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'''董 昭'''(とう しょう、[[156年]][[236年]])は、[[中国]][[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]にかけての政治家。許遷都や[[ (三国)|魏]]建国など、曹操の政治面の基盤を作った。[[字]]は'''公仁'''。[[エン州|兗州]][[済陰郡]][[定陶県]]の人。子は董冑。弟は董訪。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏志「程郭董劉劉伝」に伝がある。
'''董 昭'''(とう しょう、[[156年]] - [[236年]])は、[[中国]][[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]にかけての政治家。[[ (人名)|字]]は'''公仁'''。[[兗州]][[済陰郡]][[定陶県]]の人。子は董冑。弟は董訪。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏志「程郭董劉劉伝」に伝がある。[[許昌市|許]]遷都や[[魏 (三国)|魏]]建国などを献策し、曹操の覇業を政略面から支えた


== 経歴 ==
== 経歴 ==
===熟練した策略家===
===熟練した策略家===
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[[孝廉]]に推挙され、[[廮陶県|{{lang|zh|廮}}陶]][[県長]]・[[柏人県|柏人]][[県令]]に任じられた。その後[[袁紹]]の参軍事となった。


界橋の戦いの時、[[鉅鹿|鉅鹿]][[太守]]の李邵や郡の上級官吏は、勢いの盛んな公孫瓚に味方しようとした。董昭は袁紹の命令で鉅鹿太守を兼ね、計略を用いて鉅鹿郡を平定し、袁紹に称賛された。魏郡でも反乱が起きて太守が殺害され、またしても董昭袁紹の命令で魏郡太守を兼ねた。魏郡には万単位の賊がいたが、董昭は離間計を用いてこれに連勝した。
界橋の戦いの時、[[鉅鹿|鉅鹿]][[太守]]の李邵や郡の上級官吏は、勢いの盛んな公孫瓚に味方しようとした。董昭は袁紹の命令で鉅鹿太守を兼ね、計略を用いて鉅鹿郡を平定し、袁紹に称賛された。[[魏郡]]でも反乱が起きて太守の栗攀が殺害され、またしても董昭袁紹の命令で魏郡太守を兼ねた。魏郡には万の賊がいたが、董昭は離間計を用いてこれを平定した。


弟が[[張バク|張邈]]の幕下であったため、張邈と不仲になった袁紹は讒言を聞き入れ、董昭を処罰しようとした。董昭は出奔し[[長安]]の朝廷に仕えようとしたが、[[張楊]]に引き止められた。兗州[[曹操]]が長安に使者を送り、その使者が張楊の領内を通過したため、張楊は董昭に対応を相談した。董昭は曹操の才能を認めていたため、誼を通じておくよう張楊に進言した。張楊はこれを受け入れ、使者の通過を許た。また張楊は、添え状を付記し便宜を図ったため、曹操と親くなった。
弟が[[張邈]]の幕下であったため、張邈と不仲になった袁紹は讒言を聞き入れ、董昭を処罰しようとした。董昭は出奔し朝廷に仕えようとしたが、[[張楊]]に引き止められた。当時兗州を治めていた[[曹操]]は張楊に使者を送り、[[長安]]へ行くため領内の通行認めてもらおうとした、張楊は許さなかった。董昭は曹操の才能を認めていたため、誼を通じておくよう張楊に進言した。張楊はこれを受け入れ、上表曹操を推薦した。


[[196年]]、[[献帝 (漢)|献帝]]が長安を脱出し東遷した際、董昭は朝廷に赴き議郎に任命された。張楊・[[韓暹]]・[[楊奉]]・[[董承]]の諸将が不仲になると、楊奉を唆し曹操を頼るよう勧め、曹操に鎮東将軍・費亭[[侯]]を得させた。この時、自身も符節令に任じられた。曹操が[[洛陽]]に到着すると、董昭は曹操に楊奉を騙して都を[[|許都]]に遷すよう進言し、献帝を許都に移す策略を提案した。曹操はその策を採用し、楊奉が遅参している間に献帝を許都に移した。献帝が曹操の庇護下に置かれると曹操に仕え、[[198年]]には河南尹となった。
[[196年]]、[[献帝 (漢)|献帝]]が長安を脱出し東遷した際、董昭は朝廷に赴き議郎に任命された。張楊・[[韓暹]]・[[楊奉]]・[[董承]]の諸将が不仲になると、楊奉を唆し曹操を頼るよう勧め、曹操に鎮東将軍・費亭[[侯]]を得させた。この時、自身も符節令に任じられた。曹操が[[洛陽]]に到着すると、董昭は曹操に楊奉を騙して許に遷よう進言し、献帝を許都に移す策略を提案した。曹操はその策を採用し、楊奉が遅参している間に献帝を許都に移した。献帝が曹操の庇護下に置かれると曹操に仕え、[[198年]]には河南尹となった。


===魏の建に尽力===
===魏の建に尽力===
旧主の張楊が部下の[[楊醜]]に殺害され、張楊の長史であった薛洪や河内太守の繆尚は袁紹を頼っていた。董昭は曹操の命令で単身入城し、説得して袁紹から曹操に鞍替えさせた。曹操は袁紹から[[冀州]][[刺史|牧]]を剥奪し、董昭を冀州牧とした。
旧主の張楊が部下の[[楊醜]]に殺害され、張楊の長史であった薛洪や[[河内郡 (河南省)|河内]]太守の繆尚は袁紹を頼っていた。董昭は曹操の命令で単身入城し、説得して袁紹から曹操に鞍替えさせた。曹操は袁紹から[[冀州]][[刺史|牧]]を剥奪し、董昭を冀州牧とした。


[[程イク|程昱]]や[[郭嘉]]と同じく[[劉備]]の危険性を見抜いていたが、曹操は進言受け入れられなかった。果たして劉備は[[徐州]]刺史車冑を殺害して反旗を翻した。曹操は劉備を撃破し、董昭を徐州牧に転任させた。
[[程昱]]や[[郭嘉]]と同じく[[劉備]]の危険性を見抜いていたが、曹操は進言受け入れなかった。果たして劉備は[[徐州]][[刺史]][[車冑]]を殺害して反旗を翻した。曹操は劉備を撃破し、董昭を徐州牧に転任させた。


袁紹軍の[[顔良]]が東郡に侵攻して来た際には、再び魏郡太守に任命された。袁紹の死後、[[袁尚]]との戦いでは敵側の魏郡太守を親族に説得・投降させ、鄴が平定されると諫議大夫に任命された。
[[顔良]]が[[東郡]]に侵攻した際、再び魏郡太守に任命された。袁紹の死後、[[袁尚]]との戦いでは敵側の魏郡太守を降させ、鄴が平定されると[[諫議大夫]]に任命された。


曹操が袁兄弟を追って[[烏桓]]へ遠征した([[白狼山の戦い]])際は、平虜・泉州の運河を整備して兵糧輸送を支援する策を立てた。これにより千秋亭侯に封じられ、郭嘉の後任として軍師祭酒に任命された。
曹操が袁兄弟を追って[[烏桓]]へ遠征した([[白狼山の戦い]])際は、平虜・泉州の運河を整備して兵糧輸送を支援する策を立てた。この功で千秋亭侯に封じられ、郭嘉の後任として軍師祭酒に任命された。


五等爵制の復活を進言した。曹操が[[九錫]]を得て魏公・魏王となったのも、全て董昭が創案したことであった。
後に董昭は五等爵制の復活を進言した。曹操が[[九錫]]を得て魏公・魏王となったのも、全て董昭が創案したことであった。


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===魏の重臣===
===魏の重臣===
[[220年]]、[[曹丕]](文帝)が魏王になると[[将作大匠]]れ、即位すると[[大鴻臚]]なった。
[[220年]]、[[曹丕]]が魏王になると[[将作大匠]]じられ、魏の初代皇帝に即位すると右郷侯・[[大鴻臚]]なった。


[[222年]]、弟が所領の一部を分け与えられ[[関内侯]]になると、自身も[[侍中]]に転じた。同時期に侍中に任命された者に[[蘇則]]がいたが、蘇則は漢王朝への忠誠心が強い人物であったため、魏建国のために働いた董昭を嫌悪した(蘇則伝)。同年、[[曹休]]・[[夏侯尚]]が[[呉 (三国)|呉]]の領内深くへ侵攻したいと求めてきた際は、突出を控えるよう進言した。それらはいずれも的を射た進言であったため、曹丕は董昭の軍略を激賞した。[[224年]]、都郷侯・[[太常]]となり、[[光禄大夫]]・[[給事中]]に転任した
[[221年]]、弟が所領の一部を分け与えられ[[関内侯]]になると、自身も[[侍中]]に転じた。同時期に侍中に任命された者に[[蘇則]]がおり、蘇則は漢王朝への忠誠心が強い人物であったため、魏建国のために働いた董昭を嫌悪した(蘇則伝)。


[[222年]]、[[夏侯尚]]らが江陵を攻めた際には、深入りは危険なのですぐに撤退させるよう進言した。これは的を射た進言であったため、曹丕は董昭の軍略を[[張良]]・[[陳平]]に匹敵すると激賞した。[[224年]]、都郷侯・[[太常]]となり、[[光禄大夫]]・[[給事中]]に転任した。
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曹丕の呉遠征に随行し、帰還後の[[226年]][[太僕]]となった。同年のうちに[[曹叡]]が即位すると、楽亭侯・[[衛尉]]になり千戸の所領を得た。子にはそのうち百戸分け与えられ、関内侯となっている。
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[[230年]]には[[司徒]]代行となり、[[232年]]には正式な司徒となった。軽浮薄の輩が世に跳梁跋扈しており、これを除くべきだと曹叡に上奏したため、多くの者が追放された<ref group="注釈"> これには[[諸葛誕]]も含まれている。</ref>。
81歳で死去し、定侯と諡された。子の董冑が後を継ぎ、太守や[[九卿]]を歴任した。


236年に81歳で死去し、定侯と諡された。子の董冑が後を継ぎ、太守や[[九卿]]を歴任した。
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==三国志演義==
==三国志演義==
小説『[[三国志演義]]』での初登場時は、献帝の洛陽帰還の時である。[[菜食主義者]]であり、飢饉の時でも血色が良いのはこのためだと、自ら語る場面がある。
小説『[[三国志演義]]』では、献帝の洛陽帰還の時に登場する。[[菜食主義者]]であり、飢饉の時でも血色が良いのはこのためだと、自ら語る場面がある。


==脚注==
== 脚注 ==
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=== 出典 ===
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2024年3月18日 (月) 11:00時点における最新版

董昭

右郷侯・司徒
出生 永寿2年(156年
兗州済陰郡定陶県
死去 青龍4年(236年
拼音 Dǒng Zhāo
公仁
諡号 定侯
主君 袁紹献帝曹操曹丕曹叡
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董 昭(とう しょう、156年 - 236年)は、中国後漢末期から三国時代にかけての政治家。公仁兗州済陰郡定陶県の人。子は董冑。弟は董訪。『三国志』魏志「程郭董劉蔣劉伝」に伝がある。遷都や建国などを献策し、曹操の覇業を政略面から支えた。

経歴

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熟練した策略家

[編集]

孝廉に推挙され、県長柏人県令に任じられた。その後袁紹の参軍事となった。

界橋の戦いの時、鉅鹿太守の李邵や郡の上級官吏は、勢いの盛んな公孫瓚に味方しようとした。董昭は袁紹の命令で鉅鹿太守を兼ね、計略を用いて鉅鹿郡を平定し、袁紹に称賛された。魏郡でも反乱が起きて太守の栗攀が殺害され、またしても董昭は袁紹の命令で魏郡太守を兼ねた。魏郡には数万の賊がいたが、董昭は離間計を用いてこれを平定した。

弟が張邈の幕下であったため、張邈と不仲になった袁紹は讒言を聞き入れ、董昭を処罰しようとした。董昭は出奔し朝廷に仕えようとしたが、張楊に引き止められた。当時兗州を治めていた曹操は張楊に使者を送り、長安へ行くため領内の通行を認めてもらおうとしたが、張楊は許さなかった。董昭は曹操の才能を認めていたため、誼を通じておくよう張楊に進言した。張楊はこれを受け入れ、上表して曹操を推薦した。

196年献帝が長安を脱出し東遷した際、董昭は朝廷に赴き議郎に任命された。張楊・韓暹楊奉董承の諸将が不仲になると、楊奉を唆し曹操を頼るよう勧め、曹操に鎮東将軍・費亭を得させた。この時、自身も符節令に任じられた。曹操が洛陽に到着すると、董昭は曹操に楊奉を騙して許に遷都するよう進言し、献帝を許都に移す策略を提案した。曹操はその策を採用し、楊奉が遅参している間に献帝を許都に移した。献帝が曹操の庇護下に置かれると曹操に仕え、198年には河南尹となった。

魏の建国に尽力

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旧主の張楊が部下の楊醜に殺害され、張楊の長史であった薛洪や河内太守の繆尚は袁紹を頼っていた。董昭は曹操の命令で単身入城し、説得して袁紹から曹操に鞍替えさせた。曹操は袁紹から冀州を剥奪し、董昭を冀州牧とした。

程昱郭嘉と同じく劉備の危険性を見抜いていたが、曹操は進言を受け入れなかった。果たして劉備は徐州刺史車冑を殺害して反旗を翻した。曹操は劉備を撃破し、董昭を徐州牧に転任させた。

顔良東郡に侵攻した際、再び魏郡太守に任命された。袁紹の死後、袁尚との戦いでは敵側の魏郡太守を降伏させ、鄴が平定されると諫議大夫に任命された。

曹操が袁兄弟を追って烏桓へ遠征した(白狼山の戦い)際は、平虜・泉州の運河を整備して兵糧輸送を支援する策を立てた。この功で千秋亭侯に封じられ、郭嘉の後任として軍師祭酒に任命された。

後に董昭は五等爵制の復活を進言した。曹操が九錫を得て魏公・魏王となったのも、全て董昭が創案したことであった。

219年関羽樊城曹仁を攻めた(樊城の戦い)際は、孫権の漢王朝臣従をわざと両陣営に知らせる計略を提案し、徐晃に実行させ、関羽を敗走させた。

魏の重臣

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220年曹丕が魏王になると将作大匠に任じられ、魏の初代皇帝に即位すると右郷侯・大鴻臚となった。

221年、弟が所領の一部を分け与えられ関内侯になると、自身も侍中に転じた。同時期に侍中に任命された者に蘇則がおり、蘇則は漢王朝への忠誠心が強い人物であったため、魏建国のために働いた董昭を嫌悪した(蘇則伝)。

222年夏侯尚らが江陵を攻めた際には、深入りは危険なのですぐに撤退させるよう進言した。これは的を射た進言であったため、曹丕は董昭の軍略を張良陳平に匹敵すると激賞した。224年、都郷侯・太常となり、光禄大夫給事中に転任した。

曹丕の呉遠征に随行し、帰還後の226年太僕となった。同年のうちに曹叡が即位すると、楽亭侯・衛尉になり千戸の所領を得た。子にはそのうち百戸が分け与えられ、関内侯となっている。

230年には司徒代行となり、232年には正式な司徒となった。軽佻浮薄の輩が世に跳梁跋扈しており、これを除くべきだと曹叡に上奏したため、多くの者が官職を追放された[注釈 1]

236年に81歳で死去し、定侯と諡された。子の董冑が後を継ぎ、太守や九卿を歴任した。

陳寿は董昭を程昱・郭嘉・劉曄蔣済と並べ、荀攸と同じく謀略に優れた策士だが、荀攸と違って徳業はなかったと評している。

三国志演義

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小説『三国志演義』では、献帝の洛陽帰還の時に登場する。菜食主義者であり、飢饉の時でも血色が良いのはこのためだと、自ら語る場面がある。

脚注

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注釈

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  1. ^ これには諸葛誕も含まれている。

出典

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