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{{三国志の人物
'''魯 淑'''(ろ しゅく、[[217年]]か[[218年]]-[[274年]])は、[[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[呉 (三国)|呉]]の[[武将]]。[[魯粛]]の子。
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'''魯 淑'''(ろ しゅく)は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[呉 (三国)|呉]]の武将。[[本貫]]は[[徐州]][[下邳郡|下邳国]]東城県<ref>『三国志』魯粛伝記載の、魯粛の本貫は[[臨淮郡]]。ただし当時、臨淮郡は置かれておらず、東城県は下邳国に属す。[[范曄]]『[[後漢書]]』下邳恵王衍伝より。[[s:zh:後漢書/卷50#下邳惠王衍]]</ref>。


== 生涯 ==
遺腹の子という記述が正しければ、魯粛の死後に生まれたのであろう。彼が成人した際、濡須都督の[[張承]]は、彼が何時しか自分と同じ職に就くだろうと予言した。
『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』呉書に伝のある[[魯粛]]の遺腹の子。壮年にして濡須督の[[張承 (孫呉)|張承]]から、自身と同じ職に至るだろうと評価された。


[[永安 (呉)|永安]]年間([[258年]] - [[264年]])に昭武将軍・都亭侯・[[武昌区|武昌]]督<ref>『三国志』呉書 [[呂岱]]伝によると、武昌督は右部督・左部督に分かれていたが、魯淑が左右どちらに就いたかは不明。[[s:zh:三國志/卷60#呂岱]]</ref>となる。[[建衡]]年間([[269年]] - [[271年]])に仮節を授かり、[[漢口|夏口]]督に移った。任地にあっては厳整で、地方を正す才を有していた。
父と同じく呉に仕え、昭武将軍に任じられた。さらに都亭侯に封じられ、[[武昌]]の督、[[夏口]]の督などを歴任し、[[魏 (三国)|魏]]や[[西晋|晋]]との最前線を守備した。


[[鳳凰 (呉)|鳳凰]]2年([[273年]])7月、[[西晋]]の領地である[[弋陽郡|弋陽]]を包囲したが、[[王渾]]によって撃ち破られた<ref>[[房玄齢]]等『[[晋書]]』世祖武帝紀より。なお、同書王渾伝ではこの時、魯淑に連動して[[薛瑩]]が新息に侵攻し、王渾により撃ち破られたのは薛瑩としている。</ref>。
任地ではどこでも厳正な政治を行い、事を処理してゆく能力があったという。


[[鳳凰 (呉)|鳳凰]]3年([[274年]])に死去した
鳳凰3年([[274年]])に死去。子の魯睦が爵位と兵馬を継いだ


== 出典 ==
小説『[[三国志演義]]』には記述が無い人物である。
*[[陳寿]]撰、[[裴松之]]注『三国志』呉書 魯粛伝 [[s:zh:三國志/卷54#魯肅]]

== 脚注 ==
<references />


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[[Category:三国志の登場人物]]
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[[Category:274年没]]
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[[zh:魯淑]]

2024年4月9日 (火) 05:22時点における最新版

魯淑

昭武将軍・都亭侯・夏口督
出生 建安22年(217年)?[1]
徐州下邳国東城県
死去 鳳凰3年(274年
拼音 lǔ shū
主君 孫休孫皓
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魯 淑(ろ しゅく)は、中国三国時代の武将。本貫徐州下邳国東城県[2]

生涯

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三国志』呉書に伝のある魯粛の遺腹の子。壮年にして濡須督の張承から、自身と同じ職に至るだろうと評価された。

永安年間(258年 - 264年)に昭武将軍・都亭侯・武昌[3]となる。建衡年間(269年 - 271年)に仮節を授かり、夏口督に移った。任地にあっては厳整で、地方を正す才を有していた。

鳳凰2年(273年)7月、西晋の領地である弋陽を包囲したが、王渾によって撃ち破られた[4]

鳳凰3年(274年)に死去。子の魯睦が爵位と兵馬を継いだ。

出典

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脚注

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  1. ^ 魯粛の遺腹の子であり、魯粛の没年が建安22年。すなわち建安23年(218年)生の可能性もある。
  2. ^ 『三国志』魯粛伝記載の、魯粛の本貫は臨淮郡。ただし当時、臨淮郡は置かれておらず、東城県は下邳国に属す。范曄後漢書』下邳恵王衍伝より。s:zh:後漢書/卷50#下邳惠王衍
  3. ^ 『三国志』呉書 呂岱伝によると、武昌督は右部督・左部督に分かれていたが、魯淑が左右どちらに就いたかは不明。s:zh:三國志/卷60#呂岱
  4. ^ 房玄齢等『晋書』世祖武帝紀より。なお、同書王渾伝ではこの時、魯淑に連動して薛瑩が新息に侵攻し、王渾により撃ち破られたのは薛瑩としている。