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「カルリスタ戦争」の版間の差分

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'''カルリスタ戦争'''([[スペイン語]]・[[ガリシア語]]:'''Guerras Carlistas'''、[[バスク語]]:'''Gerra Karlistak'''、[[カタルーニャ語]]:'''Guerres Carlines''')は[[1833年]]から[[1876年]]まで3次にわたって続いた、[[スペイン]]の王位継承をめぐる戦争である。だが、王位継承戦争としての形は取りつつも戦争の実態は復古([[レジティミスム]][[カトリシズム]])か革新([[自由主義]])か、[[ナポレオン戦争]]後のスペインの新しい時代の体制をめぐる戦争でもあった。結果はいずれも自由主義的な[[イサベル2世 (スペイン女王)|イサベル2世]]派の勝利に終わった。
'''カルリスタ戦争'''([[スペイン語]]・[[ガリシア語]]:Guerras Carlistas、[[バスク語]]:Gerra Karlistak、[[カタルーニャ語]]:Guerres Carlines)[[1833年]]から[[1876年]]まで3次にわたって続いた、[[スペイン]]の王位継承をめぐる戦争である。だが、王位継承戦争としての形は取りつつも戦争の実態は近代化([[自由主義]]・[[中央集権]])か反近代化([[レジティミスム|伝統主義]][[カトリシズム|教権主義]][[フエロ|地方特権]]擁護)か、[[半島戦争]]後のスペインの新しい時代の体制をめぐる戦争でもあった。結果はいずれも前者の[[イサベル2世 (スペイン女王)|イサベル2世]]派の勝利に終わった。


== 背景 ==
== 背景 ==
[[ナポレオン戦争]]後の[[ウィーン体制]]では[[スペイン・ブルボン朝|ボルボン家]]の[[フェルナンド7世 (スペイン王)|フェルナンド7世]]がスペイン国王に復位した。フェルナンド7世は[[絶対王政]]の復活など反動的な政治を行った。それに対して[[スペイン立憲革命]]などの反発が起こったが、[[神聖同盟]]の支援で鎮圧した。[[フェルナンド7世治世下のスペイン|フェルナンド7世の絶対王政復古体制]]は[[1833年]]9月29日に彼が死去するまで続いた。
[[ナポレオン戦争]]後の[[ウィーン体制]]では[[スペイン・ブルボン朝|ボルボン家]]の[[フェルナンド7世 (スペイン王)|フェルナンド7世]]がスペイン国王に復位した。フェルナンド7世は[[スペイン1812年憲法|カディス憲法]]の破棄など反動的な政治を行った。それに対して[[スペイン立憲革命]]などの反発が起こったが、[[神聖同盟]]の支援で鎮圧した。[[フェルナンド7世治世下のスペイン|フェルナンド7世の絶対王政復古体制]]は1833年9月29日に彼が死去するまで続いた。


=== 王位継承問題 ===
=== 王位継承問題 ===
フェルナンド7世には王子がなく、幼い[[イサベル2世 (スペイン女王)|イサベル王女]]と[[ルイサ・フェルナンダ・デ・ボルボン|ルイサ・フェルナンダ]]王女がいるのみであった。1713年以来の[[サリカ法典]]を基礎とした王位継承法{{enlink|Reglamento de sucesión de 1713||es}}では後継は弟の[[カルロス・マリア・イシドロ・デ・ボルボーン|ドン・カルロス]]になるはずであった。しかし[[カルロス4世 (スペイン王)|カルロス4世]]が女子の王位継承を認める1789年の国事詔書{{enlink|Pragmática Sanción de 1789||es}}を制定しながら布告せずにいたところ、40年以上後になってフェルナンド7世が1830年の国事詔書{{enlink|Pragmatic Sanction of 1830|Pragmática Sanción de 1830}}でこれを布告した。ドン・カルロスはポルトガルに追放され、イサベルが王位継承者となった。
フェルナンド7世には王子がなく、幼い[[イサベル2世 (スペイン女王)|イサベル]]王女と[[ルイサ・フェルナンダ・デ・ボルボン|ルイサ・フェルナンダ]]王女がいるのみであった。[[サリカ法典]]を基礎とした[[1713年王位継承法]]では後継は弟の[[カルロス・マリア・イシドロ・デ・ボルボーン|ドン・カルロス]]になるはずであった。しかし[[カルロス4世 (スペイン王)|カルロス4世]]が女子の王位継承を認める{{仮リンク|国事詔書 (1789年)|label=1789年の国事詔書|es|Pragmática Sanción de 1789}}を制定しながら布告せずにいたところ、40年以上後になってフェルナンド7世が{{仮リンク|国事詔書 (1830年)|label=1830年の国事詔書|en|Pragmatic Sanction of 1830}}でこれを布告し、発効させた。ドン・カルロスはポルトガルに追放され、イサベルが王位継承者となった。


1833年9月29日にフェルナンド7世が死去すると、わずか3歳のイサベルが、摂政王太后[[マリア・クリスティーナ・デ・ボルボン|マリア・クリスティーナ]]の補佐のもと[[イサベル2世 (スペイン女王)|イサベル2世]](在位:1833年 - 1868年)として即位した。
1833年9月29日にフェルナンド7世が死去すると、わずか3歳のイサベルが、摂政王太后[[マリア・クリスティーナ・デ・ボルボン|マリア・クリスティーナ]]の補佐のもと[[イサベル2世 (スペイン女王)|イサベル2世]](在位:1833年 - 1868年)として即位した。


これを承服しない王弟ドン・カルロスは10月1日に、ポルトガルで国王即位を宣言し、カルロス5世を称した。これを受けて[[バスク地方]]と[[ナバーラ]]でカルロス支持派(カルリスタ)による反乱が起き、内戦に突入した。
これを承服しない王弟ドン・カルロスは10月1日に、ポルトガルで国王即位を宣言し、カルロス5世を称した。これを受けて[[バスク地方]]でカルロス支持派(カルリスタ)による反乱が起き、内戦に突入した。


=== 戦争の性格 ===
=== 戦争の性格 ===
カル5世は絶対君主制維持や社会制度、経済構造でも復古を唱えた。一方、イサベル女王を戴く[[マドリード]]政府は、先王の主義を改め、[[自由主義]]を標榜した。この内戦は王位継承戦争だけではなく、スペインの体制を左右する意味を帯びていた。
カル[[絶対王政]]、[[カトリック教会|教会]]、[[フエロ|地方特権]]など[[封建制|封建]]的社会制度を擁護し、経済構造でも反[[工業化]]を唱えた。一方、イサベル女王を戴く[[マドリード]]政府は、[[自由主義]]的、[[市民革命]]的、[[中央集権]]的な[[上からの改革|上からの近代化]]を標榜して自由主義者の支持を取り付けた。この内戦は王位継承戦争だけではなく、スペインの体制を左右する意味を帯びていた。


== 戦争 ==
== 戦争 ==
=== 第一次カルリスタ戦争 ===
=== 第一次カルリスタ戦争 ===
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およそ7年続いた。主戦場となったのは、[[バスク地方|バスク]]、[[アラゴン州|アラゴン]]、[[カタルーニャ]]、[[バレンシア州|バレンシア]]であった。
[[1833年]]からおよそ7年続いた。主戦場となったのは、[[バスク地方|バスク]]、[[アラゴン州|アラゴン]]、[[カタルーニャ州|カタルーニャ]]、[[バレンシア州|バレンシア]]であった。


カルロス5世を支持するカルリスタは独自の統治機関や軍隊を有し、スペインを席巻した。国土の3分の1までを勢力下におき、1837年夏には威信を高めるためにマドリード攻略を試みたほどであった。しかし、このカルリスタは統一的行動を取れず、次第に内部分裂を起こした。それが原因して徐々に勢力を減じ、[[1839年]]には降伏して、イサベルの王位が確定した。
カルロス5世を支持するカルリスタは独自の統治機関や軍隊を有し、スペインを席巻した。国土の3分の1までを勢力下におき、1837年夏には威信を高めるためにマドリード攻略を試みたほどであった。しかし、このカルリスタは統一的行動を取れず、次第に内部分裂を起こした。それが原因して徐々に勢力を減じ、[[1839年]]には降伏して、イサベルの王位が確定した。


=== 第二次カルリスタ戦争 ===
=== 第二次カルリスタ戦争 ===
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[[1846年]]から[[1849年]]まで続いた[[カタルーニャ]]の反乱でた。暴徒は[[カルロス・ルイス・デ・ボルボン (モンテモリン伯)|モンテモリン伯カルロス]]を''カルロス6世''として王位につけようとした。[[ガリシア|ガリシア]]で起きた反乱は{{仮リンク|ラモン・マリア・ナルバエス|en|Ramón María Narváez, 1st Duke of Valencia}}将軍が鎮圧した。
[[1846年]]9月から[[1849年]]5月まで続いた[[カタルーニャ州|カタルーニャ]]の反乱であり、[[ガリシア州|ガリシア]]にも飛び火した。暴徒は[[カルロス・ルイス・デ・ボルボン (モンテモリン伯)|モンテモリン伯カルロス]]を[[イサベル2世 (スペイン女王)|イサベル2世]]と結婚させ、''カルロス6世''として王位につけようとした。イサベル2世は1846年10月に[[フランスコ・デ・シース・デ・ボルボーン|フランスコ・デ・シス]]と結婚したが、反乱はその後3年も続き、死者の数は3千から1万とされる<ref>[http://necrometrics.com/wars19c.htm#2Carl Nineteenth Century Death Tolls]</ref>。ガリシアで起きた反乱は{{仮リンク|ラモン・マリア・ナルバエス|en|Ramón María Narváez, 1st Duke of Valencia}}将軍が鎮圧した。反乱後の1849年6月、カルリスタには[[恩赦]]が与えられた。

[[バスク地方]]では反乱がほとんどなかったためカウントされず、第三次カルリスタ戦争が「第二次」とされる。


=== 第三次カルリスタ戦争 ===
=== 第三次カルリスタ戦争 ===
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[[1868年]]にイサベル2世が退位しフランスへ亡命すると、コルテスは[[サヴォイア家]]の[[アマデオ1世]]即位を決定した。[[1872年]]の選挙で政権側がカルリスタ側の候補に暴力的な妨害を行い、揺さぶりを掛けた。[[カルロス・マリア・デ・ボルボーン (マドリード公)|マドリード公カルロス]]が''カルロス7世''を宣言して戦争が始まり、[[1876年]]まで続いた。
[[1868年]]にイサベル2世が退位しフランスへ亡命すると、コルテスは[[サヴォイア家]]の[[アマデオ1世 (スペイン王)|アマデオ1世]]即位を決定した。[[1872年]]の選挙で政権側がカルリスタ側の候補に暴力的な妨害を行い、揺さぶりを掛けた。[[カルロス・マリア・デ・ボルボーン (マドリード公)|マドリード公カルロス]]が''カルロス7世''をして戦争が始まり、[[1876年]]まで続いた。


=== 戦争の影響 ===
=== 戦争の影響 ===
この戦争の間、マドリードの政府では自由主義に基づいた改革が行われた。憲法の制定、教会財産の没収と売却教会の[[10分の1税]]の廃止封建的領主制度の廃止営業自由の確立などである。この改革にはブルジョワ階級の支持を得ることが目的あるが、同時に復古主義者たちの基盤を突き崩すことにもなった。この結果、スペインは近代国家としての装いを整えることになる。
この戦争の間、マドリードの政府では自由主義改革が行われた。憲法の制定、[[永代所有財産解放令|教会財産の没収と売却]]、教会の[[分の税]]の廃止封建的領主制度の廃止営業自由の確立などである。この改革にはブルジョワジーの支持を得る目的あるが、同時に伝統主義者たちの基盤を突き崩すことにもなった。この結果、スペインは近代国家としての体裁を整えることになる。


戦争後も「カルリスタ」たちは反乱を起こし、スペインの保守主義と伝統主義糾合する軸として、20世紀まで存続する
戦争後も「カルリスタ」たちは反乱を起こし、スペインの保守派の一翼担う存在として存続し続けた

しかし、1936年にドン・カルロスの男子直系が断絶すると、1713年王位継承法に従えばフェルナンド7世とドン・カルロスの弟であるカディス公[[フランシスコ・デ・パウラ・デ・ボルボン|フランシスコ・デ・パウラ]]の男子直系が王位請求者となる筈であった。しかし、彼の長男である[[フランシスコ・デ・アシース・デ・ボルボーン|フランシスコ・デ・アシス]]がイザベル2世の[[王配]]であるために[[スペイン第二共和政|共和制宣言]]によって亡命中のイザベル2世の孫である前国王[[アルフォンソ13世 (スペイン王)|アルフォンソ13世]]が王位請求者になるという矛盾した事態が発生した。このため、アルフォンソとその子孫の王位継承権を認めるか他の候補者を立てるかで「カルリスタ」たちは分裂・衰退していくことになる。


== 王位請求者系図 ==
== 王位請求者系図 ==
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*{{Legend|#fee|ブルボン=パルマ家系}}
*<span style="border:2px solid #000000;background-color:#eef;padding:2px;"> </span>:ハプスブルク=トスカーナ家系(カルロクタビスタ派)
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== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
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2024年3月24日 (日) 13:16時点における最新版

カルリスタが掲げたブルゴーニュ十字

カルリスタ戦争スペイン語ガリシア語:Guerras Carlistas、バスク語:Gerra Karlistak、カタルーニャ語:Guerres Carlines)は、1833年から1876年まで3次にわたって続いた、スペインの王位継承をめぐる戦争である。だが、王位継承戦争としての形は取りつつも戦争の実態は近代化(自由主義中央集権)か反近代化(伝統主義教権主義地方特権擁護)か、半島戦争後のスペインの新しい時代の体制をめぐる戦争でもあった。結果はいずれも前者のイサベル2世派の勝利に終わった。

背景[編集]

ナポレオン戦争後のウィーン体制ではボルボン家フェルナンド7世がスペイン国王に復位した。フェルナンド7世はカディス憲法の破棄など反動的な政治を行った。それに対してスペイン立憲革命などの反発が起こったが、神聖同盟の支援で鎮圧した。フェルナンド7世の絶対王政復古体制は1833年9月29日に彼が死去するまで続いた。

王位継承問題[編集]

フェルナンド7世には王子がなく、幼いイサベル王女とルイサ・フェルナンダ王女がいるのみであった。サリカ法典を基礎とした1713年王位継承法では後継は弟のドン・カルロスになるはずであった。しかしカルロス4世が女子の王位継承権を認める1789年の国事詔書スペイン語版を制定しながら布告せずにいたところ、40年以上後になってフェルナンド7世が1830年の国事詔書英語版でこれを布告し、発効させた。ドン・カルロスはポルトガルに追放され、イサベルが王位継承者となった。

1833年9月29日にフェルナンド7世が死去すると、わずか3歳のイサベルが、摂政王太后マリア・クリスティーナの補佐のもとイサベル2世(在位:1833年 - 1868年)として即位した。

これを承服しない王弟ドン・カルロスは10月1日に、ポルトガルで国王即位を宣言し、カルロス5世を称した。これを受けてバスク地方でカルロス支持派(カルリスタ)による反乱が起き、内戦に突入した。

戦争の性格[編集]

カルリスタは絶対王政教会地方特権などの封建的社会制度を擁護し、経済構造でも反工業化を唱えた。一方、イサベル女王を戴くマドリード政府は、自由主義的、市民革命的、中央集権的な上からの近代化を標榜して自由主義者の支持を取り付けた。この内戦は王位継承戦争だけではなく、スペインの体制を左右する意味を帯びていた。

戦争[編集]

第一次カルリスタ戦争[編集]

1833年からおよそ7年続いた。主戦場となったのは、バスクアラゴンカタルーニャバレンシアであった。

カルロス5世を支持するカルリスタは独自の統治機関や軍隊を有し、スペインを席巻した。国土の3分の1までを勢力下におき、1837年夏には威信を高めるためにマドリード攻略を試みたほどであった。しかし、このカルリスタは統一的行動を取れず、次第に内部分裂を起こした。それが原因して徐々に勢力を減じ、1839年には降伏して、イサベルの王位が確定した。

第二次カルリスタ戦争[編集]

1846年9月から1849年5月まで続いたカタルーニャの反乱であり、ガリシアにも飛び火した。暴徒はモンテモリン伯カルロスイサベル2世と結婚させ、カルロス6世として王位につけようとした。イサベル2世は1846年10月にフランシスコ・デ・アシスと結婚したが、反乱はその後3年も続き、死者の数は3千から1万とされる[1]。ガリシアで起きた反乱はラモン・マリア・ナルバエス英語版将軍が鎮圧した。反乱後の1849年6月、カルリスタには恩赦が与えられた。

バスク地方では反乱がほとんどなかったためカウントされず、第三次カルリスタ戦争が「第二次」とされる。

第三次カルリスタ戦争[編集]

1868年にイサベル2世が退位しフランスへ亡命すると、コルテスはサヴォイア家アマデオ1世即位を決定した。1872年の選挙で政権側がカルリスタ側の候補に暴力的な妨害を行い、揺さぶりを掛けた。マドリード公カルロスカルロス7世を称して戦争が始まり、1876年まで続いた。

戦争の影響[編集]

この戦争の間、マドリードの政府では自由主義的改革が行われた。憲法の制定、教会財産の没収と売却、教会の十分の一税の廃止、封建的領主制度の廃止、営業自由の確立などである。この改革にはブルジョワジーの支持を得る目的があるが、同時に伝統主義者たちの基盤を突き崩すことにもなった。この結果、スペインは近代国家としての体裁を整えることになる。

戦争後も「カルリスタ」たちは反乱を起こし、スペインの保守派の一翼を担う存在として存続し続けた。

しかし、1936年にドン・カルロスの男子直系が断絶すると、1713年王位継承法に従えばフェルナンド7世とドン・カルロスの弟であるカディス公フランシスコ・デ・パウラの男子直系が王位請求者となる筈であった。しかし、彼の長男であるフランシスコ・デ・アシスがイザベル2世の王配であるために共和制宣言によって亡命中のイザベル2世の孫である前国王アルフォンソ13世が王位請求者になるという矛盾した事態が発生した。このため、アルフォンソとその子孫の王位継承権を認めるか他の候補者を立てるかで「カルリスタ」たちは分裂・衰退していくことになる。

王位請求者系図[編集]

  •   スペイン王
  •   カルリスタ直系
  •   ブルボン=パルマ家系
  •   ハプスブルク=トスカーナ家系(カルロクタビスタ派)
  •   その他の王位請求者
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フェリペ5世
スペイン王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
カルロス3世
スペイン王
ナポリ王・シチリア王
パルマ公
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フィリッポ
パルマ公
ブルボン=パルマ家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
カルロス4世
スペイン王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フェルディナンド
パルマ公
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(長男)
フェルナンド7世
スペイン王
 
(三男)
フランシスコ・デ・パウラ
カディス公
 
(次男)
カルロス
モリナ伯
カルロス5世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ルドヴィーコ
エトルリア王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イサベル2世
スペイン女王
 
フランシスコ・デ・アシス
カディス公
 
カルロス・ルイス
モンテモリン伯
カルロス6世
 
フアン・カルロス
モンティソン伯
フアン3世
 
 
 
 
 
 
 
ミゲル1世
ポルトガル王
 
 
 
カルロ・ルドヴィーコ
エトルリア王
ルッカ公
パルマ公
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アルフォンソ12世
スペイン王
 
 
 
 
 
 
 
カルロス
マドリード公
カルロス7世
 
アルフォンソ・カルロス
サン・ハイメ公
アルフォンソ・カルロス1世
 
マリア・ダス・ネヴェス
 
 
 
 
 
 
カルロ3世
パルマ公
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アルフォンソ13世
スペイン王
 
 
 
 
 
 
 
ハイメ
マドリード公
ハイメ3世
 
ブランカ
 
レオポルト・ザルヴァトール
ハプスブルク=トスカーナ家
 
マリーア・アントーニア
 
ロベルト1世
パルマ公
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ハイメ
セゴビア公
ハイメ4世
 
 
 
フアン(3世)[2]
バルセロナ伯
フアン4世
 
 
 
アントン
カルロス9世
 
フランツ・ヨーゼフ
フランシスコ・ホセ1世
 
カール・ピウス
カルロス8世
 
ハビエル
モリナ伯
ハビエル1世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アルフォンソ
カディス公
 
ゴンサーロ
 
フアン・カルロス1世
スペイン王
 
 
 
ドミニクスペイン語版
 
 
 
 
 
 
 
 
 
カルロス・ウゴ
マドリード公
カルロス・ウゴ1世
 
シクスト・エンリケ
アランフエス公
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ルイス・アルフォンソ
 
 
 
 
 
フェリペ6世
スペイン王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
カルロス・ハビエル
マドリード公
カルロス・ハビエル2世
 

脚注[編集]

  1. ^ Nineteenth Century Death Tolls
  2. ^ 没後に「スペイン王」として追尊

関連項目[編集]