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[[File:Hideo Kanaya c1973.jpg|thumb|金谷秀夫]]
'''金谷 秀夫'''(かなや ひでお、[[1945年]][[2月3日]] - )は、[[オートバイ|バイク]][[レーサー]]。[[兵庫県]][[神戸市]]生まれ。若かりし頃は[[片山義美]]氏主催の「チーム木の実」の伝説の[[六甲山]][[トレーニング]]でテクニックを磨く。
'''金谷 秀夫'''(かなや ひでお、{{Lang-en-short|''Hideo Kanaya''}}、[[1945年]][[2月3日]] - [[2013年]][[12月19日]])は、元[[オートバイ]]レーサー、レーシングチーム会長・監督。[[兵庫県]][[神戸市]]出身。


1970年代前半の日本国内の2輪レース界で「敵なし」と評される速さを見せた。ヤマハワークスライダーとしてヨーロッパの[[ロードレース世界選手権]](世界GP)に参戦し、初戦の西ドイツGP(250ccクラス)でいきなり優勝<ref>金谷の世界GP初参戦はカワサキワークス時代の1967年の日本グランプリ。</ref>。さらに世界グランプリ500ccクラスと350ccクラスでの日本人初優勝を達成した。ニックネームは「'''世界の金谷'''」<ref>[https://global.yamaha-motor.com/jp/race/wgp-50th/race_archive/riders/hideo_kanaya/ ヤマハが過去に参戦してきたレースのライダー・歴代チャンピオン金谷秀夫] [[ヤマハ発動機]] </ref>。
後に、[[川崎重工業|カワサキ]]の[[ワークス・チーム|ワークス]]ライダーとして、[[1968年]]の[[鈴鹿サーキット|鈴鹿]]で開催された[[ロードレース世界選手権]][[日本グランプリ (ロードレース)|日本GP]]125ccクラスでGPデビューを果たす。[[1970年]] [[ヤマハ発動機|ヤマハ]]ワークス契約。[[1972年]] [[ロードレース世界選手権|世界GP]]参戦 開幕戦の[[西ドイツ]]GP 250ccクラス優勝。同日開催の350CCクラスでも表彰台・3位入賞を獲得し、その名を「世界のカナヤ」として[[ヨーロッパ|欧州]]の関係者達に認知させるところとなる。


== 来歴 ==
翌、[[1973年]]シーズンは開幕から僚友でもあり親友でもあった、[[ヤーノ・サーリネン]]とともに開幕から350CC、500CCクラスを席巻するも、第4戦[[イタリア]]GPでの[[レンツォ・パゾリーニ]]、サーリネンが死亡するという悲劇的な多重クラッシュに巻き込まれ、重症を負う。サーリネンの死に追悼の意を表す為、所属するヤマハがこのシーズンのGP参戦を取消しの決定を受け、シーズン半ばで撤退する。
[[片山義美]]主宰の「神戸木の実レーシング」に加入し<ref>金谷いわく「片山さんの弟子になった」。</ref>、伝説の[[六甲山]]トレーニングでテクニックを磨く。


「チーム木の実」が[[川崎重工業|カワサキ]]系チームだったことからカワサキ[[ワークス・チーム|ワークス]]ライダーになる。
[[1975年]]、2年ぶりにGP参戦となったこのシーズンでは、前年より新たなヤマハのエースとして迎えられた[[ジャコモ・アゴスチーニ|ジャコモ・アゴスティーニ]]のサポート役としてヤマハから命を受け、再びGPに参戦。500CCクラスで開幕[[フランス]]で2位、続く[[オーストリア]]では(世界GP)で当時の最高峰500CCクラスで初めて優勝を飾った[[日本人ライダー一覧|日本人ライダー]]として[[歴史]]に名を残すこととなる。


1967年の日本グランプリで世界GP初参戦。125ccクラスで3位入賞。
同日開催された350ccクラスでも優勝を遂げ、日本人唯一の1開催GPでのWウィンを飾る。その後も順調に上位に入賞するも、第5戦イタリアGPを終えた時点で500ccクラスのランキング1位の座にありながら、シーズン途中で参戦を休止し、急遽日本へ帰国。結局全10戦中5戦を走ったのみで[[1975年]]シーズンの500ccクラスをランキング3位で終える。この時、帰国の途につこうとする金谷に驚いた[[ヨーロッパ]]の[[ジャーナリスト]]達が『ランキング1位のお前がなぜ、帰るんだ?』『[[ロードレース世界選手権#歴代チャンピオン|世界チャンプ]]になりたくないのか?』と質問を浴びせる中、『勝つのはアゴ(アゴスティーニ)の仕事、俺には日本での(マシン開発の)仕事があるんや!』という名言を残したという。


1969年の全日本セニア<ref>現在の国際ライセンス</ref>250ccクラスチャンピオンになるが、カワサキがレース活動を縮小したため契約を解除されてしまう。
一説によると、この出来事はこのままでは本当に金谷がアゴスティーニを破り、チャンピオンになってしまうことを恐れたヤマハが急遽金谷を帰国させたとも伝えられている。当時の時代背景では日本車がチャンピオンになることはヨーロッパの人々は受容れても、日本人が、まして後に歴代の記録を全て塗り替えた王者、アゴスティーニより速い日本人、などという現実をヨーロッパの人々が受容れてくれる筈もない、と風評を恐れた会社側が金谷の参戦を途中で打切ったとも漏れ伝え聞こえている。


1970年、選抜テストを受けて[[ヤマハ発動機|ヤマハ]]ワークスに加入。
また、このシーズン金谷自身は、内心アゴスティーニを打ち負かすことこそが、彼が唯一速さを認めた親友、サーリネンへの手向けと捕らえていた、と観る向きも多かった。


1971年、全日本セニア251cc以上/同90ccクラスチャンピオン。
帰国後の[[1976年]]、レーシンククラブ「チーム・カナヤ」創設。[[1982年]]に引退。以後、多くの若手ライダーの育成に力を注ぐこととなる。引退後はTVの[[ロードレース (オートバイ)|ロードレース]]解説、ライディング本の著作などで活躍。また1982年公開の映画『[[汚れた英雄]]』ではレースシーンの監修を担当するなど[[オートバイ]]・ライフの浸透に力を注いでいる。


1972年、ヤマハワークスライダーとして世界GP250ccクラスに参戦<ref>当時は全日本チャンピオンに対し[[日本モーターサイクルスポーツ協会|MFJ]]からヨーロッパ視察の特典が与えられており、ヤマハと金谷はこの特典を利用してGPに参戦したと言われる</ref>。初戦の[[ドイツグランプリ (ロードレース)|西ドイツGP]]([[ニュルブルクリンク]])で、世界GP初参戦・初優勝の快挙を成し遂げるが、前半4戦のみ参戦して日本に帰国。
==外部リンク==
*[http://www.aquarius.zaq.jp/team_kanaya/ TEAM KANAYA WEB SITE]


1973年、ヤマハワークスライダーとして世界GP500cc/250ccクラスに参戦<ref>1967年いっぱいで中断していたヤマハワークスの活動再開であり、同時にヤマハとしては初の世界GP500ccクラス参戦だった</ref>。500ccクラス初戦で2位入賞(優勝はヤマハワークスの同僚、[[ヤーノ・サーリネン]])など好成績を挙げる。しかし第4戦[[イタリアグランプリ (ロードレース)|イタリアGP]]([[モンツァ]])の250ccクラスで発生した多重衝突事故でサーリネンが事故死し、金谷も負傷。ヤマハは喪に服す意味でシーズン後半のグランプリに出場せず、金谷も帰国した。
[[Category:日本のライダー|かねやひてお]]
[[Category:1945年生|かなやひでお]]


1974年、年頭の[[デイトナ・インターナショナル・スピードウェイ|デイトナ]]200マイルレースで決勝レース中に転倒し、重傷を負う。数ヶ月の入院加療の後、秋の[[日本モーターサイクルスポーツ協会|MFJ]][[日本グランプリ (ロードレース)|日本GP]]でレースに復帰し、フォーミュラリブレクラス2位入賞。
[[en:Hideo_Kanaya]]

1975年、ヤマハのエースである[[ジャコモ・アゴスチーニ]]<ref>ヤマハのライバルであるイタリアの[[MVアグスタ]]から、1973年末にヤマハに移籍加入した。</ref>のサポート役として、再び世界GP500cc/350ccクラスに参戦。初戦の[[フランスグランプリ (ロードレース)|フランスGP]]で500ccクラス2位。第2戦の[[オーストリアグランプリ (ロードレース)|オーストリアGP]]では500ccクラスと350ccクラスの2クラス制覇という快挙を成し遂げた<ref>世界GP500ccクラス優勝、同350ccクラス優勝、世界GPの2クラス同時優勝、いずれも日本人ライダー初</ref>。しかし第5戦を終えた時点で世界GP参戦を打ち切り日本に帰国。この時点でのランキングは金谷とアゴスチーニが同点1位。前半5戦だけの参戦だったが、金谷は1975年の500ccクラス世界ランキング3位になった<ref>同年のチャンピオンはアゴスチーニ。日本のメーカーが世界GP500ccクラスでライダータイトルを獲得したのはこれが初。</ref>。同年秋のMFJ日本GPフォーミュラリブレクラス優勝。

以降は世界GPに参戦することはなくなり<ref>[[オイルショック]]の影響などでヤマハがレース活動を縮小したため、という意見がある。</ref>、日本国内でヤマハワークスマシンの開発をメインに活動した<ref>当時のヤマハワークスライダーは世界グランプリのためのマシン開発が主たる業務で、国内レース参戦は年末のMFJ日本GP程度に限られていたため、日本での年間タイトルは獲得できないのが通例だった</ref>。

1982年いっぱいで現役を引退した。

引退後はヤマハ系の有力チームであるチーム・カナヤの会長として若手を育成<ref>チーム・カナヤは金谷の現役時代から存在</ref>、1983年全日本選手権250ccクラスチャンピオンの斉藤光雄、1984年TT-F3クラスチャンピオンの江崎正などを輩出した。レース中継解説者としてTVの[[ロードレース (オートバイ)|ロードレース]]解説、ライディングテクニックに関する書籍の執筆なども行った。また1982年公開の映画『[[汚れた英雄]]』ではレースシーンの監修を担当するなど、オートバイライフの社会認知度向上に貢献した。

=== エピソード ===
カワサキに所属していた1966年、[[富士スピードウェイ]]で開催された全日本選手権ロードレース大会ジュニア部門<ref>[[日本グランプリ (ロードレース)|日本GP]]と併催。この当時まだ全日本選手権はシリーズ化されておらず、この一戦の優勝者が事実上の全日本チャンピオン</ref>250ccクラスに出場。アメリカ人ライダーの[[ギャリー・ニクソン]]と接戦を展開した末に2位になる。金谷はまだジュニア(現在の国内ライセンス)のライダーだったが、その速さはライバルチームにも知れ渡っていた。ヤマハは金谷+カワサキの優勝を絶対に阻むため、アメリカで既に一流ライダーだったニクソンを呼び寄せ、日本のレース統括団体(MFJ)にジュニア登録させるという裏技を使ったと言われる。本場アメリカの一流ライダーと互角に渡り合ったことで、金谷の評価はさらに高まったという意見がある。

1973年の世界GP500/250cc参戦時の同僚であるヤーノ・サーリネンに対し、深い友情と尊敬の念を抱いていたと言われる。サーリネン事故死の後、ライバルチーム(MVアグスタ)のエースだったジャコモ・アゴスチーニがヤマハに加入してきたこと<ref>金谷は「アゴスチーニ個人への恨みなどはない」と語っている。</ref>、および翌1974年にアゴスチーニのサポートをさせられることに、金谷は納得できていない面があったとされる<ref>ライバルチームのエースを引き抜くのではなく、既存のヤマハ系ライダーを抜擢してほしいという考えだった。</ref>。それが1974年デイトナ200での同僚アゴスチーニを抜いてやろうと追いかけている最中に転倒したという転倒・重傷につながったという。

1975年の世界GP参戦時、前半戦のみ出場して帰国したことに対し、波紋が起こった。ヨーロッパのモーター・ジャーナリスト達は、ヤマハが金谷を継続参戦させないことが理解できず、『ランキング1位のお前がなぜ、帰るんだ?』『世界チャンピオンになりたくないのか?』と質問したのに対し、金谷は『勝つのはアゴ(アゴスチーニ)の仕事、俺には日本での(マシン開発の)仕事があるんや!』という名言を残した。

一部で「アゴスチーニにチャンピオンになってもらうため、ヤマハが無理に金谷を帰国させたのではないか?」といった説も存在する。金谷は後のインタビュー等で「エースのサポートとして世界GPの前半戦だけ参戦し、帰国後はマシン開発に当たるというのは、事前に決まっていた。それがエースとサポートの仕事であり、不満などはない。僕は性格的にもセカンドライダーが合っていたと思う」と語っている<ref>1974年デイトナ200で重傷を負い入院中、翌年はアゴスチーニのサポートをしようと気持ちがまとまったという</ref>。

== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
* [http://www.aquarius.zaq.jp/team_kanaya/ TEAM KANAYA WEB SITE]

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金谷秀夫

金谷 秀夫(かなや ひでお、: Hideo Kanaya1945年2月3日 - 2013年12月19日)は、元オートバイレーサー、レーシングチーム会長・監督。兵庫県神戸市出身。

1970年代前半の日本国内の2輪レース界で「敵なし」と評される速さを見せた。ヤマハワークスライダーとしてヨーロッパのロードレース世界選手権(世界GP)に参戦し、初戦の西ドイツGP(250ccクラス)でいきなり優勝[1]。さらに世界グランプリ500ccクラスと350ccクラスでの日本人初優勝を達成した。ニックネームは「世界の金谷[2]

来歴

[編集]

片山義美主宰の「神戸木の実レーシング」に加入し[3]、伝説の六甲山トレーニングでテクニックを磨く。

「チーム木の実」がカワサキ系チームだったことからカワサキワークスライダーになる。

1967年の日本グランプリで世界GP初参戦。125ccクラスで3位入賞。

1969年の全日本セニア[4]250ccクラスチャンピオンになるが、カワサキがレース活動を縮小したため契約を解除されてしまう。

1970年、選抜テストを受けてヤマハワークスに加入。

1971年、全日本セニア251cc以上/同90ccクラスチャンピオン。

1972年、ヤマハワークスライダーとして世界GP250ccクラスに参戦[5]。初戦の西ドイツGPニュルブルクリンク)で、世界GP初参戦・初優勝の快挙を成し遂げるが、前半4戦のみ参戦して日本に帰国。

1973年、ヤマハワークスライダーとして世界GP500cc/250ccクラスに参戦[6]。500ccクラス初戦で2位入賞(優勝はヤマハワークスの同僚、ヤーノ・サーリネン)など好成績を挙げる。しかし第4戦イタリアGPモンツァ)の250ccクラスで発生した多重衝突事故でサーリネンが事故死し、金谷も負傷。ヤマハは喪に服す意味でシーズン後半のグランプリに出場せず、金谷も帰国した。

1974年、年頭のデイトナ200マイルレースで決勝レース中に転倒し、重傷を負う。数ヶ月の入院加療の後、秋のMFJ日本GPでレースに復帰し、フォーミュラリブレクラス2位入賞。

1975年、ヤマハのエースであるジャコモ・アゴスチーニ[7]のサポート役として、再び世界GP500cc/350ccクラスに参戦。初戦のフランスGPで500ccクラス2位。第2戦のオーストリアGPでは500ccクラスと350ccクラスの2クラス制覇という快挙を成し遂げた[8]。しかし第5戦を終えた時点で世界GP参戦を打ち切り日本に帰国。この時点でのランキングは金谷とアゴスチーニが同点1位。前半5戦だけの参戦だったが、金谷は1975年の500ccクラス世界ランキング3位になった[9]。同年秋のMFJ日本GPフォーミュラリブレクラス優勝。

以降は世界GPに参戦することはなくなり[10]、日本国内でヤマハワークスマシンの開発をメインに活動した[11]

1982年いっぱいで現役を引退した。

引退後はヤマハ系の有力チームであるチーム・カナヤの会長として若手を育成[12]、1983年全日本選手権250ccクラスチャンピオンの斉藤光雄、1984年TT-F3クラスチャンピオンの江崎正などを輩出した。レース中継解説者としてTVのロードレース解説、ライディングテクニックに関する書籍の執筆なども行った。また1982年公開の映画『汚れた英雄』ではレースシーンの監修を担当するなど、オートバイライフの社会認知度向上に貢献した。

エピソード

[編集]

カワサキに所属していた1966年、富士スピードウェイで開催された全日本選手権ロードレース大会ジュニア部門[13]250ccクラスに出場。アメリカ人ライダーのギャリー・ニクソンと接戦を展開した末に2位になる。金谷はまだジュニア(現在の国内ライセンス)のライダーだったが、その速さはライバルチームにも知れ渡っていた。ヤマハは金谷+カワサキの優勝を絶対に阻むため、アメリカで既に一流ライダーだったニクソンを呼び寄せ、日本のレース統括団体(MFJ)にジュニア登録させるという裏技を使ったと言われる。本場アメリカの一流ライダーと互角に渡り合ったことで、金谷の評価はさらに高まったという意見がある。

1973年の世界GP500/250cc参戦時の同僚であるヤーノ・サーリネンに対し、深い友情と尊敬の念を抱いていたと言われる。サーリネン事故死の後、ライバルチーム(MVアグスタ)のエースだったジャコモ・アゴスチーニがヤマハに加入してきたこと[14]、および翌1974年にアゴスチーニのサポートをさせられることに、金谷は納得できていない面があったとされる[15]。それが1974年デイトナ200での同僚アゴスチーニを抜いてやろうと追いかけている最中に転倒したという転倒・重傷につながったという。

1975年の世界GP参戦時、前半戦のみ出場して帰国したことに対し、波紋が起こった。ヨーロッパのモーター・ジャーナリスト達は、ヤマハが金谷を継続参戦させないことが理解できず、『ランキング1位のお前がなぜ、帰るんだ?』『世界チャンピオンになりたくないのか?』と質問したのに対し、金谷は『勝つのはアゴ(アゴスチーニ)の仕事、俺には日本での(マシン開発の)仕事があるんや!』という名言を残した。

一部で「アゴスチーニにチャンピオンになってもらうため、ヤマハが無理に金谷を帰国させたのではないか?」といった説も存在する。金谷は後のインタビュー等で「エースのサポートとして世界GPの前半戦だけ参戦し、帰国後はマシン開発に当たるというのは、事前に決まっていた。それがエースとサポートの仕事であり、不満などはない。僕は性格的にもセカンドライダーが合っていたと思う」と語っている[16]

脚注

[編集]
  1. ^ 金谷の世界GP初参戦はカワサキワークス時代の1967年の日本グランプリ。
  2. ^ ヤマハが過去に参戦してきたレースのライダー・歴代チャンピオン金谷秀夫 ヤマハ発動機
  3. ^ 金谷いわく「片山さんの弟子になった」。
  4. ^ 現在の国際ライセンス
  5. ^ 当時は全日本チャンピオンに対しMFJからヨーロッパ視察の特典が与えられており、ヤマハと金谷はこの特典を利用してGPに参戦したと言われる
  6. ^ 1967年いっぱいで中断していたヤマハワークスの活動再開であり、同時にヤマハとしては初の世界GP500ccクラス参戦だった
  7. ^ ヤマハのライバルであるイタリアのMVアグスタから、1973年末にヤマハに移籍加入した。
  8. ^ 世界GP500ccクラス優勝、同350ccクラス優勝、世界GPの2クラス同時優勝、いずれも日本人ライダー初
  9. ^ 同年のチャンピオンはアゴスチーニ。日本のメーカーが世界GP500ccクラスでライダータイトルを獲得したのはこれが初。
  10. ^ オイルショックの影響などでヤマハがレース活動を縮小したため、という意見がある。
  11. ^ 当時のヤマハワークスライダーは世界グランプリのためのマシン開発が主たる業務で、国内レース参戦は年末のMFJ日本GP程度に限られていたため、日本での年間タイトルは獲得できないのが通例だった
  12. ^ チーム・カナヤは金谷の現役時代から存在
  13. ^ 日本GPと併催。この当時まだ全日本選手権はシリーズ化されておらず、この一戦の優勝者が事実上の全日本チャンピオン
  14. ^ 金谷は「アゴスチーニ個人への恨みなどはない」と語っている。
  15. ^ ライバルチームのエースを引き抜くのではなく、既存のヤマハ系ライダーを抜擢してほしいという考えだった。
  16. ^ 1974年デイトナ200で重傷を負い入院中、翌年はアゴスチーニのサポートをしようと気持ちがまとまったという

外部リンク

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