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'''刈屋 富士雄'''(かりや ふじお、[[1960年]](昭和35年)[[4月3日]] - )は、[[立飛ホールディングス]][[執行役員]]スポーツプロデューサー。[[日本放送協会]](NHK)[[アナウンサー]][[NHK解説委員室|解説委員]]を務めた

'''刈屋 富士雄'''(かりや ふじお、[[1960年]][[4月3日]] - )は、[[日本放送協会|NHK]]の元[[アナウンサー]]で現在は[[NHK解説委員室|解説委員]]である


== 人物 ==
== 人物 ==
[[静岡県立御殿場南高等学校]]を経て[[早稲田大学社会科学部]]を卒業後、[[1983年]]入局。大学では[[北ヨーロッパ|北欧]]の政治・社会制度研究の第一人者である[[比較政治学|比較政治学者]]・[[岡沢憲芙]]教授のゼミで学んだほか、漕艇部に所属し、対校8+(エイト)で当時の日本新記録を樹立した時のメンバーでもある。
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主に[[大相撲]]やオリンピック中継など[[スポーツ中継]]を担当し、NHKの看板スポーツアナの一人であるが、2005年以前には、教育、教養番組、健康情報番組のキャスターを担当していたこともある。他、ディープインパクトの三冠達成時の菊花賞レース実況も担当。
主に[[大相撲]]やオリンピック中継など[[スポーツ中継]]を担当し、NHKの看板スポーツアナの一人であるが、2005年以前には、教育、教養番組、健康情報番組のキャスターを担当していたこともある。その他、[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]]が[[シンボリルドルフ]]以来21年ぶりとなる無敗で[[中央競馬クラシック三冠|三冠]]制覇を達成した[[第66回菊花賞]]の実況も担当。若手から中堅の頃までは高校野球中継も毎大会のように担当していた


2004年、[[アテネオリンピック (2004年)|アテネオリンピック]]において、体操男子団体決勝の実況を担当し、28年ぶりの金メダルを目前にした日本チームの[[冨田洋之]]が最後の鉄棒に臨み、数々の技が決まり、フィニッシュの伸身の新月面宙返りの場面で刈屋は「伸身の新月面が描く放物線は、栄光への懸け橋だ!」と叫んだ。元々、刈屋は栄光という言葉は金メダル以外では使うべきではないと考えていたが、この時金メダルに必要な点数は8.962点であり、田が新月面の直前にコールマンを決めた時点で9.0点以上、すなわち金メダルが確定した為、「栄光への架け橋」の言葉が生まれたと後に述懐している。また、田がこの時、いつもより一回転余計に回った為、「伸身の新月面は栄光への架け橋だ」から、咄嗟に「伸身の新月面'''が描く'''栄光への架け橋だ」に変更したという。この刈屋の言葉とともに同時に冨田は着地に成功し、日本は金メダルを獲得。表彰式では「オリンピック発祥の地アテネ、その真ん中に日の丸が上がりました」と実況した。この実況は日本において「名ゼリフ」と好評を得た<ref>2004年8月18日 日刊スポーツ</ref><ref>{{cite web|url=http://london2012.nikkansports.com/column/quotations/archives/f-cl-tp0-20120708-980110.html|title=「伸身の新月面が描く放物線は、栄光への架け橋だ」|publisher=[[日刊スポーツ]]|date=2012-7-8|accessdate=2016-10-7}}</ref>。
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2005年大相撲九州場所は同時期に行われた[[フィギュアスケート]]の中継を担当する関係で[[大相撲中継]]を担当しなかったものの、「[[大相撲・幕内の全取組]]」の案内役を担当した。福岡では、[[九州|九州・沖縄地域]]のスポーツデスク担当(サブ)で、大相撲九州場所のアナウンス統括も担当した。


2006年には、[[トリノオリンピックにおけるフィギュアスケート競技]]の女子シングルの実況を担当した。この試合ではSPでほぼノーミスの内容で[[荒川静香]]が3位につけ、荒川・[[サーシャ・コーエン]]・[[イリーナ・スルツカヤ]]の上位3人全員が66点台に乗せ、1点差以内に並ぶ大接戦となった。フリーで荒川はほぼ完璧な演技をし、最終滑走者のスルツカヤの得点が出た瞬間、刈屋は「トリノの女神は荒川にキスをしました。日本の荒川静香、金メダル。アジアで初めて冬のオリンピックフィギュアスケートで頂点に立ちました」ときょとんとする荒川を映し出す映像に、その実況が重なった。この実況も「名ゼリフ」として報道がなされた<ref>2006年2月25日 日刊スポーツ</ref>。
2006年には、[[2006年トリノオリンピックのフィギュアスケート競技|トリノオリンピックフィギュアスケート競技]]の女子シングルの実況を担当した。この試合ではSPでほぼノーミスの内容で[[荒川静香]]が3位につけ、荒川・[[サーシャ・コーエン]]・[[イリーナ・スルツカヤ]]の上位3人全員が66点台に乗せ、1点差以内に並ぶ大接戦となった。フリーで荒川はほぼ完璧な演技をし、最終滑走者のスルツカヤの得点が出た瞬間、刈屋は「トリノの女神は荒川にキスをしました。日本の荒川静香、金メダル。アジアで初めて冬のオリンピックフィギュアスケートで頂点に立ちました」ときょとんとする荒川を映し出す映像に、その実況が重なった。この実況も「名ゼリフ」として報道がなされた<ref>2006年2月25日 日刊スポーツ</ref>。


[[2011年]][[6月24日]]付の人事で再び東京アナウンス室に戻り、同時に解説委員兼務となった。解説委員としての初仕事は同年[[7月8日]]の『[[時論・公論]]』。
[[2011年]]6月24日付の人事で再び東京アナウンス室に戻り、同時に解説委員兼務となった。解説委員としての初仕事は同年7月8日の『[[時論・公論]]』。


[[2017年]]の定期異動で、入局以来長年続けていたアナウンス業務から離れ、兼務していた解説委員専属となる。解説委員として『[[NHKニュースおはよう日本]]』などのニュース番組に出演した。
== 現在の出演番組 ==
* 解説委員室制作番組「[[時論公論]](スポーツ関連)
* スポーツ中継([[大相撲中継|大相撲]]、[[メジャーリーグベースボール|MLB]]、[[体操]]、[[フィギュアスケート]]、[[競馬]]、[[バレーボール]]など)


== 過去の出演番組 ==
=== 定年後 ===
[[2020年]][[4月30日]]付でNHKを定年退職した(定年延長も可能だったが、敢えて断ったという)。翌5月1日からはスポーツへの支援を幅広く手がける不動産会社の[[立飛ホールディングス]](立飛HD)に転じて執行役員スポーツプロデューサーに就任した<ref>{{Cite news2|title=NHK退局の刈屋富士雄アナが振り返る思い出/前編|newspaper=日刊スポーツ|date=2020-04-30 |url=https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202004290000668.html |agency=日刊スポーツ新聞社|accessdate=2020-04-30}}</ref>。[[アマチュア相撲]]や[[ボート競技]]、[[ウィンタースポーツ]]の競技人口増加・競技者支援に取り組みたいとの意向を持っており、手始めに、長年構想を描いていたアマチュア相撲の国際大会([[世界相撲選手権大会]]とは別の大会)を立飛HDの所有する[[アリーナ立川立飛]]で立ち上げる予定であるという<ref>{{Cite news2|title=刈屋富士雄アナ「夢にかける」今後の仕事語る/後編|newspaper=日刊スポーツ|date=2020-04-30 |url=https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202004290000669.html |agency=日刊スポーツ新聞社|accessdate=2020-05-04}}</ref>。奇しくも部下には2004年アテネオリンピックで実況を務めた体操男子団体日本代表の一員であった[[塚原直也]]がいる<ref>[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2023/09/11/kiji/20230911s00041000621000c.html 塚原直也氏 現在不動産会社勤務 上司はまさかの04年アテネ五輪で名実況残した元NHKアナ] - Sponichi Annex 2023年9月11日</ref>。
*『[[FM夕べの広場]]』(千葉局在籍時)1990年-1992年

== 相撲中継 ==
2005年大相撲九州場所は同時期に行われていたフィギュアスケートのNHK杯中継の実況任されていたことから、[[大相撲中継]]を担当しなかったものの、「[[大相撲・幕内の全取組]]」の案内役を担当した。福岡では、[[九州|九州・沖縄地域]]のスポーツデスク担当(サブ)で、大相撲九州場所のアナウンス統括も担当した。

大相撲では、2006年名古屋場所7日目の露鵬と千代大海の睨み合いの瞬間、2009年初場所千秋楽、3場所連続休場明けの朝青龍が白鵬との優勝決定戦を制し、復活の23回目の優勝決定の瞬間を、[[2012年]][[5月]]場所の、千秋楽、[[旭天鵬]]の史上最年長での幕内最高優勝の瞬間を、同年[[9月]]場所千秋楽、[[日馬富士]]が二場所連続全勝優勝で横綱昇進を確定的にした瞬間を、2013年名古屋場所14日目、稀勢の里が白鵬を寄り倒して白鵬の連勝を43でストップさせた一番を、そして2017年初場所14日目、稀勢の里が逸ノ城を寄り切って悲願の初優勝を決め、横綱昇進を確実にした一番を、翌春場所13日目、稀勢の里が致命傷となる左大胸筋の負傷を負った日馬富士戦など、幾多の名場面を実況していた。

2017年夏場所千秋楽の実況が、結果的には最後の実況となった。

== NHKアナウンサー時代の出演番組 ==
*『[[FMリクエストアワー]]』([[NHK-FM]] [[NHK千葉放送局|千葉]])
*『FM[[夕べの広場]]』(千葉局在籍時)1990年-1992年
*『[[思い出のメロディー]]』(2007年放送の第39回 大分県のある学校からの中継レポートとして担当)
*『[[思い出のメロディー]]』(2007年放送の第39回 大分県のある学校からの中継レポートとして担当)
*『サンデー健康ほっとライン』 [[BS2]] 2000年-2001年
*『サンデー健康ほっとライン』 [[BS2]] 2000年-2001年
*『ウイークエンドスペシャル 発見!世界の子育て』8回シリーズ [[BS1]] 2001年
*『ウイークエンドスペシャル 発見!世界の子育て』8回シリーズ [[BS1]] 2001年
*『教育フォーカス』 [[NHK教育]] 2002年-2003年
*『[[教育フォーカス]]』 [[NHK教育]] 2002年-2003年
*『[[ニュースで英会話]]』 [[NHK教育]] (2012年8月30日放送分の「ロンドンオリンピック特集」でゲスト出演)
*『[[ニュースで英会話]]』 [[NHK教育]] (2012年8月30日放送分の「ロンドンオリンピック特集」でゲスト出演)
*スポーツ中継([[大相撲中継|大相撲]]、[[メジャーリーグベースボール|MLB]]、[[体操]]、[[フィギュアスケート]]、[[競馬]]、[[バレーボール]]など)
*[[時論公論]](スポーツ関連)

== 著書 ==
* {{Cite book|和書|author=|title=今こそ栄光への架け橋を それでもオリンピックは素晴らしい!|publisher=海竜社|year=2020|month=6|isbn=978-4759317138|ref={{sfnref|刈屋|2020}}}}


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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{{Reflist}}
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[工藤三郎]](刈屋が目標とする先輩アナウンサー)
* [[工藤三郎]](刈屋が目標としていた先輩アナウンサー)


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* [http://cgi4.nhk.or.jp/a-room/search/detail.cgi?id=147 アナウンスルーム・刈屋富士雄]
* [http://www.wasedaclub.com/blog_detail/blog_id=5&id=40 ワセダクラブ漕艇部コラム]
* [http://www.wasedaclub.com/blog_detail/blog_id=5&id=40 ワセダクラブ漕艇部コラム]
* [http://www.1101.com/kariya/ ほぼ日刊イトイ新聞 刈屋富士雄インタビュー]
* [https://www.1101.com/kariya/ ほぼ日刊イトイ新聞 刈屋富士雄インタビュー]


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2024年3月22日 (金) 21:26時点における版

かりや ふじお
刈屋 富士雄
プロフィール
本名 刈屋 富士雄
出身地 日本の旗 日本 静岡県御殿場市
生年月日 (1960-04-03) 1960年4月3日(64歳)
最終学歴 早稲田大学社会科学部
職歴 福井千葉東京アナウンス室京都→東京アナウンス室→福岡→東京アナウンス室→G-Media出向(当初はNHK情報ネットワーク)→放送センター(解説委員兼務)
活動期間 1983年 - 2017年
ジャンル スポーツ
出演番組・活動
出演経歴 本文参照
備考
解説委員専任を経て、現在は立飛ホールディングス執行役員

刈屋 富士雄(かりや ふじお、1960年(昭和35年)4月3日 - )は、立飛ホールディングス執行役員スポーツプロデューサー。日本放送協会(NHK)アナウンサー解説委員を務めた。

人物

静岡県立御殿場南高等学校を経て早稲田大学社会科学部を卒業後、1983年入局。大学では北欧の政治・社会制度研究の第一人者である比較政治学者岡沢憲芙教授のゼミで学んだほか、漕艇部に所属し、対校8+(エイト)で当時の日本新記録を樹立した時のメンバーでもある。

主に大相撲やオリンピック中継などスポーツ中継を担当し、NHKの看板スポーツアナの一人であるが、2005年以前には、教育、教養番組、健康情報番組のキャスターを担当していたこともある。その他、ディープインパクトシンボリルドルフ以来21年ぶりとなる無敗での三冠制覇を達成した第66回菊花賞の実況も担当。若手から中堅の頃までは高校野球中継も毎大会のように担当していた。

2004年アテネオリンピックにおいて、体操男子団体決勝の実況を担当。28年ぶりの金メダルを目前にした日本チームの冨田洋之が最後の鉄棒に臨み、数々の技が決まり、フィニッシュの伸身の新月面宙返りの場面で刈屋は「伸身の新月面が描く放物線は、栄光への懸け橋だ!」と叫んだ。元々、刈屋は栄光という言葉は金メダル以外では使うべきではないと考えていたが、この時金メダルに必要な点数は8.962点であり、冨田が新月面の直前にコールマンを決めた時点で9.0点以上、すなわち金メダルが確定した為、「栄光への架け橋」の言葉が生まれたと後に述懐している。また、冨田がこの時、いつもより一回転余計に回った為、「伸身の新月面は栄光への架け橋だ」から、咄嗟に「伸身の新月面が描く放物線は栄光への架け橋だ」に変更したという。この刈屋の言葉とともに同時に冨田は着地に成功し、日本は金メダルを獲得。表彰式では「オリンピック発祥の地アテネ、その真ん中に日の丸が上がりました」と実況した。この実況は日本において「名ゼリフ」と好評を得た[1][2]

2005年11月に行われたフィギュアスケートの中継を担当する。

2006年には、トリノオリンピックフィギュアスケート競技の女子シングルの実況を担当した。この試合ではSPでほぼノーミスの内容で荒川静香が3位につけ、荒川・サーシャ・コーエンイリーナ・スルツカヤの上位3人全員が66点台に乗せ、1点差以内に並ぶ大接戦となった。フリーで荒川はほぼ完璧な演技をし、最終滑走者のスルツカヤの得点が出た瞬間、刈屋は「トリノの女神は荒川にキスをしました。日本の荒川静香、金メダル。アジアで初めて冬のオリンピックフィギュアスケートで頂点に立ちました」ときょとんとする荒川を映し出す映像に、その実況が重なった。この実況も「名ゼリフ」として報道がなされた[3]

2011年6月24日付の人事で再び東京アナウンス室に戻り、同時に解説委員兼務となった。解説委員としての初仕事は同年7月8日の『時論・公論』。

2017年の定期異動で、入局以来長年続けていたアナウンス業務から離れ、兼務していた解説委員専属となる。解説委員として『NHKニュースおはよう日本』などのニュース番組に出演した。

定年後

2020年4月30日付でNHKを定年退職した(定年延長も可能だったが、敢えて断ったという)。翌5月1日からはスポーツへの支援を幅広く手がける不動産会社の立飛ホールディングス(立飛HD)に転じて執行役員スポーツプロデューサーに就任した[4]アマチュア相撲ボート競技ウィンタースポーツの競技人口増加・競技者支援に取り組みたいとの意向を持っており、手始めに、長年構想を描いていたアマチュア相撲の国際大会(世界相撲選手権大会とは別の大会)を立飛HDの所有するアリーナ立川立飛で立ち上げる予定であるという[5]。奇しくも部下には2004年アテネオリンピックで実況を務めた体操男子団体日本代表の一員であった塚原直也がいる[6]

相撲中継

2005年大相撲九州場所は同時期に行われていたフィギュアスケートのNHK杯中継の実況を任されていたことから、大相撲中継を担当しなかったものの、「大相撲・幕内の全取組」の案内役を担当した。福岡では、九州・沖縄地域のスポーツデスク担当(サブ)で、大相撲九州場所のアナウンス統括も担当した。

大相撲では、2006年名古屋場所7日目の露鵬と千代大海の睨み合いの瞬間、2009年初場所千秋楽、3場所連続休場明けの朝青龍が白鵬との優勝決定戦を制し、復活の23回目の優勝決定の瞬間を、2012年5月場所の、千秋楽、旭天鵬の史上最年長での幕内最高優勝の瞬間を、同年9月場所千秋楽、日馬富士が二場所連続全勝優勝で横綱昇進を確定的にした瞬間を、2013年名古屋場所14日目、稀勢の里が白鵬を寄り倒して白鵬の連勝を43でストップさせた一番を、そして2017年初場所14日目、稀勢の里が逸ノ城を寄り切って悲願の初優勝を決め、横綱昇進を確実にした一番を、翌春場所13日目、稀勢の里が致命傷となる左大胸筋の負傷を負った日馬富士戦など、幾多の名場面を実況していた。

2017年夏場所千秋楽の実況が、結果的には最後の実況となった。

NHKアナウンサー時代の出演番組

著書

  • 『今こそ栄光への架け橋を それでもオリンピックは素晴らしい!』海竜社、2020年6月。ISBN 978-4759317138 

脚注

  1. ^ 2004年8月18日 日刊スポーツ
  2. ^ 「伸身の新月面が描く放物線は、栄光への架け橋だ」”. 日刊スポーツ (2012年7月8日). 2016年10月7日閲覧。
  3. ^ 2006年2月25日 日刊スポーツ
  4. ^ "NHK退局の刈屋富士雄アナが振り返る思い出/前編". 日刊スポーツ. 日刊スポーツ新聞社. 30 April 2020. 2020年4月30日閲覧
  5. ^ "刈屋富士雄アナ「夢にかける」今後の仕事語る/後編". 日刊スポーツ. 日刊スポーツ新聞社. 30 April 2020. 2020年5月4日閲覧
  6. ^ 塚原直也氏 現在不動産会社勤務 上司はまさかの04年アテネ五輪で名実況残した元NHKアナ - Sponichi Annex 2023年9月11日

関連項目

  • 工藤三郎(刈屋が目標としていた先輩アナウンサー)

外部リンク