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'''田中 耕一'''(たなか こういち、[[1959年]]昭和34年[[8月3日]] - )は、[[日本]]の[[化学者]][[エンジニア]]であ[[文化功労者]]、[[文化勲章]]、[[ノーベル化学賞]]受賞[[株式会社]][[島津製作所]][[フェロー]]田中耕一記念質量分析研究所所長、[[東京大学医科学研究所]][[客員教授]]、[[日本学士院]][[会員]]
'''田中 耕一'''(たなか こういち、[[1959年]]〈[[昭和]]34年[[8月3日]] - )は、[[日本]]の[[化学者]][[技術者]]。ソフトレーザーによる[[質量分析]]技術の開発により[[ノーベル化学賞]]受賞。株式会社[[島津製作所]][[フェロー|シニアフェロー]]田中耕一記念質量分析研究所所長、田中最先端研究所所長。[[東京大学医科学研究所]][[客員教授]]などにも就任している。[[東北大学]][[名誉博士]]。[[文化功労者]]、[[文化勲章]]受章者、[[日本学士院]]会員。


[[学位]]は[[学士(工学)|工学士]]([[東北大学]]・[[1983年]])であり、[[学士]]で唯一の[[ノーベル化学賞]]受賞者。ノーベル賞を受賞して以降も、血液一滴で病気の早期発見ができる技術の実用化に向けて活躍中である。
== 来歴 ==
[[1959年]](昭和34年)に[[富山県]][[富山市]]に生まれる。出生1ヵ月で実母が病死したため[[おじ|叔父]]の家で育てられる。その後、叔父の家に[[養子]]として迎えられる。兄弟は兄2人と姉がいる。


== 来歴・人物 ==
[[富山県立富山中部高等学校]]卒業後、[[東北大学]][[工学部]]へ進学(指導教授は[[安達三郎]]博士(現・東北大学名誉教授))。東北大学在学時に単位を落し1年間の留年生活を送る。大学卒業後は大学院へ進学せず[[ソニー]]の入社試験を受けるも不合格。就職先が決まらず安達の勧めで[[京都]]の[[島津製作所]]の入社試験を受け合格し島津製作所へ入社。
=== 幼少期 - 学生時代 ===
1959年(昭和34年)に[[富山県]][[富山市]]に生まれる。<!--[[学校法人]]本願寺学園徳風[[幼稚園]]、-->富山市立八人町小学校(現・[[富山市立芝園小学校]])において、4 - 6年次の担任である澤柿教誠から将来の基礎を育む理科教育を受ける{{Sfn|生涯最高の失敗|2003|p=24-25}}。[[富山市立芝園中学校]]、[[富山県立富山中部高等学校]]卒業。


[[東北大学]][[東北大学大学院工学研究科・工学部|工学部]]電気工学科に入学する。入学時に取り寄せた[[戸籍抄本]]で自身が[[養子]]であることを知り、そのショックも手伝って教養課程在籍時にいくつかの単位を取得できず1年間の留年生活を送った{{Sfn|生涯最高の失敗|2003|p=34-36}}。しかし、前倒しで専門の勉強に励んだため、卒業する頃には学科で上位1割の成績になっていた{{Sfn|生涯最高の失敗|2003|p=37-38}}。卒業研究の指導教官は安達三郎(現・東北大学名誉教授)で、[[電磁波]]や[[アンテナ]]工学を専攻した。大学時代のその他の活動については公にはあまり情報がないが、1年生から、東北[[大学生協|大学生活協同組合]]学生組織委員会に所属して、組合員の組織活動、情報宣伝、文化レクリエーション活動などを行った(その当時の記録も残されている)。大学卒業後は大学院に進学せず[[ソニー]]の入社試験を受けるも不合格。最初の[[面接]]失敗後に相談した安達の勧めで[[京都]]の[[島津製作所]]の入社試験を受け合格した。1983年3月東北大学卒業。
東北大学では電磁波、アンテナ工学を専攻していたが、島津製作所入社後は技術研究本部中央研究所に配属され化学分野の研究に従事する。[[1985年]](昭和60年)に[[たんぱく質]]などの質量分析を行う「ソフトレーザー脱着法」を開発。この研究開発が後のノーベル化学賞受賞につながる。[[英国]]クレイトスグループ、島津リサーチラボ出向を経て、[[2002年]](平成14年)に島津製作所ライフサイエンス研究所主任。


=== 島津製作所時代 ===
[[2002年]](平成14年)[[ノーベル化学賞]]受賞。受賞理由は「生体[[高分子]]の同定および構造解析のための手法の開発」。同年[[文化勲章]]受章、[[文化功労者]]となる。[[富山県]][[名誉県民]]、[[京都市]][[名誉市民]]、[[名誉博士]]([[東北大学]])などの[[称号]]も贈られている。
[[画像:Masatoshi Koshiba Junichiro Koizumi and Koichi Tanaka 20021011.jpg|200px|thumb|left|2002年10月11日、[[総理大臣官邸]]にて[[東京大学]]名誉教授[[小柴昌俊]](左)、[[内閣総理大臣]][[小泉純一郎]](中央)と]]
同1983年4月に島津製作所入社した後は技術研究本部中央研究所に配属され化学分野の技術研究に従事する。1985年(昭和60年)に[[タンパク質]]などの質量分析を行う「ソフトレーザー脱着法」を開発。この研究開発が後のノーベル化学賞受賞に繋がる。20回以上の[[見合い]]の後{{Sfn|生涯最高の失敗|2003|p=168}}、1995年に富山の同じ高校出身の女性{{Sfn|生涯最高の失敗|2003|p=211}}と見合い結婚する<ref>読売新聞2002年10月10日</ref><!--<ref>夫妻の間に子はいない。</ref>-->。[[イギリス|英国]]クレイトスグループ、島津リサーチラボ出向を経て、2002年(平成14年)に島津製作所ライフサイエンス研究所主任。


2002年<!--ノーベル賞は日本のものではないので和暦は不要 -->[[ノーベル化学賞]]受賞。受賞理由は「生体[[高分子]]の同定および構造解析のための手法の開発」。同年(平成14年)[[文化勲章]]受章、[[文化功労者]]となる。富山県[[名誉県民]]、京都市名誉市民、[[東北大学]][[名誉博士]]などの[[称号]]も贈られた。受賞当時は島津製作所に勤める[[会社員]]であり、「現役サラリーマン初のノーベル賞受賞」として日本国内で大きな話題となった。その後、同社のフェロー、田中耕一記念質量分析研究所所長に就任。
受賞当時は島津製作所に勤める[[会社員]]であり、会社員のノーベル賞受賞として日本国内で話題となった。


=== ノーベル賞受賞後の活躍 ===
既婚者で子はいない。
[[ファイル:Koichi Tanaka 2003.jpg|サムネイル|『[[小泉内閣メールマガジン]]』寄稿に際して[[内閣官房]]により公表された肖像写真]]
ノーベル賞受賞後は多くの講演やインタビューに答え、著書も出版した。日本学士院会員や[[京都大学]]等の客員教授等にも就任。研究開発の経緯やエンジニアとしての持論を語り、多くの人々に影響を与えた。


2009年からFIRSTプログラム(最先端研究開発支援プログラム<ref>[https://www.jsps.go.jp/j-first/ 日本学術振興会「最先端研究開発支援プログラム」]</ref>)プログラム「次世代質量分析システム開発と創薬・診断への貢献」に採択され、中心研究者として活躍。2013年の講演では「血液1滴から病気を早期発見できるようにするのが、私の実現可能な夢だ」と語っている<ref name=chuunichi2013/>。2011年には島津製作所の田中最先端研究所所長も兼任し、2013年には同社シニアフェローとなる。
== ノーベル賞受賞について ==
[[タンパク質]]を[[質量分析]]にかける場合、タンパク質を気化させ、かつ[[イオン化]]させる必要がある。しかし、タンパク質は気化しにくい物質であるため、イオン化の際は高エネルギーが必要である。しかし、高エネルギーをかけるとタンパク質は気化ではなく分解してしまうため、特に高分子量のタンパク質をイオン化することは困難であった。


== レーザーイオン化質量分析技術 ==
そこで、[[グリセリン|グリセロール]]と[[コバルト]]の混合物(マトリックス)を熱エネルギー緩衝材として使用したところ<ref>実は、「間違えて」グリセロールとコバルトを混ぜてしまい、「どうせ捨てるのも何だし」と実験したところ、見事に成功したという逸話がある。</ref>[[レーザー]]によりタンパク質を気化、検出することに世界で初めて成功した。この功績が評価され、彼の開発した方法を「ソフトレーザー脱離イオン化法」として、ノーベル賞が授与された。「レーザーイオン化質量分析計用試料作成方法」は、[[1985年]](昭和60年)に[[特許]]申請された。
=== 概要と経緯 ===
[[タンパク質]]を[[質量分析]]にかける場合、タンパク質を気化させ、かつ[[イオン化]]させる必要がある。しかし、タンパク質は気化しにくい物質であるため、イオン化の際は高エネルギーが必要である。しかし、高エネルギーを掛けるとタンパク質は気化ではなく分解してしまうため、特に高分子量のタンパク質をイオン化することは困難であった。


そこで、[[グリセリン|グリセロール]]と[[コバルト]]の混合物(マトリックス。[[:en:Matrix (mass spectrometry)|(en) matrix]])を熱エネルギー緩衝材として使用したところ、[[レーザー]]によりタンパク質を[[気化]]、検出することに世界で初めて成功した。なお「間違えて」グリセロールとコバルトを混ぜてしまい、「どうせ捨てるのも何だし」と実験したところ、見事に成功した{{Sfn|国立科学博物館||p=2}}。この「レーザーイオン化質量分析計用試料作成方法」は、1985年(昭和60年)に[[特許]]申請された。
現在、生命科学分野で広く利用されている「[[MALDI-TOF MS]]」は、田中らの発表とほぼ同時期に[[ドイツ]]人化学者(Hillenkamp、Karas)により発表された方法である。MALDI-TOF MSは、低分子化合物をマトリックスとして用いる点が田中らの方法と異なるが、より高感度にタンパク質を解析することができる。


現在、生命科学分野で広く利用されている「[[MALDI-TOF MS]]」は、田中らの発表とほぼ同時期に[[ドイツ]]人化学者のフランツ・ヒレンカンプ ([[w:Franz Hillenkamp|Franz Hillenkamp]]) とミヒャエル・カラス ([[w:Michael Karas|Michael Karas]]) により発表された方法である。MALDI-TOF MS は、低分子化合物をマトリックスとして用いる点が田中らの方法と異なっており、より高感度にタンパク質を解析することができる。
なお受賞に先立ち、[[1983年]](昭和58年)に卒業した出身校の[[東北大学]]から[[2002年]](平成14年)[[10月31日]]に名誉博士号が授与されたが、田中は自分は職人的科学者であるとして、ノーベル賞授賞式会場でも敬称にドクターではなく、ミスターを使うよう申し出たという経緯がある。電話による受賞の報が伝えられたとき「びっくり」([[ドッキリカメラ]]の意)だと思い本気にしなかったが、家の前に報道陣が大挙押し寄せやっと現実と考えた。


=== 評価とノーベル賞受賞 ===
田中は現場にいることを好んだため、昇進の話をたびたび拒み<ref>[[総合職]]であるため昇進するには[[営業]]など様々な部署を経験する必要があった。</ref>、ノーベル賞受賞時も島津製作所に於いては年齢的に不相応な主任という職にいた。しかし同賞受賞に伴い会社の業績に多大な功績を与えたため、島津製作所は特例で待遇を上げ、研究現場に留まれる「[[フェロー]]」という職位を新たに創設した。この時にも、会社は田中を取締役待遇フェローに遇しようとしたが、「急に待遇が上がるのは好ましくない」と田中が拒んだため、しばらくの間、部長待遇のフェローとなったという話もある(2003年1月より[[役員 (会社)#執行役員|執行役員]]待遇)。
上記の功績が評価され、田中の開発した方法を「ソフトレーザー脱離イオン化法」として、[[ノーベル化学賞]]を2002年に受賞する。貢献度は4分の1であった。
* [[ジョン・フェン|John B. Fenn]] (Prize share: 1/4)「for their development of soft desorption ionisation methods for mass spectrometric analyses of biological macromolecules」{{Sfn|Nobelprize.org|2002}}
*Koichi Tanaka (Prize share: 1/4)「for their development of soft desorption ionisation methods for mass spectrometric analyses of biological macromolecules」{{Sfn|Nobelprize.org|2002}}
* [[クルト・ヴュートリッヒ|Kurt Wüthrich]] (Prize share: 1/2)「for his development of nuclear magnetic resonance spectroscopy for determining the three-dimensional structure of biological macromolecules in solution」{{Sfn|Nobelprize.org|2002}}
なお、ノーベル賞受賞決定にあたり、何故ヒレンカンプやカラスではないのかという疑問の声が上がり、田中自身も自分が受賞するのを信じられなかった原因に挙げている{{Sfn|生涯最高の失敗|2003|p=61-62}}。経緯として、英語論文発表はヒレンカンプとカラスが早かったが、2人はそれ以前に田中が日本で行った学会発表を参考にしたと書いてあったため<ref>{{Cite report
|author = J. Handley, C. M. Harris
|title = GREAT IDEAS of a DECADE
|url = http://pubs.acs.org/doi/pdf/10.1021/ac012642q
|format = PDF
|accessdate = 2018-01-15
}}</ref>、田中の貢献が先と認められた{{Sfn|生涯最高の失敗|2003|p=62-65}}。


== 血液一滴で病気を早期発見する技術 ==
内閣府の[[総合科学技術会議]]にも参加し、日本の科学政策に影響を与える存在にまでなっている。
=== 原理や技術の概要 ===
体内では、侵入した抗原([[タンパク質]])と結合して[[抗体]](免疫物質)が作られる。抗体はY字形をしており、2本の腕のうち1本で抗原と結合する。この構造を人工的に改変し、根本部分に[[ポリエチレングリコール]]という弾力性を有する[[高分子化合物]]を挿入した。抗体の腕はこれをバネのようにして動き、2本同時に抗原と結合できるようにした。[[アルツハイマー病]]に関係する蛋白質の断片に対して実験したところ、通常の抗体より100倍以上強力に[[抗原]]をつかまえることができた<ref name=yomiuri2011>{{Cite news
|title = 血液一滴で病気診断…あの田中耕一さんらが成功
|date = 2011-11-09
|newspaper = 読売新聞
}}</ref>。


<!--蛋白質の表面に付着して機能を制御する鎖状の物質-->
== 田中耕一とマスメディア ==
その後、[[糖鎖]]の状態を簡単に分析できるようになり、[[ペプチド]]を選別することなくごく微量の混合物の状態から糖鎖の状態を調べられるようになる<ref name=jiji2012>{{Cite news
田中耕一の七三分けの髪型に作業服という外見、一介のサラリーマンでお見合い結婚という経歴、穏やかで朴訥とした言動は非常に多くの日本人の共感を呼び、連日連夜、[[マスメディア]]関係者が田中を追いかけ、インタビューをする。ワイドショーも騒ぐ。まるで[[芸能人]]の様な扱いを受け、「いいひと」と大衆からの人気を得る。
|url = https://web.archive.org/web/20120826024455/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120823-00000014-jij-soci
|title = がん早期診断に応用も=「糖鎖」簡単な分析法―ノーベル賞の田中さんら開発
|publisher = 時事通信
|date = 2012-08-23
|accessdate = 2014-06-29
}}</ref>。1mLの血液からアルツハイマー病の原因となる蛋白質を検出することに成功。未知の関連物質を8種類見つけることにもつながった{{Sfn|佐藤建仁|2014}}<ref name=chuunichi2013>{{Cite news
|author = 豊田直也
|url = http://iryou.chunichi.co.jp/article/detail/20130902132229674
|title = ノーベル賞・田中耕一さん 「病気早期発見 私の夢」
|date = 2013-08-31
|newspaper = 北陸中日新聞
|accessdate = 2014-06-29
}}</ref>。この技術はアルツハイマー病や[[前立腺癌|前立腺がん]]等、様々な病気の早期発見に貢献することが期待されている<ref name=jiji2012/>。


=== 研究開発の経過 ===
当時国内外共に明るいニュースが無かったため、田中の功績は大々的に取り上げられ、職人気質で物欲・出世欲・金銭欲が無い謙虚な人間性も皇室、財界、政界、学界、マスメディア、一般人など非常に広い世界で好意的に受け止められる。
2002年にノーベル賞を受賞したが、当初の技術は医療に役立つには感度が十分ではなかった{{Sfn|佐藤建仁|2014}}。2009年からFIRSTプログラム「次世代質量分析システム開発と創薬・診断への貢献」{{Sfn|FIRSTプログラム紹介| }}に採択され、5年間で約40億円の研究費を得て実用化に向けて大きく動き出した。約60人の体制で研究開発に取り組み、1年程で画期的な分析手法を開発、感度を最高1万倍にまで高めることに成功した{{Sfn|佐藤建仁|2014}}。


2011年11月の取材では「病気の早期診断や、抗体を用いた薬開発に結びつく技術」と答え、成果を2011年11月11日には日本学士院発行の英文ジャーナルの電子版に発表<ref name=yomiuri2011/>。2012年8月23日には、田中が客員教授を務める[[東京大学医科学研究所]]教授の清木元治らと、米科学誌プロス・ワンに発表した<ref name=jiji2012/>。
温厚な人柄で「善人の代名詞」とまでマスメディアは持ち上げたが、その後[[日本放送協会|NHK]]の田中耕一追跡取材では、連日連夜の記者の追いかけと、一人歩きする聖人のようなイメージに悩んだと打ち明けている。


2014年には血液から[[アルツハイマー病]]の原因物質を検出できる段階に達しており{{Sfn|佐藤建仁|2014}}<ref name=chuunichi2013/>。2014年4月からは、新たな態勢で実用化を目指している{{Sfn|佐藤建仁|2014}}。
[[鉄道ファン|鉄道好き]]で電車の運転席を眺めながら通勤することを日課としていたが、ノーベル賞受賞後はマスコミ取材の多さからタクシー通勤をしていた。また、ノーベル賞受賞後の上京時には、島津製作所からの出張費の関係で乗車できなかった[[新幹線500系電車|500系新幹線]]のグリーン車に乗れて嬉しいと記者団に答えた。


== ノーベル賞受賞の影響 ==
NHKから、[[第53回NHK紅白歌合戦|この年の紅白歌合戦]]に審査員として出演依頼されたが、「私は芸能人でも博士でもありません。」と辞退した。
=== 受賞に伴う騒動と余波 ===
会社で電話により受賞の報が伝えられたとき、「Nobel」「Congratulation」という単語を聞きながらも似たような海外の賞と思ったり、同僚による「ドッキリ」([[ドッキリ|ドッキリカメラ]]の意)と思っていたりしていた{{Sfn|生涯最高の失敗|2003|p=13}}。その後会社の隔離室に移動させられ、午後9時から報道陣が大挙して押し寄せた会見に臨むことになった。急な話だったので、背広の用意もヒゲを剃ることもできなかった{{Sfn|生涯最高の失敗|2003|p=15-16}}。なお、普段から白髪を染めていたが<ref>{{Cite journal|和書
|author = 田中裕子
|title = タクシーのラジオで聞いたビッグニュース わが家のノーベル賞騒動記
|journal = 婦人公論
|volume = 87
|number = 22
|pages = 70-73
|date = 2002-11-22
|naid = 40005473801
}}</ref>、受賞発表の1週間程前に理髪店で染め直していた{{Sfn|生涯最高の失敗|2003|p=16}}。


田中は[[鉄道ファン|鉄道好き]]で、電車([[京福電気鉄道嵐山本線|京福電鉄嵐山線(嵐電)]])の[[鉄道ファン#旅行・乗車|運転席を眺めながら]]通勤することを日課としていたが{{Sfn|生涯最高の失敗|2003|p=12}}、その晩は家に帰れず、タクシーでホテルに向かった{{Sfn|生涯最高の失敗|2003|p=17}}。受賞を実感したのは翌日の新聞で自分の顔を見てからと語っている{{Sfn|生涯最高の失敗|2003|p=18}}。また、ノーベル賞受賞後の出張時には、島津製作所からの出張費の関係で乗車できなかった[[新幹線500系電車|500系新幹線]]の[[グリーン車]]に乗れて嬉しいと記者団に答えた{{Sfn|生涯最高の失敗|2003|p=169}}。<!--
[[発光ダイオード#青色発光ダイオード|青色発光ダイオード]]の製法についての[[中村修二]]と[[日亜化学工業]]の訴訟については、田中耕一が引き合いに出されて、中村修二は貪欲であるという非難がなされたが、これについて田中耕一は、「自分の発明は会社の売り上げにあまり貢献しなかった」と状況が全く違うとして、中村修二を擁護する発言をしている。


受賞に先立ち、1983年(昭和58年)に卒業した出身校の[[東北大学]]から2002年(平成14年)10月31日に名誉博士号が授与されたが、田中は自分は職人的科学者であるとして、ノーベル賞授賞式会場でも敬称にドクターではなく、ミスターを使うよう申し出たという経緯がある。
ノーベル賞の授賞式の後は単独でマスメディアに出ることはほとんどなかったが、[[2010年]](平成22年)10月6日に[[鈴木章]]・[[根岸英一]]のノーベル化学賞受賞が決まった際には勤務先で会見に応じ、発表の生中継を見ていたことを明かした上で、「受賞から8年たち、次々と受賞者が出てきて、わたし自身、肩の荷を下ろすことができるのかと思う」と述べた。


田中は現場にいることを好んだため、昇進の話をたびたび拒み<ref>[[総合職]]であるため昇進するには営業など様々な部署を経験する必要があった。</ref>、ノーベル賞受賞時も島津製作所においては年齢的に不相応な主任という職にいた。しかし同賞受賞に伴い会社の業績に多大な功績を与えたため、島津製作所は特例で待遇を上げ、研究現場に留まれる「[[フェロー]]」という職位を新たに創設した。この時にも、会社は田中を取締役待遇フェローに遇しようとしたが、「急に待遇が上がるのは好ましくない」と田中が拒んだため、しばらくの間、部長待遇のフェローとなったという話もある(2003年1月より[[役員 (会社)#執行役員|執行役員]]待遇)。-->
ノーベル賞受賞時とは異なり白髪になっているが、もともと白髪が多く、[[2002年]](平成14年)の受賞当時、すでに白髪染めを使用していたことを夫人が明らかにしている(婦人公論2002年11月22日号)。


多くの講演やインタビューを受け、研究や技術者としてのあり方について自身の経験と持論を語った{{Sfn|生涯最高の失敗|2003}}{{Sfn|メカライフな人々|2006}}。内閣府の[[総合科学技術会議]]にも参加し、日本の科学政策に影響を与える存在にまでなっている。なお、ノーベル賞の授賞式の後は単独でマスメディアに出ることはほとんどなかったが、2010年(平成22年)10月6日に[[鈴木章]]・[[根岸英一]]のノーベル化学賞受賞が決まった際には勤務先で会見に応じ、発表の生中継を見ていたことを明かした上で、「受賞から8年経ち、次々と受賞者が出てきて、私自身、肩の荷を下ろすことができるのかと思う」と述べた<ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2010100600917 時事通信2010年10月6日]{{リンク切れ|date=2014年7月}}</ref><ref>[https://news.ntv.co.jp/category/society/168234 ノーベル賞受賞の2人を歴代受賞者が祝福] - 日テレNEWs24(2010年10月7日)</ref>。
== 略歴 ==
* [[1959年]](昭和34年) - 富山県富山市に生まれる。
* [[学校法人]]本願寺学園徳風[[幼稚園]]、富山市立八人町[[小学校]](現・富山市立芝園小学校)、[[富山市立芝園中学校]]、富山県立富山中部高等学校を卒業。
* [[1983年]](昭和58年)[[3月]] - 東北大学工学部電気工学科卒業([[ドイツ語]]の単位を落として1年[[留年]])、「工[[学士]](東北大学)」
* [[1983年]](昭和58年)[[4月]] - [[株式会社]][[島津製作所]]入社。
* [[1992年]](平成4年) - クレイトスグループ出向。
* [[1997年]](平成9年) - シマヅ・リサーチ・ラボラトリー・ヨーロッパ出向。
* [[1999年]](平成11年) - クラトスグループ出向。
* [[2002年]](平成14年)10月 - [[ノーベル化学賞]]受賞
* 2002年(平成14年) - 田中の母校である東北大学が「[[東北大学の人物一覧#名誉博士|東北大学名誉博士]]」の称号を授与。
* 2002年(平成14年)[[11月1日]] - 島津製作所 フェロー(部長待遇)に就任。
* [[2003年]](平成15年)1月 - 田中耕一記念質量分析研究所長(執行役員待遇)に就任。
* 2003年(平成15年)3月 - 富山県名誉県民。
* [[2005年]](平成17年)5月 - とやま科学技術大使に就任。
* [[2006年]](平成18年)12月12日 - [[日本学士院会員]]。


=== 田中耕一とマスメディア ===
* [[2004年]](平成14年)4月の時点で、以下の大学の[[客員教授]]。
ノーベル賞受賞時、田中耕一の[[七三分け]]の髪型に作業服という外見、一介のサラリーマンでお見合い結婚という経歴、穏やかで朴訥とした言動は非常に多くの日本人の共感を呼んだ。この年はNHK から[[第53回NHK紅白歌合戦|紅白歌合戦]]に審査員として出演依頼されたが「私は芸能人でも博士でもありません。」と辞退した<ref name=sponichi2002/>。
** [[愛媛大学]] 無細胞生命科学工学研究センター
** [[筑波大学]] 先端学際領域研究センター
** [[京都大学]] 国際融合創造センター
** [[東北大学]][[大学院]]工学研究科


一介のサラリーマンがノーベル賞という世界最高権威を授賞したこともさることながら、職人気質で謙虚な人間性も好意的に受け止められた。温厚な人柄で「善人の代名詞」とまでマスメディアは持ち上げたが、連日連夜の記者の追いかけと、一人歩きする聖人のようなイメージに悩んだと打ち明けている{{Sfn|生涯最高の失敗|2003|p=3-4}}。
* [[2008年]](平成20年)3月 - 京都大学の客員教授を退任。
* [[2009年]](平成21年)6月 - 東京大学医科学研究所客員教授(疾患プロテオミクスラボラトリー顧問)。
* [[2011年]](平成23年)12月 - 東京電力福島原子力発電所事故調査委員会(国会事故調)の委員に任命。


[[発光ダイオード#青色発光ダイオード|高輝度青色発光ダイオード]]を発明した[[中村修二]]と[[日亜化学工業]]の訴訟については、田中耕一が引き合いに出されて、中村修二は貪欲であるという非難がなされたが{{要出典|date=2017-04-04}}、これについて田中耕一は、「自分の発明は会社の売り上げにあまり貢献しなかった」と状況が全く違うとして、中村を擁護する発言をした<ref name="矢嶋英敏へのインタビュー(朝日新聞2002年11月23日)等">[[矢嶋英敏]]へのインタビュー(朝日新聞2002年11月23日)等</ref>。なお、[[島津製作所]]からの特許報酬自体は1万円程度であった<ref name="矢嶋英敏へのインタビュー(朝日新聞2002年11月23日)等"/>が、技術貢献に対する社内表彰はあり数十万円相当の報酬は受けた{{Sfn|生涯最高の失敗|2003|p=51}}。
== 賞歴 ==
* [[1989年]](平成元年) - 日本質量分析学会奨励賞。
* [[2002年]] (平成14年)- [[ノーベル化学賞]]。


== 栄典 ==
== 経歴 ==
=== 略歴 ===
* [[2002年]](平成14年) - [[文化功労者]]。
* 2002年(平成14 - [[文化勲章]]。
* 1959年(昭和34)8月3日 - 富山県富山市生まれ
* 1978年(昭和53年)3月 - 東北大学[[工学部]]入学。[[ドイツ語]]の単位を落として1年留年
* 1983年(昭和58年)3月 - 東北大学工学部電気工学科卒業、[[学士(工学)|工学士]]
* 1983年(昭和58年)4月 - 株式会社[[島津製作所]]入社
* 1992年(平成4年)1月 - [[イギリス]]、クレイトスグループ[[出向]]
* 1995年(平成7年)5月 - 富山県出身の女性と見合い結婚
* 1997年(平成9年)12月 - イギリス、シマヅ・リサーチ・ラボラトリー・ヨーロッパ出向
* 1999年(平成11年)12月 - イギリス、クラトスグループ出向
* 2002年(平成14年)
** 10月 - [[ノーベル化学賞]]受賞
** 11月1日 - 島津製作所 フェロー(部長待遇)就任
* 2003年(平成15年)1月 - 田中耕一記念質量分析研究所長(執行役員待遇)就任
* 2009年(平成21年)6月 - 東京大学医科学研究所客員教授(疾患プロテオミクスラボラトリー顧問)
* 2010年(平成22年)3月 - 田中最先端研究所 所長(兼任)<ref name=first_tanaka>{{Cite web|和書|url= http://www.first-ms3d.jp/message/tanaka/247.html |title=田中耕一(中心研究者/島津製作所 田中最先端研究所 所長)|work=次世代質量分析システム開発と創薬・診断への貢献|publisher=FIRSTプログラム|accessdate=2014-08-27}}</ref>
* 2012年(平成24年)6月 - 島津製作所 シニアフェロー就任<ref name=first_tanaka/>

=== 兼任 ===
* [[愛媛大学]] 無細胞生命科学工学研究センター
* [[筑波大学]] 先端学際領域研究センター
* [[京都大学]] 国際融合創造センター( - 2008年(平成20年)3月)
* [[東北大学]][[大学院]]工学研究科(2013年(平成25年)11月の時点)<ref name=first_tanaka/>
* [[東京大学医科学研究所]](2009年(平成21年)6月 - )<ref name=first_tanaka/>
* 日本学術会議 連携会員
* 文科省 科学技術・学術審議会 臨時委員
* 2005年(平成17年)5月 - とやま科学技術大使
* 2006年(平成18年)12月12日 - [[日本学士院会員]]
* 2011年(平成23年)12月 - [[東京電力福島原子力発電所事故調査委員会]](国会事故調)委員

=== 受賞・栄典 ===
[[画像:Masatoshi Koshiba Koichi Tanaka and Junichiro Koizumi 20030207.jpg|200px|thumb|2003年2月7日、[[総理大臣官邸]]にて[[東京大学]]名誉教授[[小柴昌俊]](左)と共に[[内閣総理大臣]][[小泉純一郎]](右)から内閣総理大臣感謝状を受領]]
* 1989年(平成元年)5月 - 日本質量分析学会 奨励賞
* 2002年(平成14年)11月 - [[文化勲章]]<ref name="mext">{{WAP|pid=286184|url=www.mext.go.jp/b_menu/houdou/18/10/06102302/003.htm|title=平成14年度 文化功労者及び文化勲章受章者(五十音順)−文部科学省|date=2009-10-25}}</ref>
* 2002年 (平成14年)12月 - [[ノーベル化学賞]]
* 2002年(平成14年) - [[文化功労者]]<ref name="mext"/>
* 2002年(平成14年) - [[東北大学の人物一覧#名誉博士|東北大学名誉博士]]
* 2003年(平成15年)3月 - 富山県名誉県民<ref>{{Cite web|和書|title=富山県の顕彰・表彰制度|website=富山県|url=https://www.pref.toyama.jp/1000/kensei/kenseiunei/kensei/gaiyou/kj00016339.html|accessdate=2022-08-02}}</ref>
* 2003年(平成15年) - 日本質量分析学会 特別賞<ref name=first_tanaka/>


== 著作 ==
== 著作 ==
=== 著書 ===
*『生涯最高の失敗』(朝日新聞社)ISBN 4022598360
*{{Cite book|和書|author=田中耕一|title=生涯最高の失敗|publisher=朝日新聞社|date=2003-09-25|isbn=4-02-259836-0|ref={{Sfnref|生涯最高の失敗|2003}} }}

=== 主な解説 ===
* {{Cite journal|和書|title=マトリックス支援レーザー脱離イオン化質量分析法|author=田中耕一|journal=ぶんせき|volume=256|pages=253-261|date=1996-04-05|naid=10001778161}}
* {{Cite journal|和書|title=良いスペクトルを得るために MALDI-TOFMS|author=田中耕一|journal=質量分析|volume=45|number=1|pages=113-121|date=1997-02-01|naid=10016280870}}
* {{Cite journal|和書|title=私のノーベル賞くたくた日記|author=田中耕一|journal=[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]|volume=81|number=2|date=2003-02|pages=112-124|naid=40005620427|ref={{Sfnref|私のノーベル賞くたくた日記|2003}} }}
* {{Cite book|title=LES PRIX NOBEL|publisher=Almqvist & Wiksell International (AWI)
|date=2003-10}}{{en icon}}
* {{Cite journal|和書|title=たんぱく質が壊れずに飛び出した!! ソフトレーザー脱離イオン化質量分析計開発の経緯|author=吉田多見男|author2=田中耕一|author3=井戸豊、秋田智史、吉田佳一|應用物理|volume=72|number=8|pages=999-1003|date=2003-08-10|naid=10011629142}}
*{{Cite press release|和書|author=田中耕一|title=質量分析:異分野と若手の力が活きている|url= http://www.first-ms3d.jp/files/140301_First_tanaka.pdf |date=2014-03-03}}

=== 主な論文 ===
* 「質量分析」『日本質量分析学会』 1997年 45巻 1号 p.113-121
* {{Cite journal|title=Detection of High Mass Molecules by Laser Desorption Time-of-Flight Mass Spectrometry|author=Koichi Tanaka,Yutaka Ido,Satoshi Akita,Yoshikazu Yoshida and Tamio Yoshida|journal=SECOND JAPAN-CHINA JOINT SYMPOSIUM ON MASS SPECTROMETRY ABSTRACT|date=1987|}}
* 吉田佳一、田中耕一、井戸豊、秋田智史、吉田多見男、[https://doi.org/10.5702/massspec.36.49 傾斜電界型イオンリフレクタによるTOF質量分析計の分解能の改善] Journal of the Mass Spectrometry Society of Japan. 1988年 36巻 2号 p.49-58, {{doi|10.5702/massspec.36.49}}
* {{Cite journal|和書|title=レーザー脱離TOF質量分析法による高質量分子イオンの検出|url=https://doi.org/10.5702/massspec.36.59|author=吉田多見男|author2=田中耕一|author3=井戸豊、秋田智史、吉田佳一|journal=質量分析|volume=36|number=2|pages=59‐69|date=1988|doi=10.5702/massspec.36.59}}
* Koichi Tanaka, Hiroaki Waki, Yutaka Ido, Satoshi Akita, Yoshikazu Yoshida, Tamio Yoshida, T. Matsuo. "Protein and polymer analyses up to m/z 100 000 by laser ionization time‐of‐flight mass spectrometry". Rapid Communications in Mass Spectrometry. August 1988, {{doi|10.1002/rcm.1290020802}}
<!--Detection of high mass molecular ions by laser desorption time‐of‐flight mass spectrometry-->
* {{Cite journal|title=Protein and polymer analyses up to m/z 100000 by laser ionization time-of flight mass spectrometry|author=Tanaka, K., Waki, H., Ido, Y., Akita, S., Yoshida, Y. and Yoshida, T.|journal=Rapid Commun.Mass Spectrom.|volume=2|date=1988|pages=151-153|}}
* Bunseki (1996), (4), 253-61 CODEN: BUNSD3; {{issn|0386-2178}}. Japanese.

=== 主な特許 ===
* 特許1769145(特許出願 昭60-183298、特許公開 昭62-043562、特許公告 平04-050982)発明者:吉田多見男、田中耕一、出願日:1985年8月21日<ref>{{Cite journal |和書|title=マトリックス支援レーザー脱離イオン化質量分析法 (MALDI-TOFMS)の開発とその歴史について|author=渡邉俊宏 |url=https://doi.org/10.24561/00014929 |doi=10.24561/00014929 |accessdate=2014-07-02}}</ref>)


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
{{Reflist|2|refs=
<ref name=sponichi2002>{{Cite web|和書
|url = https://web.archive.org/web/20021227095008/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/kiji/2002/12/26/02.html
|title = 田中さんは辞退…紅白審査員発表
|publisher = スポニチアネックス
|date = 2002-12-26
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20030207112501/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/kiji/2002/12/26/02.html
|archivedate = 2003-02-03
|accessdate = 2014-06-28
}}</ref>
}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* {{Cite journal|和書|title=ノーベル化学賞 田中耕一 島津製作所ライフサイエンス研究所主任 小さな発見にひそむ大きな重み|journal=[[日経サイエンス]]|date=2002-12|url= http://www.nikkei-science.com/page/magazine/0212/tanaka.html |accessdate=2014-07-02}}
{{参照方法|section=1|date=2010年9月}}
* {{Cite journal|和書|title=第3章 田中耕一フェローの軌跡 そして、新たなる挑戦|journal=Newton別冊「タンパク質がわかる本」|publisher=[[ニュートン (雑誌)|ニュートンプレス]]|date=2003-10-01|url= https://web.archive.org/web/20130807153146/http://newtonpress.co.jp/newton/bessatu/index.html }}
*私のノーベル賞くたくた日記 / 田中耕一、『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』2003年2月号
* {{Cite journal|和書|title=夫は作業服の似合う技術者に戻りました わが家のノーベル賞騒動、その後|author=田中裕子|journal=婦人公論|volume=88|number=23|pages=152-154|date=2003-12-07|naid=40006005906}}
*「ノーベル賞に輝いたエンジニア —田中耕一」([http://www.amazon.co.jp/dp/483151313X/ 『技術者という生き方 ―発見!しごと偉人』][[上山明博]] 著、ぺりかん社、2012年 所収)
* {{Cite journal|和書|title=INCHEM TOKYO 2003 その他3展示会共同開催 特別講演(抜粋) - ソフトレーザー脱離イオン化法の起源と発展|journal=化学工学|volume=68|number=2|pages=116-117|date=2004-02-05|naid=10013443062}}
* {{Cite journal|和書|title=メカライフな人々No.13 株式会社島津製作所 フェロー 田中耕一 氏|url= http://www.jsme.or.jp/mechalife/jp/student/interview/0603.pdf |author=メカライフ編集委員会学生委員インタビュー|日本機械学会誌|volume=109|number=1048|pages=198-201|date=2006-03-05|naid=110004659084|format=PDF|accessdate=2014-06-29|ref={{Sfnref|メカライフな人々|2006}} }}
* {{Cite news|title=「血液一滴で診断」近づく夢 田中耕一さん、実用化挑む|author=佐藤建仁|date=2014-04-03|newspaper=朝日新聞デジタル|url= https://web.archive.org/web/20140501060834/http://www.asahi.com/articles/ASG350BYNG34PLBJ007.html |accessdate=2014-06-28|ref=harv}}
*「ノーベル賞に輝いたエンジニア、田中耕一」([http://www.perikansha.co.jp/Search.cgi?mode=SHOW&code=1000001599 『技術者という生き方―発見!しごと偉人』][[上山明博]]、ぺりかん社、2012年)
*「田中耕一」([https://www.amazon.co.jp/dp/B00KBK4S34 『ニッポン発明物語』][[上山明博]]、Kindle版、2014年)

== 関連項目 ==
* [[東北大学]]、[[電気工学]]、[[電磁波]]
* [[島津製作所]]、[[高分子]]、[[蛋白質]]、[[アルツハイマー病]]、[[癌]]
* [[ノーベル賞]]、[[ノーベル化学賞]]、[[日本人のノーベル賞受賞者]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
*[http://www.shimadzu.co.jp/aboutus/ms_r/ 田中耕一記念質量分析研究所]
* {{Cite web|和書|url=https://www.shimadzu.co.jp/aboutus/ms_r/ |title=田中耕一記念質量分析研究所|publisher=[[島津製作所]]|accessdate=2014-06-29}}
**[http://www.shimadzu.co.jp/aboutus/ms_r/nobel/profile.html 田中耕一 経歴]
**{{Cite web|和書|url=https://www.shimadzu.co.jp/aboutus/ms_r/nobel/profile.html |title=略歴|publisher=田中耕一ノーベル賞関連情報|accessdate=2014-06-29}}
**{{Cite web|和書|url=https://www.shimadzu.co.jp/aboutus/ms_r/nobel/research.html |title=当社研究員 田中耕一の製品開発軌跡|publisher=田中耕一ノーベル賞関連情報|accessdate=2014-06-29}}
*[http://www.geocities.co.jp/Technopolis/9654/database/tanaka.html 田中耕一関連用語集]
* [http://www.japan-acad.go.jp/japanese/members/5/tanaka_koichi.html 会員個人情報日本学士院]
* {{Cite web|和書|url=https://www.japan-acad.go.jp/japanese/members/5/tanaka_koichi.html |title=会員個人情報(第5分科)田中耕一|publisher=日本学士院|accessdate=2014-06-29}}
;血液一滴で病気を早期診断
* {{Cite web|和書|title=最先端研究開発支援プログラム「次世代質量分析システム開発と創薬・診断への貢献」|url= https://www.shimadzu.co.jp/aboutus/ms_r/archive.html |publisher=FIRSTプログラム|accessdate=2014-06-29}}
;ノーベル賞関連
* {{Cite web|url=http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/chemistry/laureates/2002/|title=The Nobel Prize in Chemistry 2002|publisher=Nobelprize.org|accessdate=2014-06-29|ref={{Sfnref|Nobelprize.org|2002}} }}{{en icon}}
* {{Cite web|和書|url=https://www.shimadzu.co.jp/aboutus/ms_r/nobel/index.html|title=田中耕一 ノーベル賞受賞関連情報|publisher=[[島津製作所]]|accessdate=2014-07-02}}
* {{Cite web|和書|url=https://www.kahaku.go.jp/exhibitions/tour/nobel/tanaka/p1.html|title=科学系ノーベル賞日本人受賞者9人の偉業「2002年田中耕一ノーベル化学賞」|publisher=[[国立科学博物館]]|accessdate=2014-06-29|ref={{Sfnref|国立科学博物館| }} }}
* {{NHK放送史|D0009030312_00000|小柴さん・田中さんノーベル賞受賞}}
;取材・講演動画
* {{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=DW2x7qIUENs |title=サイエンスのこ・れ・か・ら(3) 田中耕一 島津製作所フェロー|date=2014-02-16|author=[[科学技術振興機構|jstsciencechannel]]|publisher=[[YouTube]]|accessdate=2014-08-27}}(2002年制作)
* {{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=A5JlnjOFWnY |title=吾輩はノーベルである(4) 田中耕一 江崎玲於奈~企業研究者として社会に貢献~|date=2014-04-22|author=jstsciencechannel|publisher=YouTube|accessdate=2014-08-27}} (2009年制作)


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[[Category:東京大学の教員]]
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[[Category:愛媛大学の教員]]
[[Category:愛媛大学の教員]]
[[Category:東京大学医科学研究所の人物]]
[[Category:東京大学医科学研究所の人物]]
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[[Category:日本学術会議連携会員]]
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[[Category:富山県出身の人物]]
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[[Category:存命人物]]

[[ar:كويتشي تاناكا]]
[[ca:Koichi Tanaka]]
[[de:Kōichi Tanaka]]
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[[pnb:کوئچی تاناکا]]
[[pt:Koichi Tanaka]]
[[ro:Koichi Tanaka]]
[[ru:Танака, Коити]]
[[sl:Koiči Tanaka]]
[[sr:Коичи Танака]]
[[sv:Koichi Tanaka]]
[[sw:Koichi Tanaka]]
[[uk:Танака Коїті]]
[[yo:Koichi Tanaka]]
[[zh:田中耕一]]

2024年6月16日 (日) 19:35時点における最新版

田中 耕一
(たなか こういち)
日本学士院により公表された肖像写真
生誕 (1959-08-03) 1959年8月3日(65歳)
日本の旗 富山県富山市
居住 日本の旗 日本
国籍 日本の旗 日本
研究分野 化学
工学
研究機関 島津製作所
クラトスグループ
シマヅ・リサーチ・ラボラトリー・ヨーロッパ
出身校 東北大学工学部電気工学科
指導教員 澤柿教誠
安達三郎
主な業績 生体高分子の同定と構造解析
ソフトレーザー脱離イオン化法
血液一滴による病気早期診断
影響を
受けた人物
窪寺俊也
松尾清
ロバート・J・コッター
影響を
与えた人物
フランツ・ヒーレンカンプ
ミヒャエル・カラス
主な受賞歴 日本質量分析学会奨励賞
ノーベル化学賞(2002年)
日本質量分析学会特別賞
プロジェクト:人物伝
テンプレートを表示
ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:2002年
受賞部門:ノーベル化学賞
受賞理由:生体高分子の同定および構造解析のための手法の開発

田中 耕一(たなか こういち、1959年昭和34年〉8月3日 - )は、日本化学者技術者。ソフトレーザーによる質量分析技術の開発によりノーベル化学賞受賞。株式会社島津製作所シニアフェロー、田中耕一記念質量分析研究所所長、田中最先端研究所所長。東京大学医科学研究所客員教授などにも就任している。東北大学名誉博士文化功労者文化勲章受章者、日本学士院会員。

学位工学士東北大学1983年)であり、学士で唯一のノーベル化学賞受賞者。ノーベル賞を受賞して以降も、血液一滴で病気の早期発見ができる技術の実用化に向けて活躍中である。

来歴・人物

[編集]

幼少期 - 学生時代

[編集]

1959年(昭和34年)に富山県富山市に生まれる。富山市立八人町小学校(現・富山市立芝園小学校)において、4 - 6年次の担任である澤柿教誠から将来の基礎を育む理科教育を受ける[1]富山市立芝園中学校富山県立富山中部高等学校卒業。

東北大学工学部電気工学科に入学する。入学時に取り寄せた戸籍抄本で自身が養子であることを知り、そのショックも手伝って教養課程在籍時にいくつかの単位を取得できず1年間の留年生活を送った[2]。しかし、前倒しで専門の勉強に励んだため、卒業する頃には学科で上位1割の成績になっていた[3]。卒業研究の指導教官は安達三郎(現・東北大学名誉教授)で、電磁波アンテナ工学を専攻した。大学時代のその他の活動については公にはあまり情報がないが、1年生から、東北大学生活協同組合学生組織委員会に所属して、組合員の組織活動、情報宣伝、文化レクリエーション活動などを行った(その当時の記録も残されている)。大学卒業後は大学院に進学せずソニーの入社試験を受けるも不合格。最初の面接失敗後に相談した安達の勧めで京都島津製作所の入社試験を受け合格した。1983年3月東北大学卒業。

島津製作所時代

[編集]
2002年10月11日、総理大臣官邸にて東京大学名誉教授小柴昌俊(左)、内閣総理大臣小泉純一郎(中央)と

同1983年4月に島津製作所入社した後は技術研究本部中央研究所に配属され化学分野の技術研究に従事する。1985年(昭和60年)にタンパク質などの質量分析を行う「ソフトレーザー脱着法」を開発。この研究開発が後のノーベル化学賞受賞に繋がる。20回以上の見合いの後[4]、1995年に富山の同じ高校出身の女性[5]と見合い結婚する[6]英国クレイトスグループ、島津リサーチラボ出向を経て、2002年(平成14年)に島津製作所ライフサイエンス研究所主任。

2002年ノーベル化学賞受賞。受賞理由は「生体高分子の同定および構造解析のための手法の開発」。同年(平成14年)文化勲章受章、文化功労者となる。富山県名誉県民、京都市名誉市民、東北大学名誉博士などの称号も贈られた。受賞当時は島津製作所に勤める会社員であり、「現役サラリーマン初のノーベル賞受賞」として日本国内で大きな話題となった。その後、同社のフェロー、田中耕一記念質量分析研究所所長に就任。

ノーベル賞受賞後の活躍

[編集]
小泉内閣メールマガジン』寄稿に際して内閣官房により公表された肖像写真

ノーベル賞受賞後は多くの講演やインタビューに答え、著書も出版した。日本学士院会員や京都大学等の客員教授等にも就任。研究開発の経緯やエンジニアとしての持論を語り、多くの人々に影響を与えた。

2009年からFIRSTプログラム(最先端研究開発支援プログラム[7])プログラム「次世代質量分析システム開発と創薬・診断への貢献」に採択され、中心研究者として活躍。2013年の講演では「血液1滴から病気を早期発見できるようにするのが、私の実現可能な夢だ」と語っている[8]。2011年には島津製作所の田中最先端研究所所長も兼任し、2013年には同社シニアフェローとなる。

レーザーイオン化質量分析技術

[編集]

概要と経緯

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タンパク質質量分析にかける場合、タンパク質を気化させ、かつイオン化させる必要がある。しかし、タンパク質は気化しにくい物質であるため、イオン化の際は高エネルギーが必要である。しかし、高エネルギーを掛けるとタンパク質は気化ではなく分解してしまうため、特に高分子量のタンパク質をイオン化することは困難であった。

そこで、グリセロールコバルトの混合物(マトリックス。(en) matrix)を熱エネルギー緩衝材として使用したところ、レーザーによりタンパク質を気化、検出することに世界で初めて成功した。なお「間違えて」グリセロールとコバルトを混ぜてしまい、「どうせ捨てるのも何だし」と実験したところ、見事に成功した[9]。この「レーザーイオン化質量分析計用試料作成方法」は、1985年(昭和60年)に特許申請された。

現在、生命科学分野で広く利用されている「MALDI-TOF MS」は、田中らの発表とほぼ同時期にドイツ人化学者のフランツ・ヒレンカンプ (Franz Hillenkamp) とミヒャエル・カラス (Michael Karas) により発表された方法である。MALDI-TOF MS は、低分子化合物をマトリックスとして用いる点が田中らの方法と異なっており、より高感度にタンパク質を解析することができる。

評価とノーベル賞受賞

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上記の功績が評価され、田中の開発した方法を「ソフトレーザー脱離イオン化法」として、ノーベル化学賞を2002年に受賞する。貢献度は4分の1であった。

  • John B. Fenn (Prize share: 1/4)「for their development of soft desorption ionisation methods for mass spectrometric analyses of biological macromolecules」[10]
  • Koichi Tanaka (Prize share: 1/4)「for their development of soft desorption ionisation methods for mass spectrometric analyses of biological macromolecules」[10]
  • Kurt Wüthrich (Prize share: 1/2)「for his development of nuclear magnetic resonance spectroscopy for determining the three-dimensional structure of biological macromolecules in solution」[10]

なお、ノーベル賞受賞決定にあたり、何故ヒレンカンプやカラスではないのかという疑問の声が上がり、田中自身も自分が受賞するのを信じられなかった原因に挙げている[11]。経緯として、英語論文発表はヒレンカンプとカラスが早かったが、2人はそれ以前に田中が日本で行った学会発表を参考にしたと書いてあったため[12]、田中の貢献が先と認められた[13]

血液一滴で病気を早期発見する技術

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原理や技術の概要

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体内では、侵入した抗原(タンパク質)と結合して抗体(免疫物質)が作られる。抗体はY字形をしており、2本の腕のうち1本で抗原と結合する。この構造を人工的に改変し、根本部分にポリエチレングリコールという弾力性を有する高分子化合物を挿入した。抗体の腕はこれをバネのようにして動き、2本同時に抗原と結合できるようにした。アルツハイマー病に関係する蛋白質の断片に対して実験したところ、通常の抗体より100倍以上強力に抗原をつかまえることができた[14]

その後、糖鎖の状態を簡単に分析できるようになり、ペプチドを選別することなくごく微量の混合物の状態から糖鎖の状態を調べられるようになる[15]。1mLの血液からアルツハイマー病の原因となる蛋白質を検出することに成功。未知の関連物質を8種類見つけることにもつながった[16][8]。この技術はアルツハイマー病や前立腺がん等、様々な病気の早期発見に貢献することが期待されている[15]

研究開発の経過

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2002年にノーベル賞を受賞したが、当初の技術は医療に役立つには感度が十分ではなかった[16]。2009年からFIRSTプログラム「次世代質量分析システム開発と創薬・診断への貢献」[17]に採択され、5年間で約40億円の研究費を得て実用化に向けて大きく動き出した。約60人の体制で研究開発に取り組み、1年程で画期的な分析手法を開発、感度を最高1万倍にまで高めることに成功した[16]

2011年11月の取材では「病気の早期診断や、抗体を用いた薬開発に結びつく技術」と答え、成果を2011年11月11日には日本学士院発行の英文ジャーナルの電子版に発表[14]。2012年8月23日には、田中が客員教授を務める東京大学医科学研究所教授の清木元治らと、米科学誌プロス・ワンに発表した[15]

2014年には血液からアルツハイマー病の原因物質を検出できる段階に達しており[16][8]。2014年4月からは、新たな態勢で実用化を目指している[16]

ノーベル賞受賞の影響

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受賞に伴う騒動と余波

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会社で電話により受賞の報が伝えられたとき、「Nobel」「Congratulation」という単語を聞きながらも似たような海外の賞と思ったり、同僚による「ドッキリ」(ドッキリカメラの意)と思っていたりしていた[18]。その後会社の隔離室に移動させられ、午後9時から報道陣が大挙して押し寄せた会見に臨むことになった。急な話だったので、背広の用意もヒゲを剃ることもできなかった[19]。なお、普段から白髪を染めていたが[20]、受賞発表の1週間程前に理髪店で染め直していた[21]

田中は鉄道好きで、電車(京福電鉄嵐山線(嵐電))の運転席を眺めながら通勤することを日課としていたが[22]、その晩は家に帰れず、タクシーでホテルに向かった[23]。受賞を実感したのは翌日の新聞で自分の顔を見てからと語っている[24]。また、ノーベル賞受賞後の出張時には、島津製作所からの出張費の関係で乗車できなかった500系新幹線グリーン車に乗れて嬉しいと記者団に答えた[25]

多くの講演やインタビューを受け、研究や技術者としてのあり方について自身の経験と持論を語った[26][27]。内閣府の総合科学技術会議にも参加し、日本の科学政策に影響を与える存在にまでなっている。なお、ノーベル賞の授賞式の後は単独でマスメディアに出ることはほとんどなかったが、2010年(平成22年)10月6日に鈴木章根岸英一のノーベル化学賞受賞が決まった際には勤務先で会見に応じ、発表の生中継を見ていたことを明かした上で、「受賞から8年経ち、次々と受賞者が出てきて、私自身、肩の荷を下ろすことができるのかと思う」と述べた[28][29]

田中耕一とマスメディア

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ノーベル賞受賞時、田中耕一の七三分けの髪型に作業服という外見、一介のサラリーマンでお見合い結婚という経歴、穏やかで朴訥とした言動は非常に多くの日本人の共感を呼んだ。この年はNHK から紅白歌合戦に審査員として出演依頼されたが「私は芸能人でも博士でもありません。」と辞退した[30]

一介のサラリーマンがノーベル賞という世界最高権威を授賞したこともさることながら、職人気質で謙虚な人間性も好意的に受け止められた。温厚な人柄で「善人の代名詞」とまでマスメディアは持ち上げたが、連日連夜の記者の追いかけと、一人歩きする聖人のようなイメージに悩んだと打ち明けている[31]

高輝度青色発光ダイオードを発明した中村修二日亜化学工業の訴訟については、田中耕一が引き合いに出されて、中村修二は貪欲であるという非難がなされたが[要出典]、これについて田中耕一は、「自分の発明は会社の売り上げにあまり貢献しなかった」と状況が全く違うとして、中村を擁護する発言をした[32]。なお、島津製作所からの特許報酬自体は1万円程度であった[32]が、技術貢献に対する社内表彰はあり数十万円相当の報酬は受けた[33]

経歴

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略歴

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  • 1959年(昭和34年)8月3日 - 富山県富山市生まれ
  • 1978年(昭和53年)3月 - 東北大学工学部入学。ドイツ語の単位を落として1年留年
  • 1983年(昭和58年)3月 - 東北大学工学部電気工学科卒業、工学士
  • 1983年(昭和58年)4月 - 株式会社島津製作所入社
  • 1992年(平成4年)1月 - イギリス、クレイトスグループ出向
  • 1995年(平成7年)5月 - 富山県出身の女性と見合い結婚
  • 1997年(平成9年)12月 - イギリス、シマヅ・リサーチ・ラボラトリー・ヨーロッパ出向
  • 1999年(平成11年)12月 - イギリス、クラトスグループ出向
  • 2002年(平成14年)
  • 2003年(平成15年)1月 - 田中耕一記念質量分析研究所長(執行役員待遇)就任
  • 2009年(平成21年)6月 - 東京大学医科学研究所客員教授(疾患プロテオミクスラボラトリー顧問)
  • 2010年(平成22年)3月 - 田中最先端研究所 所長(兼任)[34]
  • 2012年(平成24年)6月 - 島津製作所 シニアフェロー就任[34]

兼任

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受賞・栄典

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2003年2月7日、総理大臣官邸にて東京大学名誉教授小柴昌俊(左)と共に内閣総理大臣小泉純一郎(右)から内閣総理大臣感謝状を受領

著作

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著書

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  • 田中耕一『生涯最高の失敗』朝日新聞社、2003年9月25日。ISBN 4-02-259836-0 

主な解説

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  • 田中耕一「マトリックス支援レーザー脱離イオン化質量分析法」『ぶんせき』第256巻、1996年4月5日、253-261頁、NAID 10001778161 
  • 田中耕一「良いスペクトルを得るために MALDI-TOFMS」『質量分析』第45巻第1号、1997年2月1日、113-121頁、NAID 10016280870 
  • 田中耕一「私のノーベル賞くたくた日記」『文藝春秋』第81巻第2号、2003年2月、112-124頁、NAID 40005620427 
  • LES PRIX NOBEL. Almqvist & Wiksell International (AWI). (2003-10) (英語)
  • 吉田多見男、田中耕一、井戸豊、秋田智史、吉田佳一「たんぱく質が壊れずに飛び出した!! ソフトレーザー脱離イオン化質量分析計開発の経緯」第72巻第8号、2003年8月10日、NAID 10011629142 
  • 田中耕一『質量分析:異分野と若手の力が活きている』(プレスリリース)2014年3月3日http://www.first-ms3d.jp/files/140301_First_tanaka.pdf 

主な論文

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  • 「質量分析」『日本質量分析学会』 1997年 45巻 1号 p.113-121
  • Koichi Tanaka,Yutaka Ido,Satoshi Akita,Yoshikazu Yoshida and Tamio Yoshida (1987). “Detection of High Mass Molecules by Laser Desorption Time-of-Flight Mass Spectrometry”. SECOND JAPAN-CHINA JOINT SYMPOSIUM ON MASS SPECTROMETRY ABSTRACT. 
  • 吉田佳一、田中耕一、井戸豊、秋田智史、吉田多見男、傾斜電界型イオンリフレクタによるTOF質量分析計の分解能の改善 Journal of the Mass Spectrometry Society of Japan. 1988年 36巻 2号 p.49-58, doi:10.5702/massspec.36.49
  • 吉田多見男、田中耕一、井戸豊、秋田智史、吉田佳一「レーザー脱離TOF質量分析法による高質量分子イオンの検出」『質量分析』第36巻第2号、1988年、59‐69、doi:10.5702/massspec.36.59 
  • Koichi Tanaka, Hiroaki Waki, Yutaka Ido, Satoshi Akita, Yoshikazu Yoshida, Tamio Yoshida, T. Matsuo. "Protein and polymer analyses up to m/z 100 000 by laser ionization time‐of‐flight mass spectrometry". Rapid Communications in Mass Spectrometry. August 1988, doi:10.1002/rcm.1290020802
  • Tanaka, K., Waki, H., Ido, Y., Akita, S., Yoshida, Y. and Yoshida, T. (1988). “Protein and polymer analyses up to m/z 100000 by laser ionization time-of flight mass spectrometry”. Rapid Commun.Mass Spectrom. 2: 151-153. 
  • Bunseki (1996), (4), 253-61 CODEN: BUNSD3; ISSN 0386-2178. Japanese.

主な特許

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  • 特許1769145(特許出願 昭60-183298、特許公開 昭62-043562、特許公告 平04-050982)発明者:吉田多見男、田中耕一、出願日:1985年8月21日[37]

脚注

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  1. ^ 生涯最高の失敗 2003, p. 24-25.
  2. ^ 生涯最高の失敗 2003, p. 34-36.
  3. ^ 生涯最高の失敗 2003, p. 37-38.
  4. ^ 生涯最高の失敗 2003, p. 168.
  5. ^ 生涯最高の失敗 2003, p. 211.
  6. ^ 読売新聞2002年10月10日
  7. ^ 日本学術振興会「最先端研究開発支援プログラム」
  8. ^ a b c 豊田直也 (2013年8月31日). “ノーベル賞・田中耕一さん 「病気早期発見 私の夢」”. 北陸中日新聞. http://iryou.chunichi.co.jp/article/detail/20130902132229674 2014年6月29日閲覧。 
  9. ^ 国立科学博物館, p. 2.
  10. ^ a b c Nobelprize.org 2002.
  11. ^ 生涯最高の失敗 2003, p. 61-62.
  12. ^ J. Handley, C. M. Harris. GREAT IDEAS of a DECADE (PDF) (Report). 2018年1月15日閲覧
  13. ^ 生涯最高の失敗 2003, p. 62-65.
  14. ^ a b “血液一滴で病気診断…あの田中耕一さんらが成功”. 読売新聞. (2011年11月9日) 
  15. ^ a b c “がん早期診断に応用も=「糖鎖」簡単な分析法―ノーベル賞の田中さんら開発”. 時事通信. (2012年8月23日). https://web.archive.org/web/20120826024455/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120823-00000014-jij-soci 2014年6月29日閲覧。 
  16. ^ a b c d e 佐藤建仁 2014.
  17. ^ FIRSTプログラム紹介.
  18. ^ 生涯最高の失敗 2003, p. 13.
  19. ^ 生涯最高の失敗 2003, p. 15-16.
  20. ^ 田中裕子「タクシーのラジオで聞いたビッグニュース わが家のノーベル賞騒動記」『婦人公論』第87巻第22号、2002年11月22日、70-73頁、NAID 40005473801 
  21. ^ 生涯最高の失敗 2003, p. 16.
  22. ^ 生涯最高の失敗 2003, p. 12.
  23. ^ 生涯最高の失敗 2003, p. 17.
  24. ^ 生涯最高の失敗 2003, p. 18.
  25. ^ 生涯最高の失敗 2003, p. 169.
  26. ^ 生涯最高の失敗 2003.
  27. ^ メカライフな人々 2006.
  28. ^ 時事通信2010年10月6日[リンク切れ]
  29. ^ ノーベル賞受賞の2人を歴代受賞者が祝福 - 日テレNEWs24(2010年10月7日)
  30. ^ 田中さんは辞退…紅白審査員発表”. スポニチアネックス (2002年12月26日). 2003年2月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月28日閲覧。
  31. ^ 生涯最高の失敗 2003, p. 3-4.
  32. ^ a b 矢嶋英敏へのインタビュー(朝日新聞2002年11月23日)等
  33. ^ 生涯最高の失敗 2003, p. 51.
  34. ^ a b c d e 田中耕一(中心研究者/島津製作所 田中最先端研究所 所長)”. 次世代質量分析システム開発と創薬・診断への貢献. FIRSTプログラム. 2014年8月27日閲覧。
  35. ^ a b 平成14年度 文化功労者及び文化勲章受章者(五十音順)−文部科学省(2009年10月25日アーカイブ) - 国立国会図書館Web Archiving Project
  36. ^ 富山県の顕彰・表彰制度”. 富山県. 2022年8月2日閲覧。
  37. ^ 渡邉俊宏「マトリックス支援レーザー脱離イオン化質量分析法 (MALDI-TOFMS)の開発とその歴史について」、doi:10.24561/000149292014年7月2日閲覧 

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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血液一滴で病気を早期診断
ノーベル賞関連
取材・講演動画