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{{Infobox 武道・武術
{{Otheruseslist||TBSテレビ系で放送していた中継番組|YKKアワー キックボクシング中継|日本テレビ系で放送していた中継番組|ゴールデン・キックボクシング|東京12チャンネルで放送していた中継番組|キックボクシング中継 (東京12チャンネル)}}
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{{Infobox_武道・武術
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|公式ウェブサイト = [http://www.aj-kick.com/ 全日本キックボクシング連盟]<br />[http://www.shinnihonkickboxing.com/ 新日本キックボクシング協会]<br />[http://www.wakoweb.com/ WAKO]<br />[http://www.kickboxing-wka.co.uk/ WKA]
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{{ウィキプロジェクトリンク|キックボクシング}}
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[[File:2010-02-20-kickboxen-by-RalfR-01.jpg|thumb|2010年オープンのドイツ]]
'''キックボクシング'''(kick boxing)とは、[[ムエタイ]]の試合ルールを参考にして、日本の[[野口修]]が[[空手道|空手家]]や[[ボクサー (スポーツ)|ボクサー]]を起用して始めた、拳足による日本発祥の打撃[[格闘技]]。

'''キックボクシング'''({{lang-en-short|kickboxing}})は、[[格闘技]]の一つ。[[リング (格闘技)|リング]]を使った打撃系格闘技全般、およびキックやパンチを用いる動作の総称としても使用され、この場合は'''[[ストライキング]]'''とも呼称される。


== 概要 ==
== 概要 ==
日本のボクシングプロモーター[[野口修]]がムエタイの試合ルールを参考にして考案した、日本発祥の打撃格闘技である<ref>[https://times.abema.tv/articles/-/10084107 キックボクシングは日本発祥 昭和のプロモーター・野口修が手がけた意外な大御所芸能人]</ref>。[[興行]]によっては[[ムエタイ]]・[[空手]]・[[ボクシング]]・[[シュートボクシング]]・[[サバット]]・ドラッカ・[[テコンドー]]・[[散打]]等、様々な種類の立ち技格闘家同士が[[異種格闘技戦]]をすることもあり、プロ格闘競技種目の名称となっている。
当初はムエタイとの違いを出すために、投げ技も存在していた。一般にキックボクシングとは日本で生まれたものを指すが、場合によってはボクシングのリングを使ったプロ打撃系格闘技全般の総称を指すこともある。興行によっては[[ムエタイ]]、[[空手道|空手]]、[[ボクシング]]、[[シュートボクシング]]、[[サバット]]、[[テコンドー]]等、キックボクサー以外の異なる種類の立ち技格闘家同士が試合をすることもある。野口は新興プロスポーツ、「キックボクシング」を[[商標|商標登録]]をしなかったため、追従してキックボクシングを名乗り、同様な活動をする団体が生まれた。このことによりキックボクシングはエンターテインメント的な商標とならず、競技種目の名称として定着した。元々は、[[日本プロボクシング協会|日本ボクシング協会]]理事(当時)・野口修が、1960年代に[[興行]]目的で[[タイ王国|タイ]]の国技[[ムエタイ]]を日本に招致する興行プランを立案。「ムエタイ対空手」、「ムエタイ対ボクシング」の異種格闘技戦のアイデアを実現させるために、試合としてのルールを編成したものである。


興行が成功した結果、キックボクシングは「アジア地区で立ち技格闘技として最強と謳うムエタイに対抗し、日本が独自で開発した[[格闘技]]の一つ」とされている。初期のキックボクシングの試合に実際に出場していたのは、日本の空手家やボクサーたちで、彼らはタイに行ってムエタイを修行してきたわけではなかった。それゆえ、発足当時、ムエタイとキックボクシングの伝系のつながりは何ら存在しなかった。キックボクシングは、ただグローブ着用による拳足を用いた直接打撃制試合の形式を、ムエタイから借用してきただけである。
野口が[[1960年代]]に[[タイ王国]]の国技ムエタイを日本に招致する興行プランを立案。「ムエタイ対空手」、「ムエタイ対ボクシング」の異種格闘技戦のアイデアを実現させるために、試合としてのルールを編成したものである。興行が成功した結果、キックボクシングは「アジア地区で立ち技格闘技として最強と謳うムエタイに対抗し、日本が独自で開発した格闘技の一つ」とされている。

キックボクシングが成立したのちもタイ国内において日本のキックボクシングは「ムエタイ」そのものであると長く誤解されていた。このため、タイに設立した野口ジムの看板にムエタイをあらわす Thai boxing ではなく日本製の kickboxing の表記がされているのを見た大衆が「ムエタイをリスペクトしていない」としてジムを襲撃する野口ジム襲撃事件も起きたが、今日ではキックとムエタイの違いは世界的に知られている{{要出典|date=2008年4月}}。また、"kickboxing" の和製英語としての世界的普及度はトップレベルである。

第一人者である[[沢村忠]]は「キックの鬼」と呼ばれ、[[漫画]]や[[アニメ作品]]にも取り上げられた。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== キックボクシング成立前史 ===
=== キックボクシング成立前史 ===
[[1959年]](昭和34年)12月20日、東京浅草公会堂([[台東区]]日本で初めて、サノン・ETC対ベライノ・チールムーンというタイ人同士によるムエタイの試合が開催された。ちょうどこの頃、エタイに興味を示す空手家が現れた。日本拳法空手道の[[山田辰雄 (空手家)|山田辰雄]]である。当時、山田は直接打撃制による空手の試合化を目指しており、その研究の一環としてムエタイに興味を示したのである。山田は、すでに同年11月に「新スポーツの発足と其企業化計画草案大綱」なる企画書を発表し、新スポーツ「空手ボクシング(仮称)」を提唱した。この企画書の中で山田は「昭和35年の新春を期して、当方競技とやや同系類に属する『タイ国拳法選士団』を招聘」すると発表した。浅草公会堂で行われたムエタイ試合が山田が招聘したものかどうかは判然としないが、山田が日本で初めてムエタイに関心を示した空手家の一人であったことは確かである。山田はさっそく、飯田橋の道場にムエタイ・前チャンピオンのカウキー(カウイとも)を招待して、息子の山田侃にスパーリングの相手をさせ、ムエタイの研究を始めた。このカウキーを山田のもとへ連れてきたのが野口修だったのである。[[1961年]](昭和36年)、山田が発行した『日本拳法空手道教本』創刊号には、すでにカウキーの写真が掲載されており、この時すでに山田は空手とムエタイを融合させた新スポーツの構想を膨らませていた。
[[1959年]]([[昭和]]34年)[[12月20日]][[東京都]][[台東区]]の[[浅草公会堂]]でサノン・ETC対ベライノ・チールムーンというタイ人同士による[[ムエタイ]]の試合が[[日本]]で初めて開催された<ref name = 山崎照朝131217>{{Cite web|和書|author = 山崎照朝 |authorlink = 山崎照朝 |date = 2013-12-17 |url = http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/column/yamasaki/CK2013121702000149.html |title = 学生キックボクシング連盟創立40周年 |website = [[中日スポーツ]] |work = コラ 撃戦記 |publisher = [[中日新聞社]] |archiveurl = https://web.archive.org/web/20140604113649/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/column/yamasaki/CK2013121702000149.html |archivedate = 2014-6-4 |accessdate = 2014-6-4 }}</ref>。日本拳法空手道の創始者・[[山田辰雄 (空手家)|山田辰雄]]は[[フルコンタクト空手|直接打撃制による空手]]の試合化を目指しており、その研究の一環としてムエタイに興味を示既に山田は同年11月に「新スポーツの発足と其企業化計画草案大綱」なる企画書を発表し、新スポーツ「空手ボクシング(仮称)」を提唱した。この企画書の中で山田は「昭和35年の新春を期して、当方競技とやや同系類に属する『タイ国拳法選士団』を招聘」すると発表した。浅草公会堂で行われたムエタイ試合が山田が招聘したものかどうかは判然としないが、山田が日本で初めてムエタイに関心を示した空手家の一人ったことは確かである。山田は早速[[飯田橋]]の道場にムエタイ・前チャンピオンのカウキー(カウイとも)を招待して、息子の山田侃に[[スパーリング]]の相手をさせ、ムエタイの研究を始めた。このカウキーを山田のへ連れてきたのが[[野口修]]だった。[[1961年]](昭和36年)、山田が発行した『日本拳法空手道教本』創刊号には、にカウキーの写真が掲載されており、この時に山田は空手とムエタイを融合させた新スポーツの構想を膨らませていた。


[[1962年]](昭和37年)、山田は空手ボクシングを「第一回空手競技会」として[[後楽園ホール]]で開催した。これは[[ノックアウト]](打倒勝)、体重別階級、グローブ着用などのルールを採用して行われた。のちのキックボクシングや[[フルコンタクト空手]]に先駆ける画期的試みだったが、[[寸止め]]ルールを採用する当時の空手界からは黙殺され、新聞記事でも「ナグるケる木戸ご免」、「正統派?うたう空手競技会」などと酷評された。山田の早すぎた試みは結局挫折に終わった。一方、野口修は1962年8月24日に後楽園ホールで開催された日本で二度目のムエタイ試合を観戦して感激し、空手対ムエタイの興の可能性を感じた。早速野口は空手家にこの構想を打診するが、この時の相談相手が[[大山倍達]](当時大山道場、のちの[[極真会館]])と山田辰雄だったのである。[[1963年]](昭和38年)、[[黒崎健時]][[中村忠 (空手家)|中村忠]][[大沢昇]](藤平昭雄出場して、タイバンコク空手対ムエタイの交流戦が開催された。この試合は日本から空手が殴り込みに来たと現地で大変な反響を巻き起こした。この時の試合だったが、唯一敗れた黒崎健時オランダと日本でキックボクシングの指導に務めた(オランダ・メジロジム(ボスジムもここからの分家)と日本の目白ジム
[[1962年]](昭和37年)、山田は空手ボクシングを「第一回空手競技会」として[[後楽園ホール]]で開催した。これは[[ノックアウト]](打倒勝)、体重別階級、グローブ着用などのルールを採用して行われた。のキックボクシングや[[フルコンタクト空手]]に先駆ける画期的試みだったが、[[寸止め|寸止めルール]]を採用する当時の空手界からは黙殺され、新聞でも「ナグるケる木戸ご免」、「正統派?うたう空手競技会」などと酷評された。山田の早すぎた試みは結局挫折に終わった。一方、野口修は1962年(昭和37年)[[8月24日]]に後楽園ホールで開催された日本で二度目のムエタイ試合を観戦して感激し、空手対ムエタイの興の可能性を感じた。早速野口は空手家にこの構想を打診するが、この時の相談相手が[[大山倍達]](当時[[大山道場]]、のちの[[極真会館]])と山田辰雄だった。[[1963年]](昭和38年)、大山道場から[[黒崎健時]][[中村忠 (空手家)|中村忠]][[藤平昭雄]][[タイ王国]]の[[バンコク]]へ向かい、空手対ムエタイの交流戦に参加した。当地で日本から空手が殴り込みに来たと大変な反響を巻き起こした。結果21で大山道場勢勝ち越したものの、敗れた黒崎は打倒・ムエタイを誓い、[[1969年]](昭和44年)にキックボクシングの[[目白ジム]]を創設して、[[大沢昇]]・島三雄・[[藤原敏男]]らを輩出した


=== キックボクシングの成立 ===
=== キックボクシングの成立 ===
タイでの成功に自信をつけた野口は、[[1966年]](昭和41年)1月30日、キックボクシングの名称を考案して[[日本キックボクシング協会]]を設立し、当時の空手家やボクサーを集め同年4月11日に大阪府立体育会館で初めての興行を開催した。この時、直前になって突然大山倍達から「都合があって、申し訳ないが、どうしても選手を出せない」と辞退の連絡を受けた。山田辰雄の道場の選手だけでは試合に足りないことに慌てた野口が、この時急遽出場を依頼した一人が、[[沢村忠]](日大芸術学部空手部[[剛柔流]]空手出身)だった。沢村は大学を卒業し証券会社に入社、堅気の生活を送っていた運命のいたずらでキックボクシングのエースとなる日本ボクシング協会理事の野口は、有名ボクサーの息子([[ライオン野口]](野口進元ボクシング日本王者で[[野口ボクシングジム]]創始者)のであり、[[帝拳プロモーション|帝拳ジム]]でボクシング業界裏方修行を積んだボクシングの申し子のような人物であった。もともと存在したツテを生かしてテレビ局に対しても積極的に売り込んでいった。野口の政治力、熱意なしに国内に根付くことはなかっとす評価ある種妥当あろう
[[タイ王国]]での成功に自信をつけた[[野口修]]は、[[1966年]](昭和41年)[[1月30日]]、キックボクシングの名称を考案して[[日本キックボクシング協会]]を設立。[[空手家]][[ボクサー (スポーツ)|ボクサー]]など異なる[[武道]]・[[格闘技]]のバックボーンを持つ選手を集め、[[4月11日]][[大阪府立体育会館]]で初めての興行を開催した。この時、直前になって突然[[大山倍達]]から「都合があって、申し訳ないが、どうしても選手を出せない」と辞退の連絡を受けた。山田辰雄の道場の選手だけでは試合に足りないことに慌てた野口が、急遽出場を依頼した一人[[日大芸術学部]]空手部[[剛柔流]]空手出身の[[沢村忠]]がいた。野口はボクサーである[[ライオン野口]](野口進元ボクシング日本王者で[[野口ボクシングジム]]創始者)の男であり、[[帝拳プロモーション|帝拳ジム]]でボクシング業界裏方修行を積んだ、プロモーターの申し子のような人物であった。もともと存在したツテを生かしてテレビ局に対しても積極的に売り込んでいった。野口の政治力、熱意なしに国内に根付くことはなく、野口は“キックボクシング”を[[商標|商標登録]]してい<ref name = 山崎照朝111224>{{Cite web|和書|author = 山崎照朝 |date = 2011-12-24 |url = http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/column/yamasaki/CK2011122402000082.html |title = 全国的な広がり待たれ大学キックボクシング |website = 中日スポーツ |work = コラム 撃戦記 |publisher = 中日新聞社 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20120523021852/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/column/yamasaki/CK2011122402000082.html |archivedate = 2012-5-23 |accessdate = 2011-12-26 }}</ref>。キックボクシング全国的なブームを巻き起こし、在京の民放4局は沢村忠がエースの『[[YKKアワー キックボクシング中継]]』([[TBSテレビ]])、大沢昇がエースの『[[キックボクシング (日本テレビ)|キックボクシング]]』『[[ゴールデン・キックボクシング]]』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])、[[山崎照朝]]がエースの『ワールドキックボクシング』([[テレビ朝日|NETテレビ]])、藤原敏男がエースの『キックボクシング中継』([[テレビ東京|東京12チャンネル]])を独自に毎週レギュラー放映するほどの人気に至った

日本拳法空手道は創始者・山田辰雄が亡くなった[[1967年]](昭和42年)以降もキックボクシングへ協力し、錦利弘は[[キョードー東京]]のスター選手となり、日本人としては初めてタイ人現役ランカーにKO勝利。日本拳法空手道が組織として関わったのは『ワールドキックボクシング』で、江口和明(初代バンタム級チャンピオン)らを選手として送った。極真会館はキックボクシング成立以前からプロ空手の立ち上げを狙っていたが、キックボクシングが成立後にNETテレビから誘いを受け、極真ジムを立ち上げて山崎照朝([[極真会館#直接打撃とオープン参加の大会|オープントーナメント全日本空手道選手権大会]][[チャンピオン]])・[[添野義二]]・[[及川宏]]ら選手を『ワールドキックボクシング』へ送り込んだ。[[1969年]](昭和44年)春には東京12チャンネルが、岡村プロモーションを通じて黒崎健時の目白ジムと提携し、同年の8月2日からテレビ中継を開始。[[1971年]](昭和46年)には日本テレビで中継していた協同プロモーションの賛同も得て、[[石原慎太郎]]がコミッショナーを務める第2の団体[[全日本キックボクシング連盟|全日本キックボクシング協会]]が設立され、日本テレビの協同プロモーションと東京12チャンネルの岡村プロモーションによる「八階級全日本統一王者決定戦」を[[日本武道館]]で行うなど、日本キックボクシング協会と双璧をなす団体にまで成長した<ref>『東京12チャンネル 運動部の情熱』120~132頁(著:布施鋼治、発売:[[集英社]])</ref>。


1969年には日本の[[大学]]で初の『日本大学キックボクシング同好会{{#tag:ref |当時の名称は「日本大学手足拳闘同好会」であった<ref name = 山崎照朝111224/>。|group = "注釈" }}』を同大学生であった山崎照朝が結成<ref name = 山崎照朝131217/>。同好会は後に部へ昇格し、[[1972年]][[10月]]には[[全日本学生キックボクシング連盟]]が発足され、山崎は同連盟の設立に尽力した<ref name = 山崎照朝131217/>。
キックボクシングは、ブームを巻き起こし、一時はキー局のうち4局([[TBSテレビ|TBS]]([[YKKアワー キックボクシング中継]])、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]([[ゴールデン・キックボクシング]])、NET(現・[[テレビ朝日]]、ワールドキックボクシング)東京12チャンネル(現・[[テレビ東京]]、キックボクシング中継))で放映されるほどの人気を誇るまでに至った(NETはすぐに撤退)。一方、山田辰雄は翌年の[[1967年]](昭和42年)死去するが、日本拳法空手道はキックボクシング成立にその後も協力し、“鉄腕”錦利弘は[[キョードー東京]]の大選手となった。日本人としては初めてタイ人現役ランカーにKO勝利。日本拳法空手道が組織として関わったのはNET系興行で、江口和明(初代バンタム級チャンピオン)らを選手として送った。極真会館はキックボクシング成立以前からプロ空手の立ち上げを狙っていたが、キックボクシングが成立後、極真ジムを立ち上げてNET系興行に[[山崎照朝]](極真全日本優勝)などの選手を送り込んだ。[[1971年]](昭和46年)に第2の団体[[全日本キックボクシング連盟|全日本キックボクシング協会]]が旗揚げ。コミッション組織を確立させた上で、[[藤原敏男]]をエースに据え、日本キックボクシング協会と双璧をなす団体にまで成長した。


1970年代に入ると本家の野口は野口プロモーションで抱えていた[[五木ひろし]]の興行による莫大な利権でナベプロ、ホリプロとの賞レースに参入するなど世間を賑わせていた。その反面、もう一つの興行の柱であるキックボクシングは凋落の道を辿っていた。[[オイルショック]]後の大不況、日本テレビの放送打ち切り、沢村忠の休業(のち[[引退]])で興行成績・人気はみるみる下降した。日本をあきらめ香港での試合出場に本腰を入れるも当地での事故発生で興行不能となる。日本のキックボクシング界は統合に向かって進んでいったが焼け石に水であった。
[[1970年代]]に入ると野口プロモーション[[五木ひろし]]の興行による莫大な利権で[[ワタナベエンターテインメント|ナベプロ]][[ホリプロ]]との賞レースに参入するなど世間を賑わせていた。その反面、もう一つの興行の柱であるキックボクシングは凋落の道を辿っていた。[[オイルショック]]後の大不況、日本テレビやTBSの放送打ち切り、沢村忠の休業(のち[[引退]])で興行成績・人気はみるみる下降した。日本をあきらめ香港での試合出場に本腰を入れるも当地での事故発生で興行不能となる。日本のキックボクシング界は統合に向かって進んでいったが焼け石に水であった。


=== 分裂期 ===
=== 分裂期 ===
1984年に、日本のキックボクシングの7団体のうち4団体が解散し合同して[[日本キックボクシング連盟]]を設立。同年11月30日に、後楽園ホールで旗揚げを行う。1985年に、日本キックボクシング連盟の元理事長で、六本木で「朋昌」という会社を営んでいた実業家の石川勝将が「[[マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟]]」を設立。石川は、同団体を追放された形でMA日本を設立した。1987年7月に、マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟に所属していたジムが同連盟を離脱し、[[全日本キックボクシング連盟]]を創設した。この際、ジムのみならず、認定していた5階級の現役王者全員が全日本キックに流出した。1996年に入ると、全日本キックが完全に分裂し、当時同団体の理事長をめていた[[藤田眞]]と所属していたジムの大半が離脱。[[ニュージャパンキックボクシング連盟]](以降、NJKF)を結成。1997年10月に「オールジャパンエンタープライズ」が倒産したため、全日本キックボクシング連盟が解散。直後に、有力ジムにより同連盟が立ち上げられ、活動を再開した。1997年に全日本キック所属のジム「[[アクティブJ]]」が新団体のJ-NETWORK(以降、J-NET)を結成した。また、全日本キック傘下のジムとして主催興行を予定していた1997年12月21日をJ-NETWORKの旗揚げ興行とし、その日に興行を行った。1998年6月14日に、八王子FSGを中心としたジムが記者会見を開き、彼らは全日本キックを離脱し、[[キック・ユニオン]](K-U)を結成すること明らかにした。
[[1984年]](昭和59年)に、日本のキックボクシングの7団体のうち4団体が解散し合同して[[日本キックボクシング連盟]]を設立。同年[[11月30日]]に、後楽園ホールで旗揚げを行う。[[1985年]](昭和60年)に、日本キックボクシング連盟の元理事長で、六本木で「朋昌」という会社を営んでいた実業家の石川勝将が「[[マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟]]」を設立。石川は、同団体を追放された形でMA日本を設立した。[[1987年]](昭和62年)7月に、マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟に所属していたジムが同連盟を離脱し、[[全日本キックボクシング連盟]]を創設した。この際、ジムのみならず、認定していた5階級の現役王者全員が全日本キックに流出した。[[1996年]]([[平成]]8年)に入ると、全日本キックが完全に分裂し、当時同団体の理事長をめていた藤田眞と所属していたジムの大半が離脱。[[ニュージャパンキックボクシング連盟]](以降、NJKF)を結成。[[1997年]](平成9年)10月に「オールジャパンエンタープライズ」が倒産したため、全日本キックボクシング連盟が解散。直後に、有力ジムにより同連盟が立ち上げられ、活動を再開した。1997年(平成9年)に全日本キック所属のジム「アクティブJ」が新団体の[[J-NETWORK]](以降、J-NET)を結成した。また、全日本キック傘下のジムとして主催興行を予定していた1997年(平成9年)[[12月21日]]をJ-NETの旗揚げ興行とし、その日に興行を行った。[[1998年]](平成10年)[[6月14日]]に、八王子FSGを中心としたジムが記者会見を開き、彼らは全日本キックを離脱し、[[キック・ユニオン]](K-U)を結成すること明らかにした。


=== K-1の登場 ===
=== K-1の登場 ===
しかし1990年代になり、早くからテレビ界とのコネクションをつけて[[空手道|空手]]による興行行っていた[[石井和義]]が、キックの亜流ルール(ヨーロッパキックボクシングルール肘打ち禁止)で空手[[ボクシング]][[ムエタイ]]など、多くの立ち技系格闘技の選手を招き、テレビ局との共催で打撃系格闘技世界最強を決めると称する大会「[[K-1]]」を立ち上げ、人気を博す。
[[1990年代]]になりテレビ界とのコネクションをつけて[[フルコンタクト空手]]の大会催していた[[石井和義]]が、キックボクシングの亜流ルール肘打ち禁止する欧州ムエタイルールをアレンジしたもの)で[[空手]]・[[ボクシング]][[ムエタイ]]など、多くの立ち技系格闘技の選手を招き、テレビ局との共催で打撃系格闘技世界最強を決めると称する大会「[[K-1]]」を立ち上げ、人気を博す。肘打ちを禁じて流血する度合いを減らし、首相撲によるクリンチ状態になると早めにブレイクして膠着した試合を防いだ。見る側であるオーディエンスに配慮したルール制定と、派手な演出でブームを呼び起こした


=== 新団体の設立 ===
=== 新団体の設立 ===
2006年5月に、新日本キックボクシング協会所属の藤ジムが離脱を表明し、[[天空キックボクシング協会]]の設立を表明。元々は興行を開催する事務局だったが、藤ジム会長の[[加藤重夫]]の「団体として確立させないと、試合の意義がただのジム対抗戦となり、それでは選手にとって可哀想であることと、ファンにとっても、単に試合があっただけという一過性のままで終わらせるは良くない」という理由により団体として設立させることを決めた。また、加藤は協会の会長に就任した<ref>[http://www.boutreview.com/data/news05/060528tenku.html <nowiki>[天空]</nowiki>5.28 新宿:「天空キックボクシング協会」に団体化] BoutReview: 2006-5-2. 2009年9月27日閲覧.</ref>。
[[2006年]](平成18年)5月に、[[新日本キックボクシング協会]]所属の藤ジムが離脱を表明し、[[天空キックボクシング協会]]の設立を表明。元々は興行を開催する事務局だったが、藤ジム会長の[[加藤重夫]]の「団体として確立させないと、試合の意義がただのジム対抗戦となり、それでは選手にとって可哀想であることと、ファンにとっても、単に試合があっただけという一過性のままで終わらせるは良くない」という理由により団体として設立させることを決め、加藤は協会の会長に就任した<ref>[http://www.boutreview.com/data/news05/060528tenku.html <nowiki>[天空]</nowiki>5.28 新宿:「天空キックボクシング協会」に団体化] BoutReview: 2006-5-2. 2009年9月27日閲覧.</ref>。12月に[[アメリカ合衆国]][[オクラホマ州]]に本部を置く全世界キックボクシング連盟(UKF)の日本進出の足がかりとして、[[UKFジャパン]]が設立。理事長には、かねてよりUKFと親交のあった羽田善彦が選ばれた<ref>[http://www.boutreview.com/data/news05/070121buraikan.html <nowiki>[武頼漢]</nowiki>1.21 新宿:新田、UKF世界戦調印式でマジットとエール交換] BoutReview: 2007-1-20. 2009年9月27日閲覧.</ref>。


[[2008年]](平成20年)[[2月12日]]にタイ・バンコクで、山根千抄がWBCムエタイ会長のゴーヴィット・パックディーブーム(WBC副会長兼務)と、[[ジャパン・プロフェッショナル・ムエタイ・コミッティ|ジャパン・プロフェッショナル・ムエタイ・コミッション]](以下、JPMC)が日本におけるWBCムエタイが認可する唯一の組織であるという調印を交わした。[[3月3日]]にJPMC設立(NPO法人申請中)のプレスリリースを公表し、JPMCが日本におけるWBCムエタイへの唯一の窓口とした。同年[[10月1日]]に、JPMCの正式名称を、「コミッション」から委員会を意味する「コミッティ」に改称。同時に、JPMCをWBCムエタイルールに基づくプロのムエタイ活動の窓口として組織を再構することを発表<ref>[http://www.boutreview.com/2/news/item_1243.html JPMCが組織名と活動方針を一部変更] BoutReview:2008-10-3. 2009年9月27日閲覧.</ref>。
2006年12月に、アメリカ合衆国オクラホマ州に本部を置く[[全世界キックボクシング連盟]](UKF)の日本進出の足がかりとして、[[UKFジャパン]]が設立。理事長には、かねてよりUKFと親交のあった羽田善彦が選ばれた<ref>[http://www.boutreview.com/data/news05/070121buraikan.html <nowiki>[武頼漢]</nowiki>1.21 新宿:新田、UKF世界戦調印式でマジットとエール交換] BoutReview: 2007-1-20. 2009年9月27日閲覧.</ref>。


[[2009年]](平成21年)[[6月13日]]に、東京都でJPMC、NJKF、MA日本が共同で記者会見を開き、「WBCムエタイルール日本統一王座決定トーナメント」の開催を発表<ref>[http://www.njkf.info/news/news_090613kaiken.html WBCムエタイルール日本統一王座決定トーナメント開催!] NJKF: 2009-6-13. 2009年9月27日閲覧.</ref>。7月中旬に[[全日本キックボクシング連盟]]代表の金田敏男が逮捕されたことにより、同団体が解散<ref>[http://www.boutreview.com/2/news/aj-kick/item_3359.html 全日本キック解散。Krushフェスで新団体発表] BoutReview: 2009-8-21. 2009年9月27日閲覧.</ref>。[[9月23日]]、「WBCムエタイルール日本統一王座決定戦」において、フライ級・バンタム級・スーパーバンタム級・フェザー級の4階級で初代日本統一王者が誕生<ref>[http://www.boutreview.com/2/reports/njkf/090923njkf2.html 4階級で初代の日本統一王者が決定] BoutReview:2009-9-25. 2009年9月27日閲覧.</ref>。
2008年2月12日に、タイ・バンコクで、山根千抄がWBCムエタイ会長のゴーヴィット・パックディーブーム(WBC副会長兼務)と、[[ジャパン・プロフェッショナル・ムエタイ・コミッション]](以下、JPMC)が日本におけるWBCムエタイが認可する唯一の組織であるという調印を交わした。3月3日にJPMC設立(NPO法人申請中)のプレスリリースを公表し、JPMCが日本におけるWBCムエタイへの唯一の窓口とした。同年10月1日に、JPMCの正式名称を、「コミッション」から委員会を意味する「コミッティ」に改称。同時に、JPMCをWBCムエタイルールに基づくプロのムエタイ活動の窓口として組織を再構することを発表<ref>[http://www.boutreview.com/2/news/item_1243.html JPMCが組織名と活動方針を一部変更] BoutReview:2008-10-3. 2009年9月27日閲覧.</ref>。


[[2010年]](平成22年)[[1月23日]]、[[M-1ムエタイチャレンジ]]が中心となって[[ジャパン・マーシャルアーツ・ディレクターズ]](''JMD'')の発足を発表<ref>[http://gbring.com/sokuho/news/2010_01/0125_rebels.htm ムエタイ&RISEをより競技化するためJMD発足、理事長は藤原敏男氏!] GBR: 2010-1-25. 2010年1月26日閲覧.</ref>。[[世界プロムエタイ連盟]](''WPMF'')の日本本部としてJMDがWPMFルールを管轄する。JMDにはムエタイの他、独自ルールの[[R.I.S.E.]]も参加していたが、2011年に離脱。その後、WBCムエタイを離脱したMA日本が加わった。
2009年6月13日に、東京都でJPMC、NJKF、MA日本が協同で記者会見を開き、「WBCムエタイルール日本統一王座決定トーナメント」の開催を発表<ref>[http://www.njkf.info/news/news_090613kaiken.html WBCムエタイルール日本統一王座決定トーナメント開催!] NJKF: 2009-6-13. 2009年9月27日閲覧.</ref>。


[[2016年]](平成28年)11月22日、国内複数の団体と連携して統一を図る一般社団法人キックボクシング振興会の発足を発表<ref>{{Cite news |title=武蔵、ホースト両氏が協力、キックボクシング振興会が設立 来春大会開催へ |url=https://www.daily.co.jp/ring/2016/11/22/0009688916.shtml |newspaper=デイリースポーツ |date=2016-11-22 }}</ref>。
同年7月中旬に、[[全日本キックボクシング連盟]]代表の金田敏男が逮捕されたことにより、同団体が解散<ref>[http://www.boutreview.com/2/news/aj-kick/item_3359.html 全日本キック解散。Krushフェスで新団体発表] BoutReview: 2009-8-21. 2009年9月27日閲覧.</ref>。


== 世界のキックボクシング ==
同年9月23日、「WBCムエタイルール日本統一王座決定戦」において、フライ級、バンタム級、スーパーバンタム級、フェザー級の4階級で初代日本統一王者が誕生<ref>[http://www.boutreview.com/2/reports/njkf/090923njkf2.html 4階級で初代の日本統一王者が決定] BoutReview:2009-9-25. 2009年9月27日閲覧.</ref>。
=== ヨーロッパ ===
[[大山道場]](後の[[極真会館]])で修業した[[ジョン・ブルミン]]が[[1962年]]に帰国し[[オランダ]]で「オオヤマ道場」を設立。空手と柔道を教え、オランダに[[空手]]が広まる。その後、大山道場師範代だった[[黒崎健時]]が[[1966年]]に11ヶ月間[[オランダ]]で指導し、キックボクシングの技術も伝えた。黒崎がキックボクシングに転向し設立した[[目白ジム]]で修行したヤン・プラスが母国のオランダに目白ジム・アムステルダムを設立。[[トム・ハーリック]]が設立した[[ドージョー・チャクリキ]]、目白ジム・アムステルダムの創設メンバーの一人だったヨハン・ボスが設立した[[ボスジム]]と共に「オランダ三大ジム」と称されている。
=== アメリカ ===
[[1970年代]]、アメリカでは[[伝統派空手]]が普及しており、試合は[[寸止め]]でポイントを争う試合が一般的だったが、[[1970年]]1月17日に開催された空手大会ではスペシャルマッチとして[[ロサンゼルス]]で初めて、直接打撃する試合が行われた。選手は[[ボクシング]][[リング (格闘技)|リング]]で上半身裸にボクシンググローブ着用、下半身は空手着という格好で、[[:w:Joe Lewis (martial artist)|ジョー・ルイス]]が2ラウンドKO勝ちした<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=-c8DAAAAMBAJ&pg=PA27&lpg=PA27&dq=birth+of+competition+jkd&source=bl&ots=CC9Np-S0N5&sig=izON6NHs_nCs81eZ7xO4J6u8OHM&hl=ja&sa=X&ei=UqgsUL7sDevymAWJ1YFY&ved=0CDgQ6AEwAA#v=onepage&q=birth%20of%20competition%20jkd&f=false Black Belt 1992年 5月号 27ページ The Birth of Competition JKD by Jerry Beasley, Ed.D.]</ref>。ルイスが中心となり[[1974年]]、[[プロ空手協会]](PKA)を設立した。当初の名称はフルコンタクト空手。[[1980年代]]後半あたりから、フルコンタクト・キックボクシングという呼称で呼ばれるようになった。ちなみに、フルコンタクト空手の名称はこちらがオリジナルで、[[極真会館|極真空手]]に代表されるような、日本の[[フルコンタクト空手]]とは関係は無い。プロ空手協会から分離独立した[[世界キックボクシング協会 (WKA)]]が日本のキックボクシングと提携していった。

== 女子キックボクシング ==
女子キックボクシングの歴史も古く、男子でさえ黎明期であった[[1960年代]]には既に女性のキックボクサーも存在していた。[[1974年]](昭和49年)に[[女子プロレス]]以外では日本初の女子プロ格闘技団体となる日本女子キックボクシング協会が発足され、単発で興行を行った。興行は[[テレビ東京|東京12チャンネル(現・テレビ東京)]]にて『ピンクショック!』→『激突!女子格闘技大戦争』のタイトルで中継も実施された。しかし、これらは当時大人気だった女子プロレスに対抗するべくお色気・エンタメ色が強調されたものであった。番組内では同協会とは別組織である全日本女子格闘技連盟によりマーシャルアーツや[[女子ボクシング|ボクシング]]などの試合も放送していた。

日本女子キック協会は[[1980年代]]に幕を下ろし、一部の選手は[[シュートボクシング]]や日本キックボクシング協会などに戦いの場を移す。[[1990年代]]には[[全日本女子プロレス]]にてキックボクシングルールに近い格闘技戦(団体ではグローブマッチと呼ばれた)を開始して王座も創設され、やがて異種格闘技対抗戦に発展し火が付いた。その後、シュートから多くの選手がキックに転向し、そのひとりである[[神風杏子]]が世界王座を獲得。さらに[[熊谷直子]]、三井綾、[[中沢夏美]]の「不動館三人娘」らの活躍により、競技色が強まった形で女子キックは再興された。興行内では女子ボクシングの試合も組まれ、[[シュガーみゆき]]らが転向して活躍。女子ボクシング部門は後に[[日本女子ボクシング協会]]として独立し、[[日本ボクシングコミッション]]が女子を認定する[[2007年]](平成19年)まで続けられた。

[[2000年代]]には、[[柴田早千予]]がキック・ムエタイで合わせて8冠を獲得する活躍を見せる。そして女子[[総合格闘技]]の[[スマックガール]](現・[[JEWELS]])などと合わせていわゆる「ジョシカク」としてブームを築き上げ、女子キックボクサーは増加した。それに伴い、全日本・新日本などが女子のみの興行を開始。[[天空キックボクシング協会]]は元々女子限定イベントとして旗揚げされたが、翌[[2006年]](平成18年)に男女団体化。2007年(平成19年)には[[J-NETWORK]]がキック界として初めてとなる女子国内王座「J-GIRLS王座」を創設した。J-GIRLSは[[スカイ・エー|スカイ・A sports+]]での中継もされている。その後も[[M-1ムエタイチャレンジ]]、[[ニュージャパンキックボクシング連盟]]も女子王座を創設している。

[[2009年]](平成21年)にはK-1が女子部門を新設し、女子限定イベント開催に向けて動き出している。


== ルール ==
== ルール ==
団体分裂の影響もあり、ムエタイに近いから危険な技を取り除き安全性を高めたものまでさまざまなルールが存在する。
団体分裂の影響もあり、ムエタイに近いものから危険な技を取り除き安全性を高めたものまでさまざまなルールが存在する。特に肘や膝を用いた攻撃は流血を伴いやすく禁止されていることもある。最も極端なスタイルでは肘打ちや膝蹴りはもちろん、団体によってはスネをつかった蹴りも禁止され、腰から上のみの攻撃が許されているというものがある。
特に肘や膝を用いた攻撃は流血を伴いやすいく禁止されていることもある。
最も極端なスタイルでは肘打ちや膝蹴りはもちろん、団体によってはスネをつかった蹴りも禁止され、腰から上のみの攻撃が許されているというものがある。
日本のキックボクシング誕生初期にはムエタイに対抗するため頭突きや柔道式の投げ技を認められていたこともあった。


=== 日本のキックボクシング ===
キックボクシングの試合は2-5Rで行われることが多く、ボクシング同様3分1ラウンドで1分の休憩を挟む形式が主流でムエタイのよう休憩を2分取ることは稀である。団体によってはボクシング同様、12ラウンド試合を行う場合もある。
ムエタイとよく似ており、[[ローキック]]、[[肘打ち]]・[[ボディ]]および[[顔面]]への[[膝蹴り]]を認めている。ボクシング同様3分1ラウンドで1分の休憩を挟む形式が主流で、[[タイ王国|タイ]]国内におけるムエタイのように休憩に2分取ることは稀である。ラウンド数は3 - 5であり、3Rは新人選手、トップ選手の場合は5Rで行ってきたが、K-1の影響もあって3Rで試合を行う例が増えてきている。ムエタイルールとの差異はポイントシステムで、膝蹴りやボディへの[[蹴り技|キック]]が大きなポイントとなるタイと異なり、日本の場合は比較的どの打撃も公平にスコアされる。


=== ムエタイルール ===
* [[国際競技空手協会#公式ルール]]
ローキック、肘打ち、ボディおよび顔面への膝蹴りを認めている。タイのムエタイが賭けの対象であることもあって、ラウンド間のインターバルは2分である。しかし、国際ルールなどでは、1分または1分30秒に短縮することもある。ムエタイとキックボクシングとの違いを[[佐藤嘉洋]]は「ムエタイは技の華麗さやディフェンスのうまさ、キックボクシングは相手に与えたダメージの多さで判定する」と語っている。
* [[世界キックボクシング団体協会#ルール]]


=== 欧州ムエタイルール ===
== 服装 ==
オランダで発祥したルール。欧州でいち早くムエタイが普及したオランダであったが、安全性の考慮からか肘打ちおよび頭部への膝蹴りが禁止されている。試合は3分5ラウンドで行われる。[[K-1]]の公式ルールはこの欧州ムエタイルールをアレンジしたものである。
=== アマチュア ===
[[ファイル:AnthonyRemenieras medium-contact06.jpg|right|thumb|250px|海外のアマチュアキックボクシングの試合。写真のように服やキックボクシング用の胴衣を着用することがある。日本では見られない。]]
団体やルールにもよるが、通常はボクシングのトランクスやムエタイ同様のキックパンツ、またはキックボクシング用の長ズボン、ヘッドギア、グローブを着用する。足には靴を履かず裸足で試合を行う場合が殆どだが、ルールによっては脛あてと足を保護する靴型のプロテクターを着用することもある。また、負傷防止のため[[マウスピース (スポーツ)|マウスピース]]とファウルカップを着用する。アマチュアのムエタイでは胴体部分に防具を身につける。


=== プロ ===
=== フルコンタクトルール ===
[[1970年代]]にアメリカで発祥したルール。[[伝統派空手]]から派生したため、ローキック(下段蹴り)、肘打ち、膝蹴りを禁止している。1ラウンド2分で、タイトルマッチは世界戦は12R。選手の服装は、基本は空手衣をモデルにしたサテン製のロングパンツ着用だが、トランクス・キックパンツを選ぶ選手もいる。脚には、脛当てとフットパッドと呼ばれる靴状のプロテクターの着用が義務づけられている。また、ボクシングとの差異を図るため、1ラウンドにつき、対戦相手の腰より上への蹴りを8回蹴らなくてはいけない。8回に満たない場合は、ポイントが減点される仕組みである。このルールによる試合形式は、対ムエタイを標榜する日本で全く流行らず、今も行われていない。しかし近年のアメリカに於いて、このフルコンタクトスタイルを復活させる目論みとして、フルコンタクトルールをベースに膝蹴り(首相撲は不可、ムエタイでいうテンカオのみ)を有効打に加え、腰より上へ8回蹴る決まりを廃止した独自のルールで争う「'''[[:en:World Combat League|World Combat League]]'''(ワールドコンバットリーグ、通称'''WCL''')」という団体が[[チャック・ノリス]]によって設立された。
通常はボクシングやムエタイ同様に上半身は裸体であり、国際式ボクシングのトランクスより蹴りを出しやすく、ルーズに作られたキックパンツ、またはアメリカンカラテ・キックボクシングの影響を受けた、派手なロングパンツを着用する。
以前はムエタイブランドのパンツを使う場合が多かったが、最近はオリジナルデザイン・縫製しを施したオーダーメイドのパンツを着用する選手も多い。


=== インターナショナル・ルール ===
グローブを着用し、足には靴を履かず裸足で試合を行う。しかし団体またはルールによってはプロの試合でも、足を保護する靴型のプロテクターと脛あてを着用することもある。また[[スパーリング]]の場合には[[ヘッドギア]]を着用することもある。その他、腕に'''パープラチアット'''(ムエタイ選手が腕部に付けるお守り)をつける選手もいる。
別名レッグキック(ローキック)・ルール。一時期の欧米ではこのルールが、“キックボクシング・ルール”とされていたことがある。1976年に世界空手協会として創設されたアメリカの[[世界キックボクシング協会 (WKA)|WKA]]が1977年より全日本キックボクシング協会と提携することで独自性を確立すべく提唱したルール。ムエタイを機軸とした日本のルールとアメリカのプロ空手(フルコンタクトルール)の折衷案として、アメリカと日本や欧州の選手が同じリングで戦えるようにするために採用された。基本は2分1ラウンドのフルコンタクトルールに大腿部の外側のみのローキックを認めたもので、膝関節や内股への打撃は禁止されていた。1980年代前半までは、選手のフルコンタクト用ロングパンツ着用と1ラウンドにつき腰より上を8回蹴るルールが義務付けられていた。ただし、足へのプロテクションはフットパッドのみで、脛当ては除外された。日本でも1980年代前半の一時期、全日本マーシャルアーツ連盟の興行では頻繁に行われていたルール。続く新生、[[全日本キックボクシング連盟]]の興行でもWKAのタイトルマッチなどの国際戦ではこのルールが採用されていた。ただ、この時期より、ロングパンツの着用や8キックカウントは徐々に除外されるようになった。アメリカではWKA以外ではKICKという団体が世界タイトル戦のみで採用していたルールだが、やがてWKAを含む多くの団体が、このルールを含む複数のルールのチャンピオンを認定するようになり、それにともない、ローキックの攻撃箇所に差異が現れるようになった。


* [[国際競技空手協会#公式ルール]]
着用されるグローブはタイ製のグローブが多いが、日本製の[[ウイニング]]が採用される場合や、薄いメキシコ製の場合もあり、規格は特定されていない。ただし、対戦者同士は同じグローブを使用する。
* [[世界キックボクシング団体協会#ルール]]
* [[世界フルコンタクト協会#ルール]]


== 勝敗 ==
== 勝敗 ==
103行目: 113行目:


* バッティング:頭部で攻撃する。
* バッティング:頭部で攻撃する。
* [[ローブロー]]:相手のベルトラインより下を攻撃する。本項において狭義には、主に下腹部(金的)への攻撃のこと
* [[ローブロー]]:下腹部(金的)への攻撃。
* ラビットパンチ:相手の後頭部を攻撃する。
* ラビットパンチ:相手の後頭部を攻撃する。
* 相手の背中側を攻撃する(キドニーブローとされる場合がある)。
* 相手の背中側を攻撃する(キドニーブローとされる場合がある)。
110行目: 120行目:
* サミング:グローブの親指で相手の目を突く攻撃。
* サミング:グローブの親指で相手の目を突く攻撃。
* オープンブロー:グローブの内側で打つ攻撃。
* オープンブロー:グローブの内側で打つ攻撃。
* 投げ技で相手を地面に投げつける攻撃([[散打]]、[[シュートボクシング]]、[[ドラッカ]]を除く)。但し、リヤンや足(+腰)を使わない投げ技はOK等、団体やルールによってバラつきがある。
* 投げ技で相手を地面に投げつける攻撃(団体やルールによる
* 関節技・絞め技・寝技(団体やルールによる)。
* 関節技・絞め技(団体やルールによる)。
* ラウンド中に規定の回数以上の蹴りさない(団体やルールによる)。
* ラウンド中に規定の回数以上の蹴りを出さない(団体やルールによる)。
* (顔面及び首部への)肘打ち(団体やルールによる)。
* 肘打ち(団体やルールによる)。


== [https://winme-gym.com/blog/wear/ 服装] ==
== タイトル ==
=== アマチュア ===
ボクシングとは違い、日本の王座認定団体は複数に分裂しており、また世界王座認定団体も多く乱立している。そのためタイトル自体にはあまり意味が無い。ここでは、プロの日本の地区王座、主要な日本王座そして世界王座を挙げる。
[[ファイル:AnthonyRemenieras medium-contact06.jpg|right|thumb|250px|海外のアマチュアキックボクシングの試合。写真のように服やキックボクシング用の胴衣を着用することがある。日本では見られない。]]
団体やルールにもよるが、通常はボクシングのトランクスやムエタイ同様のキックパンツ、またはキックボクシング用の長ズボンや空手着下衣をはき、防具としてヘッドギア、グローブを着用する。足には靴を履かず裸足もしくはアンクルサポーター(足首から脛を覆う薄手のストッキング状のサポーター)を着けて試合を行う場合が殆どだが、ルールによっては脛あて(レガース・レックパット)と、足を保護する靴型のプロテクター(サポーター)を着用することもある。また、負傷防止のため[[マウスピース (スポーツ)|マウスピース]]とファウルカップを着用する。アマチュアのムエタイでは胴体部分に防具を身につける。


=== プロ ===
* 地区タイトル
通常はボクシングやムエタイ同様に上半身は裸体であり、国際式ボクシングのトランクスより蹴りを出しやすく、ルーズに作られたキックパンツ、またはアメリカンカラテ・キックボクシングの影響を受けた、派手なロングパンツを着用する。
** [[沖縄格闘技連盟]](Okinawa Martial Arts Federation / OMAF)
以前はムエタイブランドのパンツを使う場合が多かったが、最近はオリジナルデザイン・縫製のオーダーメイドパンツを着用する選手も多い。
** [[国際競技空手協会|ISKA沖縄]]

** 全沖縄王座(もしくは[[天下一スタジアム]]王座)
グローブを着用し、足には靴を履かず裸足もしくはアンクルサポーター着用で試合を行う。しかし団体またはルールによってはプロの試合でも、足を保護する靴型のプロテクターと脛あてを着用することもある。また[[スパーリング]]の場合には[[ヘッドギア]]やレガースを着用することもある。その他、腕に'''パープラチアット'''(ムエタイ選手が腕部に付けるお守り)をつける選手もいる。
** [[JML]]([[REAL DEAL]]という会社兼ジムが認定する[[九州]]王座)

** [[M-1ムエタイチャレンジ|M-1]]([[ウィラサクレック・ムエタイジム]]が公認するタイトル)
着用されるグローブはタイ製のグローブが多いが、日本製の[[ウイニング]]が採用される場合や、[[レイジェス]]など薄い[[メキシコ]]製の場合もあり、規格は特定されていない。ただし、対戦者同士は同じグローブを使用する。
** [[かきだみし王者]]([[かきだみし]]の認定する[[全沖縄]]王座)

** [[格闘技MISSION]]([[GOD'S GYM]]という[[ミッション]]系のジムが認定する王座)
[[File:Tetsuya Yamato.jpg|thumb|キックボクシング選手]]
** [[国際チャクリキ教会]]認定[[西日本]]王座

=== ブランド ===
主なムエタイ・キックボクシング用品のブランドとして、タイ国製のウインディ、タイサマイ、FBT、ツインズなどがある。また日本の格闘技用品業者も製造をタイのメーカーに[[OEM]]委託する場合が多いが、最近では自社で企画・製造する日本の業者も現れている。

== タイトルと団体 ==
日本の王座認定団体は複数に分裂しており、また世界王座認定団体も多く乱立している。ここではプロの日本の地区王座、主要な日本王座そして世界王座を挙げる。

* 世界タイトル
**世界キックボクシング協会(WKBA)
*: [[新日本キックボクシング協会]]が母体
** [[世界キックボクシング協会 (WKA)|世界キックボクシング協会]] (World Kickboxing and Karate Association / WKA)
** [[国際キックボクシング連盟]] (International Kickboxing Federation / IKF)
** [[国際競技空手協会]] (International Sport Karate Association / ISKA)
** [[世界キックボクシング連盟]] (World Kickboxing Federation / WKF)
** [[世界キックボクシング団体協会]] (World Association of Kickboxing Organizations / WAKO)
** [[マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟#世界マーシャルアーツ連盟(WMAF)|世界マーシャルアーツ連盟]](World Martial Arts Federation / WMAF)
*: [[マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟]]が母体
** [[K-1]]
*: トーナメント方式による大会で毎年王者を決定し、それとは別に王座認定も行う
** [[S1 (格闘技)|S1]]
*: トーナメント方式による大会で年2回世界王者を決定し、それとは別に王座認定も行う
** [[世界ボクシング評議会|WBC]] MUAY THAI
*: [[世界ボクシング評議会]]が2005年、ムエタイ部門の発足を表明した。


* 国内タイトル
* 日本の国内タイトル
** [[BLADE FIGHTING CHAMPIONSHIP]]([[ビッグバン実行委員会|Bigbang]]、[[REBELS]]、[[R.I.S.E.]] の三団体合同運営)
** [[全日本キックボクシング連盟]] (All Japan Kickboxing Federation / AJKF)
** [[KICKBOXING ZONE]] - [[全日本キックボクシング連盟]] (All Japan Kickboxing Federation / AJKF)の後継団体
** [[ニュージャパンキックボクシング連盟]] (New Japan Kickboxing Federation / NJKF)
** [[ニュージャパンキックボクシング連盟]] (New Japan Kickboxing Federation / NJKF)
** [[新日本キックボクシング協会]] (Shin Nihon Kickboxing Association / SNKA)
** [[新日本キックボクシング協会]] (Shin Nihon Kickboxing Association / SNKA)
135行目: 171行目:
** [[J-NETWORK]]
** [[J-NETWORK]]
*: 女子王座も認定
*: 女子王座も認定
** [[M-1ムエタイチャレンジ|M-1]]
*: WPMF日本支局
** [[R.I.S.E.]]
** [[R.I.S.E.]]
*: トーナメント方式で毎年王者を決定していたが、2008年より3階級での王座認定を開始。
*: トーナメント方式で毎年王者を決定していたが、2008年より3階級での王座認定を開始。
140行目: 178行目:
*: [[アジア太平洋キックボクシング連盟]]、[[日本キックボクシング連盟]]、[[キック・ユニオン|K-U]]の3団体が統一王座とランキングを制定
*: [[アジア太平洋キックボクシング連盟]]、[[日本キックボクシング連盟]]、[[キック・ユニオン|K-U]]の3団体が統一王座とランキングを制定
** [[UKFジャパン]]
** [[UKFジャパン]]
*: [[東洋]]王座も認定
*: 東洋王座も認定
** [[日本プロキックボクシング連盟]]
** [[日本プロキックボクシング連盟]]
*: 通称「日本プロキック連盟」・「日本プロキック」等
*: 通称「日本プロキック連盟」・「日本プロキック」等
** [[シュートボクシング|日本シュートボクシング協会]]
** [[シュートボクシング|日本シュートボクシング協会]]
*: 世界王座も認定。トーナメント方式の世界大会も行っている。
*: 世界王座も認定。トーナメント方式の世界大会も行っている。
** [[日本プロムエタイコミッション]](Japan Professional Muay Thai Commission / JPMC)
** [[ジャパン・プロフェッショナル・ムエタイコミッティ]] (Japan Professional Muay Thai Committee / JPMC)
*: [[WBCムエタイ]]公認のムエタイコミッション。
*: [[世界ボクシング評議会|WBCムエタイ]]公認のムエタイコミッション。
** [[K-1]]
** [[K-1]]
*: トーナメント方式による大会で毎年王者を決定していた時期もあったが、本大会での日本人選手の不振により、最近は「K-1JAPAN王者」の称号は使用は流動的になっている。
*: トーナメント方式による大会で毎年王者を決定していた時期もあったが、本大会での日本人選手の不振により、最近は「K-1JAPAN王者」の称号は使用は流動的になっている。
** [[日本格闘技キック連盟]]
** 日本格闘技キック連盟
*: 一昔前は関西キックとして一世を風靡。しばらく活動停止していたが復活し、関西でのキックボクシング人気の復活に貢献している。
*: 一昔前は関西キックとして一世を風靡。しばらく活動停止していたが復活し、関西でのキックボクシング人気の復活に貢献している。
** [[UN-JK連盟]]
** [[UN-JK連盟]]
*: [[和術慧舟會]]の立ち技部門として創設。
*: [[和術慧舟會]]の立ち技部門として創設。
** [[KNOCK OUT]](ノックアウト)
*: [[新日本プロレス]]で一定の成功を収めた[[ブシロード]]によるキックボクシングイベント。


* 世界タイトル
* 日本の地区タイトル
** 沖縄格闘技連盟(Okinawa Martial Arts Federation / OMAF)
** [[世界キックボクシング協会 (WKA)|世界キックボクシング協会]](World Kickboxing and Karate Association / WKA)
** [[国際競技空手協会|ISKA沖縄]]
** [[国際キックボクシング連盟]](International Kickboxing Federation / IKF)
** 全沖縄王座(主に天下一スタジアムが認定する王座)
** [[国際競技空手協会]](International Sport Karate Association / ISKA)
** JML(REAL DEALという会社兼ジムが認定する九州王座)
** [[世界キックボクシング連盟]](World Kickboxing Federation / WKF)
** 格闘技MISSION(GOD'S GYMという[[ミッション]]系のジムが認定する王座)
** [[世界キックボクシング団体協会]](World Association of Kickboxing Organizations / WAKO)
** 国際チャクリキ協会認定西日本王座
** [[マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟#世界マーシャルアーツ連盟(WMAF)|世界マーシャルアーツ連盟]](World Martial Arts Federation / WMAF)
*: [[マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟]]が母体
** [[K-1]]
*: トーナメント方式による大会で毎年王者を決定し、それとは別に王座認定も行う
** [[S1 (格闘技)]]
*: トーナメント方式による大会で年2回世界王者を決定し、それとは別に王座認定も行う。

{{世界のキックボクシング団体}}


== アマチュア ==
== アマチュア ==
173行目: 206行目:


* 地区団体
* 地区団体
** 東北格闘技連合会(BRAVE)
** 長野県ムエタイ連盟
** [[長野県ムエタイ連盟]]
** 山梨県キックボクシング協会


* 国内団体
* 国内団体
** [[全日本新空手道連盟]](All Japan Shin Karatedo Federation / AJSKF)
** [[全日本学生キックボクシング連盟]] (University Kickboxing Federation / UKF)
** [[全日本学生キックボクシング連盟]](University Kickboxing Federation / UKF)
** [[全日本新空手道連盟]] (All Japan Shin Karatedo Federation / AJSKF)
*: キックボクシングを名乗らないがスタイル・ルールもキックボクシングに近く、プロキックボクサーへの登竜門的な存在である。
** [[全日本グローブ空手道連盟]](All Japan Glove Karate Federation / AJGKF)
** [[日本アマチュアキックボクシング連盟]] (Japan Amateur Kickboxing Federation / JAKF)
** 日本グローブ空手道連盟 (All Japan Glove Karate Federation / AJGKF)
** [[日本アマチュアキックボクシング連盟]] (Japan Amateur Kickboxing Federation / JAKF)
** [[J-NETWORK]]
** [[J-NETWORK]]
*: プロの団体だが、アマチュアの選手育成も行っている。
*: プロの団体だが、アマチュアの選手育成も行っている。
188行目: 224行目:
** [[世界キックボクシング団体協会]]
** [[世界キックボクシング団体協会]]
*: [[GAISF]]公認のアマチュアキックボクシング統括団体。プロの王座も認定。
*: [[GAISF]]公認のアマチュアキックボクシング統括団体。プロの王座も認定。
** [[世界ムエタイ連盟]]
** 世界ムエタイ連盟
*: [[タイ王国|タイ国]]政府・タイ国オリンピック委員会公認。アマチュア競技のみを統括。
*: [[タイ王国|タイ国]]政府・タイ国オリンピック委員会公認。アマチュア競技のみを統括。
** [[世界キックボクシング協会 (WKA)|世界キックボクシング協会]](World Karate and Kickboxing Association / WKA)
** [[世界キックボクシング協会 (WKA)|世界キックボクシング協会]] (World Karate and Kickboxing Association / WKA)
*: プロ団体だが、アマチュアキックボクシングの国際大会の開催や、アマチュア王座の認定も行っている。
*: プロ団体だが、アマチュアキックボクシングの国際大会の開催や、アマチュア王座の認定も行っている。
** [[国際キックボクシング連盟]](International Kickboxing Federation / IKF)
** [[国際キックボクシング連盟]] (International Kickboxing Federation / IKF)
*: プロ団体だが、アマチュアキックボクシングの国際大会の開催や、アマチュア王座の認定も行っている。
*: プロ団体だが、アマチュアキックボクシングの国際大会の開催や、アマチュア王座の認定も行っている。
* [[国際キックボクシング・文化振興協会]]
* [[国際キックボクシング・文化振興協会]]
*: [[新日本キックボクシング協会]]所属・治政館ジムの[[長江國正]]が創設した団体。
*: [[新日本キックボクシング協会]]所属・治政館ジムの長江國正が創設した団体。


== テレビ番組 ==
== 女子キックボクシング ==
* [[YKKアワー キックボクシング中継|(YKKアワー)キックボクシング中継]] - [[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系]]で[[1968年]]から[[1980年]]まで放送していた中継番組
女子キックボクシングの歴史も古く、男子でさえ黎明期であった1960年代には既に女性のキックボクサーも存在していた。1974年に[[プロレス#女子プロレス|女子プロレス]]以外では日本初の女子プロ格闘技団体となる[[日本女子キックボクシング協会]]が発足され、単発で興行を行った。興行は[[テレビ東京|東京12チャンネル(現・テレビ東京)]]にて『[[ピンクショック!]]』→『[[撃突!女子格闘技大戦争]]』のタイトルで中継も実施された。しかし、これらは当時大人気だった女子プロレスに対抗するべくお色気・エンタメ色が強調されたものであった。
* [[キックボクシング (日本テレビ)|キックボクシング]] - [[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系]]で[[1969年]] - [[1971年]]に放送していた中継番組

* ワールドキックボクシング - [[オールニッポン・ニュースネットワーク|NET系]]で[[1969年]] - [[1970年]]に放送していた中継番組
日本女子キック協会は1980年代に幕を下ろし、一部の選手は[[シュートボクシング]]や日本キックボクシング協会などに戦いの場を移す。1990年代にはシュートボクシングや女子プロレスとの対抗戦で火が付いた。その後、シュートから多くの選手がキックに転向し、そのひとりである[[神風杏子]]が世界王座を獲得。さらに[[熊谷直子]]、[[三井綾]]、[[中沢夏美]]の「不動館三人娘」らの活躍により、競技色が強まった形で女子キックは再興された。興行内では[[女子ボクシング]]の試合も組まれ、[[シュガーみゆき]]らが転向して活躍。女子ボクシング部門は後に[[日本女子ボクシング協会]]として独立し、[[日本ボクシングコミッション]]が女子を認定する2007年まで続けられた。
* [[ゴールデン・キックボクシング]] - 日本テレビ系で[[1970年]] - [[1976年]]に放送した中継番組(上記の『キックボクシング』と並行)

* キックボクシング中継 - [[テレビ東京|東京12チャンネル]]で放送していた中継番組
2000年代には、[[柴田早千予]]がキック・ムエタイで合わせて8冠を獲得する活躍を見せる。そして女子[[総合格闘技]]の[[スマックガール]](現・[[JEWELS]])などと合わせていわゆる「ジョシカク」としてブームを築き上げ、女子キックボクサーは増加した。それに伴い、全日本・新日本などが女子のみの興行を開始。2007年には[[J-NETWORK]]がキック界として初めてとなる女子国内王座「J-GIRLS王座」を創設した。J-GIRLSは[[スカイ・エー|スカイ・A sports+]]での中継もされている。その後も[[M-1ムエタイチャレンジ]]、[[ニュージャパンキックボクシング連盟]]も女子王座を創設している。

2009年にはK-1が女子部門を新設し、女子限定イベント開催に向けて動き出している。

== 問題点 ==
* 組織・選手・統括組織(タイトル認定組織)がテレビ局ごとに系列化され、それぞれ別々に存在していること([[ボクシング]]を含む他の競技のように日本一を決めることすらできない)
* 興行はテレビがつくかつかないかに左右され、テレビ中継が消えるとほとんど経営が成り立たなくなる
以上二点は[[プロレス]]と同じであり、ともに競技性を無視し興行面のみが優先されるビジネスである。
* 興行資金は多くをタニマチからの援助に頼っているため、日本経済が好景気の時はキックボクシングも(タニマチからの巨額の援助で良い選手を呼び大きなイベントが打てるため)好調となり、不景気の時は(選手招聘等に大金をかけることができず興行はチマチマとした小規模なものとなり、話題も生まれないので)人気もあまり出ない。キックボクシングの人気は選手のリング上の努力で決まるのでなく、興行につぎ込まれたカネの量で決まる。これが冷徹な現実である。
* プロ選手のほぼ全員が、本業を別に持っている(サラリーマンなど)。収入面からもかける時間からいってもキックは副業である。これはプロボクシングと同じ。キックの場合、ジム会長も本業を別に持っている場合が多い。ひとえにキック(ボクシング)の収入では食えないからである。しかしこれでは社会人の趣味の活動と何が違うのかという素朴な疑問は残る。
* チケット売上ノルマ(売れなければその分借金となる)、[[出場給|ファイトマネー]]のチケット払い。これはプロボクシングと同じだし、ふつうの芸能系興行では珍しいことではない。
* 競技そのものに人気があるのではなく、特定のスター選手を見たいがために客が集まるということ。彼らが消えると興行不振になるどころか、キックボクシングそのものの存続が不可能となる。1960-1970年代には沢村忠、現在では[[魔裟斗]]がそれに該当するとされる。野球・相撲などでは考えられない不安定性であり、さきほどの、景気がだめになるとキック業界もだめになるという事実からいっても、時代の徒花になる可能性の高い、ひ弱なスポーツである。
* 沢村の時代から歴史的に[[八百長]]試合が横行したこともあり、プロレス同様に試合結果が一般紙で報道されることはない。


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
222行目: 246行目:
* 『キックボクシング入門』[[ベースボール・マガジン社]]、2003年発行([[ムック (出版)|ムック]])
* 『キックボクシング入門』[[ベースボール・マガジン社]]、2003年発行([[ムック (出版)|ムック]])
* 『キックボクシング入門 増補・改定版』ベースボール・マガジン社、2008年9月15日発行(ムック)
* 『キックボクシング入門 増補・改定版』ベースボール・マガジン社、2008年9月15日発行(ムック)

== 外部リンク ==
=== 日本国内のプロ各組織 ===
興行主を中心に記述。個別ジムについては基本的に記載しない。便宜的にK-1とムエタイも加える。

合同と分裂を繰り返したため、似かよった名前の団体が多く存在する。しかしそれぞれの団体は完全に別物であるだけでなく(それら似通った名前の団体は、かつては同一団体だったが、仲間割れにより分裂したので)、似た名であればあるほど仲が悪い。
* [http://www.k-1.co.jp/ K-1] - [[K-1]] ([[FEG]][[谷川貞治]]社長)
* [http://www.rise-kgs.com/ R.I.S.E.] - [[R.I.S.E.]](KGS[[伊藤隆 (キックボクサー)|伊藤隆]]代表)
:
* [http://www.jpm-c.com/ JPMC] - [[ジャパン・プロフェッショナル・ムエタイ・コミッション|ジャパン・プロフェッショナル・ムエタイ・コミッティ]](JPMC) [[WBCムエタイ]]ルールの試合等の統括。
* [http://www.muaythai.jp/M-1osirase.htm M-1] ムエタイの組織。
* [http://hachioji-fsg.com/ NKB] - タイトル認定組織 NKB([[日本キックボクシング]])
:
* [http://iandifactory.com/iandi/fighting/fighting_news.html 「連盟」] - [[日本キックボクシング連盟]](渡辺信久代表理事 - 渡辺ジム)
* [http://www.ma-kick.com/ 「MA日本キック」] - [[マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟]](橋本敏彦理事長 - 士道館橋本道場)
* [http://www.aj-kick.com/ 「全日本キック」] - Krush/[[全日本キックボクシング連盟]]
* [http://www.shinnihonkickboxing.com/ 「新日本キック」「協会」] - [[新日本キックボクシング協会]](伊原信一代表 - 伊原ジム)
* [http://www.njkf.info/ 「NJKF」] - [[ニュージャパンキックボクシング連盟]](斉藤京二理事長 - OGUNI-GYM)
* [http://www.jkickboxing.jp/ J-NETWORK] - [[J-NETWORK]]
* [http://hachioji-fsg.com/ 「K-U」] [[キック・ユニオン]](小林秀至代表 - 八王子ファイティングスポーツジム)
* [http://www7a.biglobe.ne.jp/~sennbajimu/ 日本プロキックボクシング連盟](戸高 今朝明理事長 - せんばジム)
* [http://www.mtoong.jp/ アジア太平洋キックボクシング連盟](APKF)(南 樹三生理事長 - MTOONGジム)
* [http://sports.geocities.jp/jkfkickbox/ 日本格闘技キック連盟](JKF)(中川二郎理事長 - 北心ジム)
:
* [http://www.nagoya-kick.com/ NAGOYA KICK] - NAGOYA KICK - 名古屋の地元ジムが連名で開催
* [http://heatofficial.com/ HEAT]
* [http://www.plus-blog.sportsnavi.com/touitsu/ TOUITSU]
* [http://www.deep2001.com/ DEEP KICK] - [[DEEP]] KICK
* [http://www.deek.jp/index.htm DEEK]
* [http://kakidamishi.shiriagari.com/ かきだみし]([[フルコンタクト空手#沖縄時代|掛け試し]]の[[琉球語]])
* [http://geocities.yahoo.co.jp/gl/ryuji_i_69 アールズ・エンタープライズ]
:
* [http://wwy.holy.jp/ オーエンジャイ](レストラン、飲み屋)
以下、キックボクシングではないが
* [http://www.shootboxing.org/ シュートボクシング] - [[シュートボクシング]]


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
;注釈
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;出典
{{Reflist}}
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:Kickboxing|キックボクシング}}

* キックボクサー
* キックボクサー
** [[男子キックボクサー一覧]]
** [[男子キックボクサー一覧]]
284行目: 275行目:
* [[キックボクシング団体一覧]]
* [[キックボクシング団体一覧]]


== 外部リンク ==
{{武道・武術}}
{{Commons|Category:Kickboxing|キックボクシング}}


*[https://www.ajkba.com/ 全日本キックボクシング協会]

{{武道・武術}}
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{{世界のキックボクシング団体}}
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[[sr:Кик бокс]]
[[sv:Kickboxning]]
[[ta:காலுதைச்சண்டை]]
[[tr:Kick Boks]]
[[uk:Кікбоксинг]]

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キックボクシング
Kickboxing
使用武器 ボクシンググローブ
発生国 日本の旗 日本
発生年 1966年昭和41年)
創始者 野口修山田辰雄
源流 ムエタイボクシング空手グローブ空手GHQ武道禁止令
派生種目 シュートボクシングK-1グローブ空手
主要技術 蹴り技パンチング肘打ち
公式サイト 全日本キックボクシング連盟
新日本キックボクシング協会
WAKO
WKA
テンプレートを表示
2010年オープンのドイツ

キックボクシング: kickboxing)は、格闘技の一つ。リングを使った打撃系格闘技全般、およびキックやパンチを用いる動作の総称としても使用され、この場合はストライキングとも呼称される。

概要

[編集]

日本のボクシングプロモーター野口修がムエタイの試合ルールを参考にして考案した、日本発祥の打撃格闘技である[1]興行によってはムエタイ空手ボクシングシュートボクシングサバット・ドラッカ・テコンドー散打等、様々な種類の立ち技格闘家同士が異種格闘技戦をすることもあり、プロ格闘競技種目の名称となっている。

野口が1960年代タイ王国の国技ムエタイを日本に招致する興行プランを立案。「ムエタイ対空手」、「ムエタイ対ボクシング」の異種格闘技戦のアイデアを実現させるために、試合としてのルールを編成したものである。興行が成功した結果、キックボクシングは「アジア地区で立ち技格闘技として最強と謳うムエタイに対抗し、日本が独自で開発した格闘技の一つ」とされている。

歴史

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キックボクシング成立前史

[編集]

1959年昭和34年)12月20日東京都台東区浅草公会堂でサノン・ETC対ベライノ・チールムーンという、タイ人同士によるムエタイの試合が日本で初めて開催された[2]。日本拳法空手道の創始者・山田辰雄直接打撃制による空手の試合化を目指しており、その研究の一環としてムエタイに興味を示す。既に山田は同年11月に「新スポーツの発足と其企業化計画草案大綱」なる企画書を発表し、新スポーツ「空手ボクシング(仮称)」を提唱した。この企画書の中で山田は「昭和35年の新春を期して、当方競技とやや同系類に属する『タイ国拳法選士団』を招聘」すると発表した。浅草公会堂で行われたムエタイ試合が山田が招聘したものかどうかは判然としないが、山田が日本で初めてムエタイに関心を示した空手家の一人だったことは確かである。山田は早速、飯田橋の道場にムエタイ・前チャンピオンのカウキー(カウイとも)を招待して、息子の山田侃にスパーリングの相手をさせ、ムエタイの研究を始めた。このカウキーを山田の元へ連れてきたのが野口修だった。1961年(昭和36年)、山田が発行した『日本拳法空手道教本』創刊号には、既にカウキーの写真が掲載されており、この時既に山田は空手とムエタイを融合させた新スポーツの構想を膨らませていた。

1962年(昭和37年)、山田は空手ボクシングを「第一回空手競技会」として後楽園ホールで開催した。これはノックアウト(打倒勝)、体重別階級、グローブ着用などのルールを採用して行われた。後のキックボクシングやフルコンタクト空手に先駆ける画期的試みだったが、寸止めルールを採用する当時の空手界からは黙殺され、新聞でも「ナグるケる木戸ご免」、「正統派?うたう空手競技会」などと酷評された。山田の早すぎた試みは結局挫折に終わった。一方、野口修は1962年(昭和37年)8月24日に後楽園ホールで開催された日本で二度目のムエタイ試合を観戦して感激し、空手対ムエタイの興行の可能性を感じた。早速野口は空手家にこの構想を打診するが、この時の相談相手が大山倍達(当時大山道場、のちの極真会館)と山田辰雄だった。1963年(昭和38年)、大山道場から黒崎健時中村忠藤平昭雄タイ王国バンコクへ向かい、空手対ムエタイの交流戦に参加した。当地では「日本から空手が殴り込みに来た」と大変な反響を巻き起こした。結果は2勝1敗で大山道場勢が勝ち越したものの、敗れた黒崎は打倒・ムエタイを誓い、1969年(昭和44年)にキックボクシングの目白ジムを創設して、大沢昇・島三雄・藤原敏男らを輩出した。

キックボクシングの成立

[編集]

タイ王国での成功に自信をつけた野口修は、1966年(昭和41年)1月30日、キックボクシングの名称を考案して日本キックボクシング協会を設立。空手家ボクサーなど異なる武道格闘技のバックボーンを持つ選手を集め、4月11日大阪府立体育会館で初めての興行を開催した。この時、直前になって突然大山倍達から「都合があって、申し訳ないが、どうしても選手を出せない」と辞退の連絡を受けた。山田辰雄の道場の選手だけでは試合に足りないことに慌てた野口が、急遽出場を依頼した一人に日大芸術学部空手部・剛柔流空手出身の沢村忠がいた。野口はボクサーであるライオン野口(野口進、元ボクシング日本王者で野口ボクシングジム創始者)の長男であり、帝拳ジムでボクシング業界裏方修行を積んだ、プロモーターの申し子のような人物であった。もともと存在したツテを生かしてテレビ局に対しても積極的に売り込んでいった。野口の政治力、熱意なしに国内に根付くことはなく、野口は“キックボクシング”を商標登録していた[3]。キックボクシングは全国的なブームを巻き起こし、在京の民放4局では沢村忠がエースの『YKKアワー キックボクシング中継』(TBSテレビ)、大沢昇がエースの『キックボクシング』『ゴールデン・キックボクシング』(日本テレビ)、山崎照朝がエースの『ワールドキックボクシング』(NETテレビ)、藤原敏男がエースの『キックボクシング中継』(東京12チャンネル)を独自に毎週レギュラー放映するほどの人気に至った。

日本拳法空手道は創始者・山田辰雄が亡くなった1967年(昭和42年)以降もキックボクシングへ協力し、錦利弘はキョードー東京のスター選手となり、日本人としては初めてタイ人現役ランカーにKO勝利。日本拳法空手道が組織として関わったのは『ワールドキックボクシング』で、江口和明(初代バンタム級チャンピオン)らを選手として送った。極真会館はキックボクシング成立以前からプロ空手の立ち上げを狙っていたが、キックボクシングが成立後にNETテレビから誘いを受け、極真ジムを立ち上げて山崎照朝(オープントーナメント全日本空手道選手権大会チャンピオン)・添野義二及川宏ら選手を『ワールドキックボクシング』へ送り込んだ。1969年(昭和44年)春には東京12チャンネルが、岡村プロモーションを通じて黒崎健時の目白ジムと提携し、同年の8月2日からテレビ中継を開始。1971年(昭和46年)には日本テレビで中継していた協同プロモーションの賛同も得て、石原慎太郎がコミッショナーを務める第2の団体全日本キックボクシング協会が設立され、日本テレビの協同プロモーションと東京12チャンネルの岡村プロモーションによる「八階級全日本統一王者決定戦」を日本武道館で行うなど、日本キックボクシング協会と双璧をなす団体にまで成長した[4]

1969年には日本の大学で初の『日本大学キックボクシング同好会[注釈 1]』を同大学生であった山崎照朝が結成[2]。同好会は後に部へ昇格し、1972年10月には全日本学生キックボクシング連盟が発足され、山崎は同連盟の設立に尽力した[2]

1970年代に入ると、野口プロモーションは五木ひろしの興行による莫大な利権でナベプロホリプロとの賞レースに参入するなど世間を賑わせていた。その反面、もう一つの興行の柱であるキックボクシングは凋落の道を辿っていた。オイルショック後の大不況、日本テレビやTBSの放送打ち切り、沢村忠の休業(のち引退)で興行成績・人気はみるみる下降した。日本をあきらめ香港での試合出場に本腰を入れるも当地での事故発生で興行不能となる。日本のキックボクシング界は統合に向かって進んでいったが焼け石に水であった。

分裂期

[編集]

1984年(昭和59年)に、日本のキックボクシングの7団体のうち4団体が解散し合同して日本キックボクシング連盟を設立。同年11月30日に、後楽園ホールで旗揚げを行う。1985年(昭和60年)に、日本キックボクシング連盟の元理事長で、六本木で「朋昌」という会社を営んでいた実業家の石川勝将が「マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟」を設立。石川は、同団体を追放された形でMA日本を設立した。1987年(昭和62年)7月に、マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟に所属していたジムが同連盟を離脱し、全日本キックボクシング連盟を創設した。この際、ジムのみならず、認定していた5階級の現役王者全員が全日本キックに流出した。1996年平成8年)に入ると、全日本キックが完全に分裂し、当時同団体の理事長を務めていた藤田眞と所属していたジムの大半が離脱。ニュージャパンキックボクシング連盟(以降、NJKF)を結成。1997年(平成9年)10月に「オールジャパンエンタープライズ」が倒産したため、全日本キックボクシング連盟が解散。直後に、有力ジムにより同連盟が立ち上げられ、活動を再開した。1997年(平成9年)に全日本キック所属のジム「アクティブJ」が新団体のJ-NETWORK(以降、J-NET)を結成した。また、全日本キック傘下のジムとして主催興行を予定していた1997年(平成9年)12月21日をJ-NETの旗揚げ興行とし、その日に興行を行った。1998年(平成10年)6月14日に、八王子FSGを中心としたジムが記者会見を開き、彼らは全日本キックを離脱し、キック・ユニオン(K-U)を結成すること明らかにした。

K-1の登場

[編集]

1990年代になりテレビ界とのコネクションをつけてフルコンタクト空手の大会を催していた石井和義が、キックボクシングの亜流ルール(肘打ちを禁止する欧州ムエタイルールをアレンジしたもの)で空手ボクシングムエタイなど、多くの立ち技系格闘技の選手を招き、テレビ局との共催で打撃系格闘技世界最強を決めると称する大会「K-1」を立ち上げ、人気を博す。肘打ちを禁じて流血する度合いを減らし、首相撲によるクリンチ状態になると早めにブレイクして膠着した試合を防いだ。見る側であるオーディエンスに配慮したルール制定と、派手な演出でブームを呼び起こした。

新団体の設立

[編集]

2006年(平成18年)5月に、新日本キックボクシング協会所属の藤ジムが離脱を表明し、天空キックボクシング協会の設立を表明。元々は興行を開催する事務局だったが、藤ジム会長の加藤重夫の「団体として確立させないと、試合の意義がただのジム対抗戦となり、それでは選手にとって可哀想であることと、ファンにとっても、単に試合があっただけという一過性のままで終わらせるのは良くない」という理由により団体として設立させることを決め、加藤は協会の会長に就任した[5]。12月にアメリカ合衆国オクラホマ州に本部を置く全世界キックボクシング連盟(UKF)の日本進出の足がかりとして、UKFジャパンが設立。理事長には、かねてよりUKFと親交のあった羽田善彦が選ばれた[6]

2008年(平成20年)2月12日にタイ・バンコクで、山根千抄がWBCムエタイ会長のゴーヴィット・パックディーブーム(WBC副会長兼務)と、ジャパン・プロフェッショナル・ムエタイ・コミッション(以下、JPMC)が日本におけるWBCムエタイが認可する唯一の組織であるという調印を交わした。3月3日にJPMC設立(NPO法人申請中)のプレスリリースを公表し、JPMCが日本におけるWBCムエタイへの唯一の窓口とした。同年10月1日に、JPMCの正式名称を、「コミッション」から委員会を意味する「コミッティ」に改称。同時に、JPMCをWBCムエタイルールに基づくプロのムエタイ活動の窓口として組織を再構することを発表[7]

2009年(平成21年)6月13日に、東京都でJPMC、NJKF、MA日本が共同で記者会見を開き、「WBCムエタイルール日本統一王座決定トーナメント」の開催を発表[8]。7月中旬に全日本キックボクシング連盟代表の金田敏男が逮捕されたことにより、同団体が解散[9]9月23日、「WBCムエタイルール日本統一王座決定戦」において、フライ級・バンタム級・スーパーバンタム級・フェザー級の4階級で初代日本統一王者が誕生[10]

2010年(平成22年)1月23日M-1ムエタイチャレンジが中心となってジャパン・マーシャルアーツ・ディレクターズJMD)の発足を発表[11]世界プロムエタイ連盟WPMF)の日本本部としてJMDがWPMFルールを管轄する。JMDにはムエタイの他、独自ルールのR.I.S.E.も参加していたが、2011年に離脱。その後、WBCムエタイを離脱したMA日本が加わった。

2016年(平成28年)11月22日、国内複数の団体と連携して統一を図る一般社団法人キックボクシング振興会の発足を発表[12]

世界のキックボクシング

[編集]

ヨーロッパ

[編集]

大山道場(後の極真会館)で修業したジョン・ブルミン1962年に帰国しオランダで「オオヤマ道場」を設立。空手と柔道を教え、オランダに空手が広まる。その後、大山道場師範代だった黒崎健時1966年に11ヶ月間オランダで指導し、キックボクシングの技術も伝えた。黒崎がキックボクシングに転向し設立した目白ジムで修行したヤン・プラスが母国のオランダに目白ジム・アムステルダムを設立。トム・ハーリックが設立したドージョー・チャクリキ、目白ジム・アムステルダムの創設メンバーの一人だったヨハン・ボスが設立したボスジムと共に「オランダ三大ジム」と称されている。

アメリカ

[編集]

1970年代、アメリカでは伝統派空手が普及しており、試合は寸止めでポイントを争う試合が一般的だったが、1970年1月17日に開催された空手大会ではスペシャルマッチとしてロサンゼルスで初めて、直接打撃する試合が行われた。選手はボクシングリングで上半身裸にボクシンググローブ着用、下半身は空手着という格好で、ジョー・ルイスが2ラウンドKO勝ちした[13]。ルイスが中心となり1974年プロ空手協会(PKA)を設立した。当初の名称はフルコンタクト空手。1980年代後半あたりから、フルコンタクト・キックボクシングという呼称で呼ばれるようになった。ちなみに、フルコンタクト空手の名称はこちらがオリジナルで、極真空手に代表されるような、日本のフルコンタクト空手とは関係は無い。プロ空手協会から分離独立した世界キックボクシング協会 (WKA)が日本のキックボクシングと提携していった。

女子キックボクシング

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女子キックボクシングの歴史も古く、男子でさえ黎明期であった1960年代には既に女性のキックボクサーも存在していた。1974年(昭和49年)に女子プロレス以外では日本初の女子プロ格闘技団体となる日本女子キックボクシング協会が発足され、単発で興行を行った。興行は東京12チャンネル(現・テレビ東京)にて『ピンクショック!』→『激突!女子格闘技大戦争』のタイトルで中継も実施された。しかし、これらは当時大人気だった女子プロレスに対抗するべくお色気・エンタメ色が強調されたものであった。番組内では同協会とは別組織である全日本女子格闘技連盟によりマーシャルアーツやボクシングなどの試合も放送していた。

日本女子キック協会は1980年代に幕を下ろし、一部の選手はシュートボクシングや日本キックボクシング協会などに戦いの場を移す。1990年代には全日本女子プロレスにてキックボクシングルールに近い格闘技戦(団体ではグローブマッチと呼ばれた)を開始して王座も創設され、やがて異種格闘技対抗戦に発展し火が付いた。その後、シュートから多くの選手がキックに転向し、そのひとりである神風杏子が世界王座を獲得。さらに熊谷直子、三井綾、中沢夏美の「不動館三人娘」らの活躍により、競技色が強まった形で女子キックは再興された。興行内では女子ボクシングの試合も組まれ、シュガーみゆきらが転向して活躍。女子ボクシング部門は後に日本女子ボクシング協会として独立し、日本ボクシングコミッションが女子を認定する2007年(平成19年)まで続けられた。

2000年代には、柴田早千予がキック・ムエタイで合わせて8冠を獲得する活躍を見せる。そして女子総合格闘技スマックガール(現・JEWELS)などと合わせていわゆる「ジョシカク」としてブームを築き上げ、女子キックボクサーは増加した。それに伴い、全日本・新日本などが女子のみの興行を開始。天空キックボクシング協会は元々女子限定イベントとして旗揚げされたが、翌2006年(平成18年)に男女団体化。2007年(平成19年)にはJ-NETWORKがキック界として初めてとなる女子国内王座「J-GIRLS王座」を創設した。J-GIRLSはスカイ・A sports+での中継もされている。その後もM-1ムエタイチャレンジニュージャパンキックボクシング連盟も女子王座を創設している。

2009年(平成21年)にはK-1が女子部門を新設し、女子限定イベント開催に向けて動き出している。

ルール

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団体分裂の影響もあり、ムエタイに近いものから危険な技を取り除き安全性を高めたものまでさまざまなルールが存在する。特に肘や膝を用いた攻撃は流血を伴いやすく禁止されていることもある。最も極端なスタイルでは肘打ちや膝蹴りはもちろん、団体によってはスネをつかった蹴りも禁止され、腰から上のみの攻撃が許されているというものがある。

日本のキックボクシング

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ムエタイとよく似ており、ローキック肘打ちボディおよび顔面への膝蹴りを認めている。ボクシング同様3分1ラウンドで1分の休憩を挟む形式が主流で、タイ国内におけるムエタイのように休憩に2分取ることは稀である。ラウンド数は3 - 5であり、3Rは新人選手、トップ選手の場合は5Rで行ってきたが、K-1の影響もあって3Rで試合を行う例が増えてきている。ムエタイルールとの差異はポイントシステムで、膝蹴りやボディへのキックが大きなポイントとなるタイと異なり、日本の場合は比較的どの打撃も公平にスコアされる。

ムエタイルール

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ローキック、肘打ち、ボディおよび顔面への膝蹴りを認めている。タイのムエタイが賭けの対象であることもあって、ラウンド間のインターバルは2分である。しかし、国際ルールなどでは、1分または1分30秒に短縮することもある。ムエタイとキックボクシングとの違いを佐藤嘉洋は「ムエタイは技の華麗さやディフェンスのうまさ、キックボクシングは相手に与えたダメージの多さで判定する」と語っている。

欧州ムエタイルール

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オランダで発祥したルール。欧州でいち早くムエタイが普及したオランダであったが、安全性の考慮からか肘打ちおよび頭部への膝蹴りが禁止されている。試合は3分5ラウンドで行われる。K-1の公式ルールはこの欧州ムエタイルールをアレンジしたものである。

フルコンタクトルール

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1970年代にアメリカで発祥したルール。伝統派空手から派生したため、ローキック(下段蹴り)、肘打ち、膝蹴りを禁止している。1ラウンド2分で、タイトルマッチは世界戦は12R。選手の服装は、基本は空手衣をモデルにしたサテン製のロングパンツ着用だが、トランクス・キックパンツを選ぶ選手もいる。脚には、脛当てとフットパッドと呼ばれる靴状のプロテクターの着用が義務づけられている。また、ボクシングとの差異を図るため、1ラウンドにつき、対戦相手の腰より上への蹴りを8回蹴らなくてはいけない。8回に満たない場合は、ポイントが減点される仕組みである。このルールによる試合形式は、対ムエタイを標榜する日本で全く流行らず、今も行われていない。しかし近年のアメリカに於いて、このフルコンタクトスタイルを復活させる目論みとして、フルコンタクトルールをベースに膝蹴り(首相撲は不可、ムエタイでいうテンカオのみ)を有効打に加え、腰より上へ8回蹴る決まりを廃止した独自のルールで争う「World Combat League(ワールドコンバットリーグ、通称WCL)」という団体がチャック・ノリスによって設立された。

インターナショナル・ルール

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別名レッグキック(ローキック)・ルール。一時期の欧米ではこのルールが、“キックボクシング・ルール”とされていたことがある。1976年に世界空手協会として創設されたアメリカのWKAが1977年より全日本キックボクシング協会と提携することで独自性を確立すべく提唱したルール。ムエタイを機軸とした日本のルールとアメリカのプロ空手(フルコンタクトルール)の折衷案として、アメリカと日本や欧州の選手が同じリングで戦えるようにするために採用された。基本は2分1ラウンドのフルコンタクトルールに大腿部の外側のみのローキックを認めたもので、膝関節や内股への打撃は禁止されていた。1980年代前半までは、選手のフルコンタクト用ロングパンツ着用と1ラウンドにつき腰より上を8回蹴るルールが義務付けられていた。ただし、足へのプロテクションはフットパッドのみで、脛当ては除外された。日本でも1980年代前半の一時期、全日本マーシャルアーツ連盟の興行では頻繁に行われていたルール。続く新生、全日本キックボクシング連盟の興行でもWKAのタイトルマッチなどの国際戦ではこのルールが採用されていた。ただ、この時期より、ロングパンツの着用や8キックカウントは徐々に除外されるようになった。アメリカではWKA以外ではKICKという団体が世界タイトル戦のみで採用していたルールだが、やがてWKAを含む多くの団体が、このルールを含む複数のルールのチャンピオンを認定するようになり、それにともない、ローキックの攻撃箇所に差異が現れるようになった。

勝敗

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アマチュア

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  • KO(KnockOut):相手がダウンしたのち、10カウント以内に立ち上がれない場合やファイティングポーズをとれない場合、もしくはレフェリーがダメージ甚大と判断してカウントアウトした場合。
  • 判定(英:on Point):ラウンド毎に採点をし、より多くの点をとった選手を勝者とする。

プロ

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  • KO:プロの場合、相手がノックダウンしたあと10カウント以内に立ち上がれなかった場合。
  • TKO(Technical Knock Out):どちらかの選手が明らかに不利な場合や、試合続行不可能な状態になって試合を止めた場合。
  • 判定:ラウンド毎に採点をし、より多くの点をとった選手を勝者とする。

採点方法

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採点方法は10点満点の減点方式。ノックダウン1回で2点減点、ノックダウン2回で3点の減点。ノックダウンがなかった場合、より的確にパンチを当てていた選手に10点が、そうでない選手に9点が与えられる。採点は3人のジャッジで行い、2人以上のジャッジが支持した選手を勝者とする。ジャッジが3人とも一方の選手を支持した場合をユナニマス・デシジョン、2人が支持し、もう1人が引き分けであった場合をマジョリティ・デシジョン、1人のジャッジがもう一方の選手を支持した場合をスプリット・デシジョンと呼ぶ。またどちらの選手も2名以上のジャッジの支持を得られなかった場合、ドローとなる。3名が引き分けとした場合をユナニマス・ドロー、2名が引き分けとし、もう一人がいずれかの選手を支持した場合をマジョリティ・ドロー、ジャッジ2名がそれぞれ異なる選手を支持し、もう一人が引き分けであった場合をスプリット・ドローと呼ぶ。

反則

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試合中に以下の行為を行った場合、反則となり、レフェリーに注意を受ける。注意が重なった場合、減点対象となり、悪質な場合は失格負けとなる。

  • バッティング:頭部で攻撃する。
  • ローブロー:下腹部(金的)への攻撃。
  • ラビットパンチ:相手の後頭部を攻撃する。
  • 相手の背中側を攻撃する(キドニーブローとされる場合がある)。
  • レフェリーがブレイクを命じた後に攻撃する。
  • ラウンド終了のゴングが鳴った後に攻撃する。
  • サミング:グローブの親指で相手の目を突く攻撃。
  • オープンブロー:グローブの内側で打つ攻撃。
  • 投げ技で相手を地面に投げつける攻撃(団体やルールによる)。
  • 関節技・絞め技(団体やルールによる)。
  • ラウンド中に規定の回数以上の蹴りを出さない(団体やルールによる)。
  • 肘打ち(団体やルールによる)。

アマチュア

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海外のアマチュアキックボクシングの試合。写真のように服やキックボクシング用の胴衣を着用することがある。日本では見られない。

団体やルールにもよるが、通常はボクシングのトランクスやムエタイ同様のキックパンツ、またはキックボクシング用の長ズボンや空手着下衣をはき、防具としてヘッドギア、グローブを着用する。足には靴を履かず裸足もしくはアンクルサポーター(足首から脛を覆う薄手のストッキング状のサポーター)を着けて試合を行う場合が殆どだが、ルールによっては脛あて(レガース・レックパット)と、足を保護する靴型のプロテクター(サポーター)を着用することもある。また、負傷防止のためマウスピースとファウルカップを着用する。アマチュアのムエタイでは胴体部分に防具を身につける。

プロ

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通常はボクシングやムエタイ同様に上半身は裸体であり、国際式ボクシングのトランクスより蹴りを出しやすく、ルーズに作られたキックパンツ、またはアメリカンカラテ・キックボクシングの影響を受けた、派手なロングパンツを着用する。 以前はムエタイブランドのパンツを使う場合が多かったが、最近はオリジナルデザイン・縫製のオーダーメイドパンツを着用する選手も多い。

グローブを着用し、足には靴を履かず裸足もしくはアンクルサポーター着用で試合を行う。しかし団体またはルールによってはプロの試合でも、足を保護する靴型のプロテクターと脛あてを着用することもある。またスパーリングの場合にはヘッドギアやレガースを着用することもある。その他、腕にパープラチアット(ムエタイ選手が腕部に付けるお守り)をつける選手もいる。

着用されるグローブはタイ製のグローブが多いが、日本製のウイニングが採用される場合や、レイジェスなど薄いメキシコ製の場合もあり、規格は特定されていない。ただし、対戦者同士は同じグローブを使用する。

キックボクシング選手

ブランド

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主なムエタイ・キックボクシング用品のブランドとして、タイ国製のウインディ、タイサマイ、FBT、ツインズなどがある。また日本の格闘技用品業者も製造をタイのメーカーにOEM委託する場合が多いが、最近では自社で企画・製造する日本の業者も現れている。

タイトルと団体

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日本の王座認定団体は複数に分裂しており、また世界王座認定団体も多く乱立している。ここではプロの日本の地区王座、主要な日本王座そして世界王座を挙げる。

  • 日本の地区タイトル
    • 沖縄格闘技連盟(Okinawa Martial Arts Federation / OMAF)
    • ISKA沖縄
    • 全沖縄王座(主に天下一スタジアムが認定する王座)
    • JML(REAL DEALという会社兼ジムが認定する九州王座)
    • 格闘技MISSION(GOD'S GYMというミッション系のジムが認定する王座)
    • 国際チャクリキ協会認定西日本王座

アマチュア

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この一覧には空手の団体も含まれているが、これは競技にボクシング用のリングまたはグローブを使用し、直接打撃制のルールを採用しているからである。また、プロのキックボクシングの王座を認定する団体がアマチュアの大会を開いたり、アマチュア王座を認定する場合もある。

  • 国内団体
    キックボクシングを名乗らないがスタイル・ルールもキックボクシングに近く、プロキックボクサーへの登竜門的な存在である。
    プロの団体だが、アマチュアの選手育成も行っている。
    プロの団体だが、アマチュアのオープントーナメントも開催している。

テレビ番組

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参考文献

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  • 沢村忠監修『キックボクシング入門』秋田書店、1969年
  • 小沼保『本部朝基と山田辰雄研究』壮神社、1994年
  • 『フルコンタクトKARATE』1994年5月号、福昌堂(雑誌)
  • 『キックボクシング入門』ベースボール・マガジン社、2003年発行(ムック
  • 『キックボクシング入門 増補・改定版』ベースボール・マガジン社、2008年9月15日発行(ムック)

脚注

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注釈
  1. ^ 当時の名称は「日本大学手足拳闘同好会」であった[3]
出典
  1. ^ キックボクシングは日本発祥 昭和のプロモーター・野口修が手がけた意外な大御所芸能人
  2. ^ a b c 山崎照朝 (2013年12月17日). “学生キックボクシング連盟創立40周年”. 中日スポーツ. コラム 撃戦記. 中日新聞社. 2014年6月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月4日閲覧。
  3. ^ a b 山崎照朝 (2011年12月24日). “全国的な広がり待たれる大学キックボクシング”. 中日スポーツ. コラム 撃戦記. 中日新聞社. 2012年5月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年12月26日閲覧。
  4. ^ 『東京12チャンネル 運動部の情熱』120~132頁(著:布施鋼治、発売:集英社
  5. ^ [天空]5.28 新宿:「天空キックボクシング協会」に団体化 BoutReview: 2006-5-2. 2009年9月27日閲覧.
  6. ^ [武頼漢]1.21 新宿:新田、UKF世界戦調印式でマジットとエール交換 BoutReview: 2007-1-20. 2009年9月27日閲覧.
  7. ^ JPMCが組織名と活動方針を一部変更 BoutReview:2008-10-3. 2009年9月27日閲覧.
  8. ^ WBCムエタイルール日本統一王座決定トーナメント開催! NJKF: 2009-6-13. 2009年9月27日閲覧.
  9. ^ 全日本キック解散。Krushフェスで新団体発表 BoutReview: 2009-8-21. 2009年9月27日閲覧.
  10. ^ 4階級で初代の日本統一王者が決定 BoutReview:2009-9-25. 2009年9月27日閲覧.
  11. ^ ムエタイ&RISEをより競技化するためJMD発足、理事長は藤原敏男氏! GBR: 2010-1-25. 2010年1月26日閲覧.
  12. ^ “武蔵、ホースト両氏が協力、キックボクシング振興会が設立 来春大会開催へ”. デイリースポーツ. (2016年11月22日). https://www.daily.co.jp/ring/2016/11/22/0009688916.shtml 
  13. ^ Black Belt 1992年 5月号 27ページ The Birth of Competition JKD by Jerry Beasley, Ed.D.

関連項目

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外部リンク

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