コンテンツにスキップ

「小津安二郎」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
→‎趣味・嗜好: リンク追加
 
(100人を超える利用者による、間の411版が非表示)
1行目: 1行目:
{{Good article}}
{{ActorActress|
{{ActorActress
| 芸名 = 小津 安二郎
| 芸名 = 小津 安二郎
| ふりがな = おづ やすじろう
| ふりがな = おづ やすじろう
| 画像ファイル = Yasujiro Ozu cropped.jpg
| 画像ファイル = Yasujiro Ozu 01.jpg
| 画像サイズ = 200px
| 画像サイズ = 230px
| 画像コメント = 『非常線の女』セットにて(1933
| 画像コメント = [[1951]]頃
| 本名 =
| 本名 = 同じ
| 別名義 = ジェームス・槇{{Refnest|group="注"|name="ジェームス・槇"|ヂェームス・槇、ゼェームス・槇、ゼームス・槇などの表記もある{{Sfn|貴田|1999|pp=51-54}}。}}<!-- 別芸名がある場合に記載。愛称の欄ではありません -->
| 別名 =
| 出生地 = {{JPN}} [[東京府]][[深川 (江区)#歴史|深川区]]<br />(現[[東京都]][[江東区]])
| 出生地 = {{JPN}}[[東京府]][[東京市]][[深川区]](現在の[[東京都]][[江東区]][[深川 (江東区)|深川]])
| 死没地 = {{JPN}}・[[東京都]][[文京区]][[湯島]]
| 国籍 =
| 国籍 = <!--「出生地」からは推定できないときだけ -->
| 民族 = [[日本人]]
| 身長 = 約170 [[センチメートル|cm]]{{Sfn|田中|2003|p=8}}<ref name="健康診断">「麦秋のころの健康診断 小津安二郎氏」(『毎日グラフ』1951年8月10日号)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=98-101}}に所収</ref>
| 血液型 =
| 生年 = 1903
| 生年 = 1903
| 生月 = 12
| 生月 = 12
16行目: 19行目:
| 没月 = 12
| 没月 = 12
| 没日 = 12
| 没日 = 12
| 職業 = [[映画監督]]
| 職業 = [[映画監督]]、[[脚本家]]
| ジャンル = [[映画]]
| ジャンル = [[映画]]
| 活動期間 =
| 活動期間 = [[1927年]] - [[1963年]]
| 活動内容 =
| 活動内容 =
| 配偶者 =
| 配偶者 =
| 家族 =
| 著名な家族 =
| 事務所 =
| 公式サイト =
| 公式サイト =
| 主な作品 = 『[[東京の合唱]]』<br />『[[大人の見る繪本 生れてはみたけれど]]』<br />『[[晩春 (映画)|晩春]]』<br />『[[麦秋 (1951年の映画)|麦秋]]』<br />『[[東京物語]]』
| 主な作品 = 『[[東京の合唱]]』(1931年)<br/>『[[大人の見る繪本 生れてはみたけれど]]』(1932年)<br/>『[[戸田家の兄妹]]』(1941年)<br/>『[[晩春 (映画)|晩春]]』(1949年)<br/>『[[麦秋 (1951年の映画)|麦秋]]』(1951年)<br/>『[[東京物語]]』(1953年)<br/>『[[秋刀魚の味]]』(1962年)
| アカデミー賞 =
| アカデミー賞 =
| AFI賞 =
| AFI賞 =
| 英国アカデミー賞 =
| 英国アカデミー賞 =
| セザール賞 =
| セザール賞 =
| エミー賞 =
| エミー賞 =
| ジェミニ賞 =
| ジェミニ賞 =
| ゴールデングローブ賞 =
| ゴールデングローブ賞 =
| ゴールデンラズベリー賞 =
| ゴールデンラズベリー賞 =
| ゴヤ賞 =
| ゴヤ賞 =
| グラミー賞 =
| グラミー賞 =
| ブルーリボン賞 = '''監督賞'''<br />[[1951年]]『麦秋』
| ブルーリボン賞 = {{Plainlist|
* '''監督賞'''
| ローレンス・オリヴィエ賞 =
* [[ブルーリボン賞 (映画)#第2回(1951年度)|1951年]]『[[麦秋 (1951年の映画)|麦秋]]』
| 全米映画俳優組合賞 =
}}
| トニー賞 =
| ローレンス・オリヴィエ賞 =
| 全米映画俳優組合賞 =
| トニー賞 =
| 日本アカデミー賞 =
| 日本アカデミー賞 =
| その他の賞 = [[毎日映画コンクール]]日映画大賞 第4回『晩春』<br />同 第6回『麦秋』<br />[[キネマ旬報]]ベストワ 1932年『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』<br />同 1933年『[[出来ごころ]]<br />同 1934年『[[浮草物語]]<br />同 1941年『[[戸田家の兄妹]]<br />同 1949年『晩春』<br />同 1951年『麦秋』<br />[[芸術祭 (文化庁)|芸術祭]]文部大臣賞 1951年『麦秋』<br />1958年『東京物語』
| その他の賞 = '''[[毎日映画コンクール]]'''<br/>'''監督賞'''<br/>[[毎日映画コンクール#第4回(1949年)|1949年]][[晩春 (映画)|晩春]]』<br/>'''脚本賞'''<br/>[[毎日映画コクール#第4回(1949)|1949年]][[晩春 (映画)|晩春]]』<br/>'''特別賞'''<br/>[[毎日映画コンクール#第18回(1963年)|1963年]]<hr>'''[[英国映画協会]]'''<br />'''[[サザーランド杯]]'''<br />[[1953]][[東京物語]]』<hr>'''[[紫綬褒章]]'''<br>[[1958年]]
| 備考 = [[日本映画監督協会]]理事長([[1955年]] - [[1963年]])
| 備考 =
}}
}}
'''小津 安二郎'''(おづ やすじろう、[[1903年]]〈[[明治]]36年〉[[12月12日]] - [[1963年]]〈[[昭和]]38年〉[[12月12日]])は、[[日本]]の[[映画監督]]、[[脚本家]]。[[日本映画]]を代表する監督のひとりであり、[[サイレント映画]]時代から戦後までの約35年にわたるキャリアの中で、[[原節子]]主演の『[[晩春 (映画)|晩春]]』(1949年)、『[[麦秋 (1951年の映画)|麦秋]]』(1951年)、『[[東京物語]]』(1953年)など54本の作品を監督した。ロー・ポジションによる撮影や厳密な構図などが特徴的な「[[#作風|小津調]]」と呼ばれる独特の映像世界で、親子関係や家族の解体をテーマとする作品を撮り続けたことで知られ、[[黒澤明]]や[[溝口健二]]と並んで国際的に高く評価されている。[[1962年]]には映画人初の[[日本芸術院]]会員に選出された。
'''小津 安二郎'''(おづ やすじろう、[[1903年]][[12月12日]] - [[1963年]][[12月12日]])は日本の[[映画監督]]。
義弟は[[キノエネ醤油]]14代社長山下平兵衛<ref>https://program.bayfm.co.jp/bsf/program/2023/05/21/housoukouki230521/</ref>。


== 経歴 ==
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
=== 生い立ち ===
[[1903年]][[12月12日]]、[[東京市]][[深川区]]亀住町4番地(現在の[[東京都]][[江東区]][[深川 (江東区)|深川]]一丁目)に、父・寅之助と母・あさゑの5人兄妹の次男として生まれた<ref name="全集年譜">「小津安二郎年譜」({{Harvnb|全集(下)|2003|pp=633-644}})</ref>{{Sfn|千葉|2003|p=16}}<ref name="古石場文化センター">{{Cite web|和書|url=https://www.kcf.or.jp/furuishiba/josetsu/ozu/ |title=小津安二郎紹介展示コーナー |website=古石場文化センター |publisher=公益財団法人 江東区文化コミュニティ財団 |accessdate=2021年2月21日}}</ref>。兄は2歳上の新一、妹は4歳下の登貴と8歳下の登久、弟は15歳下の信三である{{Sfn|千葉|2003|p=16}}。生家の小津{{ルビ|新七|しんしち}}家は、[[伊勢]][[松阪市|松阪]]出身の[[伊勢商人]]である小津{{ルビ|与右衛門|よえもん}}家の分家にあたる<ref name="家系">[[松浦莞二]]「家庭を描いた男の家庭」({{Harvnb|大全|2019|pp=154-158}})</ref>。伊勢商人は江戸に店を出して成功を収めたが、小津与右衛門家も[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]で海産物肥料問屋の「{{ルビ|湯浅屋|ゆあさや}}」を営んでいた<ref name="家系"/>{{Sfn|佐藤|2000|pp=127-128}}{{Refnest|group="注"|小津与右衛門家の初代新兵衛(1673年 - 1733年)は、同じ松阪出身の小津清左衛門家が江戸で営む紙問屋「小津屋」(現在の[[小津商店]])の支配人をしていたが、[[1716年]]に退役すると清左衛門家から小津姓を与えられ、別家として松阪中町に住んだ{{Sfn|千葉|2003|p=15}}<ref name="仕分金">{{Cite web|和書|url=https://www.ozuwashi.net/330/015a.html |title=支配人と仕分金 |website=小津330年のあゆみ |accessdate=2021年2月12日}}</ref><ref name="小津ハマ年譜">{{Cite web|和書|url=http://ozu-net.com/work/ |title=小津ハマさん作成年譜(小津監督の人と仕事) |website=全国小津安二郎ネットワーク |accessdate=2021年2月21日}}</ref>。新兵衛は[[紀伊国|紀州]][[湯浅町|湯浅村]]出身の岩崎家と共同で[[干鰯問屋]]「湯浅屋」を経営したが、やがて岩崎家が経営から撤退すると、新兵衛が店を譲り受けた{{Sfn|千葉|2003|p=15}}<ref name="小津ハマ年譜"/>。新兵衛家は三代目当主から与右衛門を名乗り、松阪の[[阪内川]]近くに地元民から「土手新」と呼ばれた立派な本宅を構えた{{Sfn|千葉|2003|p=15}}<ref name="小津ハマ年譜"/>{{Sfn|中村|2000|pp=12-13}}。小津の大叔父にあたる六代目与右衛門は紀行家の[[小津久足]]で、そのほか与右衛門家からは英文学者の[[小津次郎]]、[[阪神タイガース]]球団社長の[[小津正次郎]]などの著名人が出ている<ref name="家系"/>{{Sfn|中村|2000|pp=12-13}}。}}。小津新七家はその支配人を代々務めており、五代目小津新七の子である寅之助も18歳で支配人に就いた<ref name="家系"/><ref name="仕分金"/>。あさゑは[[津市|津]]の名家の生まれで、のちに伊勢商人の中條家の養女となった{{Sfn|千葉|2003|p=16}}<ref name="家系"/>。両親は典型的な厳父慈母で、小津は優しくて思いやりのある母を終生まで敬愛した{{Sfn|佐藤|2000|pp=127-128}}。小津は3歳頃に[[脳膜炎]]にかかり、数日間高熱で意識不明の状態となったが、母が「私の命にかえても癒してみせます」と必死に看病したことで一命をとりとめた{{Sfn|千葉|2003|p=20}}。
小津は[[東京都|東京]][[深川 (江東区)|深川]]の下町に、豪商湯浅屋の番頭だった父虎之助と母あさゑの次男として生まれた。9歳のときに父の郷里である[[三重県]]の[[松阪市|松阪]]へ転居。その後旧制三重県立宇治山田中学校(現・[[三重県立宇治山田高等学校]])に入学。映画館通いに熱中して学校の授業には出なかったため、不良学生として寄宿舎から追放された。


[[1909年]]、小津は深川区立明治小学校附属幼稚園に入園した。当時は子供を幼稚園に入れる家庭は珍しく、小津はとても裕福で教育熱心な家庭で育ったことがうかがえる{{Sfn|伝記|2019|p=175}}。翌[[1910年]]には深川区立明治尋常小学校(現在の[[江東区立明治小学校]])に入学した<ref name="全集年譜"/>。[[1913年]]3月、子供を田舎で教育した方がよいという父の教育方針と、当時住民に被害を及ぼしていた深川のセメント粉塵公害による環境悪化のため、一家は小津家の郷里である[[三重県]][[飯南郡]][[神戸村 (三重県飯南郡)|神戸村]](現在の[[松阪市]])[[垣鼻町|垣鼻]]785番地に移住した<ref name="全集年譜"/>{{Sfn|中村|2000|pp=15-17}}。父は湯浅屋支配人の仕事があるため、東京と松阪を往復する生活をした{{Sfn|中村|2000|pp=15-17}}。同年4月、小津は松阪町立第二尋常小学校(現在の[[松阪市立第二小学校]])4年生に転入した{{Sfn|伝記|2019|p=178}}。5・6年時の担任によると、当時の小津は円満実直で成績が良く、暇があるとチャンバラごっこをしていたという{{Sfn|伝記|2019|p=180}}。やがて小津は自宅近くの映画館「[[神楽座]]」で[[尾上松之助]]主演の作品を見たのがきっかけで、映画に病みつきとなった<ref name="全集年譜"/>。
=== 代用教員 ===
[[1921年]](大正10年)[[神戸商業大学 (旧制)|神戸高等商業学校]](現在の[[神戸大学]])を受験して失敗。[[1922年]](大正11年)、三重師範学校(現[[三重大学]]教育学部)受験も失敗し、現在の[[松阪市]][[飯高町]]にある山村の宮前尋常小学校に1年間の代用教員として赴任。いつも羽織と袴、そして、下駄履きと他の教師とは違った異彩を放った風貌で、児童たちに映画の話をしたり、[[マンドリン]]を弾いたりして慕われる。この教え子たちは監督以前の小津を語れる重要な人物としてよくインタビューを受けている。


[[1916年]]、尋常小学校を卒業した小津は、三重県立第四中学校(現在の[[三重県立宇治山田高等学校]])に入学し、寄宿舎に入った<ref name="全集年譜"/>。小津はますます映画に熱を上げ、家族にピクニックに行くと偽って[[名古屋市|名古屋]]まで映画を見に行ったこともあった{{Sfn|伝記|2019|p=184}}。当時は[[連続活劇]]の女優[[パール・ホワイト]]のファンで、[[レックス・イングラム (映画監督)|レックス・イングラム]]や{{仮リンク|ペンリン・スタンロウズ|en|Penrhyn Stanlaws}}の監督作品を好むなど、アメリカ映画一辺倒だった{{Sfn|伝記|2019|p=184}}<ref name="筈見対談">「小津安二郎・筈見恒夫対談」(『[[映画の友]]』1955年9月号)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=238-244}}に所収</ref>。とくに小津に感銘を与えたのが[[トーマス・H・インス]]監督の『[[シヴィリゼーション (映画)|シヴィリゼーション]]』(1917年)で、この作品で映画監督の存在を初めて認識し、監督を志すきっかけを作った<ref name="筈見対談"/><ref name="豆監督">小津安二郎「僕は映画の豆監督」(『私の少年時代』1953年3月)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=166-167}}に所収</ref>。[[1920年]]、学校では男子生徒が下級生の美少年に手紙を送ったという「稚児事件{{Refnest|group="注"|映画批評家の[[佐藤忠男]]によると、男女の交際が厳しく禁じられていた戦前の中学生の社会では、異性に手紙を書く代わりに、年下の同性に友情の手紙を書くという習慣が一部で伝統的に存在し、それは今日の[[同性愛|ホモ・セクシュアル]]ほど深刻なものではないという{{Sfn|佐藤|2000|pp=130-131}}。}}」が発生し、小津もこれに関与したとして停学処分を受けた{{Sfn|伝記|2019|p=185}}。さらに小津は舎監に睨まれていたため、停学と同時に寄宿舎を追放され、自宅から汽車通学することになった{{Sfn|伝記|2019|p=185}}。小津は追放処分を決めた舎監を終生まで嫌悪し、戦後の同窓会でも彼と同席することを拒否した{{Sfn|中村|2000|p=88}}{{Sfn|佐藤|2000|pp=132-133}}。しかし、自宅通学に変わったおかげで外出が自由になり、映画見物には好都合となった{{Sfn|伝記|2019|p=185}}。この頃には校則を破ることが何度もあり、操行の成績は最低の評価しかもらえなくなったため、学友たちから卒業できないだろうと思われていた{{Sfn|伝記|2019|p=186}}{{Sfn|千葉|2003|p=36}}。
=== 映画人生 ===
[[1923年]](大正12年)3月に上京し、親類のつてで[[松竹蒲田撮影所]]に入社。大久保忠素に師事する。[[1927年]](昭和2年)『懺悔の刃』で初監督。


[[1921年]]3月、小津は何とか中学校を卒業することができ、両親の命令で兄の通う[[神戸商業大学 (旧制)|神戸高等商業学校]]を受験したが、合格する気はあまりなく、[[神戸市|神戸]]や[[大阪府|大阪]]で映画見物を楽しんだ{{Sfn|千葉|2003|p=37}}{{Sfn|佐藤|2000|p=134}}。[[名古屋高等商業学校]]も受験したが、どちらとも不合格となり、浪人生活に突入した<ref name="全集年譜"/>。それでも映画に没頭し、7月には知人らと映画研究会「エジプトクラブ」を設立し、憧れのパール・ホワイトなどのハリウッド俳優の住所を調べて手紙を送ったり、映画のプログラムを蒐集したりした{{Sfn|伝記|2019|p=187}}。翌[[1922年]]に再び受験の時期が来ると、[[三重師範学校|三重県師範学校]]を受験したが不合格となり、飯南郡[[宮前村 (三重県)|宮前村]](現在の松阪市[[飯高町]])の[[松阪市立宮前小学校|宮前尋常高等小学校]]に[[代用教員]]として赴任した{{Sfn|中村|2000|p=170}}。宮前村は松阪から約30キロの山奥にあり、小津は学校のすぐ近くに下宿したが、休みの日は映画を見に松阪へ帰っていたという{{Sfn|中村|2000|pp=176-178}}<ref name="蓮實年譜">「年譜」({{Harvnb|蓮實|2003|pp=319-338}})</ref>。小津は5年生男子48人の組を受け持ち、児童に当時では珍しい[[ローマ字]]を教えたり、教室で活劇の話をして喜ばせたりしていた{{Sfn|中村|2000|pp=176-178}}。また、下宿で児童たちに[[マンドリン]]を弾き聞かせたり、下駄のまま児童を連れて標高1000メートル以上の[[局ヶ岳]]を登頂したりしたこともあった{{Sfn|中村|2000|pp=180-182}}。
戦前は、『[[大学は出たけれど]]』、『[[大人の見る繪本 生れてはみたけれど|生れてはみたけれど]]』などユーモア溢れる作風の監督として知られる。戦争中は軍部報道映画班として[[シンガポール]]へ赴任。ここで、『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』など、接収された大量の[[ハリウッド映画]]を観て過ごす。


=== 映画界入り ===
戦後は『長屋紳士録』で復帰。以降は『[[晩春 (映画)|晩春]]』『[[麦秋 (1951年の映画)|麦秋]]』『[[東京物語]]』などの名作を立て続けに発表し、日本映画界の重鎮となる。この時期の作品は、ほとんど前衛的とすら言える一貫した独自のスタイルに貫かれ、近づきがたい印象さえ一部の人間に与えているが、一般には松竹映画を代表する「ユーモアとペーソスの映画監督」として知られた。この時期の多くの作品は[[野田高梧]]との共同脚本であり、[[原節子]]や[[笠智衆]]などをメインキャストとしている。
[[1923年]]1月、一家は小津と女学校に通う妹の登貴を残して上京し、深川区{{ルビ|和倉|わくら}}町に引っ越した<ref name="全集年譜"/>。3月に小津は登貴が女学校を卒業したのを機に、代用教員を辞めて2人で上京し、和倉町の家に合流して家族全員が顔を揃えた{{Sfn|伝記|2019|p=189}}。小津は映画会社への就職を希望したが、映画批評家の[[佐藤忠男]]曰く「当時の映画は若者を堕落させる娯楽と考えられ、職業としては軽蔑されていた」ため父は反対した{{Sfn|伝記|2019|p=189}}{{Sfn|佐藤|2000|p=135}}。しかし、母の異母弟の{{ルビ|中條幸吉|ちゅうじょうこうきち}}が[[松竹]]に土地を貸していたことから、その伝手で8月に[[松竹キネマ]][[松竹蒲田撮影所|蒲田撮影所]]に入社した{{Sfn|伝記|2019|p=189}}。小津は監督志望だったが、演出部に空きがなかったため、撮影部助手となった<ref name="芸談">「小津安二郎芸談」([[東京新聞]]1947年12月5日・12日・19日・26日)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=158-164}}に所収</ref>。入社直後の9月1日、小津は撮影所で[[関東大震災]]に遭遇した。和倉町の家は焼失したが、家族は全員無事だった{{Sfn|伝記|2019|p=190}}。震災後に本家が湯浅屋を廃業したことで、父は亀住町の店跡を店舗兼住宅に新築し、新たに「小津地所部」の看板を出して、本家が所有する土地や貸家の管理を引き受けた{{Sfn|伝記|2019|p=193}}{{Sfn|千葉|2003|p=51}}。松竹本社と蒲田撮影所も震災で被害を受け、スタッフの多くは京都の[[松竹京都撮影所|下加茂撮影所]]に移転した{{Sfn|千葉|2003|p=51}}。蒲田には[[島津保次郎]]監督組が居残り、小津も居残り組として[[碧川道夫]]の撮影助手を務めた{{Sfn|千葉|2003|pp=52-53}}。


[[1924年]]3月に蒲田撮影所が再開すると、小津は{{ルビ|酒井宏|さかいひろし}}の撮影助手として[[牛原虚彦]]監督組についた{{Sfn|伝記|2019|pp=193-194}}{{Sfn|佐藤|2000|pp=142-143}}。小津は重いカメラを担ぐ仕事にはげみ、ロケーション中に暇があると牛原に矢継ぎ早に質問をした{{Sfn|佐藤|2000|pp=142-143}}。12月、小津は東京[[青山 (東京都港区)|青山]]の[[近衛歩兵第4連隊]]に[[幹部候補生 (日本軍)#一年志願兵制度による予備役幹部補充|一年志願兵]]として入営し、翌[[1925年]]11月に[[伍長]]で除隊した{{Sfn|伝記|2019|pp=193-194}}。再び撮影助手として働いた小津は、演出部に入れてもらえるよう兄弟子の[[斎藤寅次郎]]に頼み込み、[[1926年]]に時代劇班の[[大久保忠素]]監督のサード助監督となった{{Sfn|伝記|2019|pp=195-196}}。この頃に小津はチーフ助監督の斎藤、セカンド助監督の[[佐々木啓祐]]、生涯の親友となる[[清水宏 (映画監督)|清水宏]]、後に小津作品の編集担当となる撮影部の[[浜村義康]]の5人で、撮影所近くの家を借りて共同生活をした{{Sfn|伝記|2019|pp=195-196}}{{Sfn|千葉|2003|p=63}}。小津は大久保のもとで脚本直しと絵コンテ書きを担当したが、大久保は助監督の意見に耳を傾けてくれたため、彼にたくさんのアイデアを提供することができた<ref name="芸談"/>{{Sfn|千葉|2003|p=63}}<ref name="一問一答">[[岸松雄|和田山滋]]「小津安二郎との一問一答」(『キネマ旬報』1933年1月11日号)。{{Harvnb|全発言|1987|pp=11-18}}に所収</ref>。また、大久保はよく撮影現場に来ないことがあり、その時は助監督が代わりに務めたため、小津にとっては大変な勉強になった<ref name="芸談"/>。小津は後に、大久保のもとについたことが幸運だったと回想している<ref name="一問一答"/>。
1951年『麦秋』で[[芸術祭 (文化庁)|芸術祭]]文部大臣賞、1958年『東京物語』で同賞および英国サザランド賞受賞。1955年[[日本映画監督協会]]理事長。


[[1927年]]のある日、撮影を終えて腹をすかした小津は、満員の社員食堂で[[カレーライス]]を注文したが、給仕が順番を飛ばして後から来た牛原虚彦のところにカレーを運んだため、これに激昂して給仕に殴りかかろうとした<ref>小津安二郎「ライス・カレー〈処女作前後〉」(『キネマ旬報』1950年3月上旬号)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|p=78}}に所収</ref>。この騒動は撮影所内に知れ渡り、小津は撮影所長の[[城戸四郎]]に呼び出されたが、それが契機で脚本を提出するよう命じられた{{Sfn|佐藤|2000|pp=163-164}}。城戸は「監督になるには脚本が書けなければならない」と主張していたため、これは事実上の監督昇進の試験だった<ref name="芸談"/>。小津は早速自作の時代劇『瓦版かちかち山』の脚本を提出し、作品は城戸に気に入られたが、内容が渋いため保留となった<ref name="芸談"/>{{Sfn|佐藤|2000|pp=163-164}}。8月、小津は「監督ヲ命ズ 但シ時代劇部」の辞令により監督昇進を果たし、初監督作品の時代劇『[[懺悔の刃]]』の撮影を始めた{{Sfn|千葉|2003|pp=68-69}}。ところが撮影途中に[[予備役]]の演習召集を受けたため、撮り残したファーストシーンの撮影を斎藤に託し、9月25日に[[三重県]][[津市]]の[[歩兵第33連隊]]第7中隊に入隊した{{Sfn|伝記|2019|pp=196-197}}。10月に『懺悔の刃』が公開され、除隊した小津も映画館で鑑賞したが、後に「自分の作品のような気がしなかった」と述べている{{Sfn|伝記|2019|pp=196-197}}<ref name="自作を語る">「小津安二郎自作を語る」({{Harvnb|人と芸術|1964|pp=92-99}})</ref>。
戦後鎌倉に住み、[[里見とん|里見弴]]と親しくなって、1958年里見と相談して同時並行で原作小説とシナリオを書き進め『彼岸花』を完成、1960年には同じ方式で『秋日和』を完成した。『彼岸花』で三度目の芸術祭文部大臣賞、功績により[[紫綬褒章]]受章、1959年[[日本芸術院賞]]受賞、1960年[[芸術選奨]]文部大臣賞を野田とともに受賞。


=== 監督初期 ===
1962年二人暮らしだった母を失う。11月に映画監督として唯一の[[日本芸術院]]会員に選ばれる。63年里見とともにテレビドラマシナリオ『青春放課後』を書くがその後体調に異変あり、4月がんセンターで手術、いったん退院するが10月に東京医科歯科大学病院に再入院、12月12日に死去した。{{没年齢|1903|12|12|1963|12|12}}、[[生没同日]]であった。死後[[勲四等]][[旭日小綬章]]を追贈された。
[[ファイル:Yasujiro Ozu cropped.jpg|thumb|180px|『[[非常線の女]]』(1933年)撮影時の小津。]]
1927年11月、蒲田時代劇部は下加茂撮影所に合併されたが、小津は蒲田に残り、以後は現代劇の監督として活動することができた{{Sfn|千葉|2003|pp=68-69}}。しかし、小津は早く監督になる気がなく、会社からの企画を6、7本断ったあと、ようやく自作のオリジナル脚本で監督2作目の『[[若人の夢]]』(1928年)を撮影した<ref name="自作を語る"/>。当時の松竹蒲田は城戸の方針で、若手監督に習作の意味を兼ねて添え物用の中・短編喜劇を作らせており、新人監督の小津もそうした作品を立て続けに撮影したが、その多くは学生や会社員が主人公のナンセンス喜劇だった{{Sfn|貴田|1999|p=38}}<ref name="松竹解説">佐藤忠男解説「小津映画全作品」({{Harvnb|松竹|1993|pp=216-287}})</ref>{{Sfn|フィルムアート社|1982|p=59}}。[[1928年]]は5本、[[1929年]]は6本、[[1930年]]は生涯最高となる7本もの作品を撮り、めまぐるしいほどのスピード製作となった<ref name="全集年譜"/>{{Sfn|伝記|2019|p=203}}。徐々に会社からの信用も高まり、トップスターの[[栗島すみ子]]主演の正月映画『[[結婚学入門]]』(1930年)の監督を任されるほどになった<ref name="全集上解題">「作品解題」({{Harvnb|全集(上)|2003|pp=695-731}})</ref>。『[[お嬢さん (1930年の映画)|お嬢さん]]』(1930年)は当時の小津作品にしては豪華スターを配した大作映画となり、初めて[[キネマ旬報ベスト・テン]]に選出された(日本・現代映画部門2位){{Sfn|伝記|2019|p=203}}<ref name="全集上解題"/>。

[[1931年]]、松竹は土橋式[[トーキー]]を採用して、日本初の国産トーキー『[[マダムと女房]]』を公開し、それ以来日本映画は次第にトーキーへと移行していったが、小津は[[1936年]]までトーキー作品を作ろうとはしなかった<ref name="NO監督">「小津安二郎が監督しなかった作品」({{Harvnb|全集(下)|2003|pp=626-630}})</ref>。その理由はコンビを組んでいたカメラマンの[[茂原英雄]]が独自のトーキー方式を研究していたことから、それを自身初のトーキー作品で使うと約束していたためで、後に小津は日記に「茂原氏とは年来の口約あり、口約果たさんとせば、監督廃業にしかず、それもよし」と書いている<ref name="全集上解題"/><ref>「"沈黙を棄てる監督" 小津氏との一問一答」(都新聞1936年4月20日夕刊)。{{Harvnb|全発言|1987|pp=82-84}}に所収</ref>。小津は茂原式が完成するまでサイレント映画を撮り続け、松竹が採用した土橋式はノイズが大きくて不備があるとして使用しなかった<ref name="全集上解題"/>。しかし、サイレント作品のうち5本は、台詞はないが音楽が付いている[[サウンド版]]で公開されている{{Sfn|伝記|2019|pp=205-206}}。

1930年代前半になると、小津は批評家から高い評価を受けることが多くなった。『[[東京の合唱]]』(1931年)はキネマ旬報ベスト・テンの3位に選ばれ、佐藤は「これで小津は名実ともに日本映画界の第一級の監督として認められるようになったと言える」と述べている{{Sfn|佐藤|2000|p=254}}。『[[大人の見る繪本 生れてはみたけれど]]』(1932年)はより高い評価を受け、初めてキネマ旬報ベスト・テンの1位に選ばれた{{Sfn|伝記|2019|pp=205-206}}。さらに『[[出来ごころ]]』(1933年)と『[[浮草物語]]』(1934年)でもベスト・テンの1位に選ばれた<ref name="全集上解題"/>。[[1933年]]9月には[[後備役]]として津市の歩兵第33連隊に入営し、毒ガス兵器を扱う特殊教育を受けた<ref name="蓮實年譜"/>。10月に除隊すると京都で師匠の大久保や[[井上金太郎]]らと交歓し、井上の紹介で気鋭の新進監督だった[[山中貞雄]]と知り合い、やがて二人は深く心を許し合う友となった<ref name="蓮實年譜"/><ref name="全発言解説">田中眞澄「解説」({{Harvnb|全発言|1987|pp=283-288}})</ref>。新しい出会いの一方、[[1934年]]4月には父寅之助を亡くした<ref name="全集年譜"/>。父が経営した小津地所部の後を継ぐ者はおらず、2年後に小津家は深川の家を明け渡すことになり、小津と母と弟の3人で[[芝区]][[高輪]]南町に引っ越した。小津は一家の大黒柱として、家計や弟の学費を背負ったが、この頃が金銭的に最も苦しい時期となった{{Sfn|伝記|2019|p=217}}。

[[1935年]]7月、小津は演習召集のため、再び青山の近衛歩兵第4連隊に3週間ほど入隊した<ref name="全集年譜"/>。この年に日本文化を海外に紹介するための記録映画『[[鏡獅子 (映画)|鏡獅子]]』(1936年)を撮影し、初めて土橋式によるトーキーを採用した<ref name="全集上解題"/>{{Sfn|戦後語録集成|1989|p=441}}。[[1936年]]3月、小津は[[日本映画監督協会]]の結成に加わり、協会を通じて[[溝口健二]]、[[内田吐夢]]、[[田坂具隆]]などの監督と親しくなった<ref name="全発言解説"/>。この年に茂原式トーキーが完成し、小津は約束通り『[[一人息子 (映画)|一人息子]]』(1936年)で採用することを決め、同年に蒲田から移転した[[松竹大船撮影所|大船撮影所]]で撮影することを考えたが、松竹が土橋式トーキーと契約していた関係で大船撮影所を使うことができず、誰もいなくなった旧蒲田撮影所で撮影した{{Sfn|伝記|2019|pp=219-220}}{{Sfn|全発言|1987|pp=263-264}}{{Refnest|group="注"|茂原のトーキー方式は「SMS(スーパー・モハラ・サウンド)」と呼ばれ、『一人息子』での成果が認められてからは、松竹傘下の[[新興キネマ]][[東映京都撮影所|京都撮影所]]で使用された{{Sfn|全発言|1987|pp=263-264}}。}}。[[1937年]]に土橋式で『[[淑女は何を忘れたか]]』を撮影したあと、自身が考えていた原作『愉しき哉保吉君』を内田吐夢に譲り、同年に『[[限りなき前進]]』として映画化された{{Sfn|伝記|2019|pp=219-220}}。9月には『[[父ありき]]』の脚本を書き上げたが、執筆に利用した[[茅ヶ崎市]]の旅館「[[茅ヶ崎館]]」は、これ以降の作品でもしばしば執筆に利用した{{Sfn|戦後語録集成|1989|p=451}}。

=== 小津と戦争 ===
1937年7月に[[日中戦争]]が開始し、8月に親友の山中が応召されたが、小津も『父ありき』脱稿直後の9月10日に召集され、[[近衛歩兵第2連隊]]に歩兵伍長として入隊した{{Sfn|伝記|2019|pp=219-220}}{{Sfn|佐藤|2000|pp=370-372, 614}}。小津は毒ガス兵器を扱う[[上海派遣軍]]司令部直轄・野戦瓦斯第2中隊に配属され、9月27日に[[上海]]に上陸した{{Sfn|佐藤|2000|pp=370-372, 614}}。小津は第三小隊の班長となって各地を転戦し、[[南京戦#南京陥落|南京陥落]]後の12月20日に[[安徽省 (中華民国)|安徽省]]滁県に入城した{{Sfn|千葉|2003|pp=163-164}}。[[1938年]]1月12日、上海へ戦友の遺骨を届けるための出張の帰路、[[南京]]郊外の[[句容市|句容]]にいた山中を訪ね、30分程の短い再会の時を過ごした{{Sfn|千葉|2003|pp=165-166}}。4月に[[徐州会戦]]に参加し、6月には[[軍曹]]に昇進し、9月まで[[南京]]に駐留した{{Sfn|佐藤|2000|pp=370-372, 614}}。同月に山中は戦病死し、訃報を知った小津は数日間無言になったという<ref name="全集年譜"/>。その後は[[武漢作戦|漢口作戦]]に参加し、[[1939年]]3月には[[南昌作戦]]に加わり、[[修水]]の渡河作戦で毒ガスを使用した{{Sfn|佐藤|2000|pp=370-372, 614}}。続いて[[南昌市|南昌]]進撃のため厳しい行軍をするが、小津は「山中の供養だ」と思って歩いた{{Sfn|伝記|2019|p=224}}。やがて南昌陥落で作戦は中止し、6月26日には[[九江市|九江]]で帰還命令が下り、7月13日に日本に帰国、7月16日に召集解除となった{{Sfn|千葉|2003|pp=178-179}}。

1939年12月、小津は帰還第1作として『彼氏南京へ行く』(後に『[[お茶漬の味]]』と改題)の脚本を執筆し、翌[[1940年]]に撮影準備を始めたが、[[内務省 (日本)|内務省]]の事前検閲で全面改訂を申し渡され、出征前夜に夫婦でお茶漬けを食べるシーンが「赤飯を食べるべきところなのに不真面目」と非難された<ref name="全集下解題">「作品解題」({{Harvnb|全集(下)|2003|pp=611-625}})</ref>。結局製作は中止となり、次に『[[戸田家の兄妹]]』(1941年)を製作した。これまで小津作品はヒットしないと言われてきたが、この作品は興行的に大成功を収めた<ref name="全集上解題"/>。次に応召直前に脚本を完成させていた『父ありき』(1942年)を撮影し、小津作品の常連俳優である[[笠智衆]]が初めて主演を務めた<ref name="全集年譜"/>。この撮影中に[[太平洋戦争]]が開戦し、[[1942年]]に陸軍報道部は「大東亜映画」を企画して、大手3社に戦記映画を作らせた。松竹は[[ビルマの戦い|ビルマ作戦]]を描くことになり、小津が監督に抜擢された<ref name="NO監督"/>。タイトルは『ビルマ作戦 遥かなり父母の国』で脚本もほぼ完成していたが、軍官の求める勇ましい映画ではないため難色を示され、製作中止となった{{Sfn|伝記|2019|p=230}}。

[[1943年]]6月、小津は軍報道部映画班員として南方へ派遣され、主に[[シンガポール]]に滞在した<ref name="NO監督"/>。同行者には監督の[[秋山耕作]]と脚本家の[[斎藤良輔 (脚本家)|斎藤良輔]]がおり、遅れてカメラマンの[[厚田雄春]]が合流した<ref name="NO監督"/>。小津たちはインド独立をテーマとした国策映画『デリーへ、デリーへ』を撮ることになり、[[ペナン]]で[[スバス・チャンドラ・ボース]]と会見したり、[[ジャワ]]でロケを行ったりしたが、戦況が悪化したため撮影中止となった{{Sfn|千葉|2003|pp=214-216}}。小津は厚田に後発スタッフが来ないよう電報を打たせたが、電報の配達が遅れたため、後発スタッフは行き違いで日本を出発してしまい、小津は「戦況のよくない洋上で船がやられたらどうするんだ」と激怒した。後発スタッフは何とか無事にシンガポールに到着し、撮影も続行されたが、やがて小津とスタッフ全員に非常召集がかかり、現地の軍に入営することになった{{Sfn|厚田|蓮實|1989|pp=130-132}}。仕事のなくなった小津はテニスや読書をして穏やかに過ごし、夜は報道部の検閲試写室で「映写機の検査」と称して、接収した大量のアメリカ映画を鑑賞した<ref name="蓮實年譜"/>{{Sfn|厚田|蓮實|1989|p=133}}。その中には『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』『[[嵐が丘 (1939年の映画)|嵐が丘]]』(1939年)、『[[怒りの葡萄 (映画)|怒りの葡萄]]』『[[ファンタジア (映画)|ファンタジア]]』『[[レベッカ (1940年の映画)|レベッカ]]』(1940年)、『[[市民ケーン]]』(1941年)などが含まれており、『ファンタジア』を見た時は「こいつはいけない。相手がわるい。大変な相手とけんかした」と思ったという<ref name="小津は語る">飯田心美「小津安二郎は語る」(『キネマ旬報』1947年4月号)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=22-24}}に所収</ref>。

[[1945年]]8月15日にシンガポールで敗戦を迎えると、『デリーへ、デリーへ』のフィルムと脚本を焼却処分し、映画班員とともにイギリス・オーストラリア軍の監視下にある[[ジュロン]]の民間人収容所に入り、しばらく抑留生活を送った<ref name="全集年譜"/>{{Sfn|伝記|2019|pp=235-236}}。小津は南方へ派遣されてからも松竹から給与を受け取っていたため、軍属ではなく民間人として扱われ、軍の収容所入りを免れていた{{Sfn|千葉|2003|p=221}}。抑留中は[[ゴムノキ|ゴム]]林での労働に従事し、収容所内での日本人向け新聞「自由通信」の編集もしていた{{Sfn|伝記|2019|pp=235-236}}。暇をみてはスタッフと[[連句]]を詠んでいたが、小津は後に「連句の構成は映画の[[モンタージュ]]と共通するものがあり、とても勉強になった」と回想している<ref name="小津は語る"/>。同年12月、第一次引き揚げ船で帰国できることになり、スタッフの人数が定員を上回っていたため、クジ引きで帰還者を決めることにした。小津はクジに当たったが、「俺は後でいいよ」と妻子のあるスタッフに譲り、映画班の責任者として他のスタッフの帰還が終わるまで残留した{{Sfn|伝記|2019|pp=235-236}}。翌[[1946年]]2月に小津も帰還し、12日に[[広島県]][[大竹市|大竹]]に上陸した<ref name="全集年譜"/>。

=== 戦後の活躍 ===
[[File:Late Spring Japanese Poster.jpg|thumb|190px|『[[晩春 (映画)|晩春]]』(1949年)のポスター。]]
日本に帰還した小津は、焼け残った高輪の自宅に行くが誰もおらず、妹の登久の嫁ぎ先である[[千葉県]][[野田町 (千葉県)|野田町]](現在の[[野田市]])に疎開していた母のもとへ行き、やがて小津も野田町内の借家に移住した{{Sfn|伝記|2019|pp=237-238}}。[[1947年]]に戦後第1作となる『[[長屋紳士録]]』を撮影したが、撮影中は千葉から通うわけにはいかず、撮影所内の監督室で寝泊まりするようになった<ref name="全集下解題"/>。この頃に撮影所前の食堂「月ヶ瀬」の主人の姪である杉戸益子(後に中井麻素子)と親しくなり、以後彼女は小津の私設秘書のような存在となった<ref name="中井">中井麻素子「文字通りの先生」({{Harvnb|松竹|1993|pp=170-172}})</ref>{{Sfn|千葉|2003|pp=248-249}}。益子は[[1957年]]に小津と[[木下惠介]]の独身監督の媒酌で[[佐田啓二]]と結婚し、後に[[中井貴恵]]と[[中井貴一|貴一]]をもうけた{{Sfn|伝記|2019|pp=237-238}}。小津は佐田夫妻と親子同然の間柄となり、亡くなるまで親密な関係が続いた<ref name="中井"/>{{Sfn|千葉|2003|pp=248-249}}。

[[1948年]]には新作『[[月は上りぬ]]』の脚本を書き上げ、[[東宝]]専属の[[高峰秀子]]を主演に予定したが、交渉が難航したため製作延期となり、代わりに『[[風の中の牝雞]]』を撮影した{{Sfn|伝記|2019|p=239}}。この作品は小津が畏敬した[[志賀直哉]]の『[[暗夜行路]]』をモチーフにしていると目されているが、あまり評判は良くなく、小津自身も失敗作だと認めている<ref name="自作を語る"/><ref name="全集下解題"/>。デビュー作からコンビを組んできた脚本家の[[野田高梧]]も作品を批判し、それを素直に認めた小津は、次作の『[[晩春 (映画)|晩春]]』(1949年)からの全作品の脚本を野田と共同執筆した<ref name="高梧">[[野田高梧]]「小津安二郎という男 交遊四十年とりとめもなく」({{Harvnb|人と芸術|1964|pp=76-84}})</ref>。『晩春』は[[広津和郎]]の短編小説『父と娘』が原作で、娘の結婚というテーマを[[能]]や[[茶の湯]]など日本の伝統的な情景の中で描いた。また、[[原節子]]を主演に迎え、[[#作風|小津調]]と呼ばれる独自の作風の基調を示すなど、戦後の小津作品のマイルストーンとなった<ref name="松竹解説"/>{{Sfn|伝記|2019|pp=240-241}}。作品はキネマ旬報ベスト・テンで1位に選ばれ、[[毎日映画コンクール]]の日本映画大賞を受賞した<ref name="全集年譜"/>。

次作の『[[宗方姉妹]]』(1950年)は[[新東宝]]製作で、初の他社作品となった<ref name="全集下解題"/>。この作品は当時の日本映画の最高記録となる約5000万円もの製作費が投じられ、この年の洋画を含む興行配収1位になる大ヒット作となった<ref name="小事典">「小津安二郎 全作品ディテール小事典」({{Harvnb|大全|2019|pp=413-497}})</ref>。[[1951年]]には『[[麦秋 (1951年の映画)|麦秋]]』を監督し、再びキネマ旬報ベスト・テン1位と毎日映画コンクール日本映画大賞に選ばれた<ref name="全集年譜"/>。[[1952年]]1月、松竹大船撮影所の事務所本館が全焼し、小津が撮影中に寝泊まりしていた監督室も焼けたため、5月に母を連れて[[北鎌倉]]に転居{{Refnest|group="注"|1952年(昭和27年)3月に、画家[[小倉遊亀]]の持ち家だった家を新居と決め、5月2日に転居した。鎌倉市[[山ノ内 (鎌倉市)|山ノ内]]1445番地。[[浄智寺]]参道の脇道の左手に小さな隧道があり、それをくぐった奥の谷戸に小倉遊亀邸があり、その門前を更に左に昇ったところにあった{{Sfn|山内|2003|pp=176-177}}。}}し、そこを終の棲家とした{{Sfn|伝記|2019|pp=245-246}}。この年に戦前に検閲で撥ねられた『お茶漬の味』を撮影し、[[1953年]]には小津の最高傑作のひとつに位置付けられている『[[東京物語]]』を撮影した{{Sfn|伝記|2019|pp=246-249}}。同年9月、松竹を含む5つの映画会社は、同年に製作再開した[[日活]]による監督や俳優の引き抜きを防ぐために[[五社協定]]を締結し、それにより小津は松竹の専属契約者となった<ref name="全集年譜"/>{{Sfn|伝記|2019|pp=246-249}}。

[[1954年]]、戦後長らく映画化が実現できずにいた『月は上りぬ』が、日本映画監督協会の企画作品として日活が製作し、小津の推薦で[[田中絹代]]が監督することに決まった{{Sfn|千葉|2003|p=291}}。小津は他社作品ながら脚本を提供し、スポンサーと交渉するなど精力的に協力したが、日活は俳優の引き抜きをめぐり[[大映]]など五社と激しく対立していたため製作は難航した{{Sfn|伝記|2019|pp=252-253}}{{Sfn|田中|2003|pp=414-422}}{{Refnest|group="注"|とくに大映は日活の製作再開を脅威に感じていたため、『月は上りぬ』の映画化に最も強く反発した。田中は当時借金を抱えており、その返済のために大映と本数契約を結んでいたが、大映はこれをタテにして、彼女の日活映画での監督・出演を阻止しようとした{{Sfn|田中|2003|pp=414-422}}。さらに監督協会理事長の溝口健二も田中の監督に反対したが、小津はこの問題処理に奔走し、最終的に溝口をのぞく監督協会の各社代表は田中を擁護し、9月8日に田中監督を応援する旨の声明を出した{{Sfn|千葉|2003|p=291}}{{Sfn|田中|2003|pp=414-422}}。}}。小津は監督協会代表者として日活との交渉に奔走し、田中を監督に推薦した責任上、彼女と同じ立場に身を置くため、9月8日に松竹と契約更新をせずにフリーとなった<ref name="蓮實年譜"/>{{Sfn|田中|2003|pp=414-422}}。やがて作品は監督協会が製作も行い、配給のみ日活に委託することになり、キャスティングに難航しながらも何とか完成に漕ぎつけ、[[1955年]]1月に公開された{{Sfn|千葉|2003|p=291}}。小津はこの作品をめぐる問題処理にあたったこともあり、同年10月に監督協会の理事長に就任した{{Sfn|田中|2003|pp=414-422}}。

小津はフリーの立場で松竹製作の『[[早春 (1956年の映画)|早春]]』(1956年)を撮影したあと、[[1956年]]2月に松竹と年1本の再契約を結び、以後は1年ごとに契約を更新した{{Sfn|伝記|2019|pp=256-258}}。小津は次回作として、戦前に映画化された『愉しき哉保吉君』を自らの手でリメイクすることにしたが、内容が暗いため中止した<ref name="蓮實年譜"/>。6月からは[[長野県]][[蓼科高原|蓼科]]にある野田の別荘「雲呼荘」に滞在し、その土地を気に入った小津は雲呼荘近くにある[[片倉工業|片倉製糸]]の別荘を借り、「{{ルビ|無藝荘|むげいそう}}」と名付けた{{Sfn|伝記|2019|pp=256-258}}。次作の『[[東京暮色]]』(1957年)からは蓼科の別荘で脚本を執筆するようになり、無藝荘は東京から来た客人をもてなす[[迎賓館]]のような役割を果たした<ref name="高梧"/>{{Sfn|伝記|2019|pp=256-258}}。[[1957年]]10月から11月にかけて『浮草物語』をリメイクした『大根役者』の脚本を書き上げ、[[1958年]]1月[[新潟県]]の[[佐渡島]]と[[高田市]](現在の[[上越市]])で[[ロケーション・ハンティング]]も敢行したが、ロケ先が雪不足のため撮影延期となった<ref name="全集下解題"/>。

=== カラー映画時代 ===
1950年代に日本映画界ではカラー化、[[ワイドスクリーン]]化が進んでいたが、小津はトーキーへの移行の時と同じように、新しい技術には慎重な姿勢を見せた<ref name="俯瞰">松浦莞二、折田英五「小津の技法を俯瞰する」({{Harvnb|大全|2019|pp=500-505}})</ref>。ワイドスクリーンについては「何だかあのサイズは郵便箱の中から外をのぞいているような感じでゾッとしない<ref>「小津監督の次回作『秋日和』」([[毎日新聞]]1960年6月11日夕刊)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=356-357}}に所収</ref>」「四畳半に住む日本人の生活を描くには適さない<ref>「悪いやつの出る映画は作りたくない」(東京新聞1960年9月6日夕刊)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=363-364}}に所収</ref>」などと言って導入せず、亡くなるまで従来通りの[[画面アスペクト比#スタンダードサイズ|スタンダードサイズ]]を貫いた<ref name="俯瞰"/>。一方、カラーについては自分が望む色彩の再現がうまくいくかどうか不安に感じていたが、戦後の小津作品のカメラマンの厚田雄春によると、『東京物語』頃からカラーで撮る可能性が出ていて、いろいろ研究を始めていたという{{Sfn|貴田|1999|p=117}}{{Sfn|厚田|蓮實|1989|pp=259-260}}。1958年、小津は『[[彼岸花 (映画)|彼岸花]]』を撮るにあたり、会社からカラーで撮るよう命じられたため、厚田の助言を受け入れて、色調が渋くて小津が好む[[赤]]の発色が良い{{仮リンク|アグファカラー|en|Agfacolor}}を採用した<ref name="自作を語る"/>{{Sfn|厚田|蓮實|1989|pp=259-260}}。この作品以降は全作品をアグファカラーで撮影した{{Sfn|貴田|1999|p=117}}。

小津作品初のカラー映画となった『彼岸花』は、大映から[[山本富士子]]を借りるなどスターを並べたのが功を奏して、この年の松竹作品の興行配収1位となり、小津作品としても過去最高の興行成績を記録した<ref name="全集下解題"/>{{Sfn|伝記|2019|p=262}}。[[1959年]]2月には映画関係者で初めて[[日本芸術院賞]]を受賞した<ref name="全集年譜"/>。この年は『[[お早よう]]』を撮影したあと、大映から『大根役者』を映画化する話が持ち上がり、これを『[[浮草 (映画)|浮草]]』と改題して撮影した<ref name="全集下解題"/>。[[1960年]]には松竹で『[[秋日和]]』を撮影したが、主演に[[東宝]]から原節子と[[司葉子]]を借りてきたため、その代わりに東宝で1本作品を撮ることになり、翌[[1961年]]に東宝系列の[[宝塚映像#宝塚映画製作所|宝塚映画]]で『[[小早川家の秋]]』を撮影した<ref name="小事典"/>。

[[1962年]]2月4日、最愛の母あさゑが86歳で亡くなった<ref name="全集年譜"/>。この年に最後の監督作品となった『[[秋刀魚の味]]』を撮影し、11月に映画人で初めて[[日本芸術院]]会員に選出された{{Sfn|伝記|2019|pp=270-271}}。[[1963年]]には次回作として『[[大根と人参]]』の構想を進めたが、この脚本は小津の病気により執筆されることはなく、ついに亡くなるまで製作は実現しなかった<ref name="NO監督"/><ref name="小事典"/>{{Sfn|伝記|2019|pp=273-275}}。『大根と人参』は小津没後に[[渋谷実]]が構想ノートをもとに映画化し、[[1965年]]に同じタイトルで公開した<ref name="小事典"/>。小津の最後の仕事となったのは、日本映画監督協会プロダクションが製作する[[いすゞ自動車]]の宣伝映画『[[私のベレット]]』(1964年)の脚本監修だった{{Sfn|伝記|2019|pp=273-275}}。

=== 闘病と死去 ===
[[File:Odzuhaka.jpg|thumb|[[鎌倉市]]の[[円覚寺]]にある小津安二郎の墓。]]
1963年4月、小津は数日前にできた右頸部[[悪性腫瘍]]のため[[国立がん研究センター|国立がんセンター]]に入院し、手術を受けた{{Sfn|伝記|2019|pp=273-275}}。手術後は患部に[[コバルト]]や[[ラジウム]]の針を刺す治療を受け、「そのへんに、オノか何かあったら、自殺したかったよ」と口を漏らすほど痛みに苦しんだ<ref name="看護日誌">[[佐田啓二]]「おやじ小津安二郎はもういない 佐田啓二の看護日誌」(『サンデー毎日』1963年12月29日号)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=415-423}}に所収</ref>。7月に退院すると[[湯河原町|湯河原]]で療養したが、右手のしびれが痛みとなり、月末に帰宅してからは寝たきりの生活を送った{{Sfn|伝記|2019|pp=273-275}}<ref name="看護日誌"/>。9月にがんセンターは佐田啓二など親しい人たちに、小津が癌であることを通告した{{Sfn|伝記|2019|pp=273-275}}。小津の痛みは増すばかりで、好物も食べられないほどになっていた<ref name="看護日誌"/>。10月には[[東京医科歯科大学医学部附属病院]]に再入院したが、11月に[[白血球]]不足による呼吸困難のため、気管支の切開手術をしてゴム管をはめた。そのせいで発声もほとんどできなくなり、壁に[[いろは順|イロハ]]を書いた紙を貼り、文字を指して意思疎通をした<ref name="全集年譜"/>{{Sfn|伝記|2019|pp=273-275}}。

12月11日、小津の容態が悪化し、佐田が駆けつけると[[死相]]があらわれていた<ref name="看護日誌"/>。そして12月12日午後12時40分、小津は還暦を迎えた当日に死去した{{Sfn|伝記|2019|pp=273-275}}。翌日の通夜には、すでに女優を引退していた原節子が駆けつけた{{Sfn|厚田|蓮實|1989|p=268}}。12月16日、松竹と日本映画監督協会による合同葬が[[築地本願寺]]で行われ、城戸が葬儀委員長を務めた<ref name="全集年譜"/>。戦後は年に1本の寡作ということもあり、また独身で友人や弟子たちと飲み歩いておごる、という親分気質だったせいか、特に遺産というほどのものはなかったという<ref>[[小津安二郎#CITEREF佐藤2000|佐藤 2000]], pp. 588.</ref>。生前に小津は松竹から金を借りており、会社は香典で借金を回収しようとしたが、葬儀委員を務めた[[井上和男]]により止められた<ref name="全集年譜"/>{{Sfn|伝記|2019|pp=273-275}}。墓は北鎌倉の[[円覚寺]]につくられ、墓石には[[朝比奈宗源]]の筆による「無」の一文字が記された{{Sfn|伝記|2019|pp=273-275}}。


== 作風 ==
== 作風 ==
{{Quote box|width=40%|align=right|quote=性に合わないんだ。ぼくの生活条件として、なんでもないことは流行に従う。重大なことは道徳に従う。芸術のことは自分に従うから、どうにもきらいなものはどうにもならないんだ。だから、これは不自然だということは百も承知で、しかもぼくは嫌いなんだ。そういうことはあるでしょう。嫌いなんだが、理屈にあわない。理屈にあわないんだが、嫌いだからやらない。こういう所からぼくの個性が出てくるので、ゆるがせにはできない。理屈にあわなくともぼくはそれをやる。|source=映画の文法的技法を使わないことに対する小津の発言<ref name="味がよい">小津安二郎、[[岩崎昶]]、飯田心美の対談「酒は古いほど味がよい」(『キネマ旬報』1958年8月下旬号)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=296-305}}に所収</ref>}}
[[ファイル:Setsuko Hara and Yasujiro Ozu in Tokyo Story.jpg|thumb|left|250px|『東京物語』のロケ。最右が小津、左前方は原節子(1953年)]]
小津は他の監督と明確に異なる独自の作風を持つことで知られ、それは「小津調」と呼ばれた。映画批評家の[[佐藤忠男]]は「小津の映画を何本か見て、その演出の特徴を覚えた観客は、予備知識抜きでいきなり途中からフィルムを見せられても、それが小津安二郎の作品であるかをほぼ確実に当てることができるだろう」と述べている{{Sfn|佐藤|2000|pp=34-35}}。小津調の特徴的なスタイルとして、ロー・ポジションで撮影したこと、極力カメラを固定したこと、人物や小道具を相似形に配置したこと、小道具や人物の配置に特別な注意を払ったこと、{{仮リンク|オーバーラップ (映像技法)|label=ディゾルブ|en|Dissolve (filmmaking)}}や[[フェード#映像編集|フェード]]などの文法的技法を排したことなどが挙げられる。そのほかにも[[アメリカ映画]]の影響を受けたことや、同じテーマ・同じスタッフとキャストを扱ったことなども、小津作品の特徴的な作風に挙げられる。


=== ローポジション ===
=== アメリカ映画の影響 ===
[[File:Dragnet Girl 1933.jpeg|thumb|『[[非常線の女]]』([[1933年]])はアメリカのギャング映画を彷彿とさせる作品である{{Sfn|フィルムアート社|1982|p=129}}。]]
地面ぎりぎりから撮影する独特の低いカメラアングルと厳格なまでの正面からの切り返しのフィクスショットを特徴とし、[[ローポジション]]の映画監督としても知られている。このローポジションで撮った「ちゃぶ台を囲む家族たち」のシーン、あるいは「婚期を逃しかけている娘を心配する父親」「父を思いやる娘」など、日本のテレビにおける「[[ホームドラマ]]」の型を完成させた監督でもあり、これらは蒲田調として知られる日本映画の伝統の一部として受け継がれて行った。
戦後の小津は伝統的な日本の家庭生活を描くことが多かったが、若き日の小津は舶来品の服装や持物を愛好する[[モボ・モガ|モダンボーイ]]で、1930年代半ばまでは自身が傾倒する[[アメリカ映画]](とくに小津が好んだ[[エルンスト・ルビッチ]]、[[キング・ヴィダー]]、[[ウィリアム・A・ウェルマン]]の作品)の影響を強く受けた、ハイカラ趣味のあるモダンでスマートな作品を撮っている{{Sfn|フィルムアート社|1982|p=129}}{{Sfn|佐藤|1995|p=236}}{{Sfn|映畫読本|2003|p=44}}{{Sfn|古賀|2010|pp=91-92}}。例えば、『[[非常線の女]]』(1933年)は[[ギャング映画]]の影響が色濃く見られ、画面に写るものはダンスホールやボクシング、ビリヤード、洋式のアパートなどの西洋的なものばかりというバタ臭い作品だった{{Sfn|フィルムアート社|1982|p=129}}{{Sfn|古賀|2010|pp=91-92}}。また、『[[大学は出たけれど]]』(1929年)と『[[落第はしたけれど]]』(1930年)は[[ハロルド・ロイド]]主演の喜劇映画、『結婚学入門』『淑女は何を忘れたか』はルビッチの都会的な[[ソフィスティケイテッド・コメディ]]からそれぞれ影響を受けている<ref name="松竹解説"/><ref name="小事典"/>。小津のアメリカ映画への傾倒ぶりは、初期作品に必ずと言っていいほどアメリカ映画の英語ポスターが登場することからもうかがえる<ref name="小事典"/>{{Sfn|映畫読本|2003|p=44}}。


戦前期の小津作品には、アメリカ映画を下敷きにしたものが多い。デビュー作である『懺悔の刃』のストーリーの大筋は{{仮リンク|ジョージ・フィッツモーリス|en|George Fitzmaurice}}監督の『{{仮リンク|キック・イン (映画)|label=キック・イン|en|Kick In (1922 film)}}』(1922年)を下敷きにしており、ほかにもフランス映画の『{{仮リンク|レ・ミゼラブル (1925年の映画)|label=レ・ミゼラブル|fr|Les Misérables (film, 1925)}}』(1925年)と、[[ジョン・フォード]]監督の『{{仮リンク|豪雨の一夜|en|Goodman Blind}}』(1923年)からも一部を借用している。また、『出来ごころ』はヴィダーの『{{仮リンク|チャンプ (1931年の映画)|label=チャンプ|en|The Champ (1931 film)}}』(1931年)、『浮草物語』はフィッツモーリスの『{{仮リンク|煩悩 (映画)|label=煩悩|en|The Barker}}』(1928年)、『戸田家の兄妹』は[[ヘンリー・キング]]監督の『{{仮リンク|オーバー・ザ・ヒル|en|Over the Hill (1931 film)}}』(1931年)をそれぞれ下敷きにしている<ref name="小事典"/>。
なお、小津安二郎の「切り返しショット」は通常の映画の「文法」に沿っていない、すなわち切り返しのショットにおいて[[イマジナリーライン]]を超えてはならないとされる「原則」に反していると指摘されている。この指摘は小津の生前から数多くなされていたが、小津は確信を持ってこの手法を取り入れていたため、少なくとも中期以降の作品においては、切り返しショットがイマジナリーラインを超えて真正面から捉える手法の大原則が破られることはなかった。こうした映画文法の意図的な違反が、独特の時間感覚とともに作品に固有の違和感を生じさせており、特に海外の映画評論家から評価を得ている。


佐藤忠男は、小津がアメリカ映画から学び取った最大のものはソフィスティケーション、言い換えれば現実に存在する汚いものや野暮ったいものを注意深く取り去り、きれいでスマートなものだけを画面に残すというやり方だったと指摘している{{Sfn|佐藤|1995|pp=52-53}}。実際に小津は自分が気に入らないものや美しいと思われないものを、画面から徹底的に排除した{{Sfn|古賀|2010|p=116}}。例えば、終戦直後の作品でも焼け跡の風景や[[軍服]]を着た人物は登場せず、若者はいつも身ぎれいな恰好をしている{{Sfn|古賀|2010|p=116}}。小津自身も「私は画面を清潔な感じにしようと努める。なるほど汚いものを取り上げる必要のあることもあった。しかし、それと画面の清潔・不潔とは違うことである。現実を、その通りに取上げて、それで汚い物が汚らしく感じられることは好ましくない。映画では、それが美しく取上げられていなくてはならない」と述べている<ref>「場面の構成と演技指導」(『百万人の映画知識』[[解放社]]、1950年1月)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=77-78}}に所収</ref>。
=== 周囲 ===
松竹の後輩である[[篠田正浩]]が「物がなくなっていく映画」とユニークに評している。また評論家の[[川本三郎]]によると彼は[[白樺派]]及び[[永井荷風]]の影響を受けたと評されている。


=== テーマ ===
死後製作された[[ドキュメンタリー]]『[[生きてはみたけれど 小津安二郎伝]]』は、小津と共に松竹を支えた[[木下惠介]]、松竹を追い出されるようにして独立した[[新藤兼人]]、疑問を抱いて道を分けた[[今村昌平]]という3人の貴重な回想を、やはり「蛮さん」のニックネームで小津に可愛がられた井上和男が監督している。
初期の小津作品には、昭和初期の不況を反映した社会的なテーマを持つ作品が存在する<ref name="松竹解説"/>{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=46, 63, 101}}。『大学は出たけれど』では不況による学生の就職難を描き、タイトルは当時の世相を表す言葉として定着した{{Sfn|映畫読本|2003|p=40}}。『落第はしたけれど』では大学を卒業して就職難になるよりも、落第した方が学生生活を楽しめて幸福だという風刺を利かしている<ref name="小事典"/><ref name="松竹解説"/>。『[[会社員生活]]』(1929年)と『東京の合唱』では失業したサラリーマンを主人公にして、その暗くて不安定な生活と悲哀をユーモラスの中に描いている{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=46, 63, 101}}<ref name="滋野">滋野辰彦「評伝・小津安二郎」(『キネマ旬報』1952年6月上旬号)。{{Harvnb|集成2|1993|pp=73-79}}に所収</ref>。こうした作品は不況下の小市民社会の生活感情をテーマにした「小市民映画」のひとつに位置付けられている{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=46, 63, 101}}{{Sfn|現代映画用語事典|2012|p=68}}。小津のもうひとつの小市民映画『生れてはみたけれど』では、子供の視点から不景気時代のサラリーマンの卑屈さを辛辣に描き、そのジャンルの頂点に達する傑作と目されている<ref name="滋野"/>{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=112-113}}。『[[東京の宿]]』(1935年)や『[[大学よいとこ]]』『一人息子』(1936年)でも不景気による失業や就職難を扱い、内容はより暗くて深刻なものになった<ref name="松竹解説"/>{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=156, 163}}。


小津は生涯を通じ家族を題材にとり、親と子の関係や家族の解体などのテーマを描いた{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=199, 220, 267}}{{Sfn|リチー|1978|pp=18-27}}<ref name="小倉">小倉真美「『小早川家の秋』に見る小津映画の特質」(『キネマ旬報』1961年11月下旬号)。{{Harvnb|集成2|1993|pp=94-98}}に所収</ref>。映画批評家の小倉真美は、小津を「一貫して親子の関係を追究してきた作家」と呼び<ref name="小倉"/>、[[ドナルド・リチー]]は「主要なテーマとしては家庭の崩壊しか扱わなかった」と述べている{{Sfn|リチー|1978|pp=18-27}}。家族の解体に関しては、娘の結婚による親子の別れや、母や父などの死がモチーフとなることが多い<ref name="俯瞰"/>{{Sfn|リチー|1978|pp=18-27}}。また、小津作品に登場する家族は構成員が欠けている場合が多く、誰かが欠けている家族が娘の結婚や肉親の死でさらに欠けていくさまが描かれている<ref name="小事典"/>。『晩春』以降はブルジョワ家庭を舞台に、父娘または母娘の関係や娘の結婚を繰り返し描き、遺作まで同じようなテーマとプロットを採用した<ref name="俯瞰"/>{{Sfn|佐藤|2000|pp=34-35}}{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=199, 220, 267}}{{Sfn|映畫読本|2003|pp=84, 90, 98, 104, 108}}。同じテーマだけでなく同じスタイルにも固執したため、批評家からはしばしば「進歩がない」「いつも同じ」と批判されたが、これに対して小津は自身を「豆腐屋」に例え{{Sfn|佐藤|2000|pp=34-35}}<ref name="クセ">「わたしのクセ」(『読売グラフ』1955年6月7日号)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|p=237}}に所収</ref>、「豆腐屋に[[カレー]]だの[[豚カツ|とんかつ]]作れったって、うまいものが出来るはずがない<ref name="クセ"/>」「僕は豆腐屋だ。せいぜい[[がんもどき|ガンモドキ]]しか作れぬ。トンカツやビフテキはその専門の人々に任せる<ref>『スポーツニッポン』1951年9月14日。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=437}}に発言を引用。</ref>」などと発言した。
== 評価 ==
戦後の『晩春』以降の作品は国内でも評価が高くヒットしたが、死後は「古臭いホームドラマ映画監督」として忘れ去られようとしていた。これには「[[日本ヌーヴェルヴァーグ|松竹ヌーヴェルヴァーグ]]」を担った[[大島渚]]や[[篠田正浩]]や[[吉田喜重]]など当時の新進監督たちによる古参監督たちへの反発も関与している。死後、しばらくしてから[[フランス]]を中心に国際的評価が高まり、その独特の映画スタイルが斬新なものとされ、著名な映画監督、評論家たちが小津映画への敬愛を口にするようになった。海外では[[ネオフォルマリスム]]の理論家[[デービッド・ボールドウィン]]が、日本では[[蓮実重彦]]などが精力的に小津安二郎論を執筆し再評価に努めた。


=== 製作方法 ===
[[2003年]]は小津の生誕100周年にあたるため、記念プロジェクトが立ち上がり、各地で上映会などの記念イベントが催された。
==== 脚本 ====
小津は自ら脚本作りに参加し、ほとんどの作品には共作者がいた。サイレント映画時代は原作者や潤色者として脚本作りに参加し、その際に「ジェームス・槇<ref name="ジェームス・槇" group="注"/>」というペンネームを多用した{{Sfn|貴田|1999|pp=51-54}}。この名前は小津とその共作者の[[池田忠雄]]、[[伏見晁]]、[[北村小松]]との共同ペンネームとして考案されたが、誰も使わなかったため小津専用の名前になり、11本の作品でクレジットされている<ref name="自作を語る"/><ref name="全集上解題"/>。他にも『[[突貫小僧]]』(1929年)で「野津忠二{{Refnest|group="注"|野津忠二は、小津と野田高梧、池田忠雄、大久保忠素の名前を合成したペンネームで、[[ドイツ]]の輸入ビールを飲みたさに、原作料をせしめるために名乗ったという<ref name="全集上解題"/>。}}」、『生れてはみたけれど』で「燻屋鯨兵衛」というペンネームを使い、さらに『[[東京の女 (映画)|東京の女]]』(1933年)の「エルンスト・シュワルツ」、『東京の宿』の「ウィンザァト・モネ」のように、原作者として冗談めかした外国人名を名乗ったこともあった<ref name="全集上解題"/>{{Sfn|貴田|1999|pp=51-54}}{{Refnest|group="注"|エルンスト・シュワルツは、エルンスト・ルビッチとドイツの監督{{仮リンク|ハンス・シュワルツ|de|Hanns Schwarz}}の名前を合成したペンネームである{{Sfn|映畫読本|2003|p=58}}。ウィンザァト・モネは、池田と荒田正男との合作名で、無一文を意味する英語「''Without Money''」のもじりである<ref name="小事典"/>。}}。当時の共同執筆について、池田忠雄は自分が下書きをし、小津がそれを手直しすることが多かったと述べている<ref>{{Cite news |和書 |title=実録日本映画史129 |date=1964-5-21 |newspaper=読売新聞 |edition=夕刊}}</ref>。伏見晁によると、小津はシーンの構成から会話の細部に至るまで全面的に手を入れたため、伏見が書いた脚本でも完成時には小津のものに換骨奪胎されたという<ref name="全集上解題"/>。


『晩春』からの全作品は[[野田高梧]]とともに脚本を書き、野田は小津の女房役ともいえる存在となった{{Sfn|映畫読本|2003|pp=26-31}}。2人は旅館や別荘に籠もり、じっくりと時間をかけて脚本を書いた<ref name="芸談"/><ref name="俯瞰"/>{{Sfn|貴田|1999|pp=55-56}}。小津と野田はうまが合い、酒の量や寝起きの時間も同じで、セリフの言葉尻を「わ」にするか「よ」にするかまで意見が一致したため、コンビを組んで仕事をするにはとても都合が良かったという<ref name="芸談"/><ref name="自作を語る"/>。脚本作りではストーリーよりも登場人物を優先し、俳優の個性に基づいて配役を選び、それを念頭において登場人物の性格とセリフを作った{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=356, 358, 360}}。映画評論家の[[貴田庄]]が「小津の脚本書きは、頭の中で映画を撮りながら書くことと等しかった」と述べたように、小津は頭の中でコンティニュイティを考えながら脚本を書いたため、やむを得ない状況を除いて脚本が変更されることはなかった{{Sfn|貴田|1999|pp=55-56}}。
=== 国際的な支持 ===
映画監督以上に映像芸術家として国際的に知られる。[[溝口健二]]、[[成瀬巳喜男]]、[[黒澤明]]と並んで小津も評価が高く、作品『[[東京物語]]』はヨーロッパで人気が高い。


==== 撮影 ====
小津を敬愛し、あるいは小津からの影響を明言している作家は世界的にひろがる。その国の映画制作の巨匠も多い。
[[ファイル:Setsuko Hara and Yasujiro Ozu in Tokyo Story.jpg|thumb|200px|『[[東京物語]]』([[1953年]])を撮影中の小津(最右の白いピケ帽を被った人物)と[[原節子]]。]]
{{col-begin}}
小津は[[ロケーション・ハンティング]]を入念に行い、撮影する場所を厳密に定めた{{Sfn|佐藤|1995|pp=370-372}}。屋外シーンのほとんどはロケーションだが、オープンセットを使うことは滅多になく、室内シーンをはじめ飲み屋街や宿屋のシーンなどもスタジオ内のステージセットで撮影した{{Sfn|厚田|蓮實|1989|pp=248-250}}。撮影にあたっては、1ショットごとにイメージ通りの映像になるよう、自分でカメラの[[ファインダー]]を覗きながら、画面上の人物や小道具の位置をミリ単位で決めた{{Sfn|佐藤|1995|pp=370-372}}{{Sfn|貴田|1999|pp=56-58}}。スタッフに位置を指示する時は、「大船へ10センチ」「もう少し鎌倉寄り」というように、大船撮影所近くの地名や駅名を用いて方角を伝えた<ref name="司葉子">[[司葉子]]「「葉ちゃんね、女の一生やるときにはね、次がああだからって演技を組み立てると、わかっちゃってつまらない」って。」({{Harvnb|大全|2019|pp=29-34}})</ref>。
{{col-3}}

*{{Flagicon|USA}} [[フランシス・コッポラ]]
佐藤が小津のことを「構図至上主義者」と呼んだように、小津は何よりも1つ1つのショットの構図の美しさを重視し、小道具の位置だけでなく形や色に至るまで細心の注意を払った{{Sfn|佐藤|2000|pp=57, 183}}{{Sfn|古賀|2010|pp=70-71}}。助監督を務めた[[篠田正浩]]によると、畳のへりの黒い線が、画面の中を広く交錯しているように見えて目障りだとして、線を消すためだけに誰も使わない座布団を置いたという{{Sfn|佐藤|2000|p=97}}。それぞれのショットの構図を優先するため、同じシーンでもショットが変わるたびに俳優や小道具の位置を変えてしまうこともあった{{Sfn|佐藤|2000|pp=57, 183}}{{Sfn|貴田|1999|pp=160-161}}。これではショット間のつながりがなくなってしまうが、篠田がそれを小津に指摘すると「みんな、そんなことに気付くもんか」と言い、篠田も試写を見ると違和感がなかったという{{Sfn|リチー|1978|p=179}}。
*{{Flagicon|USA}} [[ヴィンセント・ギャロ]]

*{{Flagicon|USA}} [[ジム・ジャームッシュ]]
画面上の小道具や衣装は小津自身が選び、自宅にある私物を持ち込むこともあった<ref name="小事典"/>{{Sfn|佐藤|1995|pp=370-372}}<ref name="岩下志麻">[[岩下志麻]]「「人間は悲しい時に悲しい顔をするものではない。人間の喜怒哀楽はそんなに単純なものではないのだよ」という小津先生の言葉」({{Harvnb|大全|2019|pp=35-38}})</ref>。茶碗や花器などの美術品は、美術商から取り寄せた本物を使用し、カラー作品では有名画家の実物の絵画を使用した{{Sfn|厚田|蓮實|1989|pp=259-260}}<ref name="川又">川又昴「映画に文法はない、自由に作ればいい」({{Harvnb|松竹|1993|pp=180-185}})</ref>{{Sfn|古賀|2010|pp=66-67}}。例えば、『秋日和』では[[梅原龍三郎]]の薔薇の絵、[[山口蓬春]]の椿の絵、[[高山辰雄]]の風景画、[[橋本明治]]の武神像図、[[東山魁夷]]の風景画を背景に飾っている{{Sfn|古賀|2010|pp=66-67}}。本物を使うことに関して小津は「床の間の軸や置きものが、筋の通った品物だと、いわゆる小道具のマガイ物を持ち出したのと第一私の気持が変って来る…人間の眼はごまかせてもキャメラの眼はごまかせない。ホンモノはよく写るものである」と述べている<ref name="芸談"/>。また、赤を好む小津は、画面の中に赤色の小道具を入れることが多く、カラー作品では赤色の[[やかん]]がよく写っていることが指摘されている{{Sfn|貴田|1999|pp=126-127, 157}}。
*{{Flagicon|USA}} [[ポール・シュレーダー]]

*{{Flagicon|Iran}} [[アッバス・キアロスタミ]]
==== 演技指導 ====
*{{Flagicon|South Korea}} [[ホ・ジノ]]
小津は俳優の動きや視線、テンポに至るまで、演技のすべてが自分のイメージした通りになることを求めた{{Sfn|古賀|2010|pp=107-108}}。小津は自ら身振り手振りをしたり、セリフの口調やイントネーション、間のとり方までを実際に演じてみせたりして、俳優に厳密に演技を指導したが、笠智衆は小津が「[[アルフレッド・ヒッチコック|ヒッチコック]]のように自分の作品に出演したら、大変な名演技だったろう」と述べている<ref name="小津先生">[[笠智衆]]「小津先生とわたし」(『キネマ旬報』1958年6月下旬号)。{{Harvnb|集成|1989|pp=144-145}}に所収</ref>。演技の指示は「そこで三歩歩いて止まる{{Sfn|佐藤|1995|pp=370-372}}」「紅茶をスプーンで2回半かき回して顔を左の方へ動かす{{Sfn|佐藤|1996|p=317}}」「手に持ったお盆の位置を右に2センチ、上に5センチ高くして<ref name="岩下志麻"/>」という具合に細かく、俳優はその指示通りに動いたため{{Sfn|佐藤|1995|pp=370-372}}、飯田蝶子は「役者は操り人形みたいなもの」だったと述べている<ref>[[飯田蝶子]]「小津さんの兵隊」(キネマ旬報別冊『日本映画シナリオ古典全集 第2巻』1966年2月)。{{Harvnb|集成2|1993|pp=137-139}}に所収</ref>。
*{{Flagicon|South Korea}} [[ホン・サンス]]

{{col-3}}
構図を重要視した小津は、演技も構図にはまるようなものを求めた<ref name="小津先生"/>。『長屋紳士録』で易者を演じた[[笠智衆]]によると、机の上の手相図に筆で書き込むというシーンで、普通に筆を使うと頭が下がってしまうが、小津は頭が動くことで構図が崩れてしまうのを避けるため、頭の位置を動かさずに演じるよう指示し、笠が「そりゃちょっと不自然じゃないですか」と抗議したところ、小津は「君の演技より映画の構図のほうが大事なんだよ」と言い放ったという<ref name="小津先生"/>{{Sfn|笠|1991|p=83}}。
*{{Flagicon|Germany}} [[ヴィム・ヴェンダース]]

*{{Flagicon|Germany}} [[ペーター・ハントケ]]
小津は自分がイメージした通りになるまで、俳優に何度も演技をやり直させ、1つのアクションでOKが出るまでに何十回もテストを重ねることもあった<ref name="岩下志麻"/>{{Sfn|古賀|2010|pp=107-108}}。[[淡島千景]]は『麦秋』で原節子と会話するシーンにおいて、原と同じタイミングでコップを置いてからセリフを発し、原の方を向くという演技が上手くいかず、小津に「目が早いよ」「手が遅いよ」「首が行き過ぎだよ」と言われてNGを出し続け、20数回までは数えたが、その後は数え切れなくてやめたほどだったという{{Sfn|シンポジウム|2004|pp=211-213}}。[[岩下志麻]]は『秋刀魚の味』で巻尺を手で回すシーンにおいて、巻尺を右に何回か回してから瞬きをして、次に左に何回か回してため息をつくという細かい注文が出されたが、何度やってもOKが出ず、小津に「もう一回」「もう一回」と言われ続け、80回ぐらいまでNGを数えたという{{Sfn|松竹|1993|pp=71-72}}。
*{{Flagicon|Taiwan}} [[アン・リー]](李安)

*{{Flagicon|Taiwan}} [[ホウ・シャオシェン]](侯孝賢)
笠智衆は「小津組では自分じゃ何をやっているのかちっとも分からなかったですけど、小津先生の言われるままに(笑)。他力本願っていうのか、みんな監督のいう通りです。科白の上げ下げから、動きまで全部。僕だけじゃなく、全員そうですから。撮影の前に全員集められて、科白の稽古するんです。ホンに高低を書き込んで、音符みたいに覚えるわけです。その通り言わないとOKにならないから、もう必死で(笑)。総て監督中心でねえ、大道具、小道具からカメラの位置、衣装と、全部監督が決めちゃうんです。俳優も道具としか見てなかったんじゃないですねえ。説明は何もないです。この科白や動きが何のためにあるのか、こっちは分からない(笑)。言われた通りやるしかないです。小津組に慣れない俳優さんがね、『先生、ここはどういう気持ちでしょうか』って尋ねるとね、『気持ちなし』って(笑)。言われた通りやりゃいいんだってことですね。役作りなんてそんなものは無いです」などと述べている<ref>{{Cite journal|和書 |author = 黒田邦雄 |title = 追っかけインタビュー 笠智衆 『正月になるとやって来る、ご存知柴又の御前さまの映画人生を小津監督の想い出をからめて語った1時間半』 |journal = [[シティロード]] |issue = 1983年1月号 |publisher = エコー企画 |pages = 14–15頁 }}</ref>。
*{{Flagicon|Taiwan}} [[エドワード・ヤン]](楊德昌)

*{{Flagicon|Spain}} [[ビクトル・エリセ]]
それは小津組以外との撮影では摩擦を生むこともあった。宝塚映像(東宝)で制作された『[[小早川家の秋]]』では、「小刻みに数秒のカットを重ね、表情も動作もできる限り削り取ろうとする小津の手法に[[森繁久彌]]、[[山茶花究]]が悲鳴を上げた。森繁は自分が絵具にされたように感じたという。「ねえ、絵描きさん、ところであなたなにを描いているんです」そう聞いて見たい気分にさせられた。一夜、二人は小津の宿を訪ね、思う様のことをいった。「松竹の下手な俳優では、五秒のカットをもたすのが精一杯でしょう。でも、ここは東宝なんです。二分でも三分でも立派にもたせて見せます」(高橋治・作家)<ref>{{Cite book|和書 |edition=初版 |title=全著作 森繁久彌コレクション 2 芸談 |url=https://www.worldcat.org/oclc/1142817822 |date=2019-2020 |location=Tōkyō |isbn=978-4-86578-244-8 |oclc=1142817822 |first= |last= |last2=高橋治 |publisher=株式会社藤原書店 |pages=399}}</ref>」という。
*{{Flagicon|Finland}} [[アキ・カウリスマキ]]

{{col-3}}
==== 小津組 ====
*{{Flagicon|France}} [[ストローブ=ユイレ]]
[[File:Tokyo Monogatari 1953.jpg|thumb|『東京物語』に主演した[[原節子]]と[[笠智衆]]は、小津作品の常連俳優として知られる。]]
*{{Flagicon|France}} [[ジャン=リュック・ゴダール]]
小津は同じスタッフやキャストと仕事をすることが多く、彼らは「小津組」と呼ばれた{{Sfn|映畫読本|2003|pp=26-31}}。小津組の主な人物と参加本数は以下の通りである(スタッフは3本以上、キャストは5本以上の参加者のみ記述)<ref>参加本数は{{Harvnb|全集(上)|2003}}と{{Harvnb|全集(下)|2003}}に掲載されたクレジットをもとに算出。</ref>。
*{{Flagicon|France}} [[フランソワ・トリュフォー]]
* 脚本(原案や構成も含む):[[野田高梧]](26本)、[[池田忠雄]](16本)、[[伏見晁]](8本)、[[北村小松]](4本)
*{{Flagicon|Portugal}} [[ペドロ・コスタ]]
* 撮影:[[茂原英雄]](32本)、[[厚田雄春]](14本)
*{{Flagicon|Portugal}} [[マノエル・デ・オリヴェイラ]]
* 音楽:[[伊藤宣二]](7本)、[[斎藤高順]](7本)
*{{Flagicon|Hong Kong}} [[メイベル・チャン]](張婉蜓)
* 美術:[[浜田辰雄]](19本)、[[下河原友雄]](3本)
*{{Flagicon|Hong Kong}} [[スタンリー・クワン]](關錦鵬)
* その他スタッフ:妹尾芳三郎(録音・調音、15本)、[[浜村義康]](編集、13本)、[[山内静夫 (映画プロデューサー)|山内静夫]](製作、6本)、山本武(製作、4本)
{{col-end}}
* 俳優(クレジット有):[[笠智衆]](25本{{Refnest|group="注"|クレジット上では25本だが、[[大部屋俳優|大部屋]]時代のノンクレジット出演も含めると、『懺悔の刃』と『淑女は何を忘れたか』以外のほぼ全作品に出演しているという{{Sfn|映畫読本|2003|pp=26-31}}{{Sfn|伝記|2019|p=202}}。}})、[[坂本武]](24本)、[[斎藤達雄 (俳優)|斎藤達雄]](23本)、[[飯田蝶子]](18本)、[[吉川満子]](14本)、[[青木富夫|突貫小僧]](12本)、[[田中絹代]](10本)、[[大山健二]]、[[三宅邦子]]、[[杉村春子]](9本)、[[高橋とよ]](8本)、[[三井弘次]]、[[菅原通済]](7本)、[[原節子]]、[[桜むつ子]]、[[中村伸郎]]、[[須賀不二夫]](6本)、[[伊達里子]]、[[岡田時彦]]、[[坪内美子]]、[[佐分利信]]、[[長岡輝子]](5本)

=== 映像スタイル ===
==== ロー・ポジション ====
小津のよく知られた映像手法として、カメラを低い位置に据えて撮影する「ロー・ポジション」が挙げられる<ref name="厚田">厚田雄春「小津ロー・ポジションの秘密」({{Harvnb|人と芸術|1964|pp=82-83}})</ref>{{Sfn|現代映画用語事典|2012|p=175}}{{Sfn|厚田|蓮實|1989|pp=222-224, 234}}。ロー・ポジションの意味については、「畳に座ったときの目の高さ」「子供から見た視線」「客席から舞台を見上げる視点」など諸説ある{{Sfn|貴田|1999|pp=232-239}}。小津自身は日本間の構図に安定感を求めた結果、ロー・ポジションを採用したと述べている<ref name="カメラ対談">小津安二郎、石川欣一「カラーは天どん 白黒はお茶漬の味 カメラ対談」(『カメラ毎日』創刊号、1954年5月)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=212-217}}に所収</ref>{{Sfn|貴田|1999|pp=232-239}}。厚田雄春は、標準のカメラ位置で日本間を撮影すると、畳のへりが目について映像が締まりにくくなるため、それが目立たないようロー・ポジションを用いたと述べている<ref name="厚田"/>{{Sfn|貴田|1999|pp=232-239}}。小津が初めてカメラ位置を低くしたのは『[[肉体美]]』(1928年)で、その理由はセット撮影で床の上が電気コードだらけになり、いちいち片付けたり、映らないようにしたりする手間を省こうとしたためで、床が映らないようカメラ位置を低くするとその構図に手応えを感じ、それからはカメラの位置が段々低くなったという<ref name="芸談"/>。ロー・ポジションで撮影するときは、「お釜の蓋」と名付けた特製の低い三脚を使用し、柱や障子などの縦の直線が歪むのを避けるために50ミリレンズを使用した<ref name="芸談"/><ref>松浦莞二「四〇ミリの謎」({{Harvnb|大全|2019|pp=356-364}})</ref>。

小津が「[[ローアングル|ロー・アングル]]を使用した」と言われることもあるが、ロー・アングルはカメラの位置ではなくアングルについて定義する言葉であり、その言葉の曖昧な使用がそのまま普及したものである{{Sfn|現代映画用語事典|2012|p=175}}。映画批評家の[[デヴィッド・ボードウェル]]は、「小津のカメラが低く見えるのはそのアングルのためではなく、その位置のためである」と指摘している{{Sfn|ボードウェル|2003|pp=137-138}}。ロー・アングルはカメラアングルを仰角にして、低い視点から見上げるようにして撮影することを意味するが、小津作品ではカメラアングルを数度だけ上に傾けることはあっても、ほとんど水平を保っている{{Sfn|現代映画用語事典|2012|p=175}}{{Sfn|厚田|蓮實|1989|pp=222-224, 234}}{{Sfn|ボードウェル|2003|pp=137-138}}。また、カメラ位置は特定の高さに固定したわけではなく、撮影対象に合わせて高さを変え、その高さに関わらず水平のアングルに構えた{{Sfn|現代映画用語事典|2012|p=175}}{{Sfn|厚田|蓮實|1989|pp=222-224, 234}}{{Sfn|ボードウェル|2003|pp=137-138}}。例えば、日本間では[[ちゃぶ台]]の少し上の高さにカメラを置いたが、テーブルや事務机のシーンではカメラをその高さに上げている{{Sfn|現代映画用語事典|2012|p=175}}。ボードウェルは「小津のカメラ位置は絶対的なものではなく相対的なものであり、常に撮影する対象よりも低いが、対象の高さとの関係で変化する」と指摘している{{Sfn|ボードウェル|2003|pp=137-138}}。

==== 移動撮影 ====
[[File:Late Spring (Banshun) 1949.jpg|thumb|『晩春』で原節子たちがサイクリングをするシーンでは、移動撮影とパンが用いられている{{Sfn|佐藤|2000|pp=40-41}}。]]
小津は移動撮影をほとんど使わず、できるだけカメラを固定して撮影した{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=362-363}}{{Sfn|佐藤|1995|p=355}}。晩年に小津は移動撮影を「一種のごまかしの術で、映画の公式的な技術ではない」と否定したが<ref name="味がよい"/>、初期作品では積極的に使用しており、『生れてはみたけれど』では43回も使われている{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=362-363}}。やがて表現上の必然性がある場合を除くと使うのをやめ、とくに表面的な効果を出したり、映画的話法として使用したりすることはほとんどなくなり、トーキー作品以後は1本あたりの使用回数が大きく減った{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=362-363}}。現存作品の中では『父ありき』と『東京暮色』とカラー時代の全作品において、全てのシーンが固定カメラで撮影されている{{Sfn|貴田|1999|pp=253-254}}。また、[[パン (撮影技法)|パン]]の使用もごく数本に限定されている{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=365-367}}。

後年の小津作品における移動撮影は、カメラを動かしてもショット内の構図が変化しないように撮られている{{Sfn|佐藤|2000|pp=40-41}}{{Sfn|貴田|1999|pp=255-256}}。例えば、屋外で2人の人物が会話をしながら歩くシーンでは、移動しても背景が変化しない場所(長い塀や並木道など)を選んで、他の通行人を画面に登場させないようにし、人物が歩くのと同じスピードでカメラを移動させた{{Sfn|佐藤|2000|pp=40-41}}{{Sfn|貴田|1999|pp=255-256}}。貴田はこうした移動撮影が「静止したショットのように見える」と述べている{{Sfn|貴田|1999|pp=255-256}}。『麦秋』で原節子と三宅邦子が並んで話しながら砂丘を歩くシーンでは、小津作品で唯一のクレーン撮影が行われているが、これも砂丘の高い方から低い方へ歩いて行くときに、構図が変化しないようにするために用いられている{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=365-367}}{{Sfn|佐藤|2000|pp=42-43}}。

==== 180度ルール破り ====
[[Image:imaginary-line.png|thumb|340px|図1:会話シーンにおける[[想定線|イマジナリー・ライン]]とカメラ位置。180度ルールでは「A→B」の位置で撮影するが、小津は「A→C」の位置で撮影した。]]
2人の人物が向かい合って会話するシーンを撮影するときには、「{{仮リンク|180度ルール|en|180-degree rule}}」という文法的規則が存在する{{Sfn|現代映画用語事典|2012|pp=18-19}}。180度ルールでは図1に示すように、人物甲と乙の目を結ぶ[[想定線|イマジナリー・ライン]](想定線やアクション軸とも)を引き、それを跨がないようにして線の片側、すなわち180度の範囲内にだけカメラを置き(カメラ位置AとB)、カメラ位置Aで甲を右斜め前から撮り、次にカメラを切り返して、カメラ位置Bで乙を左斜め前から撮影する。そうすることで「A→B」のように甲は右、乙は左を向くことになるため、甲と乙の視線の方向が一致し、2人が向かい合って会話しているように見えた{{Sfn|現代映画用語事典|2012|pp=18-19}}{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=356-358}}{{Sfn|古賀|2010|p=99}}。

しかし、小津はこの文法的規則に従わず、イマジナリー・ラインを跨ぐようにしてカメラを置いた(カメラ位置AとC)。すなわち甲をカメラ位置Aで右斜め前から撮影したあと、線を越えたカメラ位置Cで乙を右斜め前から撮影した。そうすると「A→C」のように甲も乙も同じ右を向くことになるため、視線の方向が一致しなかった<ref name="映画の文法">小津安二郎「映画の文法」(『月刊スクリーン・ステーィ』1947年6月号)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=37-40}}に所収</ref><ref name="文法はない">小津安二郎「映画に"文法"はない」(『芸術新潮』1959年4月号)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=332-337}}に所収</ref>。この文法破りは日本間での撮影による制約から生まれたもので、日本間では人物の座る位置とカメラの動く範囲が限られてしまうが、その上で180度ルールに従えば、自分の狙う感情や雰囲気を自由に表現できなくなってしまうからだった<ref name="映画の文法"/>。小津はこれを「明らかに違法」と認識しているが、[[ロングショット]]で人物の位置関係を示してさえおけば、あとはどんな角度から撮っても問題はないと主張し、「そういう文法論はこじつけ臭い気がするし、それにとらわれていては窮屈すぎる。もっと、のびのびと映画は演出すべきもの」だと述べている<ref name="文法はない"/>。小津によると、『一人息子』の試写後にこの違法について他の監督たちに意見を聞いたところ、[[稲垣浩]]は「おかしいが初めの内だけであとは気にならない」と述べたという<ref name="映画の文法"/>。また、小津はカメラを人物の真正面の位置に据え、会話する2人の人物を真正面の構図から撮影することも多かった{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=356-358}}{{Sfn|古賀|2010|p=99}}。

==== 相似形の構図 ====
[[File:03-yasujiro-ozu-films.jpg|thumb|『東京物語』では、笠智衆と[[東山千栄子]]演じる老夫婦が、同じ方向を向いて、同じ姿勢で並んで座る相似形の構図が登場する{{Sfn|古賀|2010|pp=109-111}}。]]
小津作品のショットには、人物や物が相似形に並んでいる構図が多用されている{{Sfn|古賀|2010|pp=109-111}}{{Sfn|貴田|1999|p=140}}。相似形の構図とは、大きさは異なっていても、形の同じものが繰り返されている構図のことをいい、貴田によると、その画面は「きわめて整然とした、幾何学的な印象を与える」という{{Sfn|貴田|1999|p=142}}。相似形の構図の例は『浮草』のファースト・ショットで、画面奥にある白い灯台と、画面手前にあるビンが相似形に並べられている{{Sfn|貴田|1999|p=154}}。佐藤は同じ画面内に2人の人物がいるシーンにおいて、人物同士が同じ方向を向いて並行して座っていることが多いことを指摘している{{Sfn|佐藤|2000|p=37}}。小津の相似形への好みは、登場人物の行為にまで及び、しばしば同じ動作を反復するシーンが見られる{{Sfn|貴田|1999|p=144}}{{Sfn|古賀|2010|pp=105-107}}。『父ありき』で父子が渓流で釣りをするシーンでは、父と息子が同じ姿勢で相似形に並んでいるが、2人は同じタイミングで釣竿を上げ、投げ入れるという動作をしている{{Sfn|古賀|2010|pp=109-111}}{{Sfn|貴田|1999|p=144}}。

映画評論家の[[千葉伸夫]]は、小津が相似形の人物配置を好んだ理由について、「二人の人物の間には一見、対立がないように見えるが、実は微妙なズレがあり、そんな二人の内面を引き出すため」であると指摘している{{Sfn|古賀|2010|pp=109-111}}。一方、佐藤によると、相似形の人物配置は「対立や葛藤を排して、二人以上の人物が一体感で結ばれている調和の世界への願望の表明」であるという{{Sfn|佐藤|1996|p=310}}。また、相似形の構図は、登場人物が別の動作をすることなどにより崩れるときがあるが{{Sfn|古賀|2010|pp=109-111}}、貴田は人物の演技において相似形が崩れると、「おかしさが強調され、ギャグなどに変わる」と指摘している{{Sfn|貴田|1999|p=142}}。

==== ショット繋ぎ ====
[[File:Pillow2.png|thumb|『晩春』におけるカーテン・ショット。]]
小津はショットを繋ぐ技法である「{{仮リンク|オーバーラップ (映像技法)|label=ディゾルブ|en|Dissolve (filmmaking)}}(オーバーラップとも)」と「[[フェード#映像編集|フェード]]」をほとんど使わなかった<ref name="俯瞰"/>{{Sfn|貴田|1999|pp=189-190}}{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=372-373}}。ディゾルブはある画面が消えかかると同時に次の画面が重なって出てくる技法で、フェードは画面がだんだん暗くなったり(フェード・アウト)、反対に明るくなったり(フェード・イン)する技法である{{Sfn|現代映画用語事典|2012|pp=29, 135}}。どちらも場面転換をしたり、時間経過を表現したりするための古典的な映画技法として用いられた{{Sfn|貴田|1999|pp=189-190}}。しかし、小津はこうした技法を「ひとつのゴカマシ」とみなし<ref name="厚田"/>、「カメラの属性に過ぎない」として否定した<ref name="自作を語る"/>。

ディゾルブはごく初期に例外的にしか使っておらず、小津自身は『会社員生活』で使用してみて「便利ではあるがつまらんものだ<ref name="自作を語る"/>」と思い、それ以降はごく僅かな使用を除くと、まったくといっていいほど使用しなかった{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=372-373}}。佐藤によると、小津は画面の秩序感を整えることに固執していたが、ディゾルブを使えばそれを処理している僅かな時間により、厳密な構図の秩序感が失われてしまうため、それを避ける目的でディゾルブを使用しなかったという{{Sfn|佐藤|2000|p=44}}。一方、フェードはディゾルブほど厳密に排除せず、比較的後年まで用いられた{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=372-373}}{{Sfn|佐藤|2000|p=44}}。小津は『生れてはみたけれど』から意識的に使わなくなったと述べているが<ref name="自作を語る"/>、その後もファースト・ショットとラスト・ショットを前後のタイトル部分と区切るためだけに使用した。しかし、カラー作品以後はそれさえも使わなくなり、すべて普通のカットだけで繋いだ{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=372-373}}。

小津はディゾルブやフェードの代わりに、場面転換や時間経過を表現する方法として「カーテン・ショット」と呼ばれるものを挿入した{{Sfn|貴田|1999|pp=189-190}}。カーテン・ショットは風景や静物などの無人のショットから成り、作品のオープニングやエンディング、またはあるシーンから次のシーンに移行するときに挿入されている{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=365-367}}{{Sfn|貴田|1999|pp=189-190}}。カーテン・ショットの命名者は[[南部圭之助]]で、舞台のドロップ・カーテンに似ていることからそう呼んだ<ref>[[南部圭之助]]「小津安二郎の怒り」({{Harvnb|人と芸術|1964|pp=48-49}})</ref>。他にも「空ショット(エンプティ・ショット)」と呼ばれたり、[[枕詞]]の機能を持つことから「ピロー・ショット」と呼ばれたりもしている{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=365-367}}{{Sfn|リチー|1978|p=383}}。

=== 同じ役名・役柄 ===
小津作品は前述のように同じテーマやスタイルを採用したが、同じ役名も繰り返し登場している{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=289-290}}。例えば、[[坂本武]]は『出来ごころ』『浮草物語』『箱入娘』『東京の宿』『長屋紳士録』で「喜八」を演じており、『長屋紳士録』以外の4本は喜八を主人公にした人情ものであることから「喜八もの」と呼ばれている{{Sfn|佐藤|2000|p=296}}。この喜八ものでは、[[飯田蝶子]]が『出来ごころ』以外の3本で「おつね」役を演じた。笠智衆は『晩春』『東京物語』『東京暮色』『彼岸花』『秋日和』の5本で「周吉」役、『父ありき』『秋刀魚の味』の2本で「周平」役を演じた{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=289-290}}。原節子も『晩春』『麦秋』『東京物語』で「紀子」役を演じており、この3本は「紀子三部作」とも呼ばれている<ref name="小事典"/>。他にも年配女性に「志げ」、長男に「康一」「幸一」、小さな子供に「実」「勇」、若い女性に「アヤ」という役名が頻出し、苗字では「平山」がよく登場した{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=289-290}}。また、同じ俳優が同じ役柄を演じることも多い。例えば、笠智衆は父親役、[[三宅邦子]]は妻役、[[桜むつ子]]は[[水商売]]の女性役を何度も演じた。『彼岸花』『秋日和』『秋刀魚の味』の3本では、[[中村伸郎]]と[[北竜二]]が主人公の友人役、[[高橋とよ]]が料亭若松の女将役を演じた{{Sfn|映畫読本|2003|pp=26-31}}。

=== 音楽 ===
小津作品の音楽は、普通の作品とは異なる特色を持ち、小津調の音楽と呼ばれている{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=320-321}}<ref name="斎藤高順">[[斎藤高順]]「画面と音楽が相殺しない曲を」({{Harvnb|松竹|1993|pp=186-191}})</ref>。その特色は音楽を登場人物の感情移入の道具として使用したり、劇的な効果を出したりするために使ったりするのを避けたことと、深刻なシーンに明るい音楽を流したことである{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=320-321}}<ref name="俯瞰"/>。小津は「場面が悲劇だからと悲しいメロディ、喜劇だからとて滑稽な曲、という選曲はイヤだ。音楽で二重にどぎつくなる」と述べている<ref name="芸談"/>。こうした特色は作曲家の[[斎藤高順]]とコンビを組んだ『早春』以降の作品に見られる{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=320-321}}。『早春』の主人公が病床の友人を見舞うシーンでは、内容が深刻で暗いことから、小津が好きな「サ・セ・パリ」「バレンシア」のような明るい曲を流そうと提案し、斎藤が明るい旋律の曲「サセレシア」を作曲した。小津はこの曲を気に入り、『東京暮色』『彼岸花』でも使用した{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=320-321}}<ref name="斎藤高順"/>。小津はその後いつも同じような曲を注文し、斎藤は「サセレシア」を少しアレンジした曲や、[[ポルカ]]調の曲を作曲した{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=320-321}}。その他の音楽の特徴として、一定不変のテンポとリズム、旋律の繰り返し、弦楽器を中心としたさわやかなメロディが指摘されている{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=320-321}}<ref name="斎藤高順"/>。

== 人物 ==
[[File:Ozu Yasujiro.jpg|thumb|200px|[[1948年]]頃の小津安二郎。]]
[[File:The-Screenplay-Collections-by-Japanese-Writers-Volume-7-2.jpg|thumb|240px|小津と[[野田高梧]]]]
=== 人柄 ===
小津はユーモラスな人物で、冗談や皮肉を交えてしゃべることが多く、厚田雄春はそんな小津を「道化の精神」と呼んだ<ref name="高野行">[[佐田啓二]]「老童謡『高野行』 小津さんのこと」({{Harvnb|人と芸術|1964|pp=46-47}})</ref>{{Sfn|吉田|1998|p=25}}{{Sfn|厚田|蓮實|1989|p=280}}。[[人見知り]]をする性格で{{Sfn|厚田|蓮實|1989|p=160}}、とくに女性に対してはシャイであり、そのために生涯独身を貫いたとも言われている<ref>{{Cite book|和書 |author=冨士田元彦|authorlink=冨士田元彦 |date=2006-2 |title=日本映画史の展開 小津作品を中心に |publisher=[[本阿弥書店]] |page=66}}</ref>。そんな小津は母を愛していたが、恥ずかしがり屋だったため、人前ではわざと母をそんざいに扱っているような態度をとり、「ばばぁは僕が飼育してるんですよ」などと冗談を言ったという<ref name="高梧"/><ref name="高野行"/>。

=== 趣味・嗜好 ===
小津は大の[[酒]]好きとして知られた<ref name="高野行"/>。野田と脚本を書くため[[長野県]][[蓼科高原]]の別荘に滞在したときは、毎日のように朝から何合もの酒を飲みながら仕事をした{{Sfn|伝記|2019|pp=256-258}}{{Sfn|リチー|1978|pp=54-55}}。野田によると、1つの脚本を書き終わるまでに100本近くの一升瓶を空けたこともあり、小津はその空き瓶に1、2、3…と番号を書き込んでいたという<ref name="高梧"/>。撮影現場でも、夕方になると「これからはミルク(酒)の時間だよ」と言って仕事を切り上げ、当時は当たり前だった残業をほとんどすることなく、酒盛りを始めたという<ref name="川又"/><ref>{{Cite web|和書|date=2017-7-21 |url=https://www.daily.co.jp/gossip/2017/07/21/0010391627.shtml |title=山本富士子 巨匠・小津安二郎の秘話を明かす 「ミルクの時間」とは… |website=デイリースポーツ |accessdate=2021年2月25日}}</ref>。

小津は映画のシナリオ執筆の参考を兼ね、食文化に精通していた。特に鰻が好きで大晦日は映画関係者を連れて[[南千住]]の鰻屋の名店「[[尾花_(鰻料理店)|尾花]]」で年越し鰻を食べていた<ref>{{Cite book|和書 |title=小津安二郎をたどる東京・鎌倉散歩 |year=2003 |publisher=青春出版社 |page=50}}</ref><ref name=":0">{{Cite news|和書 |title=(小津安二郎がいた時代)新年会 スタッフに語る構想/首都圏 |newspaper=朝日新聞 |date=2015-01-18 |edition=朝刊}}</ref>。一般的に大晦日は細く長く生きることを祈願して年越し蕎麦を食べることが多いが、小津は太く長い方がいいという独自の考えから鰻を選んでいた<ref name=":0" />。[[豚カツ]]も大好物であり、『一人息子』『お茶漬の味』『秋日和』などの映画にも、豚カツにまつわる場面や台詞が登場している<ref>{{Cite book|和書|author=丹野達弥他|title=いま、小津安二郎|date=2003-5-20|publisher=[[小学館]]|series=Shotor library|isbn=978-4-09-343155-2|page=17}}</ref>。特に遺作『秋刀魚の味』では、小津が常連であった[[蓬莱屋 (とんかつ店)|蓬莱屋]]を模したセットで、登場人物が実際に蓬莱屋のカツを食べる場面を撮影するほどであった<ref>{{Cite journal|和書|author=渡辺紀子 <!-- [[渡辺紀子]]は別人、内部リンク時は注意 -->|date=2017-8-15|title=とんかつの名店 蓬莱屋|journal=[[BRUTUS]]|volume=38|issue=15|publisher=[[マガジンハウス]]|id={{OYALIB|200066909}}|page=19|url=https://brutus.jp/houraiya_tonkatsu/?heading=1 |accessdate=2023-4-24}}</ref>。

趣味としてはスポーツを好み、中学時代は[[柔道]]部に所属し{{Sfn|中村|2000|pp=14, 56}}、若い頃は[[ボクシング]]や[[スキー]]に打ち込んだが{{Sfn|伝記|2019|pp=195-196}}{{Sfn|全発言|1987|p=254}}、生涯を通して最も熱を入れていたのは[[野球]]と[[相撲]]だった{{Sfn|中村|2000|pp=14, 56}}<ref name="考える人">『考える人』2007年冬号特集「小津安二郎を育てたもの」、新潮社、p. 54。</ref>。野球は[[阪神タイガース]]のファンで、観戦するのも自分でやるのも好きだった<ref name="考える人"/>。小津の野球好きは、小津組のスタッフに野球の強い人を好んで入れるほどで、自身も松竹大船の野球チームに所属した<ref name="川又"/><ref name="考える人"/>。相撲は[[鳳谷五郎 (横綱)|鳳]]と[[吉葉山潤之輔|吉葉山]]のファンで、撮影が大相撲の場所と重なると、ラジオ中継が始まる時間に合わせて切り上げたという<ref name="川又"/><ref name="考える人"/>。

写真を撮るのも好きで、その趣味は生涯続いた{{Sfn|伝記|2019|p=183}}{{Sfn|貴田|1999|pp=94-95}}。小津のカメラ歴は中学時代に始まり、その頃に流行した[[コダック]]社の小型カメラの[[ヴェスト・ポケット・コダック|ベス単]]で撮影を楽しんだ<ref name="写真">松浦莞二「復刻中国戦線寫眞集 作品の背景」({{Harvnb|大全|2019|p=148}})</ref>。1930年代初頭には高級品だった[[ライカ]]を手に入れ、自ら現像を行ったり、写真引き伸ばし機を購入したりするなど、ますます写真撮影に凝った<ref name="カメラ対談"/><ref name="写真"/>。1934年には写真誌『月刊ライカ』に2度も写真が掲載された{{Sfn|貴田|1999|pp=98-99}}。日中戦争に応召されたときは、報道要員ではないにもかかわらず、著名な監督だということで特別にライカの携行を認められ、戦地で4000枚近くの写真を撮影した<ref name="写真"/>。そのうち8枚は1941年に雑誌『寫眞文化』で「小津安二郎・戦線寫眞集」として特集掲載されたが、それ以外は1952年の松竹大船撮影所の火事で焼失した{{Sfn|伝記|2019|pp=245-246}}<ref name="写真"/>{{Sfn|貴田|1999|pp=98-99}}。

子供の頃から絵を描くことも好きで、とてもうまかったという{{Sfn|全発言|1987|p=254}}<ref name="デザイン">岡田秀則「小津安二郎における絵画とデザイン」({{Harvnb|大全|2019|pp=135-143}})</ref>。小学校高学年の頃には当時の担任曰く「大人が舌を巻くほどの才能」があり、中学時代には[[アートディレクター]]を志したこともあった{{Sfn|伝記|2019|p=180}}<ref name="筈見対談"/>。小津の絵の趣味は亡くなるまで続いたが、映画監督としてのキャリアの傍らで[[グラフィックデザイナー]]としての一面を見せている{{Sfn|全発言|1987|p=254}}<ref name="デザイン"/>。例えば、日本映画監督協会のロゴマークをデザインしたり、交友のある映画批評家の[[筈見恒夫]]と[[岸松雄]]の著作や『山中貞雄シナリオ集』(1940年)などの装丁を手がけたりした<ref name="デザイン"/>。また、達筆だった小津は『溝口健二作品シナリオ集』(1937年)の題字や、京都の大雄寺にある山中貞雄碑の揮毫を手がけている<ref name="少年期の絵画">松浦莞二「少年期の絵画」({{Harvnb|大全|2019|pp=130-134}})</ref>。戦後の監督作品では、映画の中の小道具や看板のデザインを自ら手がけている<ref name="デザイン"/>。自作の題字やクレジット文字も自分で書き、カラー映画になると白抜き文字に赤や黒の文字を無作為に散りばめるなど、独自のデザイン感覚を発揮している<ref name="デザイン"/><ref name="少年期の絵画"/>。

=== 里見弴との関係 ===
小津は中学時代から[[里見弴]]の小説を愛読していて、『戸田家の兄妹』では里見の小説から細部を拝借している{{Sfn|映畫読本|2003|pp=76, 84}}。小津と里見は『戸田家の兄妹』の試写会後の座談会で初対面し、小津は里見の演出技術に関する的確な批評に敬服した{{Sfn|映畫読本|2003|pp=76, 84}}<ref name="里見">[[里見弴]]「小津君と鎌倉と私」({{Harvnb|人と芸術|1964|p=5}})</ref>。『晩春』でも試写を見た里見からラストシーンについてアドバイスをもらい、この作品以降は里見に脚本を送って意見を求めるようになった<ref name="小事典"/>{{Sfn|映畫読本|2003|pp=76, 84}}。1952年に小津が北鎌倉に移住すると、近所に住んでいた里見との親交が深まり、お互いの家を訪ねたり、野田と3人でグルメ旅行をしたりするほどの仲となった<ref name="全集年譜"/><ref name="里見"/>。里見は小津を「私の生涯における数少ない心友のうちのひとり」と呼んでいる<ref name="里見"/>。晩年は里見とともに仕事をすることも多くなった。『彼岸花』『秋日和』では里見とストーリーを練り、里見が原作を書きながら、それと並行して小津と野田が脚本を書くという共同作業をとった<ref name="小事典"/>。1963年には[[日本放送協会|NHK]]のテレビドラマ『[[青春放課後]]』の脚本を里見と共同執筆した{{Sfn|伝記|2019|pp=273-275}}。また、里見の四男である[[山内静夫 (映画プロデューサー)|山内静夫]]は、『早春』以降の松竹の小津作品でプロデューサーを務め、小津は山内とも私生活での付き合いを深めた{{Sfn|伝記|2019|pp=256-258}}。

== 評価・影響 ==
[[File:MJK30764 Wim Wenders (Berlinale 2017) 2.jpg|thumb|160px|[[ヴィム・ヴェンダース]]は、小津の影響を受けた監督として知られる。]]
小津は[[1930年代]]から日本映画を代表する監督のひとりとして認められ、多くの作品が高評価を受けた{{Sfn|佐藤|2000|p=254}}{{Sfn|伝記|2019|pp=210, 227, 250-251}}{{Sfn|中村|2000|p=10}}。[[キネマ旬報ベスト・テン]]では20本の作品が10位以内に選出され、そのうち6本が1位になった<ref>{{Cite book |和書 |date=2012-05|title=キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011|series=キネマ旬報ムック|publisher=キネマ旬報社 |pages=18-41,77}}</ref>。戦後になると、小津と同年代の批評家は、小津調による様式美と保守的なモラルのために高い評価を下したが、若い批評家や監督からは「テンポが遅くて退屈」「現実社会から目を背けている」「ブルジョワ趣味に迎合している」「映画の特質である動的な魅力に乏しい」などと批判されることもあった{{Sfn|中村|2000|p=10}}{{Sfn|佐藤|2000|p=463}}。[[岩崎昶]]は1950年代後半の小津を巡る批評の状況について、「40代、50代が小津を神様として祭壇に祭り上げ、どんな失敗作も礼賛するのに対し、若い批評家たちは小津を酷評する競争をしているように見える」として、その世代的な落差を指摘している<ref>[[岩崎昶]]『日本映画作家論』200頁([[中央公論社]]、1958年)</ref>。

[[松竹ヌーヴェルヴァーグ]]の旗手であった[[吉田喜重]]もその「若い世代」の一人で、ある雑誌で『小早川家の秋』を「若い人間像がたいへんいやらしく、うそですね」「年寄が厚化粧して踊ってるといういやらしい部分がある」「芸術というよりも芸」などと評した<ref>[[品田雄吉]]・[[長谷川龍生]]・[[吉田喜重]]「シナリオ時評 鼎談第17回」『[[シナリオ (雑誌)|シナリオ]]』18巻11号、1962年11月号における発言</ref>。すると小津は1963年の松竹監督新年会の席上で、末席にいた吉田に無言で酒を注ぐことでこれに反論し、しまいに「しょせん映画監督は橋の下で菰をかぶり、客を引く女郎だよ」「君なんかに俺の映画が分かってたまるか」と声を荒げた{{Sfn|伝記|2019|pp=273-275}}{{Sfn|吉田|1998|pp=1-2}}。これは小津が若い世代に感情を露にした珍しい出来事だった{{Sfn|伝記|2019|pp=273-275}}。

1950年代前半から海外で日本映画が注目され、とくに[[黒澤明]]や[[溝口健二]]の作品が海外の[[映画祭]]で高評価を受けるようになったが、小津作品は日本的で外国人には理解されないだろうと思われていたため、なかなか海外で紹介されることがなかった{{Sfn|伝記|2019|pp=246-249}}。小津作品が最初に海外で評価されたのは、1958年に[[イギリス]]の[[ロンドン映画祭]]で『東京物語』が上映されたときで、映画批評家の[[リンゼイ・アンダーソン]]らの称賛を受け、最も独創的で創造性に富んだ作品に贈られる[[サザーランド杯]]を受賞した{{Sfn|伝記|2019|p=263}}。その後アメリカやヨーロッパでも作品が上映されるようになり、海外での小津作品の評価も高まった<ref name="全集下解題"/>{{Sfn|中村|2000|p=10}}。なかでも『東京物語』は、[[2012年]]に[[英国映画協会]]の映画雑誌{{仮リンク|サイト・アンド・サウンド|en|Sight & Sound}}が発表した「{{仮リンク|史上最高の映画トップ100|en|The Sight & Sound Greatest Films of All Time 2012}}」で、監督投票部門の1位に選ばれた<ref>{{Cite web |url=https://www2.bfi.org.uk/films-tv-people/sightandsoundpoll2012/directors |title=Directors’ top 100 |website=Sight & Sound |publisher=BFI |accessdate=2021年4月1日}}</ref>。

国内外の多くの映画監督が小津に敬意を表し、その影響を受けている。[[ヴィム・ヴェンダース]]は小津を「私の師匠」と呼び、『[[ベルリン・天使の詩]]』(1987年)のエンディングに「全てのかつての天使、特に安二郎、[[フランソワ・トリュフォー|フランソワ]]、[[アンドレイ・タルコフスキー|アンドレイ]]に捧ぐ」という一文を挿入した<ref>{{Cite web|和書|date=2018-2-20 |url=https://www.cinemaclassics.jp/news/1140/ |title=第68回ベルリン国際映画祭クラシック部門 小津安二郎監督作品『東京暮色』4Kデジタル修復版ワールドプレミア上映レポート |website=松竹シネマクラシックス |work=松竹 |accessdate=2021年4月1日}}</ref><ref>{{Cite book |last=Scheibel |first=Will |date=2017 |title=American Stranger: Modernisms, Hollywood, and the Cinema of Nicholas Ray |publisher=SUNY Press |page=167}}</ref>。さらにヴェンダースは日本で撮影したドキュメンタリー『[[東京画]]』(1985年)で小津作品をオマージュした<ref>{{Cite web|和書|date=2012-2-23 |url=https://eiga.com/news/20120223/9/ |title=W・ベンダース監督「東京画」から四半世紀「小津さんでさえ今の日本、東京はわからない」 |website=映画.com |accessdate=2021年4月1日}}</ref>。小津の生誕100周年にあたる[[2003年]]には、[[ホウ・シャオシェン]]が『[[珈琲時光]]』、[[アッバス・キアロスタミ]]が『{{仮リンク|5 five 小津安二郎に捧げる|en|Five (2003 film)}}』をそれぞれ小津に捧げる形で発表した{{Sfn|シンポジウム|2004|pp=129-132, 140-143}}。[[周防正行]]は監督デビュー作である[[ピンク映画]]『[[変態家族 兄貴の嫁さん]]』(1984年)で小津作品を模倣した<ref>[[周防正行]]「なぜ小津だったのか」({{Harvnb|大全|2019|pp=96-99}})</ref>。[[ジム・ジャームッシュ]]は『[[ストレンジャー・ザン・パラダイス]]』(1984年)で小津作品の題名から取った名前の競走馬を登場させている<ref>{{Cite web|和書|author=相馬学 |date=2018-10-15 |url=https://cinemore.jp/jp/erudition/450/article_451_p2.html#a451_p2_1 |title=才能を知る、才能を見る、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』を支えた才人たち |website=CINEMORE |accessdate=2021年4月1日}}</ref>。ほかにも[[アキ・カウリスマキ]]<ref>{{Cite web |url=https://tankmagazine.com/tank/2017/11/aki-kaurismaeki/ |title=Anywhere but here: the films of Aki Kaurismäki |website=Tank |accessdate=2021年4月1日}}</ref>、[[クレール・ドニ|クレール・ドゥニ]]<ref>{{Cite web |last=Lim |first=Dennis |date=2009-9-4 |url=https://www.nytimes.com/2009/09/06/movies/06lim.html |title=Finding Rhythms Within Rhythms in Parisians’ Lives |website=The New York Times |accessdate=2021年4月1日}}</ref>、[[エリア・スレイマン]]<ref>{{Cite web |last=Mitchell |first=Wendy |date=2015-3-9 |url=https://www.screendaily.com/news/elia-suleiman-feature-to-cross-countries/5084021.article |title=Elia Suleiman’s next feature to ‘cross countries’ |website=Screen Daily |accessdate=2021年4月1日}}</ref>、[[黒沢清]]{{Sfn|シンポジウム|2004|pp=186-188}}、[[青山真治]]{{Sfn|シンポジウム|2004|pp=190-194}}などが小津の影響を受けている。


== 作品 ==
== 作品 ==
監督作品は全54作。
=== 監督作品 ===
小津の監督作品は54本存在するが、そのうち17本の[[サイレント映画]]のフィルムが現存していない。以下の作品一覧は『小津安二郎全集』上下巻と『小津安二郎 大全』の「小津安二郎 全作品ディテール小事典」を出典とする。
; 凡例
×印はフィルムが現存しない作品([[失われた映画]])<br/>△印はフィルムの一部だけが現存する作品<br/>□印は[[サウンド版]]作品<br/>◎印はカラー作品
; サイレント映画
{{Columns-list|2|
* [[懺悔の刃]](1927年)×
* [[若人の夢]](1928年)×
* [[女房紛失]](1928年)×
* [[カボチヤ]](1928年)×
* [[引越し夫婦]](1928年)×
* [[肉体美]](1928年)×
* [[宝の山]](1929年)×
* [[学生ロマンス 若き日]](1929年)
* [[和製喧嘩友達]](1929年)△
* [[大学は出たけれど]](1929年)△
* [[会社員生活]](1929年)×
* [[突貫小僧]](1929年)△
* [[結婚学入門]](1930年)×
* [[朗かに歩め]](1930年)
* [[落第はしたけれど]](1930年)
* [[その夜の妻]](1930年)
* [[エロ神の怨霊]](1930年)×
* [[足に触った幸運|足に触つた幸運]](1930年)×
* [[お嬢さん (1930年の映画)|お嬢さん]](1930年)×
* [[淑女と髯]](1931年)
* [[美人哀愁]](1931年)×
* [[東京の合唱]](1931年)
* [[春は御婦人から]](1932年)×
* [[大人の見る繪本 生れてはみたけれど]](1932年)
* [[青春の夢いまいづこ]](1932年)
* [[また逢ふ日まで]](1932年)×□
* [[東京の女 (映画)|東京の女]](1933年)
* [[非常線の女]](1933年)
* [[出来ごころ]](1933年)
* [[母を恋はずや]](1934年)
* [[浮草物語]](1934年)□
* [[箱入娘]](1935年)×□
* [[東京の宿]](1935年)□
* [[大学よいとこ]](1936年)×□
}}
; トーキー映画
{{Columns-list|2|
* [[鏡獅子 (映画)|鏡獅子]](1936年) - 記録映画
* [[一人息子 (映画)|一人息子]](1936年)
* [[淑女は何を忘れたか]](1937年)
* [[戸田家の兄妹]](1941年)
* [[父ありき]](1942年)
* [[長屋紳士録]](1947年)
* [[風の中の牝雞]](1948年)
* [[晩春 (映画)|晩春]](1949年)
* [[宗方姉妹]](1950年)
* [[麦秋 (1951年の映画)|麦秋]](1951年)
* [[お茶漬の味]](1952年)
* [[東京物語]](1953年)
* [[早春 (1956年の映画)|早春]](1956年)
* [[東京暮色]](1957年)
* [[彼岸花 (映画)|彼岸花]](1958年)◎
* [[お早よう]](1959年)◎
* [[浮草 (映画)|浮草]](1959年)◎
* [[秋日和]](1960年)◎
* [[小早川家の秋]](1961年)◎
* [[秋刀魚の味]](1962年)◎
}}


=== その他の作品 ===
1953年までの作品は[[著作権の保護期間]]が完全に終了した(公開後50年と監督死後38年の両方を満たす)と考えられている。このためいつかの作品が現在[[パブリックドメインDVD|格安DVD]]で発売されている。
{{Columns-list|2|
; 映画
* 銀河(1931年、[[清水宏 (映画監督)|清水宏]]監督) - スキー場面の応援監督<ref name="全集年譜"/>
* 瓦版かちかち山(1934年、[[井上金太郎]]監督) - 原作(ジェームス・槇名義)<ref name="NO監督 "/>
* [[限りなき前進]](1937年、[[内田吐夢]]監督) - 原作<ref name="NO監督 "/>
* 美しい横顔(1942年、[[佐々木康]]監督) - 構成<ref>{{Cite book|和書 |author=佐々木康|authorlink=佐々木康 |date=2003-10 |title=楽天楽観 映画監督佐々木康 |publisher=ワイズ出版 |page=215}}</ref>
* [[恋文 (1953年の映画)|恋文]](1953年、[[田中絹代]]監督) - 応援出演<ref name="全集年譜"/>
* [[月は上りぬ]](1955年、田中絹代監督) - 脚本([[斎藤良輔 (脚本家)|斎藤良輔]]と共同)<ref name="NO監督"/>
* [[血槍富士]](1955年、内田吐夢監督) - 企画協力<ref name="蓮實年譜"/>
* [[私のベレット]](1964年、[[大島渚]]監督) - 脚本監修{{Sfn|伝記|2019|pp=273-275}}
* [[大根と人参]](1965年、[[渋谷実]]監督) - 原案<ref name="NO監督"/>
* [[暖春 (映画)|暖春]](1965年、[[中村登]]監督) - 原作(『青春放課後』の脚色作品)<ref name="NO監督"/>
; テレビドラマ
* [[青春放課後]](1963年、[[日本放送協会|NHK]]) - 脚本([[里見弴]]と共同)<ref name="NO監督"/>
; ラジオドラマ
* 箱入娘(1935年、[[NHKラジオ第1放送]]) - 演出<ref name="蓮實年譜"/>
; 舞台
* 春は朗かに(1934年、[[帝国劇場]]) - 演出<ref name="全集年譜"/>
* 健児生まる(1942年、[[大阪劇場]]) - 演出<ref name="全集年譜"/>
}}


== 受賞歴 ==
{|class="wikitable"
=== 映画賞 ===
{| class="sortable wikitable" style="font-size:small"
!賞!!年!!部門!!作品!!結果!!出典
|-
|-
!rowspan="6" style="text-align:left"|[[キネマ旬報ベスト・テン]]
!公開年
|1932年||日本映画ベスト・テン||『[[大人の見る繪本 生れてはみたけれど]]』||{{won|1位}}||<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kinenote.com/sp/award/kinejun/y1932.aspx |title=キネマ旬報ベスト・テン 1932年・第9回 |website=KINENOTE |accessdate=2021年2月14日}}</ref>
!作品名
!制作
!脚本・脚色
!主な出演者
!備考
|-
|-
|1933年||日本映画ベスト・テン||『[[出来ごころ]]』||{{won|1位}}||<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kinenote.com/sp/award/kinejun/y1933.aspx |title=キネマ旬報ベスト・テン 1933年・第10回 |website=KINENOTE |accessdate=2021年2月14日}}</ref>
|nowrap|1927年
|nowrap|[[懺悔の刃]]      <!---->
|nowrap|[[松竹蒲田撮影所|松竹蒲田]]<!---->
|nowrap|[[野田高梧]] <!---->
|吾妻三郎、小川国松、河原侃二、野寺正一、渥美映子、花柳都、小波初子、[[河村黎吉]]
|nowrap|<small>白黒<br />サイレント</small>
|-
|-
|1934年||日本映画ベスト・テン||『[[浮草物語]]』||{{won|1位}}||<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kinenote.com/sp/award/kinejun/y1934.aspx |title=キネマ旬報ベスト・テン 1934年・第11回 |website=KINENOTE |accessdate=2021年2月14日}}</ref>
|1928年
|[[若人の夢]]
|松竹蒲田
|小津安二郎
|吉谷久雄、松井潤子、[[斎藤達雄]]、若葉信子、[[坂本武]]、大山健二、高松栄子、関時男、小倉繁、[[笠智衆]]
|<small>白黒<br />サイレント</small>
|-
|-
|1941年||日本映画ベスト・テン||『[[戸田家の兄妹]]』||{{won|1位}}||<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kinenote.com/sp/award/kinejun/y1941.aspx |title=キネマ旬報ベスト・テン 1941年・第18回 |website=KINENOTE |accessdate=2021年2月14日}}</ref>
|1928年
|[[女房紛失]]
|松竹蒲田
|吉田百助
|斎藤達雄、岡本文子、国島荘一、菅野七郎、坂本武、関時男、松井潤子、小倉繁、笠智衆
|<small>白黒<br />サイレント</small>
|-
|-
|1949年||日本映画ベスト・テン||『[[晩春 (映画)|晩春]]』||{{won|1位}}||<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kinenote.com/sp/award/kinejun/y1949.aspx |title=キネマ旬報ベスト・テン 1949年・第23回 |website=KINENOTE |accessdate=2021年2月14日}}</ref>
|1928年
|[[カボチャ (映画)|カボチャ]]
|松竹蒲田
|北村小松
|斎藤達雄、日夏百合絵、半田日出丸、[[小桜葉子]]、坂本武
|<small>白黒<br />サイレント</small>
|-
|-
|1951年||日本映画ベスト・テン||『[[麦秋 (1951年の映画)|麦秋]]』||{{won|1位}}||<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kinenote.com/sp/award/kinejun/y1951.aspx |title=キネマ旬報ベスト・テン 1951年・第25回 |website=KINENOTE |accessdate=2021年2月14日}}</ref>
|1928年
|[[引越し夫婦]]
|松竹蒲田
|伏見晁
|[[渡辺篤 (俳優)|渡辺篤]]、[[吉川満子]]、大国一郎、中川一三、浪花友子、大山健二
|<small>白黒<br />サイレント</small>
|-
|-
!rowspan="5" style="text-align:left"|[[毎日映画コンクール]]
|1928年
|rowspan="3"|1949年||日本映画大賞||rowspan="3"|『晩春』||{{won}}||rowspan="3"|<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/mfa/history/004.html |title=毎日映画コンクール 第4回(1949年) |work=毎日新聞 |accessdate=2021年2月14日}}</ref>
|[[肉体美]]
|松竹蒲田
|伏見晁
|斎藤達雄、[[飯田蝶子]]、木村健児、大山健二
|<small>白黒<br />サイレント</small>
|-
|-
|監督賞||{{won}}
|1929年
|[[宝の山]]
|松竹蒲田
|伏見晁
|小林十九二、日夏百合絵、青山萬里子、岡本文子、飯田蝶子、浪花友子、若美多喜子、糸川京子
|<small>白黒<br />サイレント</small>
|-
|-
|脚本賞||{{won}}
|1929年
|[[学生ロマンス 若き日]]
|松竹蒲田
|伏見晁
|結城一郎、斎藤達雄、松井潤子、飯田蝶子、高松栄子、小藤田正一、大国一郎、坂本武、[[日守新一]]、山田房生、笠智衆
|<small>白黒<br />サイレント</small>
|-
|-
|1951年||日本映画大賞||『麦秋』||{{won}}||<ref name="全集年譜"/>
|1929年
|[[和製喧嘩友達]]
|松竹蒲田
|野田高梧
|渡辺篤、吉谷久雄、高松栄子、大国一郎、浪花友子、結城一朗、若葉信子
|<small>白黒<br />サイレント</small>
|-
|-
|1963年||特別賞||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/mfa/history/018.html |title=毎日映画コンクール 第18回(1963年) |work=毎日新聞 |accessdate=2021年2月14日}}</ref>
|1929年
|[[大学は出たけれど]]
|松竹蒲田
|荒牧芳郎
|[[高田稔]]、[[田中絹代]]、鈴木歌子、大山健二、日守新一、木村健二、坂本武、飯田蝶子
|<small>白黒<br />サイレント</small>
|-
|-
!rowspan="3" style="text-align:left"|[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]]
|1929年
|rowspan="2"|1951年||作品賞||rowspan="2"|『麦秋』||{{won}}||rowspan="2"|<ref>{{Cite web|和書|url=http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1951/ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090207075458mp_/http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1951/ |archivedate=2009/2/7 |title=ブルーリボン賞ヒストリー 第2回 |website=シネマ報知 |accessdate=2021年2月14日}}</ref>
|[[会社員生活]]
|松竹蒲田
|野田高梧
|斎藤達雄、吉川満子、小藤田正一、加藤精一、[[青木富夫]]、石渡暉明、坂本武
|<small>白黒<br />サイレント</small>
|-
|-
|監督賞||{{won}}
|1929年
|[[突貫小僧]]
|松竹蒲田
|[[池田忠雄]]
|斎藤達雄、青木富夫、坂本武
|<small>白黒<br />サイレント</small>
|-
|-
|1963年||日本映画文化賞||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web|和書|url=http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1963/ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090207075600mp_/http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1963/ |archivedate=2009/2/7 |title=ブルーリボン賞ヒストリー 第14回 |website=シネマ報知 |accessdate=2021年2月14日}}</ref>
|1930年
|[[結婚学入門]]
|松竹蒲田
|野田高梧
|斎藤達雄、[[栗島すみ子]]、奈良真養、岡本文子、高田稔、[[龍田静枝]]、吉川満子
|<small>白黒<br />サイレント</small>
|-
|-
!style="text-align:left"|[[サザーランド杯]]
|1930年
|1958年||style="text-align:center"|-||『[[東京物語]]』||{{won}}||<ref name="全集年譜"/>
|[[朗かに歩め]]
|松竹蒲田
|池田忠雄
|高田稔、[[川崎弘子]]、松園延子、鈴木歌子、吉谷久雄、毛利輝夫、伊達里子、坂本武
|<small>白黒<br />サイレント</small>
|-
|-
!style="text-align:left"|「[[映画の日]]」特別功労章
|1930年
|1959年||style="text-align:center"|-||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.eidanren.com/activity01_02.html |title=映画の日 特別功労大章・特別功労章及び感謝状贈呈者一覧 |website=[[映画産業団体連合会]] |accessdate=2021年2月28日}}</ref>
|[[落第はしたけれど]]
|松竹蒲田
|伏見晁
|斎藤達雄、二葉かほる、青木富夫、若林広雄、大国一郎、田中絹代、笠智衆
|<small>白黒<br />サイレント</small>
|-
|-
!style="text-align:left"|[[溝口健二|溝口]]賞
|1930年
|1960年|| style="text-align:center"|-||『[[彼岸花 (映画)|彼岸花]]』||{{won}}||{{Sfn|田中|2003|p=429}}
|[[その夜の妻]]
|松竹蒲田
|野田高梧
|[[岡田時彦]]、八雲恵美子、市村美津子、山本冬郷、斎藤達雄、笠智衆
|<small>白黒<br />サイレント</small>
|-
|-
!style="text-align:left"|[[アジア太平洋映画祭|アジア映画祭]]
|1930年
|1961年||監督賞||『[[秋日和]]』||{{won}}||{{Sfn|戦後語録集成|1989|p=468}}
|[[エロ神の怨霊]]
|松竹蒲田
|野田高梧
|斎藤達雄、星ひかる、伊達里子、月田一郎
|<small>白黒<br />サイレント</small>
|-
|-
!style="text-align:left"|NHK映画賞
|1930年
|1963年||特別賞||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref name="全集年譜"/>
|[[足に触った幸運]]
|松竹蒲田
|野田高梧
|斎藤達雄、吉川満子、青木富夫、市村美津子、関時男、毛利輝夫、月田一郎、坂本武、大国一郎
|<small>白黒<br />サイレント</small>
|-
|1930年
|[[お嬢さん]]
|松竹蒲田
|北村小松
|栗島すみ子、岡田時彦、斎藤達雄、田中絹代、岡田宗太郎、大国一郎
|<small>白黒<br />サイレント</small>
|-
|1931年
|[[淑女と髯]]
|松竹蒲田
|北村小松
|岡田時彦、川崎弘子、飯田蝶子、伊達里子、月田一郎、飯塚敏子、吉川満子、坂本武、斎藤達雄
|<small>白黒<br />サイレント</small>
|-
|1931年
|[[美人哀愁]]
|松竹蒲田
|池田忠雄
|岡田時彦、斎藤達雄、井上雪子、岡田宗太郎、吉川満子、若水照子
|<small>白黒<br />サイレント</small>
|-
|1931年
|[[東京の合唱]]
|松竹蒲田
|野田高梧
|岡田時彦、八雲恵美子、菅原秀雄、[[高峰秀子]]、斎藤達雄、飯田蝶子、坂本武、谷麗光、宮島健一、山口勇
|<small>白黒<br />サイレント</small>
|-
|1932年
|[[春は御婦人から]]
|松竹蒲田
|池田忠雄<br />[[柳井隆雄]]
|城多二郎、斎藤達雄、井上雪子、泉博子、坂本武、谷麗光
|<small>白黒<br />サイレント</small>
|-
|1932年
|[[大人の見る繪本 生れてはみたけれど]]
|松竹蒲田
|伏見晁
|斎藤達雄、吉川満子、菅原秀雄、[[突貫小僧]]、坂本武、早見照代、加藤清一、小藤田正一、西村青児
|<small>白黒<br />サイレント</small>
|-
|1932年
|[[青春の夢いまいづこ]]
|松竹蒲田
|野田高梧
|[[江川宇礼雄]]、田中絹代、斎藤達雄、武田春郎、水島亮太郎、大山健二、笠智衆、坂本武、飯田蝶子、葛城文子、伊達里子
|<small>白黒<br />サイレント</small>
|-
|1932年
|[[また逢ふ日まで]]
|松竹蒲田
|野田高梧
|[[岡田嘉子]]、岡譲二、奈良真養、川崎弘子、飯田蝶子、伊達里子、吉川満子
|<small>白黒<br />サイレント</small>
|-
|1933年
|[[東京の女 (映画)|東京の女]]
|松竹蒲田
|野田高梧<br />池田忠雄
|岡田嘉子、江川宇礼雄、田中絹代、奈良真養
|<small>白黒<br />サイレント</small>
|-
|1933年
|[[非常線の女]]
|松竹蒲田
|池田忠雄
|田中絹代、岡譲二、水久保澄子、三井秀夫、[[逢初夢子]]
|<small>白黒<br />サイレント</small>
|-
|1933年
|[[出来ごころ]]
|松竹蒲田
|池田忠雄
|坂本武、[[伏見信子]]、[[大日方伝]]、飯田蝶子、突貫小僧、谷麗光
|<small>白黒<br />サイレント</small>
|-
|1934年
|[[母を恋はずや]]
|松竹蒲田
|池田忠雄
|[[岩田祐吉]]、吉川満子、大日方伝、加藤清一、三井秀男、野村秋生、奈良真養、青木しのぶ、光川京子、笠智衆、[[逢初夢子]]、松井潤子、飯田蝶子
|<small>白黒<br />サイレント</small>
|-
|1934年
|[[浮草物語]]
|松竹蒲田
|池田忠雄
|坂本武、飯田蝶子、三井秀男、八雲理恵子、[[坪内美子]]、突貫小僧、谷麗光、西村青児、山田長正
|<small>白黒<br />音響版 <ref>「[[浮草物語]]」(1934年)は記録上では音響版として製作されているが、現存するプリントはサイレント版のみである。</ref> 
|-
|1935年
|[[箱入娘]]
|松竹蒲田
|野田高梧<br />池田忠雄
|飯田蝶子、田中絹代、坂本武、突貫小僧、[[竹内良一]]、青野清、吉川満子、懸秀介、大山健二
|<small>白黒<br />音響版</small>
|-
|1935年
|[[東京の宿]]
|松竹蒲田
|池田忠雄<br />荒田正男
|坂本武、突貫小僧、末松孝行、岡田嘉子、小嶋和子、飯田蝶子、笠智衆
|<small>白黒<br />音響版</small>
|-
|1935年
|[[菊五郎の鏡獅子]]
|松竹蒲田
|<small>(記録映画)</small>
|[[尾上菊五郎_(6代目)|六代目尾上菊五郎]]、松永和楓、柏伊三郎、望月太左衛門
|<small>白黒</small>
|-
|1936年
|[[大学よいとこ]]
|松竹蒲田
|荒田正男
|近衛敏明、笠智衆、小林十九二、大山健二、池部鶴彦、日下部章、[[高杉早苗]]、斎藤達雄、青野清、飯田蝶子、出雲八重子、坂本武、爆弾小僧
|<small>白黒<br />音響版</small>
|-
|1936年
|[[一人息子]]
|[[松竹大船撮影所|松竹大船]]
|池田忠雄<br />荒田正男
|飯田蝶子、日守新一、葉山正雄、坪内美子、吉川満子、笠智衆、浪花友子、爆弾小僧、突貫小僧、高松栄子、加藤清一、小島和子、青野清
|<small>白黒</small>
|-
|1937年
|[[淑女は何を忘れたか]]
|松竹大船
|伏見晁<br />ゼームス槇
|栗島すみ子、斎藤達雄、[[桑野通子]]、[[佐野周二]]、坂本武、飯田蝶子、[[上原謙]]、吉川満子、葉山正雄、突貫小僧
|<small>白黒</small>
|-
|1941年
|[[戸田家の兄妹]]
|松竹大船
|池田忠雄<br />小津安二郎
|藤野秀夫、葛城文子、吉川満子、斎藤達雄、[[三宅邦子]]、[[佐分利信]]、坪内美子、近衛敏明、[[高峰三枝子]]、桑野通子、河村黎吉、飯田蝶子、笠智衆
|<small>白黒</small>
|-
|1942年
|[[父ありき]]
|松竹大船
|池田忠雄<br />[[柳井隆雄]]<br />小津安二郎
|笠智衆、佐野周二、津田晴彦、佐分利信、坂本武、[[水戸光子]]、大塚正義、日守新一、西村青児、谷麗光
|<small>白黒</small>
|-
|1947年
|[[長屋紳士録]]
|松竹大船
|池田忠雄<br />小津安二郎
|飯田蝶子、[[青木放屁]]、[[小沢栄太郎]]、吉川満子、河村黎吉、三村秀子、笠智衆、坂本武、高松栄子、長船フジヨ、河賀祐一、[[谷よしの]]、[[殿山泰司]]、西村青児
|<small>白黒</small>
|-
|1948年
|[[風の中の牝どり|風の中の牝雞]]
|松竹大船
|斎藤良輔<br />小津安二郎
|佐野周二、田中絹代、村田知英子、笠智衆、坂本武、高松栄子、水上令子、文谷千代子、長尾敏之助
|<small>白黒</small>
|-
|1949年
|[[晩春 (映画)|晩春]]
|松竹大船
|野田高梧<br />小津安二郎
|[[原節子]]、笠智衆、[[月丘夢路]]、[[宇佐美淳]]、[[桂木洋子]]、[[杉村春子]]、[[三島雅夫]]、三宅邦子、[[坪内美子]]、清水一郎
|<small>白黒</small>
|-
|1950年
|[[宗方姉妹]]
|[[新東宝]]
|野田高梧<br />小津安二郎
|高峰秀子、田中絹代、上原謙、[[山村聰]]、[[堀雄二]]、高杉早苗、笠智衆、斎藤達雄、[[藤原釜足]]、堀越節子、河村黎吉、[[千石規子]]、[[一の宮あつ子]]、坪内美子
|<small>白黒</small>
|-
|1951年
|[[麦秋 (1951年の映画)|麦秋]]
|松竹大船
|野田高梧<br />小津安二郎
|原節子、笠智衆、[[淡島千景]]、佐野周二、二本柳寛、三宅邦子、菅井一郎、[[東山千栄子]]、杉村春子、井川邦子、高橋豊子、高堂国典、西脇宏三、[[宮口精二]]
|<small>白黒</small>
|-
|1952年
|[[お茶漬の味]]
|松竹大船
|野田高梧<br />小津安二郎
|佐分利信、[[鶴田浩二]]、[[木暮実千代]]、[[津島恵子]]、淡島千景、三宅邦子、笠智衆 、柳永二郎、[[十朱久雄]]、[[望月優子]]、[[北原三枝]]、[[上原葉子]]
|<small>白黒</small>
|-
|1953年
|[[東京物語]]
|松竹大船
|野田高梧<br />小津安二郎
|原節子、笠智衆、東山千栄子、[[香川京子]]、山村聰、[[大坂志郎]]、杉村春子、三宅邦子、[[東野英治郎]]、[[中村伸郎]]
|<small>白黒</small>
|-
|1956年
|[[早春]]
|松竹大船
|野田高梧<br />小津安二郎
|淡島千景、[[池部良]]、[[岸惠子]]、[[高橋貞二]]、[[中北千枝子]]、山村聰、藤乃高子、田浦正巳、笠智衆、杉村春子、杉田弘子、[[浦辺粂子]]、三宅邦子
|<small>白黒</small>
|-
|1957年
|[[東京暮色]]
|松竹大船
|野田高梧<br />小津安二郎
|[[有馬稲子]]、原節子、[[山田五十鈴]]、笠智衆、[[高橋貞二]]、田浦正巳、宮口精二、中村伸郎、杉村春子、[[信欣三]]、藤原釜足
|<small>白黒</small>
|-
|1958年
|[[彼岸花 (映画)|彼岸花]]
|松竹大船
|野田高梧<br />小津安二郎
|有馬稲子、[[山本富士子]]、[[久我美子]]、[[佐田啓二]]、田中絹代、佐分利信、[[高橋貞二]]、[[桑野みゆき]]、笠智衆、[[江川宇礼雄]]、[[浪花千栄子]]、中村伸郎、[[渡辺文雄]]、[[北竜二]]
|<small>カラー</small>
|-
|1959年
|[[お早よう]]
|松竹大船
|野田高梧<br />小津安二郎
|佐田啓二、久我美子、笠智衆、三宅邦子、杉村春子、泉京子、設楽幸嗣、[[島津雅彦]]、[[大泉滉]]、高橋とよ、[[沢村貞子]]、[[長岡輝子]]
|<small>カラー</small>
|-
|1959年
|[[浮草]]
|[[大映]]
|野田高梧<br />小津安二郎
|[[京マチ子]]、[[若尾文子]]、[[野添ひとみ]]、[[川口浩]]、中村鴈治郎、杉村春子、笠智衆、[[三井弘次]]、[[田中春男]]、潮万太郎
|<small>カラー</small>
|-
|1960年
|[[秋日和]]
|松竹大船
|野田高梧<br />小津安二郎
|原節子、[[司葉子]]、[[岡田茉莉子]]、[[佐田啓二]]、[[佐分利信]]、[[三上真一郎]]、[[岩下志麻]]、田代百合子、[[千之赫子]]、笠智衆、沢村貞子
|<small>カラー</small>
|-
|1961年
|[[小早川家の秋]]
|[[宝塚映画]]
|野田高梧<br />小津安二郎
|原節子、司葉子、[[新珠三千代]]、[[宝田明]]、[[団令子]]、[[小林桂樹]]、[[森繁久彌]]、中村鴈治郎、[[白川由美]]、[[浪花千栄子]]、杉村春子
|<small>カラー</small>
|-
|1962年
|[[秋刀魚の味]]
|松竹大船
|野田高梧<br />小津安二郎
|岩下志麻、笠智衆、岡田茉莉子、佐田啓二、三上真一郎、[[吉田輝雄]]、牧紀子、中村伸郎、三宅邦子、東野英治郎
|<small>カラー</small>
|}
|}
<references />


== 資料館関連施設 ==
=== その他の賞栄典 ===
* 1958年:[[褒章|紫綬褒章]]<ref name="全集年譜"/>
*[[おのみち映画資料館]] - 東京物語で舞台になった[[尾道市]]にある映画資料館。小津の映画作りに関する資料等が展示されている。
* 1959年:[[日本芸術院賞]]<ref name="全集年譜"/>
*[[茅ヶ崎館]] - [[茅ヶ崎市]]にある老舗の宿泊施設。かつて、小津が仕事部屋として使用した事がある。
* 1961年:[[芸術選奨|芸術選奨文部大臣賞]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bunka.go.jp/seisaku/geijutsubunka/jutenshien/geijutsuka/sensho/pdf/rekidai_jushosha.pdf |format=PDF |title=芸術選奨歴代受賞者一覧(昭和25年度~) |website=文化庁 |accessdate=2021年2月14日}}</ref>
*無藝荘 - [[1954年]]以来、小津と野田高梧の共同脚本作業の場となった[[蓼科高原]]の山荘。[[2003年]]、[[長野県]][[茅野市]]と地元で建物を引き取り、プール平に移築して保存・公開している。この山荘にちなんで、小津安二郎記念蓼科高原映画祭が毎年開催されている。
* 1962年:[[日本芸術院]]会員選出<ref name="全集年譜"/>
* 1963年:[[勲等|勲四等]][[旭日章|旭日小綬章]](没後追贈、勲七等からの昇叙<ref>官報 昭和38年12月16日 第11102号 叙任及び辞令 内閣</ref>)<ref>{{Cite book|和書 |author=柿田清二 |date=1992 |title=日本映画監督協会の五〇年 |publisher=日本映画監督協会 |page=122}}</ref>


== ドキュメンタリー作品 ==
== 資料 ==
*『[[生きてはみたけれど 小津安二郎伝]]』(1983年、[[井上和男]]監督)
*『全日記小津安二郎』 田中真澄編、フィルムアート社 1993年
*『[[東京画]]』(1985年、[[ヴィム・ヴェンダース]]監督)
**『小津安二郎全発言 1933~1945』 田中編、泰流社、1987年
**『小津安二郎戦後録集成 田中編、フィルムアート社、1989年
*『[[小津る]](1993年、[[田中公義]]監督)
*『小津安二郎「東京物語」ほか [[田中真澄]]編、大人の本棚・[[みすず書房]]、2001年
*『[[吉田喜重が語る小津安二郎の映画世界]](1993年、[[喜重]]監督) - [[NHK教育テレビ]]で放送
*『小津安二郎全集』 井上和男編  [[新書館]] 、2003年
*『小津安二郎映画読本』 [[松竹]]株式会社映像版権室編、新訂版2003年
*[[笠智衆]] 『小津安二郎先生の思い出』 [[扶桑社]] 1991年、 朝日文庫 2007年
*[[山内静夫]] 『[[松竹大船撮影所]]覚え書 小津安二郎監督との日々』  かまくら春秋社 2003年
*[[厚田雄春]]と蓮實重彦との対談 『小津安二郎物語』 <リュミエール叢書>筑摩書房 1989年


== シナリオ・日記・発言集 ==
=== 映像 ===
* [[井上和男]]編『小津安二郎作品集』全4巻、[[立風書房]]、1983年9月 - 1984年3月。再版1993年
*『生きてはみたけれど 小津安二郎伝』 [[井上和男]]監督によるドキュメンタリーで出演は[[岸惠子]]・[[司葉子]]・[[淡島千景]]など、松竹1983年、未DVD。
* [[田中眞澄]]編『小津安二郎 全発言 1933〜1945』[[泰流社]]、1987年6月。ISBN 978-4884705893。
*『[[東京画]]』 [[ヴィム・ヴェンダース]]監督 、1985年公開、DVDは2006年。
* 田中眞澄編『小津安二郎 戦後語録集成 昭和21(一九四六)年―昭和38(一九六三)年』フィルムアート社、1989年5月。ISBN 978-4845989782。
*『[[吉田喜重]]が語る小津安二郎の映画世界』 [[ジェネオン・エンタテインメント]]、1993年12月に[[NHK教育テレビ]]で4夜放送。
* 田中眞澄編『全日記・小津安二郎』フィルムアート社、1993年12月。ISBN 978-4845993215。
*2003年に松竹が6枚組[[DVD]]ボックスを第四集まで出した。のち各作品DVDが出されている。なお「[[小早川家の秋]]」と「宗方姉妹」は[[東宝]]からである。
* 田中真澄編『小津安二郎「東京物語」ほか』[[みすず書房]]〈[[大人の本棚]]〉、2001年12月/新装版2020年。ISBN 978-4622089551。
* 井上和男編『小津安二郎全集』3冊組(上・下+別巻冊子)、[[新書館]]、2003年4月。ISBN 978-4403150012。
* 『小津安二郎 僕はトウフ屋だからトウフしか作らない』[[日本図書センター]]〈人生のエッセイ〉、2010年5月。ISBN 978-4284700382。
* 『蓼科日記 抄』同刊行会編、小学館スクウェア、2013年7月。ISBN 978-4797981186。
*『人と物3 小津安二郎』[[無印良品]]〈MUJI BOOKS文庫〉、2017年6月。ISBN 978-4909098023。


== 記念施設・資料館 ==
=== 関連書籍 ===
[[File:Mugei-so-02.jpg|thumb|小津の別荘だった無藝荘。]]
*[[佐藤忠男]] 『小津安二郎の芸術』 [[朝日選書]] 全2巻、1978年、[[朝日新聞出版|朝日文庫]]、2000年
小津が晩年に使用した[[長野県]][[蓼科高原|蓼科]]の別荘「無藝荘」は、2003年に小津の生誕100年を記念して[[茅野市]]によりプール平に移築され、[[小津安二郎記念蓼科高原映画祭#小津安二郎記念館・無藝荘|小津安二郎記念館]]として一般に公開されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://tateshina.ne.jp/spot/guide_5.html |title=無藝荘 |website=蓼科観光協会 |accessdate=2021年3月21日}}</ref>。茅野市では、1998年から「[[小津安二郎記念蓼科高原映画祭]]」が開催され、小津作品の上映を中心にシンポジウムや短編映画コンクールなどが行われている<ref>{{Cite web|和書|url=https://ozueigasai.jp/what.html |title=蓼科高原映画祭とは |website=小津安二郎記念・蓼科高原映画祭 |accessdate=2021年3月21日}}</ref>。
*[[高橋治]] 『絢爛たる影絵 小津安二郎』 初版文藝春秋、新版講談社、2003年
*[[三上真一郎]] 『巨匠とチンピラ 小津安二郎との日々』 文藝春秋 2001年
*田中真澄 『小津安二郎周游』  [[文藝春秋]] 2003年 
**『小津安二郎のほうへ モダニズム映画史論』 みすず書房、2002年 
**『小津安二郎と戦争』 みすず書房 2005年
*[[山根貞男]]ほか編 『国際シンポジウム小津安二郎』 [[朝日選書]]、2004年
*[[蓮實重彦]] 『監督小津安二郎』 [[筑摩書房]]、初版1982年、増補版2003年
*吉田喜重 『小津安二郎の反映画』 [[岩波書店]]、1998年
*千葉伸夫 『小津安二郎と20世紀』   [[国書刊行会]]、2003年
*ドナルド・リチー(Donald Richie) 『小津安二郎の美学 映画のなかの日本』 
:山本喜久男訳、フィルムアート社 1978年、[[現代教養文庫]]、1993年
*デヴィッド・ボードウェル(David Bordwell) 『小津安二郎映画の詩学』
: 杉山昭夫訳、[[青土社]] 1992年、新版2003年
*『文藝別冊 小津安二郎』 <KAWADE夢ムック>[[河出書房新社]] 2001年
*[[貴田庄]] 『小津安二郎のまなざし』  [[晶文社]]、1999年
**『小津安二郎と映画術』 [[平凡社]]、2001年
:;※以下は入門書
*貴田庄 『小津安二郎文壇交遊録』 [[中公新書]]、2006年  
**『小津安二郎の食卓』 芳賀書店 2000年、[[ちくま文庫]] 2003年
**『小津安二郎東京グルメ案内』 朝日文庫、2003年 
**『監督小津安二郎入門40のQ&A』 朝日文庫、2003年 
*中沢千磨夫 『小津安二郎・生きる哀しみ』 [[PHP新書]] 2003年
*[[ムック (出版)|ムック]] 『いま、小津安二郎』  [[有馬稲子]]・[[岡田茉莉子]]ほか、小学館  2003年
*ムック 『小津安二郎新発見』 松竹編、講談社 1993年、[[講談社]]+α文庫  2002年
*ムック 『小津安二郎を読む』 <ブック・シネマテーク>[[フィルムアート社]] 1982年


小津が青春時代を過ごした[[三重県]][[松阪市]]では、2002年に「小津安二郎青春館」が開館したが、2020年末に閉館した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/117833?rct=mie |date=2020-9-9 |title=「小津安二郎青春館」閉館へ 松阪市、歴史民俗資料館に移転 |publisher=中日新聞 |accessdate=2021年3月21日}}</ref>。それに代わる顕彰拠点として、翌2021年に[[松阪市立歴史民俗資料館]]内に「小津安二郎松阪記念館」が開館し、青春時代の手紙や日記、監督作品の台本などが展示されている<ref>{{Cite web|和書|date=2021-4-4 |url=https://www.isenp.co.jp/2021/04/04/58155/ |title=松阪に小津安二郎記念館オープン 日本映画界の巨匠顕彰 三重 |website=伊勢新聞 |accessdate=2021年4月5日}}</ref>。
==外部リンク==
* [http://www.chigasakikan.co.jp/ 茅ヶ崎館]
* [http://www.ozu100.jp/ 小津安二郎生誕100年記念プロジェクト]
* [http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1999ozu/ デジタル小津安二郎]
* [http://www.horror-house.jp/cat2/19031963.html 小津安二郎のお墓]


小津の生地である[[東京都]][[江東区]]では、古石場文化センター内に「小津安二郎紹介展示コーナー」が設けられている<ref name="古石場文化センター"/>。
{{日本映画監督協会理事長|第3代:[[1955年]]-[[1963年]]}}


== 展覧会・記念展 ==
{{DEFAULTSORT:おつ やすしろう}}
小津安二郎に関する展示は小津の遺品を所蔵する[[鎌倉文学館]]ほかで開催されている。1986年6月に鎌倉文学館で「特別展小津安二郎展―人と仕事」を開催した。愛用品やシナリオ等約300点が展示された<ref>{{Cite news|和書 |title=今日から小津安二郎展、鎌倉文学館 |newspaper=神奈川新聞 |date=1986-06-01 |edition=朝刊、本紙湘南・湘南東、18面}}</ref>。1990年に小津の遺族から遺品の寄託を受けた<ref>{{Cite news|和書 |title=鎌倉文学館に小津安二郎の遺品 映画史の貴重な資料整理して一般公開へ |newspaper=神奈川新聞 |date=1990-08-09 |edition=朝刊、p19}}</ref>鎌倉文学館は生誕100周年にあたる2003年4月25日から6月29日にも「小津安二郎 未来へ語りかけるものたち」を開催している<ref>{{Cite news|和書 |title=生誕100年、小津安二郎熱再び ゆかりの地で催し続々 |newspaper=朝日新聞 |date=2003-01-26 |edition=神奈川1、朝刊、33p}}</ref><ref>{{Cite book|和書 |title=小津安二郎 未来へ語りかけるものたち |date=2003-04-25 |year=2004 |publisher=鎌倉市芸術文化振興財団鎌倉文学館 |page=奥付}}</ref>。


1998年12月から1999年1月31日まで、[[東京大学総合研究博物館]]で「デジタル小津安二郎展」が開催された<ref>{{Cite journal|author=林良博|year=1999|title=デジタル小津安二郎展を終えて|journal=視聴覚教育|volume=Vol.53,No.3|page=8-11}}</ref>。この展示は厚田雄春の遺品が東京大学総合文化研究科に寄贈されたことを受けて企画された<ref>{{Cite journal|author=林良博|year=1999|title=デジタル小津安二郎展を終えて|journal=視聴覚教育|volume=Vol.53,No.3|page=9}}</ref>。展示にあたり「東京物語」のデジタル修復を実施した<ref>{{Cite book|和書 |title=デジタル小津安二郎展 キャメラマン厚田雄春の眼 |date=1998-12-09 |year=1998 |publisher=東京大学総合研究博物館 |pages=p92-105}}</ref>。展覧会の図録『デジタル小津安二郎 キャメラマン厚田雄春の眼』で展示の様子を見ることができる<ref>{{Cite book|和書 |title=デジタル小津安二郎展 キャメラマン厚田雄春の眼 |date=1998-12-09 |year=1998 |publisher=東京大学総合研究博物館}}</ref>。

小津が1946年から約5年間住んでいた千葉県野田市の[[野田市郷土博物館]]では、2004年10月16日から11月14日まで「小津安二郎監督と野田」展示を行った<ref>{{Cite news|和書 |title=思い出の品々一堂に 野田市ゆかりの小津安二郎監督 あすから郷土博物館で特別展 |newspaper=千葉日報 |date=2004-10-14 |edition=朝刊、p16}}</ref>。展示図録では野田での写真等を見ることができるほか、小津の日記をもとに「野田での小津日和」の記事がある<ref>{{Cite book|和書 |title=小津安二郎監督と野田 |date=2004-10-16 |year=2004 |publisher=野田市郷土博物館 |page=奥付}}</ref>。

小津生誕120周年・没後60年の2023年には、[[神奈川近代文学館]]で「小津安二郎展」を開催した<ref>{{Cite news|和書 |title=家族を描いた監督の軌跡 小津安二郎展 神奈川近代文学館 |newspaper=神奈川新聞 |date=2023-04-13 |edition=朝刊、かながわワイド版、p15}}</ref>。会期は2023年4月1日から5月28日<ref>{{Cite book|和書 |title=小津安二郎展 生誕120年 没後60年 |date=2023-04-01 |year=2023 |publisher=県立神奈川近代文学館 |page=奥付}}</ref>。

== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|25em}}

== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author1=厚田雄春|authorlink1=厚田雄春|author2=蓮實重彦|authorlink2=蓮實重彦|date=1989-6 |title=小津安二郎物語 |series=リュミエール叢書 |publisher=[[筑摩書房]] |isbn=978-4480871633 |ref={{Harvid|厚田|蓮實|1989}}}}
* {{Citation|和書|editor=[[井上和男]] |date=2003-4 |title=小津安二郎全集 上 |publisher=[[新書館]] |isbn=978-4403150012 |ref={{Harvid|全集(上)|2003}}}}
* {{Citation|和書|editor=井上和男 |date=2003-4 |title=小津安二郎全集 下 |publisher=新書館 |isbn=978-4403150012 |ref={{Harvid|全集(下)|2003}}}}
* {{Cite book|和書|author=貴田庄|authorlink=貴田庄 |date=1999-5 |title=小津安二郎のまなざし |publisher=[[晶文社]] |isbn=978-4794963949 |ref={{Harvid|貴田|1999}}}}
* {{Citation|和書|editor=[[キネマ旬報]]編集部 |date=1989-12 |title=小津安二郎集成 |publisher=[[キネマ旬報社]] |isbn=978-4873760391 |ref={{Harvid|集成|1989}}}}
* {{Citation|和書|editor=キネマ旬報編集部 |date=1993-10 |title=小津安二郎集成Ⅱ |publisher=キネマ旬報社 |isbn=978-4873760629 |ref={{Harvid|集成2|1993}}}}
* {{Cite book|和書|author=古賀重樹 |date=2010-11 |title=1秒24コマの美 黒澤明・小津安二郎・溝口健二 |publisher=[[日本経済新聞出版]] |isbn=978-4532167639 |ref={{Harvid|古賀|2010}}}}
* {{Cite book |和書|author=佐藤忠男|authorlink=佐藤忠男 |date=1995-3 |title=日本映画史Ⅰ 1896-1940 |edition= |publisher=[[岩波書店]] |isbn=978-4000037853 |ref={{Harvid|佐藤|1995}} }}増補版2006年
* {{Cite book|和書|author=佐藤忠男 |date=1996-10 |title=日本映画の巨匠たち I |publisher=[[学陽書房]] |isbn=978-4313874015 |ref={{Harvid|佐藤|1996}}}}
* {{Cite book|和書|author=佐藤忠男 |date=2000-9 |title=完本 小津安二郎の芸術 |series=[[朝日文庫]] |publisher=[[朝日新聞社]] |isbn=978-4022642509 |ref={{Harvid|佐藤|2000}}}}
* {{Citation|和書|editor=松竹 |date=1993-9 |title=小津安二郎新発見 |publisher=[[講談社]] |isbn=978-4062066815 |ref={{Harvid|松竹|1993}}}}[[講談社+α文庫]]で再刊
* {{Citation|和書|editor=松竹映像版権室 |date=2003-11 |title=小津安二郎映畫読本 「東京」そして「家族」|publisher=フィルムアート社 |isbn=978-4845903559 |ref={{Harvid|映畫読本|2003}}}}
* {{Citation|和書|editor=田中眞澄|date=1987-5 |title=小津安二郎 全発言 1933~1945 |publisher=[[泰流社]]|isbn=978-4884705893 |ref={{Harvid|全発言|1987}}}}
* {{Citation|和書|editor=田中眞澄|date=1989-05|title=小津安二郎 戦後語録集成 昭和21(一九四六)年~昭和38(一九六三)年 |publisher=フィルムアート社|isbn=978-4845989782|ref={{Harvid|戦後語録集成|1989}}}}
* {{Cite book|和書|author=田中眞澄|authorlink=田中眞澄|date=2003-07|title=小津安二郎周游 |publisher=[[文藝春秋]]|isbn=978-4163651705|ref={{Harvid|田中|2003}}}}[[岩波現代文庫]](上下)で再刊
* {{Cite book|和書|author=千葉伸夫|authorlink=千葉伸夫|date=2003-12|title=小津安二郎と20世紀|publisher=[[国書刊行会]]|isbn=978-4336046079|ref={{Harvid|千葉|2003}}}}
* {{Cite book|和書|author=中村博男|date=2000-10|title=若き日の小津安二郎|publisher=キネマ旬報社|isbn=978-4873762357|ref={{Harvid|中村|2000}}}}
* {{Cite book|和書|author=蓮實重彦|date=2003-10|title=監督 小津安二郎|edition=増補決定版 |publisher=筑摩書房|isbn=978-4480873415|ref={{Harvid|蓮實|2003}}}}[[ちくま学芸文庫]]で再刊
* {{Cite book|和書|author1=蓮實重彦|author2=山根貞男|authorlink2=山根貞男|author3=吉田喜重|authorlink3=吉田喜重|date=2004-06|title=国際シンポジウム 小津安二郎 生誕100年記念「OZU 2003」の記録 |publisher=朝日新聞社 |series=[[朝日選書]]|isbn=978-4022598530 |ref={{Harvid|シンポジウム|2004}}}}
* {{Citation|和書|editor=フィルムアート社|date=1982-06|title=小津安二郎を読む 古きものの美しい復権|series=ブック・シネマテーク|publisher=フィルムアート社|isbn=978-4845982431|ref={{Harvid|フィルムアート社|1982}}}}
* {{Cite book|和書|author=デヴィッド・ボードウェル|translator=杉山昭夫|date=2003-06|title=小津安二郎 映画の詩学|publisher=[[青土社]]|isbn=978-4791752089|ref={{Harvid|ボードウェル|2003}}}}
* {{Citation|和書|editor=[[松浦莞二]]、宮本明子|date=2019-3|title=[[小津安二郎 大全]]|publisher=朝日新聞出版|isbn=978-4022515995|ref={{Harvid|大全|2019}}}}
** {{Cite journal|和書|author=松浦莞二|title=第四章 伝記 小津安二郎|journal=小津安二郎 大全|pages=169-276|ref={{Harvid|伝記|2019}}}}
* {{Cite book|和書|author=山内静夫|authorlink=山内静夫 (映画プロデューサー)|title=松竹大船撮影所覚え書 小津安二郎監督との日々|date=2003-06|publisher=[[かまくら春秋社]]|isbn=978-4774002330|ref={{Harvid|山内|2003}}}}
* {{Cite book|和書|author=吉田喜重|date=1998-05|title=小津安二郎の反映画|publisher=岩波書店|isbn=978-4000223614|ref={{Harvid|吉田|1998}}}}岩波現代文庫で再刊
* {{Cite book|和書|author=ドナルド・リチー|authorlink=ドナルド・リチー|others=山本喜久男訳|date=1978-04|title=小津安二郎の美学:映画のなかの日本|publisher=フィルムアート社|isbn=978-4845978229 |ref={{Harvid|リチー|1978}}}}[[現代教養文庫]]で再刊
* {{Cite book|和書|author=笠智衆|authorlink=笠智衆|date=1991-06|title=大船日記:小津安二郎先生の思い出|series=|publisher=[[扶桑社]]|isbn=978-4594007669|ref={{Harvid|笠|1991}}}}朝日文庫で再刊
* {{Cite book|和書|author=キネマ旬報1964年2月号増刊|date=1964-02|title=小津安二郎〈人と芸術〉|publisher=キネマ旬報社|isbn=|ref={{Harvid|人と芸術|1964}}}}
* {{Cite book|和書|author=|date=2012-5|title=現代映画用語事典|publisher=キネマ旬報社|isbn=978-4873763675|ref={{Harvid|現代映画用語事典|2012}}}}
*『小津安二郎監督と野田 平成16年度特別展図録』野田市郷土博物館、2004年10月。

=== 関連文献 ===
<!--著者五十音順-->
* 石坂昌三『小津安二郎と茅ヶ崎館』[[新潮社]]、1995年6月。ISBN 978-4103856023。
* 井上和男『陽のあたる家 小津安二郎とともに』フィルムアート社、1993年10月。ISBN 978-4845993178。
*『[[小津安二郎・人と仕事]]』同・刊行会編、蛮友社、1972年8月/改訂版・[[小津安二郎学会]]、2022年。
* 尾形敏朗『小津安二郎 晩秋の味』河出書房新社、2021年11月。ISBN 978-4309291703。
* [[貴田庄]]『小津安二郎の食卓』[[ちくま文庫]]、2003年10月。ISBN 978-4480038883。
* 貴田庄『小津安二郎と映画術』[[平凡社]]、2001年8月。ISBN 978-4582282412。
**新編『小津安二郎と七人の監督』ちくま文庫、2023年5月。ISBN 978-4480438829。
* 貴田庄『監督小津安二郎入門 40のQ&A』朝日文庫、2003年9月。ISBN 978-4022614285。
* 貴田庄『小津安二郎文壇交遊録』[[中公新書]]、2006年10月。ISBN 978-4121018687。
* 具慧原『小津安二郎はなぜ「日本的」なのか』[[水声社]]、2024年3月。ISBN 978-4801007994。
* [[里見弴]]『彼岸花/秋日和 小津映画原作集』[[武藤康史]]編、[[中公文庫]]、2023年4月
* 朱宇正『小津映画の日常 戦争をまたぐ歴史のなかで』[[名古屋大学出版会]]、2020年10月。ISBN 978-4815810023。
* [[ポール・シュレイダー]]『聖なる映画 小津/ブレッソン/ドライヤー』山本喜久男訳、フィルムアート社、1981年2月。
* [[高橋治]]『絢爛たる影絵 小津安二郎』文藝春秋、1982年11月/岩波現代文庫、2010年。ISBN 978-4006021757。
* 滝浪佑紀『小津安二郎 サイレント映画の美学』[[慶應義塾大学出版会]]、2019年8月。ISBN 978-4766426199。
* 田中康義『豆腐屋はオカラもつくる 映画監督小津安二郎のこと』龜鳴屋、2018年12月。
* [[田中眞澄]]『小津安二郎のほうへ モダニズム映画史論』[[みすず書房]]、2002年6月。ISBN 978-4622042693。
* 田中眞澄『小津安二郎と戦争』みすず書房、2005年7月。ISBN 978-4622071488。
* 田中眞澄『小津ありき 知られざる小津安二郎』[[清流出版]]、2013年7月。ISBN 978-4860294045。
* [[都築政昭]]『小津安二郎日記 無常とたわむれた巨匠』講談社、1993年9月/ちくま文庫、2015年10月。ISBN 978-4480432896。
* 永井健児『小津安二郎に憑かれた男 美術監督・下河原友雄の生と死』フィルムアート社、1990年4月。ISBN 978-4845990856。
* [[中澤千磨夫]]『小津安二郎 生きる哀しみ』[[PHP研究所]]〈[[PHP新書]]〉、2003年10月。ISBN 978-4569630854。
* [[中野翠]]『小津ごのみ』筑摩書房、2008年2月/ちくま文庫、2011年4月。ISBN 978-4480428202。 
* [[中村明]]『小津の魔法つかい ことばの粋とユーモア』[[明治書院]]、2007年4月。ISBN 978-4625634000。
* [[西村雄一郎]]『殉愛 原節子と小津安二郎』新潮社、2012年8月/[[講談社文庫]]、2017年2月。ISBN 978-4062936002。
* [[浜野保樹]]『小津安二郎』[[岩波新書]]、1993年1月。ISBN 400430265X。
* [[平山周吉]]『小津安二郎』新潮社、2023年3月。ISBN 978-4103524724。[[大佛次郎賞]](第50回)
* [[前田英樹]]『小津安二郎の家 持続と浸透』[[書肆山田]]、1993年1月。ISBN 978-4879952943。
* 前田英樹『小津安二郎の喜び』講談社選書メチエ、2016年2月。ISBN 978-4062586207。
* 松岡ひでたか『小津安二郎の俳句 1903-1963』[[河出書房新社]]、2020年3月。ISBN 978-4309028729。
* [[三上真一郎]]『巨匠とチンピラ 小津安二郎との日々』文藝春秋、2001年4月。ISBN 978-4163573809。
* 『小津安二郎 永遠の映画』河出書房新社〈[[KAWADE夢ムック]]〉、2001年。増補新版2020年。ISBN 978-4309980003。

== 関連項目 ==
*[[小津安二郎学会]]
*[[鎌倉文士]]

== 外部リンク ==
{{commonscat|Yasujirō Ozu}}
{{Portal 映画}}
* {{URL|https://www.cinemaclassics.jp/ozu/|映画監督小津安二郎}} - [[松竹]]
* {{imdb name|0654868}}
* {{jmdb name|0177490}}
* {{allcinema name |132899}}
* {{kinejun name |108937}}
* {{Movie Walker name|id=102862|name=小津安二郎}}
* {{青空文庫著作者|1761}}
* {{URL|http://ozu-net.com/|全国小津安二郎ネットワーク}}
* {{URL|https://www.ozuyasujiro.jp/|小津安二郎学会}}
* {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20160302032412/http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1999ozu/ |date=2016年5月2日 |title=デジタル小津安二郎}} - TOKYO UNIVERSITY DIGITAL MUSEUM

{{小津安二郎監督作品}}
{{日本映画監督協会理事長|第3代:[[1955年]] - [[1963年]]}}
{{Navboxes
|title = 受賞
|list =
{{日本芸術院賞}}
{{ブルーリボン賞監督賞}}
{{毎日映画コンクール監督賞}}
{{毎日映画コンクール脚本賞}}
}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:おつ やすしろう}}
[[Category:小津安二郎|!]]
[[Category:小津家|やすしろう]]
[[Category:原節子|+おつ やつしろう]]
[[Category:日本の映画監督]]
[[Category:日本の映画監督]]
[[Category:東京都出身人物]]
[[Category:日本映画の脚本家]]
[[Category:三重県出身人物]]
[[Category:日本サイレント映画監督]]
[[Category:日本藝術院賞受賞者]]
[[Category:日本藝術院会員]]
[[Category:松竹の人物]]
[[Category:紫綬褒章受章者]]
[[Category:三重県立宇治山田高等学校出身の人物]]
[[Category:東京都区部出身の人物]]
[[Category:勲四等旭日小綬章受章者]]
[[Category:1903年生]]
[[Category:1903年生]]
[[Category:1963年没]]
[[Category:1963年没]]

{{Link FA|vi}}

[[bn:ইয়াসুজিরো ওজু]]
[[de:Ozu Yasujirō]]
[[en:Yasujirō Ozu]]
[[es:Yasujirō Ozu]]
[[eu:Yasujiro Ozu]]
[[fa:یاسوجیرو اوزو]]
[[fi:Yasujirō Ozu]]
[[fr:Yasujirō Ozu]]
[[he:אוזו יסוג'ירו]]
[[id:Yasujirō Ozu]]
[[it:Yasujiro Ozu]]
[[ko:오즈 야스지로]]
[[nl:Yasujiro Ozu]]
[[no:Yasujiro Ozu]]
[[oc:Yasujiro Ozu]]
[[pl:Yasujirō Ozu]]
[[pt:Yasujiro Ozu]]
[[ro:Yasujirō Ozu]]
[[ru:Одзу, Ясудзиро]]
[[sv:Ozu Yasujiro]]
[[th:ยาสุจิโร โอสุ]]
[[tr:Yasujirō Ozu]]
[[vi:Ozu Yasujirō]]
[[zh:小津安二郎]]

2024年7月26日 (金) 07:07時点における最新版

おづ やすじろう
小津 安二郎
小津 安二郎
本名 同じ
別名義 ジェームス・槇[注 1]
生年月日 (1903-12-12) 1903年12月12日
没年月日 (1963-12-12) 1963年12月12日(60歳没)
出生地 日本の旗 日本東京府東京市深川区(現在の東京都江東区深川
死没地 日本の旗 日本東京都文京区湯島
身長 約170 cm[2][3]
職業 映画監督脚本家
ジャンル 映画
活動期間 1927年 - 1963年
主な作品
東京の合唱』(1931年)
大人の見る繪本 生れてはみたけれど』(1932年)
戸田家の兄妹』(1941年)
晩春』(1949年)
麦秋』(1951年)
東京物語』(1953年)
秋刀魚の味』(1962年)
 
受賞
ブルーリボン賞
その他の賞
毎日映画コンクール
監督賞
1949年晩春
脚本賞
1949年晩春
特別賞
1963年
英国映画協会
サザーランド杯
1953年東京物語
紫綬褒章
1958年
備考
日本映画監督協会理事長(1955年 - 1963年
テンプレートを表示

小津 安二郎(おづ やすじろう、1903年明治36年〉12月12日 - 1963年昭和38年〉12月12日)は、日本映画監督脚本家日本映画を代表する監督のひとりであり、サイレント映画時代から戦後までの約35年にわたるキャリアの中で、原節子主演の『晩春』(1949年)、『麦秋』(1951年)、『東京物語』(1953年)など54本の作品を監督した。ロー・ポジションによる撮影や厳密な構図などが特徴的な「小津調」と呼ばれる独特の映像世界で、親子関係や家族の解体をテーマとする作品を撮り続けたことで知られ、黒澤明溝口健二と並んで国際的に高く評価されている。1962年には映画人初の日本芸術院会員に選出された。 義弟はキノエネ醤油14代社長山下平兵衛[4]

生涯

[編集]

生い立ち

[編集]

1903年12月12日東京市深川区亀住町4番地(現在の東京都江東区深川一丁目)に、父・寅之助と母・あさゑの5人兄妹の次男として生まれた[5][6][7]。兄は2歳上の新一、妹は4歳下の登貴と8歳下の登久、弟は15歳下の信三である[6]。生家の小津新七しんしち家は、伊勢松阪出身の伊勢商人である小津与右衛門よえもん家の分家にあたる[8]。伊勢商人は江戸に店を出して成功を収めたが、小津与右衛門家も日本橋で海産物肥料問屋の「湯浅屋ゆあさや」を営んでいた[8][9][注 2]。小津新七家はその支配人を代々務めており、五代目小津新七の子である寅之助も18歳で支配人に就いた[8][11]。あさゑはの名家の生まれで、のちに伊勢商人の中條家の養女となった[6][8]。両親は典型的な厳父慈母で、小津は優しくて思いやりのある母を終生まで敬愛した[9]。小津は3歳頃に脳膜炎にかかり、数日間高熱で意識不明の状態となったが、母が「私の命にかえても癒してみせます」と必死に看病したことで一命をとりとめた[14]

1909年、小津は深川区立明治小学校附属幼稚園に入園した。当時は子供を幼稚園に入れる家庭は珍しく、小津はとても裕福で教育熱心な家庭で育ったことがうかがえる[15]。翌1910年には深川区立明治尋常小学校(現在の江東区立明治小学校)に入学した[5]1913年3月、子供を田舎で教育した方がよいという父の教育方針と、当時住民に被害を及ぼしていた深川のセメント粉塵公害による環境悪化のため、一家は小津家の郷里である三重県飯南郡神戸村(現在の松阪市垣鼻785番地に移住した[5][16]。父は湯浅屋支配人の仕事があるため、東京と松阪を往復する生活をした[16]。同年4月、小津は松阪町立第二尋常小学校(現在の松阪市立第二小学校)4年生に転入した[17]。5・6年時の担任によると、当時の小津は円満実直で成績が良く、暇があるとチャンバラごっこをしていたという[18]。やがて小津は自宅近くの映画館「神楽座」で尾上松之助主演の作品を見たのがきっかけで、映画に病みつきとなった[5]

1916年、尋常小学校を卒業した小津は、三重県立第四中学校(現在の三重県立宇治山田高等学校)に入学し、寄宿舎に入った[5]。小津はますます映画に熱を上げ、家族にピクニックに行くと偽って名古屋まで映画を見に行ったこともあった[19]。当時は連続活劇の女優パール・ホワイトのファンで、レックス・イングラムペンリン・スタンロウズ英語版の監督作品を好むなど、アメリカ映画一辺倒だった[19][20]。とくに小津に感銘を与えたのがトーマス・H・インス監督の『シヴィリゼーション』(1917年)で、この作品で映画監督の存在を初めて認識し、監督を志すきっかけを作った[20][21]1920年、学校では男子生徒が下級生の美少年に手紙を送ったという「稚児事件[注 3]」が発生し、小津もこれに関与したとして停学処分を受けた[23]。さらに小津は舎監に睨まれていたため、停学と同時に寄宿舎を追放され、自宅から汽車通学することになった[23]。小津は追放処分を決めた舎監を終生まで嫌悪し、戦後の同窓会でも彼と同席することを拒否した[24][25]。しかし、自宅通学に変わったおかげで外出が自由になり、映画見物には好都合となった[23]。この頃には校則を破ることが何度もあり、操行の成績は最低の評価しかもらえなくなったため、学友たちから卒業できないだろうと思われていた[26][27]

1921年3月、小津は何とか中学校を卒業することができ、両親の命令で兄の通う神戸高等商業学校を受験したが、合格する気はあまりなく、神戸大阪で映画見物を楽しんだ[28][29]名古屋高等商業学校も受験したが、どちらとも不合格となり、浪人生活に突入した[5]。それでも映画に没頭し、7月には知人らと映画研究会「エジプトクラブ」を設立し、憧れのパール・ホワイトなどのハリウッド俳優の住所を調べて手紙を送ったり、映画のプログラムを蒐集したりした[30]。翌1922年に再び受験の時期が来ると、三重県師範学校を受験したが不合格となり、飯南郡宮前村(現在の松阪市飯高町)の宮前尋常高等小学校代用教員として赴任した[31]。宮前村は松阪から約30キロの山奥にあり、小津は学校のすぐ近くに下宿したが、休みの日は映画を見に松阪へ帰っていたという[32][33]。小津は5年生男子48人の組を受け持ち、児童に当時では珍しいローマ字を教えたり、教室で活劇の話をして喜ばせたりしていた[32]。また、下宿で児童たちにマンドリンを弾き聞かせたり、下駄のまま児童を連れて標高1000メートル以上の局ヶ岳を登頂したりしたこともあった[34]

映画界入り

[編集]

1923年1月、一家は小津と女学校に通う妹の登貴を残して上京し、深川区和倉わくら町に引っ越した[5]。3月に小津は登貴が女学校を卒業したのを機に、代用教員を辞めて2人で上京し、和倉町の家に合流して家族全員が顔を揃えた[35]。小津は映画会社への就職を希望したが、映画批評家の佐藤忠男曰く「当時の映画は若者を堕落させる娯楽と考えられ、職業としては軽蔑されていた」ため父は反対した[35][36]。しかし、母の異母弟の中條幸吉ちゅうじょうこうきち松竹に土地を貸していたことから、その伝手で8月に松竹キネマ蒲田撮影所に入社した[35]。小津は監督志望だったが、演出部に空きがなかったため、撮影部助手となった[37]。入社直後の9月1日、小津は撮影所で関東大震災に遭遇した。和倉町の家は焼失したが、家族は全員無事だった[38]。震災後に本家が湯浅屋を廃業したことで、父は亀住町の店跡を店舗兼住宅に新築し、新たに「小津地所部」の看板を出して、本家が所有する土地や貸家の管理を引き受けた[39][40]。松竹本社と蒲田撮影所も震災で被害を受け、スタッフの多くは京都の下加茂撮影所に移転した[40]。蒲田には島津保次郎監督組が居残り、小津も居残り組として碧川道夫の撮影助手を務めた[41]

1924年3月に蒲田撮影所が再開すると、小津は酒井宏さかいひろしの撮影助手として牛原虚彦監督組についた[42][43]。小津は重いカメラを担ぐ仕事にはげみ、ロケーション中に暇があると牛原に矢継ぎ早に質問をした[43]。12月、小津は東京青山近衛歩兵第4連隊一年志願兵として入営し、翌1925年11月に伍長で除隊した[42]。再び撮影助手として働いた小津は、演出部に入れてもらえるよう兄弟子の斎藤寅次郎に頼み込み、1926年に時代劇班の大久保忠素監督のサード助監督となった[44]。この頃に小津はチーフ助監督の斎藤、セカンド助監督の佐々木啓祐、生涯の親友となる清水宏、後に小津作品の編集担当となる撮影部の浜村義康の5人で、撮影所近くの家を借りて共同生活をした[44][45]。小津は大久保のもとで脚本直しと絵コンテ書きを担当したが、大久保は助監督の意見に耳を傾けてくれたため、彼にたくさんのアイデアを提供することができた[37][45][46]。また、大久保はよく撮影現場に来ないことがあり、その時は助監督が代わりに務めたため、小津にとっては大変な勉強になった[37]。小津は後に、大久保のもとについたことが幸運だったと回想している[46]

1927年のある日、撮影を終えて腹をすかした小津は、満員の社員食堂でカレーライスを注文したが、給仕が順番を飛ばして後から来た牛原虚彦のところにカレーを運んだため、これに激昂して給仕に殴りかかろうとした[47]。この騒動は撮影所内に知れ渡り、小津は撮影所長の城戸四郎に呼び出されたが、それが契機で脚本を提出するよう命じられた[48]。城戸は「監督になるには脚本が書けなければならない」と主張していたため、これは事実上の監督昇進の試験だった[37]。小津は早速自作の時代劇『瓦版かちかち山』の脚本を提出し、作品は城戸に気に入られたが、内容が渋いため保留となった[37][48]。8月、小津は「監督ヲ命ズ 但シ時代劇部」の辞令により監督昇進を果たし、初監督作品の時代劇『懺悔の刃』の撮影を始めた[49]。ところが撮影途中に予備役の演習召集を受けたため、撮り残したファーストシーンの撮影を斎藤に託し、9月25日に三重県津市歩兵第33連隊第7中隊に入隊した[50]。10月に『懺悔の刃』が公開され、除隊した小津も映画館で鑑賞したが、後に「自分の作品のような気がしなかった」と述べている[50][51]

監督初期

[編集]
非常線の女』(1933年)撮影時の小津。

1927年11月、蒲田時代劇部は下加茂撮影所に合併されたが、小津は蒲田に残り、以後は現代劇の監督として活動することができた[49]。しかし、小津は早く監督になる気がなく、会社からの企画を6、7本断ったあと、ようやく自作のオリジナル脚本で監督2作目の『若人の夢』(1928年)を撮影した[51]。当時の松竹蒲田は城戸の方針で、若手監督に習作の意味を兼ねて添え物用の中・短編喜劇を作らせており、新人監督の小津もそうした作品を立て続けに撮影したが、その多くは学生や会社員が主人公のナンセンス喜劇だった[52][53][54]1928年は5本、1929年は6本、1930年は生涯最高となる7本もの作品を撮り、めまぐるしいほどのスピード製作となった[5][55]。徐々に会社からの信用も高まり、トップスターの栗島すみ子主演の正月映画『結婚学入門』(1930年)の監督を任されるほどになった[56]。『お嬢さん』(1930年)は当時の小津作品にしては豪華スターを配した大作映画となり、初めてキネマ旬報ベスト・テンに選出された(日本・現代映画部門2位)[55][56]

1931年、松竹は土橋式トーキーを採用して、日本初の国産トーキー『マダムと女房』を公開し、それ以来日本映画は次第にトーキーへと移行していったが、小津は1936年までトーキー作品を作ろうとはしなかった[57]。その理由はコンビを組んでいたカメラマンの茂原英雄が独自のトーキー方式を研究していたことから、それを自身初のトーキー作品で使うと約束していたためで、後に小津は日記に「茂原氏とは年来の口約あり、口約果たさんとせば、監督廃業にしかず、それもよし」と書いている[56][58]。小津は茂原式が完成するまでサイレント映画を撮り続け、松竹が採用した土橋式はノイズが大きくて不備があるとして使用しなかった[56]。しかし、サイレント作品のうち5本は、台詞はないが音楽が付いているサウンド版で公開されている[59]

1930年代前半になると、小津は批評家から高い評価を受けることが多くなった。『東京の合唱』(1931年)はキネマ旬報ベスト・テンの3位に選ばれ、佐藤は「これで小津は名実ともに日本映画界の第一級の監督として認められるようになったと言える」と述べている[60]。『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』(1932年)はより高い評価を受け、初めてキネマ旬報ベスト・テンの1位に選ばれた[59]。さらに『出来ごころ』(1933年)と『浮草物語』(1934年)でもベスト・テンの1位に選ばれた[56]1933年9月には後備役として津市の歩兵第33連隊に入営し、毒ガス兵器を扱う特殊教育を受けた[33]。10月に除隊すると京都で師匠の大久保や井上金太郎らと交歓し、井上の紹介で気鋭の新進監督だった山中貞雄と知り合い、やがて二人は深く心を許し合う友となった[33][61]。新しい出会いの一方、1934年4月には父寅之助を亡くした[5]。父が経営した小津地所部の後を継ぐ者はおらず、2年後に小津家は深川の家を明け渡すことになり、小津と母と弟の3人で芝区高輪南町に引っ越した。小津は一家の大黒柱として、家計や弟の学費を背負ったが、この頃が金銭的に最も苦しい時期となった[62]

1935年7月、小津は演習召集のため、再び青山の近衛歩兵第4連隊に3週間ほど入隊した[5]。この年に日本文化を海外に紹介するための記録映画『鏡獅子』(1936年)を撮影し、初めて土橋式によるトーキーを採用した[56][63]1936年3月、小津は日本映画監督協会の結成に加わり、協会を通じて溝口健二内田吐夢田坂具隆などの監督と親しくなった[61]。この年に茂原式トーキーが完成し、小津は約束通り『一人息子』(1936年)で採用することを決め、同年に蒲田から移転した大船撮影所で撮影することを考えたが、松竹が土橋式トーキーと契約していた関係で大船撮影所を使うことができず、誰もいなくなった旧蒲田撮影所で撮影した[64][65][注 4]1937年に土橋式で『淑女は何を忘れたか』を撮影したあと、自身が考えていた原作『愉しき哉保吉君』を内田吐夢に譲り、同年に『限りなき前進』として映画化された[64]。9月には『父ありき』の脚本を書き上げたが、執筆に利用した茅ヶ崎市の旅館「茅ヶ崎館」は、これ以降の作品でもしばしば執筆に利用した[66]

小津と戦争

[編集]

1937年7月に日中戦争が開始し、8月に親友の山中が応召されたが、小津も『父ありき』脱稿直後の9月10日に召集され、近衛歩兵第2連隊に歩兵伍長として入隊した[64][67]。小津は毒ガス兵器を扱う上海派遣軍司令部直轄・野戦瓦斯第2中隊に配属され、9月27日に上海に上陸した[67]。小津は第三小隊の班長となって各地を転戦し、南京陥落後の12月20日に安徽省滁県に入城した[68]1938年1月12日、上海へ戦友の遺骨を届けるための出張の帰路、南京郊外の句容にいた山中を訪ね、30分程の短い再会の時を過ごした[69]。4月に徐州会戦に参加し、6月には軍曹に昇進し、9月まで南京に駐留した[67]。同月に山中は戦病死し、訃報を知った小津は数日間無言になったという[5]。その後は漢口作戦に参加し、1939年3月には南昌作戦に加わり、修水の渡河作戦で毒ガスを使用した[67]。続いて南昌進撃のため厳しい行軍をするが、小津は「山中の供養だ」と思って歩いた[70]。やがて南昌陥落で作戦は中止し、6月26日には九江で帰還命令が下り、7月13日に日本に帰国、7月16日に召集解除となった[71]

1939年12月、小津は帰還第1作として『彼氏南京へ行く』(後に『お茶漬の味』と改題)の脚本を執筆し、翌1940年に撮影準備を始めたが、内務省の事前検閲で全面改訂を申し渡され、出征前夜に夫婦でお茶漬けを食べるシーンが「赤飯を食べるべきところなのに不真面目」と非難された[72]。結局製作は中止となり、次に『戸田家の兄妹』(1941年)を製作した。これまで小津作品はヒットしないと言われてきたが、この作品は興行的に大成功を収めた[56]。次に応召直前に脚本を完成させていた『父ありき』(1942年)を撮影し、小津作品の常連俳優である笠智衆が初めて主演を務めた[5]。この撮影中に太平洋戦争が開戦し、1942年に陸軍報道部は「大東亜映画」を企画して、大手3社に戦記映画を作らせた。松竹はビルマ作戦を描くことになり、小津が監督に抜擢された[57]。タイトルは『ビルマ作戦 遥かなり父母の国』で脚本もほぼ完成していたが、軍官の求める勇ましい映画ではないため難色を示され、製作中止となった[73]

1943年6月、小津は軍報道部映画班員として南方へ派遣され、主にシンガポールに滞在した[57]。同行者には監督の秋山耕作と脚本家の斎藤良輔がおり、遅れてカメラマンの厚田雄春が合流した[57]。小津たちはインド独立をテーマとした国策映画『デリーへ、デリーへ』を撮ることになり、ペナンスバス・チャンドラ・ボースと会見したり、ジャワでロケを行ったりしたが、戦況が悪化したため撮影中止となった[74]。小津は厚田に後発スタッフが来ないよう電報を打たせたが、電報の配達が遅れたため、後発スタッフは行き違いで日本を出発してしまい、小津は「戦況のよくない洋上で船がやられたらどうするんだ」と激怒した。後発スタッフは何とか無事にシンガポールに到着し、撮影も続行されたが、やがて小津とスタッフ全員に非常召集がかかり、現地の軍に入営することになった[75]。仕事のなくなった小津はテニスや読書をして穏やかに過ごし、夜は報道部の検閲試写室で「映写機の検査」と称して、接収した大量のアメリカ映画を鑑賞した[33][76]。その中には『風と共に去りぬ』『嵐が丘』(1939年)、『怒りの葡萄』『ファンタジア』『レベッカ』(1940年)、『市民ケーン』(1941年)などが含まれており、『ファンタジア』を見た時は「こいつはいけない。相手がわるい。大変な相手とけんかした」と思ったという[77]

1945年8月15日にシンガポールで敗戦を迎えると、『デリーへ、デリーへ』のフィルムと脚本を焼却処分し、映画班員とともにイギリス・オーストラリア軍の監視下にあるジュロンの民間人収容所に入り、しばらく抑留生活を送った[5][78]。小津は南方へ派遣されてからも松竹から給与を受け取っていたため、軍属ではなく民間人として扱われ、軍の収容所入りを免れていた[79]。抑留中はゴム林での労働に従事し、収容所内での日本人向け新聞「自由通信」の編集もしていた[78]。暇をみてはスタッフと連句を詠んでいたが、小津は後に「連句の構成は映画のモンタージュと共通するものがあり、とても勉強になった」と回想している[77]。同年12月、第一次引き揚げ船で帰国できることになり、スタッフの人数が定員を上回っていたため、クジ引きで帰還者を決めることにした。小津はクジに当たったが、「俺は後でいいよ」と妻子のあるスタッフに譲り、映画班の責任者として他のスタッフの帰還が終わるまで残留した[78]。翌1946年2月に小津も帰還し、12日に広島県大竹に上陸した[5]

戦後の活躍

[編集]
晩春』(1949年)のポスター。

日本に帰還した小津は、焼け残った高輪の自宅に行くが誰もおらず、妹の登久の嫁ぎ先である千葉県野田町(現在の野田市)に疎開していた母のもとへ行き、やがて小津も野田町内の借家に移住した[80]1947年に戦後第1作となる『長屋紳士録』を撮影したが、撮影中は千葉から通うわけにはいかず、撮影所内の監督室で寝泊まりするようになった[72]。この頃に撮影所前の食堂「月ヶ瀬」の主人の姪である杉戸益子(後に中井麻素子)と親しくなり、以後彼女は小津の私設秘書のような存在となった[81][82]。益子は1957年に小津と木下惠介の独身監督の媒酌で佐田啓二と結婚し、後に中井貴恵貴一をもうけた[80]。小津は佐田夫妻と親子同然の間柄となり、亡くなるまで親密な関係が続いた[81][82]

1948年には新作『月は上りぬ』の脚本を書き上げ、東宝専属の高峰秀子を主演に予定したが、交渉が難航したため製作延期となり、代わりに『風の中の牝雞』を撮影した[83]。この作品は小津が畏敬した志賀直哉の『暗夜行路』をモチーフにしていると目されているが、あまり評判は良くなく、小津自身も失敗作だと認めている[51][72]。デビュー作からコンビを組んできた脚本家の野田高梧も作品を批判し、それを素直に認めた小津は、次作の『晩春』(1949年)からの全作品の脚本を野田と共同執筆した[84]。『晩春』は広津和郎の短編小説『父と娘』が原作で、娘の結婚というテーマを茶の湯など日本の伝統的な情景の中で描いた。また、原節子を主演に迎え、小津調と呼ばれる独自の作風の基調を示すなど、戦後の小津作品のマイルストーンとなった[53][85]。作品はキネマ旬報ベスト・テンで1位に選ばれ、毎日映画コンクールの日本映画大賞を受賞した[5]

次作の『宗方姉妹』(1950年)は新東宝製作で、初の他社作品となった[72]。この作品は当時の日本映画の最高記録となる約5000万円もの製作費が投じられ、この年の洋画を含む興行配収1位になる大ヒット作となった[86]1951年には『麦秋』を監督し、再びキネマ旬報ベスト・テン1位と毎日映画コンクール日本映画大賞に選ばれた[5]1952年1月、松竹大船撮影所の事務所本館が全焼し、小津が撮影中に寝泊まりしていた監督室も焼けたため、5月に母を連れて北鎌倉に転居[注 5]し、そこを終の棲家とした[88]。この年に戦前に検閲で撥ねられた『お茶漬の味』を撮影し、1953年には小津の最高傑作のひとつに位置付けられている『東京物語』を撮影した[89]。同年9月、松竹を含む5つの映画会社は、同年に製作再開した日活による監督や俳優の引き抜きを防ぐために五社協定を締結し、それにより小津は松竹の専属契約者となった[5][89]

1954年、戦後長らく映画化が実現できずにいた『月は上りぬ』が、日本映画監督協会の企画作品として日活が製作し、小津の推薦で田中絹代が監督することに決まった[90]。小津は他社作品ながら脚本を提供し、スポンサーと交渉するなど精力的に協力したが、日活は俳優の引き抜きをめぐり大映など五社と激しく対立していたため製作は難航した[91][92][注 6]。小津は監督協会代表者として日活との交渉に奔走し、田中を監督に推薦した責任上、彼女と同じ立場に身を置くため、9月8日に松竹と契約更新をせずにフリーとなった[33][92]。やがて作品は監督協会が製作も行い、配給のみ日活に委託することになり、キャスティングに難航しながらも何とか完成に漕ぎつけ、1955年1月に公開された[90]。小津はこの作品をめぐる問題処理にあたったこともあり、同年10月に監督協会の理事長に就任した[92]

小津はフリーの立場で松竹製作の『早春』(1956年)を撮影したあと、1956年2月に松竹と年1本の再契約を結び、以後は1年ごとに契約を更新した[93]。小津は次回作として、戦前に映画化された『愉しき哉保吉君』を自らの手でリメイクすることにしたが、内容が暗いため中止した[33]。6月からは長野県蓼科にある野田の別荘「雲呼荘」に滞在し、その土地を気に入った小津は雲呼荘近くにある片倉製糸の別荘を借り、「無藝荘むげいそう」と名付けた[93]。次作の『東京暮色』(1957年)からは蓼科の別荘で脚本を執筆するようになり、無藝荘は東京から来た客人をもてなす迎賓館のような役割を果たした[84][93]1957年10月から11月にかけて『浮草物語』をリメイクした『大根役者』の脚本を書き上げ、1958年1月新潟県佐渡島高田市(現在の上越市)でロケーション・ハンティングも敢行したが、ロケ先が雪不足のため撮影延期となった[72]

カラー映画時代

[編集]

1950年代に日本映画界ではカラー化、ワイドスクリーン化が進んでいたが、小津はトーキーへの移行の時と同じように、新しい技術には慎重な姿勢を見せた[94]。ワイドスクリーンについては「何だかあのサイズは郵便箱の中から外をのぞいているような感じでゾッとしない[95]」「四畳半に住む日本人の生活を描くには適さない[96]」などと言って導入せず、亡くなるまで従来通りのスタンダードサイズを貫いた[94]。一方、カラーについては自分が望む色彩の再現がうまくいくかどうか不安に感じていたが、戦後の小津作品のカメラマンの厚田雄春によると、『東京物語』頃からカラーで撮る可能性が出ていて、いろいろ研究を始めていたという[97][98]。1958年、小津は『彼岸花』を撮るにあたり、会社からカラーで撮るよう命じられたため、厚田の助言を受け入れて、色調が渋くて小津が好むの発色が良いアグファカラー英語版を採用した[51][98]。この作品以降は全作品をアグファカラーで撮影した[97]

小津作品初のカラー映画となった『彼岸花』は、大映から山本富士子を借りるなどスターを並べたのが功を奏して、この年の松竹作品の興行配収1位となり、小津作品としても過去最高の興行成績を記録した[72][99]1959年2月には映画関係者で初めて日本芸術院賞を受賞した[5]。この年は『お早よう』を撮影したあと、大映から『大根役者』を映画化する話が持ち上がり、これを『浮草』と改題して撮影した[72]1960年には松竹で『秋日和』を撮影したが、主演に東宝から原節子と司葉子を借りてきたため、その代わりに東宝で1本作品を撮ることになり、翌1961年に東宝系列の宝塚映画で『小早川家の秋』を撮影した[86]

1962年2月4日、最愛の母あさゑが86歳で亡くなった[5]。この年に最後の監督作品となった『秋刀魚の味』を撮影し、11月に映画人で初めて日本芸術院会員に選出された[100]1963年には次回作として『大根と人参』の構想を進めたが、この脚本は小津の病気により執筆されることはなく、ついに亡くなるまで製作は実現しなかった[57][86][101]。『大根と人参』は小津没後に渋谷実が構想ノートをもとに映画化し、1965年に同じタイトルで公開した[86]。小津の最後の仕事となったのは、日本映画監督協会プロダクションが製作するいすゞ自動車の宣伝映画『私のベレット』(1964年)の脚本監修だった[101]

闘病と死去

[編集]
鎌倉市円覚寺にある小津安二郎の墓。

1963年4月、小津は数日前にできた右頸部悪性腫瘍のため国立がんセンターに入院し、手術を受けた[101]。手術後は患部にコバルトラジウムの針を刺す治療を受け、「そのへんに、オノか何かあったら、自殺したかったよ」と口を漏らすほど痛みに苦しんだ[102]。7月に退院すると湯河原で療養したが、右手のしびれが痛みとなり、月末に帰宅してからは寝たきりの生活を送った[101][102]。9月にがんセンターは佐田啓二など親しい人たちに、小津が癌であることを通告した[101]。小津の痛みは増すばかりで、好物も食べられないほどになっていた[102]。10月には東京医科歯科大学医学部附属病院に再入院したが、11月に白血球不足による呼吸困難のため、気管支の切開手術をしてゴム管をはめた。そのせいで発声もほとんどできなくなり、壁にイロハを書いた紙を貼り、文字を指して意思疎通をした[5][101]

12月11日、小津の容態が悪化し、佐田が駆けつけると死相があらわれていた[102]。そして12月12日午後12時40分、小津は還暦を迎えた当日に死去した[101]。翌日の通夜には、すでに女優を引退していた原節子が駆けつけた[103]。12月16日、松竹と日本映画監督協会による合同葬が築地本願寺で行われ、城戸が葬儀委員長を務めた[5]。戦後は年に1本の寡作ということもあり、また独身で友人や弟子たちと飲み歩いておごる、という親分気質だったせいか、特に遺産というほどのものはなかったという[104]。生前に小津は松竹から金を借りており、会社は香典で借金を回収しようとしたが、葬儀委員を務めた井上和男により止められた[5][101]。墓は北鎌倉の円覚寺につくられ、墓石には朝比奈宗源の筆による「無」の一文字が記された[101]

作風

[編集]
性に合わないんだ。ぼくの生活条件として、なんでもないことは流行に従う。重大なことは道徳に従う。芸術のことは自分に従うから、どうにもきらいなものはどうにもならないんだ。だから、これは不自然だということは百も承知で、しかもぼくは嫌いなんだ。そういうことはあるでしょう。嫌いなんだが、理屈にあわない。理屈にあわないんだが、嫌いだからやらない。こういう所からぼくの個性が出てくるので、ゆるがせにはできない。理屈にあわなくともぼくはそれをやる。
映画の文法的技法を使わないことに対する小津の発言[105]

小津は他の監督と明確に異なる独自の作風を持つことで知られ、それは「小津調」と呼ばれた。映画批評家の佐藤忠男は「小津の映画を何本か見て、その演出の特徴を覚えた観客は、予備知識抜きでいきなり途中からフィルムを見せられても、それが小津安二郎の作品であるかをほぼ確実に当てることができるだろう」と述べている[106]。小津調の特徴的なスタイルとして、ロー・ポジションで撮影したこと、極力カメラを固定したこと、人物や小道具を相似形に配置したこと、小道具や人物の配置に特別な注意を払ったこと、ディゾルブ英語版フェードなどの文法的技法を排したことなどが挙げられる。そのほかにもアメリカ映画の影響を受けたことや、同じテーマ・同じスタッフとキャストを扱ったことなども、小津作品の特徴的な作風に挙げられる。

アメリカ映画の影響

[編集]
非常線の女』(1933年)はアメリカのギャング映画を彷彿とさせる作品である[107]

戦後の小津は伝統的な日本の家庭生活を描くことが多かったが、若き日の小津は舶来品の服装や持物を愛好するモダンボーイで、1930年代半ばまでは自身が傾倒するアメリカ映画(とくに小津が好んだエルンスト・ルビッチキング・ヴィダーウィリアム・A・ウェルマンの作品)の影響を強く受けた、ハイカラ趣味のあるモダンでスマートな作品を撮っている[107][108][109][110]。例えば、『非常線の女』(1933年)はギャング映画の影響が色濃く見られ、画面に写るものはダンスホールやボクシング、ビリヤード、洋式のアパートなどの西洋的なものばかりというバタ臭い作品だった[107][110]。また、『大学は出たけれど』(1929年)と『落第はしたけれど』(1930年)はハロルド・ロイド主演の喜劇映画、『結婚学入門』『淑女は何を忘れたか』はルビッチの都会的なソフィスティケイテッド・コメディからそれぞれ影響を受けている[53][86]。小津のアメリカ映画への傾倒ぶりは、初期作品に必ずと言っていいほどアメリカ映画の英語ポスターが登場することからもうかがえる[86][109]

戦前期の小津作品には、アメリカ映画を下敷きにしたものが多い。デビュー作である『懺悔の刃』のストーリーの大筋はジョージ・フィッツモーリス英語版監督の『キック・イン英語版』(1922年)を下敷きにしており、ほかにもフランス映画の『レ・ミゼラブルフランス語版』(1925年)と、ジョン・フォード監督の『豪雨の一夜英語版』(1923年)からも一部を借用している。また、『出来ごころ』はヴィダーの『チャンプ英語版』(1931年)、『浮草物語』はフィッツモーリスの『煩悩英語版』(1928年)、『戸田家の兄妹』はヘンリー・キング監督の『オーバー・ザ・ヒル英語版』(1931年)をそれぞれ下敷きにしている[86]

佐藤忠男は、小津がアメリカ映画から学び取った最大のものはソフィスティケーション、言い換えれば現実に存在する汚いものや野暮ったいものを注意深く取り去り、きれいでスマートなものだけを画面に残すというやり方だったと指摘している[111]。実際に小津は自分が気に入らないものや美しいと思われないものを、画面から徹底的に排除した[112]。例えば、終戦直後の作品でも焼け跡の風景や軍服を着た人物は登場せず、若者はいつも身ぎれいな恰好をしている[112]。小津自身も「私は画面を清潔な感じにしようと努める。なるほど汚いものを取り上げる必要のあることもあった。しかし、それと画面の清潔・不潔とは違うことである。現実を、その通りに取上げて、それで汚い物が汚らしく感じられることは好ましくない。映画では、それが美しく取上げられていなくてはならない」と述べている[113]

テーマ

[編集]

初期の小津作品には、昭和初期の不況を反映した社会的なテーマを持つ作品が存在する[53][114]。『大学は出たけれど』では不況による学生の就職難を描き、タイトルは当時の世相を表す言葉として定着した[115]。『落第はしたけれど』では大学を卒業して就職難になるよりも、落第した方が学生生活を楽しめて幸福だという風刺を利かしている[86][53]。『会社員生活』(1929年)と『東京の合唱』では失業したサラリーマンを主人公にして、その暗くて不安定な生活と悲哀をユーモラスの中に描いている[114][116]。こうした作品は不況下の小市民社会の生活感情をテーマにした「小市民映画」のひとつに位置付けられている[114][117]。小津のもうひとつの小市民映画『生れてはみたけれど』では、子供の視点から不景気時代のサラリーマンの卑屈さを辛辣に描き、そのジャンルの頂点に達する傑作と目されている[116][118]。『東京の宿』(1935年)や『大学よいとこ』『一人息子』(1936年)でも不景気による失業や就職難を扱い、内容はより暗くて深刻なものになった[53][119]

小津は生涯を通じ家族を題材にとり、親と子の関係や家族の解体などのテーマを描いた[120][121][122]。映画批評家の小倉真美は、小津を「一貫して親子の関係を追究してきた作家」と呼び[122]ドナルド・リチーは「主要なテーマとしては家庭の崩壊しか扱わなかった」と述べている[121]。家族の解体に関しては、娘の結婚による親子の別れや、母や父などの死がモチーフとなることが多い[94][121]。また、小津作品に登場する家族は構成員が欠けている場合が多く、誰かが欠けている家族が娘の結婚や肉親の死でさらに欠けていくさまが描かれている[86]。『晩春』以降はブルジョワ家庭を舞台に、父娘または母娘の関係や娘の結婚を繰り返し描き、遺作まで同じようなテーマとプロットを採用した[94][106][120][123]。同じテーマだけでなく同じスタイルにも固執したため、批評家からはしばしば「進歩がない」「いつも同じ」と批判されたが、これに対して小津は自身を「豆腐屋」に例え[106][124]、「豆腐屋にカレーだのとんかつ作れったって、うまいものが出来るはずがない[124]」「僕は豆腐屋だ。せいぜいガンモドキしか作れぬ。トンカツやビフテキはその専門の人々に任せる[125]」などと発言した。

製作方法

[編集]

脚本

[編集]

小津は自ら脚本作りに参加し、ほとんどの作品には共作者がいた。サイレント映画時代は原作者や潤色者として脚本作りに参加し、その際に「ジェームス・槇[注 1]」というペンネームを多用した[1]。この名前は小津とその共作者の池田忠雄伏見晁北村小松との共同ペンネームとして考案されたが、誰も使わなかったため小津専用の名前になり、11本の作品でクレジットされている[51][56]。他にも『突貫小僧』(1929年)で「野津忠二[注 7]」、『生れてはみたけれど』で「燻屋鯨兵衛」というペンネームを使い、さらに『東京の女』(1933年)の「エルンスト・シュワルツ」、『東京の宿』の「ウィンザァト・モネ」のように、原作者として冗談めかした外国人名を名乗ったこともあった[56][1][注 8]。当時の共同執筆について、池田忠雄は自分が下書きをし、小津がそれを手直しすることが多かったと述べている[127]。伏見晁によると、小津はシーンの構成から会話の細部に至るまで全面的に手を入れたため、伏見が書いた脚本でも完成時には小津のものに換骨奪胎されたという[56]

『晩春』からの全作品は野田高梧とともに脚本を書き、野田は小津の女房役ともいえる存在となった[128]。2人は旅館や別荘に籠もり、じっくりと時間をかけて脚本を書いた[37][94][129]。小津と野田はうまが合い、酒の量や寝起きの時間も同じで、セリフの言葉尻を「わ」にするか「よ」にするかまで意見が一致したため、コンビを組んで仕事をするにはとても都合が良かったという[37][51]。脚本作りではストーリーよりも登場人物を優先し、俳優の個性に基づいて配役を選び、それを念頭において登場人物の性格とセリフを作った[130]。映画評論家の貴田庄が「小津の脚本書きは、頭の中で映画を撮りながら書くことと等しかった」と述べたように、小津は頭の中でコンティニュイティを考えながら脚本を書いたため、やむを得ない状況を除いて脚本が変更されることはなかった[129]

撮影

[編集]
東京物語』(1953年)を撮影中の小津(最右の白いピケ帽を被った人物)と原節子

小津はロケーション・ハンティングを入念に行い、撮影する場所を厳密に定めた[131]。屋外シーンのほとんどはロケーションだが、オープンセットを使うことは滅多になく、室内シーンをはじめ飲み屋街や宿屋のシーンなどもスタジオ内のステージセットで撮影した[132]。撮影にあたっては、1ショットごとにイメージ通りの映像になるよう、自分でカメラのファインダーを覗きながら、画面上の人物や小道具の位置をミリ単位で決めた[131][133]。スタッフに位置を指示する時は、「大船へ10センチ」「もう少し鎌倉寄り」というように、大船撮影所近くの地名や駅名を用いて方角を伝えた[134]

佐藤が小津のことを「構図至上主義者」と呼んだように、小津は何よりも1つ1つのショットの構図の美しさを重視し、小道具の位置だけでなく形や色に至るまで細心の注意を払った[135][136]。助監督を務めた篠田正浩によると、畳のへりの黒い線が、画面の中を広く交錯しているように見えて目障りだとして、線を消すためだけに誰も使わない座布団を置いたという[137]。それぞれのショットの構図を優先するため、同じシーンでもショットが変わるたびに俳優や小道具の位置を変えてしまうこともあった[135][138]。これではショット間のつながりがなくなってしまうが、篠田がそれを小津に指摘すると「みんな、そんなことに気付くもんか」と言い、篠田も試写を見ると違和感がなかったという[139]

画面上の小道具や衣装は小津自身が選び、自宅にある私物を持ち込むこともあった[86][131][140]。茶碗や花器などの美術品は、美術商から取り寄せた本物を使用し、カラー作品では有名画家の実物の絵画を使用した[98][141][142]。例えば、『秋日和』では梅原龍三郎の薔薇の絵、山口蓬春の椿の絵、高山辰雄の風景画、橋本明治の武神像図、東山魁夷の風景画を背景に飾っている[142]。本物を使うことに関して小津は「床の間の軸や置きものが、筋の通った品物だと、いわゆる小道具のマガイ物を持ち出したのと第一私の気持が変って来る…人間の眼はごまかせてもキャメラの眼はごまかせない。ホンモノはよく写るものである」と述べている[37]。また、赤を好む小津は、画面の中に赤色の小道具を入れることが多く、カラー作品では赤色のやかんがよく写っていることが指摘されている[143]

演技指導

[編集]

小津は俳優の動きや視線、テンポに至るまで、演技のすべてが自分のイメージした通りになることを求めた[144]。小津は自ら身振り手振りをしたり、セリフの口調やイントネーション、間のとり方までを実際に演じてみせたりして、俳優に厳密に演技を指導したが、笠智衆は小津が「ヒッチコックのように自分の作品に出演したら、大変な名演技だったろう」と述べている[145]。演技の指示は「そこで三歩歩いて止まる[131]」「紅茶をスプーンで2回半かき回して顔を左の方へ動かす[146]」「手に持ったお盆の位置を右に2センチ、上に5センチ高くして[140]」という具合に細かく、俳優はその指示通りに動いたため[131]、飯田蝶子は「役者は操り人形みたいなもの」だったと述べている[147]

構図を重要視した小津は、演技も構図にはまるようなものを求めた[145]。『長屋紳士録』で易者を演じた笠智衆によると、机の上の手相図に筆で書き込むというシーンで、普通に筆を使うと頭が下がってしまうが、小津は頭が動くことで構図が崩れてしまうのを避けるため、頭の位置を動かさずに演じるよう指示し、笠が「そりゃちょっと不自然じゃないですか」と抗議したところ、小津は「君の演技より映画の構図のほうが大事なんだよ」と言い放ったという[145][148]

小津は自分がイメージした通りになるまで、俳優に何度も演技をやり直させ、1つのアクションでOKが出るまでに何十回もテストを重ねることもあった[140][144]淡島千景は『麦秋』で原節子と会話するシーンにおいて、原と同じタイミングでコップを置いてからセリフを発し、原の方を向くという演技が上手くいかず、小津に「目が早いよ」「手が遅いよ」「首が行き過ぎだよ」と言われてNGを出し続け、20数回までは数えたが、その後は数え切れなくてやめたほどだったという[149]岩下志麻は『秋刀魚の味』で巻尺を手で回すシーンにおいて、巻尺を右に何回か回してから瞬きをして、次に左に何回か回してため息をつくという細かい注文が出されたが、何度やってもOKが出ず、小津に「もう一回」「もう一回」と言われ続け、80回ぐらいまでNGを数えたという[150]

笠智衆は「小津組では自分じゃ何をやっているのかちっとも分からなかったですけど、小津先生の言われるままに(笑)。他力本願っていうのか、みんな監督のいう通りです。科白の上げ下げから、動きまで全部。僕だけじゃなく、全員そうですから。撮影の前に全員集められて、科白の稽古するんです。ホンに高低を書き込んで、音符みたいに覚えるわけです。その通り言わないとOKにならないから、もう必死で(笑)。総て監督中心でねえ、大道具、小道具からカメラの位置、衣装と、全部監督が決めちゃうんです。俳優も道具としか見てなかったんじゃないですねえ。説明は何もないです。この科白や動きが何のためにあるのか、こっちは分からない(笑)。言われた通りやるしかないです。小津組に慣れない俳優さんがね、『先生、ここはどういう気持ちでしょうか』って尋ねるとね、『気持ちなし』って(笑)。言われた通りやりゃいいんだってことですね。役作りなんてそんなものは無いです」などと述べている[151]

それは小津組以外との撮影では摩擦を生むこともあった。宝塚映像(東宝)で制作された『小早川家の秋』では、「小刻みに数秒のカットを重ね、表情も動作もできる限り削り取ろうとする小津の手法に森繁久彌山茶花究が悲鳴を上げた。森繁は自分が絵具にされたように感じたという。「ねえ、絵描きさん、ところであなたなにを描いているんです」そう聞いて見たい気分にさせられた。一夜、二人は小津の宿を訪ね、思う様のことをいった。「松竹の下手な俳優では、五秒のカットをもたすのが精一杯でしょう。でも、ここは東宝なんです。二分でも三分でも立派にもたせて見せます」(高橋治・作家)[152]」という。

小津組

[編集]
『東京物語』に主演した原節子笠智衆は、小津作品の常連俳優として知られる。

小津は同じスタッフやキャストと仕事をすることが多く、彼らは「小津組」と呼ばれた[128]。小津組の主な人物と参加本数は以下の通りである(スタッフは3本以上、キャストは5本以上の参加者のみ記述)[153]

映像スタイル

[編集]

ロー・ポジション

[編集]

小津のよく知られた映像手法として、カメラを低い位置に据えて撮影する「ロー・ポジション」が挙げられる[155][156][157]。ロー・ポジションの意味については、「畳に座ったときの目の高さ」「子供から見た視線」「客席から舞台を見上げる視点」など諸説ある[158]。小津自身は日本間の構図に安定感を求めた結果、ロー・ポジションを採用したと述べている[159][158]。厚田雄春は、標準のカメラ位置で日本間を撮影すると、畳のへりが目について映像が締まりにくくなるため、それが目立たないようロー・ポジションを用いたと述べている[155][158]。小津が初めてカメラ位置を低くしたのは『肉体美』(1928年)で、その理由はセット撮影で床の上が電気コードだらけになり、いちいち片付けたり、映らないようにしたりする手間を省こうとしたためで、床が映らないようカメラ位置を低くするとその構図に手応えを感じ、それからはカメラの位置が段々低くなったという[37]。ロー・ポジションで撮影するときは、「お釜の蓋」と名付けた特製の低い三脚を使用し、柱や障子などの縦の直線が歪むのを避けるために50ミリレンズを使用した[37][160]

小津が「ロー・アングルを使用した」と言われることもあるが、ロー・アングルはカメラの位置ではなくアングルについて定義する言葉であり、その言葉の曖昧な使用がそのまま普及したものである[156]。映画批評家のデヴィッド・ボードウェルは、「小津のカメラが低く見えるのはそのアングルのためではなく、その位置のためである」と指摘している[161]。ロー・アングルはカメラアングルを仰角にして、低い視点から見上げるようにして撮影することを意味するが、小津作品ではカメラアングルを数度だけ上に傾けることはあっても、ほとんど水平を保っている[156][157][161]。また、カメラ位置は特定の高さに固定したわけではなく、撮影対象に合わせて高さを変え、その高さに関わらず水平のアングルに構えた[156][157][161]。例えば、日本間ではちゃぶ台の少し上の高さにカメラを置いたが、テーブルや事務机のシーンではカメラをその高さに上げている[156]。ボードウェルは「小津のカメラ位置は絶対的なものではなく相対的なものであり、常に撮影する対象よりも低いが、対象の高さとの関係で変化する」と指摘している[161]

移動撮影

[編集]
『晩春』で原節子たちがサイクリングをするシーンでは、移動撮影とパンが用いられている[162]

小津は移動撮影をほとんど使わず、できるだけカメラを固定して撮影した[163][164]。晩年に小津は移動撮影を「一種のごまかしの術で、映画の公式的な技術ではない」と否定したが[105]、初期作品では積極的に使用しており、『生れてはみたけれど』では43回も使われている[163]。やがて表現上の必然性がある場合を除くと使うのをやめ、とくに表面的な効果を出したり、映画的話法として使用したりすることはほとんどなくなり、トーキー作品以後は1本あたりの使用回数が大きく減った[163]。現存作品の中では『父ありき』と『東京暮色』とカラー時代の全作品において、全てのシーンが固定カメラで撮影されている[165]。また、パンの使用もごく数本に限定されている[166]

後年の小津作品における移動撮影は、カメラを動かしてもショット内の構図が変化しないように撮られている[162][167]。例えば、屋外で2人の人物が会話をしながら歩くシーンでは、移動しても背景が変化しない場所(長い塀や並木道など)を選んで、他の通行人を画面に登場させないようにし、人物が歩くのと同じスピードでカメラを移動させた[162][167]。貴田はこうした移動撮影が「静止したショットのように見える」と述べている[167]。『麦秋』で原節子と三宅邦子が並んで話しながら砂丘を歩くシーンでは、小津作品で唯一のクレーン撮影が行われているが、これも砂丘の高い方から低い方へ歩いて行くときに、構図が変化しないようにするために用いられている[166][168]

180度ルール破り

[編集]
図1:会話シーンにおけるイマジナリー・ラインとカメラ位置。180度ルールでは「A→B」の位置で撮影するが、小津は「A→C」の位置で撮影した。

2人の人物が向かい合って会話するシーンを撮影するときには、「180度ルール英語版」という文法的規則が存在する[169]。180度ルールでは図1に示すように、人物甲と乙の目を結ぶイマジナリー・ライン(想定線やアクション軸とも)を引き、それを跨がないようにして線の片側、すなわち180度の範囲内にだけカメラを置き(カメラ位置AとB)、カメラ位置Aで甲を右斜め前から撮り、次にカメラを切り返して、カメラ位置Bで乙を左斜め前から撮影する。そうすることで「A→B」のように甲は右、乙は左を向くことになるため、甲と乙の視線の方向が一致し、2人が向かい合って会話しているように見えた[169][170][171]

しかし、小津はこの文法的規則に従わず、イマジナリー・ラインを跨ぐようにしてカメラを置いた(カメラ位置AとC)。すなわち甲をカメラ位置Aで右斜め前から撮影したあと、線を越えたカメラ位置Cで乙を右斜め前から撮影した。そうすると「A→C」のように甲も乙も同じ右を向くことになるため、視線の方向が一致しなかった[172][173]。この文法破りは日本間での撮影による制約から生まれたもので、日本間では人物の座る位置とカメラの動く範囲が限られてしまうが、その上で180度ルールに従えば、自分の狙う感情や雰囲気を自由に表現できなくなってしまうからだった[172]。小津はこれを「明らかに違法」と認識しているが、ロングショットで人物の位置関係を示してさえおけば、あとはどんな角度から撮っても問題はないと主張し、「そういう文法論はこじつけ臭い気がするし、それにとらわれていては窮屈すぎる。もっと、のびのびと映画は演出すべきもの」だと述べている[173]。小津によると、『一人息子』の試写後にこの違法について他の監督たちに意見を聞いたところ、稲垣浩は「おかしいが初めの内だけであとは気にならない」と述べたという[172]。また、小津はカメラを人物の真正面の位置に据え、会話する2人の人物を真正面の構図から撮影することも多かった[170][171]

相似形の構図

[編集]
『東京物語』では、笠智衆と東山千栄子演じる老夫婦が、同じ方向を向いて、同じ姿勢で並んで座る相似形の構図が登場する[174]

小津作品のショットには、人物や物が相似形に並んでいる構図が多用されている[174][175]。相似形の構図とは、大きさは異なっていても、形の同じものが繰り返されている構図のことをいい、貴田によると、その画面は「きわめて整然とした、幾何学的な印象を与える」という[176]。相似形の構図の例は『浮草』のファースト・ショットで、画面奥にある白い灯台と、画面手前にあるビンが相似形に並べられている[177]。佐藤は同じ画面内に2人の人物がいるシーンにおいて、人物同士が同じ方向を向いて並行して座っていることが多いことを指摘している[178]。小津の相似形への好みは、登場人物の行為にまで及び、しばしば同じ動作を反復するシーンが見られる[179][180]。『父ありき』で父子が渓流で釣りをするシーンでは、父と息子が同じ姿勢で相似形に並んでいるが、2人は同じタイミングで釣竿を上げ、投げ入れるという動作をしている[174][179]

映画評論家の千葉伸夫は、小津が相似形の人物配置を好んだ理由について、「二人の人物の間には一見、対立がないように見えるが、実は微妙なズレがあり、そんな二人の内面を引き出すため」であると指摘している[174]。一方、佐藤によると、相似形の人物配置は「対立や葛藤を排して、二人以上の人物が一体感で結ばれている調和の世界への願望の表明」であるという[181]。また、相似形の構図は、登場人物が別の動作をすることなどにより崩れるときがあるが[174]、貴田は人物の演技において相似形が崩れると、「おかしさが強調され、ギャグなどに変わる」と指摘している[176]

ショット繋ぎ

[編集]
『晩春』におけるカーテン・ショット。

小津はショットを繋ぐ技法である「ディゾルブ英語版(オーバーラップとも)」と「フェード」をほとんど使わなかった[94][182][183]。ディゾルブはある画面が消えかかると同時に次の画面が重なって出てくる技法で、フェードは画面がだんだん暗くなったり(フェード・アウト)、反対に明るくなったり(フェード・イン)する技法である[184]。どちらも場面転換をしたり、時間経過を表現したりするための古典的な映画技法として用いられた[182]。しかし、小津はこうした技法を「ひとつのゴカマシ」とみなし[155]、「カメラの属性に過ぎない」として否定した[51]

ディゾルブはごく初期に例外的にしか使っておらず、小津自身は『会社員生活』で使用してみて「便利ではあるがつまらんものだ[51]」と思い、それ以降はごく僅かな使用を除くと、まったくといっていいほど使用しなかった[183]。佐藤によると、小津は画面の秩序感を整えることに固執していたが、ディゾルブを使えばそれを処理している僅かな時間により、厳密な構図の秩序感が失われてしまうため、それを避ける目的でディゾルブを使用しなかったという[185]。一方、フェードはディゾルブほど厳密に排除せず、比較的後年まで用いられた[183][185]。小津は『生れてはみたけれど』から意識的に使わなくなったと述べているが[51]、その後もファースト・ショットとラスト・ショットを前後のタイトル部分と区切るためだけに使用した。しかし、カラー作品以後はそれさえも使わなくなり、すべて普通のカットだけで繋いだ[183]

小津はディゾルブやフェードの代わりに、場面転換や時間経過を表現する方法として「カーテン・ショット」と呼ばれるものを挿入した[182]。カーテン・ショットは風景や静物などの無人のショットから成り、作品のオープニングやエンディング、またはあるシーンから次のシーンに移行するときに挿入されている[166][182]。カーテン・ショットの命名者は南部圭之助で、舞台のドロップ・カーテンに似ていることからそう呼んだ[186]。他にも「空ショット(エンプティ・ショット)」と呼ばれたり、枕詞の機能を持つことから「ピロー・ショット」と呼ばれたりもしている[166][187]

同じ役名・役柄

[編集]

小津作品は前述のように同じテーマやスタイルを採用したが、同じ役名も繰り返し登場している[188]。例えば、坂本武は『出来ごころ』『浮草物語』『箱入娘』『東京の宿』『長屋紳士録』で「喜八」を演じており、『長屋紳士録』以外の4本は喜八を主人公にした人情ものであることから「喜八もの」と呼ばれている[189]。この喜八ものでは、飯田蝶子が『出来ごころ』以外の3本で「おつね」役を演じた。笠智衆は『晩春』『東京物語』『東京暮色』『彼岸花』『秋日和』の5本で「周吉」役、『父ありき』『秋刀魚の味』の2本で「周平」役を演じた[188]。原節子も『晩春』『麦秋』『東京物語』で「紀子」役を演じており、この3本は「紀子三部作」とも呼ばれている[86]。他にも年配女性に「志げ」、長男に「康一」「幸一」、小さな子供に「実」「勇」、若い女性に「アヤ」という役名が頻出し、苗字では「平山」がよく登場した[188]。また、同じ俳優が同じ役柄を演じることも多い。例えば、笠智衆は父親役、三宅邦子は妻役、桜むつ子水商売の女性役を何度も演じた。『彼岸花』『秋日和』『秋刀魚の味』の3本では、中村伸郎北竜二が主人公の友人役、高橋とよが料亭若松の女将役を演じた[128]

音楽

[編集]

小津作品の音楽は、普通の作品とは異なる特色を持ち、小津調の音楽と呼ばれている[190][191]。その特色は音楽を登場人物の感情移入の道具として使用したり、劇的な効果を出したりするために使ったりするのを避けたことと、深刻なシーンに明るい音楽を流したことである[190][94]。小津は「場面が悲劇だからと悲しいメロディ、喜劇だからとて滑稽な曲、という選曲はイヤだ。音楽で二重にどぎつくなる」と述べている[37]。こうした特色は作曲家の斎藤高順とコンビを組んだ『早春』以降の作品に見られる[190]。『早春』の主人公が病床の友人を見舞うシーンでは、内容が深刻で暗いことから、小津が好きな「サ・セ・パリ」「バレンシア」のような明るい曲を流そうと提案し、斎藤が明るい旋律の曲「サセレシア」を作曲した。小津はこの曲を気に入り、『東京暮色』『彼岸花』でも使用した[190][191]。小津はその後いつも同じような曲を注文し、斎藤は「サセレシア」を少しアレンジした曲や、ポルカ調の曲を作曲した[190]。その他の音楽の特徴として、一定不変のテンポとリズム、旋律の繰り返し、弦楽器を中心としたさわやかなメロディが指摘されている[190][191]

人物

[編集]
1948年頃の小津安二郎。
小津と野田高梧

人柄

[編集]

小津はユーモラスな人物で、冗談や皮肉を交えてしゃべることが多く、厚田雄春はそんな小津を「道化の精神」と呼んだ[192][193][194]人見知りをする性格で[195]、とくに女性に対してはシャイであり、そのために生涯独身を貫いたとも言われている[196]。そんな小津は母を愛していたが、恥ずかしがり屋だったため、人前ではわざと母をそんざいに扱っているような態度をとり、「ばばぁは僕が飼育してるんですよ」などと冗談を言ったという[84][192]

趣味・嗜好

[編集]

小津は大の好きとして知られた[192]。野田と脚本を書くため長野県蓼科高原の別荘に滞在したときは、毎日のように朝から何合もの酒を飲みながら仕事をした[93][197]。野田によると、1つの脚本を書き終わるまでに100本近くの一升瓶を空けたこともあり、小津はその空き瓶に1、2、3…と番号を書き込んでいたという[84]。撮影現場でも、夕方になると「これからはミルク(酒)の時間だよ」と言って仕事を切り上げ、当時は当たり前だった残業をほとんどすることなく、酒盛りを始めたという[141][198]

小津は映画のシナリオ執筆の参考を兼ね、食文化に精通していた。特に鰻が好きで大晦日は映画関係者を連れて南千住の鰻屋の名店「尾花」で年越し鰻を食べていた[199][200]。一般的に大晦日は細く長く生きることを祈願して年越し蕎麦を食べることが多いが、小津は太く長い方がいいという独自の考えから鰻を選んでいた[200]豚カツも大好物であり、『一人息子』『お茶漬の味』『秋日和』などの映画にも、豚カツにまつわる場面や台詞が登場している[201]。特に遺作『秋刀魚の味』では、小津が常連であった蓬莱屋を模したセットで、登場人物が実際に蓬莱屋のカツを食べる場面を撮影するほどであった[202]

趣味としてはスポーツを好み、中学時代は柔道部に所属し[203]、若い頃はボクシングスキーに打ち込んだが[44][204]、生涯を通して最も熱を入れていたのは野球相撲だった[203][205]。野球は阪神タイガースのファンで、観戦するのも自分でやるのも好きだった[205]。小津の野球好きは、小津組のスタッフに野球の強い人を好んで入れるほどで、自身も松竹大船の野球チームに所属した[141][205]。相撲は吉葉山のファンで、撮影が大相撲の場所と重なると、ラジオ中継が始まる時間に合わせて切り上げたという[141][205]

写真を撮るのも好きで、その趣味は生涯続いた[206][207]。小津のカメラ歴は中学時代に始まり、その頃に流行したコダック社の小型カメラのベス単で撮影を楽しんだ[208]。1930年代初頭には高級品だったライカを手に入れ、自ら現像を行ったり、写真引き伸ばし機を購入したりするなど、ますます写真撮影に凝った[159][208]。1934年には写真誌『月刊ライカ』に2度も写真が掲載された[209]。日中戦争に応召されたときは、報道要員ではないにもかかわらず、著名な監督だということで特別にライカの携行を認められ、戦地で4000枚近くの写真を撮影した[208]。そのうち8枚は1941年に雑誌『寫眞文化』で「小津安二郎・戦線寫眞集」として特集掲載されたが、それ以外は1952年の松竹大船撮影所の火事で焼失した[88][208][209]

子供の頃から絵を描くことも好きで、とてもうまかったという[204][210]。小学校高学年の頃には当時の担任曰く「大人が舌を巻くほどの才能」があり、中学時代にはアートディレクターを志したこともあった[18][20]。小津の絵の趣味は亡くなるまで続いたが、映画監督としてのキャリアの傍らでグラフィックデザイナーとしての一面を見せている[204][210]。例えば、日本映画監督協会のロゴマークをデザインしたり、交友のある映画批評家の筈見恒夫岸松雄の著作や『山中貞雄シナリオ集』(1940年)などの装丁を手がけたりした[210]。また、達筆だった小津は『溝口健二作品シナリオ集』(1937年)の題字や、京都の大雄寺にある山中貞雄碑の揮毫を手がけている[211]。戦後の監督作品では、映画の中の小道具や看板のデザインを自ら手がけている[210]。自作の題字やクレジット文字も自分で書き、カラー映画になると白抜き文字に赤や黒の文字を無作為に散りばめるなど、独自のデザイン感覚を発揮している[210][211]

里見弴との関係

[編集]

小津は中学時代から里見弴の小説を愛読していて、『戸田家の兄妹』では里見の小説から細部を拝借している[212]。小津と里見は『戸田家の兄妹』の試写会後の座談会で初対面し、小津は里見の演出技術に関する的確な批評に敬服した[212][213]。『晩春』でも試写を見た里見からラストシーンについてアドバイスをもらい、この作品以降は里見に脚本を送って意見を求めるようになった[86][212]。1952年に小津が北鎌倉に移住すると、近所に住んでいた里見との親交が深まり、お互いの家を訪ねたり、野田と3人でグルメ旅行をしたりするほどの仲となった[5][213]。里見は小津を「私の生涯における数少ない心友のうちのひとり」と呼んでいる[213]。晩年は里見とともに仕事をすることも多くなった。『彼岸花』『秋日和』では里見とストーリーを練り、里見が原作を書きながら、それと並行して小津と野田が脚本を書くという共同作業をとった[86]。1963年にはNHKのテレビドラマ『青春放課後』の脚本を里見と共同執筆した[101]。また、里見の四男である山内静夫は、『早春』以降の松竹の小津作品でプロデューサーを務め、小津は山内とも私生活での付き合いを深めた[93]

評価・影響

[編集]
ヴィム・ヴェンダースは、小津の影響を受けた監督として知られる。

小津は1930年代から日本映画を代表する監督のひとりとして認められ、多くの作品が高評価を受けた[60][214][215]キネマ旬報ベスト・テンでは20本の作品が10位以内に選出され、そのうち6本が1位になった[216]。戦後になると、小津と同年代の批評家は、小津調による様式美と保守的なモラルのために高い評価を下したが、若い批評家や監督からは「テンポが遅くて退屈」「現実社会から目を背けている」「ブルジョワ趣味に迎合している」「映画の特質である動的な魅力に乏しい」などと批判されることもあった[215][217]岩崎昶は1950年代後半の小津を巡る批評の状況について、「40代、50代が小津を神様として祭壇に祭り上げ、どんな失敗作も礼賛するのに対し、若い批評家たちは小津を酷評する競争をしているように見える」として、その世代的な落差を指摘している[218]

松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手であった吉田喜重もその「若い世代」の一人で、ある雑誌で『小早川家の秋』を「若い人間像がたいへんいやらしく、うそですね」「年寄が厚化粧して踊ってるといういやらしい部分がある」「芸術というよりも芸」などと評した[219]。すると小津は1963年の松竹監督新年会の席上で、末席にいた吉田に無言で酒を注ぐことでこれに反論し、しまいに「しょせん映画監督は橋の下で菰をかぶり、客を引く女郎だよ」「君なんかに俺の映画が分かってたまるか」と声を荒げた[101][220]。これは小津が若い世代に感情を露にした珍しい出来事だった[101]

1950年代前半から海外で日本映画が注目され、とくに黒澤明溝口健二の作品が海外の映画祭で高評価を受けるようになったが、小津作品は日本的で外国人には理解されないだろうと思われていたため、なかなか海外で紹介されることがなかった[89]。小津作品が最初に海外で評価されたのは、1958年にイギリスロンドン映画祭で『東京物語』が上映されたときで、映画批評家のリンゼイ・アンダーソンらの称賛を受け、最も独創的で創造性に富んだ作品に贈られるサザーランド杯を受賞した[221]。その後アメリカやヨーロッパでも作品が上映されるようになり、海外での小津作品の評価も高まった[72][215]。なかでも『東京物語』は、2012年英国映画協会の映画雑誌サイト・アンド・サウンド英語版が発表した「史上最高の映画トップ100英語版」で、監督投票部門の1位に選ばれた[222]

国内外の多くの映画監督が小津に敬意を表し、その影響を受けている。ヴィム・ヴェンダースは小津を「私の師匠」と呼び、『ベルリン・天使の詩』(1987年)のエンディングに「全てのかつての天使、特に安二郎、フランソワアンドレイに捧ぐ」という一文を挿入した[223][224]。さらにヴェンダースは日本で撮影したドキュメンタリー『東京画』(1985年)で小津作品をオマージュした[225]。小津の生誕100周年にあたる2003年には、ホウ・シャオシェンが『珈琲時光』、アッバス・キアロスタミが『5 five 小津安二郎に捧げる英語版』をそれぞれ小津に捧げる形で発表した[226]周防正行は監督デビュー作であるピンク映画変態家族 兄貴の嫁さん』(1984年)で小津作品を模倣した[227]ジム・ジャームッシュは『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(1984年)で小津作品の題名から取った名前の競走馬を登場させている[228]。ほかにもアキ・カウリスマキ[229]クレール・ドゥニ[230]エリア・スレイマン[231]黒沢清[232]青山真治[233]などが小津の影響を受けている。

作品

[編集]

監督作品

[編集]

小津の監督作品は54本存在するが、そのうち17本のサイレント映画のフィルムが現存していない。以下の作品一覧は『小津安二郎全集』上下巻と『小津安二郎 大全』の「小津安二郎 全作品ディテール小事典」を出典とする。

凡例

×印はフィルムが現存しない作品(失われた映画
△印はフィルムの一部だけが現存する作品
□印はサウンド版作品
◎印はカラー作品

サイレント映画
トーキー映画

その他の作品

[編集]
映画
テレビドラマ
ラジオドラマ
舞台

受賞歴

[編集]

映画賞

[編集]
部門 作品 結果 出典
キネマ旬報ベスト・テン 1932年 日本映画ベスト・テン 大人の見る繪本 生れてはみたけれど 1位 [235]
1933年 日本映画ベスト・テン 出来ごころ 1位 [236]
1934年 日本映画ベスト・テン 浮草物語 1位 [237]
1941年 日本映画ベスト・テン 戸田家の兄妹 1位 [238]
1949年 日本映画ベスト・テン 晩春 1位 [239]
1951年 日本映画ベスト・テン 麦秋 1位 [240]
毎日映画コンクール 1949年 日本映画大賞 『晩春』 受賞 [241]
監督賞 受賞
脚本賞 受賞
1951年 日本映画大賞 『麦秋』 受賞 [5]
1963年 特別賞 - 受賞 [242]
ブルーリボン賞 1951年 作品賞 『麦秋』 受賞 [243]
監督賞 受賞
1963年 日本映画文化賞 - 受賞 [244]
サザーランド杯 1958年 - 東京物語 受賞 [5]
映画の日」特別功労章 1959年 - - 受賞 [245]
溝口 1960年 - 彼岸花 受賞 [246]
アジア映画祭 1961年 監督賞 秋日和 受賞 [247]
NHK映画賞 1963年 特別賞 - 受賞 [5]

その他の賞・栄典

[編集]

ドキュメンタリー作品

[編集]

シナリオ・日記・発言集

[編集]

記念施設・資料館

[編集]
小津の別荘だった無藝荘。

小津が晩年に使用した長野県蓼科の別荘「無藝荘」は、2003年に小津の生誕100年を記念して茅野市によりプール平に移築され、小津安二郎記念館として一般に公開されている[251]。茅野市では、1998年から「小津安二郎記念蓼科高原映画祭」が開催され、小津作品の上映を中心にシンポジウムや短編映画コンクールなどが行われている[252]

小津が青春時代を過ごした三重県松阪市では、2002年に「小津安二郎青春館」が開館したが、2020年末に閉館した[253]。それに代わる顕彰拠点として、翌2021年に松阪市立歴史民俗資料館内に「小津安二郎松阪記念館」が開館し、青春時代の手紙や日記、監督作品の台本などが展示されている[254]

小津の生地である東京都江東区では、古石場文化センター内に「小津安二郎紹介展示コーナー」が設けられている[7]

展覧会・記念展

[編集]

小津安二郎に関する展示は小津の遺品を所蔵する鎌倉文学館ほかで開催されている。1986年6月に鎌倉文学館で「特別展小津安二郎展―人と仕事」を開催した。愛用品やシナリオ等約300点が展示された[255]。1990年に小津の遺族から遺品の寄託を受けた[256]鎌倉文学館は生誕100周年にあたる2003年4月25日から6月29日にも「小津安二郎 未来へ語りかけるものたち」を開催している[257][258]

1998年12月から1999年1月31日まで、東京大学総合研究博物館で「デジタル小津安二郎展」が開催された[259]。この展示は厚田雄春の遺品が東京大学総合文化研究科に寄贈されたことを受けて企画された[260]。展示にあたり「東京物語」のデジタル修復を実施した[261]。展覧会の図録『デジタル小津安二郎 キャメラマン厚田雄春の眼』で展示の様子を見ることができる[262]

小津が1946年から約5年間住んでいた千葉県野田市の野田市郷土博物館では、2004年10月16日から11月14日まで「小津安二郎監督と野田」展示を行った[263]。展示図録では野田での写真等を見ることができるほか、小津の日記をもとに「野田での小津日和」の記事がある[264]

小津生誕120周年・没後60年の2023年には、神奈川近代文学館で「小津安二郎展」を開催した[265]。会期は2023年4月1日から5月28日[266]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ a b ヂェームス・槇、ゼェームス・槇、ゼームス・槇などの表記もある[1]
  2. ^ 小津与右衛門家の初代新兵衛(1673年 - 1733年)は、同じ松阪出身の小津清左衛門家が江戸で営む紙問屋「小津屋」(現在の小津商店)の支配人をしていたが、1716年に退役すると清左衛門家から小津姓を与えられ、別家として松阪中町に住んだ[10][11][12]。新兵衛は紀州湯浅村出身の岩崎家と共同で干鰯問屋「湯浅屋」を経営したが、やがて岩崎家が経営から撤退すると、新兵衛が店を譲り受けた[10][12]。新兵衛家は三代目当主から与右衛門を名乗り、松阪の阪内川近くに地元民から「土手新」と呼ばれた立派な本宅を構えた[10][12][13]。小津の大叔父にあたる六代目与右衛門は紀行家の小津久足で、そのほか与右衛門家からは英文学者の小津次郎阪神タイガース球団社長の小津正次郎などの著名人が出ている[8][13]
  3. ^ 映画批評家の佐藤忠男によると、男女の交際が厳しく禁じられていた戦前の中学生の社会では、異性に手紙を書く代わりに、年下の同性に友情の手紙を書くという習慣が一部で伝統的に存在し、それは今日のホモ・セクシュアルほど深刻なものではないという[22]
  4. ^ 茂原のトーキー方式は「SMS(スーパー・モハラ・サウンド)」と呼ばれ、『一人息子』での成果が認められてからは、松竹傘下の新興キネマ京都撮影所で使用された[65]
  5. ^ 1952年(昭和27年)3月に、画家小倉遊亀の持ち家だった家を新居と決め、5月2日に転居した。鎌倉市山ノ内1445番地。浄智寺参道の脇道の左手に小さな隧道があり、それをくぐった奥の谷戸に小倉遊亀邸があり、その門前を更に左に昇ったところにあった[87]
  6. ^ とくに大映は日活の製作再開を脅威に感じていたため、『月は上りぬ』の映画化に最も強く反発した。田中は当時借金を抱えており、その返済のために大映と本数契約を結んでいたが、大映はこれをタテにして、彼女の日活映画での監督・出演を阻止しようとした[92]。さらに監督協会理事長の溝口健二も田中の監督に反対したが、小津はこの問題処理に奔走し、最終的に溝口をのぞく監督協会の各社代表は田中を擁護し、9月8日に田中監督を応援する旨の声明を出した[90][92]
  7. ^ 野津忠二は、小津と野田高梧、池田忠雄、大久保忠素の名前を合成したペンネームで、ドイツの輸入ビールを飲みたさに、原作料をせしめるために名乗ったという[56]
  8. ^ エルンスト・シュワルツは、エルンスト・ルビッチとドイツの監督ハンス・シュワルツドイツ語版の名前を合成したペンネームである[126]。ウィンザァト・モネは、池田と荒田正男との合作名で、無一文を意味する英語「Without Money」のもじりである[86]
  9. ^ クレジット上では25本だが、大部屋時代のノンクレジット出演も含めると、『懺悔の刃』と『淑女は何を忘れたか』以外のほぼ全作品に出演しているという[128][154]

出典

[編集]
  1. ^ a b c 貴田 1999, pp. 51–54.
  2. ^ 田中 2003, p. 8.
  3. ^ 「麦秋のころの健康診断 小津安二郎氏」(『毎日グラフ』1951年8月10日号)。戦後語録集成 1989, pp. 98–101に所収
  4. ^ https://program.bayfm.co.jp/bsf/program/2023/05/21/housoukouki230521/
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag 「小津安二郎年譜」(全集(下) 2003, pp. 633–644)
  6. ^ a b c 千葉 2003, p. 16.
  7. ^ a b 小津安二郎紹介展示コーナー”. 古石場文化センター. 公益財団法人 江東区文化コミュニティ財団. 2021年2月21日閲覧。
  8. ^ a b c d e 松浦莞二「家庭を描いた男の家庭」(大全 2019, pp. 154–158)
  9. ^ a b 佐藤 2000, pp. 127–128.
  10. ^ a b c 千葉 2003, p. 15.
  11. ^ a b 支配人と仕分金”. 小津330年のあゆみ. 2021年2月12日閲覧。
  12. ^ a b c 小津ハマさん作成年譜(小津監督の人と仕事)”. 全国小津安二郎ネットワーク. 2021年2月21日閲覧。
  13. ^ a b 中村 2000, pp. 12–13.
  14. ^ 千葉 2003, p. 20.
  15. ^ 伝記 2019, p. 175.
  16. ^ a b 中村 2000, pp. 15–17.
  17. ^ 伝記 2019, p. 178.
  18. ^ a b 伝記 2019, p. 180.
  19. ^ a b 伝記 2019, p. 184.
  20. ^ a b c 「小津安二郎・筈見恒夫対談」(『映画の友』1955年9月号)。戦後語録集成 1989, pp. 238–244に所収
  21. ^ 小津安二郎「僕は映画の豆監督」(『私の少年時代』1953年3月)。戦後語録集成 1989, pp. 166–167に所収
  22. ^ 佐藤 2000, pp. 130–131.
  23. ^ a b c 伝記 2019, p. 185.
  24. ^ 中村 2000, p. 88.
  25. ^ 佐藤 2000, pp. 132–133.
  26. ^ 伝記 2019, p. 186.
  27. ^ 千葉 2003, p. 36.
  28. ^ 千葉 2003, p. 37.
  29. ^ 佐藤 2000, p. 134.
  30. ^ 伝記 2019, p. 187.
  31. ^ 中村 2000, p. 170.
  32. ^ a b 中村 2000, pp. 176–178.
  33. ^ a b c d e f g h 「年譜」(蓮實 2003, pp. 319–338)
  34. ^ 中村 2000, pp. 180–182.
  35. ^ a b c 伝記 2019, p. 189.
  36. ^ 佐藤 2000, p. 135.
  37. ^ a b c d e f g h i j k 「小津安二郎芸談」(東京新聞1947年12月5日・12日・19日・26日)。戦後語録集成 1989, pp. 158–164に所収
  38. ^ 伝記 2019, p. 190.
  39. ^ 伝記 2019, p. 193.
  40. ^ a b 千葉 2003, p. 51.
  41. ^ 千葉 2003, pp. 52–53.
  42. ^ a b 伝記 2019, pp. 193–194.
  43. ^ a b 佐藤 2000, pp. 142–143.
  44. ^ a b c 伝記 2019, pp. 195–196.
  45. ^ a b 千葉 2003, p. 63.
  46. ^ a b 和田山滋「小津安二郎との一問一答」(『キネマ旬報』1933年1月11日号)。全発言 1987, pp. 11–18に所収
  47. ^ 小津安二郎「ライス・カレー〈処女作前後〉」(『キネマ旬報』1950年3月上旬号)。戦後語録集成 1989, p. 78に所収
  48. ^ a b 佐藤 2000, pp. 163–164.
  49. ^ a b 千葉 2003, pp. 68–69.
  50. ^ a b 伝記 2019, pp. 196–197.
  51. ^ a b c d e f g h i 「小津安二郎自作を語る」(人と芸術 1964, pp. 92–99)
  52. ^ 貴田 1999, p. 38.
  53. ^ a b c d e f 佐藤忠男解説「小津映画全作品」(松竹 1993, pp. 216–287)
  54. ^ フィルムアート社 1982, p. 59.
  55. ^ a b 伝記 2019, p. 203.
  56. ^ a b c d e f g h i j k 「作品解題」(全集(上) 2003, pp. 695–731)
  57. ^ a b c d e f g h i j k 「小津安二郎が監督しなかった作品」(全集(下) 2003, pp. 626–630)
  58. ^ 「"沈黙を棄てる監督" 小津氏との一問一答」(都新聞1936年4月20日夕刊)。全発言 1987, pp. 82–84に所収
  59. ^ a b 伝記 2019, pp. 205–206.
  60. ^ a b 佐藤 2000, p. 254.
  61. ^ a b 田中眞澄「解説」(全発言 1987, pp. 283–288)
  62. ^ 伝記 2019, p. 217.
  63. ^ 戦後語録集成 1989, p. 441.
  64. ^ a b c 伝記 2019, pp. 219–220.
  65. ^ a b 全発言 1987, pp. 263–264.
  66. ^ 戦後語録集成 1989, p. 451.
  67. ^ a b c d 佐藤 2000, pp. 370–372, 614.
  68. ^ 千葉 2003, pp. 163–164.
  69. ^ 千葉 2003, pp. 165–166.
  70. ^ 伝記 2019, p. 224.
  71. ^ 千葉 2003, pp. 178–179.
  72. ^ a b c d e f g h 「作品解題」(全集(下) 2003, pp. 611–625)
  73. ^ 伝記 2019, p. 230.
  74. ^ 千葉 2003, pp. 214–216.
  75. ^ 厚田 & 蓮實 1989, pp. 130–132.
  76. ^ 厚田 & 蓮實 1989, p. 133.
  77. ^ a b 飯田心美「小津安二郎は語る」(『キネマ旬報』1947年4月号)。戦後語録集成 1989, pp. 22–24に所収
  78. ^ a b c 伝記 2019, pp. 235–236.
  79. ^ 千葉 2003, p. 221.
  80. ^ a b 伝記 2019, pp. 237–238.
  81. ^ a b 中井麻素子「文字通りの先生」(松竹 1993, pp. 170–172)
  82. ^ a b 千葉 2003, pp. 248–249.
  83. ^ 伝記 2019, p. 239.
  84. ^ a b c d 野田高梧「小津安二郎という男 交遊四十年とりとめもなく」(人と芸術 1964, pp. 76–84)
  85. ^ 伝記 2019, pp. 240–241.
  86. ^ a b c d e f g h i j k l m n 「小津安二郎 全作品ディテール小事典」(大全 2019, pp. 413–497)
  87. ^ 山内 2003, pp. 176–177.
  88. ^ a b 伝記 2019, pp. 245–246.
  89. ^ a b c 伝記 2019, pp. 246–249.
  90. ^ a b c 千葉 2003, p. 291.
  91. ^ 伝記 2019, pp. 252–253.
  92. ^ a b c d e 田中 2003, pp. 414–422.
  93. ^ a b c d e 伝記 2019, pp. 256–258.
  94. ^ a b c d e f g 松浦莞二、折田英五「小津の技法を俯瞰する」(大全 2019, pp. 500–505)
  95. ^ 「小津監督の次回作『秋日和』」(毎日新聞1960年6月11日夕刊)。戦後語録集成 1989, pp. 356–357に所収
  96. ^ 「悪いやつの出る映画は作りたくない」(東京新聞1960年9月6日夕刊)。戦後語録集成 1989, pp. 363–364に所収
  97. ^ a b 貴田 1999, p. 117.
  98. ^ a b c 厚田 & 蓮實 1989, pp. 259–260.
  99. ^ 伝記 2019, p. 262.
  100. ^ 伝記 2019, pp. 270–271.
  101. ^ a b c d e f g h i j k l m 伝記 2019, pp. 273–275.
  102. ^ a b c d 佐田啓二「おやじ小津安二郎はもういない 佐田啓二の看護日誌」(『サンデー毎日』1963年12月29日号)。戦後語録集成 1989, pp. 415–423に所収
  103. ^ 厚田 & 蓮實 1989, p. 268.
  104. ^ 佐藤 2000, pp. 588.
  105. ^ a b 小津安二郎、岩崎昶、飯田心美の対談「酒は古いほど味がよい」(『キネマ旬報』1958年8月下旬号)。戦後語録集成 1989, pp. 296–305に所収
  106. ^ a b c 佐藤 2000, pp. 34–35.
  107. ^ a b c フィルムアート社 1982, p. 129.
  108. ^ 佐藤 1995, p. 236.
  109. ^ a b 映畫読本 2003, p. 44.
  110. ^ a b 古賀 2010, pp. 91–92.
  111. ^ 佐藤 1995, pp. 52–53.
  112. ^ a b 古賀 2010, p. 116.
  113. ^ 「場面の構成と演技指導」(『百万人の映画知識』解放社、1950年1月)。戦後語録集成 1989, pp. 77–78に所収
  114. ^ a b c フィルムアート社 1982, pp. 46, 63, 101.
  115. ^ 映畫読本 2003, p. 40.
  116. ^ a b 滋野辰彦「評伝・小津安二郎」(『キネマ旬報』1952年6月上旬号)。集成2 1993, pp. 73–79に所収
  117. ^ 現代映画用語事典 2012, p. 68.
  118. ^ フィルムアート社 1982, pp. 112–113.
  119. ^ フィルムアート社 1982, pp. 156, 163.
  120. ^ a b フィルムアート社 1982, pp. 199, 220, 267.
  121. ^ a b c リチー 1978, pp. 18–27.
  122. ^ a b 小倉真美「『小早川家の秋』に見る小津映画の特質」(『キネマ旬報』1961年11月下旬号)。集成2 1993, pp. 94–98に所収
  123. ^ 映畫読本 2003, pp. 84, 90, 98, 104, 108.
  124. ^ a b 「わたしのクセ」(『読売グラフ』1955年6月7日号)。戦後語録集成 1989, p. 237に所収
  125. ^ 『スポーツニッポン』1951年9月14日。戦後語録集成 1989, pp. 437に発言を引用。
  126. ^ 映畫読本 2003, p. 58.
  127. ^ 「実録日本映画史129」『読売新聞』1964年5月21日、夕刊。
  128. ^ a b c d 映畫読本 2003, pp. 26–31.
  129. ^ a b 貴田 1999, pp. 55–56.
  130. ^ フィルムアート社 1982, pp. 356, 358, 360.
  131. ^ a b c d e 佐藤 1995, pp. 370–372.
  132. ^ 厚田 & 蓮實 1989, pp. 248–250.
  133. ^ 貴田 1999, pp. 56–58.
  134. ^ 司葉子「「葉ちゃんね、女の一生やるときにはね、次がああだからって演技を組み立てると、わかっちゃってつまらない」って。」(大全 2019, pp. 29–34)
  135. ^ a b 佐藤 2000, pp. 57, 183.
  136. ^ 古賀 2010, pp. 70–71.
  137. ^ 佐藤 2000, p. 97.
  138. ^ 貴田 1999, pp. 160–161.
  139. ^ リチー 1978, p. 179.
  140. ^ a b c 岩下志麻「「人間は悲しい時に悲しい顔をするものではない。人間の喜怒哀楽はそんなに単純なものではないのだよ」という小津先生の言葉」(大全 2019, pp. 35–38)
  141. ^ a b c d 川又昴「映画に文法はない、自由に作ればいい」(松竹 1993, pp. 180–185)
  142. ^ a b 古賀 2010, pp. 66–67.
  143. ^ 貴田 1999, pp. 126–127, 157.
  144. ^ a b 古賀 2010, pp. 107–108.
  145. ^ a b c 笠智衆「小津先生とわたし」(『キネマ旬報』1958年6月下旬号)。集成 1989, pp. 144–145に所収
  146. ^ 佐藤 1996, p. 317.
  147. ^ 飯田蝶子「小津さんの兵隊」(キネマ旬報別冊『日本映画シナリオ古典全集 第2巻』1966年2月)。集成2 1993, pp. 137–139に所収
  148. ^ 笠 1991, p. 83.
  149. ^ シンポジウム 2004, pp. 211–213.
  150. ^ 松竹 1993, pp. 71–72.
  151. ^ 黒田邦雄「追っかけインタビュー 笠智衆 『正月になるとやって来る、ご存知柴又の御前さまの映画人生を小津監督の想い出をからめて語った1時間半』」『シティロード』1983年1月号、エコー企画、14–15頁。 
  152. ^ 全著作 森繁久彌コレクション 2 芸談』(初版)株式会社藤原書店、Tōkyō、2019-2020、399頁。ISBN 978-4-86578-244-8OCLC 1142817822https://www.worldcat.org/oclc/1142817822 
  153. ^ 参加本数は全集(上) 2003全集(下) 2003に掲載されたクレジットをもとに算出。
  154. ^ 伝記 2019, p. 202.
  155. ^ a b c 厚田雄春「小津ロー・ポジションの秘密」(人と芸術 1964, pp. 82–83)
  156. ^ a b c d e 現代映画用語事典 2012, p. 175.
  157. ^ a b c 厚田 & 蓮實 1989, pp. 222–224, 234.
  158. ^ a b c 貴田 1999, pp. 232–239.
  159. ^ a b 小津安二郎、石川欣一「カラーは天どん 白黒はお茶漬の味 カメラ対談」(『カメラ毎日』創刊号、1954年5月)。戦後語録集成 1989, pp. 212–217に所収
  160. ^ 松浦莞二「四〇ミリの謎」(大全 2019, pp. 356–364)
  161. ^ a b c d ボードウェル 2003, pp. 137–138.
  162. ^ a b c 佐藤 2000, pp. 40–41.
  163. ^ a b c フィルムアート社 1982, pp. 362–363.
  164. ^ 佐藤 1995, p. 355.
  165. ^ 貴田 1999, pp. 253–254.
  166. ^ a b c d フィルムアート社 1982, pp. 365–367.
  167. ^ a b c 貴田 1999, pp. 255–256.
  168. ^ 佐藤 2000, pp. 42–43.
  169. ^ a b 現代映画用語事典 2012, pp. 18–19.
  170. ^ a b フィルムアート社 1982, pp. 356–358.
  171. ^ a b 古賀 2010, p. 99.
  172. ^ a b c 小津安二郎「映画の文法」(『月刊スクリーン・ステーィ』1947年6月号)。戦後語録集成 1989, pp. 37–40に所収
  173. ^ a b 小津安二郎「映画に"文法"はない」(『芸術新潮』1959年4月号)。戦後語録集成 1989, pp. 332–337に所収
  174. ^ a b c d e 古賀 2010, pp. 109–111.
  175. ^ 貴田 1999, p. 140.
  176. ^ a b 貴田 1999, p. 142.
  177. ^ 貴田 1999, p. 154.
  178. ^ 佐藤 2000, p. 37.
  179. ^ a b 貴田 1999, p. 144.
  180. ^ 古賀 2010, pp. 105–107.
  181. ^ 佐藤 1996, p. 310.
  182. ^ a b c d 貴田 1999, pp. 189–190.
  183. ^ a b c d フィルムアート社 1982, pp. 372–373.
  184. ^ 現代映画用語事典 2012, pp. 29, 135.
  185. ^ a b 佐藤 2000, p. 44.
  186. ^ 南部圭之助「小津安二郎の怒り」(人と芸術 1964, pp. 48–49)
  187. ^ リチー 1978, p. 383.
  188. ^ a b c フィルムアート社 1982, pp. 289–290.
  189. ^ 佐藤 2000, p. 296.
  190. ^ a b c d e f フィルムアート社 1982, pp. 320–321.
  191. ^ a b c 斎藤高順「画面と音楽が相殺しない曲を」(松竹 1993, pp. 186–191)
  192. ^ a b c 佐田啓二「老童謡『高野行』 小津さんのこと」(人と芸術 1964, pp. 46–47)
  193. ^ 吉田 1998, p. 25.
  194. ^ 厚田 & 蓮實 1989, p. 280.
  195. ^ 厚田 & 蓮實 1989, p. 160.
  196. ^ 冨士田元彦『日本映画史の展開 小津作品を中心に』本阿弥書店、2006年2月、66頁。 
  197. ^ リチー 1978, pp. 54–55.
  198. ^ 山本富士子 巨匠・小津安二郎の秘話を明かす 「ミルクの時間」とは…”. デイリースポーツ (2017年7月21日). 2021年2月25日閲覧。
  199. ^ 『小津安二郎をたどる東京・鎌倉散歩』青春出版社、2003年、50頁。 
  200. ^ a b 「(小津安二郎がいた時代)新年会 スタッフに語る構想/首都圏」『朝日新聞』2015年1月18日、朝刊。
  201. ^ 丹野達弥他『いま、小津安二郎』小学館〈Shotor library〉、2003年5月20日、17頁。ISBN 978-4-09-343155-2 
  202. ^ 渡辺紀子「とんかつの名店 蓬莱屋」『BRUTUS』第38巻第15号、マガジンハウス、2017年8月15日、19頁、大宅壮一文庫所蔵:2000669092023年4月24日閲覧 
  203. ^ a b 中村 2000, pp. 14, 56.
  204. ^ a b c 全発言 1987, p. 254.
  205. ^ a b c d 『考える人』2007年冬号特集「小津安二郎を育てたもの」、新潮社、p. 54。
  206. ^ 伝記 2019, p. 183.
  207. ^ 貴田 1999, pp. 94–95.
  208. ^ a b c d 松浦莞二「復刻中国戦線寫眞集 作品の背景」(大全 2019, p. 148)
  209. ^ a b 貴田 1999, pp. 98–99.
  210. ^ a b c d e 岡田秀則「小津安二郎における絵画とデザイン」(大全 2019, pp. 135–143)
  211. ^ a b 松浦莞二「少年期の絵画」(大全 2019, pp. 130–134)
  212. ^ a b c 映畫読本 2003, pp. 76, 84.
  213. ^ a b c 里見弴「小津君と鎌倉と私」(人と芸術 1964, p. 5)
  214. ^ 伝記 2019, pp. 210, 227, 250–251.
  215. ^ a b c 中村 2000, p. 10.
  216. ^ 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』キネマ旬報社〈キネマ旬報ムック〉、2012年5月、18-41,77頁。 
  217. ^ 佐藤 2000, p. 463.
  218. ^ 岩崎昶『日本映画作家論』200頁(中央公論社、1958年)
  219. ^ 品田雄吉長谷川龍生吉田喜重「シナリオ時評 鼎談第17回」『シナリオ』18巻11号、1962年11月号における発言
  220. ^ 吉田 1998, pp. 1–2.
  221. ^ 伝記 2019, p. 263.
  222. ^ Directors’ top 100”. Sight & Sound. BFI. 2021年4月1日閲覧。
  223. ^ 第68回ベルリン国際映画祭クラシック部門 小津安二郎監督作品『東京暮色』4Kデジタル修復版ワールドプレミア上映レポート”. 松竹シネマクラシックス. 松竹 (2018年2月20日). 2021年4月1日閲覧。
  224. ^ Scheibel, Will (2017). American Stranger: Modernisms, Hollywood, and the Cinema of Nicholas Ray. SUNY Press. p. 167 
  225. ^ W・ベンダース監督「東京画」から四半世紀「小津さんでさえ今の日本、東京はわからない」”. 映画.com (2012年2月23日). 2021年4月1日閲覧。
  226. ^ シンポジウム 2004, pp. 129–132, 140–143.
  227. ^ 周防正行「なぜ小津だったのか」(大全 2019, pp. 96–99)
  228. ^ 相馬学 (2018年10月15日). “才能を知る、才能を見る、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』を支えた才人たち”. CINEMORE. 2021年4月1日閲覧。
  229. ^ Anywhere but here: the films of Aki Kaurismäki”. Tank. 2021年4月1日閲覧。
  230. ^ Lim, Dennis (2009年9月4日). “Finding Rhythms Within Rhythms in Parisians’ Lives”. The New York Times. 2021年4月1日閲覧。
  231. ^ Mitchell, Wendy (2015年3月9日). “Elia Suleiman’s next feature to ‘cross countries’”. Screen Daily. 2021年4月1日閲覧。
  232. ^ シンポジウム 2004, pp. 186–188.
  233. ^ シンポジウム 2004, pp. 190–194.
  234. ^ 佐々木康『楽天楽観 映画監督佐々木康』ワイズ出版、2003年10月、215頁。 
  235. ^ キネマ旬報ベスト・テン 1932年・第9回”. KINENOTE. 2021年2月14日閲覧。
  236. ^ キネマ旬報ベスト・テン 1933年・第10回”. KINENOTE. 2021年2月14日閲覧。
  237. ^ キネマ旬報ベスト・テン 1934年・第11回”. KINENOTE. 2021年2月14日閲覧。
  238. ^ キネマ旬報ベスト・テン 1941年・第18回”. KINENOTE. 2021年2月14日閲覧。
  239. ^ キネマ旬報ベスト・テン 1949年・第23回”. KINENOTE. 2021年2月14日閲覧。
  240. ^ キネマ旬報ベスト・テン 1951年・第25回”. KINENOTE. 2021年2月14日閲覧。
  241. ^ 毎日映画コンクール 第4回(1949年)”. 毎日新聞. 2021年2月14日閲覧。
  242. ^ 毎日映画コンクール 第18回(1963年)”. 毎日新聞. 2021年2月14日閲覧。
  243. ^ ブルーリボン賞ヒストリー 第2回”. シネマ報知. 2009年2月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年2月14日閲覧。
  244. ^ ブルーリボン賞ヒストリー 第14回”. シネマ報知. 2009年2月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年2月14日閲覧。
  245. ^ 映画の日 特別功労大章・特別功労章及び感謝状贈呈者一覧”. 映画産業団体連合会. 2021年2月28日閲覧。
  246. ^ 田中 2003, p. 429.
  247. ^ 戦後語録集成 1989, p. 468.
  248. ^ 芸術選奨歴代受賞者一覧(昭和25年度~)” (PDF). 文化庁. 2021年2月14日閲覧。
  249. ^ 官報 昭和38年12月16日 第11102号 叙任及び辞令 内閣
  250. ^ 柿田清二『日本映画監督協会の五〇年』日本映画監督協会、1992年、122頁。 
  251. ^ 無藝荘”. 蓼科観光協会. 2021年3月21日閲覧。
  252. ^ 蓼科高原映画祭とは”. 小津安二郎記念・蓼科高原映画祭. 2021年3月21日閲覧。
  253. ^ 「小津安二郎青春館」閉館へ 松阪市、歴史民俗資料館に移転”. 中日新聞 (2020年9月9日). 2021年3月21日閲覧。
  254. ^ 松阪に小津安二郎記念館オープン 日本映画界の巨匠顕彰 三重”. 伊勢新聞 (2021年4月4日). 2021年4月5日閲覧。
  255. ^ 「今日から小津安二郎展、鎌倉文学館」『神奈川新聞』1986年6月1日、朝刊、本紙湘南・湘南東、18面。
  256. ^ 「鎌倉文学館に小津安二郎の遺品 映画史の貴重な資料整理して一般公開へ」『神奈川新聞』1990年8月9日、朝刊、p19。
  257. ^ 「生誕100年、小津安二郎熱再び ゆかりの地で催し続々」『朝日新聞』2003年1月26日、神奈川1、朝刊、33p。
  258. ^ 『小津安二郎 未来へ語りかけるものたち』鎌倉市芸術文化振興財団鎌倉文学館、2003年4月25日、奥付頁。 
  259. ^ 林良博 (1999). “デジタル小津安二郎展を終えて”. 視聴覚教育 Vol.53,No.3: 8-11. 
  260. ^ 林良博 (1999). “デジタル小津安二郎展を終えて”. 視聴覚教育 Vol.53,No.3: 9. 
  261. ^ 『デジタル小津安二郎展 キャメラマン厚田雄春の眼』東京大学総合研究博物館、1998年12月9日、p92-105頁。 
  262. ^ 『デジタル小津安二郎展 キャメラマン厚田雄春の眼』東京大学総合研究博物館、1998年12月9日。 
  263. ^ 「思い出の品々一堂に 野田市ゆかりの小津安二郎監督 あすから郷土博物館で特別展」『千葉日報』2004年10月14日、朝刊、p16。
  264. ^ 『小津安二郎監督と野田』野田市郷土博物館、2004年10月16日、奥付頁。 
  265. ^ 「家族を描いた監督の軌跡 小津安二郎展 神奈川近代文学館」『神奈川新聞』2023年4月13日、朝刊、かながわワイド版、p15。
  266. ^ 『小津安二郎展 生誕120年 没後60年』県立神奈川近代文学館、2023年4月1日、奥付頁。 

参考文献

[編集]

関連文献

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]