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'''姚 伷'''(よう ちゅう)は、[[中国]][[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]の政治家。[[字]]は'''子緒'''。[[益州]][[巴西郡]][[閬中市|閬中県]]の人。


== 概要 ==
== 事績 ==
[[劉備]]が益州を平定した後、曹書佐に任命された。
[[劉備]]が益州を平定した後、曹書佐に任命された。


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[[建興 (蜀)|建興]]元年([[223年]])、[[広漢郡|広漢]][[太守]]となった。同郡の[[龔禄]]と並んで名声を博しており、[[張嶷]]と親しく交わっていた。


建興5年([[227年]])、[[諸葛亮]]が[[漢中郡|漢中]]に駐屯した際、諸葛亮に召し寄せられ丞相掾となった。
建興5年([[227年]])、[[諸葛亮]]が[[漢中郡|漢中]]に駐屯した際、召し寄せられ丞相掾となった。


任に着くと文武双方に秀でる有益な人材を推挙した、諸葛亮は賞賛して「人材を推挙することほど忠義で利益になることはない。人材を推挙する場合は、誰しも自分の好む分野にだけ熱心となるが、掾の姚伷は文武両面使える人材を増やしてくれる。幅の広い正しい人物と言って。願わく、他の掾各々そのことを心がけ、期待に応えるように」とった。
文武に秀で人材を推挙したので、諸葛亮は賞賛して「人材を推挙すること以上に国家の益になることはない。人材を推挙するは、誰しも自分の好む分野にだけ熱心となるが、姚伷は文武双方優秀な人材を増やしてくれている。博雅であると言。願わく、他の掾たちのことを心がけ、期待に応えるように」と語った。その後、参軍となった。
その後、参軍に昇進した。


諸葛亮の死後、次第に昇進して[[尚書]]僕射となった。当時の人々はの誠実さと純粋さに服していたという。
諸葛亮の死後昇進を続け、[[尚書省|尚書]][[僕射]]まで至った。人々は姚伷の誠実さと純粋さに服していたという。


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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
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*「[[三国志 (歴史書)|正史 三国志]] 5 蜀書」([[陳寿]] 著、[[裴松之]] 注、井波律子 訳)ちくま学芸文庫 ISBN 4-480-08045-7


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[[Category:劉備軍の人物]]
[[Category:蜀漢の人物]]
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[[Category:242年没]]
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[[Category:三国志の登場人物]]

2024年4月1日 (月) 08:00時点における最新版

姚伷
蜀漢
尚書僕射
出生 生年不明
益州巴西郡閬中県
死去 延熙5年(242年
拼音 Yáo Zhòu
子緒
主君 劉備劉禅
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姚 伷(よう ちゅう)は、中国後漢末期から三国時代の政治家。子緒益州巴西郡閬中県の人。

事績

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劉備が益州を平定した後、工曹書佐に任命された。

建興元年(223年)、広漢太守となった。同郡の龔禄と並んで名声を博しており、張嶷と親しく交わっていた。

建興5年(227年)、諸葛亮漢中に駐屯した際、召し寄せられて丞相掾となった。

文武に秀でた人材を推挙したので、諸葛亮は賞賛して「人材を推挙すること以上に国家の益になることはない。人材を推挙する者は、誰しも自分の好む分野にだけ熱心となるが、姚伷は文武双方で優秀な人材を増やしてくれている。博雅であると言えよう。願わくば、他の掾たちもこのことを心がけ、期待に応えるように」と語った。その後、参軍となった。

諸葛亮の死後も昇進を続け、尚書僕射まで至った。人々は姚伷の誠実さと純粋さに敬服していたという。

延熙5年(242年)に死去した。

参考文献

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