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'''唐橋 在数'''(からはし ありかず、[[文安]]5年([[1448年]]) - [[明応]]5年[[1月7日 (旧暦)|1月7日]]([[1496年]][[1月22日]]))は[[室町時代]]の[[公卿]]。[[唐橋在治|在治]]の子。[[正四位下]][[大学寮|大学頭]][[大学寮|文章博士]][[大内記]]。
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'''唐橋 在数'''(からはし ありかず)は、[[室町時代]]後期から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]にかけての[[公家]]。[[中納言|権中納言]]・[[唐橋在治]]の子。[[官位]]は[[正四位|正四位下]]・[[大学寮|大学頭]]。


== 経歴 ==
[[唐橋家]]は[[摂関家]][[九条家]]の家令であった。主人であった[[九条政基]]とは従兄弟同士であった。しかし、九条家は[[応仁の乱]]以降経済的に困窮し、執事の在数にも借金をしていたようだ。これが原因で在数と政基の中は険悪化し、九条家への出仕も止められた。明応5年(1496年)正月、在数は九条邸に押しかけて、主君政基、[[九条尚経|尚経]]父子に談判をした。これに怒った政基、尚経は在数を惨殺した。家臣とはいえ、在数は朝臣で公卿である。唐橋家の一族である[[菅原氏]]の一族は猛烈に抗議し、政基、尚経父子は勅勘を受け朝廷への出仕を止められた。
[[唐橋家]]は[[摂家|摂関家]][[九条家]]の家令であり、在数もまた「雑務執事」として九条家に仕えていたが、主人であった[[九条政基]]とは従兄弟同士でもあった。また、[[後土御門天皇]]の[[六位蔵人]]・近臣や<ref>『親長卿記』文明4年8月17日条</ref>、[[大炊御門信子|嘉楽門院]]の[[院司]]も務めていた<ref>『親長卿記』長享2年3月9日条</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=井原今朝男 |date=2012-03 |title=室町・戦国期の天皇裁判権とふたつの官僚制 |url=https://doi.org/10.15024/00000238 |journal=国立歴史民俗博物館研究報告 |ISSN=0286-7400 |publisher=国立歴史民俗博物館 |volume=178 |pages=305-329 |doi=10.15024/00000238}}</ref>。在数には自筆の短冊が複数枚現存している。


=== 九条政基父子による殺害 ===
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この頃、在数は日根荘からの[[段銭]]徴収に失敗した穴埋めのため、日根荘を抵当として[[根来寺]]から融資を受けた。だが、その返済が滞ったことから、根来寺は抵当権の実行を図り、九条家は財政上きわめて重要な所領を喪失する危機に直面することになった。この責任を、両者は押し付け合うこととなる。
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政基からすれば「九条家から委任された荘園を運用している在数が、運用のために自身で勝手に作った借金」であるが、在数からすれば「九条家からの金銭調達要求のために、自身が委任されている“九条家の日根荘”から得ようとした収入が足りなかったため、日根荘を担保に他所から借りた。困窮する九条家の財政を何とかするために必要だった借金」、根来寺にとっては「九条家の家司が九条家運営の資金を調達するために、九条家の日根荘を担保に作った借金であり、返済目処が立たないなら日根荘を渡すべし」となる。

[[明応]]5年([[1496年]])正月7日に在数は関係が険悪化し出仕を止められていた九条邸に押しかけ、政基・尚経父子に対して返済の談判をしたが、これに腹を立てた政基父子により殺害された。

=== 在数殺害後 ===
家司とはいえ、在数は[[殿上人]]として[[天皇]]に直接仕える身として大学頭・大内記の官職に任じられており、[[公卿]]に昇りうる家格を有した[[堂上家]]の当主であった。そのため唐橋家と同じく[[菅原氏|菅原姓]]の公家([[高辻長直]]など)は猛烈に抗議し、朝廷は公家間での殺人事件に対応を苦慮した。政基・尚経父子は勅勘を受け、[[朝廷 (日本)|朝廷]]への出仕を止められ九条家は家礼を持つことを禁じられた。父子への処分自体は軽微だったがその影響は少なくなく、赦免後も[[中御門宣胤]]のように九条家への不信・嫌悪から交際を断ったり、関係を離れていく公家がおり、九条家は他の摂家に比べて地位を低下させることになる。また、政基の子息・[[義堯]]が10代将軍・[[足利義稙|足利義尹(義稙)]]の[[猶子]]となったが、政基が在数の殺害で[[後土御門天皇|先帝]]の勅勘を蒙っていたこともあり、義尹は猶子の件を[[後柏原天皇]]に伺った上で決めており、在数殺害の一件は政基の晩年になってもなお尾を引いていた。

== 官歴 ==
『[[諸家伝]]』による。
* 時期不詳:給穀倉院学問料。[[文章得業生]]
* [[文明 (日本)|文明]]14年([[1482年]]) 10月2日:献策。12月:[[従五位|従五位下]]
* 文明16年([[1484年]]) 12月30日:従五位上
* 文明17年([[1485年]]) 4月10日:[[少納言]]兼[[式部省|式部少輔]][[内記|大内記]]
* 文明19年([[1487年]]) 3月15日:[[正五位|正五位下]]、[[文章博士]]
* [[長享]]3年([[1489年]]) 2月2日:[[従四位|従四位下]]
* [[延徳]]4年([[1492年]]) 正月6日:従四位上。9月21日:[[大学寮|大学頭]]
* [[明応]]3年([[1494年]]) 正月6日:[[正四位|正四位下]]
* 明応5年([[1496年]]) 正月7日:[[崩御#卒去|卒去]]

== 系譜 ==
*父:[[唐橋在治]] - [[高辻長直]]の前任の[[北野の長者]]、[[九条政忠]]・[[九条政基|政基]]兄弟の家督争いでは政基の擁立に奔走した。
*母:不詳
*生母不詳の子女
**男子:[[唐橋在名]](ありな)
**男子:[[薄以緒]](1494-1555) - [[薄以量]]の養子
*孫:[[唐橋在通]](ありみち)- [[一色氏]]に[[養子縁組|養子]]へ行き、一色昭孝(いっしき あきたか)として[[足利義昭]]より[[偏諱]]の授与を受ける。昭孝は後に[[唐橋家|唐橋]]に復姓し、名を在通と変えた{{refnest|group=注釈|『[[寛政譜]]』には次男とされているが、『唐橋家譜』では在名の子としており、年代的に考えても在名の子が正しいと考えられる。}}。

== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=正宗敦夫 |author-link=正宗敦夫 |title=諸家傳 |publisher=日本古典全集刊行會 |year=1939 |series=日本古典全集 |NCID=BN06164968 |ref=harv}}

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2024年3月31日 (日) 17:12時点における最新版

 
唐橋在数
時代 室町時代後期 - 戦国時代
生誕 文安5年(1448年
死没 明応5年1月7日1496年1月22日
官位 正四位下大学頭
主君 後花園天皇後土御門天皇
九条政基
氏族 唐橋家
父母 父:唐橋在治
兄弟 在数白川富秀
在名薄以緒
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唐橋 在数(からはし ありかず)は、室町時代後期から戦国時代にかけての公家権中納言唐橋在治の子。官位正四位下大学頭

経歴

[編集]

唐橋家摂関家九条家の家令であり、在数もまた「雑務執事」として九条家に仕えていたが、主人であった九条政基とは従兄弟同士でもあった。また、後土御門天皇六位蔵人・近臣や[1]嘉楽門院院司も務めていた[2][3]。在数には自筆の短冊が複数枚現存している。

九条政基父子による殺害

[編集]

応仁の乱中、九条政基は近江国の坂本に避難していたが、公事用途200貫文を家司・在数に立て替えてもらい、その借銭の棒引きの条件として、文明4年(1472年)に残り少ない家領のなかから和泉国日根荘入山田(いりやまだ)村の年貢を息子・尚経の代まで在数に引き渡す約定となった。このように九条家の財政が破綻状態にあったことに加え、延徳元年(1489年)に在数の父・在治が死去すると、自らが直接九条家の家政を執ろうとする政基と、父の地位を継いで九条家家政を握ろうとする在数の対立に発展した。

この頃、在数は日根荘からの段銭徴収に失敗した穴埋めのため、日根荘を抵当として根来寺から融資を受けた。だが、その返済が滞ったことから、根来寺は抵当権の実行を図り、九条家は財政上きわめて重要な所領を喪失する危機に直面することになった。この責任を、両者は押し付け合うこととなる。

政基からすれば「九条家から委任された荘園を運用している在数が、運用のために自身で勝手に作った借金」であるが、在数からすれば「九条家からの金銭調達要求のために、自身が委任されている“九条家の日根荘”から得ようとした収入が足りなかったため、日根荘を担保に他所から借りた。困窮する九条家の財政を何とかするために必要だった借金」、根来寺にとっては「九条家の家司が九条家運営の資金を調達するために、九条家の日根荘を担保に作った借金であり、返済目処が立たないなら日根荘を渡すべし」となる。

明応5年(1496年)正月7日に在数は関係が険悪化し出仕を止められていた九条邸に押しかけ、政基・尚経父子に対して返済の談判をしたが、これに腹を立てた政基父子により殺害された。

在数殺害後

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家司とはいえ、在数は殿上人として天皇に直接仕える身として大学頭・大内記の官職に任じられており、公卿に昇りうる家格を有した堂上家の当主であった。そのため唐橋家と同じく菅原姓の公家(高辻長直など)は猛烈に抗議し、朝廷は公家間での殺人事件に対応を苦慮した。政基・尚経父子は勅勘を受け、朝廷への出仕を止められ九条家は家礼を持つことを禁じられた。父子への処分自体は軽微だったがその影響は少なくなく、赦免後も中御門宣胤のように九条家への不信・嫌悪から交際を断ったり、関係を離れていく公家がおり、九条家は他の摂家に比べて地位を低下させることになる。また、政基の子息・義堯が10代将軍・足利義尹(義稙)猶子となったが、政基が在数の殺害で先帝の勅勘を蒙っていたこともあり、義尹は猶子の件を後柏原天皇に伺った上で決めており、在数殺害の一件は政基の晩年になってもなお尾を引いていた。

官歴

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諸家伝』による。

系譜

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脚注

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注釈

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  1. ^ 寛政譜』には次男とされているが、『唐橋家譜』では在名の子としており、年代的に考えても在名の子が正しいと考えられる。

出典

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  1. ^ 『親長卿記』文明4年8月17日条
  2. ^ 『親長卿記』長享2年3月9日条
  3. ^ 井原今朝男「室町・戦国期の天皇裁判権とふたつの官僚制」『国立歴史民俗博物館研究報告』第178巻、国立歴史民俗博物館、2012年3月、305-329頁、doi:10.15024/00000238ISSN 0286-7400 

参考文献

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