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{{Otheruses|実在の戦車|[[アニメ]]『[[機動戦士ガンダム]]』シリーズに登場する架空の戦車|61式戦車 (ガンダムシリーズ)}} |
{{Otheruses|実在の戦車|[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]『[[機動戦士ガンダム]]』シリーズに登場する架空の戦車|61式戦車 (ガンダムシリーズ)}} |
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{{出典の明記|date=2024-01-17}} |
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{{戦車| |
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{{戦車 |
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|名称= 61式戦車 |
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|画像= [[ファイル:Japanese Type 61 tank - 1.jpg|300px]] |
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|説明= |
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|全長= 8.19m |
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|車体長= 6.30m |
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|全幅= 2.95m |
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|全高= 2.49m([[砲塔]]上のM2重機関銃を含んだ場合、3.16m<ref name="仮制式要綱">『仮制式要綱 61式戦車 XD9001』付図</ref>) |
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| 全高= 2.49 m |
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|重量= 35t |
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|懸架方式= [[トーションバー]]式 |
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|速度= 45km/h<br />加速性能: 200m区間(0-200m区間)の加速走行時間25秒 |
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| 速度= 45 km/h |
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|整地時速度= |
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|不整地時速度= |
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|行動距離= 200km |
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|主砲= [[90mm戦車砲 (アメリカ)#各種試作型|61式52口径90mm]]戦車砲<br />[[砲口初速]] 約910m/s(M318AP-T 使用時) |
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| 主砲= 61式52口径90mmライフル砲 |
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|副武装= 7.62mm機関銃[[ブローニングM1919重機関銃#各型および派生型|M1919A4]]([[主砲]][[戦車#装備と構造|同軸]])<br />[[ブローニングM2重機関銃|12.7mm重機関銃M2]](砲塔上部・[[指揮官|車長]]展望塔) |
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|装甲= |
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*砲塔 114mm |
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*車体 55mm |
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;二次試作車ST-A3 |
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| エンジン名= 三菱12HM21WT<br />空冷4ストローク[[V型12気筒]]直噴式<br />ターボチャージド・ディーゼル |
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:;砲塔 |
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| 出力= 570 hp / 2,100 rpm |
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*主砲防盾:125mm |
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| 乗員= 4 名 |
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*側面:60mm |
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| 備考=<small>登坂力=31° 燃料消費量=0.3 km/L<br />最小旋回半径=10 m<small /> |
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*後面:35mm |
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*上面前端:40mm(30°)(水平線からの角度。以下同) |
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*上面:18mm |
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:;車体 |
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*前面上部:40mm(30°) |
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*前面下部:50mm(52°) |
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*側面上部:30mm |
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*側面下部:35mm |
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*後面上部:25mm(78°) |
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*後面下部:20mm(60°) |
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*上面:12mm |
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*底面前端:25mm |
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*底面:35mm |
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*底面後端:10mm(30°) |
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|エンジン名= 三菱12HM-21WT<br />[[空冷エンジン|空冷]][[4ストローク機関|4ストローク]][[V型12気筒]]直噴式[[ターボチャージャー|ターボチャージド]]・[[ディーゼルエンジン]] |
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|出力= 570hp/2,100rpm<br />排気量 29,600cc |
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|乗員= 4名 |
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|備考=<small>登坂力 31° 燃料消費量 0.3km/L 最小旋回半径 10m</small> |
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}} |
}} |
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'''61式戦車'''(ろくいちしきせんしゃ{{Efn2|通常、自衛隊では時刻にある数字の1を「ひと」と読む<ref>{{Cite web|和書|author=[[齋藤雅一]]|url=https://www.mod.go.jp/rdb/tohoku/kyouryoku_kakuho/fmradio/2705-rm.html|title=自衛隊百科(5月放送内容) テ-マ:自衛隊の専門用語の解説|date=2015-05|website=|publisher=[[東北防衛局]]|accessdate=2022-08-08}}</ref><ref name="MAMOR">{{Cite web|和書|author=|authorlink=|url=https://mamor-web.jp/_tags/%E6%99%82%E5%88%BB%E3%81%AE%E8%AA%AD%E3%81%BF%E6%96%B9|title=時刻の読み方|date=|website=[[MAMOR|MAMOR-WEB]]|publisher=[[扶桑社|株式会社扶桑社]]|accessdate=2022-08-08}}</ref><ref name="福岡地本">{{Cite tweet|author=[[自衛隊福岡地方協力本部]]|user=fukuoka_PCO|number=1257248877113036800|title=「投票ありがとうございました。 自衛隊では・・・ ひとよんにーまる ひとよんふたまる 通常、陸上自衛官は「にー」、海上・航空自衛官は「ふた」を使いますよ😊」|date=2020年5月4日|accessdate=2022-08-08}}</ref><ref name="com.hyperdouraku/type20rifle">{{Cite web|和書|url=http://www.hyperdouraku.com/colum/type20rifle/index.html|title=20式5.56mm小銃、9mm拳銃SFP9 自衛隊新小銃と新拳銃の名称決定! 実銃解説|date=2020-05-18| website=[[ハイパー道楽]]|publisher=|accessdate=2022-08-08}}</ref><ref name="たいらさおり">{{Cite news|author=たいらさおり(漫画家/デザイナー)|title=【マンガ】「待ち合わせはヒトロクマルマル」キター!! 自衛隊独特の“数字の読み方”にご注意?|page=|newspaper=乗りものニュース|publisher=株式会社メディア・ヴァーグ|date=2021.11.23|url=https://trafficnews.jp/post/112850|accessdate=2022-08-08}}</ref>。装備品の制式年についても同様で、[[10式戦車]]は「ひとまるしきせんしゃ」<ref>{{Cite news|author=貝方士英樹|title=陸上自衛隊:最新世代戦車「10式戦車」の性能①、ヒトマルの機動力に注目する|page=|newspaper=[[モーターファン|Motor-Fan.jp]]|publisher=[[三栄_(出版社)|株式会社 三栄]]|date=2021/10/09|url=https://motor-fan.jp/mf/article/17102/|accessdate=2022-08-08}}</ref>、[[16式機動戦闘車]]は「ひとろくしききどうせんとうしゃ」と読む。これに準ずれば、61式戦車は「ろくひとしきせんしゃ」となるが、「ろくいちしきせんしゃ」と読まれる場合が多い。}})は、[[日本]]の[[陸上自衛隊]]が運用していた[[戦車#第1世代主力戦車|戦後第1世代戦車]]に分類される戦後初の国産[[戦車]]である。 |
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'''61式戦車'''(ろくいちしきせんしゃ、Type-61 tank)は[[日本]]の[[陸上自衛隊]]が運用していた戦後第1世代戦車に分類される戦後初の国産[[主力戦車]]である。 |
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戦後第一世代に分類されるわけは、ひとえに90 mm砲を搭載しているからであるが、車体の機構的には世界から遅れており、「最後の大戦型戦車」と評されることもある。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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[[第二次世界大戦]]後、初めて開発された国産[[戦車]]であり、 |
[[第二次世界大戦]]後、初めて開発された国産[[戦車]]であり、[[戦車#第1世代主力戦車|第1世代主力戦車]]に分類される。開発・生産は[[三菱日本重工業]]([[1964年]]から[[三菱重工業]])が担当し、それまで供与されていた[[アメリカ合衆国|アメリカ]]製戦車(特に[[M4中戦車|M4A3E8戦車]])との共用、もしくは置き換えにより、全国の部隊に配備された。 |
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[[1955年]](昭和30年)に開発が開始され、[[1961年]](昭和36年 |
[[1955年]](昭和30年)に開発が開始され、[[1961年]](昭和36年)4月に制式採用された。採用された[[西暦]]の下二桁の年をとり、'''61式戦車'''と命名された。[[主砲]]に「61式52口径90mmライフル砲」として制式化された[[90mm戦車砲 (アメリカ)#各種試作型|52口径90mmライフル砲]]を装備し、鉄道輸送を考慮して当時の[[日本国有鉄道|国鉄]][[貨車]]([[長物車]])に搭載できるよう車体が小型化されている。 |
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[[1974年]](昭和49年)に[[74式戦車]]が採用されるまで560輌が生産され、[[2000年]](平成12年)に全車が退役した。 |
[[1974年]](昭和49年)に[[74式戦車]]が採用されるまで、1962~74年の13年間に渡って、560輌が生産され、[[2000年]](平成12年)に全車が退役した。 |
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== 開発までの経緯 == |
== 開発 == |
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=== 開発までの経緯 === |
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※以下の記述は、正確には、1950年11月7日にアメリカ陸軍は従来の戦車分類に用いていた、軽、中、重といったカテゴリーを改め、主砲による分類に変更している。 |
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[[第二次世界大戦]]終結後、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]により全ての[[軍需産業]]を廃された[[日本]]は、戦前から培ってきた戦車や[[装甲車]]の技術を失ってしまった。後に[[朝鮮戦争]]の勃発により[[極東]]情勢が変化し、日本はGHQに再武装を指示されて[[1950年]](昭和25年)に[[警察予備隊]]が創設された。[[1952年]](昭和27年)には[[アメリカ軍]]から供与された[[M24軽戦車]]が、当時編成中の4個管区隊の各[[普通科 (陸上自衛隊)|普通科]][[連隊]]内に編成された戦車[[中隊]]に配備された。朝鮮戦争において[[国連軍]]と対峙した[[T-34|T-34-85]]戦車に対してM24軽戦車では対抗できず、退役したものが日本に送られている。その後、[[自衛隊]]に改組された[[1954年]](昭和29年)に[[M4中戦車|M4A3E8]]戦車約200輌が供与された。 |
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[[第二次世界大戦]]終結後、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]により全ての[[軍需産業]]を廃された[[日本]]は、[[戦前]]から培ってきた[[戦車]]や[[装甲車]]の技術を失おうとしていた。後に[[朝鮮戦争]]の勃発により[[極東]]情勢が変化し、日本はGHQに再武装を指示されて[[1950年]](昭和25年)に[[警察予備隊]]が創設された。それが[[保安隊]]に改組された[[1952年]](昭和27年)には、[[アメリカ軍]]から供与された[[M24軽戦車]]が、当時編成中の4個管区隊の各[[普通科 (陸上自衛隊)#普通科連隊|普通科連隊]]内に編成された、戦車[[中隊]]に配備された。朝鮮戦争において[[国連軍]]と対峙した[[T-34|T-34-85]]中戦車に対して、M24軽戦車では対抗できず、退役したものが日本に送られている。その後、[[陸上自衛隊]]に改組された[[1954年]](昭和29年)に[[M4中戦車|M4A3E8中戦車]](通称「M4シャーマン・イージーエイト」)約200輌が供与された。 |
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当時供与された戦車は第二次世界大戦や朝鮮戦争の中古品であり、日本人の体格にあわないことや、整備業務を効率化できなかったことから故障が頻発していた。また、当時、世界各国で'''戦後第一世代'''の戦車の開発配備が進んでおり、特に第二次世界大戦後期には既に能力不足が指摘されていたM4や、朝鮮戦争でT-34-85に完敗したM24の更新が課題となっていた。<!--特に日本の関係者は供与されたばかりのM4中戦車やM24軽戦車が、[[ソビエト連邦|ソビエト]]製戦車に太刀打ちできなかった事に強い危機感を抱いたという。--> |
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当時供与された戦車は第二次大戦や朝鮮戦争の中古品であり、[[日本人]]の体格にあわないことや、部品の補給や規格の面で、整備業務を効率化できなかったことから故障が頻発していた。また、当時、世界各国で'''戦後第一世代'''の戦車の開発配備が進んでおり、特に第二次大戦後期には既に能力不足が指摘されていたM4中戦車や、朝鮮戦争でT-34/85中戦車に完敗したM24軽戦車の更新が課題となっていた。<!--特に日本の関係者は供与されたばかりのM4中戦車やM24軽戦車が、[[ソビエト連邦|ソ連]]製戦車に太刀打ちできなかった事に強い危機感を抱いたという--> |
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90ミリ戦車砲を搭載する[[M47 (戦車)|M47]]や[[M48 (戦車)|M48]]戦車の導入を支持する声も存在したが、その当時の[[アメリカ陸軍]]は朝鮮戦争の結果をうけて戦車ならびに対戦車兵器の更新に取り組んでおり、[[ヨーロッパ]]第一主義の方針もあって日本に戦車を供与する余裕を完全に失っていた<ref>更新すべき戦車はアメリカ軍と欧州同盟国への供与で数千輌になり、日本への供与が可能になるのは当分先と判断された。</ref>。[[1952年]](昭和27年)の[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]の発効に伴い[[在日米軍]]駐留経費の日本への返還がおこなわれることになり、またアメリカによる対外援助(MSA協定)により開発費用の目処が立ったため、国産開発が検討されることとになる。その際には当時の貧弱な国内道路網を勘案し、鉄道輸送が可能な車体容積であることが要求事項に盛り込まれた。 |
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[[90mm戦車砲 (アメリカ)|90mm戦車砲]]を搭載する[[M47パットン]]中戦車や[[M48パットン]]中戦車の導入を支持する声も存在したが、その当時の[[アメリカ陸軍]]は朝鮮戦争の結果をうけて戦車ならびに[[対戦車兵器]]の更新に取り組んでおり、[[ヨーロッパ]]第一主義の方針もあって日本に戦車を供与する余裕を完全に失っていた{{Efn2|更新すべき戦車はアメリカ軍とヨーロッパ同盟国への供与で数千輌になり、日本への供与が可能になるのは当分先と判断された。}}。1952年(昭和27年)の[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]の発効に伴い[[在日米軍]]駐留経費の日本への返還がおこなわれることになり、また、[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定|MSA協定]]に基づく[[アメリカ合衆国|アメリカ]]による対外援助により開発費用の目処が立ったため、国産開発が検討されることとなる。その際には当時の貧弱な国内道路網を勘案し、鉄道輸送が可能な車体容積であることが要求事項に盛り込まれた。 |
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[[1955年]](昭和30年)4月の防衛分担金減額に関する日米共同声明によって国産兵器の開発が促進されることとなり、ここに新[[中戦車]]試作の方針が決定された。 |
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[[1955年]](昭和30年)4月の防衛分担金減額に関する日米共同声明によって国産[[兵器]]の開発が促進されることとなり、ここに新[[中戦車]]試作の方針が決定された。同年5月に防衛庁長官より新型戦車の開発指示がなされた。 |
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== 開発 == |
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=== 要求された性能 === |
=== 要求された性能 === |
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[[1955年]](昭和30年)に「SS」(後の[[60式自走106mm無反動砲]])と共に研究開発がスタートした。戦後10年の空白があったものの、開発を担当した[[三菱重工業|三菱日本重工業]]は[[朝鮮戦争]]中の[[朝鮮半島]]から後送されてくる[[戦車]]や車輌の修理や[[オーバーホール]]で技術を蓄積していた。 |
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[[警察予備隊]]創設当時から国産戦車の希望はあったものの、具体化したのは自衛隊に改組した[[1954年]](昭和29年)になってからで、この年に[[陸上幕僚監部]]、[[富士学校]] |
[[警察予備隊]]創設当時から国産戦車の希望はあったものの、具体化したのは[[陸上自衛隊]]に改組した[[1954年]](昭和29年)になってからで、この年に[[陸上幕僚監部]]、[[富士学校]]などの装備計画委員による議論が始まり、翌1955年(昭和30年)1月に次の開発目標案が示された。 |
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*重量 |
* 重量:25トン |
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*火砲 |
* 火砲:90ミリ砲 |
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*強力なエンジンと低接地圧 |
* 強力な[[内燃機関|エンジン]]と低接地圧 |
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*装甲は以上を実現する範囲で |
* [[装甲]]は以上を実現する範囲で忍ぶ |
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[[ファイル:Japanese Type 61 tank - 2.jpg|thumb|250px|left|74式戦車・90式戦車より車高は高い]] |
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25トンという重量は日本国内での自走や運搬時の目安として、また山地や水田の多い国情における低接地圧による機動性の確保を望んだものだった。 |
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25トンという重量とそれを実現するために不可欠な軽装甲は、朝鮮戦争における[[バズーカ]]や[[無反動砲]]の[[成形炸薬弾]]などの[[歩兵]]用携行[[対戦車兵器]]の活躍や、世界初の[[対戦車ミサイル]]([[SS.10 (ミサイル)|SS.10]])の開発などによる[[フランス]]を中心とした装甲無用論を受けたもので、当時の陸上自衛隊内部においては一定の勢力を持っていた。また、創設期から[[第4次防衛力整備計画]]策定まで防衛[[官僚]]として強い影響力を発揮した[[海原治]]も、生産単価を低くする目的で戦車の軽量化を強く主張していた。主要な幹線[[国道]]でさえ大半が[[ダート#道路におけるダート|土道・砂利道]]だった当時の国内の道路事情、山地や水田が多いという地形的事情などを考慮し、低接地圧の実現と機動性確保の面からも、車体の軽量化は強く求められていた。 |
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基礎設計を行ったところ、25トンでは要求を満たせず、相当に装甲を薄くしても、搭載する90mm砲の射撃衝力に耐える重量としても30トンは必要だと明らかになり、同年中頃に「90ミリ砲搭載、30トン」を主軸とした要求性能が陸幕長から[[防衛庁長官]]に上申され、協議の上で32トンに修正された。なお以降も25トン級戦車を求める声は根強く、支援戦車として並行開発・配備することも提案されたが、結局はアメリカ製の[[M41軽戦車]]を導入する形に落ち着いている。 |
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1955年5月、陸上幕僚監部が取りまとめた、STの第1次要求性能案の内容は以下のようであった。 |
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主砲に関しては、曝露面積の最小力化の要求も根強かった為、当初は75ミリ砲の搭載も考えられたものの、朝鮮戦争での[[M26パーシング]]の戦果から90ミリ砲が必要とされた。90ミリ砲は1955年にアメリカ軍より供与されていた[[M36ジャクソン|M36駆逐戦車]]に搭載されていたものを研究した結果、国産も可能であるとされ[[日本製鋼所]]で試作が開始されていた。 |
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* 戦闘重量30t以下、車体長約6.0m、全幅2.8m以下、全高約2.0m |
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開発中に[[T-54]]が出現したこともあり、より強力な砲として105ミリ砲を求める声もあったが、当時の西側の主体は[[イギリス]]の20ポンド砲とアメリカの90ミリ砲で、日本独自の新型砲の開発は時間と経費の問題から具体化せず、射撃精度とHEAT、HVAP等の砲弾の改良で対抗するとしていた。この頃にはまだ戦後第二世代戦車となる[[レオパルド1]]や[[M60 (戦車)|M60パットン]]などに搭載された[[ロイヤル・オードナンス L7|L7 105ミリ戦車砲]]は完成していない。 |
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* 主砲は90mm戦車砲、最大俯角15度、携行弾薬数50発 |
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* エンジンは出力600hpの空冷ディーゼル、路上最大速度50km/h |
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装甲は、朝鮮戦争においてバズーカ砲や無反動砲の成形炸薬弾が活躍した事、フランスで世界初の対戦車ミサイル(SS10)の開発が報じられていた事、これら対戦車兵器の発達によりフランスを中心とした装甲無用論が強かった事、フランスが実際に重量13トンの[[AMX13 (戦車)|AMX13軽戦車]]を開発したことなどが、装甲を軽くして忍ぶ、という開発目標案に繋がっている(1957年から開発が始まった[[AMX30|AMX30 (戦車)]]においては、防御力を「20ミリ砲に耐える」程度としており、レオパルド1もAMX30同様に機動力で生残性を確保する方針だった)。 |
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同月、「[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定]]」を含む[[MSA協定]]が公布され、日本は、アメリカから技術援助を受けて、兵器の国産化を推進することになった。これに基づき、同年6月にアメリカから、90mm戦車砲を装備する[[M36ジャクソン|M36B2 戦車駆逐車]](現在は茨城県の陸上自衛隊土浦駐屯地武器学校にて屋外展示中)が、研究用サンプルとして自衛隊に供与(貸与)された。また、[[M47パットン|M47戦車]]も供与されているが、時期は不明。このM47戦車は、当時のアメリカの科学技術の粋を集めたハイテク戦車(特にFCS)であり、当時の日本の技術力では(外見はともかく中身は)模倣すらできず、M47戦車で得た知見は、実際には、61式戦車ではなく、次作の74式戦車の参考になったものと考えられる(実際、74式戦車の試作車の砲塔内部は近未来的であったとする証言がある)。 |
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エンジンは新たに高馬力の空冷ディーゼル・エンジンを開発する事となり、変速機は当時としては斬新な[[トルクコンバータ]]付きオートクラッチ機構の導入が見込まれた。当然、戦後の西側戦車同様にエンジンと変速機を直結して車体後部に収めるパワーパック方式の[[後輪駆動]]が望まれたが、技術的問題や車幅の不足、さらに当時の自衛隊にパワーパックを丸ごと交換できる機材と技術が無かったために断念され、旧来の変速機を車体前部に置いてドライブシャフトで繋ぐ[[前輪駆動]]方式が採用された。 |
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*[https://pbs.twimg.com/media/Cqn8XHHUAAAdt_g?format=jpg&name=4096x4096] - 土浦のM36B2 戦車駆逐車 |
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同年10月、三菱重工東京製作所で[[モックアップ]]の検討会が開かれた際、富士学校から臨時で参加した[[機甲科]]の砲術、ならびに操縦担当者、整備担当者がこれに対し「姿勢が大きく、装甲が薄く、これでは戦車らしい働きをする前に敵の弱小火器の餌食となってしまう」「戦車乗りの良心にかけて、本案の戦車を装備化することは同意し難い」との意見を表明した。装備研究委員長は委員ではない担当者の意見を受け入れ、富士学校、技術研究所、三菱重工を交えた要求性能の練り直しを行い、最終的に「車重35トン、最高速度時速45キロ、90ミリ砲搭載、車高2.5メートルでなるべく低くする」とし、12月に、防衛庁長官に対して要求性能の上申変更が行われた。 |
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*[http://www.uraken.net/eg/kanto/tsuchiurabuki/DSC_0824.JPG] - 同 |
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*[http://www.uraken.net/eg/kanto/tsuchiurabuki/DSC_0823.JPG] - 同 |
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* [https://pbs.twimg.com/media/EhPMLz0VgAAn1x-?format=jpg&name=large] - STA開発時に参考・比較用に供与されたM47の後期型。後にスクラップにされた。 |
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M36B2 戦車駆逐車を用いて射撃試験を行った結果、90mm戦車砲を安定して射撃するには、30t級の車体重量が必要であることが明らかとなった(「基礎設計を行ったところ25トンの重量には収まらず、相当に装甲を薄くしても30トンは必要だと明らかになった」とも。基礎設計などするまでもなく、装甲の薄いM36 戦車駆逐車ですら28トンであり、戦車ともなれば、それ以上になるのは当然のことである)。 |
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同年中頃に「90ミリ砲搭載、30トン」を主軸とした要求性能が陸幕長から[[防衛大臣|防衛庁長官]]に上申され、協議の上で32トンに修正された。重量増による機動性の問題も、[[M24軽戦車]]と[[M4中戦車|M4A3E8]]を用いた踏破試験において必ずしも重量が問題となるわけではなく、むしろM4A3E8の方が良好であったことから沙汰止みとなった{{Efn2|25トン級戦車については、[[第2次防衛力整備計画|第二次防衛力整備計画]]においてM41軽戦車225輌がアメリカの無償援助によって計画され、[[1963年]](昭和38年)までに147輌が導入された。}}。 |
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当初陸上幕僚監部(陸幕)では76ミリ砲搭載の20トン戦車を予定したものの、朝鮮戦争でM24が[[T-34]]に対抗できなかった戦訓から、90ミリ砲が必要とされた。90ミリ砲については、[[アメリカ軍]]より供与された[[M36ジャクソン|M36B2 戦車駆逐車]]に搭載されていた「M3A1 戦車砲」(排煙機やシングルバッフル式マズルブレーキが付いていることから、「M3 戦車砲」ではなく、改良型の「M3A1 戦車砲」であることがわかる)を研究した結果、国産も可能であるとされ(アメリカは日本に対し、「M3 90mm戦車砲」の製造ライセンスは許可しなかったが、M3を基にした独自の発展型を開発する許可は与えた)、[[日本製鋼所]]で試作した結果、[[銃砲身|長砲身]]化された52口径90ミリライフル砲が「[[90mm戦車砲 (アメリカ)#各種試作型|61式52口径90mm戦車砲]]」(型式 M3改)として[[制式名称|制式化]]された。戦後世代90mm[[戦車砲]]との[[砲弾]]共有のため、砲身・薬室はより高い腔圧に耐えられるよう([[M47パットン|M47戦車]]の「M36 戦車砲」や[[M48パットン|M48戦車]]の「M41 戦車砲」並みに)強化されている(規定最大腔圧:約3,300kg/cm<sup>2</sup> = 約324MPa)。 |
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1955年10月、三菱日本重工東京製作所で[[木型|モックアップ]]の検討会が開かれた際、[[陸上自衛隊富士学校|富士学校]]から臨時で参加した[[機甲科]]の[[砲術]]、ならびに操縦、[[メンテナンス|整備]]担当者がこれに対し「姿勢が高く、装甲が薄く、これでは戦車らしい働きをする前に敵の[[小火器]]の餌食となってしまう」、「戦車乗りの良心にかけて、本案の戦車を装備化することは同意し難い」との意見を表明した。委員ではない、いわば部外者の意見ではあったが、装備研究委員長はこれを受け入れ、富士学校、技術研究所、三菱重工を交えた要求性能の練り直しを行った。最終的に「車重35トン、最高速度時速45キロ、90ミリ砲搭載、車高2.5メートルでなるべく低くする」とし、12月に、防衛庁長官に対して再度の要求性能の変更が上申された。 |
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61式戦車の一次試作車STA-1及びSTA-2が完成する直前の[[1956年]]10月に[[ハンガリー動乱]]が発生した。この時[[西側諸国]]は初めて投入された[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[T-54]]の存在を確認することになった。 |
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61式戦車の本来の仮想敵は[[T-34|T-34-85中戦車]]であったが、開発中に[[T-54]]/[[T-55]]が出現したこともあり、より強力な砲を求める声もあったが、当時の西側の主体は[[イギリス]]の[[オードナンス QF 20ポンド砲|20ポンド砲]]とアメリカの[[90mm戦車砲 (アメリカ)|90ミリ砲]]であり、[[日本]]独自の[[口径|大口径]]新型砲の開発は時間と経費の問題から断念され、射撃精度と[[成形炸薬弾|HEAT]]、[[高速徹甲弾|HVAP]]などの砲弾の改良で対抗するとした{{Efn2|[[ロイヤル・オードナンス L7|L7 105ミリ戦車砲]]を搭載した戦後第2世代戦車である[[レオパルト1]]や[[M60パットン]]などはまだ完成しておらず、入手可能な最も強力な砲を選択したと言える。}}。 |
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エンジンは新たに高馬力の[[空冷エンジン|空冷]][[ディーゼルエンジン]]を開発することとされた。当時、同盟国のアメリカ軍や西側諸国が配備していた[[M46パットン|M46]]・[[M47パットン|M47]]・[[M48パットン|M48]]中戦車には空冷ガソリンエンジン([[コンチネンタル・モータース|コンチネンタル]] AVSI-1790)が採用されており、本車と同時期に開発されていた[[M60パットン|M60中戦車]]には新型の空冷ディーゼルエンジン(コンチネンタル AVDS-1790)が搭載される予定であった。また日本には戦前からの空冷ディーゼルエンジンの技術的蓄積があった。 |
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[[変速機]]は当時としては斬新な[[トルクコンバータ]]付きオート[[クラッチ]]機構の導入と、[[戦後]]の西側戦車同様にエンジンと変速機を直結して車体後部に収めるパワーパック方式の[[後輪駆動]]が望まれたが、技術的問題や車幅の不足、さらに当時の[[自衛隊]]にパワーパックを丸ごと交換できる機材と技術が無かったため断念された。最終的に国産技術による乾燥多板式高低速用二列クラッチと前進5段、後進1段の常時噛合歯車式トランスミッション(クラッチ以外はごく一般的な[[マニュアルトランスミッション]])を車体前部に置く[[前輪駆動]]方式が採用された。 |
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=== 中特車の試作 === |
=== 中特車の試作 === |
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自衛隊内の装備審議会の結果、90ミリ砲を搭載する30トン程度の'''中特車'''を試作することが決定した。 分類上は[[中戦車]]だが、当時の国内の政治的状況から戦車ではなく「特車」と呼び変えていたもので、[[1962年]](昭和37年)1月から「戦車」と呼ばれるようになった。 |
[[自衛隊]]内の装備審議会の結果、90ミリ砲を搭載する30トン程度の'''中特車'''を試作することが決定した。 分類上は[[中戦車]]だが、当時の国内の政治的状況から[[戦車]]ではなく「[[特車]]」と呼び変えていたもので、[[1962年]](昭和37年)1月から「戦車」と呼ばれるようになった。 |
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前提とされたのは、敵からの発見を避けるため |
前提とされたのは、敵からの発見を避けるためできうる限りの低姿勢と、鉄道輸送時に求められる[[在来線]]の[[車両限界]]を超えないため、全幅を3メートル以下とする二点だった。 |
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本車の略記号である'''ST'''は、俗に「試製中特車」の頭文字とされることがあるが、実際には頭文字ではなく、60式自走106㎜無反動砲の'''SS'''(「装軌装甲車」(あるいは「装甲戦闘車」、「装甲装軌車」など諸説あり)の頭文字)の次の開発だからであり、S「S」の次ということで、S「T」と付けられ、その後の略記号も、 |
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開発ではまず'''STA-1'''、'''STA-2'''という二種類の試作車が作られた。大きな違いは車高で、STA-1は低姿勢(高さ2.2m)を追求したため全長は長く、材質は普通鋼板で製作され[[1956年]]12月に完成した。STA-2は高さ2.5mでSTA-1より全長が短くなり、空冷[[ディーゼルエンジン|ディーゼル]]、トーションバー[[サスペンション]]、[[トルクコンバータ]]、動力付き操縦装置などを搭載、防御鋼板で製作され[[1957年]]2月に完成した。エンジンはまだ開発中だったため、既存の民生用ディーゼルエンジンを改造したものが搭載されていた。当初の予定ではこの2輌の試作車だけで要求性能を達成、量産準備の為の増加試作に入る予定であったが、第1次試作の2輌は要求性能に達しなかった。 |
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SU:試製56式装甲車<br> |
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STA-1の低車高は評価されたものの、低姿勢を求めて砲塔の旋回時にエンジン室の張り出しを避けるため車体が細長くなってしまい、履帯の接地長に対して相対的に軸間が狭くなってしまった。これは装軌車では旋回時などに抵抗が増し、運動性に悪影響を与えるため、実用化にはエンジンと[[トランスミッション]]の更なる小型化が必要であるとしてSTA-1の案は採用されず、STA-2の車高2.5メートルの配置が採られた。またSTA-1にて新型エンジンのテストが行われ、結果オートクラッチのパワーロスが大きい事が判明、機械式2段クラッチに変更された。 |
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SV:試製56式自走81mm迫撃砲<br> |
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SW:試作地雷処理車<br> |
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SX:試製56式自走107mm迫撃砲<br> |
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SY:試製56式105mm自走砲<br> |
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SZ:試製56式特殊運搬車<br> |
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と「SS」から続く連番として、アルファベット順に付けられるも、すぐにZまで埋まってしまい、結局その後は、「S+その車輌の役割の頭文字」を付けられることになった。しかし、段々と整合性がとれなくなっていき、命名もされない車輌も出てきて、最終的にはこの命名法も自然消滅し、現在は次期主力戦車の略記号'''[[TK-X]]'''(Tank experimental)が残るぐらいである。 |
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1956年末から約1年かけて行われた技術試験と実用試験の結果、第2次試作が決定され、STA-3ならびにSTA-4が1960年(昭和35年)1月に完成、4月に防衛庁に引き渡された。砲口制退器の変更、エンジン出力の増強、携行機関銃弾の増加、制限重量までの余裕を防御装甲に振り向ける、半自動装填装置の採用などが行われたが、両車の違いはSTA-3に防楯付き砲塔機関銃、STA-4にM48戦車と同型の密閉型銃塔が設けられたことである。 |
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なお、本車のST「A-○」(○は数字)に関しては、4種類ある試作車の分類の為であり、これは、74式戦車、73式装甲車の略記号である、'''STB'''、'''SUB'''に引き継がれることになった。なお、現場では実際には「STA-○」ではなく「ST-A○」と表記していたが、ここでは通例として「STA-○」で記述する。 |
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開発ではまず'''STA-1'''、'''STA-2'''という2種類の試作車が製作された。大きな違いは車高で、STA-1は低姿勢(高さ2.2メートル)を追求したため、全長は長く、上部転輪は片側4個、転輪は片側7個。材質は普通鋼板で製作され、[[1956年]]12月に完成した。STA-2は高さ2.5メートルで、STA-1より全長が短くなり、上部転輪は片側3個、転輪は片側6個。[[空冷エンジン|空冷]][[ディーゼルエンジン]]、[[トーションバー]]サスペンション、[[トルクコンバータ]]、動力付き操縦装置などを搭載、防御鋼板で製作され、[[1957年]]2月に完成した。STA-1とSTA-2の砲塔前方左側には、ステレオ式[[レンジファインダー|測遠機]]のための穴が設けられていたが、測遠機が装備されておらず、穴はパッチで塞がれていた。砲塔前方右側には、楕円柱型の測遠機が装備されていた。STA-1とSTA-2の主砲は、「M3A1 90mm戦車砲」と同様に、排煙器とシングルバッフル式の[[マズルブレーキ|砲口制退器]]を備えていた。エンジンはまだ開発中だったため、既存の[[民生用]]船舶エンジンを流用して改造した三菱DL10T V12液冷ディーゼルエンジン(500hp/2,000rpm)が搭載されていた。同年7月、STA-1のエンジンを換装し、STA-1Bと呼称。STA-2は操向変速機を換装し、STA-2Bと呼称した。当初の予定ではこの2輌の試作車だけで要求性能を達成、量産準備のための増加試作に入る予定であったが、第1次試作の2輌は要求性能に達しなかった。 |
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STA-1の低車高は評価されたものの、[[砲塔]]の旋回時に機関室が干渉し、これを避けるため全長が長くなり、[[無限軌道|履帯]]の接地長に対して相対的に輪間が狭くなってしまった。これでは旋回時などに[[抗力|抵抗]]が増し、運動性に悪影響を与えるため、実用化にはエンジンと[[トランスミッション]]の更なる小型化が必要であるとしてSTA-1の案は採用されず、STA-2の車高2.5メートルの配置が採られた。また、STA-1にて新型エンジンのテストが行われ、オートクラッチのパワーロスが大きいことが判明、機械式2段クラッチに変更された。 |
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(当初、試作車STA-1、STA-2では[[スウェーデン]]のSRM社製2段型トルクコンバーターを導入し搭載したもののパワーロスと敏捷性に問題があり、要求を満たす性能ではなかった{{Sfn|林磐男|2005|p=119}})[[1950年代]]後半当時の国産技術では、500馬力超のディーゼルエンジン出力に見合う[[戦車]]用トルクコンバーターの開発ノウハウは不足しており、後にSTA-2ではトランスミッションと操向装置は、戦時中の[[四式中戦車]]を参考にした「チト式」に変更されている{{Sfn|林磐男|2005|p=101}}(試作車STA-3、STA-4では、トランスミッションは機械式ハイ・ロー切換2段クラッチ、操向装置はクレトラック式となった)。 |
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[[1956年]](昭和31年)末から約1年かけて行われた技術試験と実用試験の結果、第2次試作が決定され、STA-2の設計を基に、[[砲塔]]を後方にずらして[[操縦席]]に余裕を作ることとなり、'''STA-3'''が[[1960年]](昭和35年)1月、'''STA-4'''が[[1959年]](昭和34年)11月に完成し、1960年4月に[[防衛省|防衛庁]]に引き渡された。[[マズルブレーキ|砲口制退器]]をT字型に変更、エンジン出力の増強、携行[[機関銃]][[弾丸|弾]]の増加、制限重量までの余裕を防御[[装甲]]に振り向ける、などが行われた。 |
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両者の車体に大きな違いは無く、両車の違いは、車長用に、STA-3には防楯付き機関銃、STA-4には[[M48パットン|M48戦車]]のM1キューポラに似た、背の高い密閉型銃塔が設けられたことである。この密閉型銃塔の前面には高仰角をとることが可能な12.7mm対空機銃が装備されており、車内から銃塔の旋回と銃の俯仰と発砲の操作が可能であった。STA-3のキューポラとSTA-4の銃塔の、基部には車長用潜望鏡と測遠機(旋回不可)があった。 |
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*[https://www.1999.co.jp/itbig69/10695319b2.jpg] - (参考)90mm弾薬の大きさ。画像は71口径8.8cm戦車砲用のPz.Gr.39/43 (APCBC-HE) 。全長は1167mm。 |
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*[https://www.1999.co.jp/itbig73/10736054b4.jpg] - (参考)90mm弾薬の大きさ。画像は71口径8.8cm戦車砲用のSpr.Gr.43 (HE) 。全長は1167mm。 |
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また、STA-3には、砲塔後部バスル内の主砲弾倉に動力式の半[[自動装填装置]](主砲弾薬装填補助装置)が備えられていた。これは弾倉内の主砲[[弾薬]]をモーターで回転させて、砲尾の尾栓近くまで送り出し、レバーで弾薬を押し出し、最後は人力(手動)で装填する物で(ゆえに半自動)、装填手の負担を軽減して(90mm弾薬の重量は約20kg)迅速に射撃を行えるように設置されたものであった。いわば、西側第三世代戦車の砲塔バスル内に採用されている自動装填装置の原型のようなものであった。しかし、砲塔バスル内に無線機を置けないことや、コスト等の理由で採用が見送られた。 |
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* [https://pbs.twimg.com/media/FtNmKfCWYAE0V6n?format=jpg&name=4096x4096] - 各車の側面図 |
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* [https://www.whiteorder.net/wp-content/uploads/2019/03/61pktm1006734362.jpg] - STA-1 |
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* [http://tankguy.gooside.com/type61history/sta1-01.jpg] - STA-1砲塔左側 |
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* [http://tankguy.gooside.com/type61history/sta1-02.jpg] - STA-1砲塔右側 |
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* [https://pbs.twimg.com/media/FjmeuGEWQAAAGIF?format=jpg&name=4096x4096] - STA-1 |
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* [https://pbs.twimg.com/media/FjmeuGHWIAA8WIo?format=jpg&name=4096x4096] - STA-1 |
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* [https://pbs.twimg.com/media/FjmexcTXEAAlw49?format=jpg&name=4096x4096] - STA-1 |
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* [https://pbs.twimg.com/media/FjmexccWYAELgMi?format=jpg&name=4096x4096] - STA-1。STA-1とSTA-2では、四式中戦車と同じく、車体最後部両側の切り欠きに、マフラー(旧軍伝統のフィッシュテール型排気管)を設置しているのがわかる。 |
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* [https://pbs.twimg.com/media/FjmkfzIWQAAfxxw?format=jpg&name=4096x4096] - STA-1 |
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* [http://tankguy.gooside.com/type61history/sta1-03.jpg] - STA-1 - STA-1とSTA-2のフロントパネルは、全面が一枚板として外せるようになっていた。 |
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* [http://tankguy.gooside.com/type61history/sta1-04.jpg] - STA-1 |
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* [http://tankguy.gooside.com/type61history/sta1b-01.jpg] - STA-1B |
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* [https://pbs.twimg.com/media/EYtMQasUcAAKgA_?format=jpg&name=large] - 試験的に暗視装置を搭載したSTA-1。砲塔上が射撃用で、左が暗視装置、右が赤外線投光器。車体前部の2灯が操縦手用投光器で、操縦手ハッチを開いた前に暗視型ペリスコープが取り付けられている。履帯は、M4A3E8 シャーマン・イージーエイトの、HVSS用の幅広の戦後型の、T80 ダブルピン・トラックに似ている(おそらく流用)。 |
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* [https://www.whiteorder.net/wp-content/uploads/2019/03/61s6l1601373880.jpg] - STA-2 |
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* [http://tankguy.gooside.com/type61history/sta2-01.jpg] - STA-2砲塔左側 |
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* [http://tankguy.gooside.com/type61history/sta2-02.jpg] - STA-2砲塔右側 |
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* [http://tankguy.gooside.com/type61history/sta2-03.jpg] - STA-2 |
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* [http://tankguy.gooside.com/type61history/sta2b-01.jpg] - STA-2B |
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* [http://tankguy.gooside.com/type61history/sta2b-02.jpg] - STA-2B |
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* [https://pbs.twimg.com/media/EYySjUlU4AA67Pn?format=jpg&name=large] - STA-2のブローニングM2重機関銃の対空機銃架 |
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* [https://pbs.twimg.com/media/EYySjX2VcAIAKbg?format=jpg&name=large] - STA-1(向かって右)とSTA-2(向かって左)の車体の後面。吸気グリルの形状が量産車と全く異なるのがわかる。砲塔前方右側には、楕円柱型の突起がある。 |
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* [https://www.whiteorder.net/wp-content/uploads/2019/03/61s31947115294.jpg] - STA-3 - イスラエルの[[マガフ]]のウルダンキューポラにも似た、背の低い薄いキューポラが特徴である。機銃は外付けの直接操作方式である。後の歴史を鑑みると、こちらの方がSTA-4の密閉式銃塔や61式戦車のキューポラより、実用性は高かったと想像される。銃塔型キューポラは背が高いため、敵に狙われ易く、車長の死亡率が高い。 |
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* [http://tankguy.gooside.com/type61history/sta3-01.jpg] - STA-3砲塔左側 |
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* [http://tankguy.gooside.com/type61history/sta3-04.jpg] - STA-3 |
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* [http://tankguy.gooside.com/type61history/sta3-05.jpg] - STA-3 |
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* [http://tankguy.gooside.com/type61history/sta3-02.jpg] - STA-3 |
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* [http://tankguy.gooside.com/type61history/sta3-03.jpg] - STA-3砲塔後面 |
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* [https://pic2.zhimg.com/v2-be88e2567054ae8248135a7666cd59d1_r.jpg] - STA-3で試みられた主砲弾薬装填補助装置 |
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* [https://www.whiteorder.net/wp-content/uploads/2019/03/61s66vj1136645011.jpg] - STA-4 - [[RWS]]の先祖ともいえる密閉式銃塔が特徴だが、実用性は低かった。 |
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* [http://tankguy.gooside.com/type61history/sta4-01.jpg] - STA-4砲塔左側 |
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* [http://tankguy.gooside.com/type61history/sta4-02.jpg] - STA-4 |
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* [http://tankguy.gooside.com/type61history/sta4-03.jpg] - STA-4 |
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* [https://pbs.twimg.com/media/Fu4PRpUXwAIWuE_?format=jpg&name=4096x4096] - STA-4 |
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* [https://imgur.com/xgn4fVL] - STA-4の前面図と側面図 |
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* [https://i.imgur.com/KAwFUHS.jpg] - STA-4の砲塔内配置図。車長用オーバーライド(車長が砲手より優先して砲塔を旋回させる機能)ハンドルに注目。 |
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* [http://afvdb.50megs.com/usa/pics/m4sherman/m4a176wtcoverrride.jpg] - (参考)車長用オーバーライドハンドル(油圧旋回制御ハンドル)は、M4シャーマン中戦車の後期型に既に装備されていた(画像)。ハンドルを、上部のボタンを押してから、前方に押すと反時計回りに旋回し、後方に引くと時計回りに旋回した。砲の俯仰と発砲の操作は砲手のみが行った。 |
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* [http://afvdb.50megs.com/usa/pics/m47patton/m47pattontcoverride2.jpg] - (参考)M47戦車の車長用オーバーライドハンドル。先進的なデザインとなり、車長が砲塔の旋回と砲の俯仰と発砲の操作を行うことが可能となった。左右に回転させるとその方向に旋回し、グリップを押すと俯角をとり、引くと仰角を取り、グリップのトリガーを引くと発砲。 |
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* [https://cdn-live.warthunder.com/uploads/41/42/93/c925fb42dfff006d235a99464035265c9f_mq/sta_mgturret.png] - 各試作車の機銃 |
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* [http://type61tank.la.coocan.jp/image/sta-4/sta-4-001.jpg] - STA-4。福岡県久留米市の陸上自衛隊前川原駐屯地の陸上自衛隊幹部候補生学校の防衛基礎学教場横に、野晒しで置かれていた、最後に残った61式戦車の試作車であったが、2007年頃にスクラップにされた。 |
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* [http://type61tank.la.coocan.jp/image/sta-4/sta-4-002.jpg] - 同上 |
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* [http://type61tank.la.coocan.jp/image/sta-4/sta-4-003.jpg] - 同上 |
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* [http://www2s.biglobe.ne.jp/~motorize/Hobby/JPEG/japan_tank_series/jtank-61sch.jpg] - 国産61式90mm砲戦車解剖図 |
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* [https://3.bp.blogspot.com/-KZUs2zSgVbg/WENxv8bd6iI/AAAAAAAAA1c/a9IFMAyJ4Ko3Mg4VBGD9Oke1Okq9sn-ZQCEw/s1600/p6.jpg] - TYPE61 カットアウェイ |
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* [https://i.imgur.com/EKb7PrV.png] - 61式戦車 三面図 |
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<gallery widths="180px" heights="150px"> |
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File:61shiki in JSDF in 1960.png|STA-3 |
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File:JGSDF Type 61 tanks in 1960 No.2.png|STA-4<br>STA-3との車長キューポラの形状と機関銃の搭載方法の違いに注目 |
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</gallery> |
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=== 制式採用 === |
=== 制式採用 === |
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第2次試作車両のテスト結果、 |
第2次試作車両のテスト結果、STA-4を基に、密閉型銃塔とその前面の対空機銃を廃止し、[[ブローニングM2重機関銃]]を車長用潜望鏡 M15と「61式(合致式)車上1m測遠機」と一体となった背の高いキューポラの上へ据え付ける方式に変更(この機関銃(の銃架)も、車内から俯仰と発砲とボルト開閉の操作が可能。機銃架は、車長用潜望鏡 M15のペリスコープガードと一体なので、水平方向には動かず、旋回はキューポラごと行う)、更なる[[装甲]]の増強、などの他、細部の変更も加えたものが[[1961年]](昭和36年)4月、'''61式特車'''(後に'''61式戦車'''と改名){{Efn2|当時各社から発売された[[プラモデル]]では、61式をアメリカ軍風に表記した'''M-61'''([[日東科学教材|ニットー]])や'''M61'''([[フジミ模型|フジミ]])などの名称とした物や、'''M-3'''([[三和模型|三和]])の様に完全オリジナルの名称にした物なども存在した。}}として制式化され、量産と配備が開始された。 |
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* [http://type61tank.la.coocan.jp/image/type61tank/mgmount/mgmount016.jpg] - 61式戦車のキューポラ上の機銃架。画面中央の三角形の部品から伸縮するロッドが、機銃架を俯仰させる。この構造では機銃架そのものは水平方向には動かないのがわかる。 |
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[[1962年]]度(昭和37年度)予算において最初の[[大量生産|量産]]車10輌(これらは実質、量産試作車であり、細部が量産車と異なる)が調達され、量産第1号車は1962年[[10月15日]]に納入された。 |
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[[1966年]](昭和41年)11月7日には、補助燃料タンク装着架(車体最後尾上面)が改良された、「61式戦車(B)」(61式戦車B型)が仮制式化された。 |
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== 特徴 == |
== 特徴 == |
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=== 火力 === |
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[[ファイル:Type 61 DA-SC-86-04498.jpg|thumb|275px|日米共同訓練での61式戦車([[1985年]])]]<!-- 画像リンク先にキャンプ富士とあるので、北富士か東富士どちらかの演習場だと思います。記録的にも。http://www.pref.yamanashi.jp/barrier/html/kitafuji/6_003.html --> |
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[[File:JGSDF Type 61 Tank Muzzle Brake at Camp Otsu May 8, 2016.JPG|thumb|250px|T字型マズルブレーキ]] |
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基本構造は[[鋳造]]砲塔と鋼板溶接車体の組み合わせで、主砲は52口径90mm[[ライフル砲]]を搭載し、主砲同軸で7.62mm[[機関銃]]、砲塔上面の銃搭に[[リモコン]]式の[[ブローニングM2重機関銃|12.7mm重機関銃M2]]を各一挺装備した。 |
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[[File:JGSDF Type 61 Tank turret at Camp Imazu November 22, 2015.jpg|thumb|250px|砲塔<br>砲身根元から防盾周囲にかけてはキャンバスカバーで覆われている<br>元[[第3戦車大隊]]所属車輌]] |
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[[主砲]]には「61式52口径90mm戦車砲」と呼ばれる[[90mm戦車砲 (アメリカ)#各種試作型|90mmライフル砲]](携行弾数50発)を搭載し、主砲[[戦車#装備と構造|同軸機銃]]に7.62mm[[機関銃]][[ブローニングM1919重機関銃#各型および派生型|M1919A4]](携行弾数4,000発)、[[砲塔]]上面の銃塔に[[リモコン]]式の[[ブローニングM2重機関銃|12.7mm重機関銃M2]](携行弾数525発)を各一丁装備した。 |
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*[https://i.imgur.com/pkkNBEI.png] - 61式52口径90mm戦車砲 |
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使用弾種は[[榴弾]](HE)、曳光[[成形炸薬弾|対戦車榴弾]](HEAT-T)、曳光[[高速徹甲弾]](HVAP-T)、曳光被帽[[徹甲弾]](APC-T)、[[発煙弾]](WP)などがある。携行可能な弾薬数は50発で、製造は[[日本製鋼所]]が行い、開発の際はアメリカ軍の砲弾との共有化が図られている。 |
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*[http://type61tank.la.coocan.jp/image/type61tank/gunmantlet/gunmantlet111.jpg] - T字型マズルブレーキ(砲口制退器)、ブラストディフレクター(爆風転向器)とも、を右の横穴から覗いたところ。砲口のライフリングが見える。砲身が横筒の根元まで挿してあるのがわかる。ねじを切った砲身先端から回転させて取り外すことが可能。 |
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一般に、砲口制退器は、発射ガスを砲口に取り付けた偏向板(バッフル)に当てることで、砲身を前方に押し出す効果で、反動の低減を狙ったもので、発射反動を20~50パーセント減らすことができる。 |
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動力系は戦後設計された戦車では唯一、車体後部の[[ディーゼルエンジン]]と前部の[[変速機]]とを[[ドライブシャフト]]で接続する方式の[[前輪駆動]]が採用されている。そのため車高を低くする事ができず、また車体前部装甲板が変速機の交換整備のためにボルト留めになっているなど、防御性能において不安を抱える事となった。 |
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61式戦車の場合は、傘型の物(M36 戦車駆逐車用)との比較試験の結果、反動抑制効果は劣るが、爆風を左右に逃がすことにより、発射直後の視界に優れ、次弾を早く撃てるという、速射性を選び、T字型(正確にはZ型)を採用した。 |
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操縦席は日本の交通法規に合わせて車体右側に配置されていたが、砲塔内の車長・砲手と合わせて車輌右側に乗員4人中3人が偏在するためリスクコントロール面で問題となり、[[74式戦車]]では車体左側に移されている。操縦は左右2本のレバー操作式で、[[変速機]]の[[歯車]]の回転が少しでもずれると変速できないなど、米軍から供与された[[M24軽戦車]]や[[M41軽戦車]]に比べて操縦が難しく、乗員から「世界一操縦が難しい戦車」と言われたことがある。また、操縦する際に左手に[[腕時計]]をしていると、変速に失敗した際に弾き戻されるシフトレバーが左手に当たり腕時計が壊れるため、操縦する際は腕時計を右手に付け替えた、という話が伝えられている。 |
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61式戦車の主砲弾薬は、国産開発をせず、[[アメリカ軍]]の戦車の主砲弾薬との共通化・共有化を図り、[[日本製鋼所]]と[[小松製作所]]がライセンス生産を行っていた。使用弾種は、[[徹甲弾|曳光被帽徹甲弾]](APC-T)、[[高速徹甲弾|曳光高速徹甲弾]](HVAP-T)、[[成形炸薬弾|曳光対戦車榴弾]](HEAT-T)、[[榴弾]](HE)、[[発煙弾]](WP)などがあった。 |
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=== 配備 === |
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最初に第2次試作車輌を基とした10輌が発注され、[[1962年]](昭和37年)から[[1966年]](昭和41年)までの第二次防衛力整備計画に90輌が発注された。さらに40輌が追加され、[[1973年]](昭和47年)までの製造終了までに560輌が生産された。 |
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[[ファイル:NDD61tank.JPG|thumb|275px|right|防衛大学校内]] |
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本車は1961年(昭和36年)の制式採用から39年後の[[2000年]](平成12年)、[[90式戦車]]の配備に伴い全車退役した。この間、61式戦車はスモークディスチャージャー([[煙幕|煙幕弾]]発射機)を増設するなどの細かい部分を除き、大きな改良が施されることはなかった。実戦を経験する事なく退役を迎えている。<!--配備された部隊等、ご存知の方お願いします。--> |
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*[https://i.ibb.co/YbcgnQY/513-E3-E6-F-681-C-4680-B229-8893269-FC795.png] - M318 AP-T。全長942.6mm。重量19.9kg。尖っているのは空気抵抗減少と跳弾防止のための被帽。 |
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=== 派生型 === |
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*[https://www.usmilitariaforum.com/forums/uploads/monthly_06_2019/post-180924-0-90185100-1560728998.jpeg] - 向かって左から4本目がM318 AP。 |
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*[https://d3n898qob6erx6.cloudfront.net/hazards/1388/images/m318-001.jpg] - M318の砲弾。全長364mm。重量11kg。 |
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本車の装備する61式52口径90mm戦車砲の諸元は、[[1961年]][[4月26日]]の旧防衛庁『仮制式要綱 61式90mm戦車砲 XB3002』[https://web.archive.org/web/20030805010234fw_/http://jda-clearing.jda.go.jp/kunrei/i_fd/iz1961xb3002.html]によれば、以下の通りである。 |
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本砲の[[銃砲身|砲身]]全長は約4730mm(砲口制退器を除く)の52[[口径]]、[[弾丸]]経過長([[ライフリング]]長)は約3,975mm、本砲の全備重量は約2,500kg、砲身重量は約1,150kg、防盾重量は約750kgである。砲身構造は単肉砲身、砲腔には[[クロム]][[めっき|メッキ]]が施されている。ライフリングは等斉右旋回32条、25口径に付1回転である。本砲の俯仰角は-10度から+13度、後座長は通常で約314mm、最大で約356mm である。[[駐退機|駐退復座機]]を主砲両側に配置した結果、俯仰角は大きく取れたが、防盾は幅広となった。防盾の、右上の孔は61式直接照準眼鏡用、左上の孔はM1919A4同軸機銃用である。この曲面の防盾形状だと、ショットトラップを起こす可能性もありえた。 |
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* [http://type61tank.la.coocan.jp/image/type61tank/gunmantlet/gunmantlet102.jpg] - 61式戦車の防盾右側の直接照準孔。卵型の蓋が下方を支点に左右にスライドすることで開閉する。開閉は砲塔内部から操作できる。 |
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本砲は[[アメリカ軍]]制式の[[90mm戦車砲 (アメリカ)|90ミリ戦車砲]](90mm M3系列、M36系列等)と使用[[弾薬]]に互換性がある。本砲の[[砲口初速]]は、アメリカ軍制式M71 HE射撃時にて約820m/s、アメリカ軍制式M318 AP-T(M318A1)射撃時にて約910m/sである。本砲の最大腔圧はアメリカ軍制式M71 HE射撃時にて約2,670kg/cm<sup>2</sup>(約262MPa)、アメリカ軍制式M318 AP-T射撃時にて約3,100kg/cm<sup>2</sup>(約304MPa)、規定最大腔圧は約3,300kg/cm<sup>2</sup>(約324MPa)である。 |
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旧防衛庁『仮制式要綱 61式戦車 XD9001』[https://web.archive.org/web/20040227053815/http://jda-clearing.jda.go.jp/kunrei/i_fd/iz1961xd9001.html]によれば、油圧/手動 旋回方式の、砲塔及び[[戦車砲]]の[[照準器|動力照準器]]の最高速度は、砲塔の旋回速度が約24度/秒(420ミル/秒)、戦車砲の俯仰角速度が約4度/秒(70ミル/秒)となっている。発射速度は10~15発/分であった。 |
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砲塔旋回と砲の俯仰に油圧を用いるため、もしも61式戦車が実戦を経験していたならば(幸い、そのようなことは無かったが)、[[M48パットン|M48戦車]]のように、敵弾が砲塔を貫通して砲塔旋回用の油圧系を切断した際に、駆動油が乗員区画内部に流出し、火災が発生した可能性も考えられる(ゆえに後継の[[74式戦車]]では電動となっている)。なお、この砲塔の油圧動力は、エンジンがかかっていないと使用できない。 |
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本砲の正確な砲威力(61式のM318A1 AP-T(曳光徹甲弾)の場合、砲口初速910m/s、1,000mで189mmの貫徹力)については不明であるが、[[第二次世界大戦中]]のドイツの[[ティーガーI]]の「[[8.8_cm_FlaK_18/36/37#発展型|KwK36 56口径 8.8cm 戦車砲]]」(Pz.Gr.39 APCBC-HEの場合、砲口初速773m/s、1,000mで99mmの貫徹力。Pz.Gr.40 APCRの場合、930m/s、1,000mで138mm)を遥かに凌ぎ、同[[ティーガーII]]の「[[8.8 cm PaK 43|KwK43 71口径 8.8cm 戦車砲]]」(Pz.Gr.39/43 APCBC-HEの場合、砲口初速1,000m/s、1,000mで165mm(30°)の貫徹力。Pz.Gr.40/43 APCRの場合、1,130m/s、1,000mで193mm(30°))とほぼ同等である。 |
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元61式乗りの証言によると、M4戦車の車体を利用した[[M32 戦車回収車]]に対し、61式戦車で射撃したところ、射距離1,200 mで、車体正面に当たった徹甲弾が貫通して車体後方から抜けていたとのこと。 |
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* [https://i.ibb.co/M8nmWRx/A381-C8-AC-F426-4338-A615-9-F33218866-CF.png] - M318A1 AP-Tの弾道特性 |
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また、[[1970年]]より、[[小松製作所]]が「70式対戦車りゅう弾」(全長92cm。重量14.8kg。砲口初速1170m/s)の名称でライセンス生産していた、M431 HEAT-Tを使用した場合、有効射程2,500ヤード(2,286m)、14インチ(約350mm)のRHA(均質圧延装甲)を貫徹可能であった。これはT-54/55に対抗可能と考えられていた。 |
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* [https://www.bulletpicker.com/images/clip1525.png] - M332A1 HVAP-T |
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* [http://65.175.100.54/uxofiles/mulvaney/images/90mm-HEAT-T-M431.jpg] - M431 HEAT-T |
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* [https://d3n898qob6erx6.cloudfront.net/hazards/1394/images/m431-001.jpg] - M431 発射体 |
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「70式対戦車りゅう弾」の採用より前は、有事に際して、米軍から[[高速徹甲弾]](HVAP)の供与を受けて、T-54/55に対抗する予定であった。 |
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また、[[1982年]]には、61式戦車用の[[装弾筒付翼安定徹甲弾]](APFSDS)が試作され、試験に成功しているが、「70式対戦車りゅう弾」よりも威力に劣ることと、74式戦車用のM735 APFSDSのライセンスの方が優先されたため、採用は見送られている。 |
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使用弾薬に互換性のあるアメリカの[[M48パットン]]の「[[90mm戦車砲 (アメリカ)#T54シリーズ|M41 43口径 90mm 戦車砲]]」と比較した場合、長砲身・高初速である「61式 52口径 90mm 戦車砲」の砲威力はやや高いと思われる。 |
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ただし、前年11月に制式化されたアメリカの[[M60パットン]]が[[ロイヤル・オードナンス L7|105mmライフル砲]]を装備していることからわかるように、1歩遅れての配備となっている。 |
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61式戦車の61式52口径90mm戦車砲には砲安定装置(ジャイロ・スタビライザー)と弾道計算機は無く、命中率は砲手の技量によるが、「地形:舗装路など平坦地、弾種:徹甲弾もしくは対戦射榴弾、距離:1000m以内」などの条件で、行進間射撃による、戦車目標(縦2m横3m)に対する、命中を期すことができた。精密・確実を期すのであれば、躍進射や停止射を行う。機銃の行進射は、現行戦車と同様、突撃時に普通に行われる射撃方法であった。 |
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副武装である主砲同軸機銃の7.62mm M1919A4と、キューポラ上の12.7mm M2は、共に米国供与品として本車に搭載された。 |
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M1919A4には三脚も用意されており、車外に持ち出し重機関銃として使うこともできた。 |
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M2は機銃手(車長)が身を乗り出して押金式トリガーで直接撃つのではなく、機銃手(車長)の安全を確保するために、キューポラ内から電磁(ソレノイド)式トリガーで遠隔操作により射撃した。更に機銃の俯仰角の変更もキューポラ内から操作でき、キューポラ全体が全周旋回した。米軍戦車の銃塔用機銃と同じく、直接照準器を用いず、弾着の様子や曳光弾を見ながら照準を修正する方式だった。機銃の照準を視界の狭い車長用潜望鏡 M15(ペリスコープ)越しに合わせるため、命中率は低く、精密射撃は期待できず、あくまで歩兵を追い払う牽制用にとどまっていた(ゆえに後継の74式戦車では通常の直接操作方式となっている)。俯仰角は-10度から+55度、発射速度は550発/分、射程は約1,200メートルであった。 |
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[[射撃統制システム|FCS]]は、キューポラと一体となった、「61式(合致式)車上1m測遠機」(測距範囲200~10,000メートル、俯仰角-10度から+13度、倍率12倍、視野3度)であった。目標にピントを合わせると、目標までの距離が正確にわかる仕組みで、これにより、2,000メートルからの遠距離砲戦が可能であった。ただし、開発時には、「日本国内は樹木や構造物が多く、1000メートル以内の近距離で会敵しやすいため、90mm砲でも通用すると認識していた」(=1,000メートル以内の戦闘を想定していた)とのこと。61式車上1m測遠機と車長用潜望鏡 M15と砲手用61式照準潜望鏡の相互間に連動機能があるかは不明。 |
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キューポラと測遠機(レンジファインダー)を一体とした過去の例としては、[[試製五式砲戦車|試製新砲戦車(甲)ホリII]](未成)や、[[コンカラー (戦車)|FV214 コンカラー重戦車]]が、存在する。両車は、長砲身大口径砲の長射程を生かして、遠距離(後方)から敵を狙撃するために、高精度の照準装置として、車両の最も高い位置にあるキューポラに測遠機を装備したものである。61式戦車のキューポラに測遠機が装備されているのも、同じ理由(運用法)ゆえと考えられる。この車体の最高部にあるのを生かして、車体だけでなく砲塔も[[掩体]]に隠して、測遠機だけを掩体より上に出して、待ち伏せることも可能である。 |
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61式戦車がキューポラに測遠機を搭載したのは、発砲時の衝撃対策(主砲からなるべく離して設置する)の意味もあったと考えられるが、それでも実際には、元61式乗りの証言によれば、「発砲の度にズレて補正していた」。射撃の前にはボアサイト(照準規正)を行うが、1発撃つごとに、車長用/砲手用照準潜望鏡と、この測遠機の照準が、ものすごくずれてしまうので、結局、砲手用直接照準眼鏡を用いて撃っていた。なお、ステレオ式レンジファインダー導入の先駆けとなったナチスドイツやアメリカでも、同様の問題で苦労していた。 |
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[https://pbs.twimg.com/media/CUdLMksUEAAz1-d?format=jpg&name=large] - 装填手席からみた車体内部。中央に砲手用の動力方向照準ハンドルが、右上に車長用の動力方向照準ハンドルがある。61式戦車にもオーバーライド機能がある。これらとは別に砲手用の人力高低照準ハンドルもある。発砲は電気撃発式で、砲手用の動力方向照準ハンドルおよび人力高低照準ハンドルに引金が組み込まれている。砲手の足元にも足踏み式撃発装置がある。 |
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砲手用61式照準潜望鏡の、様々な大きさ・形状の、突き出しの大きなガードは、配備後に各部隊側で製作した「雨除け」である。ワイパーが無いので、「雨除け」が無いと荒天時に前が全く見えなくなるからである。 |
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装填手用ハッチには、撃ち殻(空薬莢)を捨てるための、小円のハッチがある。装填手用潜望鏡 M6の右横には、ライトを取り付けるための筒(ピントル・スタンド)がある。 |
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=== 動力・機動性能 === |
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[[File:NDD61tank.JPG|thumb|250px|斜め後ろから見た後部、特徴であるフェンダーの上部に取付けられた排気管や砲塔後部の張り出しが見える(防衛大学校内での展示)]] |
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旧防衛庁『仮制式要綱 61式戦車 XD9001』によれば、以下の通りである。 |
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61式戦車の最高速度は45 km/h、加速性能は200 m区間(0-200 m区間)の加速走行時間が25秒(JISD1014自動車加速試験方法を準用した場合)、登坂能力は31度(堅硬土質において)、超堤能力は0.8メートル(水平堅硬土質において)、超壕能力は2.7メートル(水平堅硬土質において)、最小回転半径は約10メートル、[[無限軌道|履帯]]幅は500 mmとなっている。旧軍の戦車用エンジン(おそらく[[四式中戦車]]のALエンジン)を参考に開発された、12HM-21WT[[ディーゼルエンジン]]の裸最高軸出力は650 ps/2,100 rpm(冷却ファンや空気清浄器を除いた場合)、最高軸出力は570 ps/2,100 rpm で、最高軸トルクは200 mkg。全負荷における最低燃料消費率は210 g/psh。なお、61式戦車の、最高速度45 km/h、超壕能力2.7 メートルは、四式中戦車と同じ性能数値である。 |
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* [http://tankguy.gooside.com/type61history/engine03.jpg] - 生産型に搭載されていた、三菱12HM-21WT 空冷4ストロークV型12気筒直噴式ターボチャージド・ディーゼルエンジン。 |
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燃料積載量は、主燃料タンク(内部)が450リットル、補助燃料タンク(外部)が200リットルとなっている。61式戦車は、車体の小型軽量化を図ったために、車内の燃料積載量が少ない=航続距離が短いという欠点がある([[M48パットン|M48戦車]]のディーゼルエンジン搭載車の1460リットル=480 kmの1/3以下である)。そのため、車体最後部上面に補助燃料タンク(=200リットルのドラム缶)装着架が設けられている。61式戦車の航続距離は(おそらく補助燃料タンクも使用して)200 kmとされる。61式戦車の装着架には新旧がある。新型の装着架を装備した61式戦車を「61式戦車(B)」(61式戦車B型)と呼称する。新型の装着架は、74式戦車に装備されている物とほぼ同じである。燃料は補助燃料タンクから優先的に使用され、戦闘時などには操縦席からの遠隔操作で切り離すことが可能となっている。燃料は軽油を用いる。61式戦車の場合、JP-4[[ジェット燃料]](1951年に制定された、灯油とガソリンを1:1でブレンドした、ワイドカット系のジェット燃料)でも動作するかは不明(直噴式なので、おそらく多燃料ディーゼルエンジンではないので、使用できない。(戦中の[[統制型一〇〇式発動機]]を除いて)多燃料ディーゼルエンジン搭載車の走りは、1963年から生産が始まった[[チーフテン (戦車)|チーフテン]]である。74式戦車の場合は動作する)。燃料タンク給油口は、装着架の左右両側にある、2つの丸い小ハッチである。 |
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* [http://type61tank.la.coocan.jp/image/type61tank/externaltank/externaltank001.jpg] - 旧型の補助燃料タンク装着架 |
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* [http://type61tank.la.coocan.jp/image/type61tank/externaltank/externaltank100.jpg] - 新型の補助燃料タンク装着架 |
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* [http://type61tank.la.coocan.jp/image/type74tank/74externaltank/74externaltank705.jpg] - (参考) 74式戦車の補助燃料タンク装着架 |
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* [https://livedoor.blogimg.jp/futabakansatsu/imgs/b/6/b6ee2bcf.jpg] - (参考) 200リットルの補助燃料タンク=ドラム缶を1個積載した74式戦車。61式戦車の場合もこれに準ずる。 |
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* [https://livedoor.blogimg.jp/futabakansatsu/imgs/2/5/2510444e.jpg] - (参考) 74式戦車に積載された、200リットルの補助燃料タンク=ドラム缶。61式戦車の場合もこれに準ずる。 |
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61式戦車の加速性能、0-200メートルまで25秒という数値であるが、後に登場する諸外国の[[戦車#第3世代主力戦車|第3世代戦車]]と同一条件で比較した場合、[[レオパルト2|レオパルト2A4]]が推定23.5秒、[[M1エイブラムス]]の試作車XM1が推定29秒{{Sfn|軍事研究|2007|p=135}}<!-- <ref>『世界のハイパワー戦車&新技術』(Japan Military Review『軍事研究』2007年12月号別冊p135、一戸崇雄)</ref> -->であることから、61式の加速性能は0-200メートル区間に限定した場合、諸外国の第3世代戦車と同等水準と言える。本車の[[パワーウェイトレシオ]]を考慮すると最高速度よりも加速性能を重視したものと考えられる。 |
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動力系は、車体後部のディーゼルエンジンと、車体前部の操行装置([[変速機]]含む)を、[[ドライブシャフト]]で接続する、[[前輪駆動]]方式が採用されている。起動輪は前方に、誘導輪は後方に、ある。ドライブシャフトは車体中心軸よりやや左側に通されている。リアエンジンフロントドライブ(RF)方式は、ドライブシャフトを通す空間を確保するために、車高を低くすることができず、防御上で不利であるため、戦後戦車での採用例は、61式戦車が唯一であった。ただし、リアエンジンリアドライブ(RR)方式と異なり、車体前部の変速レバーと車体後部の変速機を繋ぐ、機械式リンケージも不要となる。 |
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欠点として、前輪駆動方式を採用したために車体内前方にあるトランスミッション内のオイルが、運転中は過熱(摂氏70~110℃)するため、その右側にある操縦席は、夏場には摂氏70℃にも達し、操縦手が[[熱中症]]で[[脱水症状]]となることもあった。もちろん車内に[[空調装置]](いわゆるエアコン、ここでは[[冷房]]装置の意味)は装備されていない。[[74式戦車]]にも[[90式戦車]]にも装備されていない。自衛隊の戦車に空調装置が導入されたのは、[[10式戦車]]の電子機器冷却用の「要部冷却装置」(乗員の冷却と兼用。電子機器が主であり、乗員はおまけである)からである。冬場の暖房については、61式戦車ではトランスミッションやデファレンシャルからの排熱を、90式戦車や10式戦車では水冷エンジンの冷却水からの排熱を、利用している。74式戦車では、操縦手の足元にのみバッテリーを利用した電熱式ヒーターがある。もちろんこれらの暖房は、エンジンがかかっていないと使用できない。 |
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さらに、車体前部に設置された操行装置をメンテナンスするために、車体前部[[装甲|装甲板]]の左側が、ボルト留めのパネルになっているなど、防御性能において大きな不安を抱えている(命中弾の強い衝撃を受けると、ボルトが切れて、パネルが吹っ飛ぶ)。もっとも、車体を隠蔽する[[ハルダウン]]が基本戦術なので、さしたる問題でもないが、問題であるからこそ、そうせざるを得ないともいえる。なお、[[M18駆逐戦車]]や[[M24軽戦車]]にも、車体前面装甲にメンテナンス用パネルがある。 |
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また、その場で旋回する超信地旋回の機能も、複雑な変速機の設計が必要なことから、西側戦車としては珍しく持たせることができなかった。ただし、元61式乗りの証言によると、「正しくは信地旋回もできなかった」とのこと。 |
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[[変速機]]は、前進5段後退1段変速だが、61式戦車にはクラッチを踏み込むことで高低切り替えできる機能があり('''機械式ハイ・ロー切換2段クラッチ''')、実質は、前進10段後退2段変速であり、戦闘機動性に優れている。例として、開発段階で、M4中戦車、M41軽戦車、M47中戦車と路外機動試験を行ない、61式>M24>M4>M47の順で、61式戦車が最速の結果を残している。さらには、後退1段のみの74式戦車よりも速く後退できたという、エピソードがある。これは、実質は対戦車自走砲である61式戦車にとって、ヒット・エンド・ラン戦法(発砲後に、敵の反撃を受けないよう、素早く移動し、敵のキルゾーン(有効射程圏)から離脱し、射点を変更すること)を行う上で、上述の加速性能と合わせて、必要不可欠な能力である。 |
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こうした後退性能の重視は、その装甲の薄さゆえにヒット・エンド・ラン戦法を採用した、西側の戦後第二世代戦車に共通するものであり、61式戦車は、戦後第一世代戦車でありながら、実質的には戦後第二世代戦車の要素も持っていたと言える。 |
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対照的に、仮想敵であるソ連戦車のほとんどは、後退速度が極端に遅く、例えばT-62は時速8 km程度しか出せなかった。 |
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=== 車体 === |
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[[File:JGSDF Type 61 Tank at Camp Shinodayama April 24, 2016 01.JPG|thumb|250px|後継種の[[74式戦車]]より車高は高い<br>[[信太山駐屯地]](2016年)]] |
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車両の基本構造は、鋼板溶接車体と鋳造[[砲塔]]の組み合わせである。車体前面は傾斜装甲、砲塔はお椀形状で、[[避弾径始]]が考慮されている。防盾周りは[[M36ジャクソン|M36 戦車駆逐車]]、砲塔上面は[[M41軽戦車]]や[[M47パットン|M47戦車]]に似ている。砲塔内には、右側の前に砲手とその後ろの車長、左側に装填手が配置されている。鋳造砲塔後方には、即用弾薬庫と無線機収納場所と90mmライフル砲のカウンターウェイトを兼ねる、砲塔と一体となった張り出し部(バスル)が設けられている。砲塔バスル右側面の出っ張りは、[[ベンチレーター]]である。CBR(化学・生物・放射能)防護装置は無い。砲塔バスル後面には雑具箱が設けられている。砲塔上面までの全高は2.49メートルとなったが、当時の[[陸上自衛隊]]が保有していた[[M4中戦車|M4A3E8戦車]]、[[M41軽戦車]]や[[アメリカ軍|米軍]]の[[M47パットン|M47]]・[[M48パットン|M48戦車]]よりは低く抑えられた。 |
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* [http://type61tank.la.coocan.jp/image/type61tank/turretrear/turretrear004.jpg] - 砲塔バスル後面の雑具箱の中 |
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* [https://cdn.wikiwiki.jp/to/w/wotblitz/uploader/::ref/BrVdCDc.jpg?rev=514efc16bbfc308e63c4788a151dc9d9&t=20170222204407] - M4A3E8戦車と61式戦車の車高の比較 |
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* [http://type61tank.la.coocan.jp/image/type61tank/turretright/turretright116.jpg] - 砲塔右側面のラインは、吊り下げ環直後から屈折している。 |
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砲塔バスルの、内部右側には米軍の「AN/GRC-3」をほぼそのまま国産化した「58式車両無線機 JAN/GRC-3Z(指揮車用) または JAN/GRC-4Z(一般車用)」の本体を搭載し、外側右後部には「送受信機 JRT-66/GRC(受信機 JR-108/GRCと共通)の、外側左後部には「送受信機 JRT-70/GRC」の、各マストが取り付けられている。 |
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[[主砲]]先端部のハンマーヘッド型(T字型)[[マズルブレーキ]]や後部の張り出した砲塔など、全体的な印象は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の戦車に近い。しかし車体は、車体前面両側の傾斜装甲や、車体最後部両側の切り欠き(四式中戦車では[[マフラー]]を設置していた場所。STA-1とSTA-2もここにマフラーを設置している)や、旧軍戦車伝統の平らな三角形の排気管(フィッシュテール型排気管)や、[[無限軌道|履帯]]のたるみを支える3個の上部転輪など、旧軍戦車や[[四式中戦車]]の設計を受け継いでいることがうかがえる。また、ヘッドライトは左右フェンダーの先端上方に、マフラーは車体後部両側面に、取り付けられているが、こうしたレイアウトは同時代の西側各国の[[戦車]]にはほとんど見られない外見的特徴である。車体前面装甲板上に取り付けられているのは、右(操縦席の前)が防空管制灯(管制前照灯)で、左がサイレン(ホーン)である。 |
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車体前面上部の45mm厚の(水平線から)30度の傾斜装甲は、真正面からは実質90mm厚に相当した。なお、車体装甲に対しては、[[ボフォース 60口径40mm機関砲|ボフォース 40mm機関砲]]を用いた耐弾試験までしか行われていない。 |
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*[https://4.bp.blogspot.com/-emLs1U52zCs/WENjG2T9CDI/AAAAAAAAA00/DkNmquJ-baIlZ5nJKWI5ExtGsvfaMHhCQCLcB/s640/61.jpg] -61式戦車の防御力 |
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操縦席と操縦手用61式潜望鏡 JM17は日本の交通法規に合わせて車体右側に配置されていたが、[[砲塔]]右側の[[指揮官|車長]]・[[砲手]]と合わせて、車輌右側に乗員4人中3人が偏在するためリスクコントロール面で問題となり、[[74式戦車]]では車体左側に移されている。操縦は左右2本のレバー操作式で、[[変速機]]の歯車の回転が少しでもずれると変速できないなど、[[アメリカ軍]]から供与された[[M24軽戦車]]や[[M41軽戦車]]に比べて操縦が難しく、乗員から「世界一操縦が難しい戦車」と言われたことがある。また、操縦する際に左手に[[腕時計]]をしていると、変速に失敗した際に弾き戻されるシフトレバーが左手に当たり腕時計が壊れるため、操縦する際は腕時計を右手に付け替えた、という話が伝えられている。 |
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* [https://kuruma-news.jp/wp-content/uploads/2029/10/07-650x433.jpg?v=1665996924] - 61式戦車の操縦席の図。右側の「補助燃料タンク切り離しレバー」に注目。 |
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* [https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/a/akmuzifal6489/20210214/20210214181750.jpg] - 操縦手用61式潜望鏡 JM17(東京光学機械株式会社(現・TOPCON)製) |
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サスペンションは[[第二次世界大戦]]後の各国戦車の主流となっていたトーションバー方式を採用し、履帯は生産コストと整備・修理の簡便性を考慮して、センターガイド方式のシングルピン・シングルブロック型が採用された。 |
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機関室火災に対応するため、二酸化炭素を用いた自動消火装置を搭載している。熱感応弁により自動で作動するほか、操縦手席の手動弁を操作することでも作動させることができる{{Sfn |古是三春|一戸崇雄|p=62}}。 |
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車体後面中央には、吸気用の大型グリルが設けられている。大型グリルの右下には、トレーラ([[2t弾薬トレーラ]])用電源ソケットが付いている。大型グリルの左隣には、61式車上電話機が設けられている。この車上電話機は、(演習では)ほとんど使われないので、[[90式戦車]]以降は廃止されている。ただし、電話機を接続する有線端子は残している。しかし、[[10式戦車]]以降は、この有線端子も廃止されている。 |
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* [https://contents.trafficnews.jp/post_image/000/069/778/large_201202_telebox_03.jpg] - (参考)74式戦車の74式車上電話機の内部 |
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* [https://contents.trafficnews.jp/post_image/000/069/780/large_201202_telebox_01.jpg] - (参考)74式戦車の車上電話機は車体後面の右側にある。 |
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* [https://rikuzi-chousadan.com/soubihin/sensya/90mbt/90tk_13.jpg] - (参考)90式戦車車体後面。左側のテールランプの右側にある円筒が有線端子である。 |
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* [https://stat.ameba.jp/user_images/20170815/20/type60mbt/63/b9/j/o0640043914005767446.jpg?caw=800] - (参考)10式戦車では有線端子も廃止されている。 |
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車体底面は、対戦車地雷の爆圧を外らすため、従来の平板式を止めて3面式舟型構造が採用されていた。これは[[60式装甲車]]にも採用されていた。舟型にすると車内容積が減るが、狭い最底部にはトーションバーが設置されていて、どのみち他に利用できないので、問題とはならない。車体底面左前方には緊急脱出ハッチ(第2転輪と第3転輪の間)が設けられている。 |
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[[1980年代]]後半まで、61式戦車を含む、陸上自衛隊の装甲車両には、ダークグリーンの単色塗装が施されていた。これは、アメリカ軍の軍用車両で多用されるオリーブドラブ(OD)と呼ばれる暗緑色より、青味と灰色味が強い色調で、自衛隊独特の色であった。 |
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[[1970年代]]後半~1980年代初頭にかけて、富士教導団所属の戦車教導隊(現在の機甲教導連隊)では、実験的に、戦車のシルエットを崩したり、背景と調和させたりすることを目的に、様々な色彩やパターンの迷彩塗装が試験された。それらの試験で、数多くのテスト迷彩が施されたのが、61式戦車であった。戦車教導隊第2中隊では、90-6050号、6327号、6533号、6562号の4輌に、こうした実験迷彩が、期間限定で施された。 |
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そうした試行錯誤を経て、1980年代半ばには、現在のダークグリーンとブラウンの2色迷彩塗装が定められ、確立した<ref>[https://trafficnews.jp/post/110751 早すぎたデジタル迷彩!? 七色の61式戦車が誕生したワケを“生みの親”に聞いた] - 乗りものニュース (2021年9月16日). 2023年11月27日閲覧。</ref>。 |
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{{日本の主力戦車}} |
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== 運用 == |
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[[File:Type 61, Exercise Orient Shield, 18 nov. 1985.jpg|thumb|1985年日米軍事演習]] |
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[[File:JGSDF Type 61 Tank(No.ST-0134) left front view at Camp Itami October 7, 2012.jpg|thumb|防盾に69式暗視照準投光器を設置する架台が備わった車輌]] |
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[[File:JGSDF Type 61 Tank(No.ST-0134) left rear view at Camp Itami October 7, 2012.jpg|thumb|同車輌<br>装填手ハッチ横に細長い規正板収納箱が設置されている]] |
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'''61式特車'''として制式化された型の量産化は[[1961年]](昭和36年)度予算で10輌が計上され、翌[[1962年]](昭和37年)度に3年分の一括国債という方式で90輌、1966年(昭和41年)度は40輌(第二次防衛力整備計画・[[1962年]](昭和37年)~[[1966年]](昭和41年))、[[1967年]](昭和42年)から新型戦車(74式戦車)制式化の前年となる[[1973年]](昭和48年)まで毎年60輌の調達が行われた{{Sfn |丸|2017|p=86}}。この60輌というのは、一個戦車大隊の定数でもある{{Sfn |丸|2017|p=87}}。試作車の4輌を除くと、[[1973年]](昭和48年)の製造終了までに560輌が生産された{{Sfn |丸|2017|p=87}}。 |
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量産初号と2号車の引き渡し式は三菱重工相模原工場にて、[[1962年]](昭和37年)[[10月15日]]に行われた{{Sfn |丸|2017|p=87}}。同年1月に陸上自衛隊の六個管区隊・四個混成団体制が十三個師団体制に切り替わり、この際に'''戦車'''('''61式戦車''')の呼称が使用されることになるが、調達実施本部とメーカーの契約が優先されたことで、式典では特車の呼称が使用された{{Sfn |丸|2017|p=87}}。 |
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まず教育部隊である[[富士教導団]]戦車教導隊への配備が行われ、一般部隊では[[第7師団 (陸上自衛隊)|第7師団]]第7戦車大隊(当時)へ初配備された<ref name="機甲科全史p173">『陸上自衛隊 機甲科全史』p. 173.</ref>。以降、全国の[[戦車]]部隊に配備が進められ、[[1984年]]には[[M41軽戦車]]を装備する最後の部隊での装備更新が終了し、[[陸上自衛隊]]の全ての戦車装備部隊が[[74式戦車]]もしくは61式戦車によって編成されることになり、戦車装備の完全国産化を実現した。 |
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制式化後、大きな改良・改修が実施されることはなかったものの、下記の様な細かい改修や装備と追加が行われている。 |
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製造番号400番までの車輌は、車載銃がM1小銃であった関係から砲塔装填手ハッチ下の膨らみ部分が砲塔バスルの曲線になだらかにつながっているのに対して、400番台以降は車載銃が[[64式7.62mm小銃]]に対応したラックに変更されたことで、砲塔バスルが垂直となっている{{Sfn |古是三春|一戸崇雄|p=36}}。 |
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第2戦車大隊(現:[[第2戦車連隊]])にて夜戦中隊が編成されていたことから、夜戦仕様の61式戦車も存在した(74式戦車への更新により、夜戦仕様の61式戦車は各戦車大隊に2両ずつぐらい配分された)。正式な呼び名は「61式戦車(B)暗視照準装置付き」とされる{{Sfn |古是三春|一戸崇雄|p=37}}。「69式暗視照準装置」装備車には2種類あり、投光器と受像器の装備車と、受像器<ref>この細長い受像器を、砲塔前面右側の直接照準孔に繋がる、砲塔内の砲の右側にある砲手用61式直接照準眼鏡(テレスコープ)と交換した。</ref>のみの装備車が、存在した。投光器の照射は白色光と赤外線の、シャッターによる切り替えが可能。防盾前面左側に「69式暗視照準投光器」を設置する架台が備わり(投光器装備車のみ)、装填手ハッチ横に細長い規正板<ref>従来は、「暗視照準眼鏡」と、間違って解説されてきた。</ref>収納箱の追加<ref>規正板とは、夜戦用装備ではなく、(白と黒のチェックが入った)10cm四方の板が両端についた、全長1mの(足付きの)棒であり、61式車上1m測遠機の照準の修正に用いられる。本来、規正板収納箱は、砲塔バスル内左側に収納されていたが、そこに代わりに、細長い「砲手用暗視装置受像器」を収納したために、規正板収納箱を砲塔外に出さざるを得なくなった。</ref>と、暗視装置(投光器のキセノンランプ点灯)用の「直流-直流 変換器(変圧器)」<ref>従来は、「交流発電機」や「交流変換器」と、間違って解説されてきた。61式戦車は「直流-交流 変換器(インバーター)」を備えていない。</ref>が収容される関係上、砲塔バスル後面の箱が一般車の雑具箱に比べ大型化している<ref>61式戦車のエンジンには元より発電機が2基付いており、暗視装置用に発電機を新たに搭載することも無く、暗視装置用の電源は車体側から供給された。ゆえに箱の中身は発電機ではない。</ref>。 |
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* [https://auctions.afimg.jp/f204095152/ya/image/f204095152.1.jpg] - 61式車上1m測遠機 規正板と収納箱 |
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* [https://web.archive.org/web/20040304221450/http://jda-clearing.jda.go.jp/kunrei/i_fd/iz1969xq7003_001.html] - 69式照準用暗視装置 付図 |
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* [http://type61tank.la.coocan.jp/image/type61tank/nightvision/nightvision605.jpg] - 防盾と一体鋳造だった防盾上部の吊下げ環の左側は、投光器架台と干渉する為に、切断して別の環部品を溶接し直している。 |
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* [http://nendokun.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2018/01/03/gunmantlet605.jpg] - 投光器裏の太/細2本のケーブルは、砲塔前部の前蓋板右寄り(右吊り下げ環の傍)に設けられた2つのソケットに接続されたと想像される(伊丹駐屯地の現存車「ST-0134」)。 |
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* [http://nendokun.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2018/01/03/74nightvision520.jpg] - (参考)74式戦車のソケット。74式戦車の場合は砲塔左側面にある。これと同様の物が61式戦車の砲塔前部にも付いていたと想像される。 |
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* [https://contents.trafficnews.jp/post_image/000/224/528/large_201030_light_04.jpg] - (参考)74式戦車のソケット。蓋を外して、投光器から延びるケーブル端のプラグを接続する。 |
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操縦手用には、「63式操縦用暗視装置I型」が開発された。 |
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[[1982年]](昭和57年)より74式戦車が標準搭載する「74式60mm発煙弾発射機」(「発発(ハツハツ)」と略される)の追加搭載が開始された{{Sfn |古是三春|一戸崇雄|p=62}}。これにより、それまで砲塔側面に吊り下げられていた工具箱が砲塔後部上面に移された{{Sfn |古是三春|一戸崇雄|p=37}}。 |
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これらに加え、74式戦車の開発初期においては、新規開発ではなく既存車両の火力強化として61式戦車(改)の試作開発も提案されたが、重量の増加に伴う機動力の低下や発射速度の低下など、総合戦闘力はかえって改悪されることもしばしばであるとして新型戦車開発へとシフトした{{Sfn |古是三春|一戸崇雄|p=68}}。 |
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[https://pbs.twimg.com/media/EPnRSfKUUAIIhb2?format=jpg&name=medium] - 61式戦車(改) 想像図 |
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<!--出典が不明な記述のため、一先ずコメントアウト |
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対抗部隊訓練に参加した61式戦車が、霧で見通しが悪い中コンボイで進んでいたところ、前で停車した別の61式戦車に気づかず進み衝突した。前の車両は砲身を後ろに向けていた為、操縦手が砲身に頭を強打して死亡する事故が起きている{{要出典|date=2023年2月}}。--> |
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旧式化と後継の74式戦車・90式戦車の登場により徐々に退役が進んだ。[[1961年]](昭和36年)の制式採用から39年後の[[2000年]](平成12年)には現役としては最後の総合火力演習に参加する{{Sfn |古是三春|一戸崇雄|p=29}}ものの、同年全車が退役した。制式採用から39年間、生産・配備された全ての車両は一度も実戦投入されることはなかった。 |
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[[2001年]][[9月28日]]には[[駒門駐屯地]]にて「61式戦車送別会」が実施され、同駐屯地最後の車輌が三菱重工相模原工場の広報展示用として返納された{{Sfn |古是三春|一戸崇雄|p=42}}。 |
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<gallery widths="180px" heights="150px"> |
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File:JGSDF Type 61 Tank(No.ST-0211) left rear view at Camp Uji November 26, 2016.jpg|400番台以前の車輌<br>[[2016年]][[11月26日]]<br>[[宇治駐屯地]] |
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File:JGSDF Type 61 Tank left rear view at Camp Shinodayama April 20, 2014.jpg|400番台以降とみられる車輌<br>僅かではあるが、装填手ハッチ下の形状の違いに注目<br>[[2014年]][[4月20日]]<br>[[信太山駐屯地]] |
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File:JGSDF Type 61 Tank right rear view at Camp Nihonbara October 1, 2017.jpg|発煙弾発射機の搭載が行われなかった車輌<br>砲塔側面に雑具箱が残されている |
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File:JGSDF Type 61 Tank(No.ST-0134) right rear view at Camp Itami October 7, 2012.jpg|砲塔バスル後面に大型化した「直流-直流 変換器」収容箱を搭載した車輛 |
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</gallery> |
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{|class="wikitable" style="text-align:right" |
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|+61式戦車の調達数{{Sfn |丸|2017|p=86}} |
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! 予算計上年度 !! 調達数 |
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|- |
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|| 昭和36年度(1961年) || 10輌 |
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|- |
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|| 昭和37年度(1962年) || 90輌 |
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|- |
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|| 昭和38年度(1963年) || 0輌 |
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|- |
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|| 昭和39年度(1964年) || 0輌 |
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|- |
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|| 昭和40年度(1965年) || 0輌 |
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|- |
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|| 昭和41年度(1966年) || 40輌 |
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|- |
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|| 昭和42年度(1967年) || 60輌 |
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|- |
|||
|| 昭和43年度(1968年) || 60輌 |
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|- |
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|| 昭和44年度(1969年) || 60輌 |
|||
|- |
|||
|| 昭和45年度(1970年) || 60輌 |
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|- |
|||
|| 昭和46年度(1971年) || 60輌 |
|||
|- |
|||
|| 昭和47年度(1972年) || 60輌 |
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|- |
|||
|| 昭和48年度(1973年) || 60輌 |
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|- |
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|合計 |
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|560輌 |
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|} |
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== 配備部隊 == |
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{{節スタブ}} |
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[[File:JGSDF Northern Army.svg|フレームなし|23x23ピクセル]][[北部方面隊]]直轄 |
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*[[第72戦車連隊|第103戦車大隊]] - 1969年(昭和44年)11月4日配備~1983年(昭和58年)1月24日{{Sfn |丸|2017|p=88}} |
|||
*[[第73戦車連隊|第104戦車大隊]] - 1969年(昭和44年)5月配備~1979年(昭和54年){{Sfn |丸|2017|p=88}} |
|||
*[[第1戦車群]] - 1970年(昭和45年)11月14日配備~1984年(昭和59年)12月10日 |
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[[File:JGSDF 1st Division.svg|フレームなし|23x23ピクセル]][[第1師団 (陸上自衛隊)|第1師団]] |
|||
*[[第1戦車大隊]] - 1970年(昭和45年)7月配備~2001年(平成13年)9月28日 : 1979年3月までに約60輌の配備を完了{{Sfn |丸|2017|p=87}}。 |
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[[File:JGSDF 2nd Division.svg|フレームなし|23x23ピクセル]][[第2師団 (陸上自衛隊)|第2師団]] |
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*[[第2戦車連隊|第2戦車大隊]] - 1967年(昭和42年)6月17日配備 |
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[[File:JGSDF 3rd Division.svg|フレームなし|23x23ピクセル]][[第3師団 (陸上自衛隊)|第3師団]] |
|||
*[[第3戦車大隊]] - 1973年(昭和48年)4月14日配備~2001年(平成13年)10月{{Sfn |丸|2017|p=88}} |
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[[File:JGSDF 4th Division.svg|フレームなし|23x23ピクセル]][[第4師団 (陸上自衛隊)|第4師団]] |
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*[[第4戦車大隊]] - 1970年(昭和45年)7月27日配備 |
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[[File:JGSDF 5th Brigade.svg|フレームなし|23x23ピクセル]][[第5師団 (陸上自衛隊)|第5師団]] |
|||
*[[第5戦車大隊]] - |
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[[File:JGSDF 6th Division.svg|フレームなし|23x23ピクセル]][[第6師団 (陸上自衛隊)|第6師団]] |
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*[[第6戦車大隊]] - |
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[[File:JGSDF 7th Division.svg|フレームなし|23x23ピクセル]][[第7師団 (陸上自衛隊)|第7師団]] |
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[[File:Type 61 tank deployed in the 71st tank regiment.jpg|thumb|第71戦車連隊(旧:第7戦車大隊)に配備されていた61式戦車(2021年)]] |
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*[[第71戦車連隊|第7戦車大隊]] - 1962年(昭和37年)12月14日配備~1983年(昭和58年)1月24日{{Sfn |丸|2017|p=88}} |
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[[File:JGSDF 8th Division.svg|フレームなし|23x23ピクセル]][[第8師団 (陸上自衛隊)|第8師団]] |
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*[[第8戦車大隊]] - 1971年(昭和46年)12月7日配備~1997年(平成9年)12月9日{{Sfn |丸|2017|p=88}} |
|||
[[File:JGSDF 9th Division.svg|フレームなし|23x23ピクセル]][[第9師団 (陸上自衛隊)|第9師団]] |
|||
*[[第9戦車大隊]] - |
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[[File:JGSDF 10th Division.svg|フレームなし|23x23ピクセル]][[第10師団 (陸上自衛隊)|第10師団]] |
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*[[第10戦車大隊]] - 1973年(昭和48年)配備~1989年(平成元年){{Sfn |丸|2017|p=88}} |
|||
[[File:JGSDF 11th Brigade.svg|フレームなし|23x23ピクセル]][[第11師団 (陸上自衛隊)|第11師団]] |
|||
*[[第11戦車隊|第11戦車大隊]] - 1968年(昭和43年)12月9日配備~1984年(昭和59年)2月25日{{Sfn |丸|2017|p=88}} |
|||
[[File:JGSDF 12th Division.svg|フレームなし|23x23ピクセル]][[第12師団 (陸上自衛隊)|第12師団]] |
|||
*[[第12戦車大隊]] - ~2001年(平成13年) : 旅団化に伴い廃止。解隊時の保有車輌は61式戦車のみ{{Sfn |丸|2017|p=88}}。 |
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[[ファイル:JGSDF_13th_Brigade.svg|フレームなし|23x23ピクセル]][[第13旅団 (陸上自衛隊)|第13旅団]] |
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*[[第13戦車中隊|第13戦車大隊]] - |
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*[[第14戦車中隊]] - |
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[[第2混成団]] |
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* [[第2混成団戦車隊]] - |
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[[ファイル:JGSDF_Director_Directly_Controled_Unit.svg|23x23ピクセル]][[陸上自衛隊富士学校]] |
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* [[富士教導団|富士教導隊]] |
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**[[機甲教導連隊|戦車教導隊]] - 1962年(昭和37年)配備~2000年(平成12年){{Sfn |丸|2017|p=89}} |
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**第1機甲教育隊 - 1968年(昭和43年)10月配備~1998年(平成10年)3月{{Sfn |丸|2017|p=89}} |
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[[ファイル:JGSDF_Director_Directly_Controled_Unit.svg|23x23ピクセル]][[陸上自衛隊武器学校]] |
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※部隊名等は当時のもの |
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== 退役後 == |
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[[File:JGSDF Type 61 Tank at Camp Otsu May 8, 2016.JPG|thumb|250px|[[大津駐屯地]]展示車両(2015年)]] |
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退役後は全国各地の[[陸上自衛隊]][[駐屯地]]で展示品とされている車両が少数ある。 |
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2019年8月5日、ヨルダン国王[[アブドゥッラー2世]]の要請に応え、滝ケ原駐屯地に展示してあった1両が{{仮リンク|ヨルダン王立戦車博物館|en|Royal Tank Museum}}へ無償貸与されることが決定した<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/press4_007679.html 61式戦車のヨルダン王立戦車博物館への無償貸付及びヨルダンからの装甲車の寄付の受領] - 外務省 (2019年8月5日). 2023年11月27日閲覧。</ref>。 |
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日本はこれまで、展示用も含め、戦車を輸出したことがなく、「貸与」という形式となった。形式上、所有権は日本が留保している。 |
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主砲砲口が埋められ、エンジンも取り外された状態で動くことはできず、綺麗に再塗装された。 |
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{{-}} |
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== 派生型 == |
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;[[67式戦車橋]] |
;[[67式戦車橋]] |
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:61式戦車をベースとした[[架橋戦車|戦車橋]] |
:61式戦車をベースとした[[架橋戦車|戦車橋]]。 |
||
;[[70式戦車回収車]] |
;[[70式戦車回収車]] |
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:61式戦車の車体を流用した |
:61式戦車の車体を流用した[[回収戦車]]。 |
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[[87式自走高射機関砲]]の開発にあたって車体を流用する案が計画されたが、性能面で要求水準を満たせないと判断され、[[74式戦車]]の車体に変更された。 |
[[87式自走高射機関砲]]の開発にあたって車体を流用する案が計画されたが、性能面で要求水準を満たせないと判断され、[[74式戦車]]の車体に変更された。 |
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他にも61式の車体を使用した計画車両として、戦場で陣地構築や敵陣地の爆破などを行う[[67式装甲作業車]]というものがあった。実際に[[M4中戦車|M4A3E8]]を元にした試作車が作られ[[1967年]](昭和42年)に制式化されたものの、計画は中止された。 |
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== 登場作品 == |
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=== 実物大レプリカ === |
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[[1979年]]の映画『[[戦国自衛隊]]』では、[[防衛庁]](当時)に映画の協力を要請したものの承諾を得られなかったため、戦車の登場を望んだ[[角川春樹|角川]]側の要請で機械メーカー鈴木技研工業が製作した実物大のレプリカが登場する。この車両は実物と同じく履帯による走行が可能で、劇中では[[武田信玄|武田軍]]との戦闘シーンなどに使用された。映画公開時には宣伝用に[[有楽町]]の映画館前に展示されたこともある。<br /> |
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実物と比較すると砲塔の正面形状が異なっており、操縦席の外部視察装置は潜望鏡ではなくガラス窓で、砲塔上の機関銃の先端が模擬発火用の[[火薬]]を仕込むために実物よりも太くなっている。 |
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また、砲塔を後方に回し、前方にディスクローラ式の地雷処理機材を装着した[[地雷処理戦車]]が開発されたこともあったが、試作に終わっている。 |
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このレプリカ車両は[[1988年]]公開の映画『[[ぼくらの七日間戦争]]』でも使用され、こちらの作品では国有の工場跡地に放置されていたことになっていた。劇中には、クレーンでなければ持ち上げられないほど重いエンジンルームの天蓋を、子供が片手で開けるというシーンがある。 |
|||
* [https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/t/type3fighter/20211207/20211207111112.jpg] - 地雷処理戦車 |
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その後も[[バラエティ番組]]や[[ドラマ]]などの撮影で使用されており、[[2003年]]に放送された[[TBSテレビ|TBS]]製作のドラマ「[[さとうきび畑の唄]]」では、白い星のマークを描いて[[アメリカ軍]]の[[戦車]]役で登場している。 |
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* [https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/t/type3fighter/20211207/20211207111818.jpg] - 同上 |
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=== ミニチュア === |
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[[1960年代]]の[[ゴジラ]]シリーズや[[ウルトラシリーズ]]等の[[怪獣映画]]、特撮番組では[[ゴジラ#防衛隊|防衛隊]](防衛軍、[[自衛隊]])や[[地球防衛軍]]の陸戦兵器として、[[怪獣]]の迎撃に登場していた。 |
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; 標的用61式戦車 |
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[[東宝]]の特撮作品に登場する61式戦車は、[[モスラ対ゴジラ]]に初登場した。これは[[M24軽戦車]]のミニチュアを流用しているため、実物では6個ある回輪が5個しかない。一尺スケールの金属製の自走式のものが作られており、方向転換は[[ピアノ線]]で引っ張って行っていた。その後、『[[キングコングの逆襲]]』でエンジン搭載のラジコンが撮影に用いられ、以降の作品で用いられた。このラジコンは平成になると砲塔を[[74式戦車]]のものに交換し、[[東宝特撮映画の登場兵器#61式改戦車|61式改戦車]]という架空の車両として使われた。[[日活]]で製作された『[[大巨獣ガッパ]]』では、1mほどの電動自走式ミニチュアが作られている。 |
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: 1982年10月に行われた対機甲演習で登場した標的用61式戦車。車体、砲塔に[[シュルツェン]]が付けられ、[[IV号戦車]]のようなシルエットになっている。シュルツェンは左右の板を棒で繋げて、砲塔と車体の上から被せて、動かないように土嚢で押さえているだけなので、容易に脱着可能。 |
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* [https://pbs.twimg.com/media/EY1dWr1U8AAqAxv?format=jpg&name=large] |
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* [https://pbs.twimg.com/media/EY1dWr1UwAIJs1M?format=jpg&name=large] |
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* [https://pbs.twimg.com/media/EY1dWstU0AA1Uwu?format=jpg&name=large] |
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* [https://pbs.twimg.com/media/EY1dWwFUcAEvgKQ?format=jpg&name=large] |
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== 登場作品 == |
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{{main|61式戦車に関連する作品の一覧}} |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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<references /> |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|2}} |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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{{参照方法|date=2016年1月6日 (水) 10:54 (UTC)|section=1}} |
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*PANZER 1986年3月号 |
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{{Commonscat|Type 61 tank}} |
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*丸MARU 第55巻1月号 「体験的機甲史 自衛隊の戦車」 雑誌08307-1 T1108307011008 |
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*{{Cite journal |和書 |
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*戦車マガジン増刊 世界の精鋭兵器 No.5 61式主力戦闘戦車 |
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|journal = PANZER |
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|date = 1986-03 |
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|publisher = [[アルゴノート (出版社)|サンデーアート]] |
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}} |
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*{{Cite journal |和書 |
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|title = 体験的機甲史 自衛隊の戦車 |
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|journal = [[丸 (雑誌)|丸MARU]] |
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|date = 2001-01 |
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|publisher = [[潮書房光人社|潮書房]] |
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|id = 雑誌08307-1 <!--T1108307011008--> |
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*{{Cite journal |和書 |
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|title = 六一式戦車 特集 伝説の国産MBT |
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|journal = [[丸 (雑誌)|丸MARU]] |
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|date = 2017-03 |
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|publisher = [[潮書房光人社|潮書房]] |
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|id = 雑誌08307-3 |
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}} |
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*『戦車マガジン増刊・世界の精鋭兵器 No.5 61式主力戦闘戦車』 |
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*{{Cite book |和書 |
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|author = 林磐男 |
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|title = 戦後日本の戦車開発史―特車から90式戦車へ |
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|year = 2005 |
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|publisher = [[光人社]] |
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|isbn = 978-4769824725 |
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|ref = harv |
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}} |
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* {{Cite book |和書 |
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|author = 竹内昭<!-- この著者は1935年生まれ。同名のアニメーターの項目が存在するので、リンクを設定する際は注意して下さい --> |
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|year = 2003 |
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|title = 世界の戦車・装甲車 |
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|publisher = [[学研ホールディングス|学習研究社]] |
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|series = 学研の大図鑑 |
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|isbn = 4054016960 |
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}} |
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* {{Cite book |和書 |
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|title = 世界のハイパワー戦車&新技術 |
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|year = 2007 |
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|publisher = ジャパン・ミリタリー・レビュー |
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|series = [[軍事研究 (雑誌)|軍事研究]] 2007年12月号別冊 |
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|asin = B007EJ08RK |
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|ref = {{SfnRef|軍事研究|2007}} |
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}} |
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* {{Cite book |和書 |
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|author = [[上田信 (イラストレーター)|上田信]] |
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|title = 戦車メカニズム図鑑 |
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|year = 1997 |
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|publisher = [[グランプリ出版]] |
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|isbn = 4876871795 |
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}} |
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* {{Cite book |和書 |
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|title = 陸上自衛隊 機甲科全史 |
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|year = 2017 |
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|publisher = [[イカロス出版]] |
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|isbn = 9784802203395 |
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}} |
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* {{Cite book |和書 |
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| year = 2009 |
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| author = 古是三春 |
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| author2 = 一戸崇雄 |
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| title = ストライクアンドタクティカルマガジン2009年9月号別冊 戦後の日本戦車 |
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| asin = B002LG7978 |
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| ref = harv |
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}} |
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* {{Cite web|和書 |author=[[防衛庁]] |date=1961年4月26日 |title=仮制式要綱 61式戦車 XD 9001 |url=http://jda-clearing.jda.go.jp/kunrei/i_fd/iz1961xd9001.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20040227053815/http://jda-clearing.jda.go.jp/kunrei/i_fd/iz1961xd9001.html |accessdate=2023年11月27日 |archivedate=2004-2-27}} |
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* {{Cite web|和書 |author=[[防衛庁]] |date=1961年4月26日 |title=仮制式要綱 61式90mm戦車砲 XB 3002 |url=http://jda-clearing.jda.go.jp/kunrei/i_fd/iz1961xb3002.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20040227055424/http://jda-clearing.jda.go.jp/kunrei/i_fd/iz1961xb3002.html |accessdate=2023年11月27日 |archivedate=2004-2-27}} |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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{{Commonscat|JGSDF Type 61 (MBT)}} |
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*[[主力戦車]] |
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*[[74式戦車]] - [[90式戦車]] - [[TK-X]] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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*[https://trafficnews.jp/post/128728] - 乗りものニュース「陸自初の国産戦車「61式戦車」はどれだけ強い?「ティーガーII」に勝てるのか T-34ならどう?」 |
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[[Category: |
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[[th:ไทพ 61]] |
2024年6月2日 (日) 13:36時点における最新版
性能諸元 | |
---|---|
全長 | 8.19m |
車体長 | 6.30m |
全幅 | 2.95m |
全高 | 2.49m(砲塔上のM2重機関銃を含んだ場合、3.16m[1]) |
重量 | 35t |
懸架方式 | トーションバー式 |
速度 |
45km/h 加速性能: 200m区間(0-200m区間)の加速走行時間25秒 |
行動距離 | 200km |
主砲 |
61式52口径90mm戦車砲 砲口初速 約910m/s(M318AP-T 使用時) |
副武装 |
7.62mm機関銃M1919A4(主砲同軸) 12.7mm重機関銃M2(砲塔上部・車長展望塔) |
装甲 |
|
エンジン |
三菱12HM-21WT 空冷4ストロークV型12気筒直噴式ターボチャージド・ディーゼルエンジン 570hp/2,100rpm 排気量 29,600cc |
乗員 | 4名 |
登坂力 31° 燃料消費量 0.3km/L 最小旋回半径 10m |
61式戦車(ろくいちしきせんしゃ[注 1])は、日本の陸上自衛隊が運用していた戦後第1世代戦車に分類される戦後初の国産戦車である。
戦後第一世代に分類されるわけは、ひとえに90 mm砲を搭載しているからであるが、車体の機構的には世界から遅れており、「最後の大戦型戦車」と評されることもある。
概要
[編集]第二次世界大戦後、初めて開発された国産戦車であり、第1世代主力戦車に分類される。開発・生産は三菱日本重工業(1964年から三菱重工業)が担当し、それまで供与されていたアメリカ製戦車(特にM4A3E8戦車)との共用、もしくは置き換えにより、全国の部隊に配備された。
1955年(昭和30年)に開発が開始され、1961年(昭和36年)4月に制式採用された。採用された西暦の下二桁の年をとり、61式戦車と命名された。主砲に「61式52口径90mmライフル砲」として制式化された52口径90mmライフル砲を装備し、鉄道輸送を考慮して当時の国鉄貨車(長物車)に搭載できるよう車体が小型化されている。
1974年(昭和49年)に74式戦車が採用されるまで、1962~74年の13年間に渡って、560輌が生産され、2000年(平成12年)に全車が退役した。
開発
[編集]開発までの経緯
[編集]※以下の記述は、正確には、1950年11月7日にアメリカ陸軍は従来の戦車分類に用いていた、軽、中、重といったカテゴリーを改め、主砲による分類に変更している。
第二次世界大戦終結後、GHQにより全ての軍需産業を廃された日本は、戦前から培ってきた戦車や装甲車の技術を失おうとしていた。後に朝鮮戦争の勃発により極東情勢が変化し、日本はGHQに再武装を指示されて1950年(昭和25年)に警察予備隊が創設された。それが保安隊に改組された1952年(昭和27年)には、アメリカ軍から供与されたM24軽戦車が、当時編成中の4個管区隊の各普通科連隊内に編成された、戦車中隊に配備された。朝鮮戦争において国連軍と対峙したT-34-85中戦車に対して、M24軽戦車では対抗できず、退役したものが日本に送られている。その後、陸上自衛隊に改組された1954年(昭和29年)にM4A3E8中戦車(通称「M4シャーマン・イージーエイト」)約200輌が供与された。
当時供与された戦車は第二次大戦や朝鮮戦争の中古品であり、日本人の体格にあわないことや、部品の補給や規格の面で、整備業務を効率化できなかったことから故障が頻発していた。また、当時、世界各国で戦後第一世代の戦車の開発配備が進んでおり、特に第二次大戦後期には既に能力不足が指摘されていたM4中戦車や、朝鮮戦争でT-34/85中戦車に完敗したM24軽戦車の更新が課題となっていた。
90mm戦車砲を搭載するM47パットン中戦車やM48パットン中戦車の導入を支持する声も存在したが、その当時のアメリカ陸軍は朝鮮戦争の結果をうけて戦車ならびに対戦車兵器の更新に取り組んでおり、ヨーロッパ第一主義の方針もあって日本に戦車を供与する余裕を完全に失っていた[注 2]。1952年(昭和27年)のサンフランシスコ講和条約の発効に伴い在日米軍駐留経費の日本への返還がおこなわれることになり、また、MSA協定に基づくアメリカによる対外援助により開発費用の目処が立ったため、国産開発が検討されることとなる。その際には当時の貧弱な国内道路網を勘案し、鉄道輸送が可能な車体容積であることが要求事項に盛り込まれた。
1955年(昭和30年)4月の防衛分担金減額に関する日米共同声明によって国産兵器の開発が促進されることとなり、ここに新中戦車試作の方針が決定された。同年5月に防衛庁長官より新型戦車の開発指示がなされた。
要求された性能
[編集]1955年(昭和30年)に「SS」(後の60式自走106mm無反動砲)と共に研究開発がスタートした。戦後10年の空白があったものの、開発を担当した三菱日本重工業は朝鮮戦争中の朝鮮半島から後送されてくる戦車や車輌の修理やオーバーホールで技術を蓄積していた。
警察予備隊創設当時から国産戦車の希望はあったものの、具体化したのは陸上自衛隊に改組した1954年(昭和29年)になってからで、この年に陸上幕僚監部、富士学校などの装備計画委員による議論が始まり、翌1955年(昭和30年)1月に次の開発目標案が示された。
25トンという重量とそれを実現するために不可欠な軽装甲は、朝鮮戦争におけるバズーカや無反動砲の成形炸薬弾などの歩兵用携行対戦車兵器の活躍や、世界初の対戦車ミサイル(SS.10)の開発などによるフランスを中心とした装甲無用論を受けたもので、当時の陸上自衛隊内部においては一定の勢力を持っていた。また、創設期から第4次防衛力整備計画策定まで防衛官僚として強い影響力を発揮した海原治も、生産単価を低くする目的で戦車の軽量化を強く主張していた。主要な幹線国道でさえ大半が土道・砂利道だった当時の国内の道路事情、山地や水田が多いという地形的事情などを考慮し、低接地圧の実現と機動性確保の面からも、車体の軽量化は強く求められていた。
1955年5月、陸上幕僚監部が取りまとめた、STの第1次要求性能案の内容は以下のようであった。
- 戦闘重量30t以下、車体長約6.0m、全幅2.8m以下、全高約2.0m
- 主砲は90mm戦車砲、最大俯角15度、携行弾薬数50発
- エンジンは出力600hpの空冷ディーゼル、路上最大速度50km/h
同月、「日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定」を含むMSA協定が公布され、日本は、アメリカから技術援助を受けて、兵器の国産化を推進することになった。これに基づき、同年6月にアメリカから、90mm戦車砲を装備するM36B2 戦車駆逐車(現在は茨城県の陸上自衛隊土浦駐屯地武器学校にて屋外展示中)が、研究用サンプルとして自衛隊に供与(貸与)された。また、M47戦車も供与されているが、時期は不明。このM47戦車は、当時のアメリカの科学技術の粋を集めたハイテク戦車(特にFCS)であり、当時の日本の技術力では(外見はともかく中身は)模倣すらできず、M47戦車で得た知見は、実際には、61式戦車ではなく、次作の74式戦車の参考になったものと考えられる(実際、74式戦車の試作車の砲塔内部は近未来的であったとする証言がある)。
M36B2 戦車駆逐車を用いて射撃試験を行った結果、90mm戦車砲を安定して射撃するには、30t級の車体重量が必要であることが明らかとなった(「基礎設計を行ったところ25トンの重量には収まらず、相当に装甲を薄くしても30トンは必要だと明らかになった」とも。基礎設計などするまでもなく、装甲の薄いM36 戦車駆逐車ですら28トンであり、戦車ともなれば、それ以上になるのは当然のことである)。
同年中頃に「90ミリ砲搭載、30トン」を主軸とした要求性能が陸幕長から防衛庁長官に上申され、協議の上で32トンに修正された。重量増による機動性の問題も、M24軽戦車とM4A3E8を用いた踏破試験において必ずしも重量が問題となるわけではなく、むしろM4A3E8の方が良好であったことから沙汰止みとなった[注 3]。
当初陸上幕僚監部(陸幕)では76ミリ砲搭載の20トン戦車を予定したものの、朝鮮戦争でM24がT-34に対抗できなかった戦訓から、90ミリ砲が必要とされた。90ミリ砲については、アメリカ軍より供与されたM36B2 戦車駆逐車に搭載されていた「M3A1 戦車砲」(排煙機やシングルバッフル式マズルブレーキが付いていることから、「M3 戦車砲」ではなく、改良型の「M3A1 戦車砲」であることがわかる)を研究した結果、国産も可能であるとされ(アメリカは日本に対し、「M3 90mm戦車砲」の製造ライセンスは許可しなかったが、M3を基にした独自の発展型を開発する許可は与えた)、日本製鋼所で試作した結果、長砲身化された52口径90ミリライフル砲が「61式52口径90mm戦車砲」(型式 M3改)として制式化された。戦後世代90mm戦車砲との砲弾共有のため、砲身・薬室はより高い腔圧に耐えられるよう(M47戦車の「M36 戦車砲」やM48戦車の「M41 戦車砲」並みに)強化されている(規定最大腔圧:約3,300kg/cm2 = 約324MPa)。
1955年10月、三菱日本重工東京製作所でモックアップの検討会が開かれた際、富士学校から臨時で参加した機甲科の砲術、ならびに操縦、整備担当者がこれに対し「姿勢が高く、装甲が薄く、これでは戦車らしい働きをする前に敵の小火器の餌食となってしまう」、「戦車乗りの良心にかけて、本案の戦車を装備化することは同意し難い」との意見を表明した。委員ではない、いわば部外者の意見ではあったが、装備研究委員長はこれを受け入れ、富士学校、技術研究所、三菱重工を交えた要求性能の練り直しを行った。最終的に「車重35トン、最高速度時速45キロ、90ミリ砲搭載、車高2.5メートルでなるべく低くする」とし、12月に、防衛庁長官に対して再度の要求性能の変更が上申された。
61式戦車の一次試作車STA-1及びSTA-2が完成する直前の1956年10月にハンガリー動乱が発生した。この時西側諸国は初めて投入されたソ連のT-54の存在を確認することになった。
61式戦車の本来の仮想敵はT-34-85中戦車であったが、開発中にT-54/T-55が出現したこともあり、より強力な砲を求める声もあったが、当時の西側の主体はイギリスの20ポンド砲とアメリカの90ミリ砲であり、日本独自の大口径新型砲の開発は時間と経費の問題から断念され、射撃精度とHEAT、HVAPなどの砲弾の改良で対抗するとした[注 4]。
エンジンは新たに高馬力の空冷ディーゼルエンジンを開発することとされた。当時、同盟国のアメリカ軍や西側諸国が配備していたM46・M47・M48中戦車には空冷ガソリンエンジン(コンチネンタル AVSI-1790)が採用されており、本車と同時期に開発されていたM60中戦車には新型の空冷ディーゼルエンジン(コンチネンタル AVDS-1790)が搭載される予定であった。また日本には戦前からの空冷ディーゼルエンジンの技術的蓄積があった。
変速機は当時としては斬新なトルクコンバータ付きオートクラッチ機構の導入と、戦後の西側戦車同様にエンジンと変速機を直結して車体後部に収めるパワーパック方式の後輪駆動が望まれたが、技術的問題や車幅の不足、さらに当時の自衛隊にパワーパックを丸ごと交換できる機材と技術が無かったため断念された。最終的に国産技術による乾燥多板式高低速用二列クラッチと前進5段、後進1段の常時噛合歯車式トランスミッション(クラッチ以外はごく一般的なマニュアルトランスミッション)を車体前部に置く前輪駆動方式が採用された。
中特車の試作
[編集]自衛隊内の装備審議会の結果、90ミリ砲を搭載する30トン程度の中特車を試作することが決定した。 分類上は中戦車だが、当時の国内の政治的状況から戦車ではなく「特車」と呼び変えていたもので、1962年(昭和37年)1月から「戦車」と呼ばれるようになった。
前提とされたのは、敵からの発見を避けるためできうる限りの低姿勢と、鉄道輸送時に求められる在来線の車両限界を超えないため、全幅を3メートル以下とする二点だった。
本車の略記号であるSTは、俗に「試製中特車」の頭文字とされることがあるが、実際には頭文字ではなく、60式自走106㎜無反動砲のSS(「装軌装甲車」(あるいは「装甲戦闘車」、「装甲装軌車」など諸説あり)の頭文字)の次の開発だからであり、S「S」の次ということで、S「T」と付けられ、その後の略記号も、
SU:試製56式装甲車
SV:試製56式自走81mm迫撃砲
SW:試作地雷処理車
SX:試製56式自走107mm迫撃砲
SY:試製56式105mm自走砲
SZ:試製56式特殊運搬車
と「SS」から続く連番として、アルファベット順に付けられるも、すぐにZまで埋まってしまい、結局その後は、「S+その車輌の役割の頭文字」を付けられることになった。しかし、段々と整合性がとれなくなっていき、命名もされない車輌も出てきて、最終的にはこの命名法も自然消滅し、現在は次期主力戦車の略記号TK-X(Tank experimental)が残るぐらいである。
なお、本車のST「A-○」(○は数字)に関しては、4種類ある試作車の分類の為であり、これは、74式戦車、73式装甲車の略記号である、STB、SUBに引き継がれることになった。なお、現場では実際には「STA-○」ではなく「ST-A○」と表記していたが、ここでは通例として「STA-○」で記述する。
開発ではまずSTA-1、STA-2という2種類の試作車が製作された。大きな違いは車高で、STA-1は低姿勢(高さ2.2メートル)を追求したため、全長は長く、上部転輪は片側4個、転輪は片側7個。材質は普通鋼板で製作され、1956年12月に完成した。STA-2は高さ2.5メートルで、STA-1より全長が短くなり、上部転輪は片側3個、転輪は片側6個。空冷ディーゼルエンジン、トーションバーサスペンション、トルクコンバータ、動力付き操縦装置などを搭載、防御鋼板で製作され、1957年2月に完成した。STA-1とSTA-2の砲塔前方左側には、ステレオ式測遠機のための穴が設けられていたが、測遠機が装備されておらず、穴はパッチで塞がれていた。砲塔前方右側には、楕円柱型の測遠機が装備されていた。STA-1とSTA-2の主砲は、「M3A1 90mm戦車砲」と同様に、排煙器とシングルバッフル式の砲口制退器を備えていた。エンジンはまだ開発中だったため、既存の民生用船舶エンジンを流用して改造した三菱DL10T V12液冷ディーゼルエンジン(500hp/2,000rpm)が搭載されていた。同年7月、STA-1のエンジンを換装し、STA-1Bと呼称。STA-2は操向変速機を換装し、STA-2Bと呼称した。当初の予定ではこの2輌の試作車だけで要求性能を達成、量産準備のための増加試作に入る予定であったが、第1次試作の2輌は要求性能に達しなかった。
STA-1の低車高は評価されたものの、砲塔の旋回時に機関室が干渉し、これを避けるため全長が長くなり、履帯の接地長に対して相対的に輪間が狭くなってしまった。これでは旋回時などに抵抗が増し、運動性に悪影響を与えるため、実用化にはエンジンとトランスミッションの更なる小型化が必要であるとしてSTA-1の案は採用されず、STA-2の車高2.5メートルの配置が採られた。また、STA-1にて新型エンジンのテストが行われ、オートクラッチのパワーロスが大きいことが判明、機械式2段クラッチに変更された。
(当初、試作車STA-1、STA-2ではスウェーデンのSRM社製2段型トルクコンバーターを導入し搭載したもののパワーロスと敏捷性に問題があり、要求を満たす性能ではなかった[8])1950年代後半当時の国産技術では、500馬力超のディーゼルエンジン出力に見合う戦車用トルクコンバーターの開発ノウハウは不足しており、後にSTA-2ではトランスミッションと操向装置は、戦時中の四式中戦車を参考にした「チト式」に変更されている[9](試作車STA-3、STA-4では、トランスミッションは機械式ハイ・ロー切換2段クラッチ、操向装置はクレトラック式となった)。
1956年(昭和31年)末から約1年かけて行われた技術試験と実用試験の結果、第2次試作が決定され、STA-2の設計を基に、砲塔を後方にずらして操縦席に余裕を作ることとなり、STA-3が1960年(昭和35年)1月、STA-4が1959年(昭和34年)11月に完成し、1960年4月に防衛庁に引き渡された。砲口制退器をT字型に変更、エンジン出力の増強、携行機関銃弾の増加、制限重量までの余裕を防御装甲に振り向ける、などが行われた。
両者の車体に大きな違いは無く、両車の違いは、車長用に、STA-3には防楯付き機関銃、STA-4にはM48戦車のM1キューポラに似た、背の高い密閉型銃塔が設けられたことである。この密閉型銃塔の前面には高仰角をとることが可能な12.7mm対空機銃が装備されており、車内から銃塔の旋回と銃の俯仰と発砲の操作が可能であった。STA-3のキューポラとSTA-4の銃塔の、基部には車長用潜望鏡と測遠機(旋回不可)があった。
- [5] - (参考)90mm弾薬の大きさ。画像は71口径8.8cm戦車砲用のPz.Gr.39/43 (APCBC-HE) 。全長は1167mm。
- [6] - (参考)90mm弾薬の大きさ。画像は71口径8.8cm戦車砲用のSpr.Gr.43 (HE) 。全長は1167mm。
また、STA-3には、砲塔後部バスル内の主砲弾倉に動力式の半自動装填装置(主砲弾薬装填補助装置)が備えられていた。これは弾倉内の主砲弾薬をモーターで回転させて、砲尾の尾栓近くまで送り出し、レバーで弾薬を押し出し、最後は人力(手動)で装填する物で(ゆえに半自動)、装填手の負担を軽減して(90mm弾薬の重量は約20kg)迅速に射撃を行えるように設置されたものであった。いわば、西側第三世代戦車の砲塔バスル内に採用されている自動装填装置の原型のようなものであった。しかし、砲塔バスル内に無線機を置けないことや、コスト等の理由で採用が見送られた。
- [7] - 各車の側面図
- [8] - STA-1
- [9] - STA-1砲塔左側
- [10] - STA-1砲塔右側
- [11] - STA-1
- [12] - STA-1
- [13] - STA-1
- [14] - STA-1。STA-1とSTA-2では、四式中戦車と同じく、車体最後部両側の切り欠きに、マフラー(旧軍伝統のフィッシュテール型排気管)を設置しているのがわかる。
- [15] - STA-1
- [16] - STA-1 - STA-1とSTA-2のフロントパネルは、全面が一枚板として外せるようになっていた。
- [17] - STA-1
- [18] - STA-1B
- [19] - 試験的に暗視装置を搭載したSTA-1。砲塔上が射撃用で、左が暗視装置、右が赤外線投光器。車体前部の2灯が操縦手用投光器で、操縦手ハッチを開いた前に暗視型ペリスコープが取り付けられている。履帯は、M4A3E8 シャーマン・イージーエイトの、HVSS用の幅広の戦後型の、T80 ダブルピン・トラックに似ている(おそらく流用)。
- [20] - STA-2
- [21] - STA-2砲塔左側
- [22] - STA-2砲塔右側
- [23] - STA-2
- [24] - STA-2B
- [25] - STA-2B
- [26] - STA-2のブローニングM2重機関銃の対空機銃架
- [27] - STA-1(向かって右)とSTA-2(向かって左)の車体の後面。吸気グリルの形状が量産車と全く異なるのがわかる。砲塔前方右側には、楕円柱型の突起がある。
- [28] - STA-3 - イスラエルのマガフのウルダンキューポラにも似た、背の低い薄いキューポラが特徴である。機銃は外付けの直接操作方式である。後の歴史を鑑みると、こちらの方がSTA-4の密閉式銃塔や61式戦車のキューポラより、実用性は高かったと想像される。銃塔型キューポラは背が高いため、敵に狙われ易く、車長の死亡率が高い。
- [29] - STA-3砲塔左側
- [30] - STA-3
- [31] - STA-3
- [32] - STA-3
- [33] - STA-3砲塔後面
- [34] - STA-3で試みられた主砲弾薬装填補助装置
- [35] - STA-4 - RWSの先祖ともいえる密閉式銃塔が特徴だが、実用性は低かった。
- [36] - STA-4砲塔左側
- [37] - STA-4
- [38] - STA-4
- [39] - STA-4
- [40] - STA-4の前面図と側面図
- [41] - STA-4の砲塔内配置図。車長用オーバーライド(車長が砲手より優先して砲塔を旋回させる機能)ハンドルに注目。
- [42] - (参考)車長用オーバーライドハンドル(油圧旋回制御ハンドル)は、M4シャーマン中戦車の後期型に既に装備されていた(画像)。ハンドルを、上部のボタンを押してから、前方に押すと反時計回りに旋回し、後方に引くと時計回りに旋回した。砲の俯仰と発砲の操作は砲手のみが行った。
- [43] - (参考)M47戦車の車長用オーバーライドハンドル。先進的なデザインとなり、車長が砲塔の旋回と砲の俯仰と発砲の操作を行うことが可能となった。左右に回転させるとその方向に旋回し、グリップを押すと俯角をとり、引くと仰角を取り、グリップのトリガーを引くと発砲。
- [44] - 各試作車の機銃
- [45] - STA-4。福岡県久留米市の陸上自衛隊前川原駐屯地の陸上自衛隊幹部候補生学校の防衛基礎学教場横に、野晒しで置かれていた、最後に残った61式戦車の試作車であったが、2007年頃にスクラップにされた。
- [46] - 同上
- [47] - 同上
- [48] - 国産61式90mm砲戦車解剖図
- [49] - TYPE61 カットアウェイ
- [50] - 61式戦車 三面図
-
STA-3
-
STA-4
STA-3との車長キューポラの形状と機関銃の搭載方法の違いに注目
制式採用
[編集]第2次試作車両のテスト結果、STA-4を基に、密閉型銃塔とその前面の対空機銃を廃止し、ブローニングM2重機関銃を車長用潜望鏡 M15と「61式(合致式)車上1m測遠機」と一体となった背の高いキューポラの上へ据え付ける方式に変更(この機関銃(の銃架)も、車内から俯仰と発砲とボルト開閉の操作が可能。機銃架は、車長用潜望鏡 M15のペリスコープガードと一体なので、水平方向には動かず、旋回はキューポラごと行う)、更なる装甲の増強、などの他、細部の変更も加えたものが1961年(昭和36年)4月、61式特車(後に61式戦車と改名)[注 5]として制式化され、量産と配備が開始された。
- [51] - 61式戦車のキューポラ上の機銃架。画面中央の三角形の部品から伸縮するロッドが、機銃架を俯仰させる。この構造では機銃架そのものは水平方向には動かないのがわかる。
1962年度(昭和37年度)予算において最初の量産車10輌(これらは実質、量産試作車であり、細部が量産車と異なる)が調達され、量産第1号車は1962年10月15日に納入された。
1966年(昭和41年)11月7日には、補助燃料タンク装着架(車体最後尾上面)が改良された、「61式戦車(B)」(61式戦車B型)が仮制式化された。
特徴
[編集]火力
[編集]主砲には「61式52口径90mm戦車砲」と呼ばれる90mmライフル砲(携行弾数50発)を搭載し、主砲同軸機銃に7.62mm機関銃M1919A4(携行弾数4,000発)、砲塔上面の銃塔にリモコン式の12.7mm重機関銃M2(携行弾数525発)を各一丁装備した。
- [52] - 61式52口径90mm戦車砲
- [53] - T字型マズルブレーキ(砲口制退器)、ブラストディフレクター(爆風転向器)とも、を右の横穴から覗いたところ。砲口のライフリングが見える。砲身が横筒の根元まで挿してあるのがわかる。ねじを切った砲身先端から回転させて取り外すことが可能。
一般に、砲口制退器は、発射ガスを砲口に取り付けた偏向板(バッフル)に当てることで、砲身を前方に押し出す効果で、反動の低減を狙ったもので、発射反動を20~50パーセント減らすことができる。
61式戦車の場合は、傘型の物(M36 戦車駆逐車用)との比較試験の結果、反動抑制効果は劣るが、爆風を左右に逃がすことにより、発射直後の視界に優れ、次弾を早く撃てるという、速射性を選び、T字型(正確にはZ型)を採用した。
61式戦車の主砲弾薬は、国産開発をせず、アメリカ軍の戦車の主砲弾薬との共通化・共有化を図り、日本製鋼所と小松製作所がライセンス生産を行っていた。使用弾種は、曳光被帽徹甲弾(APC-T)、曳光高速徹甲弾(HVAP-T)、曳光対戦車榴弾(HEAT-T)、榴弾(HE)、発煙弾(WP)などがあった。
- [54] - M318 AP-T。全長942.6mm。重量19.9kg。尖っているのは空気抵抗減少と跳弾防止のための被帽。
- [55] - 向かって左から4本目がM318 AP。
- [56] - M318の砲弾。全長364mm。重量11kg。
本車の装備する61式52口径90mm戦車砲の諸元は、1961年4月26日の旧防衛庁『仮制式要綱 61式90mm戦車砲 XB3002』[57]によれば、以下の通りである。
本砲の砲身全長は約4730mm(砲口制退器を除く)の52口径、弾丸経過長(ライフリング長)は約3,975mm、本砲の全備重量は約2,500kg、砲身重量は約1,150kg、防盾重量は約750kgである。砲身構造は単肉砲身、砲腔にはクロムメッキが施されている。ライフリングは等斉右旋回32条、25口径に付1回転である。本砲の俯仰角は-10度から+13度、後座長は通常で約314mm、最大で約356mm である。駐退復座機を主砲両側に配置した結果、俯仰角は大きく取れたが、防盾は幅広となった。防盾の、右上の孔は61式直接照準眼鏡用、左上の孔はM1919A4同軸機銃用である。この曲面の防盾形状だと、ショットトラップを起こす可能性もありえた。
- [58] - 61式戦車の防盾右側の直接照準孔。卵型の蓋が下方を支点に左右にスライドすることで開閉する。開閉は砲塔内部から操作できる。
本砲はアメリカ軍制式の90ミリ戦車砲(90mm M3系列、M36系列等)と使用弾薬に互換性がある。本砲の砲口初速は、アメリカ軍制式M71 HE射撃時にて約820m/s、アメリカ軍制式M318 AP-T(M318A1)射撃時にて約910m/sである。本砲の最大腔圧はアメリカ軍制式M71 HE射撃時にて約2,670kg/cm2(約262MPa)、アメリカ軍制式M318 AP-T射撃時にて約3,100kg/cm2(約304MPa)、規定最大腔圧は約3,300kg/cm2(約324MPa)である。
旧防衛庁『仮制式要綱 61式戦車 XD9001』[59]によれば、油圧/手動 旋回方式の、砲塔及び戦車砲の動力照準器の最高速度は、砲塔の旋回速度が約24度/秒(420ミル/秒)、戦車砲の俯仰角速度が約4度/秒(70ミル/秒)となっている。発射速度は10~15発/分であった。
砲塔旋回と砲の俯仰に油圧を用いるため、もしも61式戦車が実戦を経験していたならば(幸い、そのようなことは無かったが)、M48戦車のように、敵弾が砲塔を貫通して砲塔旋回用の油圧系を切断した際に、駆動油が乗員区画内部に流出し、火災が発生した可能性も考えられる(ゆえに後継の74式戦車では電動となっている)。なお、この砲塔の油圧動力は、エンジンがかかっていないと使用できない。
本砲の正確な砲威力(61式のM318A1 AP-T(曳光徹甲弾)の場合、砲口初速910m/s、1,000mで189mmの貫徹力)については不明であるが、第二次世界大戦中のドイツのティーガーIの「KwK36 56口径 8.8cm 戦車砲」(Pz.Gr.39 APCBC-HEの場合、砲口初速773m/s、1,000mで99mmの貫徹力。Pz.Gr.40 APCRの場合、930m/s、1,000mで138mm)を遥かに凌ぎ、同ティーガーIIの「KwK43 71口径 8.8cm 戦車砲」(Pz.Gr.39/43 APCBC-HEの場合、砲口初速1,000m/s、1,000mで165mm(30°)の貫徹力。Pz.Gr.40/43 APCRの場合、1,130m/s、1,000mで193mm(30°))とほぼ同等である。
元61式乗りの証言によると、M4戦車の車体を利用したM32 戦車回収車に対し、61式戦車で射撃したところ、射距離1,200 mで、車体正面に当たった徹甲弾が貫通して車体後方から抜けていたとのこと。
- [60] - M318A1 AP-Tの弾道特性
また、1970年より、小松製作所が「70式対戦車りゅう弾」(全長92cm。重量14.8kg。砲口初速1170m/s)の名称でライセンス生産していた、M431 HEAT-Tを使用した場合、有効射程2,500ヤード(2,286m)、14インチ(約350mm)のRHA(均質圧延装甲)を貫徹可能であった。これはT-54/55に対抗可能と考えられていた。
「70式対戦車りゅう弾」の採用より前は、有事に際して、米軍から高速徹甲弾(HVAP)の供与を受けて、T-54/55に対抗する予定であった。
また、1982年には、61式戦車用の装弾筒付翼安定徹甲弾(APFSDS)が試作され、試験に成功しているが、「70式対戦車りゅう弾」よりも威力に劣ることと、74式戦車用のM735 APFSDSのライセンスの方が優先されたため、採用は見送られている。
使用弾薬に互換性のあるアメリカのM48パットンの「M41 43口径 90mm 戦車砲」と比較した場合、長砲身・高初速である「61式 52口径 90mm 戦車砲」の砲威力はやや高いと思われる。
ただし、前年11月に制式化されたアメリカのM60パットンが105mmライフル砲を装備していることからわかるように、1歩遅れての配備となっている。
61式戦車の61式52口径90mm戦車砲には砲安定装置(ジャイロ・スタビライザー)と弾道計算機は無く、命中率は砲手の技量によるが、「地形:舗装路など平坦地、弾種:徹甲弾もしくは対戦射榴弾、距離:1000m以内」などの条件で、行進間射撃による、戦車目標(縦2m横3m)に対する、命中を期すことができた。精密・確実を期すのであれば、躍進射や停止射を行う。機銃の行進射は、現行戦車と同様、突撃時に普通に行われる射撃方法であった。
副武装である主砲同軸機銃の7.62mm M1919A4と、キューポラ上の12.7mm M2は、共に米国供与品として本車に搭載された。
M1919A4には三脚も用意されており、車外に持ち出し重機関銃として使うこともできた。
M2は機銃手(車長)が身を乗り出して押金式トリガーで直接撃つのではなく、機銃手(車長)の安全を確保するために、キューポラ内から電磁(ソレノイド)式トリガーで遠隔操作により射撃した。更に機銃の俯仰角の変更もキューポラ内から操作でき、キューポラ全体が全周旋回した。米軍戦車の銃塔用機銃と同じく、直接照準器を用いず、弾着の様子や曳光弾を見ながら照準を修正する方式だった。機銃の照準を視界の狭い車長用潜望鏡 M15(ペリスコープ)越しに合わせるため、命中率は低く、精密射撃は期待できず、あくまで歩兵を追い払う牽制用にとどまっていた(ゆえに後継の74式戦車では通常の直接操作方式となっている)。俯仰角は-10度から+55度、発射速度は550発/分、射程は約1,200メートルであった。
FCSは、キューポラと一体となった、「61式(合致式)車上1m測遠機」(測距範囲200~10,000メートル、俯仰角-10度から+13度、倍率12倍、視野3度)であった。目標にピントを合わせると、目標までの距離が正確にわかる仕組みで、これにより、2,000メートルからの遠距離砲戦が可能であった。ただし、開発時には、「日本国内は樹木や構造物が多く、1000メートル以内の近距離で会敵しやすいため、90mm砲でも通用すると認識していた」(=1,000メートル以内の戦闘を想定していた)とのこと。61式車上1m測遠機と車長用潜望鏡 M15と砲手用61式照準潜望鏡の相互間に連動機能があるかは不明。
キューポラと測遠機(レンジファインダー)を一体とした過去の例としては、試製新砲戦車(甲)ホリII(未成)や、FV214 コンカラー重戦車が、存在する。両車は、長砲身大口径砲の長射程を生かして、遠距離(後方)から敵を狙撃するために、高精度の照準装置として、車両の最も高い位置にあるキューポラに測遠機を装備したものである。61式戦車のキューポラに測遠機が装備されているのも、同じ理由(運用法)ゆえと考えられる。この車体の最高部にあるのを生かして、車体だけでなく砲塔も掩体に隠して、測遠機だけを掩体より上に出して、待ち伏せることも可能である。
61式戦車がキューポラに測遠機を搭載したのは、発砲時の衝撃対策(主砲からなるべく離して設置する)の意味もあったと考えられるが、それでも実際には、元61式乗りの証言によれば、「発砲の度にズレて補正していた」。射撃の前にはボアサイト(照準規正)を行うが、1発撃つごとに、車長用/砲手用照準潜望鏡と、この測遠機の照準が、ものすごくずれてしまうので、結局、砲手用直接照準眼鏡を用いて撃っていた。なお、ステレオ式レンジファインダー導入の先駆けとなったナチスドイツやアメリカでも、同様の問題で苦労していた。
[64] - 装填手席からみた車体内部。中央に砲手用の動力方向照準ハンドルが、右上に車長用の動力方向照準ハンドルがある。61式戦車にもオーバーライド機能がある。これらとは別に砲手用の人力高低照準ハンドルもある。発砲は電気撃発式で、砲手用の動力方向照準ハンドルおよび人力高低照準ハンドルに引金が組み込まれている。砲手の足元にも足踏み式撃発装置がある。
砲手用61式照準潜望鏡の、様々な大きさ・形状の、突き出しの大きなガードは、配備後に各部隊側で製作した「雨除け」である。ワイパーが無いので、「雨除け」が無いと荒天時に前が全く見えなくなるからである。
装填手用ハッチには、撃ち殻(空薬莢)を捨てるための、小円のハッチがある。装填手用潜望鏡 M6の右横には、ライトを取り付けるための筒(ピントル・スタンド)がある。
動力・機動性能
[編集]旧防衛庁『仮制式要綱 61式戦車 XD9001』によれば、以下の通りである。
61式戦車の最高速度は45 km/h、加速性能は200 m区間(0-200 m区間)の加速走行時間が25秒(JISD1014自動車加速試験方法を準用した場合)、登坂能力は31度(堅硬土質において)、超堤能力は0.8メートル(水平堅硬土質において)、超壕能力は2.7メートル(水平堅硬土質において)、最小回転半径は約10メートル、履帯幅は500 mmとなっている。旧軍の戦車用エンジン(おそらく四式中戦車のALエンジン)を参考に開発された、12HM-21WTディーゼルエンジンの裸最高軸出力は650 ps/2,100 rpm(冷却ファンや空気清浄器を除いた場合)、最高軸出力は570 ps/2,100 rpm で、最高軸トルクは200 mkg。全負荷における最低燃料消費率は210 g/psh。なお、61式戦車の、最高速度45 km/h、超壕能力2.7 メートルは、四式中戦車と同じ性能数値である。
- [65] - 生産型に搭載されていた、三菱12HM-21WT 空冷4ストロークV型12気筒直噴式ターボチャージド・ディーゼルエンジン。
燃料積載量は、主燃料タンク(内部)が450リットル、補助燃料タンク(外部)が200リットルとなっている。61式戦車は、車体の小型軽量化を図ったために、車内の燃料積載量が少ない=航続距離が短いという欠点がある(M48戦車のディーゼルエンジン搭載車の1460リットル=480 kmの1/3以下である)。そのため、車体最後部上面に補助燃料タンク(=200リットルのドラム缶)装着架が設けられている。61式戦車の航続距離は(おそらく補助燃料タンクも使用して)200 kmとされる。61式戦車の装着架には新旧がある。新型の装着架を装備した61式戦車を「61式戦車(B)」(61式戦車B型)と呼称する。新型の装着架は、74式戦車に装備されている物とほぼ同じである。燃料は補助燃料タンクから優先的に使用され、戦闘時などには操縦席からの遠隔操作で切り離すことが可能となっている。燃料は軽油を用いる。61式戦車の場合、JP-4ジェット燃料(1951年に制定された、灯油とガソリンを1:1でブレンドした、ワイドカット系のジェット燃料)でも動作するかは不明(直噴式なので、おそらく多燃料ディーゼルエンジンではないので、使用できない。(戦中の統制型一〇〇式発動機を除いて)多燃料ディーゼルエンジン搭載車の走りは、1963年から生産が始まったチーフテンである。74式戦車の場合は動作する)。燃料タンク給油口は、装着架の左右両側にある、2つの丸い小ハッチである。
- [66] - 旧型の補助燃料タンク装着架
- [67] - 新型の補助燃料タンク装着架
- [68] - (参考) 74式戦車の補助燃料タンク装着架
- [69] - (参考) 200リットルの補助燃料タンク=ドラム缶を1個積載した74式戦車。61式戦車の場合もこれに準ずる。
- [70] - (参考) 74式戦車に積載された、200リットルの補助燃料タンク=ドラム缶。61式戦車の場合もこれに準ずる。
61式戦車の加速性能、0-200メートルまで25秒という数値であるが、後に登場する諸外国の第3世代戦車と同一条件で比較した場合、レオパルト2A4が推定23.5秒、M1エイブラムスの試作車XM1が推定29秒[10]であることから、61式の加速性能は0-200メートル区間に限定した場合、諸外国の第3世代戦車と同等水準と言える。本車のパワーウェイトレシオを考慮すると最高速度よりも加速性能を重視したものと考えられる。
動力系は、車体後部のディーゼルエンジンと、車体前部の操行装置(変速機含む)を、ドライブシャフトで接続する、前輪駆動方式が採用されている。起動輪は前方に、誘導輪は後方に、ある。ドライブシャフトは車体中心軸よりやや左側に通されている。リアエンジンフロントドライブ(RF)方式は、ドライブシャフトを通す空間を確保するために、車高を低くすることができず、防御上で不利であるため、戦後戦車での採用例は、61式戦車が唯一であった。ただし、リアエンジンリアドライブ(RR)方式と異なり、車体前部の変速レバーと車体後部の変速機を繋ぐ、機械式リンケージも不要となる。
欠点として、前輪駆動方式を採用したために車体内前方にあるトランスミッション内のオイルが、運転中は過熱(摂氏70~110℃)するため、その右側にある操縦席は、夏場には摂氏70℃にも達し、操縦手が熱中症で脱水症状となることもあった。もちろん車内に空調装置(いわゆるエアコン、ここでは冷房装置の意味)は装備されていない。74式戦車にも90式戦車にも装備されていない。自衛隊の戦車に空調装置が導入されたのは、10式戦車の電子機器冷却用の「要部冷却装置」(乗員の冷却と兼用。電子機器が主であり、乗員はおまけである)からである。冬場の暖房については、61式戦車ではトランスミッションやデファレンシャルからの排熱を、90式戦車や10式戦車では水冷エンジンの冷却水からの排熱を、利用している。74式戦車では、操縦手の足元にのみバッテリーを利用した電熱式ヒーターがある。もちろんこれらの暖房は、エンジンがかかっていないと使用できない。
さらに、車体前部に設置された操行装置をメンテナンスするために、車体前部装甲板の左側が、ボルト留めのパネルになっているなど、防御性能において大きな不安を抱えている(命中弾の強い衝撃を受けると、ボルトが切れて、パネルが吹っ飛ぶ)。もっとも、車体を隠蔽するハルダウンが基本戦術なので、さしたる問題でもないが、問題であるからこそ、そうせざるを得ないともいえる。なお、M18駆逐戦車やM24軽戦車にも、車体前面装甲にメンテナンス用パネルがある。
また、その場で旋回する超信地旋回の機能も、複雑な変速機の設計が必要なことから、西側戦車としては珍しく持たせることができなかった。ただし、元61式乗りの証言によると、「正しくは信地旋回もできなかった」とのこと。
変速機は、前進5段後退1段変速だが、61式戦車にはクラッチを踏み込むことで高低切り替えできる機能があり(機械式ハイ・ロー切換2段クラッチ)、実質は、前進10段後退2段変速であり、戦闘機動性に優れている。例として、開発段階で、M4中戦車、M41軽戦車、M47中戦車と路外機動試験を行ない、61式>M24>M4>M47の順で、61式戦車が最速の結果を残している。さらには、後退1段のみの74式戦車よりも速く後退できたという、エピソードがある。これは、実質は対戦車自走砲である61式戦車にとって、ヒット・エンド・ラン戦法(発砲後に、敵の反撃を受けないよう、素早く移動し、敵のキルゾーン(有効射程圏)から離脱し、射点を変更すること)を行う上で、上述の加速性能と合わせて、必要不可欠な能力である。
こうした後退性能の重視は、その装甲の薄さゆえにヒット・エンド・ラン戦法を採用した、西側の戦後第二世代戦車に共通するものであり、61式戦車は、戦後第一世代戦車でありながら、実質的には戦後第二世代戦車の要素も持っていたと言える。
対照的に、仮想敵であるソ連戦車のほとんどは、後退速度が極端に遅く、例えばT-62は時速8 km程度しか出せなかった。
車体
[編集]車両の基本構造は、鋼板溶接車体と鋳造砲塔の組み合わせである。車体前面は傾斜装甲、砲塔はお椀形状で、避弾径始が考慮されている。防盾周りはM36 戦車駆逐車、砲塔上面はM41軽戦車やM47戦車に似ている。砲塔内には、右側の前に砲手とその後ろの車長、左側に装填手が配置されている。鋳造砲塔後方には、即用弾薬庫と無線機収納場所と90mmライフル砲のカウンターウェイトを兼ねる、砲塔と一体となった張り出し部(バスル)が設けられている。砲塔バスル右側面の出っ張りは、ベンチレーターである。CBR(化学・生物・放射能)防護装置は無い。砲塔バスル後面には雑具箱が設けられている。砲塔上面までの全高は2.49メートルとなったが、当時の陸上自衛隊が保有していたM4A3E8戦車、M41軽戦車や米軍のM47・M48戦車よりは低く抑えられた。
砲塔バスルの、内部右側には米軍の「AN/GRC-3」をほぼそのまま国産化した「58式車両無線機 JAN/GRC-3Z(指揮車用) または JAN/GRC-4Z(一般車用)」の本体を搭載し、外側右後部には「送受信機 JRT-66/GRC(受信機 JR-108/GRCと共通)の、外側左後部には「送受信機 JRT-70/GRC」の、各マストが取り付けられている。
主砲先端部のハンマーヘッド型(T字型)マズルブレーキや後部の張り出した砲塔など、全体的な印象はアメリカの戦車に近い。しかし車体は、車体前面両側の傾斜装甲や、車体最後部両側の切り欠き(四式中戦車ではマフラーを設置していた場所。STA-1とSTA-2もここにマフラーを設置している)や、旧軍戦車伝統の平らな三角形の排気管(フィッシュテール型排気管)や、履帯のたるみを支える3個の上部転輪など、旧軍戦車や四式中戦車の設計を受け継いでいることがうかがえる。また、ヘッドライトは左右フェンダーの先端上方に、マフラーは車体後部両側面に、取り付けられているが、こうしたレイアウトは同時代の西側各国の戦車にはほとんど見られない外見的特徴である。車体前面装甲板上に取り付けられているのは、右(操縦席の前)が防空管制灯(管制前照灯)で、左がサイレン(ホーン)である。
車体前面上部の45mm厚の(水平線から)30度の傾斜装甲は、真正面からは実質90mm厚に相当した。なお、車体装甲に対しては、ボフォース 40mm機関砲を用いた耐弾試験までしか行われていない。
- [74] -61式戦車の防御力
操縦席と操縦手用61式潜望鏡 JM17は日本の交通法規に合わせて車体右側に配置されていたが、砲塔右側の車長・砲手と合わせて、車輌右側に乗員4人中3人が偏在するためリスクコントロール面で問題となり、74式戦車では車体左側に移されている。操縦は左右2本のレバー操作式で、変速機の歯車の回転が少しでもずれると変速できないなど、アメリカ軍から供与されたM24軽戦車やM41軽戦車に比べて操縦が難しく、乗員から「世界一操縦が難しい戦車」と言われたことがある。また、操縦する際に左手に腕時計をしていると、変速に失敗した際に弾き戻されるシフトレバーが左手に当たり腕時計が壊れるため、操縦する際は腕時計を右手に付け替えた、という話が伝えられている。
サスペンションは第二次世界大戦後の各国戦車の主流となっていたトーションバー方式を採用し、履帯は生産コストと整備・修理の簡便性を考慮して、センターガイド方式のシングルピン・シングルブロック型が採用された。
機関室火災に対応するため、二酸化炭素を用いた自動消火装置を搭載している。熱感応弁により自動で作動するほか、操縦手席の手動弁を操作することでも作動させることができる[11]。
車体後面中央には、吸気用の大型グリルが設けられている。大型グリルの右下には、トレーラ(2t弾薬トレーラ)用電源ソケットが付いている。大型グリルの左隣には、61式車上電話機が設けられている。この車上電話機は、(演習では)ほとんど使われないので、90式戦車以降は廃止されている。ただし、電話機を接続する有線端子は残している。しかし、10式戦車以降は、この有線端子も廃止されている。
- [77] - (参考)74式戦車の74式車上電話機の内部
- [78] - (参考)74式戦車の車上電話機は車体後面の右側にある。
- [79] - (参考)90式戦車車体後面。左側のテールランプの右側にある円筒が有線端子である。
- [80] - (参考)10式戦車では有線端子も廃止されている。
車体底面は、対戦車地雷の爆圧を外らすため、従来の平板式を止めて3面式舟型構造が採用されていた。これは60式装甲車にも採用されていた。舟型にすると車内容積が減るが、狭い最底部にはトーションバーが設置されていて、どのみち他に利用できないので、問題とはならない。車体底面左前方には緊急脱出ハッチ(第2転輪と第3転輪の間)が設けられている。
1980年代後半まで、61式戦車を含む、陸上自衛隊の装甲車両には、ダークグリーンの単色塗装が施されていた。これは、アメリカ軍の軍用車両で多用されるオリーブドラブ(OD)と呼ばれる暗緑色より、青味と灰色味が強い色調で、自衛隊独特の色であった。
1970年代後半~1980年代初頭にかけて、富士教導団所属の戦車教導隊(現在の機甲教導連隊)では、実験的に、戦車のシルエットを崩したり、背景と調和させたりすることを目的に、様々な色彩やパターンの迷彩塗装が試験された。それらの試験で、数多くのテスト迷彩が施されたのが、61式戦車であった。戦車教導隊第2中隊では、90-6050号、6327号、6533号、6562号の4輌に、こうした実験迷彩が、期間限定で施された。
そうした試行錯誤を経て、1980年代半ばには、現在のダークグリーンとブラウンの2色迷彩塗装が定められ、確立した[12]。
10式 | 90式 | 74式 | 61式 | |
---|---|---|---|---|
画像 | ||||
世代 | 第3.5世代 | 第3世代 | 第2.5世代 | 第1世代 |
全長 | 9.42 m | 9.80 m | 9.41 m | 8.19 m |
全幅 | 3.24 m | 3.40 m | 3.18 m | 2.95 m |
全高 | 2.30 m | 2.25 m | 2.49 m | |
重量 | 約44 t | 約50 t | 約38 t | 約35 t |
主砲 | 44口径120mm滑腔砲[注 6] | 44口径120mm滑腔砲 | 51口径105mmライフル砲 | 52口径90mmライフル砲 |
副武装 | 12.7mm重機関銃M2×1 74式車載7.62mm機関銃×1 |
12.7mm重機関銃M2×1 7.62mm機関銃M1919A4 | ||
装甲 | 複合装甲(正面要部) | 鋳造鋼(砲塔) 圧延防弾鋼(車体) | ||
エンジン | 水冷4サイクル V型8気筒ディーゼル |
水冷2サイクル V型10気筒ディーゼル |
空冷2サイクル V型10気筒ディーゼル |
空冷4サイクル V型12気筒ディーゼル |
最大出力 | 1,200 ps/2,300 rpm | 1,500 ps/2,400 rpm | 720 ps/2,200 rpm | 570 ps/2,100 rpm |
最高速度 | 70 km/h | 53 km/h | 45 km/h | |
懸架方式 | 油気圧式 | トーションバー・油気圧 ハイブリッド式 |
油気圧式 | トーションバー式 |
乗員数 | 3名 | 4名 | ||
装填方式 | 自動 | 手動 | ||
C4I | 〇 | △ | × | |
コスト | 約9.5億円 (2010年[注 7]) |
約11億円(1990年) 約8億円(2009年) |
約4.0億円 (1989年[注 8]) |
約1億円 (2022年の物価に 換算すると約4.3億円相当) [注 9] |
生産数 | 126輌以上(増備中) | 341輌(生産終了) | 873輌(退役) | 560輌(退役) |
運用
[編集]61式特車として制式化された型の量産化は1961年(昭和36年)度予算で10輌が計上され、翌1962年(昭和37年)度に3年分の一括国債という方式で90輌、1966年(昭和41年)度は40輌(第二次防衛力整備計画・1962年(昭和37年)~1966年(昭和41年))、1967年(昭和42年)から新型戦車(74式戦車)制式化の前年となる1973年(昭和48年)まで毎年60輌の調達が行われた[13]。この60輌というのは、一個戦車大隊の定数でもある[14]。試作車の4輌を除くと、1973年(昭和48年)の製造終了までに560輌が生産された[14]。
量産初号と2号車の引き渡し式は三菱重工相模原工場にて、1962年(昭和37年)10月15日に行われた[14]。同年1月に陸上自衛隊の六個管区隊・四個混成団体制が十三個師団体制に切り替わり、この際に戦車(61式戦車)の呼称が使用されることになるが、調達実施本部とメーカーの契約が優先されたことで、式典では特車の呼称が使用された[14]。
まず教育部隊である富士教導団戦車教導隊への配備が行われ、一般部隊では第7師団第7戦車大隊(当時)へ初配備された[15]。以降、全国の戦車部隊に配備が進められ、1984年にはM41軽戦車を装備する最後の部隊での装備更新が終了し、陸上自衛隊の全ての戦車装備部隊が74式戦車もしくは61式戦車によって編成されることになり、戦車装備の完全国産化を実現した。
制式化後、大きな改良・改修が実施されることはなかったものの、下記の様な細かい改修や装備と追加が行われている。
製造番号400番までの車輌は、車載銃がM1小銃であった関係から砲塔装填手ハッチ下の膨らみ部分が砲塔バスルの曲線になだらかにつながっているのに対して、400番台以降は車載銃が64式7.62mm小銃に対応したラックに変更されたことで、砲塔バスルが垂直となっている[16]。
第2戦車大隊(現:第2戦車連隊)にて夜戦中隊が編成されていたことから、夜戦仕様の61式戦車も存在した(74式戦車への更新により、夜戦仕様の61式戦車は各戦車大隊に2両ずつぐらい配分された)。正式な呼び名は「61式戦車(B)暗視照準装置付き」とされる[17]。「69式暗視照準装置」装備車には2種類あり、投光器と受像器の装備車と、受像器[18]のみの装備車が、存在した。投光器の照射は白色光と赤外線の、シャッターによる切り替えが可能。防盾前面左側に「69式暗視照準投光器」を設置する架台が備わり(投光器装備車のみ)、装填手ハッチ横に細長い規正板[19]収納箱の追加[20]と、暗視装置(投光器のキセノンランプ点灯)用の「直流-直流 変換器(変圧器)」[21]が収容される関係上、砲塔バスル後面の箱が一般車の雑具箱に比べ大型化している[22]。
- [81] - 61式車上1m測遠機 規正板と収納箱
- [82] - 69式照準用暗視装置 付図
- [83] - 防盾と一体鋳造だった防盾上部の吊下げ環の左側は、投光器架台と干渉する為に、切断して別の環部品を溶接し直している。
- [84] - 投光器裏の太/細2本のケーブルは、砲塔前部の前蓋板右寄り(右吊り下げ環の傍)に設けられた2つのソケットに接続されたと想像される(伊丹駐屯地の現存車「ST-0134」)。
- [85] - (参考)74式戦車のソケット。74式戦車の場合は砲塔左側面にある。これと同様の物が61式戦車の砲塔前部にも付いていたと想像される。
- [86] - (参考)74式戦車のソケット。蓋を外して、投光器から延びるケーブル端のプラグを接続する。
操縦手用には、「63式操縦用暗視装置I型」が開発された。
1982年(昭和57年)より74式戦車が標準搭載する「74式60mm発煙弾発射機」(「発発(ハツハツ)」と略される)の追加搭載が開始された[11]。これにより、それまで砲塔側面に吊り下げられていた工具箱が砲塔後部上面に移された[17]。
これらに加え、74式戦車の開発初期においては、新規開発ではなく既存車両の火力強化として61式戦車(改)の試作開発も提案されたが、重量の増加に伴う機動力の低下や発射速度の低下など、総合戦闘力はかえって改悪されることもしばしばであるとして新型戦車開発へとシフトした[23]。
[87] - 61式戦車(改) 想像図
旧式化と後継の74式戦車・90式戦車の登場により徐々に退役が進んだ。1961年(昭和36年)の制式採用から39年後の2000年(平成12年)には現役としては最後の総合火力演習に参加する[24]ものの、同年全車が退役した。制式採用から39年間、生産・配備された全ての車両は一度も実戦投入されることはなかった。
2001年9月28日には駒門駐屯地にて「61式戦車送別会」が実施され、同駐屯地最後の車輌が三菱重工相模原工場の広報展示用として返納された[25]。
-
発煙弾発射機の搭載が行われなかった車輌
砲塔側面に雑具箱が残されている -
砲塔バスル後面に大型化した「直流-直流 変換器」収容箱を搭載した車輛
予算計上年度 | 調達数 |
---|---|
昭和36年度(1961年) | 10輌 |
昭和37年度(1962年) | 90輌 |
昭和38年度(1963年) | 0輌 |
昭和39年度(1964年) | 0輌 |
昭和40年度(1965年) | 0輌 |
昭和41年度(1966年) | 40輌 |
昭和42年度(1967年) | 60輌 |
昭和43年度(1968年) | 60輌 |
昭和44年度(1969年) | 60輌 |
昭和45年度(1970年) | 60輌 |
昭和46年度(1971年) | 60輌 |
昭和47年度(1972年) | 60輌 |
昭和48年度(1973年) | 60輌 |
合計 | 560輌 |
配備部隊
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
北部方面隊直轄
- 第103戦車大隊 - 1969年(昭和44年)11月4日配備~1983年(昭和58年)1月24日[26]
- 第104戦車大隊 - 1969年(昭和44年)5月配備~1979年(昭和54年)[26]
- 第1戦車群 - 1970年(昭和45年)11月14日配備~1984年(昭和59年)12月10日
- 第2戦車大隊 - 1967年(昭和42年)6月17日配備
- 第4戦車大隊 - 1970年(昭和45年)7月27日配備
- 第5戦車大隊 -
- 第6戦車大隊 -
- 第9戦車大隊 -
- 第13戦車大隊 -
- 第14戦車中隊 -
- 第2混成団戦車隊 -
※部隊名等は当時のもの
退役後
[編集]退役後は全国各地の陸上自衛隊駐屯地で展示品とされている車両が少数ある。
2019年8月5日、ヨルダン国王アブドゥッラー2世の要請に応え、滝ケ原駐屯地に展示してあった1両がヨルダン王立戦車博物館へ無償貸与されることが決定した[28]。
日本はこれまで、展示用も含め、戦車を輸出したことがなく、「貸与」という形式となった。形式上、所有権は日本が留保している。
主砲砲口が埋められ、エンジンも取り外された状態で動くことはできず、綺麗に再塗装された。
派生型
[編集]87式自走高射機関砲の開発にあたって車体を流用する案が計画されたが、性能面で要求水準を満たせないと判断され、74式戦車の車体に変更された。
他にも61式の車体を使用した計画車両として、戦場で陣地構築や敵陣地の爆破などを行う67式装甲作業車というものがあった。実際にM4A3E8を元にした試作車が作られ1967年(昭和42年)に制式化されたものの、計画は中止された。
また、砲塔を後方に回し、前方にディスクローラ式の地雷処理機材を装着した地雷処理戦車が開発されたこともあったが、試作に終わっている。
- 標的用61式戦車
- 1982年10月に行われた対機甲演習で登場した標的用61式戦車。車体、砲塔にシュルツェンが付けられ、IV号戦車のようなシルエットになっている。シュルツェンは左右の板を棒で繋げて、砲塔と車体の上から被せて、動かないように土嚢で押さえているだけなので、容易に脱着可能。
登場作品
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 通常、自衛隊では時刻にある数字の1を「ひと」と読む[2][3][4][5][6]。装備品の制式年についても同様で、10式戦車は「ひとまるしきせんしゃ」[7]、16式機動戦闘車は「ひとろくしききどうせんとうしゃ」と読む。これに準ずれば、61式戦車は「ろくひとしきせんしゃ」となるが、「ろくいちしきせんしゃ」と読まれる場合が多い。
- ^ 更新すべき戦車はアメリカ軍とヨーロッパ同盟国への供与で数千輌になり、日本への供与が可能になるのは当分先と判断された。
- ^ 25トン級戦車については、第二次防衛力整備計画においてM41軽戦車225輌がアメリカの無償援助によって計画され、1963年(昭和38年)までに147輌が導入された。
- ^ L7 105ミリ戦車砲を搭載した戦後第2世代戦車であるレオパルト1やM60パットンなどはまだ完成しておらず、入手可能な最も強力な砲を選択したと言える。
- ^ 当時各社から発売されたプラモデルでは、61式をアメリカ軍風に表記したM-61(ニットー)やM61(フジミ)などの名称とした物や、M-3(三和)の様に完全オリジナルの名称にした物なども存在した。
- ^ 90式より高腔圧に対応
- ^ 2008年度予算から初度費が一括計上されており、10式の単価には初度費は含まれていない。
- ^ 平成元年度防衛白書中の資料「平成元年度主要事業の経費」によれば、56両に対し22,175百万円。
- ^ 1965年と2022年の物価を消費者物価指数で換算。
出典
[編集]- ^ 『仮制式要綱 61式戦車 XD9001』付図
- ^ 齋藤雅一 (2015年5月). “自衛隊百科(5月放送内容) テ-マ:自衛隊の専門用語の解説”. 東北防衛局. 2022年8月8日閲覧。
- ^ “時刻の読み方”. MAMOR-WEB. 株式会社扶桑社. 2022年8月8日閲覧。
- ^ 自衛隊福岡地方協力本部 [@fukuoka_PCO] (2020年5月4日). "「投票ありがとうございました。 自衛隊では・・・ ひとよんにーまる ひとよんふたまる 通常、陸上自衛官は「にー」、海上・航空自衛官は「ふた」を使いますよ😊」". X(旧Twitter)より2022年8月8日閲覧。
- ^ “20式5.56mm小銃、9mm拳銃SFP9 自衛隊新小銃と新拳銃の名称決定! 実銃解説”. ハイパー道楽 (2020年5月18日). 2022年8月8日閲覧。
- ^ たいらさおり(漫画家/デザイナー) (2021年11月23日). “【マンガ】「待ち合わせはヒトロクマルマル」キター!! 自衛隊独特の“数字の読み方”にご注意?”. 乗りものニュース (株式会社メディア・ヴァーグ) 2022年8月8日閲覧。
- ^ 貝方士英樹 (2021年10月9日). “陸上自衛隊:最新世代戦車「10式戦車」の性能①、ヒトマルの機動力に注目する”. Motor-Fan.jp (株式会社 三栄) 2022年8月8日閲覧。
- ^ 林磐男 2005, p. 119.
- ^ 林磐男 2005, p. 101.
- ^ 軍事研究 2007, p. 135.
- ^ a b 古是三春 & 一戸崇雄, p. 62.
- ^ 早すぎたデジタル迷彩!? 七色の61式戦車が誕生したワケを“生みの親”に聞いた - 乗りものニュース (2021年9月16日). 2023年11月27日閲覧。
- ^ a b 丸 2017, p. 86.
- ^ a b c d e 丸 2017, p. 87.
- ^ 『陸上自衛隊 機甲科全史』p. 173.
- ^ 古是三春 & 一戸崇雄, p. 36.
- ^ a b 古是三春 & 一戸崇雄, p. 37.
- ^ この細長い受像器を、砲塔前面右側の直接照準孔に繋がる、砲塔内の砲の右側にある砲手用61式直接照準眼鏡(テレスコープ)と交換した。
- ^ 従来は、「暗視照準眼鏡」と、間違って解説されてきた。
- ^ 規正板とは、夜戦用装備ではなく、(白と黒のチェックが入った)10cm四方の板が両端についた、全長1mの(足付きの)棒であり、61式車上1m測遠機の照準の修正に用いられる。本来、規正板収納箱は、砲塔バスル内左側に収納されていたが、そこに代わりに、細長い「砲手用暗視装置受像器」を収納したために、規正板収納箱を砲塔外に出さざるを得なくなった。
- ^ 従来は、「交流発電機」や「交流変換器」と、間違って解説されてきた。61式戦車は「直流-交流 変換器(インバーター)」を備えていない。
- ^ 61式戦車のエンジンには元より発電機が2基付いており、暗視装置用に発電機を新たに搭載することも無く、暗視装置用の電源は車体側から供給された。ゆえに箱の中身は発電機ではない。
- ^ 古是三春 & 一戸崇雄, p. 68.
- ^ 古是三春 & 一戸崇雄, p. 29.
- ^ 古是三春 & 一戸崇雄, p. 42.
- ^ a b c d e f g h 丸 2017, p. 88.
- ^ a b 丸 2017, p. 89.
- ^ 61式戦車のヨルダン王立戦車博物館への無償貸付及びヨルダンからの装甲車の寄付の受領 - 外務省 (2019年8月5日). 2023年11月27日閲覧。
参考文献
[編集]- 『PANZER』、サンデーアート、1986年3月。
- 「体験的機甲史 自衛隊の戦車」『丸MARU』、潮書房、2001年1月、雑誌08307-1。
- 「六一式戦車 特集 伝説の国産MBT」『丸MARU』、潮書房、2017年3月、雑誌08307-3。
- 『戦車マガジン増刊・世界の精鋭兵器 No.5 61式主力戦闘戦車』
- 林磐男『戦後日本の戦車開発史―特車から90式戦車へ』光人社、2005年。ISBN 978-4769824725。
- 竹内昭『世界の戦車・装甲車』学習研究社〈学研の大図鑑〉、2003年。ISBN 4054016960。
- 『世界のハイパワー戦車&新技術』ジャパン・ミリタリー・レビュー〈軍事研究 2007年12月号別冊〉、2007年。ASIN B007EJ08RK。
- 上田信『戦車メカニズム図鑑』グランプリ出版、1997年。ISBN 4876871795。
- 『陸上自衛隊 機甲科全史』イカロス出版、2017年。ISBN 9784802203395。
- 古是三春、一戸崇雄『ストライクアンドタクティカルマガジン2009年9月号別冊 戦後の日本戦車』2009年。ASIN B002LG7978。
- 防衛庁 (1961年4月26日). “仮制式要綱 61式戦車 XD 9001”. 2004年2月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年11月27日閲覧。
- 防衛庁 (1961年4月26日). “仮制式要綱 61式90mm戦車砲 XB 3002”. 2004年2月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年11月27日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- [94] - 乗りものニュース「陸自初の国産戦車「61式戦車」はどれだけ強い?「ティーガーII」に勝てるのか T-34ならどう?」