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「フアン・ロマン・リケルメ」の版間の差分

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{{サッカー選手
{{サッカー選手
|名前=フアン・ロマン・リケルメ
|名前 = フアン・ロマン・リケルメ
|画像=JR Riquelme.jpg
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|画像の説明 = 2019年のリケルメ
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|出身地 = [[ティグレ (ブエノスアイレス州)|ティグレ・パルティード]]<br />[[ドン・トルクアト]]<br />サン・ホルヘ地区<ref>フェラン・ソリアーノ著、グリーン裕美訳『ゴールは偶然の産物ではない』アチーブメント出版、2009年、162頁</ref>
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|所属チーム名=[[ボカ・ジュニアーズ]]
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|代表国={{ARGf}}
|ユース年1=1992-1995|ユースクラブ1={{Flagicon|ARG}} [[AAアルヘンティノス・ジュニアーズ|アルヘンティノス]]
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'''フアン・ロマン・リケルメ'''('''Juan Román Riquelme'''、[[1978年]][[6月24日]] - )は、[[アルゼンチン]]出身、[[サッカールゼンチン代表|同国代表]]の[[サッカー]]選手。ポジションは[[ミッドフィルダー|MF]]。[[ボカ・ジュニアーズ]](アルゼンチン)に所属
'''フアン・ロマン・リケルメ'''({{pt|Juan Román Riquelme}}, [[1978年]][[6月24日]] - )は、[[アルゼンチン]][[ブエノスイレス州]][[ティグレ (ブエノスアイレス州)|ティグレ・パルティード]]ドン・トルクアト出身[[プロサッカー選手|サッカー選手]]現役時代のポジションは[[ミッドフィルダー]]。元[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]]。現在は[[ボカ・ジュニアーズ]]会長


1996年に[[ボカ・ジュニアーズ]]からデビュー。2002年にスペインに渡り、[[FCバルセロナ]]と[[ビジャレアルCF]]でプレーした後、2008年には古巣ボカ・ジュニアーズに復帰した。[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]]としては、[[コパ・アメリカ1999]]、[[2006 FIFAワールドカップ]]、[[2008年北京オリンピックのサッカー競技|北京オリンピック]]などに出場した。アルゼンチン年間最優秀選手賞を4回受賞しており<ref>{{Cite web |url=http://www.fifa.com/worldfootball/news/newsid=1559986.html |title=Riquelme: Football has given me everything |publisher=FIFA.com |date=19 December 2011 |accessdate=19 December 2011}}</ref>、2001年には[[南米年間最優秀選手賞]]を受賞した。リケルメ自身ほぼ自分のポジションから動かず、自らの出す極めて精度の高いパスで味方選手を動かすという現在のサッカー界ではほとんど絶滅してしまったプレースタイルの持ち主であり、その古めかしさからしばしば「恐竜」というあだ名で呼ばれている。
卓越したゲームメイクのセンスを持ち、現在のサッカー界では絶滅寸前と言われるクラシックな[[ゲームメーカー]]である事から'''[[恐竜]]'''と称されることがある。


==歴==
== クラブ経 ==
=== ユース時代 ===
===キャリアの始まりとボカ===
[[ブエノスアイレス]]の北部郊外にある[[ティグレ (ブエノスアイレス州)|ティグレ・パルティード]]の、貧困者が多く住む町の質素で貧しい家庭に、11人兄弟の長男として生まれた<ref>{{Cite web|和書|author=Number web |date=2005-09-30 |url=http://sports.goo.ne.jp/2006/e/column/000214/ |title=ファン・ロマン・リケルメ 遅れてきた「天才」 |accessdate=2009-07-11}}</ref>。リケルメの誕生日(1978年6月24日)はアルゼンチンで開催された[[1978 FIFAワールドカップ]]の大会期間中であり、翌日の6月25日に[[エスタディオ・モヌメンタル・アントニオ・ベスプチオ・リベルティ|エル・モヌメンタル]]で行なわれた決勝では、[[マリオ・ケンペス]]などの活躍により[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]]が[[サッカーオランダ代表|オランダ代表]]を破って優勝を決めた。地元のドン・トルクアト市からほど近い[[サン・フェルナンド (ブエノスアイレス)|サン・フェルナンド]]市でサッカーを始め、1992年に[[AAアルヘンティノス・ジュニアーズ]]のジュニアチームのトライアルを受ける機会を得た。アルヘンティノスではセンターハーフとしてプレーし、ユースチーム時代には[[ボカ・ジュニアーズ]]や[[CAリーベル・プレート]]から注目を浴びた。1995年、アルヘンティノスのU-20チームからボカのU-20チームに移籍し、アルヘンティノスには移籍金80万ドルが支払われた。
[[アルヘンティノス・ジュニアーズ]]の下部組織でキャリアをスタートさせる。当時のポジションは中盤の底のボランチ。アルヘンティノスの練習場近くに住んでいた元アルゼンチン代表監督の[[カルロス・ビラルド]]に見出される。その後[[ボカ・ジュニアーズ]]がアルヘンティノスの下部組織を吸収したことによってボカに移籍。ポジションを現在のトップ下に替える。デビュー戦は1996年11月10日の[[ウニオン・デ・サンタフェ]]戦。


=== ボカ・ジュニアーズ ===
1998年、[[カルロス・ビアンチ]]の監督就任によって、ボカの10番を背負いレギュラーに定着。[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|トヨタカップ]]を頂点に数々のタイトルを獲得し、マラドーナ後の10番としてボカの歴史でも有数の人気を得た。そんな中、弟であるクリスティアンが身代金誘拐されるという事件が起こる。無事に解放されたものの母国への絶望感、数年に渡る[[マウリシオ・マクリ]]会長との確執などから欧州への移籍を要求。[[プリメーラ・ディビシオン (アルゼンチン)|アルゼンチンリーグ]]でのプレーを拒否するという行動に出た。
ボカでトップ下に転向した。トップチームの[[カルロス・ビラルド]]監督に見出され、1996年11月11日、[[CAウニオン (サンタフェ)|CAウニオン]]戦 (2-0) でトップチームデビューし、2週間後の[[CAウラカン]]戦 (6-0) ではトップチーム初得点を挙げた。1998年には[[カルロス・ビアンチ]]監督が就任し、背番号10を手渡されてレギュラーに定着。アペルトゥーラ1998でリーグ戦自身初優勝を飾り、クラウスーラ1999でも優勝して1998-99シーズンは前後期制覇を遂げた。2000年の[[コパ・リベルタドーレス2000|コパ・リベルタドーレス]]では、ラウンド16で[[CDエル・ナシオナル]](エクアドル)、準々決勝でリーベル、準決勝で[[クラブ・アメリカ]](メキシコ)、決勝で[[SEパルメイラス]](ブラジル)を下して南米王者に輝いた。アペルトゥーラ2000でも優勝したほか、同年末に日本で開催された[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|トヨタカップ]]では[[レアル・マドリード]](スペイン)を下して優勝し、2000年は国内外で3冠を達成した。2001年にはコパ・リベルタドーレスで2連覇を果たしたが、インターコンチネンタルカップでは[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]](ドイツ)に敗れて2連覇を逃した。ボカでの在籍期間の終盤には[[マウリシオ・マクリ]]会長との確執があり、ヨーロッパのクラブへの移籍を要求してリーグ戦出場を拒否する行動に出た。


===FCバルセロナ===
=== バルセロナ ===
2002年11月後半、移籍金1100万ユーロでスペインの[[FCバルセロナ]]に移籍した<ref>{{Cite web |url=http://www.uefa.com/uefachampionsleague/news/newsid=44002.html |title=Barça take up Riquelme option |publisher=UEFA.com |date=26 November 2002 |accessdate=2013-05-07}}</ref>。この契約直前には弟の誘拐事件が起こり、リケルメ自らが解放交渉を行なった。身代金を支払って弟は解放されたが、この事件がボカ退団の理由のひとつであったと後に語っている。バルセロナでは背番号10番を渡されたが、[[ルイ・ファン・ハール]]監督はリケルメの獲得を「政治的な契約」であると語り<ref>{{Cite news |url=http://football.guardian.co.uk/worldcup2006/story/0,,1800201,00.html |title=Lonesome Riquelme is the go-to man |publisher=The Guardian |first=Jason |last=Cowley |date=18 June 2006 |accessdate=12 August 2006}}</ref>、彼を冷たくあしらった。出場機会は少なく、不慣れなウイングとしても起用された。その多くが途中出場だったためにボカ時代のプレーからは程遠く、トップチームでのポジションを失っていった。[[コパ・デル・レイ]]要員となり、珍しく先発で起用された[[UEFAチャンピオンズリーグ 2002-03|UEFAチャンピオンズリーグ]]グループリーグの[[クラブ・ブルッヘ]]戦では決勝点を挙げた。ファン・ハール解任後に就任した[[ラドミル・アンティッチ]]監督からも信頼を勝ち取れず、不本意な成績で2002-03シーズンを終えた。2003年夏には[[ロナウジーニョ]]が加入したことで背番号10番を剥奪され、EU外選手枠を超えたためにトップチームの練習から締め出された。戦術面では相容れないリケルメとファン・ハールだったが、「プロフェッショナルだなと思ったのは、いったんクラブの外に出たらとても親切に接してくれたこと。長男が生まれたときは、直々に出産祝いのプレゼントをくれたんだ」と振り返っている<ref name="plus">クリスティアン・インファンソン「あの不思議な感触を求めて」『Sports Graphic Number plus』 2005/12号、文藝春秋、58-63頁</ref>。
その後2002年7月に移籍した[[FCバルセロナ]]では不遇の時を過ごすこととなる。移籍初日の記者会見にて[[ルイス・ファン・ハール]]監督から「君は私の望んだ選手ではない」と前代未聞の宣告をされ、いざシーズンがスタートしても戦術至上主義のファン・ハールのサッカーとはまるで水が合わず、ベンチを暖める日々が続く。ファン・ハール解任後に就任したラドミール・アンティッチ監督からも信頼を勝ち取れず、クラブ低迷打開の救世主として違いを見せることはできないまま欧州初挑戦のシーズンを終える。2003年夏、[[ロナウジーニョ]]が移籍してくるとクラブは彼の付けていた背番号10を説明も無く取り上げ、EU外枠が埋まったことを理由に1軍練習から締め出すという行動に出る。このような扱いを受けても決して腐らずに黙々と練習し、その姿は[[シャビ]]や[[パトリック・クライファート]]から賞賛される。8月に同じ[[スペイン]]の[[ビジャレアルCF]]へのレンタル移籍が決定した。


===ビジャレアル===
=== ビジャレアル ===
[[ファイル:JR Riquelme.jpg|thumb|right|ビジャレアル時代のリケルメ]]
このビジャレアルで復活と躍進を遂げる。2003-2004シーズン途中、監督が[[ベニート・フローロ]]からマヌエル・ペジェグリーニに代わると戦術も彼を最大限に活かすいわゆる「王様サッカー」に移行。チームの中心として輝きを取り戻し始め、クラブ史上初となる[[UEFAカップ]]のベスト4進出に貢献。
2003年8月、同じ[[プリメーラ・ディビシオン]]の[[ビジャレアルCF]]にレンタル移籍した。ボカ時代にチームメイトだった[[セバスティアン・バタグリア]]と[[ルシアーノ・フィゲロア]]と再会し、さらにビジャレアルには[[ロドルフォ・アルアバレーナ]]や[[フアン・パブロ・ソリン]]などの[[アルゼンチン人]]選手も在籍していた。[[ベニート・フローロ]]監督がシーズン途中に退任し、[[チリ人]]の[[マヌエル・ペレグリーニ]]監督が就任すると、チームのキープレーヤーとして輝きを取り戻した。2003-04シーズンには33試合に出場して8得点し、[[UEFAカップ 2003-04|UEFAカップ]]ではクラブ最高位のベスト4となった。2004年夏には本人の希望により、ユニフォームのネームを「RIQUELME」からボカ時代に慣れ親しんだ「ROMAN」に変更。2004-05シーズンは[[UEFAカップ 2004-05|UEFAカップ]]でベスト8となったほか、リーグ戦では35試合に出場して15得点し、25得点を挙げた[[ディエゴ・フォルラン]]が得点王に輝いた。ビジャレアルはクラブ史上最高位の3位となり、[[UEFAチャンピオンズリーグ]]予選3回戦の出場権を獲得した。[[マルカ (新聞)|マルカ]]紙は「もっとも芸術的な選手」にリケルメを選出し、また[[FIFA最優秀選手賞]]にノミネートされた。


2005年夏にバルセロナからのレンタル期間が終了したが、ビジャレアルはバルセロナに800万ユーロを支払って保有権の75%を購入し、リケルメと4年契約を結んだ<ref>{{Cite web |url=http://www.uefa.com/uefachampionsleague/news/newsid=308912.html |title=Riquelme leaves Barça for good |publisher=UEFA.com |date=21 June 2005 |accessdate=2013-05-07}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=livedoorスポーツ|date=2005-06-23 |url=http://sports.livedoor.com/article/detail-954964.html |title=ビジャレアル、リケルメの完全移籍を発表 |accessdate=2009-07-11}}</ref>。クラブ間の契約書には、ビジャレアルから他クラブに移籍した際に発生する移籍金の25%がバルセロナに支払われるという条項が加えられた。2005-06シーズンの[[UEFAチャンピオンズリーグ 2005-06|UEFAチャンピオンズリーグ]]では[[マンチェスター・ユナイテッドFC]](イングランド)、[[SLベンフィカ]](ポルトガル)、[[LOSCリール|リール]](フランス)と同組となり、初出場のビジャレアルはグループ首位での決勝トーナメント進出を決めた。グループ2位にはベンフィカが入り、強豪マンチェスター・ユナイテッドをグループリーグ敗退に追いやっている。バルセロナへの移籍金はリケルメの活躍次第で1000万ユーロまで上昇する条項が設けられており、①UEFAチャンピオンズリーグでグループリーグを突破する、②2005-06シーズンのリーグ戦を4位以内で終える、③2006-07シーズンのリーグ戦を4位以内で終える、の3つの場合にそれぞれ100万ユーロが支払われることになっていたが、ビジャレアルは①のみクリアしたため、計100万ユーロが移籍金に上乗せされている。UEFAチャンピオンズリーグの決勝トーナメント1回戦では[[レンジャーズFC]](スコットランド)、準々決勝では[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]](イタリア)を破り、準決勝では[[アーセナルFC]](イングランド)と対戦したが、2ndレグの終盤にリケルメが蹴ったPKが[[イェンス・レーマン]]に止められ、スコアレスドローに終わった。1stレグに0-1で敗れていたため、2戦合計0-1でビジャレアルの敗退が決まった<ref>{{Cite web |url=http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/europe/4936390.stm |title=Villarreal 0-0 Arsenal (agg 0-1) |publisher=BBC Sport |date=25 April 2006 |accessdate=19 December 2011}}</ref>。2006年5月7日に[[エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウ]]で行われた[[レアル・マドリード]]戦は、[[ジネディーヌ・ジダン]]にとってレアル・マドリードでの最後のホームゲームとなった。試合終了後の記者会見でジダンはリケルメのプレーを称賛しており、ふたりは更衣室への通路でユニフォーム交換を行なった<ref>{{Cite web|和書|url=http://news.livedoor.com/article/detail/1936895/ |title=ジダン、リケルメとユニフォームを交換し感動 |publisher=livedoorスポーツ |date=2006-05-07 |accessdate=2013-06-12}}</ref>。
2004-2005シーズンは[[ディエゴ・フォルラン]]とのコンビで旋風を巻き起こし、リーグ戦では2人で40得点を叩き出した。
2年連続出場となった[[UEFAカップ]]はベスト8、リーグ戦はクラブ最高位の3位で終えて[[UEFAチャンピオンズリーグ]]出場権を獲得するという大躍進のシーズンとなった。


2006年9月24日、[[エル・マドリガル|エスタディオ・エル・マドリガル]]での[[レアル・サラゴサ]]戦 (3-2) でシーズン初得点を挙げた<ref>[http://uk.soccerway.com/matches/2006/09/24/spain/primera-division/villarreal-club-de-futbol/real-zaragoza/389299/ Villarreal vs. Real Zaragoza 3 - 2] Soccerway、2006年9月24日</ref>。2006-07シーズン前半戦には他の選手、ペレグリーニ監督、クラブの首脳陣と確執を起こし、リーグ戦では13試合の出場にとどまり、コパ・デル・レイでは出場機会なしに終わった。
2005-2006シーズンにはビジャレアルへと完全移籍を果たす。チャンピオンズリーグではベスト4進出の原動力となったが、彼自身のPK失敗によってチームの敗退が決定的となるという悲劇も味わう。


==== ボカへのレンタル移籍 ====
2006-2007シーズンは、ペジェグリーニやビジャレアル首脳陣との確執などによってメンバーから外される事が多くなり、2007年2月9日に古巣ボカへの復帰(レンタル移籍)が発表された。
2007年2月、6月30日までの契約で古巣ボカにレンタル移籍した<ref>[http://football.guardian.co.uk/continentalfootball/story/0,,1996215,00.html The end is nigh for a player unable to cross great divide] The Guardian、2007年1月22日</ref><ref>[http://www.ole.com.ar/notas/2007/02/07/um/01359416.html Román dio el sí] Olé、2007年2月7日 {{es icon}}</ref>。2月17日、クラウスーラ2007の[[CAロサリオ・セントラル]]戦 (1-1) でデビューを飾り、3月9日の[[CAインデペンディエンテ]]戦 (1-1) の54分に移籍後初得点となる同点ゴールを決めた<ref>[http://uk.soccerway.com/matches/2008/03/09/argentina/primera-division/boca-juniors/ca-independiente/545765/ oca Juniors vs. Independiente 1 - 1] Soccerway、2008年3月9日</ref>。同年のコパ・リベルタドーレスでは、3月22日に行なわれた[[デポルティーボ・トルーカFC]]戦 (3-0) で初得点を挙げた。ボカはグループリーグで勝ち点10を獲得し、グループ2位で決勝トーナメント進出を決めた。ラウンド16では[[CAベレス・サルスフィエルド]]と対戦し、1stレグ (3-0) の試合開始1分に先制点を挙げて勝ち上がりに貢献。準々決勝では[[クラブ・リベルタ|リベルタ]](パラグアイ)と対戦し、2ndレグの61分に先制点を挙げた。準決勝の[[ククタ・デポルティーボFC]]戦(コロンビア)2ndレグでは、直接フリーキックで先制点を挙げて勝利に貢献した。決勝では[[グレミオFBPA|グレミオ]](ブラジル)と対戦した。1stレグの18分には、リケルメが蹴ったフリーキックから[[ロドリゴ・パラシオ]]の先制点が生まれ、73分には直接フリーキックを決めてホームでの勝利に貢献した。2ndレグでは後半に2得点し、クラブとして6度目の同大会制覇に大きく貢献。2試合の5得点すべてに絡む活躍を見せ、ファーストレグ・セカンドレグのそれぞれでマン・オブ・ザ・マッチに選出された。


===ボカ復帰===
==== 短期間のビジャレアル復帰 ====
ボカへのレンタル移籍期間が満了し、2007年7月にはビジャレアルに復帰した。ボカはリケルメの完全移籍を希望してオファーを出したが<ref>{{Cite web|和書|author=AFP BB News |date=2007-08-12 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2266436?pid=2017052 |title=リケルメ ビジャレアルへの復帰を明言 |accessdate=2009-07-11}}</ref>、8月にはリケルメとの再契約を断念したと報じられた。しかし数日後には状況が一変し、フアン・カルロス・クレスピ会長は「10日以内」にリケルメを取り戻す自信を表した。ビジャレアルはリケルメの移籍金として、400万ユーロ、[[ロドリゴ・パラシオ]]、[[マウロ・ボセーリ]]か[[ホナタン・マイダナ]]の保有権の50%を要求したが、ボカはこのオファーを拒否した。8月30日、[[アトレティコ・マドリード]]がビジャレアルに800万ユーロのオファーを提示したが<ref>{{Cite web|和書|author=AFP BB News |date=2007-08-30 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2274310?pid=2057694 |title=アトレティコ・マドリード リケルメ獲得へ |accessdate=2009-07-11}}</ref>、移籍期限いっぱいまでもつれた移籍交渉は決裂し、リケルメはビジャレアル残留となった。背番号は8番から16番に変更され、背番号8番はビジャレアル生え抜きの[[サンティ・カソルラ]]に引き継がれた<ref>{{Cite web|和書|author=livedoorスポーツ |date=2007-07-27 |url=http://news.livedoor.com/article/detail/3247818/ |title=ビジャレアル、リケルメに背番号剥奪の屈辱 |accessdate=2009-07-11}}</ref>。
====レンタル復帰====
かつての王様の帰還をボカファンは大歓迎し、彼もそれに結果で応えていく。盟友[[マルティン・パレルモ]]とのコンビネーションは健在で、パレルモのゴールの大多数をアシスト。[[コパ・リベルタドーレス]]での活躍は圧巻で、[[グレミオ]]との決勝戦では5得点全てに絡む活躍を見せチームを4年ぶりの優勝に導いた。


====ビャレル残留====
=== ボカ・ュニーズ復帰 ===
==== 2007-08シーズン ====
ボカとのレンタル期間が終了し、所属はビジャレアルへ。<br>
2007年11月26日、2008年1月の移籍市場でボカに完全移籍することがビジャレアルから認められ、ボカとは2010年までの契約を結んだ<ref>{{Cite web|和書|author=REUTERS |date=2007-11-27 |url=http://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-29053420071126 |title=ビジャレアル、リケルメのボカ移籍に正式合意 |accessdate=2009-07-11}}</ref>。ボカは1500万ドルを支払い、ビジャレアルは2007-08シーズンのリケルメの年俸(約300万ユーロ)を支払う。ボカがビジャレアルに支払った移籍金はアルゼンチン史上最高額となった。リケルメ自身は2007年末に行なわれる[[FIFAクラブワールドカップ]]への出場を希望したが、[[国際サッカー連盟]] (FIFA) が定めた選手の登録期限が11月23日であり、大会への出場は認められなかった。それでも日本への遠征には帯同し、「裏方」としてチームを支える役回りを果たした。
ボカはリケルメの完全復帰を目指しビジャレアルにオファーしたが、受け入れられなかった。他にも[[アトレティコ・マドリード]]からオファーがあり、リケルメ本人も[[マドリード]]まで出向き移籍交渉をしたが実現はしなかった。ビジャレアル側の「リケルメ構想外」の姿勢は変わらず、練習だけに参加する3ヶ月を送る。


クラウスーラ2008の[[CAロサリオ・セントラル]]戦 (1-1) で復帰後初出場し、5月4日、リーベルとの[[スーペルクラシコ]] (1-0) では[[セバスティアン・バタグリア]]の決勝点をアシストしたが、クラウスーラ2008では10試合に出場して1得点を挙げるにとどまった。4月22日に行なわれた[[コパ・リベルタドーレス]]グループリーグの{{仮リンク|UAマラカイーボ|es|Unión Atlético Maracaibo}}戦 (3-0) では、10分にフリーキックで[[ガブリエル・パレッタ]]の先制点をアシストしたほか、74分にはリケルメ自身が駄目押しとなる得点を挙げた。ボカはグループ2位で決勝トーナメントに進出した。決勝トーナメント1回戦では[[クルゼイロEC]](ブラジル)と対戦し、1stレグ (2-1) では6分に[[アルバロ・ゴンサレス]]のパスから先制点を決めた。ボカは2試合合計4-2で勝利し、準決勝では[[フルミネンセFC]](ブラジル)と顔を合わせた。5月28日に行なわれた1stレグでは、12分にパラシオのパスから得点し、65分には直接フリーキックを決めた。リケルメは同大会で4得点を挙げたが、ボカは2戦合計3-5で敗れて準決勝敗退となった。
====完全移籍====
2007年11月30日、正式にボカに3年契約で完全移籍した。クラブワールドカップ出場を望みながらも、出場選手登録の期限が11月23日であったため、大会への出場はかなわなかった。それでも日本への遠征には帯同し、“裏方”としてチームを支える役回りを果たした。


==== 2008-09シーズン ====
==アルゼンチン代表==
2008年8月には[[レコパ・スダメリカーナ]]で[[アルセナルFC]]と対戦し、2ndレグ (2-2) では91分に直接フリーキックを決めた。ボカは2試合合計5-3で勝利してトロフィーを獲得した。10月、チームメイトの[[フリオ・セサル・カセレス]]は母国パラグアイのラジオ局によるインタビューで、リケルメのプロ意識について疑問を投げかけ、両選手の対立が明らかになった。カセレスは「(リケルメは)全力で走っていない試合もある。彼は現状に満足してしまっているように見える。代表でプレーする時はクラブで見せる以上のやる気を出しているようだ」と主張した。リケルメはFox Sportsの電話インタビューに答え、「彼(カセレス)は僕がクラブにどういう気持ちを持っているのか知らない。試合前には他の選手と同じように気持ちを高めているし、北京オリンピックに出場することを選んだから、十分な休みも取っていない。北京オリンピックの決勝後にはすぐに空港に向かって、レコパ・スダメリカーナの決勝に駆け付けた」と述べた。さらに、「この話題はロッカールームの中に留めておくべきだった。彼はサッカー界の掟を破った」と付け加えた<ref>{{Cite web|和書|url=http://uk.reuters.com/article/worldFootballNews/idUKSP34622720081008 |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2008-10-24 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081011060301/http://uk.reuters.com/article/worldFootballNews/idUKSP34622720081008 |archivedate=2008-10-11 |url-status=dead|url-status-date=2017-09 }}ロイター、2008年10月8日</ref>。10月21日に[[エスタディオ・モヌメンタル・アントニオ・ベスプチオ・リベルティ|エル・モヌメンタル]]で行なわれたリーベルとのスーペルクラシコ (1-0) 後には、カセレスは対立について「過ぎ去ったこと」と述べ、「僕らの関係は改善されつつある」と述べた<ref>[http://www.goal.com/en/Articolo.aspx?ContenutoId=924284 Caceres: Riquelme Conflict Now In The Past] Goal.com、2008年10月21日</ref>。アペルトゥーラ2008は[[CAサン・ロレンソ・デ・アルマグロ]]、[[CAティグレ]]と三つ巴の争いとなり、3クラブが12勝3分4敗の勝ち点39で並んだため、3クラブによる優勝決定戦が行なわれた。ここでも1勝1敗で3クラブが並んだが、得失点差 (+1) でティグレ (0) やサン・ロレンソ (-1) を上回ったボカが優勝した。2009年のコパ・リベルタドーレスはラウンド16で敗退した。クラウスーラ2009は14位と低迷した。
ユース代表での活躍は目覚しいものがあったが、A代表では1997年にデビューするものの、なかなかレギュラーに定着できずにいた。しかし2004年に就任したユース時代からの恩師[[ホセ・ペケルマン]]監督から絶大な信頼を受け、チームの主柱として活躍。[[2006 FIFAワールドカップ|2006年ドイツW杯]]では敬愛する[[ディエゴ・マラドーナ]]のナンバーである10番を背負った。チームはベスト8で敗退したが、自身は5アシストを記録しW杯アシスト王に輝いた。W杯後に新監督として就任した[[アルフィオ・バシーレ]]監督にはキャプテンを任され、代表での存在感は更に高まった。しかし2006年9月12日、彼への過剰なバッシングに耐えられなくなった母親がW杯以降2度も病院に運ばれ、病状が悪化したことを理由に同国代表からの引退を表明。「何よりも大事なのは家族」と彼らしい決断であった。2007年に入ると、母親の病状が安定したとの情報もあり代表復帰が噂されるようになる。2007年6月21日、[[コパ・アメリカ]]のメンバーに選出され正式に代表復帰した。


==プレスタイル==
==== 2009-10シズン ====
2009年10月には年内絶望の怪我を負い、ボカはアペルトゥーラ2009でも11位という低調な成績に終わったため、2010年のコパ・リベルタドーレス出場権を逃した。なお、後にホルヘ・アモール・アメアル会長は、リケルメが2009年を無給で働いていたことを明かしている<ref>{{Cite web|和書|author=Boca Juniors Filial Japon |date=2009-10-23 |url=http://www.boca-japan.com/bocajuniors/noticias/latest.php |title=プライドを賭けた戦い!!! |accessdate=2010-01-08}}</ref>。2010年4月12日、[[アルセナルFC]]戦 (4-0) でボカの3点目を挙げた<ref>[http://uk.soccerway.com/matches/2010/04/12/argentina/primera-division/boca-juniors/arsenal-de-sarandi/895288/ Boca Juniors vs. Arsenal 4 - 0] Soccerway、2010年4月12日</ref>。
足裏でボールを操る技術(ピサーダ)は世界でも指折り。 絶対的なキープ力とボディバランスをほこり、足元にボールが入った場合はファウル以外ではほぼ奪取できず、そこから相手を引き付けて繰り出される長短含めたパスは世界屈指。
得点力もかなりのもので、リーガ・エスパニョーラに於いて毎シーズン10ゴール以上は決めている。ドライブのかかった強烈な[[ミドルシュート]]が武器。[[プレースキック (サッカー)|プレースキック]]の精度も大変高く、彼を擁するチームの[[セットプレー]]は相手チームの大きな脅威となる。[[フリーキック (サッカー)|フリーキック]]に加えてオリンピックゴール([[コーナーキック]]を直接ゴールに決めること)も得意としている。チャンピオンズリーグ・[[アーセナル]]戦での失敗のイメージが強いが、実際は[[ペナルティーキック (サッカー)|PK]]の名手である。<br>
<!--ボカ時代は、その華麗なボールタッチから「闘牛士」といわれていたらしい???-->
融通が利かないプレースタイルは弱点でもある。現代サッカーは選手を「11人の中の1人」として扱うことが基本だが、リケルメの場合彼を中心としたチーム作りでなければ本領を発揮できない上、チームの好不調が彼の出来に反映されがちなので自己犠牲や戦術を重視する[[マルセロ・ビエルサ]]やファン・ハールといった監督の下では起用される機会が少なかった。<br>
基本的に守備には参加せず全力で走る事も無い。仲間がボールを奪ってくれるのを待つのみである。


==== 2011-12シーズン ====
彼の伝説のプレーとしては、ボカ時代に見せたルーレットに股抜きを混ぜたようなものがある。
2011年6月12日、[[CAバンフィエルド]]戦 (1-1) でアペルトゥーラ2011に初出場した<ref>[http://www.soccerway.com/matches/2011/06/13/argentina/primera-division/boca-juniors/ca-banfield/1059162/ Boca Juniors vs. Banfield 1 - 1] Soccerway、2011年6月13日</ref>。8月15日の[[CAウニオン (サンタフェ)|CAウニオン]]戦 (4-0) では83分にボカの3点目を挙げ、アペルトゥーラ2011での自身初得点を挙げた<ref>[http://www.soccerway.com/matches/2011/08/16/argentina/primera-division/boca-juniors/ca-union-de-santa-fe/1153418/ Boca Juniors vs. Unión Santa Fe 4 - 0] Soccerway、2011年8月16日</ref>。ボカはアペルトゥーラ2011を19戦無敗で終えて勝ち点43を記録し、4年ぶりにリーグ優勝してコパ・リベルタドーレス出場権を獲得した。2012年2月2日、{{仮リンク|CBRサンタマリーナ|es|Club y Biblioteca Ramón Santamarina}}戦 (1-1) で[[コパ・アルヘンティーナ]]に初出場し、63分にフリーキックで[[ファクンド・ロンカリア]]の同点ゴールをアシストした。試合はPK戦に持ち込まれ、4-3で勝利したボカが勝ち上がりを決めた<ref>[http://www.soccerway.com/matches/2012/02/03/argentina/copa-argentina/boca-juniors/deportivo-santamarina/1221256/ Boca Juniors vs. Deportivo Santamarina 1 - 1] Soccerway、2012年2月3日</ref>。2月10日、{{仮リンク|クルブ・オリンポ|es|Club Olimpo}}戦 (2-0) でクラウスーラ2012に初出場<ref>[http://www.soccerway.com/matches/2012/02/11/argentina/primera-division/boca-juniors/club-olimpo/1240973/ Boca Juniors vs. Olimpo 2 - 0] Soccerway、2012年2月11日</ref>。4日後には{{仮リンク|サモラFC|es|Zamora Fútbol Club}}(ベネズエラ)戦 (0-0) に出場し、同年のコパ・リベルタドーレスに初出場した<ref>[http://www.soccerway.com/matches/2012/02/15/south-america/copa-libertadores/zamora-futbol-club/boca-juniors/1240802/ Zamora vs. Boca Juniors 0 - 0] Soccerway、2012年2月15日</ref>。2月26日の[[ニューウェルズ・オールドボーイズ]]戦 (2-0) では、クラウスーラ2012での自身初得点となるボカの2点目を挙げた<ref>[http://www.soccerway.com/matches/2012/02/26/argentina/primera-division/boca-juniors/newell-s-old-boys/1240993/ Boca Juniors vs. Newell's Old Boys 2 - 0] Soccerway、2012年2月26日</ref>。2週間後の[[CAインデペンディエンテ]]戦 (4-5) でもボカの2点目を挙げ<ref>[http://www.soccerway.com/matches/2012/03/11/argentina/primera-division/boca-juniors/ca-independiente/1241014/ Boca Juniors vs. Independiente 4 - 5] Soccerway、2012年3月11日</ref>、さらにその2週間後の[[CAラヌース]]戦 (2-2) でもやはりボカの2点目を挙げた。41分のリケルメの得点により2-0とリードしたが、ボカは後半に2失点してラヌースと引き分けた<ref>[http://www.soccerway.com/matches/2012/03/26/argentina/primera-division/boca-juniors/ca-lanus/1241035/ Boca Juniors vs. Lanús 2 - 2] Soccerway、2012年3月26日</ref>。4月18日に行なわれたコパ・リベルタドーレスのサモラ戦では75分に駄目押しとなる得点を挙げ、この勝利で勝ち点を13として決勝トーナメント進出を決定させた<ref>[http://www.soccerway.com/matches/2012/04/19/south-america/copa-libertadores/boca-juniors/zamora-futbol-club/1240891/ Boca Juniors vs. Zamora 2 - 0] Soccerway、2012年4月19日</ref>。決勝トーナメント1回戦では[[ウニオン・エスパニョーラ]](チリ)と対戦し、5月2日に行なわれた1stレグ (2-1) では25分に先制点を挙げ、90分に{{仮リンク|サンティアゴ・シルバ|es|Santiago Silva}}の得点の起点となった<ref>[http://www.soccerway.com/matches/2012/05/03/south-america/copa-libertadores/boca-juniors/union-espanola/1281081/ Boca Juniors vs. Unión Española 2 - 1] Soccerway、2012年5月3日</ref>。5月9日に行なわれ2ndレグ (3-2) では、26分にフリーキックで{{仮リンク|フアン・マヌエル・インサウラルデ|label=フアン・インサウラルデ|es|Juan Manuel Insaurralde}}の得点をアシストし、50分に[[パブロ・モウチェ]]の得点をアシストしたほか、68分には自身も得点を決めて見せた<ref>[http://www.soccerway.com/matches/2012/05/10/south-america/copa-libertadores/union-espanola/boca-juniors/1281073/ Unión Española vs. Boca Juniors 2 - 3] Soccerway、2012年5月10日</ref>。準々決勝では[[フルミネンセFC]](ブラジル)と対戦。5月17日に行なわれた1stレグ (1-0) では、51分にモウチェが挙げた決勝点の起点となった<ref>[http://www.soccerway.com/matches/2012/05/18/south-america/copa-libertadores/boca-juniors/fluminense-football-club/1284228/ Boca Juniors vs. Fluminense 1 - 0] Soccerway、2012年5月18日</ref>。5月23日に行なわれた2ndレグは1-1の引き分けだったが、2戦合計2-1で準決勝進出を決めた。


2012年6月3日に行なわれたコパ・アルヘンティーナ準決勝では[[プリメーラB・ナシオナル]](2部)の{{仮リンク|CSデポルティーボ・メルロ|es|Club Social y Deportivo Merlo}}と対戦したが、57分には直接フリーキックを蹴ると見せかけた早いリスタートを行ない、チームメイトとのパス交換でゴール前に侵入してネットを揺らした。試合終了間際の89分に追いつかれたが、PK戦を5-4で制して勝ち上がりを決めた<ref>[http://www.soccerway.com/matches/2012/06/03/argentina/copa-argentina/boca-juniors/club-social-y-deportivo-merlo/1285907/ Boca Juniors vs. Deportivo Merlo 1 - 1] Soccerway、2012年6月3日</ref>。コパ・リベルタドーレスの準決勝では[[クルブ・ウニベルシダ・デ・チレ|ウニベルシダ・デ・チレ]](チリ)を下し、決勝は[[SCコリンチャンス・パウリスタ|コリンチャンス]](ブラジル)との対戦となった。しかし、2試合合計1-3で敗れ、7月4日の2ndレグ終了直後に現役引退宣言を行なった。この時34歳であり、プレーする気力がなくなったことを退団の理由に挙げた<ref>[http://www.goal.com/en-gb/news/2931/go-global/2012/07/05/3222538/copa-libertadores-defeat-may-spell-the-end-for-riquelme-at?source=breakingnews Copa Libertadores defeat may spell the end for Riquelme at Boca, but he will always be a legend] Goal.com、2012年7月5日</ref>。8月8日のコパ・アルヘンティーナ決勝はリケルメ不在のまま行われたが、ボカは[[ラシン・クルブ]]に2-1で勝利して優勝した。2012年前半には[[フリオ・セサル・ファルシオーニ]]監督との不仲が取り沙汰された<ref>[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/soccer/eusoccer/1112/columndtl/201202230007-spnavi?page=2 ボカを揺るがすリケルメと監督の対立 前期リーグ優勝チームに緊急事態] Goal.com、2012年2月24日</ref>。
嘗てボカ・ジュニアースで同僚であった[[高原直泰]]は、これまでに出会ったパサーの中でパスの精度が最も高いと感じた選手にリケルメを挙げている。高原曰く、「走り出すと数センチ単位で欲しい所にボールが来る。見事と言う他ない」。


==== 2012-13シーズン ====
==人物==
2012年10月にはオーストラリア・[[Aリーグ]]の[[メルボルン・シティFC|メルボルン・ハート]]や[[ウェスタン・シドニー・ワンダラーズFC]]がリケルメ獲得に興味を持っていると報じられたが、代理人のダニエル・ボロトニコフは報道を否定した<ref>[http://soccernet.espn.go.com/news/story/_/id/1192425/juan-roman-riquelme-agent-denies-a-league-interest?cc=3436 Riquelme agent denies A-League interest] ESPN Soccernet、2012年10月18日</ref>。2013年1月5日には[[メジャーリーグサッカー]]の[[クラブ・デポルティボ・チーヴァス・USA|チーヴァスUSA]]加入間近と報じられた。1月中旬にはビアンチが再びボカ監督に就任したため、リケルメのボカ復帰も取りざたされた<ref>[http://www.mlssoccer.com/news/article/2013/01/05/argentina-star-riquelme-reveals-he-nearly-joined-chivas-usa Argentine star Riquelme says he nearly joined Chivas USA] メジャーリーグサッカー公式サイト、2013年1月5日</ref>。ブラジルの[[SEパルメイラス]]への移籍もうわさされたが、パルメイラスのパウロ・ノブレ会長は移籍金の額や契約条件などを理由にリケルメ獲得から手を引いた<ref>[http://tn.com.ar/deportes/esencial/el-nuevo-presidente-del-palmeiras-duda-de-riquelme_368479?utm_source=feedburner&utm_medium=feed&utm_campaign=Feed%3A+com%2FSnFx+(TN) El nuevo presidente del Palmeiras duda de Riquelme] TN.com、2013年1月22日</ref><ref>[http://www.china.org.cn/sports/2013-01/25/content_27795187.htm Palmeiras rules out Riquelme deal] China.org、2013年1月25日</ref>。1月26日、リケルメはサッカー界に未練がないことを明らかにしたが<ref>[http://www.ellitoral.com.ar/es/articulo/236347/No-extrano-mucho-jugar-a-la-pelota-confeso-Juan-Roman-Riquelme "No extraño mucho jugar a la pelota", confesó Juan Román Riquelme] El Litoral、2013年1月26日</ref>、1月下旬にはアルヘンティノス<ref>[http://www.tiempodesanjuan.com/notas/2013/1/30/argentinos-ofertara-juan-roman-riquelme-25971.asp Argentinos ofertará por Juan Román Riquelme] Tiempo de San Juan、2013年1月30日</ref> やティグレ<ref>[http://www.foxsportsla.com/noticias/85380-juan-roman-riquelme-se-reunio-con-tigre Riquelme se reunió con Tigre] Fox Sports LA、2013年1月31日</ref> 加入の可能性が報じられた。2月3日にはティグレのオファーを受け入れたと報じられたが<ref>[http://deportes.terra.cl/futbol/internacional/juan-roman-riquelme-habria-aceptado-jugar-en-tigre,f74fe15f7b09c310VgnCLD2000009ccceb0aRCRD.html Juan Román Riquelme habría aceptado jugar en Tigre] Deportes Terra、2013年2月2日</ref>、2月4日にはボカ復帰に備えてビアンチ監督と接触していると報じられた<ref>[http://www.analisisdigital.com.ar/noticias.php?ed=1&di=0&no=178781 Según su representante, Román Riquelme está dispuesto a volver a Boca] Analisis Digital.com、2013年2月4日</ref>。
*貧民街出身。
*10人兄弟の長男。
*1男2女の父親。
*憧れの選手は[[ディエゴ・マラドーナ]]と[[ジネディーヌ・ジダン]]。
*ジダンの[[エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウ|サンティアゴ・ベルナベウ]]最後の試合ではユニフォームを交換した。
*[[パブロ・アイマール]]と非常に仲が良いことで知られている。
  インタビューで「好きな選手は?」との問いには必ず「アイマール」と答える。そのアイマールも「好きな選手は?」との問いには必ず「リケルメ」と答える。
*引退後はアイマールの地元のクラブで一緒にプレーするという計画があるらしい(アイマール発案)。
*[[カルロス・テベス]]は弟のような存在。
<!--*熱狂的なボケンセであり、いつかはボカに帰りたいとたびたび公言している。-->
*ゴール後にする[[トッポ・ジージョ]]ポーズが有名だが、これの起源として「娘が好きだから説」と「(ボカ在籍時に揉めていたマウリシオ・マクリ会長に対して)ファンの声が聞こえるかという挑発説」がある。後者の説は親しい友人たちによって暴露されてしまったものである。
*[[ラテン音楽]]であるクンビアを愛聴している。
*インタビューなどは苦手だが、メディアへの対応をこなすうちにかなり改善された模様。


2013年2月8日、ボカ復帰が発表された<ref>{{Cite web|和書|author=Goal.com |date=2013-02-12 |url=http://www.goal.com/jp/news/124/%E5%8D%97%E7%B1%B3/2013/02/12/3745189/%E3%83%9C%E3%82%AB%E5%BE%A9%E5%B8%B0%E3%82%92%E5%96%9C%E3%81%B6%E3%83%AA%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%A1 |title=ボカ復帰を喜ぶリケルメ |accessdate=2012-02-20}}</ref>。
==評価==
*[[国際サッカー連盟|FIFA]]技術部門トップであった[[ホルガー・オジェック]]氏が『世界のファンタジスタ6傑』に指名した事もある。([[サッカーフランス代表|フランス代表]][[ジネディーヌ・ジダン|ジダン]]、[[サッカーイタリア代表|イタリア代表]][[フランチェスコ・トッティ|トッティ]]、[[サッカーポルトガル代表|ポルトガル代表]][[デコ・ソウザ|デコ]]、『アルゼンチン代表[[フアン・ロマン・リケルメ|リケルメ]]』、[[サッカー日本代表|日本代表]][[中村俊輔]]、[[サッカーガーナ代表|ガーナ代表]][[スティーヴン・アッピアー|アッピアー]])
*[[コパ・リベルタドーレス|コパ・リベルタドーレスMVP]](2001年、2007年)
*スペイン・マルカ紙の選ぶ最も芸術的な選手(2005年)
*[[2006 FIFAワールドカップ|2006年ドイツW杯アシスト王]]


=== アルヘンティノス・ジュニアーズ ===
==所属クラブ==
2014年7月、ユース時代を過ごした[[AAアルヘンティノス・ジュニアーズ]]に移籍することが決定した<ref>[http://www.soccer-king.jp/news/world/world_other/20140721/213665.html リケルメ、古巣アルヘンティノスへ移籍「とても特別な日となった」] サッカーキング 2014年7月21日付</ref>。
*1996 - 2002  {{flagicon|Argentina}} [[ボカ・ジュニアーズ]]
*2002 - 2003  {{flagicon|Spain}} [[FCバルセロナ]]    
*2003 - 2007.2 {{flagicon|Spain}} [[ビジャレアルCF]]   
*2007.2 - 2007.7  →{{flagicon|Argentina}} ボカ・ジュニアーズ (loan)
*2007.8 - 2007.11  {{flagicon|Spain}} ビジャレアルCF  
*2007.11- {{flagicon|Argentina}} ボカ・ジュニアーズ 


2015年1月25日、現役引退を表明した<ref>[http://www.goal.com/jp/news/3203/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%B3/2015/01/26/8306722/%E5%85%83%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%B3%E4%BB%A3%E8%A1%A8%E3%81%AE%E3%83%AA%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%A1%EF%BC%93%EF%BC%96%E6%AD%B3%E3%81%A7%E7%8F%BE%E5%BD%B9%E5%BC%95%E9%80%80-%E3%82%82%E3%81%86%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%84?ICID=HP_BN_10 元アルゼンチン代表のリケルメ、36歳で現役引退 「もうプレーしない」] Goal 2015年1月26日付</ref>。
==タイトル==
{{MedalTop}}
{{MedalSport|男子 [[北京オリンピックにおけるサッカー競技|サッカー]]}}
{{MedalGold|[[北京オリンピック|2008]]|サッカー}}
{{MedalBottom}}
'''ボカ'''
*[[プリメーラ・ディビシオン (アルゼンチン)|アルゼンチン・プリメーラ・ディビシオン]]
:前期リーグ - '''優勝'''(1998年、2000年)<br>
:後期リーグ - '''優勝'''(1999年)


== 代表経歴 ==
*[[コパ・リベルタドーレス]] - '''優勝'''(2000年、2001年、2007年)
=== 世代別代表 ===
==== 南米ユース選手権とFIFAワールドユース選手権 ====
1995年8月、ユース代表監督に就任した[[ホセ・ペケルマン]]によってアルゼンチン世代別代表に招集された。1997年にはペケルマン監督によって[[南米ユース選手権]]に出場するメンバーに選出され、リケルメは全9試合に出場して3得点を挙げた。アルゼンチンは過去30年間で2度目の優勝を飾り、リケルメ、[[ワルテル・サムエル]]、[[パブロ・アイマール]]は記者選出の大会ベストイレブンに選出された<ref>[http://www.rsssf.com/tabless/sa-u20-97.html XVIII Sudamericano Juvenil 1997 (Chile)] RSSSF</ref>。この優勝で同年の[[1997 FIFAワールドユース選手権|FIFAワールドユース選手権]]出場権を獲得。マレーシアで行なわれた大会ではアルゼンチン代表のキャプテンを務め、グループリーグ全3試合に出場した。初戦のハンガリー戦 (3-0) では50分に得点し<ref>[http://www.fifa.com/tournaments/archive/tournament=104/edition=191276/matches/match=30981/report.html Hungary - Argentina] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130106205329/http://www.fifa.com/tournaments/archive/tournament%3D104/edition%3D191276/matches/match%3D30981/report.html |date=2013年1月6日 }} FIFA.com</ref>、2戦目のカナダ戦 (2-1) では55分に決勝点を挙げた<ref>[http://www.fifa.com/tournaments/archive/tournament=104/edition=191276/matches/match=30994/report.html Argentina - Canada] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130106205318/http://www.fifa.com/tournaments/archive/tournament%3D104/edition%3D191276/matches/match%3D30994/report.html |date=2013年1月6日 }} FIFA.com</ref>。最終戦のオーストラリア戦では88分にPKを決めて3-3の同点に追いついたが、試合終了間際に失点して3-4で敗れた<ref>[http://www.fifa.com/tournaments/archive/tournament=104/edition=191276/matches/match=31006/report.html Argentina - Australia] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130106205307/http://www.fifa.com/tournaments/archive/tournament%3D104/edition%3D191276/matches/match%3D31006/report.html |date=2013年1月6日 }} FIFA.com</ref>。アルゼンチンはグループ2位で決勝トーナメント進出を決め、決勝トーナメント1回戦のイングランド戦 (2-1) では10分にPKで得点した<ref>[http://www.fifa.com/tournaments/archive/tournament=104/edition=191276/matches/match=31016/report.html England - Argentina] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130301192756/http://www.fifa.com/tournaments/archive/tournament%3D104/edition%3D191276/matches/match%3D31016/report.html |date=2013年3月1日 }} FIFA.com</ref>。準々決勝のブラジル戦には2-0で勝利し<ref>[http://www.fifa.com/tournaments/archive/tournament=104/edition=191276/matches/match=31020/report.html Argentina - Brazil] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130117144256/http://www.fifa.com/tournaments/archive/tournament%3D104/edition%3D191276/matches/match%3D31020/report.html |date=2013年1月17日 }} FIFA.com</ref>、準決勝のアイルランド共和国戦には1-0で勝利した<ref>[http://www.fifa.com/tournaments/archive/tournament=104/edition=191276/matches/match=31022/report.html Republic of Ireland - Argentina] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130106205234/http://www.fifa.com/tournaments/archive/tournament%3D104/edition%3D191276/matches/match%3D31022/report.html |date=2013年1月6日 }} FIFA.com</ref>。決勝ではウルグアイを2-1で下し、アルゼンチンは3回目の優勝を飾った<ref>[http://www.fifa.com/tournaments/archive/tournament=104/edition=191276/matches/match=31024/report.html Uruguay - Argentina] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130106205223/http://www.fifa.com/tournaments/archive/tournament%3D104/edition%3D191276/matches/match%3D31024/report.html |date=2013年1月6日 }} FIFA.com</ref>。リケルメは4得点を挙げ、アルゼンチン代表はFIFAフェアプレー賞を受賞した。1998年5月にはフランスで開催された[[トゥーロン国際大会]]に出場。U-20アルゼンチン代表は決勝でフランスを破って優勝し、リケルメは大会最優秀選手に輝いた。


==== 北京オリンピック ====
*[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|トヨタカップ]] - '''優勝'''(2000年)
[[File:Argentina Brasil - Gol de Riquelme.jpg|thumb|right|250px|北京オリンピックのブラジル戦でPKを蹴るリケルメ]]
2008年、U-23アルゼンチン代表の[[セルヒオ・バティスタ]]監督は、[[2008年北京オリンピックのサッカー競技|北京オリンピック]]に出場するアルゼンチン代表に[[オーバーエイジ]] (OA) としてリケルメの招集を決定し<ref>{{Cite news |url=http://sportsillustrated.cnn.com/2008/soccer/07/03/argentina.olympic/index.html |title=Messi, Agüero, Riquelme named to Argentine Olympic team |publisher=Sports Illustrated |date=3 July 2008 |accessdate=10 October 2008}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=AFP BB News|date=2008.1.19|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2338246?pid=2535433|title=アルゼンチン 北京五輪に向けてリケルメら招集へ|accessdate=2009-07-11}}</ref>、キャプテンを任された。オーバーエイジ枠にはリケルメの他に[[ハビエル・マスチェラーノ]]と[[ニコラス・パレハ]]が選出され、その他には[[リオネル・メッシ]]や[[セルヒオ・アグエロ]]や[[アンヘル・ディ・マリア]]などが出場した。8月7日に行なわれたグループリーグ初戦のコートジボワール戦 (2-1) <ref>[http://www.fifa.com/tournaments/archive/mensolympic/beijing2008/matches/round=250016/match=300051788/report.html Côte d'Ivoire - Argentina] FIFA.com</ref>、2戦目のオーストラリア戦 (1-0)<ref>[http://www.fifa.com/tournaments/archive/mensolympic/beijing2008/matches/round=250016/match=300051787/report.html Argentina - Australia] FIFA.com</ref> にはフル出場したが、消化試合となった最終戦のセルビア戦 (2-0) には出場せず、マスチェラーノがキャプテンマークを巻いた<ref>[http://www.fifa.com/tournaments/archive/mensolympic/beijing2008/matches/round=250016/match=300051784/report.html Argentina - Serbia] FIFA.com</ref>。準々決勝ではオランダに2-1で勝利し<ref>[http://www.fifa.com/tournaments/archive/mensolympic/beijing2008/matches/round=250022/match=300051809/report.html Argentina - Netherlands] FIFA.com</ref>、準決勝のブラジル戦 (3-0) ではアグエロが2得点した後、76分にリケルメがPKで駄目押しとなる3点目を決めた<ref>[http://www.fifa.com/tournaments/archive/mensolympic/beijing2008/matches/round=250023/match=300051814/report.html Argentina - Brazil] FIFA.com</ref>。8月23日、[[北京国家体育場]](鳥の巣)に89,102人の観客が詰めかけた決勝でナイジェリアと対戦。1-0で勝利し、アルゼンチンは[[2004年アテネオリンピックのサッカー競技|アテネオリンピック]]に続いて大会2連覇を果たした<ref>[http://www.fifa.com/tournaments/archive/mensolympic/beijing2008/matches/round=250025/match=300051812/report.html Nigeria - Argentina] FIFA.com</ref>。


=== A代表 ===
'''ビジャレアル'''
1997年11月、[[ダニエル・パサレラ]]監督によって[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチンA代表]]に初招集され、11月16日、[[1998 FIFAワールドカップ・南米予選]]最終節の[[サッカーコロンビア代表|コロンビア]]戦 (1-1) で試合終了間際に出場してデビューを飾った。この試合はボカの本拠地である[[ラ・ボンボネーラ]]で行なわれている。リケルメはフランスで開催された[[1998 FIFAワールドカップ]]の出場メンバー入りは逃した。
*[[UEFAインタートトカップ]] - '''優勝'''(2004年)


==== コパ・アメリカ1999 ====
'''アルゼンチンU-20代表'''
1999年7月にはパラグアイで開催された[[コパ・アメリカ1999]]のメンバーに選出され、背番号22番を背負った。なお、この時のメンバーにはボカからリケルメ、[[ウーゴ・イバーラ]]、[[ワルテル・サムエル]]、[[ギジェルモ・バロスケロット]]、[[マルティン・パレルモ]]、[[ディエゴ・カーニャ]]の6人が選出された。グループリーグ初戦の[[サッカーエクアドル代表|エクアドル]]戦では試合終了間際までプレーし、3-1で勝利。2戦目のコロンビア戦にはフル出場したが、後半に3失点して0-3で敗れた。最終戦の[[サッカーウルグアイ代表|ウルグアイ]]戦にもフル出場して2-0で勝利し、アルゼンチンは勝ち点6のグループ2位で決勝トーナメント進出を決めた。準々決勝の[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]戦にもフル出場し、アルゼンチンは32分まで1-0でリードしていたが、最終的には1-2で敗れた<ref>[http://www.rsssf.com/tables/99safull.html#grC Group C - ARG COL ECU URU] RSSSF</ref>。
*[[南米ユース選手権|1997 南米ユース選手権]] - '''優勝'''
*[[1997 FIFAワールドユース選手権]] - '''優勝'''


2003年4月30日、トリポリで行なわれた[[サッカーリビア代表|リビア]]との親善試合 (3-1) で代表初得点を挙げた。2004年11月17日、[[2006 FIFAワールドカップ・南米予選]]の[[サッカーベネズエラ代表|ベネズエラ]]戦 (3-2) で代表2点目を決めた。2005年6月8日にブエノスアイレスで行なわれた同予選・[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]戦でも1得点して3-1の勝利に貢献した。同年10月9日に行なわれた南米予選の[[サッカーペルー代表|ペルー]]戦 (2-0) では、81分にPKで代表7点目を決めた。11月16日にドーハで行なわれた[[サッカーカタール代表|カタール]]との親善試合 (1-0) で代表8点目を決めた。
'''個人タイトル'''
*[[南米年間最優秀選手]](2001年)


==== FIFAコンフェデレーションズカップ2005 ====
== 関連項目 ==
2005年、[[ホセ・ペケルマン]]監督によって[[FIFAコンフェデレーションズカップ2005]]に出場するメンバーに選出され、背番号8番を渡された。グループリーグ初戦の[[サッカーチュニジア代表|チュニジア]](アフリカ代表)戦 (2-1) では33分にPKで先制点を挙げ<ref>[http://www.fifa.com/tournaments/archive/tournament=101/edition=8503/matches/match=85030001/report.html Argentina - Tunisia] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130106210346/http://www.fifa.com/tournaments/archive/tournament%3D101/edition%3D8503/matches/match%3D85030001/report.html |date=2013年1月6日 }} FIFA.com</ref>、2戦目の[[サッカーオーストラリア代表|オーストラリア]](オセアニア代表)戦 (4-2) でも31分にPKを決めた<ref>[http://www.fifa.com/tournaments/archive/tournament=101/edition=8503/matches/match=85030006/report.html Australia - Argentina] FIFA.com</ref>。最終戦の[[サッカードイツ代表|ドイツ]](開催国)戦 (2-2) では33分に同点ゴールを決め、アルゼンチンは勝ち点7のグループ首位タイで決勝トーナメント進出を決めた<ref>[http://www.fifa.com/tournaments/archive/tournament=101/edition=8503/matches/match=85030010/report.html Argentina - Germany] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130106205508/http://www.fifa.com/tournaments/archive/tournament%3D101/edition%3D8503/matches/match%3D85030010/report.html |date=2013年1月6日 }} FIFA.com</ref>。準決勝では[[サッカーメキシコ代表|メキシコ]](北中米カリブ海代表)と対戦。延長を終えて1-1の同点であり、リケルメはPK戦の1番手としてキックを成功させた。アルゼンチンはPK戦に6-5で勝利し、決勝進出を決めた<ref>[http://www.fifa.com/tournaments/archive/tournament=101/edition=8503/matches/match=85030014/report.html Mexico - Argentina] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130106205457/http://www.fifa.com/tournaments/archive/tournament%3D101/edition%3D8503/matches/match%3D85030014/report.html |date=2013年1月6日 }} FIFA.com</ref>。フランクフルトの[[ヴァルトシュタディオン]]で行なわれた決勝のブラジル(南米代表)戦にはフル出場したが、アルゼンチンは1-4で敗れて準優勝に終わった<ref>[http://www.fifa.com/tournaments/archive/tournament=101/edition=8503/matches/match=85030016/report.html Brazil - Argentina] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130106205446/http://www.fifa.com/tournaments/archive/tournament%3D101/edition%3D8503/matches/match%3D85030016/report.html |date=2013年1月6日 }}FIFA.com</ref>。ブラジルの[[アドリアーノ・レイテ・リベイロ|アドリアーノ]]が得点王とゴールデン・ボール(最優秀選手賞)を受賞し、リケルメはシルバー・ボール(最優秀選手賞次点)を受賞した。
*[[マラドーナ2世]]

{{ボカ・ジュニアーズのメンバー}}
==== 2006 FIFAワールドカップ ====
2006年、ドイツで開催される[[2006 FIFAワールドカップ]]のメンバーに選出され、敬愛する[[ディエゴ・マラドーナ]]も背負っていた背番号10番をA代表で初めて与えられた。グループCにはアルゼンチン、[[サッカーオランダ代表|オランダ]]、[[サッカーコートジボワール代表|コートジボワール]]、[[サッカーセルビア・モンテネグロ代表|セルビア・モンテネグロ]]が同居し、「[[死の組]]」と呼ばれた。初戦のコートジボワール戦では[[ハビエル・サビオラ]]の得点をアシストし、93分にアイマールとの交代でピッチから退いた<ref>[http://www.fifa.com/worldcup/archive/germany2006/results/matches/match=97410005/report.html Argentina - Ivory Coast] FIFA.com</ref>。2戦目のセルビア・モンテネグロ戦にはフル出場して6-0の圧勝に貢献。アルゼンチンは試合中に24本連続のパス成功を記録し、リケルメは[[エステバン・カンビアッソ]]の得点の起点となった以外にも<ref>[http://www.guardian.co.uk/football/2006/jun/18/worldcup2006.sport8 Lonesome Riquelme is the go-to man] Guardian、2006年6月18日</ref>、素早いリスタートで[[エルナン・クレスポ]]の得点の起点となり、[[国際サッカー連盟]] (FIFA) によってマン・オブ・ザ・マッチに選出された<ref>[http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/world_cup_2006/4853028.stm Argentina 6-0 Serbia & Montenegro] BBC Sport、2006年6月16日</ref><ref>[http://www.fifa.com/worldcup/archive/germany2006/results/matches/match=97410021/report.html Argentina - Serbia and Montenegro] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130117142551/http://www.fifa.com/worldcup/archive/germany2006/results/matches/match%3D97410021/report.html |date=2013年1月17日 }} BBC Sport</ref>。オランダ代表戦はスコアレスドローに終わり、リケルメ自身は80分にアイマールと交代したが、アルゼンチンは勝ち点7のグループ首位で決勝トーナメント進出を決めた<ref>[http://www.fifa.com/worldcup/archive/germany2006/results/matches/match=97410037/report.html Netherlands - Argentina] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130106022148/http://www.fifa.com/worldcup/archive/germany2006/results/matches/match%3D97410037/report.html |date=2013年1月6日 }} FIFA.com</ref>。自身の28回目の誕生日(6月24日)に行なわれた決勝トーナメント1回戦では、[[サッカーメキシコ代表|メキシコ]]と対戦。6分に先制点を許したが、10分にコーナーキックでクレスポの得点をアシストした<ref>[http://gabrielbatistuta.net/worldcup/2006/argvsmex_1.html 2nd Round Match: Argentina 2 - 1 Mexico] Gabriel Batistuta.net</ref>。試合は延長戦までもつれたが、98分に[[マキシ・ロドリゲス]]が美しいボレーシュートを決めてアルゼンチンが勝利した<ref>[http://www.fifa.com/worldcup/archive/germany2006/results/matches/match=97410050/report.html Argentina - Mexico] FIFA.com</ref>。準々決勝では開催国の[[サッカードイツ代表|ドイツ]]と対戦し、49分にコーナーキックで[[ロベルト・アジャラ]]の得点をアシスト。72分にカンビアッソと交代したが、その数分後に同点ゴールを許し、アルゼンチン代表はPK戦の末に敗れた<ref>[http://www.fifa.com/worldcup/archive/germany2006/results/matches/match=97410057/report.html Germany - Argentina] FIFA.com</ref>。自身は5アシストを記録し、大会のアシストランキング1位となった。

2006年には[[アルフィオ・バシーレ]]新監督によってアルゼンチン代表のキャプテンに任命された。ブラジル戦に0-3で敗れると、キャプテンのリケルメが強い批判を浴び、母親が体調を崩して2度も入院したため、「何よりも大事なのは家族」と述べて9月13日に代表引退を発表した。この時点では通算37試合出場8得点を記録していた<ref>{{Cite web|和書|url=http://sports.yahoo.com/sow/news?slug=reu-riquelme&prov=reuters&type=lgns |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2006-12-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20030828192616/http://sports.yahoo.com/sow/news?slug=reu-riquelme&prov=reuters&type=lgns |archivedate=2003-08-28 |url-status=dead|url-status-date=2017-09 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.clarin.com/diario/2006/09/13/um/m-01270823.htm |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2015-02-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100505062819/http://www.clarin.com/diario/2006/09/13/um/m-01270823.htm |archivedate=2010-05-05 |url-status=dead|url-status-date=2017-09 }}Yahoo! Sports、2006年9月13日</ref>。

==== コパ・アメリカ2007 ====
[[File:Argentina celebrates goal, Copa América 2007.jpg|thumb|right|250px|コパ・アメリカ2007のペルー戦でゴールを祝うリケルメ (背番号10)]]
2007年6月26日、バシーレ監督によりベネズエラで開催される[[コパ・アメリカ2007]]に出場するメンバーに選出された。グループリーグ初戦は招待国の[[サッカーアメリカ合衆国代表|アメリカ]]戦となり、アルゼンチンは4-1で勝利。2戦目の[[サッカーコロンビア代表|コロンビア]]戦 (4-2) では34分にヘディングで、45分に直接フリーキックで得点し、アルゼンチンの勝利に貢献した。最終戦の[[サッカーパラグアイ代表|パラグアイ]]戦にも勝利し、3戦全勝でグループリーグ突破を決めた。準々決勝ではペルーと対戦し、後半だけで再び2得点を挙げたほか、61分にはメッシの得点をアシストした。準決勝では招待国のメキシコと対戦し、45分に[[ガブリエル・エインセ]]の得点をアシストし、65分にはPKで駄目押しとなる得点を挙げ、3-0の勝利に貢献した。決勝ではブラジルに敗れたものの大会を通じて5得点を記録し、[[ロビーニョ]](ブラジル)に次いで得点ランキングの2位となった<ref>[http://rsssf.com/tables/2007safull.html#final Copa América 2007] RSSSF</ref>。

==== 2010 FIFAワールドカップ ====
2007-08シーズン序盤はビジャレアルで冷遇されており、公式戦への出場はゼロだったにも関わらず代表に招集されると、10月13日に行なわれた[[2010 FIFAワールドカップ・南米予選]]初戦の[[サッカーチリ代表|チリ]]戦 (2-0) では直接フリーキックから2得点し、アルゼンチンは幸先よいスタートを切った。11月17日の同予選・ボリビア戦 (3-0) では再び2得点を挙げた。2008年10月のマラドーナ監督就任後も中心選手の役割を担ったが、2009年3月にはマラドーナ監督にテレビ番組でプレーを批判され、監督との意見の不一致から代表引退を表明した<ref>{{Cite news |url=http://www.telegraph.co.uk/sport/football/international/4973953/Juan-Roman-Riquelme-quits-Argentina-after-Maradona-row.html |title=Juan Roman Riquelme quits Argentina after Maradona row |publisher=The Daily Telegraph |location=London |first=Perry |last=Crooke |date=11 March 2009 |accessdate=5 September 2009}}</ref>。

==== 2010年以後 ====
2010年夏には[[セルヒオ・バティスタ]]監督が就任し、リケルメの招集に前向きな発言を残したが、2011年7月に解任されるまでに代表復帰には至らなかった。2011年7月には[[アレハンドロ・サベーラ]]監督が就任。2011年8月、サベーラ監督は初采配試合となる[[スーペルクラシコ・デ・ラス・アメリカス]]のブラジル戦に向け、国内リーグ所属選手のみで構成されたアルゼンチン代表にリケルメを招集した。約2年ぶりの代表復帰となったが、クラブの試合で負傷して代表を離脱した<ref>[http://www.goal.com/en/news/585/argentina/2011/09/14/2665993/argentinas-alejandro-sabella-laments-loss-of-juan-roman-riquelme- Argentina's Alejandro Sabella laments loss of Juan Roman Riquelme & Juan Sebastian Veron] Goal.com、2011年9月14日</ref>。

== 現役引退後 ==
2019年12月に行われるボカ・ジュニアーズの会長選挙には、マウリシオ・マクリ前会長(当時アルゼンチン大統領)の腹心である現職の[[ダニエル・アンジェリッシ]]会長とその対立勢力である元会長の[[ホルヘ・アモール・アメアル]]、元副会長のホセ・ベラルディの三者が立候補していた。マクリ前会長とその側近であった現執行部(マクリ派)との確執から引退後はボカ・ジュニアーズと距離を置いていたリケルメは、アメアル支持を表明し、アメアル当選の暁には第二副会長として入閣することが内定し、アメアル陣営として選挙戦に関わった。かつてのアイドルであるリケルメを擁するアメアル派は急速に支持を伸ばし、またアンジェリッシの後ろ盾であったマクリも2019年10月28日のアルゼンチン大統領選挙に敗れて退陣していたことも追い風となり、12月8日の会長選挙で52.8%の支持を得たアメアルが当選を果たした。新会長にはアメアルが就任し、第一副会長にはジャーナリスト兼プロデューサーのマリオ・ペルゴーニ(渉外担当)、第二副会長にリケルメが就任した(競技部門担当)<ref>[https://www.footballista.jp/news/77339 リケルメ、ボカの副会長に就任。会長選を動かした「神」の降臨] footballista、2019年12月12日付</ref>。

競技部門のトップとして、現場における全権を得たリケルメは、下部組織の強化を図る反面、トップチームの成績は19-20シーズンおよび22シーズンこそ優勝したものの、21と23シーズンは4位と7位と低迷し、また期待された2007年以来の[[コパ・リベルタドーレス]]の優勝からも遠ざかった(2023シーズンは準優勝)。また監督人事にも失敗し、リケルメがトップとなってからの4年間で毎年のように監督が挿げ替えられた。2023年12月に行われるボカ・ジュニアーズの会長選挙では、現職のアメアルの後継としてリケルメが立候補。一方、リケルメと確執のあるマクリも対抗馬としてアンドレス・イバーラを擁立し、両者の決選投票となった。12月17日に行われた投票でリケルメが64%の得票率を得てイバーラを破り、新会長に選出された<ref>[https://web.ultra-soccer.jp/news/view?news_no=455704 リケルメがボカ・ジュニアーズ新会長に選出! 2019年から副会長務める] 超WORLDサッカー!、2023年12月18日付</ref>。

== 人物 ==
1男2女の父親である。憧れの選手は[[ディエゴ・マラドーナ]]と[[ジネディーヌ・ジダン]]であり、[[パブロ・アイマール]]と仲が良い<ref>[http://news.livedoor.com/article/detail/1944074/ リケルメ、ペケルマンとの不仲を否定] livedoorスポーツ、2006年5月10日</ref>。[[ラテン音楽]]である[[クンビア]]を愛聴している<ref>[http://www.clarin.com/deportes/futbol/Riquelme_0_920908028.html Riquelme: "Nadie puede dar por muerto a Boca"] Clarin、2013年5月16日</ref>。

ゴール後には[[トッポ・ジージョ]]ポーズ(耳に手を当てる動作)の[[ゴールパフォーマンス]]をする。このポーズの由来には「娘が好きだから」という説と「ファンの声が聞こえるか」という説がある<ref>[http://sports.livedoor.com/article/detail-1513109.html マラドーナ、‘10番の夜’でリケルメにインタビュー] livedoorスポーツ、2005年9月8日</ref>。ボカ在籍時にはマウリシオ・マクリ会長と対立しており、後者の説はファンは自分の味方であるとして会長を挑発しているというものである。

[[2022 FIFAワールドカップ]]・準々決勝の[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]]と[[サッカーオランダ代表|オランダ代表]]の一戦で、得点を決めたメッシが、このパフォーマンスをオランダ代表のベンチへ披露した。オランダ代表監督であったファン・ハールが、試合前にメッシを軽視する発言をしたことに加え、前述のバルセロナ時代にリケルメを冷遇したことへの反撃として行ったとみられている。

== 個人成績 ==
=== クラブでの出場記録 ===
{|class="wikitable" style="text-align:center;"
|-
!colspan=3|所属クラブ
!colspan=2|国内リーグ
!colspan=2|国内カップ
!colspan=2|国際カップ
!colspan=2|合計
|-
!シーズン
!クラブ
!リーグ
!出場!!得点
!出場!!得点
!出場!!得点
!出場!!得点
|-
!colspan=3|アルゼンチン
!colspan=2|リーグ
!colspan=2|カップ
!colspan=2|[[CONMEBOL|南米カップ]]
!colspan=2|合計
|-
|1996-97||rowspan="6"|[[ボカ・ジュニアーズ]]||rowspan="6"|[[プリメーラ・ディビシオン (アルゼンチン)|プリメーラ]]||22||4||||||||||22||4
|-
|1997-98||19||0||||||2||0||21||0
|-
|1998-99||37||10||||||5||0||42||10
|-
|1999-2000||24||4||||||16||3||40||7
|-
|2000-01||27||10||||||14||3||41||13
|-
|2001-02||22||10||||||6||0||28||10
|-
|colspan="3"|'''通算'''||'''151'''||'''38'''||||||'''43'''||'''6'''||'''194'''||'''44'''
|-
!colspan=3|スペイン
!colspan=2|リーグ
!colspan=2|[[コパ・デル・レイ]]
!colspan=2|[[UEFA|欧州カップ]]
!colspan=2|合計
|-
|2002-03||[[FCバルセロナ|バルセロナ]]||[[プリメーラ・ディビシオン|ラ・リーガ]]||30||3||1||1||11||2||42||6
|-
|2003-04||rowspan="2"|[[ビジャレアルCF|ビジャレアル]] (loan) ||rowspan="2"|ラ・リーガ||33||8||3||1||12||4||48||13
|-
|2004-05||35||15||0||0||11||2||46||17
|-
|2005-06||rowspan="2"|[[ビジャレアルCF|ビジャレアル]]||rowspan="2"|ラ・リーガ||25||12||1||0||12||2||38||14
|-
|2006-07||13||1||0||0||-||-||13||1
|-
|colspan="3"|'''通算'''||'''136'''||'''39'''||'''5'''||'''2'''||'''46'''||'''10'''||'''187'''||'''51'''
|-
!colspan=3|アルゼンチン
!colspan=2|リーグ
!colspan=2|カップ
!colspan=2|[[CONMEBOL|南米カップ]]
!colspan=2|合計
|-
|2007||rowspan="1"|[[ボカ・ジュニアーズ]] (loan) ||rowspan="1"|[[プリメーラ・ディビシオン (アルゼンチン)|プリメーラ]]||15||2||||||11||8||26||10
|-
|2007-08||rowspan="5"|[[ボカ・ジュニアーズ]]||rowspan="5"|[[プリメーラ・ディビシオン (アルゼンチン)|プリメーラ]]||10||1||||||10||4||20||5
|-
|2008-09||28||5||||||7||4||35||9
|-
|2009-10||24||3||||||2||0||26||3
|-
|2010-11||13||4||||||||||13||4
|-
|2011-12||21||4||2||1||9||3||32||8
|-
|colspan="3"|通算||111||19||2||1||39||19||152||39
|-
!rowspan=2| 通算 !!colspan=2|アルゼンチン
!262||57||2||1||82||25||346||83
|-
!colspan=2|スペイン
!136||39||5||2||46||10||187||51
|-
!colspan=3|通算
!398||96||7||3||128||35||533||134
|}

=== 代表での年別出場記録 ===
{| class="wikitable" style="text-align:center"
! colspan=3 | [[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]]
|-
! 年 !! 出場 !! 得点
|-
|-
|1997||1||0
|-
|1998||0||0
|-
|1999||5||0
|-
|2000||0||0
|-
|2001||0||0
|-
|2002||1||0
|-
|2003||3||1
|-
|2004||6||1
|-
|2005||13||6
|-
|2006||8||0
|-
|2007||9||9
|-
|2008||5||0
|-
! 通算 || 51 || 17
|}

=== 代表での得点 ===
{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed"
! # !! 日付 !! 場所 !! 対戦相手 !! 最終<br>スコア !! 勝敗 !! 大会
|-
| 1. || 2003年4月30日 || {{Flagicon|LBY}} [[トリポリ]] || {{LBY1977f}} || align=center| 3-1 || align=center| ○ || 親善試合
|-
| 2. || 2004年11月17日 || rowspan="2" | {{Flagicon|ARG}} [[ブエノスアイレス]] || {{VENf}} || align=center| 3-2 || align=center| ○ || rowspan=2| [[2006 FIFAワールドカップ・南米予選]]
|-
| 3. || 2005年6月8日 ||{{BRAf}} || align=center| 3-1 || align=center| ○
|-
| 4. || 2005年6月15日 || {{Flagicon|GER}} [[ケルン]] || {{TUNf}} || align=center| 2-1 || align=center| ○ || rowspan=3| [[FIFAコンフェデレーションズカップ2005]]
|-
| 5. || 2005年6月18日 || rowspan="2" | {{Flagicon|GER}} [[ニュルンベルク]] || {{AUSf}} || align=center| 4-2 || align=center| ○
|-
| 6. || 2005年6月21日 ||{{GERf}} || align=center| 2-2 || align=center| △
|-
| 7. || 2005年10月9日 || {{Flagicon|ARG}} [[ブエノスアイレス]] || {{PERf}} || align=center| 2-0 || align=center| ○ || [[2006 FIFAワールドカップ・南米予選]]
|-
| 8. || 2005年11月16日 || {{Flagicon|QAT}} [[ドーハ]] || {{QATf}} || align=center| 3-0 || align=center| ○ || 親善試合
|-
| 9. || rowspan=2| 2007年7月2日 || rowspan=2| {{Flagicon|VEN}} [[マラカイボ]] || rowspan=2| {{COLf}} || rowspan=2 align=center| 4-2 || rowspan=2 align=center| ○ || rowspan=5| [[コパ・アメリカ2007]]
|-
| 10.
|-
| 11. || rowspan=2| 2007年7月8日 || rowspan=2| {{Flagicon|VEN}} [[バルキシメト]] || rowspan=2| {{PERf}} || rowspan=2 align=center| 4-0 || rowspan=2 align=center| ○
|-
| 12.
|-
| 13. || 2007年7月11日 || {{Flagicon|VEN}} [[プエルト・オルダス]] || {{MEXf}} || align=center| 3-0 || align=center| ○
|-
| 14. || rowspan=2| 2007年10月13日 || rowspan="4" | {{Flagicon|ARG}} [[ブエノスアイレス]] || rowspan=2| {{CHIf}} || rowspan=2 align=center| 2-0 || rowspan=2 align=center| ○ || rowspan=4| [[2010 FIFAワールドカップ・南米予選]]
|-
| 15.
|-
| 16. || rowspan=2| 2007年11月17日 || rowspan="2" |{{BOLf}} || rowspan=2 align=center| 3-0 || rowspan=2 align=center| ○
|-
| 17.
|}

== タイトル ==
=== クラブ ===
; ボカ・ジュニアーズ
* [[プリメーラ・ディビシオン (アルゼンチン)|アルゼンチン・プリメーラ・ディビシオン]] (5) : 1998-99[[アペルトゥーラとクラウスーラ|A]], 1998-99[[アペルトゥーラとクラウスーラ|C]], 2000-01A, 2008-09A, 2011-12A
* [[コパ・リベルタドーレス]] (3) : [[コパ・リベルタドーレス|2000]], 2001, 2007
* [[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|インターコンチネンタルカップ]] (1) : 2000
* [[レコパ・スダメリカーナ]] (1) : 2008
* [[コパ・アルヘンティーナ]] (1) : 2011-12

; ビジャレアル
* [[UEFAインタートトカップ]] (2) : 2003, 2004

=== 代表 ===
; U-20アルゼンチン代表
* [[南米ユース選手権]] (1) : 1997
* [[FIFA U-20ワールドカップ|FIFAワールドユース選手権]] (1) : [[1997 FIFAワールドユース選手権|1997]]

; U-21アルゼンチン代表
* [[トゥーロン国際大会]] (1) : 1998

; U-23アルゼンチン代表
* [[オリンピックのサッカー競技|夏季オリンピック]] (1) : [[2008年北京オリンピックのサッカー競技|2008]]

=== 個人 ===
* [[トゥーロン国際大会]]最優秀選手賞 (1) : 1998
* アルゼンチン年間最優秀選手賞 (4) : 2000, 2001, 2008, 2011
* [[南米年間最優秀選手賞]] (1) : 2001
* [[コパ・リベルタドーレス]]2001 決勝ファーストレグ マン・オブ・ザ・マッチ : 2001
* [[ドン・バロン・アワード]] 最優秀外国人選手賞 (1) : 2004-05
* [[マルカ (新聞)|マルカ]]紙選出 もっとも芸術的な選手 (1) : 2005
* [[FIFAコンフェデレーションズカップ]]シルバーボール (1) : 2005
* [[2006 FIFAワールドカップ]] アシスト王
* [[コパ・リベルタドーレス]]2007 決勝ファーストレグ マン・オブ・ザ・マッチ
* [[コパ・リベルタドーレス]]2007 決勝セカンドレグ マン・オブ・ザ・マッチ
* [[コパ・リベルタドーレス]] 週間最優秀選手 : 2012年5月8-10日
* [[オレ (新聞)|オレ]]紙選出 最優秀MF賞 : 2012
* [[オレ (新聞)|オレ]]紙選出 最優秀アルゼンチン人選手賞 : 2012
* [[コパ・リベルタドーレス]] 歴代ベストイレブン

== 脚注 ==
{{Reflist|3}}

== 外部リンク ==
{{Commons|Category:Juan Román Riquelme}}
*[http://www.futbolxxi.com/Futbolista.aspx?ID=9446&SEOFutbolista=Riquelme+Juan+Roman Argentine League statistics] {{es icon}}
*[http://historiadeboca.com.ar/jugadores.asp?CodJug=727&OpTipoTorneos=6 Riquelme, Juan Román]; Historia de Boca {{es icon}}
*[http://www.bdfutbol.com/en/j/j1692.html BDFutbol profile]
*{{Nfteams|332}}
*{{FIFA player|166380}}
*[http://www.juanromanriquelme.com.ar Official website]
*[https://web.archive.org/web/20061108200641/http://www.riquelme-web.com.ar/ Tribute site] {{es icon}}
*[http://www.futbol360.com.ar/jugadores/argentina/riquelme-juan-roman/ Futbol360 profile] {{es icon}}
*[https://web.archive.org/web/20111120234114/http://guardian.touch-line.com/StatsCentre.asp?Lang=0&CTID=60&CPID=137&pStr=Player&PLID=54772&TEID=3364 Guardian Stats Centre]

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|title=タイトル・受賞歴
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{{南米年間最優秀選手賞}}
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|title= アルゼンチン代表- 出場大会
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[[ar:خوان رومان ريكيلمي]]
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[[ml:യുവാന്‍ റോമന്‍ റിക്വെല്‍മി]]
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[[no:Juan Román Riquelme]]
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[[ru:Рикельме, Хуан Роман]]
[[sk:Juan Román Riquelme]]
[[sv:Juan Román Riquelme]]
[[tr:Juan Román Riquelme]]
[[zh:胡安·罗曼·里克尔梅]]

2024年7月16日 (火) 07:30時点における最新版

フアン・ロマン・リケルメ
2019年のリケルメ
名前
愛称 ロマン、ロミー
ラテン文字 Juan Román RIQUELME
基本情報
国籍 アルゼンチンの旗 アルゼンチン
生年月日 (1978-06-24) 1978年6月24日(46歳)
出身地 ティグレ・パルティード
ドン・トルクアト
サン・ホルヘ地区[1]
身長 182cm
体重 75kg
選手情報
ポジション MF(OMF)
利き足 右足
ユース
1992-1995 アルゼンチンの旗 アルヘンティノス
1995-1996 アルゼンチンの旗 ボカ・ジュニアーズ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1996-2002 アルゼンチンの旗 ボカ・ジュニアーズ 151 (38)
2002-2005 スペインの旗 バルセロナ 30 (3)
2003-2005 スペインの旗 ビジャレアル (loan) 70 (27)
2005-2007 スペインの旗 ビジャレアル 49 (15)
2007 アルゼンチンの旗 ボカ・ジュニアーズ (loan) 15 (2)
2008-2014 アルゼンチンの旗 ボカ・ジュニアーズ 165 (35)
2014 アルゼンチンの旗 アルヘンティノス 18 (5)
通算 495 (123)
代表歴
1997-1998 アルゼンチンの旗 アルゼンチン U-20 21 (7)
2008  アルゼンチン U-23 6 (1)
1997-2008 アルゼンチンの旗 アルゼンチン 51 (17)
獲得メダル
男子 サッカー
オリンピック
2008 北京 サッカー
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

フアン・ロマン・リケルメJuan Román Riquelme, 1978年6月24日 - )は、アルゼンチンブエノスアイレス州ティグレ・パルティードドン・トルクアト出身の元サッカー選手。現役時代のポジションはミッドフィールダー。元アルゼンチン代表。現在はボカ・ジュニアーズ会長。

1996年にボカ・ジュニアーズからデビュー。2002年にスペインに渡り、FCバルセロナビジャレアルCFでプレーした後、2008年には古巣ボカ・ジュニアーズに復帰した。アルゼンチン代表としては、コパ・アメリカ19992006 FIFAワールドカップ北京オリンピックなどに出場した。アルゼンチン年間最優秀選手賞を4回受賞しており[2]、2001年には南米年間最優秀選手賞を受賞した。リケルメ自身ほぼ自分のポジションから動かず、自らの出す極めて精度の高いパスで味方選手を動かすという現在のサッカー界ではほとんど絶滅してしまったプレースタイルの持ち主であり、その古めかしさからしばしば「恐竜」というあだ名で呼ばれている。

クラブ経歴

[編集]

ユース時代

[編集]

ブエノスアイレスの北部郊外にあるティグレ・パルティードの、貧困者が多く住む町の質素で貧しい家庭に、11人兄弟の長男として生まれた[3]。リケルメの誕生日(1978年6月24日)はアルゼンチンで開催された1978 FIFAワールドカップの大会期間中であり、翌日の6月25日にエル・モヌメンタルで行なわれた決勝では、マリオ・ケンペスなどの活躍によりアルゼンチン代表オランダ代表を破って優勝を決めた。地元のドン・トルクアト市からほど近いサン・フェルナンド市でサッカーを始め、1992年にAAアルヘンティノス・ジュニアーズのジュニアチームのトライアルを受ける機会を得た。アルヘンティノスではセンターハーフとしてプレーし、ユースチーム時代にはボカ・ジュニアーズCAリーベル・プレートから注目を浴びた。1995年、アルヘンティノスのU-20チームからボカのU-20チームに移籍し、アルヘンティノスには移籍金80万ドルが支払われた。

ボカ・ジュニアーズ

[編集]

ボカでトップ下に転向した。トップチームのカルロス・ビラルド監督に見出され、1996年11月11日、CAウニオン戦 (2-0) でトップチームデビューし、2週間後のCAウラカン戦 (6-0) ではトップチーム初得点を挙げた。1998年にはカルロス・ビアンチ監督が就任し、背番号10を手渡されてレギュラーに定着。アペルトゥーラ1998でリーグ戦自身初優勝を飾り、クラウスーラ1999でも優勝して1998-99シーズンは前後期制覇を遂げた。2000年のコパ・リベルタドーレスでは、ラウンド16でCDエル・ナシオナル(エクアドル)、準々決勝でリーベル、準決勝でクラブ・アメリカ(メキシコ)、決勝でSEパルメイラス(ブラジル)を下して南米王者に輝いた。アペルトゥーラ2000でも優勝したほか、同年末に日本で開催されたトヨタカップではレアル・マドリード(スペイン)を下して優勝し、2000年は国内外で3冠を達成した。2001年にはコパ・リベルタドーレスで2連覇を果たしたが、インターコンチネンタルカップではバイエルン・ミュンヘン(ドイツ)に敗れて2連覇を逃した。ボカでの在籍期間の終盤にはマウリシオ・マクリ会長との確執があり、ヨーロッパのクラブへの移籍を要求してリーグ戦出場を拒否する行動に出た。

バルセロナ

[編集]

2002年11月後半、移籍金1100万ユーロでスペインのFCバルセロナに移籍した[4]。この契約直前には弟の誘拐事件が起こり、リケルメ自らが解放交渉を行なった。身代金を支払って弟は解放されたが、この事件がボカ退団の理由のひとつであったと後に語っている。バルセロナでは背番号10番を渡されたが、ルイ・ファン・ハール監督はリケルメの獲得を「政治的な契約」であると語り[5]、彼を冷たくあしらった。出場機会は少なく、不慣れなウイングとしても起用された。その多くが途中出場だったためにボカ時代のプレーからは程遠く、トップチームでのポジションを失っていった。コパ・デル・レイ要員となり、珍しく先発で起用されたUEFAチャンピオンズリーググループリーグのクラブ・ブルッヘ戦では決勝点を挙げた。ファン・ハール解任後に就任したラドミル・アンティッチ監督からも信頼を勝ち取れず、不本意な成績で2002-03シーズンを終えた。2003年夏にはロナウジーニョが加入したことで背番号10番を剥奪され、EU外選手枠を超えたためにトップチームの練習から締め出された。戦術面では相容れないリケルメとファン・ハールだったが、「プロフェッショナルだなと思ったのは、いったんクラブの外に出たらとても親切に接してくれたこと。長男が生まれたときは、直々に出産祝いのプレゼントをくれたんだ」と振り返っている[6]

ビジャレアル

[編集]
ビジャレアル時代のリケルメ

2003年8月、同じプリメーラ・ディビシオンビジャレアルCFにレンタル移籍した。ボカ時代にチームメイトだったセバスティアン・バタグリアルシアーノ・フィゲロアと再会し、さらにビジャレアルにはロドルフォ・アルアバレーナフアン・パブロ・ソリンなどのアルゼンチン人選手も在籍していた。ベニート・フローロ監督がシーズン途中に退任し、チリ人マヌエル・ペレグリーニ監督が就任すると、チームのキープレーヤーとして輝きを取り戻した。2003-04シーズンには33試合に出場して8得点し、UEFAカップではクラブ最高位のベスト4となった。2004年夏には本人の希望により、ユニフォームのネームを「RIQUELME」からボカ時代に慣れ親しんだ「ROMAN」に変更。2004-05シーズンはUEFAカップでベスト8となったほか、リーグ戦では35試合に出場して15得点し、25得点を挙げたディエゴ・フォルランが得点王に輝いた。ビジャレアルはクラブ史上最高位の3位となり、UEFAチャンピオンズリーグ予選3回戦の出場権を獲得した。マルカ紙は「もっとも芸術的な選手」にリケルメを選出し、またFIFA最優秀選手賞にノミネートされた。

2005年夏にバルセロナからのレンタル期間が終了したが、ビジャレアルはバルセロナに800万ユーロを支払って保有権の75%を購入し、リケルメと4年契約を結んだ[7][8]。クラブ間の契約書には、ビジャレアルから他クラブに移籍した際に発生する移籍金の25%がバルセロナに支払われるという条項が加えられた。2005-06シーズンのUEFAチャンピオンズリーグではマンチェスター・ユナイテッドFC(イングランド)、SLベンフィカ(ポルトガル)、リール(フランス)と同組となり、初出場のビジャレアルはグループ首位での決勝トーナメント進出を決めた。グループ2位にはベンフィカが入り、強豪マンチェスター・ユナイテッドをグループリーグ敗退に追いやっている。バルセロナへの移籍金はリケルメの活躍次第で1000万ユーロまで上昇する条項が設けられており、①UEFAチャンピオンズリーグでグループリーグを突破する、②2005-06シーズンのリーグ戦を4位以内で終える、③2006-07シーズンのリーグ戦を4位以内で終える、の3つの場合にそれぞれ100万ユーロが支払われることになっていたが、ビジャレアルは①のみクリアしたため、計100万ユーロが移籍金に上乗せされている。UEFAチャンピオンズリーグの決勝トーナメント1回戦ではレンジャーズFC(スコットランド)、準々決勝ではインテル(イタリア)を破り、準決勝ではアーセナルFC(イングランド)と対戦したが、2ndレグの終盤にリケルメが蹴ったPKがイェンス・レーマンに止められ、スコアレスドローに終わった。1stレグに0-1で敗れていたため、2戦合計0-1でビジャレアルの敗退が決まった[9]。2006年5月7日にエスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウで行われたレアル・マドリード戦は、ジネディーヌ・ジダンにとってレアル・マドリードでの最後のホームゲームとなった。試合終了後の記者会見でジダンはリケルメのプレーを称賛しており、ふたりは更衣室への通路でユニフォーム交換を行なった[10]

2006年9月24日、エスタディオ・エル・マドリガルでのレアル・サラゴサ戦 (3-2) でシーズン初得点を挙げた[11]。2006-07シーズン前半戦には他の選手、ペレグリーニ監督、クラブの首脳陣と確執を起こし、リーグ戦では13試合の出場にとどまり、コパ・デル・レイでは出場機会なしに終わった。

ボカへのレンタル移籍

[編集]

2007年2月、6月30日までの契約で古巣ボカにレンタル移籍した[12][13]。2月17日、クラウスーラ2007のCAロサリオ・セントラル戦 (1-1) でデビューを飾り、3月9日のCAインデペンディエンテ戦 (1-1) の54分に移籍後初得点となる同点ゴールを決めた[14]。同年のコパ・リベルタドーレスでは、3月22日に行なわれたデポルティーボ・トルーカFC戦 (3-0) で初得点を挙げた。ボカはグループリーグで勝ち点10を獲得し、グループ2位で決勝トーナメント進出を決めた。ラウンド16ではCAベレス・サルスフィエルドと対戦し、1stレグ (3-0) の試合開始1分に先制点を挙げて勝ち上がりに貢献。準々決勝ではリベルタ(パラグアイ)と対戦し、2ndレグの61分に先制点を挙げた。準決勝のククタ・デポルティーボFC戦(コロンビア)2ndレグでは、直接フリーキックで先制点を挙げて勝利に貢献した。決勝ではグレミオ(ブラジル)と対戦した。1stレグの18分には、リケルメが蹴ったフリーキックからロドリゴ・パラシオの先制点が生まれ、73分には直接フリーキックを決めてホームでの勝利に貢献した。2ndレグでは後半に2得点し、クラブとして6度目の同大会制覇に大きく貢献。2試合の5得点すべてに絡む活躍を見せ、ファーストレグ・セカンドレグのそれぞれでマン・オブ・ザ・マッチに選出された。

短期間のビジャレアル復帰

[編集]

ボカへのレンタル移籍期間が満了し、2007年7月にはビジャレアルに復帰した。ボカはリケルメの完全移籍を希望してオファーを出したが[15]、8月にはリケルメとの再契約を断念したと報じられた。しかし数日後には状況が一変し、フアン・カルロス・クレスピ会長は「10日以内」にリケルメを取り戻す自信を表した。ビジャレアルはリケルメの移籍金として、400万ユーロ、ロドリゴ・パラシオマウロ・ボセーリホナタン・マイダナの保有権の50%を要求したが、ボカはこのオファーを拒否した。8月30日、アトレティコ・マドリードがビジャレアルに800万ユーロのオファーを提示したが[16]、移籍期限いっぱいまでもつれた移籍交渉は決裂し、リケルメはビジャレアル残留となった。背番号は8番から16番に変更され、背番号8番はビジャレアル生え抜きのサンティ・カソルラに引き継がれた[17]

ボカ・ジュニアーズ復帰

[編集]

2007-08シーズン

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2007年11月26日、2008年1月の移籍市場でボカに完全移籍することがビジャレアルから認められ、ボカとは2010年までの契約を結んだ[18]。ボカは1500万ドルを支払い、ビジャレアルは2007-08シーズンのリケルメの年俸(約300万ユーロ)を支払う。ボカがビジャレアルに支払った移籍金はアルゼンチン史上最高額となった。リケルメ自身は2007年末に行なわれるFIFAクラブワールドカップへの出場を希望したが、国際サッカー連盟 (FIFA) が定めた選手の登録期限が11月23日であり、大会への出場は認められなかった。それでも日本への遠征には帯同し、「裏方」としてチームを支える役回りを果たした。

クラウスーラ2008のCAロサリオ・セントラル戦 (1-1) で復帰後初出場し、5月4日、リーベルとのスーペルクラシコ (1-0) ではセバスティアン・バタグリアの決勝点をアシストしたが、クラウスーラ2008では10試合に出場して1得点を挙げるにとどまった。4月22日に行なわれたコパ・リベルタドーレスグループリーグのUAマラカイーボスペイン語版戦 (3-0) では、10分にフリーキックでガブリエル・パレッタの先制点をアシストしたほか、74分にはリケルメ自身が駄目押しとなる得点を挙げた。ボカはグループ2位で決勝トーナメントに進出した。決勝トーナメント1回戦ではクルゼイロEC(ブラジル)と対戦し、1stレグ (2-1) では6分にアルバロ・ゴンサレスのパスから先制点を決めた。ボカは2試合合計4-2で勝利し、準決勝ではフルミネンセFC(ブラジル)と顔を合わせた。5月28日に行なわれた1stレグでは、12分にパラシオのパスから得点し、65分には直接フリーキックを決めた。リケルメは同大会で4得点を挙げたが、ボカは2戦合計3-5で敗れて準決勝敗退となった。

2008-09シーズン

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2008年8月にはレコパ・スダメリカーナアルセナルFCと対戦し、2ndレグ (2-2) では91分に直接フリーキックを決めた。ボカは2試合合計5-3で勝利してトロフィーを獲得した。10月、チームメイトのフリオ・セサル・カセレスは母国パラグアイのラジオ局によるインタビューで、リケルメのプロ意識について疑問を投げかけ、両選手の対立が明らかになった。カセレスは「(リケルメは)全力で走っていない試合もある。彼は現状に満足してしまっているように見える。代表でプレーする時はクラブで見せる以上のやる気を出しているようだ」と主張した。リケルメはFox Sportsの電話インタビューに答え、「彼(カセレス)は僕がクラブにどういう気持ちを持っているのか知らない。試合前には他の選手と同じように気持ちを高めているし、北京オリンピックに出場することを選んだから、十分な休みも取っていない。北京オリンピックの決勝後にはすぐに空港に向かって、レコパ・スダメリカーナの決勝に駆け付けた」と述べた。さらに、「この話題はロッカールームの中に留めておくべきだった。彼はサッカー界の掟を破った」と付け加えた[19]。10月21日にエル・モヌメンタルで行なわれたリーベルとのスーペルクラシコ (1-0) 後には、カセレスは対立について「過ぎ去ったこと」と述べ、「僕らの関係は改善されつつある」と述べた[20]。アペルトゥーラ2008はCAサン・ロレンソ・デ・アルマグロCAティグレと三つ巴の争いとなり、3クラブが12勝3分4敗の勝ち点39で並んだため、3クラブによる優勝決定戦が行なわれた。ここでも1勝1敗で3クラブが並んだが、得失点差 (+1) でティグレ (0) やサン・ロレンソ (-1) を上回ったボカが優勝した。2009年のコパ・リベルタドーレスはラウンド16で敗退した。クラウスーラ2009は14位と低迷した。

2009-10シーズン

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2009年10月には年内絶望の怪我を負い、ボカはアペルトゥーラ2009でも11位という低調な成績に終わったため、2010年のコパ・リベルタドーレス出場権を逃した。なお、後にホルヘ・アモール・アメアル会長は、リケルメが2009年を無給で働いていたことを明かしている[21]。2010年4月12日、アルセナルFC戦 (4-0) でボカの3点目を挙げた[22]

2011-12シーズン

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2011年6月12日、CAバンフィエルド戦 (1-1) でアペルトゥーラ2011に初出場した[23]。8月15日のCAウニオン戦 (4-0) では83分にボカの3点目を挙げ、アペルトゥーラ2011での自身初得点を挙げた[24]。ボカはアペルトゥーラ2011を19戦無敗で終えて勝ち点43を記録し、4年ぶりにリーグ優勝してコパ・リベルタドーレス出場権を獲得した。2012年2月2日、CBRサンタマリーナスペイン語版戦 (1-1) でコパ・アルヘンティーナに初出場し、63分にフリーキックでファクンド・ロンカリアの同点ゴールをアシストした。試合はPK戦に持ち込まれ、4-3で勝利したボカが勝ち上がりを決めた[25]。2月10日、クルブ・オリンポスペイン語版戦 (2-0) でクラウスーラ2012に初出場[26]。4日後にはサモラFCスペイン語版(ベネズエラ)戦 (0-0) に出場し、同年のコパ・リベルタドーレスに初出場した[27]。2月26日のニューウェルズ・オールドボーイズ戦 (2-0) では、クラウスーラ2012での自身初得点となるボカの2点目を挙げた[28]。2週間後のCAインデペンディエンテ戦 (4-5) でもボカの2点目を挙げ[29]、さらにその2週間後のCAラヌース戦 (2-2) でもやはりボカの2点目を挙げた。41分のリケルメの得点により2-0とリードしたが、ボカは後半に2失点してラヌースと引き分けた[30]。4月18日に行なわれたコパ・リベルタドーレスのサモラ戦では75分に駄目押しとなる得点を挙げ、この勝利で勝ち点を13として決勝トーナメント進出を決定させた[31]。決勝トーナメント1回戦ではウニオン・エスパニョーラ(チリ)と対戦し、5月2日に行なわれた1stレグ (2-1) では25分に先制点を挙げ、90分にサンティアゴ・シルバスペイン語版の得点の起点となった[32]。5月9日に行なわれ2ndレグ (3-2) では、26分にフリーキックでフアン・インサウラルデスペイン語版の得点をアシストし、50分にパブロ・モウチェの得点をアシストしたほか、68分には自身も得点を決めて見せた[33]。準々決勝ではフルミネンセFC(ブラジル)と対戦。5月17日に行なわれた1stレグ (1-0) では、51分にモウチェが挙げた決勝点の起点となった[34]。5月23日に行なわれた2ndレグは1-1の引き分けだったが、2戦合計2-1で準決勝進出を決めた。

2012年6月3日に行なわれたコパ・アルヘンティーナ準決勝ではプリメーラB・ナシオナル(2部)のCSデポルティーボ・メルロスペイン語版と対戦したが、57分には直接フリーキックを蹴ると見せかけた早いリスタートを行ない、チームメイトとのパス交換でゴール前に侵入してネットを揺らした。試合終了間際の89分に追いつかれたが、PK戦を5-4で制して勝ち上がりを決めた[35]。コパ・リベルタドーレスの準決勝ではウニベルシダ・デ・チレ(チリ)を下し、決勝はコリンチャンス(ブラジル)との対戦となった。しかし、2試合合計1-3で敗れ、7月4日の2ndレグ終了直後に現役引退宣言を行なった。この時34歳であり、プレーする気力がなくなったことを退団の理由に挙げた[36]。8月8日のコパ・アルヘンティーナ決勝はリケルメ不在のまま行われたが、ボカはラシン・クルブに2-1で勝利して優勝した。2012年前半にはフリオ・セサル・ファルシオーニ監督との不仲が取り沙汰された[37]

2012-13シーズン

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2012年10月にはオーストラリア・Aリーグメルボルン・ハートウェスタン・シドニー・ワンダラーズFCがリケルメ獲得に興味を持っていると報じられたが、代理人のダニエル・ボロトニコフは報道を否定した[38]。2013年1月5日にはメジャーリーグサッカーチーヴァスUSA加入間近と報じられた。1月中旬にはビアンチが再びボカ監督に就任したため、リケルメのボカ復帰も取りざたされた[39]。ブラジルのSEパルメイラスへの移籍もうわさされたが、パルメイラスのパウロ・ノブレ会長は移籍金の額や契約条件などを理由にリケルメ獲得から手を引いた[40][41]。1月26日、リケルメはサッカー界に未練がないことを明らかにしたが[42]、1月下旬にはアルヘンティノス[43] やティグレ[44] 加入の可能性が報じられた。2月3日にはティグレのオファーを受け入れたと報じられたが[45]、2月4日にはボカ復帰に備えてビアンチ監督と接触していると報じられた[46]

2013年2月8日、ボカ復帰が発表された[47]

アルヘンティノス・ジュニアーズ

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2014年7月、ユース時代を過ごしたAAアルヘンティノス・ジュニアーズに移籍することが決定した[48]

2015年1月25日、現役引退を表明した[49]

代表経歴

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世代別代表

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南米ユース選手権とFIFAワールドユース選手権

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1995年8月、ユース代表監督に就任したホセ・ペケルマンによってアルゼンチン世代別代表に招集された。1997年にはペケルマン監督によって南米ユース選手権に出場するメンバーに選出され、リケルメは全9試合に出場して3得点を挙げた。アルゼンチンは過去30年間で2度目の優勝を飾り、リケルメ、ワルテル・サムエルパブロ・アイマールは記者選出の大会ベストイレブンに選出された[50]。この優勝で同年のFIFAワールドユース選手権出場権を獲得。マレーシアで行なわれた大会ではアルゼンチン代表のキャプテンを務め、グループリーグ全3試合に出場した。初戦のハンガリー戦 (3-0) では50分に得点し[51]、2戦目のカナダ戦 (2-1) では55分に決勝点を挙げた[52]。最終戦のオーストラリア戦では88分にPKを決めて3-3の同点に追いついたが、試合終了間際に失点して3-4で敗れた[53]。アルゼンチンはグループ2位で決勝トーナメント進出を決め、決勝トーナメント1回戦のイングランド戦 (2-1) では10分にPKで得点した[54]。準々決勝のブラジル戦には2-0で勝利し[55]、準決勝のアイルランド共和国戦には1-0で勝利した[56]。決勝ではウルグアイを2-1で下し、アルゼンチンは3回目の優勝を飾った[57]。リケルメは4得点を挙げ、アルゼンチン代表はFIFAフェアプレー賞を受賞した。1998年5月にはフランスで開催されたトゥーロン国際大会に出場。U-20アルゼンチン代表は決勝でフランスを破って優勝し、リケルメは大会最優秀選手に輝いた。

北京オリンピック

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北京オリンピックのブラジル戦でPKを蹴るリケルメ

2008年、U-23アルゼンチン代表のセルヒオ・バティスタ監督は、北京オリンピックに出場するアルゼンチン代表にオーバーエイジ (OA) としてリケルメの招集を決定し[58][59]、キャプテンを任された。オーバーエイジ枠にはリケルメの他にハビエル・マスチェラーノニコラス・パレハが選出され、その他にはリオネル・メッシセルヒオ・アグエロアンヘル・ディ・マリアなどが出場した。8月7日に行なわれたグループリーグ初戦のコートジボワール戦 (2-1) [60]、2戦目のオーストラリア戦 (1-0)[61] にはフル出場したが、消化試合となった最終戦のセルビア戦 (2-0) には出場せず、マスチェラーノがキャプテンマークを巻いた[62]。準々決勝ではオランダに2-1で勝利し[63]、準決勝のブラジル戦 (3-0) ではアグエロが2得点した後、76分にリケルメがPKで駄目押しとなる3点目を決めた[64]。8月23日、北京国家体育場(鳥の巣)に89,102人の観客が詰めかけた決勝でナイジェリアと対戦。1-0で勝利し、アルゼンチンはアテネオリンピックに続いて大会2連覇を果たした[65]

A代表

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1997年11月、ダニエル・パサレラ監督によってアルゼンチンA代表に初招集され、11月16日、1998 FIFAワールドカップ・南米予選最終節のコロンビア戦 (1-1) で試合終了間際に出場してデビューを飾った。この試合はボカの本拠地であるラ・ボンボネーラで行なわれている。リケルメはフランスで開催された1998 FIFAワールドカップの出場メンバー入りは逃した。

コパ・アメリカ1999

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1999年7月にはパラグアイで開催されたコパ・アメリカ1999のメンバーに選出され、背番号22番を背負った。なお、この時のメンバーにはボカからリケルメ、ウーゴ・イバーラワルテル・サムエルギジェルモ・バロスケロットマルティン・パレルモディエゴ・カーニャの6人が選出された。グループリーグ初戦のエクアドル戦では試合終了間際までプレーし、3-1で勝利。2戦目のコロンビア戦にはフル出場したが、後半に3失点して0-3で敗れた。最終戦のウルグアイ戦にもフル出場して2-0で勝利し、アルゼンチンは勝ち点6のグループ2位で決勝トーナメント進出を決めた。準々決勝のブラジル戦にもフル出場し、アルゼンチンは32分まで1-0でリードしていたが、最終的には1-2で敗れた[66]

2003年4月30日、トリポリで行なわれたリビアとの親善試合 (3-1) で代表初得点を挙げた。2004年11月17日、2006 FIFAワールドカップ・南米予選ベネズエラ戦 (3-2) で代表2点目を決めた。2005年6月8日にブエノスアイレスで行なわれた同予選・ブラジル戦でも1得点して3-1の勝利に貢献した。同年10月9日に行なわれた南米予選のペルー戦 (2-0) では、81分にPKで代表7点目を決めた。11月16日にドーハで行なわれたカタールとの親善試合 (1-0) で代表8点目を決めた。

FIFAコンフェデレーションズカップ2005

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2005年、ホセ・ペケルマン監督によってFIFAコンフェデレーションズカップ2005に出場するメンバーに選出され、背番号8番を渡された。グループリーグ初戦のチュニジア(アフリカ代表)戦 (2-1) では33分にPKで先制点を挙げ[67]、2戦目のオーストラリア(オセアニア代表)戦 (4-2) でも31分にPKを決めた[68]。最終戦のドイツ(開催国)戦 (2-2) では33分に同点ゴールを決め、アルゼンチンは勝ち点7のグループ首位タイで決勝トーナメント進出を決めた[69]。準決勝ではメキシコ(北中米カリブ海代表)と対戦。延長を終えて1-1の同点であり、リケルメはPK戦の1番手としてキックを成功させた。アルゼンチンはPK戦に6-5で勝利し、決勝進出を決めた[70]。フランクフルトのヴァルトシュタディオンで行なわれた決勝のブラジル(南米代表)戦にはフル出場したが、アルゼンチンは1-4で敗れて準優勝に終わった[71]。ブラジルのアドリアーノが得点王とゴールデン・ボール(最優秀選手賞)を受賞し、リケルメはシルバー・ボール(最優秀選手賞次点)を受賞した。

2006 FIFAワールドカップ

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2006年、ドイツで開催される2006 FIFAワールドカップのメンバーに選出され、敬愛するディエゴ・マラドーナも背負っていた背番号10番をA代表で初めて与えられた。グループCにはアルゼンチン、オランダコートジボワールセルビア・モンテネグロが同居し、「死の組」と呼ばれた。初戦のコートジボワール戦ではハビエル・サビオラの得点をアシストし、93分にアイマールとの交代でピッチから退いた[72]。2戦目のセルビア・モンテネグロ戦にはフル出場して6-0の圧勝に貢献。アルゼンチンは試合中に24本連続のパス成功を記録し、リケルメはエステバン・カンビアッソの得点の起点となった以外にも[73]、素早いリスタートでエルナン・クレスポの得点の起点となり、国際サッカー連盟 (FIFA) によってマン・オブ・ザ・マッチに選出された[74][75]。オランダ代表戦はスコアレスドローに終わり、リケルメ自身は80分にアイマールと交代したが、アルゼンチンは勝ち点7のグループ首位で決勝トーナメント進出を決めた[76]。自身の28回目の誕生日(6月24日)に行なわれた決勝トーナメント1回戦では、メキシコと対戦。6分に先制点を許したが、10分にコーナーキックでクレスポの得点をアシストした[77]。試合は延長戦までもつれたが、98分にマキシ・ロドリゲスが美しいボレーシュートを決めてアルゼンチンが勝利した[78]。準々決勝では開催国のドイツと対戦し、49分にコーナーキックでロベルト・アジャラの得点をアシスト。72分にカンビアッソと交代したが、その数分後に同点ゴールを許し、アルゼンチン代表はPK戦の末に敗れた[79]。自身は5アシストを記録し、大会のアシストランキング1位となった。

2006年にはアルフィオ・バシーレ新監督によってアルゼンチン代表のキャプテンに任命された。ブラジル戦に0-3で敗れると、キャプテンのリケルメが強い批判を浴び、母親が体調を崩して2度も入院したため、「何よりも大事なのは家族」と述べて9月13日に代表引退を発表した。この時点では通算37試合出場8得点を記録していた[80][81]

コパ・アメリカ2007

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コパ・アメリカ2007のペルー戦でゴールを祝うリケルメ (背番号10)

2007年6月26日、バシーレ監督によりベネズエラで開催されるコパ・アメリカ2007に出場するメンバーに選出された。グループリーグ初戦は招待国のアメリカ戦となり、アルゼンチンは4-1で勝利。2戦目のコロンビア戦 (4-2) では34分にヘディングで、45分に直接フリーキックで得点し、アルゼンチンの勝利に貢献した。最終戦のパラグアイ戦にも勝利し、3戦全勝でグループリーグ突破を決めた。準々決勝ではペルーと対戦し、後半だけで再び2得点を挙げたほか、61分にはメッシの得点をアシストした。準決勝では招待国のメキシコと対戦し、45分にガブリエル・エインセの得点をアシストし、65分にはPKで駄目押しとなる得点を挙げ、3-0の勝利に貢献した。決勝ではブラジルに敗れたものの大会を通じて5得点を記録し、ロビーニョ(ブラジル)に次いで得点ランキングの2位となった[82]

2010 FIFAワールドカップ

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2007-08シーズン序盤はビジャレアルで冷遇されており、公式戦への出場はゼロだったにも関わらず代表に招集されると、10月13日に行なわれた2010 FIFAワールドカップ・南米予選初戦のチリ戦 (2-0) では直接フリーキックから2得点し、アルゼンチンは幸先よいスタートを切った。11月17日の同予選・ボリビア戦 (3-0) では再び2得点を挙げた。2008年10月のマラドーナ監督就任後も中心選手の役割を担ったが、2009年3月にはマラドーナ監督にテレビ番組でプレーを批判され、監督との意見の不一致から代表引退を表明した[83]

2010年以後

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2010年夏にはセルヒオ・バティスタ監督が就任し、リケルメの招集に前向きな発言を残したが、2011年7月に解任されるまでに代表復帰には至らなかった。2011年7月にはアレハンドロ・サベーラ監督が就任。2011年8月、サベーラ監督は初采配試合となるスーペルクラシコ・デ・ラス・アメリカスのブラジル戦に向け、国内リーグ所属選手のみで構成されたアルゼンチン代表にリケルメを招集した。約2年ぶりの代表復帰となったが、クラブの試合で負傷して代表を離脱した[84]

現役引退後

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2019年12月に行われるボカ・ジュニアーズの会長選挙には、マウリシオ・マクリ前会長(当時アルゼンチン大統領)の腹心である現職のダニエル・アンジェリッシ会長とその対立勢力である元会長のホルヘ・アモール・アメアル、元副会長のホセ・ベラルディの三者が立候補していた。マクリ前会長とその側近であった現執行部(マクリ派)との確執から引退後はボカ・ジュニアーズと距離を置いていたリケルメは、アメアル支持を表明し、アメアル当選の暁には第二副会長として入閣することが内定し、アメアル陣営として選挙戦に関わった。かつてのアイドルであるリケルメを擁するアメアル派は急速に支持を伸ばし、またアンジェリッシの後ろ盾であったマクリも2019年10月28日のアルゼンチン大統領選挙に敗れて退陣していたことも追い風となり、12月8日の会長選挙で52.8%の支持を得たアメアルが当選を果たした。新会長にはアメアルが就任し、第一副会長にはジャーナリスト兼プロデューサーのマリオ・ペルゴーニ(渉外担当)、第二副会長にリケルメが就任した(競技部門担当)[85]

競技部門のトップとして、現場における全権を得たリケルメは、下部組織の強化を図る反面、トップチームの成績は19-20シーズンおよび22シーズンこそ優勝したものの、21と23シーズンは4位と7位と低迷し、また期待された2007年以来のコパ・リベルタドーレスの優勝からも遠ざかった(2023シーズンは準優勝)。また監督人事にも失敗し、リケルメがトップとなってからの4年間で毎年のように監督が挿げ替えられた。2023年12月に行われるボカ・ジュニアーズの会長選挙では、現職のアメアルの後継としてリケルメが立候補。一方、リケルメと確執のあるマクリも対抗馬としてアンドレス・イバーラを擁立し、両者の決選投票となった。12月17日に行われた投票でリケルメが64%の得票率を得てイバーラを破り、新会長に選出された[86]

人物

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1男2女の父親である。憧れの選手はディエゴ・マラドーナジネディーヌ・ジダンであり、パブロ・アイマールと仲が良い[87]ラテン音楽であるクンビアを愛聴している[88]

ゴール後にはトッポ・ジージョポーズ(耳に手を当てる動作)のゴールパフォーマンスをする。このポーズの由来には「娘が好きだから」という説と「ファンの声が聞こえるか」という説がある[89]。ボカ在籍時にはマウリシオ・マクリ会長と対立しており、後者の説はファンは自分の味方であるとして会長を挑発しているというものである。

2022 FIFAワールドカップ・準々決勝のアルゼンチン代表オランダ代表の一戦で、得点を決めたメッシが、このパフォーマンスをオランダ代表のベンチへ披露した。オランダ代表監督であったファン・ハールが、試合前にメッシを軽視する発言をしたことに加え、前述のバルセロナ時代にリケルメを冷遇したことへの反撃として行ったとみられている。

個人成績

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クラブでの出場記録

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所属クラブ 国内リーグ 国内カップ 国際カップ 合計
シーズン クラブ リーグ 出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
アルゼンチン リーグ カップ 南米カップ 合計
1996-97 ボカ・ジュニアーズ プリメーラ 22 4 22 4
1997-98 19 0 2 0 21 0
1998-99 37 10 5 0 42 10
1999-2000 24 4 16 3 40 7
2000-01 27 10 14 3 41 13
2001-02 22 10 6 0 28 10
通算 151 38 43 6 194 44
スペイン リーグ コパ・デル・レイ 欧州カップ 合計
2002-03 バルセロナ ラ・リーガ 30 3 1 1 11 2 42 6
2003-04 ビジャレアル (loan) ラ・リーガ 33 8 3 1 12 4 48 13
2004-05 35 15 0 0 11 2 46 17
2005-06 ビジャレアル ラ・リーガ 25 12 1 0 12 2 38 14
2006-07 13 1 0 0 - - 13 1
通算 136 39 5 2 46 10 187 51
アルゼンチン リーグ カップ 南米カップ 合計
2007 ボカ・ジュニアーズ (loan) プリメーラ 15 2 11 8 26 10
2007-08 ボカ・ジュニアーズ プリメーラ 10 1 10 4 20 5
2008-09 28 5 7 4 35 9
2009-10 24 3 2 0 26 3
2010-11 13 4 13 4
2011-12 21 4 2 1 9 3 32 8
通算 111 19 2 1 39 19 152 39
通算 アルゼンチン 262 57 2 1 82 25 346 83
スペイン 136 39 5 2 46 10 187 51
通算 398 96 7 3 128 35 533 134

代表での年別出場記録

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アルゼンチン代表
出場 得点
1997 1 0
1998 0 0
1999 5 0
2000 0 0
2001 0 0
2002 1 0
2003 3 1
2004 6 1
2005 13 6
2006 8 0
2007 9 9
2008 5 0
通算 51 17

代表での得点

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# 日付 場所 対戦相手 最終
スコア
勝敗 大会
1. 2003年4月30日 リビアの旗 トリポリ リビアの旗 リビア 3-1 親善試合
2. 2004年11月17日 アルゼンチンの旗 ブエノスアイレス ベネズエラの旗 ベネズエラ 3-2 2006 FIFAワールドカップ・南米予選
3. 2005年6月8日 ブラジルの旗 ブラジル 3-1
4. 2005年6月15日 ドイツの旗 ケルン チュニジアの旗 チュニジア 2-1 FIFAコンフェデレーションズカップ2005
5. 2005年6月18日 ドイツの旗 ニュルンベルク オーストラリアの旗 オーストラリア 4-2
6. 2005年6月21日 ドイツの旗 ドイツ 2-2
7. 2005年10月9日 アルゼンチンの旗 ブエノスアイレス ペルーの旗 ペルー 2-0 2006 FIFAワールドカップ・南米予選
8. 2005年11月16日 カタールの旗 ドーハ カタールの旗 カタール 3-0 親善試合
9. 2007年7月2日 ベネズエラの旗 マラカイボ コロンビアの旗 コロンビア 4-2 コパ・アメリカ2007
10.
11. 2007年7月8日 ベネズエラの旗 バルキシメト ペルーの旗 ペルー 4-0
12.
13. 2007年7月11日 ベネズエラの旗 プエルト・オルダス メキシコの旗 メキシコ 3-0
14. 2007年10月13日 アルゼンチンの旗 ブエノスアイレス チリの旗 チリ 2-0 2010 FIFAワールドカップ・南米予選
15.
16. 2007年11月17日 ボリビアの旗 ボリビア 3-0
17.

タイトル

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クラブ

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ボカ・ジュニアーズ
ビジャレアル

代表

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U-20アルゼンチン代表
U-21アルゼンチン代表
U-23アルゼンチン代表

個人

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脚注

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  1. ^ フェラン・ソリアーノ著、グリーン裕美訳『ゴールは偶然の産物ではない』アチーブメント出版、2009年、162頁
  2. ^ Riquelme: Football has given me everything”. FIFA.com (2011年12月19日). 2011年12月19日閲覧。
  3. ^ Number web (2005年9月30日). “ファン・ロマン・リケルメ 遅れてきた「天才」”. 2009年7月11日閲覧。
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外部リンク

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