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{{Otheruses|外交官|同名の祖父(会津藩大砲奉行)|林安定}} |
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{{Otheruses||同名の祖父(会津藩大砲奉行)|林安定}} |
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'''林 権助'''(はやし ごんすけ、[[安政]]7年[[3月2日 (旧暦)|3月2日]]([[1860年]][[3月23日]])-[[昭和]]14年([[1939年]])[[6月27日]])は、[[明治]]・[[大正]]期の[[外交官]]・[[男爵]]。[[会津藩]]出身。林又三郎の子。会津藩大砲隊長として著名な[[林安定|林権助安定]]は祖父。 |
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{{政治家 |
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|氏名=林 権助 |
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|各国語表記=はやし ごんすけ |
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|画像= Hayashi gonsuke.jpg |
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|画像サイズ=200px |
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|画像説明= 駐伊大使時代 |
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|国略称={{JPN}} |
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|生年月日=[[1860年]][[3月23日]]| |
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|生誕地=会津藩若松 |
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|没年月日={{死亡年月日と没年齢|1860|3|23|1939|6|27}} |
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|死没地= |
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|職業=駐伊大使<br/>駐支公使(親任官待遇<br/>駐英大使<br/>[[枢密院 (日本)|枢密顧問官]] |
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|出身校=[[東京大学|東京帝国大学]] |
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|配偶者=関場竹子([[関場不二彦]]妹)<ref name="a">{{Cite book|和書|author=秦温信|year=2011||title=北辰の如く<small>関場不二彦伝</small>|publisher=北海道出版企画センター|isbn=978-4-8328-1103-4|ref=}}256頁</ref> |
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|国旗 = JPN |
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|職名 = 初代[[関東庁#関東長官|関東長官]] |
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|就任日 = [[1919年]][[4月12日]] |
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|退任日 = [[1920年]][[5月24日]] |
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}} |
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'''林 権助'''(はやし ごんすけ、{{旧字体|'''林 權助'''}}、[[安政]]7/[[万延]]元年[[3月2日 (旧暦)|3月2日]]〈[[1860年]][[3月23日]]〉 - [[昭和]]14年〈[[1939年]]〉[[6月27日]])は、[[日本]]の[[明治]]・[[大正]]期の[[外交官]]。[[男爵]]。初代[[関東庁#関東長官|関東長官]]。 位階勲等は[[従一位]][[勲一等]]<ref name="kanpo3743">[{{NDLDC|2960237/7}} 『官報』第3743号 1939年(昭和14年)6月29日 「叙任及辞令」]</ref>。[[会津藩]]出身。林又一郎は父<ref name=":0">[[星亮一]]『松江豊寿と会津武士道』2006年、[[ベストセラーズ]](ベスト新書)、pp87-90、第三章 坂東俘虜収容所 韓国に派遣さる</ref>。会津藩大砲隊長・[[林安定|林権助安定]]は祖父。 |
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== 経歴 == |
== 経歴 == |
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[[ファイル:Gonsuke Hayashi.jpg|サムネイル|林権助]] |
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[[慶応]]3年([[1867年]])に[[藩校]]・[[日新館]]に入る。翌年の[[鳥羽・伏見の戦い]]で祖父と父が戦死したため<ref name=":0" />、林家(550石)の家督と祖父の名「権助」を継ぎ、幼い身ながら[[会津戦争]]においては[[若松城]]に[[会津城籠城戦|籠城]]して[[新政府軍]]と戦った。 |
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その後、林家は藩の移封に従い[[斗南藩]]に移ったが、その生活は貧窮を極めた。そこへ、会津・薩摩両藩が[[公武合体派]]として[[京都]]警固の任に当たっていた当時、祖父の林権助安定と共に働いた[[薩摩藩|薩摩藩士]]であった[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[少佐]][[児玉実文]]が、旧友の遺族の困窮ぶりを知り、林家への支援を申し出たことから、権助は[[東京]]の児玉の庇護の下で勉学に励むことになった。児玉が権助を連れて[[鹿児島市|鹿児島]]に帰省する途上では[[西南戦争]]が勃発し、権助は同戦争の様子を直接見聞する機会を得た。 |
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児玉の死後には、権助が児玉の遺児を経済的に支援し<ref name="a" />、児玉への恩に報いた。 |
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[[慶応]]3年([[1867年]])に[[藩校]][[日新館]]に入る。ところが、翌年の[[鳥羽伏見の戦い]]で祖父と父が戦死したため、林家の家督を継ぎ、幼い身ながら[[会津戦争]]においては[[会津若松城]]に籠城して[[官軍]]と戦った。その後、藩の移封に従って[[斗南藩]]に移るが、母子の生活は大変苦しかった。そこへ、[[薩摩藩]]出身の陸軍少佐で、会津・薩摩両藩がともに[[公武合体派]]の立場にあった時に祖父の権助と[[京都]]警固の任にともにあたっていた[[児玉実文]]が林家の遺族の困窮ぶりを知り支援を申し出たことから、権助は[[東京]]の児玉の庇護の下で勉学に励むことになった。折しも児玉が権助を連れて[[鹿児島市|鹿児島]]に帰省する途中で[[西南戦争]]に遭遇し、直接見聞する機会を得る。 |
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===外交官へ=== |
=== 外交官へ === |
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[[東京大学 (1877-1886)#大学予備門|大学予備門]]から[[東京大学|東京帝国大学]]を経て、明治20年([[1887年]])[[7月19日]]に[[外務省]]に入省(交際官試補)。[[仁川広域市|仁川]]・[[上海]][[領事]]を歴任後、[[イギリス|英国]]と[[清|清国]]に首席書記官として赴任した。駐英公使[[加藤高明]]はその才能を高く評価し、また権助の社交的な性格は英国や清国の要人に人脈を形成するのに役立った。なお、[[戊戌政変]]の際には清国政府に追われた[[梁啓超]]を匿って日本へ亡命させるために奔走したとされる。明治31年([[1898年]])12月には本省の通商局長に抜擢された。 |
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=== 日韓協約 === |
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明治32年([[1899年]])6月に駐韓公使に就任。対韓・対露強硬外交を推進し、その後の[[日韓併合]]への足がかりを作ったことで知られる。すなわち、[[日露戦争]]中に[[大韓帝国|韓国政府]]に迫って[[日韓議定書]]を調印させ、続く[[第一次日韓協約]]・[[第二次日韓協約]]はともに彼の主導の下に締結された。以後、韓国は日本の[[保護国|保護下]]に置かれることになった。その勲功により、明治40年([[1907年]])11月4日に男爵に叙せられた<ref>『官報』第7307号、明治40年11月5日。</ref>。さらに、明治43年([[1910年]])に日韓併合が実現されると、彼は[[桂太郎]]・[[小村壽太郎|小村寿太郎]]とともに併合の「三人男」と評価された。なお、この間の明治39年([[1906年]])6月には駐清公使、明治41年([[1908年]])6月には駐伊大使に任ぜられている。 |
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[[File:Curzon-Supreme-Council.jpg|250px|thumb|1921年9月の{{仮リンク|連合軍最高戦争会議|en|Supreme War Council}}。左からイギリスの[[ジョージ・カーゾン (初代カーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵)|カーゾン侯爵]]、[[デビッド・ロイド・ジョージ|ロイド・ジョージ]]、[[フランス第三共和政|フランス]]の[[アリスティード・ブリアン|ブリアン]]、[[イタリア王国|イタリア]]の[[イヴァノエ・ボノーミ|ボノーミ]]、{{仮リンク|ピエトロ・トマシ・デッラ・トッリッタ|label=デッラ・トッリッタ侯爵|it|Pietro Tomasi della Torretta}}、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の{{仮リンク|ジョージ・ブリトン ・マクレラン・ハーヴェイ|label=ハーヴェイ|en|George Brinton McClellan Harvey}}、[[日本]]の林権助男爵と[[石井菊次郎]]子爵]] |
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大正5年([[1916年]])に権助は駐支公使に任ぜられ、特に[[親任官]]の待遇を賜った<ref>{{Cite web|和書|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2953288|title=官報 第1,178号 大正5年7月5日 叙任及辞令|accessdate=2018-6-19|publisher=[[国立国会図書館]]}}</ref>。[[間島問題]]や[[辰丸事件]]の解決にあたった他、[[鄭家屯事件]]においては日本軍の過度な軍事介入に反対する進言を行い、[[張勲復辟事件]]に際しては[[段祺瑞]]の[[張勲 (清末民初)|張勲]]討伐を秘かに支援することで、日本の利益を損なわない形での中国情勢の安定化を目指した。大正8年([[1919年]])に[[関東庁#関東長官|関東長官]]に任命されるが、翌大正9年([[1920年]])には駐英大使に任ぜられた。さらに大正10年([[1921年]])に[[スイス]]の[[ジュネーヴ]]で開催された[[国際連盟]]総会及び[[近東平和会議]]において日本代表を務めた。 |
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=== 晩年 === |
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大正14年([[1925年]])9月に駐英大使を免ぜられるも、そのまま英国に滞在し、[[宮内省]][[御用掛]]として同年7月より英国留学中であった[[秩父宮雍仁親王]]付を命じられた。しかし、翌年の[[大正天皇]]危篤に伴って秩父宮は急遽帰国、そのまま留学は中止となり、昭和2年([[1927年]])6月に御用掛を免ぜられ帰国した。昭和3年([[1928年]])6月に[[張作霖爆殺事件]]が勃発し、[[12月29日]]に[[張学良]]が[[易幟]]を発表すると、張の説得に派遣された。昭和4年([[1929年]])4月、[[宮内省]]式部長官に就任。 |
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昭和9年([[1934年]])5月に秩父宮の[[満洲国|満州国]]差遣に随行、7月には[[枢密院 (日本)|枢密顧問官]]に任ぜられた。昭和11年([[1936年]])5月には枢密顧問官を構成員に含む宮内省[[宗秩寮]]審議官に任ぜられていたが、[[昭和]]14年([[1939年]])6月に80歳で死去。 |
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[[大学予備門]]から[[東京帝国大学]]を経て、明治20年([[1887年]])[[7月19日]]に[[外務省]]に入省する。[[仁川]]・[[上海]][[領事]]を歴任後、[[イギリス]]と[[清国]]に首席書記官として赴任した。駐英公使[[加藤高明]]はその才能を高く評価し、また権助の社交的な性格はイギリスや清国の要人に人脈を形成するのに役立った。なお、[[戊戌政変]]の際には清国政府に追われた[[梁啓超]]を匿って日本へ亡命させるために奔走したと言われている。明治32年([[1899年]])には本省の通商局長に抜擢される。 |
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墓所は[[青山霊園]]。[[松平保男#会津会|会津会]]の会員であり、また[[松平保男#稚松会|稚松会]]の賛助員でもあった。 |
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===日韓協約=== |
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== 栄典 == |
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;位階 |
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* [[1890年]](明治23年)[[7月29日]] - [[正七位]]<ref name="権助">{{アジア歴史資料センター|A06051180000|林権助}}</ref> |
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* [[1891年]](明治24年)[[12月21日]] - [[従六位]]<ref name="権助"/><ref>『官報』第2545号「叙任及辞令」1891年12月22日。</ref> |
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* [[1896年]](明治29年)[[10月30日]] - [[正六位]]<ref name="権助"/> |
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* [[1899年]](明治32年)[[2月20日]] - [[正五位]]<ref name="権助"/> |
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* [[1902年]](明治35年)[[3月31日]] - [[従四位]]<ref name="権助"/> |
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* [[1908年]](明治41年)[[2月21日]] - [[正四位]]<ref name="権助"/><ref>『官報』第7394号「叙任及辞令」1908年2月22日。</ref> |
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* [[1911年]](明治44年)[[3月20日]] - [[従三位]]<ref name="権助"/><ref>『官報』第8321号「叙任及辞令」1911年3月21日。</ref> |
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* [[1916年]](大正5年)[[3月31日]] - [[正三位]]<ref name="権助"/> |
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* [[1923年]](大正12年)[[5月10日]] - [[従二位]]<ref name="権助"/><ref>『官報』第3235号「叙任及辞令」1923年5月15日。</ref> |
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* [[1934年]](昭和9年)[[8月15日]] - [[正二位]]<ref name="権助"/> |
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* [[1939年]](昭和14年)[[6月27日]] - [[従一位]]<ref name="権助"/>([[正二位]]勲一等男爵林権助)<ref name="kanpo3743"></ref> |
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;勲章等 |
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明治33年([[1900年]])に権助は駐韓公使に任命される。ここにおいて彼は対韓・対露強硬外交を推進してその後の[[日韓併合]]への足がかりを作ったことで知られている。すなわち、[[日露戦争]]中には[[大韓帝国|韓国政府]]に迫って[[日韓議定書]]を調印させ、続く[[第一次日韓協約]]・[[第二次日韓協約]]はともに彼の主導の下に締結された。これによって韓国は日本の[[保護国|保護下]]に置かれることになったのである。そして、明治43年([[1910年]])に日韓併合が実現されると、彼は[[桂太郎]]・[[小村寿太郎]]とともに併合の「三人男」と評価され、その翌明治44年([[1911年]])にはその功績によって男爵に叙せられたのである。なお、この間の明治39年([[1906年]])には駐清公使、明治41年([[1908年]])には駐伊大使に任ぜられている。 |
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* [[1898年]](明治31年)[[7月13日]] - [[旭日章|勲五等双光旭日章]]<ref name="権助"/><ref>『官報』第4511号「叙任及辞令」1898年7月14日。</ref> |
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* [[1899年]](明治32年)[[12月27日]] - [[瑞宝章|勲四等瑞宝章]]<ref name="権助"/> |
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* [[1902年]](明治35年)[[12月28日]] - [[旭日章|勲三等旭日中綬章]]<ref name="権助"/><ref>『官報』第5848号「叙任及辞令」1902年12月29日。</ref> |
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* [[1906年]](明治39年)[[4月1日]] - [[勲一等旭日大綬章]]<ref name="権助"/><ref>『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。</ref>・[[従軍記章#明治三十七八年従軍記章|明治三十七八年従軍記章]]<ref name="権助"/><ref>『官報』第7578号・付録「辞令」1908年9月28日。</ref> |
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* [[1907年]](明治40年)[[11月4日]] - [[男爵]]<ref name="権助"/> |
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* [[1912年]](大正元年)[[8月1日]] - [[記念章#賞勲局所管の記念章|韓国併合記念章]]<ref name="権助"/> |
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* [[1915年]](大正4年)[[11月1日]] - [[記念章#賞勲局所管の記念章|大礼記念章(大正)]]<ref name="権助"/> |
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* [[1916年]](大正5年)[[4月1日]] - [[従軍記章#大正三四年(大正三年乃至九年戦役)従軍記章|大正三四年従軍記章]]<ref name="権助"/> |
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* [[1920年]](大正9年)[[11月1日]] - [[賞杯|金杯一組]]<ref name="権助"/> |
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* [[1928年]](昭和3年)[[11月10日]] - [[勲一等旭日桐花大綬章|旭日桐花大綬章]]<ref name="権助"/><ref>『官報』号外「授爵・叙任及辞令」1928年11月10日。</ref>・[[記念章#賞勲局所管の記念章|大礼記念章(昭和)]]<ref name="権助"/> |
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* [[1929年]](昭和4年)[[1月15日]] - [[賞杯|御紋付銀杯]]<ref name="権助"/> |
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* [[1939年]](昭和14年)[[1月16日]] - [[賞杯|御紋付銀盃]]<ref name="権助"/> |
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;外国勲章佩用允許 |
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大正5年([[1916年]])に権助は駐中公使に任ぜられた。[[間島問題]]や[[辰丸事件]]の解決にあたった他、[[鄭家屯事件]]においては日本軍の過度な軍事介入に反対する進言を行い、[[張勲復辟事件]]に際しては[[段祺瑞]]の[[張勲 (清末民初)|張勲]]討伐を秘かに支援することで、日本の利益を損なわない形での中国情勢の安定化を目指した。大正8年([[1919年]])に[[関東長官]]に任命されるが、翌大正9年([[1920年]])には駐英大使に任ぜられた。更に大正10年([[1921年]])に[[スイス]]で開かれた[[国際連盟]]総会及び[[近東平和会議]]の日本代表を兼ねた。 |
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* [[1903年]](明治36年)[[1月29日]] - [[大韓帝国]]:聖寿五十年称慶記念章<ref name="権助"/> |
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* [[1904年]](明治37年)[[5月7日]] - [[大韓帝国]]:[[太極章|勲一等太極大綬章]]<ref name="権助"/> |
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* [[1907年]](明治40年)[[2月9日]] - [[清|大清帝国]]:頭等第三双竜宝星<ref name="権助"/> |
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* [[1909年]](明治42年)[[12月18日]] - [[イタリア王国]]:[[聖マウリッツィオ・ラザロ勲章|サンモーリスエラザル勲章]]第一等勲章<ref name="権助"/> |
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* [[1916年]](大正7年)[[12月24日]] - [[中華民国|支那共和国]]:一等宝光嘉禾章<ref name="権助"/> |
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* [[1923年]](大正14年)[[10月1日]] - [[イギリス帝国]]:[[聖マイケル・聖ジョージ勲章]]ナイトグランドクロス<ref name="権助"/> |
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* [[1931年]](昭和6年)[[4月28日]] - [[タイ王国|暹羅国]]:[[白象勲章|レレファンブラン勲章]]グランクロア<ref name="権助"/> |
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* [[1934年]](昭和9年) |
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** [[3月1日]] - [[満洲国|満洲帝国]]:[[記念章#建国功労章|大満洲国建国功労章]]<ref name="権助"/> |
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** [[12月28日]] - [[ベルギー|ベルギー王国]]:{{仮リンク|レオポルド勲章 (ベルギー)|label=レオポール勲章|en|Order of Leopold (Belgium)}}グランクロア<ref name="権助"/> |
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* [[1935年]](昭和10年)[[9月21日]] - [[満洲国|満洲帝国]]:[[記念章#皇帝訪日紀念章|満洲帝国皇帝訪日記念章]]<ref name="権助"/><ref>『官報』第2725号「叙任及辞令」1936年2月4日。</ref> |
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* [[1937年]](昭和12年)[[2月9日]] - [[満洲国|満洲帝国]]:[[勲章#中国・台湾の勲章|勲一位龍光大綬章]]<ref name="権助"/> |
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* [[1938年]](昭和13年)[[6月28日]] - [[満洲国|満洲帝国]]: [[花瓶|銀製花瓶一個]]<ref name="権助"/> |
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== 著書 == |
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===大使退職後 === |
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* {{国立国会図書館のデジタル化資料|1878301|林権助述 わが七十年を語る}} - 第一書房、1935年(昭和10年)4月7日、2023年4月22日閲覧 |
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大正14年([[1925年]])9月に権助は駐英大使を免ぜられたが、そのままイギリス滞在を命ぜられ、[[宮内省]][[御用掛]]として同年7月よりイギリス留学中であった[[秩父宮雍仁親王|秩父宮]]付を命ぜられた。もっとも、翌年の[[大正天皇]]危篤に伴って秩父宮は急遽帰国してそのまま留学が中止されたことから、昭和2年([[1927年]])6月に御用掛を免ぜられて帰国した。翌昭和3年([[1928年]])、権助は[[式部長官]]に任命され、続いて昭和9年([[1934年]])には[[枢密顧問官]]に任ぜられた。枢密顧問官在任中に80歳で死去。墓所は[[青山霊園]]にある。 |
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* 改訂版『極東動乱 出先外交経験秘話―葛藤するロシア、中国、韓国、日本』[[書肆心水]]、2022年 |
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== 親族 == |
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[[ファイル:Baron Gonzuke Hayashi & family LCCN2014702334.tif|サムネイル|林一家]] |
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* 林安 - 長男。[[1921年]](大正10年)の[[高等文官試験|外交官及領事官試験]]に合格して外交官となった<ref>『会津会雑誌第29号』[[斎藤良衛]]「外務省に於ける会津人」</ref>。 |
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* [[岡本武三]] - 長女の夫。駐イラン公使。 |
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== 出典 == |
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{{Reflist|2}} |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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*杉井六郎「林権助」 |
*杉井六郎「林権助」『日本近現代史辞典』[[東洋経済新報社]]、1978年。ISBN 978-4-492-01008-2 |
||
*河村一夫「林権助」 |
*河村一夫「林権助」『国史大辞典 11』吉川弘文館、1990年。ISBN 978-4-642-00511-1 |
||
*長岡新治郎「林権助」 |
*長岡新治郎「林権助」『新版 日本外交史辞典』山川出版社、1992年。ISBN 978-4-634-62200-5 |
||
*馬渕貞利「林権助」 |
*馬渕貞利「林権助」『日本史大事典 5』平凡社、1993年。ISBN 978-4-582-13105-5 |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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*[[ |
*[[易幟]] |
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{{-}} |
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{{Start box}} |
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{{S-reg|jp}} |
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{{Succession box |
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| title = 男爵 |
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| years = 林(権助)家初代<br />1907年 - 1939年 |
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| before = 叙爵 |
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| after = [[林安]] |
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}} |
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{{S-gov}} |
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{{Succession box |
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| title = 外務省通商局長 |
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| years = 1898年 - 1899年 |
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| before = [[重岡薫五郎]] |
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| after = [[杉村濬]] |
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}} |
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{{End box}} |
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{{在イギリス日本大使|1920年-1925年}} |
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{{関東州の長官|関東長官:1919年 - 1920年}} |
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{{在イタリア日本大使|1908年-1916年||{{Flagicon|ITA1861}}}} |
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{{在中国日本大使|1906年-1908年/1916年-1918年|清公使/在中華民国公使|{{flagicon2|Qing Dynasty}}{{Flagicon|CHN1912}}}} |
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{{在韓国日本大使|1900年-1906年|大韓帝国日本公使}} |
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{{Normdaten}} |
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{{DEFAULTSORT:はやし こんすけ}} |
{{DEFAULTSORT:はやし こんすけ}} |
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[[Category:幕末会津藩の人物]] |
[[Category:幕末会津藩の人物]] |
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[[Category:上士階層出身の明治期の著名人]] |
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[[Category:戊辰戦争の人物]] |
[[Category:戊辰戦争の人物]] |
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[[Category:日本 |
[[Category:在清国日本公使]] |
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[[Category:日本 |
[[Category:在中華民国日本公使]] |
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[[Category:在イギリス日本大使]] |
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[[Category:在イタリア日本大使]] |
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[[Category:戦前日本の大使]] |
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[[Category:明治日本の公使]] |
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[[Category:関東長官]] |
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[[Category:日露戦争の人物]] |
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[[Category:日本の宮内省関係者]] |
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[[Category:日本の枢密顧問官]] |
[[Category:日本の枢密顧問官]] |
||
[[Category:日本の男爵]] |
[[Category:日本の男爵]] |
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[[Category:会 |
[[Category:東邦協会の人物]]<!-- 東邦協会報告12会員姓名 --> |
||
[[Category:勲一等旭日桐花大綬章受章者]] |
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[[Category:勲一等旭日大綬章受章者]] |
|||
[[Category:東京大学漕艇部出身の人物]] |
|||
[[Category:旧制第一高等学校出身の人物]] |
|||
[[Category:福島県出身の人物]] |
|||
[[Category:1860年生]] |
[[Category:1860年生]] |
||
[[Category:1939年没]] |
[[Category:1939年没]] |
||
[[en:Gonsuke Hayashi]] |
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[[ko:하야시 곤스케]] |
2024年9月12日 (木) 12:20時点における最新版
林権助 はやし ごんすけ | |
---|---|
駐伊大使時代 | |
生年月日 | 1860年3月23日 |
没年月日 | 1939年6月27日(79歳没) |
出身校 | 東京帝国大学 |
配偶者 | 関場竹子(関場不二彦妹)[1] |
初代関東長官 | |
在任期間 | 1919年4月12日 - 1920年5月24日 |
林 権助(はやし ごんすけ、旧字体:林 權助、安政7/万延元年3月2日〈1860年3月23日〉 - 昭和14年〈1939年〉6月27日)は、日本の明治・大正期の外交官。男爵。初代関東長官。 位階勲等は従一位勲一等[2]。会津藩出身。林又一郎は父[3]。会津藩大砲隊長・林権助安定は祖父。
経歴
[編集]慶応3年(1867年)に藩校・日新館に入る。翌年の鳥羽・伏見の戦いで祖父と父が戦死したため[3]、林家(550石)の家督と祖父の名「権助」を継ぎ、幼い身ながら会津戦争においては若松城に籠城して新政府軍と戦った。
その後、林家は藩の移封に従い斗南藩に移ったが、その生活は貧窮を極めた。そこへ、会津・薩摩両藩が公武合体派として京都警固の任に当たっていた当時、祖父の林権助安定と共に働いた薩摩藩士であった陸軍少佐児玉実文が、旧友の遺族の困窮ぶりを知り、林家への支援を申し出たことから、権助は東京の児玉の庇護の下で勉学に励むことになった。児玉が権助を連れて鹿児島に帰省する途上では西南戦争が勃発し、権助は同戦争の様子を直接見聞する機会を得た。
児玉の死後には、権助が児玉の遺児を経済的に支援し[1]、児玉への恩に報いた。
外交官へ
[編集]大学予備門から東京帝国大学を経て、明治20年(1887年)7月19日に外務省に入省(交際官試補)。仁川・上海領事を歴任後、英国と清国に首席書記官として赴任した。駐英公使加藤高明はその才能を高く評価し、また権助の社交的な性格は英国や清国の要人に人脈を形成するのに役立った。なお、戊戌政変の際には清国政府に追われた梁啓超を匿って日本へ亡命させるために奔走したとされる。明治31年(1898年)12月には本省の通商局長に抜擢された。
日韓協約
[編集]明治32年(1899年)6月に駐韓公使に就任。対韓・対露強硬外交を推進し、その後の日韓併合への足がかりを作ったことで知られる。すなわち、日露戦争中に韓国政府に迫って日韓議定書を調印させ、続く第一次日韓協約・第二次日韓協約はともに彼の主導の下に締結された。以後、韓国は日本の保護下に置かれることになった。その勲功により、明治40年(1907年)11月4日に男爵に叙せられた[4]。さらに、明治43年(1910年)に日韓併合が実現されると、彼は桂太郎・小村寿太郎とともに併合の「三人男」と評価された。なお、この間の明治39年(1906年)6月には駐清公使、明治41年(1908年)6月には駐伊大使に任ぜられている。
大正5年(1916年)に権助は駐支公使に任ぜられ、特に親任官の待遇を賜った[5]。間島問題や辰丸事件の解決にあたった他、鄭家屯事件においては日本軍の過度な軍事介入に反対する進言を行い、張勲復辟事件に際しては段祺瑞の張勲討伐を秘かに支援することで、日本の利益を損なわない形での中国情勢の安定化を目指した。大正8年(1919年)に関東長官に任命されるが、翌大正9年(1920年)には駐英大使に任ぜられた。さらに大正10年(1921年)にスイスのジュネーヴで開催された国際連盟総会及び近東平和会議において日本代表を務めた。
晩年
[編集]大正14年(1925年)9月に駐英大使を免ぜられるも、そのまま英国に滞在し、宮内省御用掛として同年7月より英国留学中であった秩父宮雍仁親王付を命じられた。しかし、翌年の大正天皇危篤に伴って秩父宮は急遽帰国、そのまま留学は中止となり、昭和2年(1927年)6月に御用掛を免ぜられ帰国した。昭和3年(1928年)6月に張作霖爆殺事件が勃発し、12月29日に張学良が易幟を発表すると、張の説得に派遣された。昭和4年(1929年)4月、宮内省式部長官に就任。
昭和9年(1934年)5月に秩父宮の満州国差遣に随行、7月には枢密顧問官に任ぜられた。昭和11年(1936年)5月には枢密顧問官を構成員に含む宮内省宗秩寮審議官に任ぜられていたが、昭和14年(1939年)6月に80歳で死去。
墓所は青山霊園。会津会の会員であり、また稚松会の賛助員でもあった。
栄典
[編集]- 位階
- 1890年(明治23年)7月29日 - 正七位[6]
- 1891年(明治24年)12月21日 - 従六位[6][7]
- 1896年(明治29年)10月30日 - 正六位[6]
- 1899年(明治32年)2月20日 - 正五位[6]
- 1902年(明治35年)3月31日 - 従四位[6]
- 1908年(明治41年)2月21日 - 正四位[6][8]
- 1911年(明治44年)3月20日 - 従三位[6][9]
- 1916年(大正5年)3月31日 - 正三位[6]
- 1923年(大正12年)5月10日 - 従二位[6][10]
- 1934年(昭和9年)8月15日 - 正二位[6]
- 1939年(昭和14年)6月27日 - 従一位[6](正二位勲一等男爵林権助)[2]
- 勲章等
- 1898年(明治31年)7月13日 - 勲五等双光旭日章[6][11]
- 1899年(明治32年)12月27日 - 勲四等瑞宝章[6]
- 1902年(明治35年)12月28日 - 勲三等旭日中綬章[6][12]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲一等旭日大綬章[6][13]・明治三十七八年従軍記章[6][14]
- 1907年(明治40年)11月4日 - 男爵[6]
- 1912年(大正元年)8月1日 - 韓国併合記念章[6]
- 1915年(大正4年)11月1日 - 大礼記念章(大正)[6]
- 1916年(大正5年)4月1日 - 大正三四年従軍記章[6]
- 1920年(大正9年)11月1日 - 金杯一組[6]
- 1928年(昭和3年)11月10日 - 旭日桐花大綬章[6][15]・大礼記念章(昭和)[6]
- 1929年(昭和4年)1月15日 - 御紋付銀杯[6]
- 1939年(昭和14年)1月16日 - 御紋付銀盃[6]
- 外国勲章佩用允許
- 1903年(明治36年)1月29日 - 大韓帝国:聖寿五十年称慶記念章[6]
- 1904年(明治37年)5月7日 - 大韓帝国:勲一等太極大綬章[6]
- 1907年(明治40年)2月9日 - 大清帝国:頭等第三双竜宝星[6]
- 1909年(明治42年)12月18日 - イタリア王国:サンモーリスエラザル勲章第一等勲章[6]
- 1916年(大正7年)12月24日 - 支那共和国:一等宝光嘉禾章[6]
- 1923年(大正14年)10月1日 - イギリス帝国:聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイトグランドクロス[6]
- 1931年(昭和6年)4月28日 - 暹羅国:レレファンブラン勲章グランクロア[6]
- 1934年(昭和9年)
- 1935年(昭和10年)9月21日 - 満洲帝国:満洲帝国皇帝訪日記念章[6][16]
- 1937年(昭和12年)2月9日 - 満洲帝国:勲一位龍光大綬章[6]
- 1938年(昭和13年)6月28日 - 満洲帝国: 銀製花瓶一個[6]
著書
[編集]- 『林権助述 わが七十年を語る』 - 国立国会図書館デジタルコレクション - 第一書房、1935年(昭和10年)4月7日、2023年4月22日閲覧
- 改訂版『極東動乱 出先外交経験秘話―葛藤するロシア、中国、韓国、日本』書肆心水、2022年
親族
[編集]出典
[編集]- ^ a b 秦温信『北辰の如く関場不二彦伝』北海道出版企画センター、2011年。ISBN 978-4-8328-1103-4。256頁
- ^ a b 『官報』第3743号 1939年(昭和14年)6月29日 「叙任及辞令」
- ^ a b 星亮一『松江豊寿と会津武士道』2006年、ベストセラーズ(ベスト新書)、pp87-90、第三章 坂東俘虜収容所 韓国に派遣さる
- ^ 『官報』第7307号、明治40年11月5日。
- ^ “官報 第1,178号 大正5年7月5日 叙任及辞令”. 国立国会図書館. 2018年6月19日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak 「林権助」 アジア歴史資料センター Ref.A06051180000
- ^ 『官報』第2545号「叙任及辞令」1891年12月22日。
- ^ 『官報』第7394号「叙任及辞令」1908年2月22日。
- ^ 『官報』第8321号「叙任及辞令」1911年3月21日。
- ^ 『官報』第3235号「叙任及辞令」1923年5月15日。
- ^ 『官報』第4511号「叙任及辞令」1898年7月14日。
- ^ 『官報』第5848号「叙任及辞令」1902年12月29日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
- ^ 『官報』第7578号・付録「辞令」1908年9月28日。
- ^ 『官報』号外「授爵・叙任及辞令」1928年11月10日。
- ^ 『官報』第2725号「叙任及辞令」1936年2月4日。
- ^ 『会津会雑誌第29号』斎藤良衛「外務省に於ける会津人」
参考文献
[編集]- 杉井六郎「林権助」『日本近現代史辞典』東洋経済新報社、1978年。ISBN 978-4-492-01008-2
- 河村一夫「林権助」『国史大辞典 11』吉川弘文館、1990年。ISBN 978-4-642-00511-1
- 長岡新治郎「林権助」『新版 日本外交史辞典』山川出版社、1992年。ISBN 978-4-634-62200-5
- 馬渕貞利「林権助」『日本史大事典 5』平凡社、1993年。ISBN 978-4-582-13105-5
関連項目
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男爵 林(権助)家初代 1907年 - 1939年 |
次代 林安 |
官職 | ||
先代 重岡薫五郎 |
外務省通商局長 1898年 - 1899年 |
次代 杉村濬 |