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{{古代中国の人物
[[ファイル:Huo guang.jpg|thumb|right|180px|霍光([[三才図会]]より)]]
|名前 = 霍光
'''霍 光'''(かく こう、? - [[紀元前68年]]は、[[前漢]]の政治家。[[昭帝 (漢)|昭帝]]・[[宣帝 (漢)|宣帝]]の2代を補佐し政治を取り仕切った。[[霍去病]]の異母弟。[[]]は子孟(しもう)
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|説明 = 霍光([[三才図会]]より)
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|出生 = 不詳
|出身地 =
|死去 = [[地節]]2年([[紀元前68年]])
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'''霍 光'''(かく こう、? - [[地節]]2年[[3月8日 (旧暦)|3月8日]]([[紀元前68年]][[4月21日]]))は、[[前漢]]の政治家。[[字 (人名)|字]]は'''子孟'''。[[昭帝 (漢)|昭帝]]・[[宣帝 (漢)|宣帝]]の2代を補佐し政治を取り仕切った。霍仲孺の子で[[霍去病]]の異母弟。[[霍禹]]・[[霍成君]]の父。[[上官皇后]]の母方の祖父


==略歴==
== 略歴 ==
[[武帝 (漢)|武帝]]に仕の信任が厚かった。[[紀元前87年]]に武帝が亡くなるとき、まだ8歳の幼い皇帝([[昭帝 (漢)|昭帝]])の補佐が出来る人物は霍光以外に居ないと思い、霍光を[[大司馬]][[大将軍]]に任じて[[金日テイ|金日{{Lang|zh|}}]](きんじつてい)・[[上官桀]]と共にこれを補佐させた。
[[武帝 (漢)|武帝]]の[[皇后]]の[[衛子夫]]の甥あたる名将霍去病の異母弟という縁で出武帝の信任が厚く霍去病の死後も順調に出世した。[[後元]]2年([[紀元前87年]]に武帝が亡くなるとき、まだ8歳の幼い皇帝昭帝の補佐が出来る人物は霍光以外に居ないと思い、霍光を[[大司馬]][[大将軍]]に任じて[[金日磾]]・[[上官桀]]と共にこれを補佐させた。


しかし、のちに霍光と上官桀は対立するようになった。上官桀は昭帝の兄であるのに帝位につけなかったことを恨みに思っていた燕王[[劉旦]]、霍光と財政政策などで対立していた[[桑弘羊]]らと謀を巡らせて、昭帝に霍光を廃することを讒言したが、昭帝は取り合わなかった。そのため兵を伏せ、霍光を討ち昭帝を廃する企てを起こしたが、事は露見、燕王は自殺し、上官桀らは誅殺された。上官桀の一族で生き残ったのは皇后[[上官皇后|上官氏]]のみであった。
しかし、のちに霍光と上官桀は対立するようになった。上官桀は昭帝の兄であるのに帝位につけなかったことを恨みに思っていた燕王[[劉旦]]、霍光と財政政策などで対立していた[[桑弘羊]]らと謀を巡らせて、昭帝に霍光を廃することを讒言したが、昭帝は取り合わなかった。そのため兵を伏せ、霍光を討ち昭帝を廃する企てを起こしたが、事は露見、燕王劉旦は自殺し、上官桀らは誅殺された。上官桀の一族で生き残ったのは皇后上官氏(母が霍光の娘)のみであった。


昭帝が成人してからも霍光への信任は厚く、治世13年の間すべて政治を霍光に取り仕切らせた。
昭帝が成人してからも霍光への信任は厚く、治世13年の間すべて政治を霍光に取り仕切らせた。


[[紀元前74年]]、子のないまま昭帝が亡くなると、霍光は昌邑王[[劉賀]]を帝位につけた。しかし行いが酷いとしてわずか27日で廃し、代わりに武帝の曾孫の[[宣帝 (漢)|宣帝]]が帝位についた。霍光は引き続き大司馬大将軍として漢の政治を一任されていたが、[[紀元前68年]]に亡くなった。
[[元平]]元年([[紀元前74年]]、子のないまま昭帝が亡くなると、霍光は武帝の孫で昭帝の甥にあたる昌邑王[[劉賀]]を帝位につけた。しかし行いが酷いとしてわずか27日で廃し、代わりに武帝の曾孫の劉病已(宣帝が帝位についた。霍光は引き続き大司馬大将軍として漢の政治を一任されていたが、地節2年(紀元前68年に亡くなった。


武帝亡き後の漢の政治を速やかにまとめた霍光の功績は大であったが、彼自身はひたすら身を慎み、僭越な振る舞いや専横を避け、徒に目だって身を滅ぼすことはなかった。しかし一族は霍光の威勢を恃んで傲慢であり、宣帝の皇后[[許平君]]を毒殺して代わりに一族の娘を皇后に立てるなど、暴慢な振る舞いが目立った。彼らは霍光ほどの人望も無かったことから、霍光亡きあとは宣帝に実権を奪われた上、最後には謀反を計画したため宣帝により一族皆殺しにされた。
武帝亡き後の漢の政治を速やかにまとめた霍光の功績は大であったが、彼自身はひたすら身を慎み、僭越な振る舞いや専横を避け、徒に目だって身を滅ぼすことはなかった。しかし一族は霍光の威勢を恃んで傲慢であり、宣帝の皇后[[許平君]]を毒殺して代わりに一族の娘を皇后に立てるなど、暴慢な振る舞いが目立った。彼らは霍光ほどの人望も無かったことから、霍光亡きあとは宣帝に実権を奪われた上、最後には謀反を計画したため宣帝の勅命により子の[[霍禹]]は[[腰斬]]に処され、その生母や姉妹など一族皆殺しにされた(上官皇后はこのときも無事に済んだ)


== 霍光と日本の関白 ==
== 霍光と日本の関白 ==
霍光によって擁立された宣帝は、即位当初に霍光に政権を委ねる旨の詔を発したが、その際に用いられた文言「関(あずかり)り白(もう)す」が、[[日本]]の実質上の宰相であった[[関白]]の名の由来とされる。また、関白の異名として「博陸」とも称するが、これは霍光が博陸侯であったことに由来している。
霍光によって擁立された宣帝は、即位当初に霍光に政権を委ねる旨の詔を発したが、その際に用いられた文言「関(あずかり)り白(もう)す」が、[[日本]]の実質上の宰相であった[[関白]]の名の由来とされる<ref>{{Cite web|和書|author=[[土田直鎮]] |date= |url=https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=130 |title=関白 |work=[[国史大辞典_(昭和時代)|国史大辞典]]([[ジャパンナレッジ]]版) |publisher=[[吉川弘文館]] |accessdate=2023-03-08}}</ref>。また、関白の異名として「博陸」とも称するが、これは霍光が博陸侯であったことに由来している<ref>{{Cite web|和書|author=[[橋本義彦]] |date= |url=https://kotobank.jp/word/%E9%96%A2%E7%99%BD-49466 |title=関白 |work=[[日本大百科全書]](コトバンク版) |publisher=[[小学館]] |accessdate=2023-03-08}}</ref>


初代関白である[[藤原基経]]は、[[陽成天皇]]を廃して皇族の長老の[[光孝天皇]]を擁立した。この振る舞い人々は昌邑王劉賀を廃して宣帝を迎えた霍光のそれに擬えたといわれている。
初代関白である[[藤原基経]]は、[[陽成天皇]]を廃して皇族の長老の[[光孝天皇]]を擁立した。『[[神皇正統記]]』ではこの行動を昌邑王劉賀を廃して宣帝を迎えた霍光のそれに擬えて、讃えている。


== 登場作品 ==
{{DEFAULTSORT:かく こう}}
* 小説『霍光』(2000年、[[&#xFA10;本靑史]]、徳間書店)
[[Category:漢の人物]]
*『[[大司馬]]大将軍 霍光』[[中央公論新社|中央公論社]] 竹之内静雄著、1975年
[[Category:紀元前68年没]]
* テレビドラマ『[[雲中歌 〜愛を奏でる〜]]』(2013年、中国)


== 脚注 ==
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[[Category:武帝期の人物]]
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[[Category:生年不明]]
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[[Category:紀元前68年没]]

2024年4月10日 (水) 00:13時点における最新版

霍光
霍光(三才図会より)
霍光(三才図会より)
前漢
博陸侯
出生 不詳
死去 地節2年(紀元前68年
子孟
諡号 宣成侯
主君 武帝昭帝廃帝宣帝
霍仲孺
兄弟 霍去病霍光
霍禹霍成君
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霍 光(かく こう、? - 地節2年3月8日紀元前68年4月21日))は、前漢の政治家。子孟昭帝宣帝の2代を補佐し政治を取り仕切った。霍仲孺の子で霍去病の異母弟。霍禹霍成君の父。上官皇后の母方の祖父。

略歴[編集]

武帝皇后衛子夫の甥にあたる名将霍去病の異母弟という縁で出仕し、武帝の信任が厚く霍去病の死後も順調に出世した。後元2年(紀元前87年)に武帝が亡くなるとき、まだ8歳の幼い皇帝昭帝の補佐が出来る人物は霍光以外に居ないと思い、霍光を大司馬大将軍に任じて金日磾上官桀と共にこれを補佐させた。

しかし、のちに霍光と上官桀は対立するようになった。上官桀は、昭帝の兄であるのに帝位につけなかったことを恨みに思っていた燕王劉旦や、霍光と財政政策などで対立していた桑弘羊らと謀を巡らせて、昭帝に霍光を廃することを讒言したが、昭帝は取り合わなかった。そのため兵を伏せ、霍光を討ち昭帝を廃する企てを起こしたが、事は露見、燕王劉旦は自殺し、上官桀らは誅殺された。上官桀の一族で生き残ったのは皇后上官氏(母が霍光の娘)のみであった。

昭帝が成人してからも霍光への信任は厚く、治世13年の間すべて政治を霍光に取り仕切らせた。

元平元年(紀元前74年)、子のないまま昭帝が亡くなると、霍光は武帝の孫で昭帝の甥にあたる昌邑王劉賀を帝位につけた。しかし行いが酷いとしてわずか27日で廃し、代わりに武帝の曾孫の劉病已(宣帝)が帝位についた。霍光は引き続き大司馬大将軍として漢の政治を一任されていたが、地節2年(紀元前68年)に亡くなった。

武帝亡き後の漢の政治を速やかにまとめた霍光の功績は大であったが、彼自身はひたすら身を慎み、僭越な振る舞いや専横を避け、徒に目だって身を滅ぼすことはなかった。しかし一族は霍光の威勢を恃んで傲慢であり、宣帝の皇后の許平君を毒殺して代わりに一族の娘を皇后に立てるなど、暴慢な振る舞いが目立った。彼らは霍光ほどの人望も無かったことから、霍光亡きあとは宣帝に実権を奪われた上、最後には謀反を計画したため、宣帝の勅命により子の霍禹腰斬に処され、その生母や姉妹など一族皆殺しに処された(上官皇后はこのときも無事に済んだ)。

霍光と日本の関白[編集]

霍光によって擁立された宣帝は、即位当初に霍光に政権を委ねる旨の詔を発したが、その際に用いられた文言「関(あずかり)り白(もう)す」が、日本の実質上の宰相であった関白の名の由来とされる[1]。また、関白の異名として「博陸」とも称するが、これは霍光が博陸侯であったことに由来している[2]

初代関白である藤原基経は、陽成天皇を廃して皇族の長老の光孝天皇を擁立した。『神皇正統記』ではこの行動を昌邑王劉賀を廃して宣帝を迎えた霍光のそれに擬えて、讃えている。

登場作品[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 土田直鎮. “関白”. 国史大辞典ジャパンナレッジ版). 吉川弘文館. 2023年3月8日閲覧。
  2. ^ 橋本義彦. “関白”. 日本大百科全書(コトバンク版). 小学館. 2023年3月8日閲覧。