有名だが、サザンパシフィック鉄道のオークランドやオレゴン州内の電車運行区間、中西部や東部の電鉄会社の塗装としても用いられ、「レッド・デビル」「レッド・アロー」といったニックネームが今に伝えられている。
車体の外見上もう一つの特色は塗色にあり、中西部の会社の標準的な塗装であったオレンジ色に塗られた車両は、インターアーバン産業のシンボルであった。この他、プルマン寝台車の標準的塗装であるプルマングリーンの他、赤などの塗色がよく用いられた。赤色は日本ではパシフィック電鉄の塗装として有名だが、サザンパシフィック鉄道のオークランドやオレゴン州内の電車運行区間、中西部や東部の電鉄会社の塗装としても用いられ、「レッド・デビル」「レッド・アロー」といったニックネームが今に伝えられている。


市街地の街路には急坂が偏在し、また盛り土や切り通しの費用を節約するために急勾配が多用され、起伏の多い地域での60[[パーミル|&permil;]]から80&permil;の急勾配は標準的であった。こうした急勾配は長くて1kmほどで、旅客列車の場合には大きな問題にならなかったが、後に貨物輸送をはじめた際には障害になることがあり、貨物列車の規模の割には大型の[[電気機関車]]を導入して対応するケースが多かった。インターアーバン路線の最急勾配は140&permil;といわれており、レールブレーキを搭載した電車で対応したという。
市街地の街路には急坂が偏在し、また盛り土や切り通しの費用を節約するために急勾配が多用され、起伏の多い地域での60[[パーミル|]]から80‰の急勾配は標準的であった。こうした急勾配は長くて1kmほどで、[[旅客列車]]の場合には大きな問題にならなかったが、後に[[貨物輸送]]をはじめた際には障害になることがあり、[[貨物列車]]の規模の割には大型の[[電気機関車]]を導入して対応するケースが多かった。インターアーバン路線の最急勾配は140‰といわれており、レールブレーキを搭載した電車で対応したという。


インターアーバンには[[寝台車 (鉄道)|寝台車]]のサービスも存在した。これらのサービスの規模は小さく、アメリカ[[鉄道の歴史|鉄道史]]の中で占める役割は大きくなかったが、電動車を利用した寝台車のサービスはことに珍しいものといえよう<ref>日本における寝台車の電車は、[[1967年]]の[[国鉄583系電車|581系電車]]が初例である。</ref>。
インターアーバンには[[寝台車 (鉄道)|寝台車]]のサービスも存在した。これらのサービスの規模は小さく、アメリカ[[鉄道の歴史|鉄道史]]の中で占める役割は大きくなかったが、電動車を利用した寝台車のサービスはことに珍しいものといえよう<ref group="注釈">日本における寝台車の電車は、[[1967年]]の[[国鉄583系電車|581系電車]]が初例である。</ref>。
[[Image:Electroliner.jpg|thumb|300px|イリノイ鉄道博物館で保存されている[[エレクトロライナー]]]]
[[Image:Electroliner.jpg|thumb|300px|イリノイ鉄道博物館で保存されている[[エレクトロライナー]]]]


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==== 東部 ====
==== 東部 ====
*[[ポートランド・ルイストン・インターアーバン]]
*[[ポートランド・ルイストン・インターアーバン]]
*[[ワシントン・ボルチモア・アナポリス電鉄]]
*[[ワシントン・ボルチモア・アンド・アナポリス電鉄]]
*[[南東ペンシルベニア交通局#フィラデルフィア・サブアーバン・トランスポート|フィラデルフィア・サブアーバン・トランスポート]]
*[[南東ペンシルベニア交通局#フィラデルフィア・サーバン・トランスポート(PST)|フィラデルフィア・サブアーバン・トランスポート]]


==== 南部/南西部 ====
==== 南部/南西部 ====
*[[テキサス電鉄]]
*{{仮リンク|テキサス電鉄|en|Texas Electric Railway}}
*[[ヒューストン・ガルベストン電鉄]]
*[[ヒューストン・ガルベストン電鉄]]


==== 中西部 ====
==== 中西部 ====
*[[イリノイ電鉄]](後に[[イリノイ・ターミナル鉄道]]に改名)
*イリノイ・トラクション・システム(後に[[イリノイ・ターミナル鉄道]]に改名)
*[[オハイオ電鉄]]
*[[オハイオ電鉄]]
*[[デトロイト市交通局#デトロイト・ユナイテッド鉄道|デトロイト・ユナイテッド鉄道]]
*[[デトロイト市交通局#デトロイト・ユナイテッド鉄道|デトロイト・ユナイテッド鉄道]]
*[[ミシガン・ユナイテッド鉄道]]
*{{仮リンク|ミシガン・ユナイテッド鉄道|en|Michigan United Railways}}
*[[シンシナティ・アンド・レイクエリー鉄道]]
*[[シンシナティ・アンド・レイクエリー鉄道]]
*{{仮リンク|インディアナ鉄道|en|Indiana Railroad}}
*[[ユニオン・トラクション]]
*[[テレホート・インディアナポリス・イースタン電鉄]]
*{{仮リンク|テレホート・インディアナポリス・アンド・イースタン・トラクション・カンパニー|en|Terre Haute, Indianapolis and Eastern Traction Company}}
*[[シカゴ・オーロラ・アンド・エルジン鉄道]](オーロラ・エルジン線)
*[[インターステート・パブリックサービス]]
*[[シカゴ・ロラエルジン鉄道]](ロラ・エルジン線)
*[[シカゴ・ノースショアー・ド・ミルウォーキー鉄道]](ノースショアー線)
*[[シカゴ・ノースショアー・ミルウォーキー鉄道]](ノースショアー線)
*[[シカゴ・サウスショア・アンド・サウス・ベンド鉄道]]([[サウスショアー線]])
*[[シカゴ・サウスショア・アンド・サウス・ベンド鉄道]]([[サウスショアー線]])
*[[アイオワ・トラクション鉄道]]
*[[アイオワ・トラクション鉄道]]
*[[シカゴ-ニューヨーク・エレクトリック・エアライン鉄道]]


==== 西部 ====
==== 西部 ====
*[[バンバーガー鉄道]]
*{{仮リンク|バンバーガー鉄道|en|Simon Bamberger#Bamberger's Interurban Railroad}}
*[[サクラメント・ノーザン鉄道]]
*{{仮リンク|サクラメント・ノーザン鉄道|en|Sacramento Northern Railway}}
*[[パシフィック電鉄]]
*[[パシフィック電鉄]]
*[[キー・システム]]
*[[キー・システム]]
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== 日本における歴史(アメリカとの比較) ==
== 日本における歴史(アメリカとの比較) ==
=== 日本における初期のインターアーバン路線 ===
=== 日本における初期のインターアーバン路線 ===
アメリカにおけるインターアーバン発達の情報は日本にも早期に伝わった。当時の日本で電気鉄道を積極的に推進していた電気技師としては[[藤岡市助]]が有名であるが、は[[工部大学校|工学寮]]電信科卒で、著名な物理学者[[ウィリアム・トムソン]]の弟子であり、電気計測機器の開発で名を馳せた物理学者[[ウィリアム・エドワード・エアトン|エアトン]]に直接教育を受けてもおり、知識の上では欧米諸国の技術者と同等以上の水準であった。また、阪神電鉄の建設に携わった[[三崎省三]]は[[スタンフォード大学]]の電気工学科で教育を受けており、アメリカのインターアーバン建設に携わった同窓には事欠かなかった。電気鉄道の隆盛を報じたアメリカの業界誌は、日本でも技術者や[[帝国大学]]で購読されており、その記事の中には日本人技術者が投稿した日本の電気鉄道の動向に関するレビューすら存在した。このため、インターアーバン建設にあたっては技術的な問題よりも、日本の交通事情や規制、経済事情に合致する路線をどう建設するかというのが大きな課題となった。
アメリカにおけるインターアーバン発達の情報は日本にも早期に伝わった。当時の日本で電気鉄道を積極的に推進していた電気技師としては[[藤岡市助]]が有名であるが、藤岡は[[工部大学校|工学寮]]電信科卒で、著名な物理学者[[ウィリアム・トムソン]]の弟子であり、電気計測機器の開発で名を馳せた物理学者[[ウィリアム・エドワード・エアトン|エアトン]]に直接教育を受けてもおり、知識の上では欧米諸国の技術者と同等以上の水準であった。また、阪神電鉄の建設に携わった[[三崎省三]]は[[スタンフォード大学]]の電気工学科で教育を受けており、アメリカのインターアーバン建設に携わった同窓には事欠かなかった。電気鉄道の隆盛を報じたアメリカの業界誌は、日本でも技術者や[[帝国大学]]で購読されており、その記事の中には日本人技術者が投稿した日本の電気鉄道の動向に関するレビューすら存在した。このため、インターアーバン建設にあたっては技術的な問題よりも、[[日本の法律]]([[規制]])、交通事情、経済事情に合致する路線をどう建設するかというのが大きな課題となった。


こうした課題を乗り越え、日本で最初にインターアーバンを開業させたのは[[阪神電気鉄道]]であった。阪神は[[大阪市|大阪]] - [[神戸市|神戸]]間の並行線開業に反対する[[鉄道省|鉄道作業局]]が所管する[[私設鉄道法]]ではなく、[[内務省 (日本)|内務省]]と鉄道作業局が共同で所管していた[[軌道条例]]に依拠し、しかも当時の内務省幹部であった[[古市公威]]から「線路のどこかが道路上にあればよかろう」との了解を得ることで、ほぼ全線を高速運転に有利な専用軌道とするという、法の抜け穴を突いた奇策によって、[[1905年]][[4月]]に大阪出入橋 - 神戸三宮間のインターアーバン路線(後の[[阪神本線|本線]])を開業している。従来の路面電車に比べ、軌道、車両ともに高規格の設備は、当時の阪神電鉄技師長であり建設時にもアメリカ視察を行った三崎省三の意向を反映したもので、建設ブームの真っ只中にあったアメリカのインターアーバンに範を採ったものであった。この阪神を前例として、同年の1905年[[12月]]には[[京浜電気鉄道]]が神奈川まで延伸、品川(東京) - 神奈川(横浜)間の都市間運行を行うようになった(後の[[京急本線|本線]])。
こうした課題を乗り越え、日本で最初にインターアーバンを開業させたのは[[阪神電気鉄道]](阪神)であった。阪神は[[大阪市|大阪]] - [[神戸市|神戸]]間の並行線開業に反対する[[鉄道省|鉄道作業局]]が所管する[[私設鉄道法]]ではなく、[[内務省 (日本)|内務省]]と鉄道作業局が共同で所管していた[[軌道条例]]に依拠し、しかも当時の内務省幹部であった[[古市公威]]から「線路のどこかが道路上にあればよかろう」との了解を得ることで、ほぼ全線を高速運転に有利な専用軌道とするという、法の抜け穴を突いた奇策によって、[[1905年]](明治38年)[[4月]]に[[出入橋駅|大阪出入橋]] - [[三宮駅|神戸三宮]]間のインターアーバン路線(後の阪神本線)を開業させた。従来の路面電車に比べ、軌道、車両ともに高規格の設備は、当時の阪神電鉄技師長であり建設時にもアメリカ視察を行った三崎の意向を反映したもので、建設ブームの真っ只中にあったアメリカのインターアーバンに範を採ったものであった。この阪神を前例として、同年[[12月]]には[[京浜電気鉄道]]が[[神奈川駅|神奈川]]まで延伸され、品川(東京) - 神奈川(横浜)間の都市間運行を行うようになった(後の京急本線)。


日本での初期のインターアーバンとしては、この他に[[1910年]]の[[名古屋電気鉄道]]郡部線(後の[[名鉄犬山線]]、[[名鉄津島線|津島線]]など)、[[京阪電気鉄道]][[京阪本線]]の事例などを挙げることができる。いずれもアメリカのインターアーバンの影響を強く受けていた。特に、名古屋電気鉄道の郡部線は小型車による短距離運行であった、やはりアメリカ視察結果([[パシフィック電鉄]]をもとに建設され、多くの事例に倣い、市街電車路線を利用して都心部に乗り入れていた<ref>市内区間は後に[[名古屋市電]]へ譲渡された。</ref>。京阪電気鉄道も路線免許の競合に由来する諸事情により同様の計画をっていたが、大阪市側の政策変更で市街電車路線([[大阪市電]])への乗り入れは実現しなかった<ref>詳細は[[市営モンロー主義]]の項を参照されたい。なお、アメリカにおいても市街路線への乗り入れは困難を伴うケースもあった。市街鉄道の線路幅が標準軌ではなく、2線式の架線を有していたシンシナティ市街への乗り入れの事例はその代表的なもの言われている。また[[デトロイト|デトロイト市]]では、市街路線の公有化により、インターアーバンの市街路線乗り入れが中止された時期が存在した。</ref>。
日本での初期のインターアーバンとしては、この他に[[1910年]](明治43年)の[[名古屋電気鉄道]]郡部線(後の[[名鉄犬山線]]、[[名鉄津島線|津島線]]など)、[[京阪電気鉄道]][[京阪本線]]の事例などを挙げることができる。いずれもアメリカのインターアーバンの影響を強く受けていた。特に郡部線は小型車による短距離運行であったものの、やはりアメリカの[[パシフィック電鉄]]での視察結果をもとに建設され、多くの事例に倣い、市街電車路線を利用して都心部に乗り入れていた<ref group="注釈">市内区間は後に[[名古屋市電]]へ譲渡された。</ref>。京阪本線も路線免許の競合に由来する諸事情により同様の計画をっていたが、大阪市側の政策変更で市街電車路線([[大阪市電]])への乗り入れは実現しなかった<ref group="注釈">詳細は[[市営モンロー主義]]の項を参照されたい。なお、アメリカにおいても市街路線への乗り入れは困難を伴うケースもあった。市街鉄道の線路幅が[[標準軌]]ではなく、2線式の[[架線]]を有していた[[シンシナティ]]市街への乗り入れはその代表的な事例れている。また[[デトロイト|デトロイト市]]では、市街路線の[[公営交通|公有化]]により、インターアーバンの市街路線乗り入れが中止された時期が存在した。</ref>。


=== 日本におけるインターアーバンの展開 ===
=== 日本におけるインターアーバンの展開 ===
これ以降も、インターアーバン的な私鉄路線の建設は盛んに行われたが、その性質は本家のアメリカのものとは徐々に乖離するようになっていった。アメリカのインターアーバンの建設が1908年を境にあまり行われなくなったのに対し、日本ではむしろそれ以降に盛んとなり、[[1930年代]]まで新規路線の開業が続いたのは、もっとも大きな相違点とえる。第一次世界大戦以降は、日本のインターアーバンはアメリカのものとは別個に、独自の発展を遂げることになった。
これ以降も、インターアーバン的な私鉄路線の建設は盛んに行われたが、その性質は本家のアメリカのものとは徐々に乖離するようになっていった。アメリカのインターアーバンの建設が1908年を境にあまり行われなくなったのに対し、日本ではむしろそれ以降に盛んとなり、[[1930年代]]まで新規路線の開業が続いたのは、もっとも大きな相違点とえる。第一次世界大戦以降は、日本のインターアーバンはアメリカのものとは別個に、独自の発展を遂げることになった。


建設時期や専用軌道区間が多く、通勤輸送が主体であるという特徴は[[ロサンゼルス]]のパシフィック電鉄などにも共通した特徴であるが、日本はアメリカのご、電気鉄道の発展期に自動車の影響をほとんど受けなかった。モータリゼーションの遅れから1930年代までバスの影響を受けず、バスが普及した1930年代以降も道路整備が貧弱であったことから、零細規模な路線を除いてはバスより優位であった。さらに[[自家用車]]に至っては[[1960年代]]まで競争相手とはならず、路線の近代化などを後年まで継続してない得のである
建設時期や専用軌道区間が多く、通勤輸送が主体であるという特徴は[[ロサンゼルス]]のパシフィック電鉄などにも共通した特徴であるが、日本はアメリカとは異なり、電気鉄道の発展期に自動車の影響をほとんど受けなかった。モータリゼーションの遅れから1930年代までバスの影響を受けず、バスが普及した1930年代以降も道路整備が貧弱であったことから、零細規模な路線を除いては鉄道がバスより優位であった。さらに[[自家用車]]に至っては[[1960年代]]まで競争相手とはならず、路線の近代化などを後年まで継続して行うとができた。


に日本のインターアーバン各社は、輸送需要の喚起を兼ねた経営多角化に積極的に取り組んだ。電鉄会社が副業として[[不動産業]]や[[遊園地]]を経営する事例はアメリカでも多くられ、駅に併設された[[市場]]([[南東ペンシルベニア交通局#ペンシルニア鉄道とレディング鉄道の近郊路線|フィラデルフィアのレディングターミナル]]など)や[[百貨店]](クリーブランドユニオン駅など)もアメリカの事例が先行するが、長期間に渡って鉄道業とに安定的な発展を成し遂げ、高い知名度を得るようになったという点で日本の事例は特異的である。
さらに日本のインターアーバン各社は、輸送需要の喚起を兼ねた経営多角化に積極的に取り組んだ。電鉄会社が副業として[[不動産業]]や[[遊園地]]を経営する事例はアメリカでも多くられ、駅に併設された[[市場]]([[南東ペンシルベニア交通局#ペンシルニア鉄道とレディング鉄道の近郊路線|フィラデルフィアのレディングターミナル]]など)や[[百貨店]](クリーブランドユニオン駅など)もアメリカの事例が先行するが、長期間に渡って鉄道業とともに安定的な発展を成し遂げ、高い知名度を得るようになったという点で日本の事例は特異的である。


電鉄企業自体が[[デベロッパー (開発業者)|ディベロッパー]]となった沿線不動産開発や、日本における鉄道駅併設型百貨店(ターミナル・デパート)経営などは、[[小林一三]]率いる阪急によって先鞭が付けられ、1930年代以降特に盛んとなり、鉄道事業本体と並んで私鉄企業の重要な収益部門へと成長していった。やがて大手電鉄企業各社は鉄道業のみに留まらず、半ば[[コングロマリット]](多角化大企業)化するという特異な発達経過をたどる。
電鉄企業自体が[[デベロッパー (開発業者)|ディベロッパー]]となった沿線不動産開発や、日本における鉄道駅併設型百貨店(ターミナル・デパート)経営などは、[[小林一三]]率いる[[阪急阪神ホールディングス|阪急]]によって先鞭が付けられ、1930年代以降特に盛んとなり、鉄道事業本体と並んで私鉄企業の重要な収益部門へと成長していった。やがて大手電鉄企業各社は鉄道業のみに留まらず、半ば[[コングロマリット]](多角化大企業)化するという特異な発達経過をたどる。


1920年代から1930年代初頭にかけ、日本における第二世代のインターアーバン路線として[[阪神急行電鉄]](現[[阪急神戸本線]])、愛知電気鉄道豊橋線(現[[名鉄名古屋本線]]神宮前以東)、[[山陽電気鉄道|神戸姫路電気鉄道]](現[[山陽電気鉄道本線]]明石以西)、[[新京阪鉄道]](現[[阪急京都本線]])、[[阪和電気鉄道]](現JR[[阪和線]])、[[小田急電鉄|小田原急行鉄道]](現[[小田急小田原線]]など)、[[東武鉄道]](現[[東武日光線]]など)、[[奈良電気鉄道]](現[[近鉄京都線]])、[[大阪電気軌道|参宮急行電鉄]](現[[近鉄大阪線]]ほか)、[[九州鉄道 (2代)|九州鉄道]](現[[西鉄天神大牟田線]])などが建設された。また関西では、[[1934年]]に[[京阪神緩行線]]が開業し、日本でも珍しい官営インターアーバンが誕生した。
1920年代から1930年代初頭にかけ、日本における第二世代のインターアーバン路線として[[阪神急行電鉄]](現[[阪急神戸本線]])、[[愛知電気鉄道]]豊橋線(現[[名鉄名古屋本線]]神宮前以東)、[[山陽電気鉄道|神戸姫路電気鉄道]](現[[山陽電気鉄道本線]]明石以西)、[[新京阪鉄道]](現[[阪急京都本線]])、[[阪和電気鉄道]](現:[[西日本旅客鉄道|JR西日本]][[阪和線]])、[[小田急電鉄|小田原急行鉄道]](現[[小田急小田原線]]など)、[[東武鉄道]](現[[東武日光線]]など)、[[奈良電気鉄道]](現[[近鉄京都線]])、[[大阪電気軌道]](現[[近鉄奈良線]]など)、[[九州鉄道 (2代)|九州鉄道]](現[[西鉄天神大牟田線]])などが建設された。また関西では、[[1934年]]に[[京阪神緩行線]]が開業し、日本でも珍しい官営インターアーバンが誕生した。


これらはいずれも直線主体の[[線形 (路線)|線形]]を備え、直流1500V電化や100ポンド級 (45-50kg) 重軌条の採用など概して高規格であり、そのなかでもレベルの高かった阪急・新京阪・阪和・参急等の関西私鉄では、当時の[[鉄道省]]([[日本国有鉄道|国鉄]])[[特別急行列車|特急列車]]の[[表定速度]]を軽く凌ぐほどの高速電車が運行されていた。阪和が運行した[[超特急]]に至っては、戦後も14年間破られない日本の表定速度記録をつくったほどである。
これらはいずれも直線主体の[[線形 (路線)|線形]]を備え、直流1,500 V電化や100ポンド級(45 - 50 kg)重軌条の採用など概して高規格であり、そのでもレベルの高かった阪急・新京阪・阪和・参急等の関西私鉄では、当時の[[鉄道省]]([[日本国有鉄道|国鉄]])[[特別急行列車|特急列車]]の[[表定速度]]を凌ぐほどの高速電車が運行されていた。阪和が運行した[[超特急]]に至っては、戦後も14年間破られない日本の表定速度記録を有したほどである。


これら日本の第二世代インターアーバン各社は[[1910年]]に改良工事を行い、専用軌道上では平均105km/hの運行を行っていたワシントン・ボルチモア・アナポリス電鉄や、[[1919年]]に[[シカゴ・L|シカゴ高架鉄道]]への直通運転をはじめたノースショアー線など、アメリカでの事例を参考にしたものとも考えられるが、同時期のアメリカでは、既存の大手幹線鉄道である[[ペンシルバニア鉄道]]と[[ニューヨーク・セントラル鉄道]]のニューヨーク近郊区間で電化が進められてもおり、いずれの事例を参考にしたかは定かでない。
これら日本の第二世代インターアーバン各社は[[1910年]]に改良工事を行い、専用軌道上では平均105 km/hの運行を行っていたワシントン・ボルチモア・アナポリス電鉄や、[[1919年]]に[[シカゴ・L|シカゴ高架鉄道]]への直通運転を開始したノースショアー線など、アメリカでの事例を参考にしたものとも考えられるが、同時期のアメリカでは、既存の大手幹線鉄道である[[ペンシルバニア鉄道]]と[[ニューヨーク・セントラル鉄道]]のニューヨーク近郊区間で電化が進められてもおり、いずれの事例を参考にしたかは定かでない。


=== 以後の影響 ===
=== 以後の影響 ===
衰退期に入っていた1920年代のアメリカのインターアーバンから日本が直接に学ぶは少なかったが、それでもなお技術的な影響は強かった。第二次世界大戦前の日本の第二世代インターアーバンはその相当部分が、[[ウェスティングハウス・エレクトリック]]、[[ゼネラル・エレクトリック]]、[[ウェスティングハウス・エア・ブレーキ]]、[[ブリル|J.G.ブリル]]、[[ボールドウィン・ロコモティブ・ワークス|ボールドウィン]]等々のアメリカの鉄道関連メーカーの技術的支配・系譜の下にあったと評しても過言ではない<ref>それ以外はイングリッシュ・エレクトリックの電動カム軸制御器や[[AEG]]の他励界磁制御による直卷電動機を用いる電力[[回生ブレーキ]]など、ヨーロッパ由来の技術が大半を占め、少なくとも戦前の日本の電気鉄道においては、基礎理論レベルからの独自開発技術は皆無に等しかった。</ref>。
衰退期に入っていた1920年代のアメリカのインターアーバンから日本が直接に学ぶことは少なかったが、それでもなお技術的な影響は強かった。第二次世界大戦前の日本の第二世代インターアーバンはその相当部分が、[[ウェスティングハウス・エレクトリック]]、[[ゼネラル・エレクトリック]]、[[ウェスティングハウス・エア・ブレーキ]]、[[ブリル|J.G.ブリル]]、[[ボールドウィン・ロコモティブ・ワークス|ボールドウィン]]等々のアメリカの鉄道関連メーカーの技術的支配・系譜の下にあったと評しても過言ではない<ref group="注釈">それ以外はイングリッシュ・エレクトリックの電動カム軸制御器や[[AEG]]の他励界磁制御による直卷電動機を用いる電力[[回生ブレーキ]]など、ヨーロッパ由来の技術が大半を占め、少なくとも戦前の日本の電気鉄道においては、基礎理論レベルからの独自開発技術は皆無に等しかった。</ref>。


こうしたアメリカの電気鉄道技術自体は、インターアーバン衰退後も主要都市の[[地下鉄]]車両などを基盤として、第二次世界大戦直後まで世界的な優位に立っており、日本で[[1950年代]]に成し遂げられた[[高性能電車|電車の高性能化]]([[カルダン駆動方式]]、[[電磁直通ブレーキ]]などの新技術導入)も、多くはアメリカの技術であった。
こうしたアメリカの電気鉄道技術自体は、インターアーバン衰退後も主要都市の[[地下鉄]]車両などを基盤として、第二次世界大戦直後まで世界的な優位に立っており、日本で[[1950年代]]に成し遂げられた[[高性能電車|電車の高性能化]]([[カルダン駆動方式]]、[[電磁直通ブレーキ]]などの新技術導入)も、多くはアメリカの技術であった。


日本のメーカは戦後まで、欧米のメーカとの提携により、その技術を吸収していた。例えば電気機器は、以下のような関係が存在した。現在でもその影響は残っている。
日本のメーカは戦後まで、欧米のメーカとの提携により、その技術を吸収していた。例えば電気機器は、以下のような関係が存在した。現在でもその影響は残っている。


*[[日立製作所]]-[[ゼネラル・エレクトリック]](提携でなく[[リバースエンジニアリング]]の特許回避が目的)
*[[日立製作所]]-[[ゼネラル・エレクトリック]](提携でなく[[リバースエンジニアリング]]の特許回避が目的)
*[[東芝]]-[[ゼネラル・エレクトリック]]
*[[東芝]]-ゼネラル・エレクトリック
*[[三菱電機]]-[[ウェスティングハウス・エレクトリック]]
*[[三菱電機]]-[[ウェスティングハウス・エレクトリック]]
*[[富士電機]]-[[シーメンス]]
*[[富士電機]]-[[シーメンス]]
*[[東洋電機製造]]-[[イングリッシュ・エレクトリック]](デッカー)(現在は[[アルストム]]に吸収)
*[[東洋電機製造]]-[[イングリッシュ・エレクトリック]](デッカー)(現在は[[アルストム]]に吸収)


大半の電機メーカーは提携先メーカー製品の完全なデッドコピー品<ref>スケッチ生産品とも呼ばれる。ただし、ウェスティングハウス・エレクトリック製電動機のデッドコピー品を東芝(芝浦製作所)が製造するなど、提携外のメーカーの製品をコピーした例も少なくない。</ref>を製造してそのノウハウの吸収に努めたが、日立製作所に限っては電動機も制御器もその最初期より独自設計の方針を打ち出していた。
大半の電機メーカーは提携先メーカー製品の完全なデッドコピー品<ref group="注釈">スケッチ生産品とも呼ばれる。ただし、ウェスティングハウス・エレクトリック製電動機のデッドコピー品を東芝(芝浦製作所)が製造するなど、提携外のメーカーの製品をコピーした例も少なくない。</ref>を製造してそのノウハウの吸収に努めたが、日立製作所に限っては電動機も制御器もその最初期より独自設計の方針を打ち出していた。


インターアーバンの系譜上にある日本の電気鉄道および電気車技術が、アメリカの影響を脱して独自性を発揮するに至るのは1950年代後半以降のことである。
インターアーバンの系譜上にある日本の電気鉄道および電気車技術が、アメリカの影響を脱して独自性を発揮するに至るのは1950年代後半以降のことである。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
* [[ライトレール]]
* [[トラムトレイン]]
* [[通勤列車]]
* [[都市高速鉄道]]
* [[インターシティ]]
* [[都市間鉄道]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Interurbans}}
*[http://www.usrail.jp/ WURE's Transport Web]:アメリカにおけるインターアーバンの歴史を中心に紹介しているサイト
*[https://www.usrail.jp/ WURE's Transport Web]:アメリカにおけるインターアーバンの歴史を中心に紹介しているサイト


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== 関連項目 ==
* [[LRT]]


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[[Category:アメリカ合衆国の鉄道]]
[[Category:アメリカ合衆国の鉄道]]
[[Category:路面電車]]
[[Category:路面電車]]

2024年3月16日 (土) 09:54時点における最新版

併用軌道を走行するインターアーバン(サウスショアー線
ウェスタン鉄道博物館に保存されているペニンシュラ鉄道のインターアーバン

インターアーバン英語: Interurban都市間電気鉄道)は、都市と都市を結ぶ電気鉄道の一体系を指す。数十km程度の都市間を結ぶ路線であり、都市内輸送を中心とする鉄道、数百kmにも及ぶ長距離路線と対比される。北米日本西ヨーロッパで普及した。

英語の発音はインタ・アーバンに近く、そこから転じて日本ではインターバンと呼ばれることもある。一部書籍ではドイツ語風のインターバーンという表記も見られるが、英語由来の単語である[注釈 1]

インターアーバンの定義[編集]

日本のインターアーバンは20世紀半ばまでに廃止されるか普通鉄道に格上げされてきたが、一部中小都市にはその特徴を色濃く残す路線が現存している。(京阪京津線滋賀県大津市

「インターアーバン」はアメリカ合衆国を発祥とする。

19世紀の最後の10年間に、アメリカ合衆国の中西部オハイオインディアナミシガンイリノイの各州)では、都市間を結ぶ電気鉄道が急速に発達した。こうした鉄道について記述したり、語ったりする場合に、「都市と都市を結ぶ電気鉄道」を意味する語「インターアーバン・エレクトリック・レイルウェイ」を略して「インターアーバン」と呼ぶようになったのがその起源である。

当時のアメリカ合衆国で、都市間を結ぶ電気鉄道には二種類が存在した。

一つは都市と農村を連絡するために建設された路面電車網がお互いに接続することで都市間のネットワーク[要曖昧さ回避]を形成したケースである。この種の路線は主としてニューイングランド地方で発達した。農村地域での短距離移動や農村から町に出る際には簡便で適切な交通機関であったが、都市間(拠点間)移動の分野では所要時間がかかりすぎてあまり実用的な存在ではなかった。

もう一つは、初めから都市間の直結を意図して建設された高速路線である。一般にインターアーバンとはこの後者の種類の鉄道を指す。

当時のアメリカ合衆国で都市間連絡を目的とした電気鉄道は以下のような特徴を持っていた。

  1. 市街地では併用軌道、郊外では専用軌道を走行する。
  2. 当初から電気鉄道として建設されたものが中心だが、蒸気機関車で運行されていた既存の路線を電化したものもある。
  3. 旅客輸送収入を主な収入源としていた。
  4. 車両はボギー車で、連結運転が行われる事もあった。
  5. 機関車よりも軽量な電車を運転するよう設計されていたため、軌道は簡便で済んだ。
  6. 所要時間と運行間隔から、50マイル (80 km) 程度離れた都市間内で最もその能力を発揮した。
  7. 1890年代から1930年代までに建設された。

上記の特徴を持つ路線をアメリカ合衆国ではインターアーバンと呼ぶことが多い。

7を除けば、これらの特徴は福井鉄道福武線京阪京津線広島電鉄宮島線・市内線、鹿児島市電谷山線など日本に現存する都市近郊路線にも共通するものがあり、また過去にこれらの特徴を持っていた都市近郊路線も多い。京王線[1]東急田園都市線大井町線[注釈 2]京急本線近鉄奈良線阪神本線山陽電気鉄道本線[2]などがある。

なお、インターアーバンの公式の定義としては、アメリカ合衆国統計局が1902年以降行っていた電気鉄道統計における区分を挙げることができる。アメリカ合衆国統計局は当初、都市間の電気鉄道と郊外の電気鉄道の全てをインターアーバンと定義し、1912年以降は会社規模によって区分をおこなった。こうした定義は、上記のようなイメージとはかけ離れた低規格の路面軌道等を含んでしまうため、路面電車やインターアーバンについての研究を行ったハーバード大学のメーソンやイリノイ大学のデュー、UCLAのヒルトンらは、より実態に即した定義を行っている。それらは上記のような、我々のイメージする定義とほぼ一致するものである。

アメリカのインターアーバン[編集]

歴史[編集]

黎明期[編集]

都市間を結ぶ電気鉄道が実用的なものになったのは1890年代の事である。電気モーターで鉄道車両を走行させる駆動システムには初期の試行錯誤はあったものの、フランク・スプレイグ (Frank Julian Sprague) が1887年に開発した吊り掛け駆動方式は、モーターの回転力を安定して車軸に伝える事を可能にし、以後半世紀にわたって電車の駆動システムの主流をなした。この結果、路面電車の急速な発展がもたらされ、やがては都市市街地以外への電車の進出をも促したのである。1893年ごろからインターアーバンの建設がはじめられ、1900年までに3000キロほどの路線が建設された。

最盛期[編集]

イリノイ鉄道博物館に保存されているシカゴ・オーロラ・アンド・エルジン鉄道のインターアーバン

インターアーバンが急速に普及したのは1901-1908年のことである。1897年にスプレイグが発明した総括制御方式により、連結された複数の電車を先頭車両からの遠隔操作で同調させて運転できるようになり、客車並みの大型の電車を連ねて輸送力を確保できるようになったこと、また19世紀最後の数年間に建設された路線の業績が好調であったことで、爆発的に路線が広まった。全米で2万4000キロの路線が建設され、オハイオ州ミシガン州インディアナ州の路線は相互に連絡して広大な路線網が築かれた。

インターアーバンの建設最盛期は1908年に終焉を迎えた。1907年に起こった恐慌の影響が甚大であった事に加え、期待していたほど利益が得られないことが徐々に判明したからである。ミネアポリスから東部に至るアメリカ北東部の隅々を結ぶ路線計画が練られていたが、そのほとんどは実現することがなかった。

インターアーバンの全盛期はその後の10年間である。当初は既存の鉄道路線に比べて格安の運賃も魅力的であったが、中西部の諸州では鉄道の普通運賃の上限を規制する法律が制定され、既存の鉄道会社とインターアーバンの運賃格差はほとんどなくなってしまった。アメリカの蒸気機関車による客車普通列車は平均40-50km/h程度で走行していたが、インターアーバンでは併用軌道が存在するために、速度は平均30-40km/h程度に抑制され、その点でも不利であった。このため、既存の鉄道会社の1日に数本という運行本数に対し、1時間に1本程度の運行間隔を確保し、既存の鉄道会社の列車が存在しないルートに盛んに列車を運行するフリークエントサービスで、集客を図っていた。電車の機動性・軽便性を活かした頻発運転は、蒸気鉄道にはないメリットであった。

衰退期[編集]

インターアーバンの衰退は、第一次世界大戦後すぐに始まった。第一次大戦期に進められた農村の道路整備により、既にそれ以前から普及し始めていたバスや自家用車が急速に広まり、「モータリゼーション」が進展したことが原因である。1920年代のバス路線網の拡張は著しく、1920年代半ばには大陸横断を行うバス路線すら登場した。インターアーバンは軌道維持費用の自己負担など自動車にはない不利な点があった。電鉄各社が自らバスの経営に乗り出すことで、1920年代の末頃から路線網の廃止が急速に進んだ。

1930年代、インディアナ州とオハイオ州では、インディアナ鉄道とシンシナティ・アンド・レイクエリー鉄道が、高性能車両による路線の生き残りを図った。インディアナ鉄道では、アルミ合金製の軽量車両を導入し、平均速度を50km/hから70km/hに上げるなどの施策で存続を図ったが、利用客の減少、ニューディール政策に関連して制定された収益の上がる電力事業からの内部補助の禁止を定めた法令、道路整備などの逆境に対抗するのは容易ではなく、第二次世界大戦末期までに中西部の路線のほとんどは消え去った。シカゴの近郊路線のノースショアー線サウスショアー線オーロラ・エルジン線は、路線の改良を行い高速運転を可能にし(ハイスピード・インターアーバン)、通勤輸送を担った南カリフォルニアのパシフィック電鉄、貨物輸送で成功を収めたイリノイ州南部のイリノイ・ターミナル鉄道などとともに1950年代半ばになっても旅客輸送を続けていたが、これらの路線はサウスショアー線を除き、1960年代中期までにその営業を取りやめている。

現在[編集]

軌道設備がしっかりとしていて、競合する通勤鉄道会社も存在しなかったサウス・ショアー線はその後も存続し、公営組織であるインディアナ州北部通勤輸送公団 (NICTD)[3]として現在でも営業を続けている。フィラデルフィアSEPTAノリスタウン線英語版も残存している路線の1つであるが、近郊区間だけが残存しているためにインターアーバンとしての意味は薄れており、1990年代に車両が小型電車に取り替えられたことなどから今日ではライトレールとして扱われることもある。

技術[編集]

初期のインターアーバンの車両に用いられた技術は、当時の最新の電気鉄道システムであった。架線電圧は直流600Vが中心で、早くからボギー車が用いられ、20世紀初頭以降に導入された車両は総括制御も可能であった。軌間は標準軌である1435mmが中心であるが、アメリカの市街電車では、一般鉄道線貨車の市内への侵入を防ぐために標準軌以外の軌間を採用した都市が多く、それに合わせて特殊な軌間を採用した路線もあった。

長距離路線では変電所の運営コストが問題になったため、1905年ごろからは、送電効率の高い交流電化の採用も行われ、交流3300V・6600Vでの電化が行われた。しかし交流整流子モーターを用いる交流電車は、当時の技術では重量や速度制御の面で問題が大きく、採用した路線は一部、導入期間は短期間に留まった。その後、交流電化と直流電化の両方のメリットを取り入れるために、直流1200V・1500Vの高圧直流電化が行われ、成功を収めた。

速度に関しては、軌道の水準が低いことと、併用軌道が各所に存在したために、特急電車であっても蒸気機関車牽引の普通列車に比べても劣ることが多かった。インターアーバン各社は低料金のパーラーカーやフリークエントサービス、停車駅を多く設けることなどで既存の鉄道路線に対抗した。

車両の大きさは、車体長15-20mと路面電車と蒸気運転の鉄道の客車の中間くらいの大きさで、併用軌道区間の急カーブを連結運転で運行できるようにするために長柄の連結器と連結器の首振り幅に対応した丸みをもった前面形状を持つことが特徴であった。極めて急なカーブにも対応できたのが大きな特徴で、中西部のインターアーバンの統一規格では、直通車両に必要な曲線通過能力として連結運転時の最小通過半径35フィート (≒10.7m) を要求していた。このため、貫通路を設けることが難しく、一部の例外を除いて車両間の移動を考慮しない車両がほとんどであった。食堂車の営業を試みた会社も存在したが、車両間に貫通路がないことから列車の全乗客に食事サービスを提供することが難しいため、パーラーカー利用客への軽食のシートサービスとするか、客単価が高く食事時間も長くなることから客の入れ替えを考慮しなくてもいいフルコースの提供をするかのどちらかを選択することがほとんどであった。

車体の外見上もう一つの特色は塗色にあり、中西部の会社の標準的な塗装であったオレンジ色に塗られた車両は、インターアーバン産業のシンボルであった。この他、プルマン寝台車の標準的塗装であるプルマングリーンの他、赤などの塗色がよく用いられた。赤色は日本ではパシフィック電鉄の塗装として有名だが、サザンパシフィック鉄道のオークランドやオレゴン州内の電車運行区間、中西部や東部の電鉄会社の塗装としても用いられ、「レッド・デビル」「レッド・アロー」といったニックネームが今に伝えられている。

市街地の街路には急坂が偏在し、また盛り土や切り通しの費用を節約するために急勾配が多用され、起伏の多い地域での60から80‰の急勾配は標準的であった。こうした急勾配は長くて1kmほどで、旅客列車の場合には大きな問題にならなかったが、後に貨物輸送をはじめた際には障害になることがあり、貨物列車の規模の割には大型の電気機関車を導入して対応するケースが多かった。インターアーバン路線の最急勾配は140‰といわれており、レールブレーキを搭載した電車で対応したという。

インターアーバンには寝台車のサービスも存在した。これらのサービスの規模は小さく、アメリカ鉄道史の中で占める役割は大きくなかったが、電動車を利用した寝台車のサービスはことに珍しいものといえよう[注釈 3]

イリノイ鉄道博物館で保存されているエレクトロライナー

主要なインターアーバン[編集]

東部[編集]

南部/南西部[編集]

中西部[編集]

西部[編集]

鉄道史上の意義[編集]

インターアーバン路線は既存の鉄道と別個のシステムとして登場したため、既存鉄道の影響を受けることが少なく、経営状態がそれほど良くなかったために増収を図る必要もあって様々な新機軸を生み出し、後の鉄道に影響を与えた。

インターアーバンは運行指令において本格的に電話を採用した最初の鉄道システムであった。インターアーバンの建設を進められた時期はグラハム・ベル電話機の特許が切れ、AT&T以外の長距離電話網が一時的に展開された時期にあたり、インターアーバンの建設を行った資本家や技術者も電話事業に強い関心を持っていた。電話による運行指令は電信のように訓練された技術者を必要とせず、人件費の節減にも役立ったことから、既存の鉄道各社にも広まることになった。

またインターアーバンのほとんどは、1時間ないしは2時間おきというように等間隔で列車を走らせていたが、ヨーロッパで類似のサービスがインターシティとして行われるようになったのは1934年で、アメリカのインターアーバンの等時間隔運転は先駆的なものであった。

インターアーバンの貨物輸送にも色々な工夫が見られ、貨物電車の運行も行われた。都市内では併用軌道を走行する必要があるために、インターアーバンの貨車には様々な工夫がなされたが、シカゴのノースショアー線は、トラック貨車に積み込んでそのまま輸送するピギーバック輸送を行っていた。後にアメリカで盛んに行われるようになるピギーバック輸送も、インターアーバンが先駆者であったのである。

日本における歴史(アメリカとの比較)[編集]

日本における初期のインターアーバン路線[編集]

アメリカにおけるインターアーバン発達の情報は日本にも早期に伝わった。当時の日本で電気鉄道を積極的に推進していた電気技師としては藤岡市助が有名であるが、藤岡は工学寮電信科卒で、著名な物理学者ウィリアム・トムソンの弟子であり、電気計測機器の開発で名を馳せた物理学者エアトンに直接教育を受けてもおり、知識の上では欧米諸国の技術者と同等以上の水準であった。また、阪神電鉄の建設に携わった三崎省三スタンフォード大学の電気工学科で教育を受けており、アメリカのインターアーバン建設に携わった同窓には事欠かなかった。電気鉄道の隆盛を報じたアメリカの業界誌は、日本でも技術者や帝国大学で購読されており、その記事の中には日本人技術者が投稿した日本の電気鉄道の動向に関するレビューすら存在した。このため、インターアーバン建設にあたっては技術的な問題よりも、日本の法律規制)、交通事情、経済事情に合致する路線をどう建設するかというのが大きな課題となった。

こうした課題を乗り越え、日本で最初にインターアーバンを開業させたのは阪神電気鉄道(阪神)であった。阪神は、大阪 - 神戸間の並行線開業に反対する鉄道作業局が所管する私設鉄道法ではなく、内務省と鉄道作業局が共同で所管していた軌道条例に依拠し、しかも当時の内務省幹部であった古市公威から「線路のどこかが道路上にあればよかろう」との了解を得ることで、ほぼ全線を高速運転に有利な専用軌道とするという、法の抜け穴を突いた奇策によって、1905年(明治38年)4月大阪出入橋 - 神戸三宮間のインターアーバン路線(後の阪神本線)を開業させた。従来の路面電車に比べ、軌道、車両ともに高規格の設備は、当時の阪神電鉄技師長であり建設時にもアメリカ視察を行った三崎の意向を反映したもので、建設ブームの真っ只中にあったアメリカのインターアーバンに範を採ったものであった。この阪神を前例として、同年12月には京浜電気鉄道神奈川まで延伸され、品川(東京) - 神奈川(横浜)間の都市間運行を行うようになった(後の京急本線)。

日本での初期のインターアーバンとしては、この他に1910年(明治43年)の名古屋電気鉄道郡部線(後の名鉄犬山線津島線など)、京阪電気鉄道京阪本線の事例などを挙げることができる。いずれもアメリカのインターアーバンの影響を強く受けていた。特に郡部線は小型車による短距離運行ではあったものの、やはりアメリカのパシフィック電鉄での視察結果をもとに建設され、多くの事例に倣い、市街電車路線を利用して都心部に乗り入れていた[注釈 4]。京阪本線も路線免許の競合に由来する諸事情により同様の計画を持っていたが、大阪市側の政策変更で市街電車路線(大阪市電)への乗り入れは実現しなかった[注釈 5]

日本におけるインターアーバンの展開[編集]

これ以降も、インターアーバン的な私鉄路線の建設は盛んに行われたが、その性質は本家のアメリカのものとは徐々に乖離するようになっていった。アメリカのインターアーバンの建設が1908年を境にあまり行われなくなったのに対し、日本ではむしろそれ以降に盛んとなり、1930年代まで新規路線の開業が続いたのは、もっとも大きな相違点といえる。第一次世界大戦以降は、日本のインターアーバンはアメリカのものとは別個に、独自の発展を遂げることになった。

建設時期や専用軌道区間が多く、通勤輸送が主体であるという特徴はロサンゼルスのパシフィック電鉄などにも共通した特徴であるが、日本はアメリカとは異なり、電気鉄道の発展期に自動車の影響をほとんど受けなかった。モータリゼーションの遅れから1930年代までバスの影響を受けず、バスが普及した1930年代以降も道路整備が貧弱であったことから、零細規模な路線を除いては鉄道がバスより優位であった。さらに自家用車に至っては1960年代まで競争相手とはならず、路線の近代化などを後年まで継続して行うことができた。

さらに日本のインターアーバン各社は、輸送需要の喚起を兼ねた経営多角化に積極的に取り組んだ。電鉄会社が副業として不動産業遊園地を経営する事例はアメリカでも多くみられ、駅に併設された市場フィラデルフィアのレディングターミナルなど)や百貨店(クリーブランドユニオン駅など)もアメリカの事例が先行するが、長期間に渡って鉄道業とともに安定的な発展を成し遂げ、高い知名度を得るようになったという点で、日本の事例は特異的である。

電鉄企業自体がディベロッパーとなった沿線不動産開発や、日本における鉄道駅併設型百貨店(ターミナル・デパート)経営などは、小林一三率いる阪急によって先鞭が付けられ、1930年代以降特に盛んとなり、鉄道事業本体と並んで私鉄企業の重要な収益部門へと成長していった。やがて大手電鉄企業各社は鉄道業のみに留まらず、半ばコングロマリット(多角化大企業)化するという特異な発達経過をたどる。

1920年代から1930年代初頭にかけ、日本における第二世代のインターアーバン路線として阪神急行電鉄(現:阪急神戸本線)、愛知電気鉄道豊橋線(現:名鉄名古屋本線神宮前以東)、神戸姫路電気鉄道(現:山陽電気鉄道本線明石以西)、新京阪鉄道(現:阪急京都本線)、阪和電気鉄道(現:JR西日本阪和線)、小田原急行鉄道(現:小田急小田原線など)、東武鉄道(現:東武日光線など)、奈良電気鉄道(現:近鉄京都線)、大阪電気軌道(現:近鉄奈良線など)、九州鉄道(現:西鉄天神大牟田線)などが建設された。また関西では、1934年京阪神緩行線が開業し、日本でも珍しい官営インターアーバンが誕生した。

これらはいずれも直線主体の線形を備え、直流1,500 V電化や100ポンド級(45 - 50 kg)重軌条の採用など概して高規格であり、その中でもレベルの高かった阪急・新京阪・阪和・参急等の関西私鉄では、当時の鉄道省国鉄特急列車表定速度を凌ぐほどの高速電車が運行されていた。阪和が運行した超特急に至っては、戦後も14年間破られない日本の表定速度記録を有したほどである。

これら日本の第二世代インターアーバン各社は1910年に改良工事を行い、専用軌道上では平均105 km/hの運行を行っていたワシントン・ボルチモア・アナポリス電鉄や、1919年シカゴ高架鉄道への直通運転を開始したノースショアー線など、アメリカでの事例を参考にしたものとも考えられるが、同時期のアメリカでは、既存の大手幹線鉄道であるペンシルバニア鉄道ニューヨーク・セントラル鉄道のニューヨーク近郊区間で電化が進められてもおり、いずれの事例を参考にしたかは定かでない。

以後の影響[編集]

衰退期に入っていた1920年代のアメリカのインターアーバンから日本が直接に学ぶことは少なかったが、それでもなお技術的な影響は強かった。第二次世界大戦前の日本の第二世代インターアーバンはその相当部分が、ウェスティングハウス・エレクトリックゼネラル・エレクトリックウェスティングハウス・エア・ブレーキJ.G.ブリルボールドウィン等々のアメリカの鉄道関連メーカーの技術的支配・系譜の下にあったと評しても過言ではない[注釈 6]

こうしたアメリカの電気鉄道技術自体は、インターアーバン衰退後も主要都市の地下鉄車両などを基盤として、第二次世界大戦直後まで世界的な優位に立っており、日本で1950年代に成し遂げられた電車の高性能化カルダン駆動方式電磁直通ブレーキなどの新技術導入)も、多くはアメリカ発の技術であった。

日本のメーカーは戦後まで、欧米のメーカとの提携により、その技術を吸収していた。例えば電気機器は、以下のような関係が存在した。現在でもその影響は残っている。

大半の電機メーカーは提携先メーカー製品の完全なデッドコピー品[注釈 7]を製造してそのノウハウの吸収に努めたが、日立製作所に限っては電動機も制御器もその最初期より独自設計の方針を打ち出していた。

インターアーバンの系譜上にある日本の電気鉄道および電気車技術が、アメリカの影響を脱して独自性を発揮するに至るのは1950年代後半以降のことである。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ そもそも、Interurban は英語で Inter(~間) urban(都市) であって、ドイツ語の「道」bahn と全く別であるから、インターバーンはドイツ語としては意味をなさない。
  2. ^ 世田谷線は軌道時代の支線を受け継ぐ
  3. ^ 日本における寝台車の電車は、1967年581系電車が初例である。
  4. ^ 市内区間は後に名古屋市電へ譲渡された。
  5. ^ 詳細は市営モンロー主義の項を参照されたい。なお、アメリカにおいても市街路線への乗り入れは困難を伴うケースもあった。市街鉄道の線路幅が標準軌ではなく、2線式の架線を有していたシンシナティ市街への乗り入れはその代表的な事例とされている。またデトロイト市では、市街路線の公有化により、インターアーバンの市街路線乗り入れが中止された時期が存在した。
  6. ^ それ以外はイングリッシュ・エレクトリックの電動カム軸制御器やAEGの他励界磁制御による直卷電動機を用いる電力回生ブレーキなど、ヨーロッパ由来の技術が大半を占め、少なくとも戦前の日本の電気鉄道においては、基礎理論レベルからの独自開発技術は皆無に等しかった。
  7. ^ スケッチ生産品とも呼ばれる。ただし、ウェスティングハウス・エレクトリック製電動機のデッドコピー品を東芝(芝浦製作所)が製造するなど、提携外のメーカーの製品をコピーした例も少なくない。

出典[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

  • WURE's Transport Web:アメリカにおけるインターアーバンの歴史を中心に紹介しているサイト