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「高瀬神社 (守口市)」の版間の差分

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== 祭神 ==
'''高瀬神社'''(たかせじんじゃ)は、[[大阪府]][[守口市]]にある[[神社]]である。[[式内社]]で、旧社格は[[村社]]。
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==祭神==
== 歴史 ==
社伝では、[[聖武天皇]]の勅願で[[行基]]によって高瀬里に創建されたものであるとする。ただし、主祭神の[[天之御中主神]]は当時の主神[[天照大神]]よりも古い神であることからもう少し時代を遡るとする説もある。現に、当社の付近から出土した流水文様の[[弥生式土器]]は西暦紀元前後の土器と推定され、この地では約二千年も前から祭祀が行われていたと推測されている<ref name="高瀬神社">[https://osakadai3shibu.kilo.jp/jinja/moriguti/jinja/takase.html 大阪府神社庁 第三支部 高瀬神社]</ref>。
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行基年譜によれば行基は高瀬付近で高瀬川([[淀川]]旧流に架けた[[高瀬大橋]]、橋を管理する高瀬橋院([[行基四十九院]]の一つ、[[高瀬寺]]。[[華厳宗]]。現在は[[浄土宗]]の[[常称寺]]に縁起が伝えられている。現在の高瀬寺とは異なるとされる)を建立、当時の淀川南流現在の[[古川]]筋から高瀬川へ通ずる運河大庭溝を開いており、高瀬寺は社の[[宮寺]]としても機能したものらしい。[[昭和]]30年代には高瀬寺跡から[[飛鳥時代]]の古瓦が出土しており、[[聖徳太子]]が建立したとされる[[茨田寺]]がこれで、高瀬寺はその跡に創建されたのではないかとの説もある([[守口市]]史本文編第1巻・昭和38年刊)。
==由緒==
*社伝では[[聖武天皇]]の勅願により[[行基]]が高瀬里に鎮座したものとされる。ただし、主祭神の天之御中主神は当時の主神[[天照大神]]よりも古い神である事からもう少し時代を遡るとする説もある。
*行基年譜によれば[[行基]]は高瀬付近で高瀬川(淀川旧流)に架けた[[高瀬大橋]]、橋を管理する[[高瀬橋院]]([[行基四十九院]]の一つ、[[高瀬寺]]。[[華厳宗]]。現在は[[浄土宗]]の[[常称寺]]に縁起が伝えられている。現在の高瀬寺とは異なるとされる)を建立、当時の淀川南流(現在の[[古川]]筋)から高瀬川へ通ずる運河[[大庭溝]]を開いており、高瀬寺は高瀬神社の[[宮寺]]としても機能したものらしい。昭和30年代には高瀬寺跡から[[飛鳥時代]]の古瓦が出土しており、[[聖徳太子]]が建立したとされる[[茨田寺]]がこれで、高瀬寺はその跡に創建されたのではないかとの説もある。(守口市史本文編第1巻・昭和38年刊)
*[[延暦]]4年([[785年]]):[[早良親王]]が[[淡路国]]へ配流の途上、高瀬里で憤死。
*[[住吉大社神代記]]に[[難波長柄泊]]の記述があり、同記中[[延暦]]8年([[789年]])の住吉大社解状に[[長柄船瀬]]の東限を高瀬(守口市高瀬・馬場~[[大阪市]][[鶴見区 (大阪市)|鶴見区]]東部)・大庭(守口市北東部)、西限を鞆淵([[大阪市]][[都島区]]友淵)として領有していたとの記述が見られる。
*平安時代には荘園として[[河内十七箇所]](十七箇庄、いずれも皇室領)が成立、高瀬は小高瀬庄となる。十七箇所の一部は[[門跡]]寺院[[仁和寺]]に寄進され[[上仁和寺庄]]([[寝屋川市]]仁和寺)、[[下仁和寺庄]](守口市中部)となり、鎌倉期に至る。この時代、高瀬川~大庭溝は[[伊勢斎宮]]退下の通路としても利用された。
*高瀬とは浅瀬の意で、[[紀貫之]]の[[土佐日記]]にもこの近辺で淀川の水位が下がり、船待ちをした旨の記述がある。
*鎌倉時代には皇統が[[持明院統]]と[[大覚寺統]]とに分かれ、十七箇所も両統入り乱れることとなる。
*[[建治]]元年([[1275年]])、常称寺縁起によれば[[一遍]]が荒廃していた高瀬寺の伽藍を再興し、[[時宗]]に改宗したとされる。
*南北朝期には十七箇所は[[楠木氏]]と[[足利氏]]との争奪の場となる。上下仁和寺庄は[[花園天皇]]により[[妙心寺]]へ寄進される。高瀬神社、高瀬寺は再び荒廃。
*北朝[[後光厳天皇]]の勅願により[[足利義満]]が高瀬寺を再興。これは十七箇所で大きな勢力となった南朝方の[[来迎寺 (守口市)|来迎寺]]を抑えるわれる。
*[[応永]]6年([[1399年]])、妙心寺6世住持[[拙堂宗朴]]が[[応永の乱]]に敗れた[[大内義弘]]に連座、寺領は[[足利幕府]]に没収され、上仁和寺庄は[[石清水八幡宮]]領に下仁和寺庄は幕府領とされた。[[応永記]]には応永の乱の際、下仁和寺庄森口城に拠る大内方守将[[杉九郎]]200余騎が堺城に呼び戻されたとの記述がある。この頃、十七箇所はそれぞれ[[禁裏御料]]、幕府料所、足利氏一族料所とされた。
*応仁の乱後は[[畠山氏]]、[[三好氏]]等の同族争いの場となり、高瀬神社、高瀬寺は度々の戦火に晒される。南北朝期まで続いた河内の荘園体制が崩壊、十七箇所は自治的な[[惣村]]制に移行。
*[[石山本願寺]]成立後、8代[[蓮如]]の時、下仁和寺郷は[[一向宗]]の勢力下に組み込まれる。同郷守口(この頃、森口よりこの表記が多く見られる)に[[寺内町]]が築かれ、石山本願寺51塁の筆頭として[[織田氏]]に対抗した。
*[[元亀]]元年([[1570年]])、[[三好三人衆]]が四国より侵入し、織田信長に味方した旧主[[三好義継]]、[[畠山昭高]]らを攻める。翌年、義継も信長に反旗を翻す。
*[[天正]]2年([[1574年]])、[[信長公記]]によれば[[佐久間信盛]]が河内の[[三好氏]]、[[一向一揆]]勢を破る。この元亀・天正年間に高瀬神社、高瀬寺は再び焼失した。
*[[豊臣秀吉]]の[[検地]]、[[刀狩]]により、十七箇所の惣村制が勢力を失い、江戸時代初期までに自然消滅。
*江戸時代、旧小高瀬郷は7村に分割され、高瀬寺の後裔たる常称寺はその内、世木村を管轄するに過ぎなくなった。
*江戸時代中期、高瀬神社が再興される。現在の社殿はこの時のもの。
*現在の社域は非常に狭く民家の壁が迫っている。[[京阪電気鉄道|京阪電鉄]][[土居駅]]前商店街の南端に鎮座し、民家や商店街上に高く突き出した楠の巨木が神域の森の名残を残す。


また、当社は[[難波宮]]の鬼門に位置することから鬼門の守護神として崇敬されていたという<ref name="高瀬神社"/>。
==アクセス==

*[[京阪電気鉄道|京阪電鉄]][[土居駅]] 徒歩3
[[延暦]]4年[[785年]])には[[早良親王]]が[[淡路国]]へ配流の途上、当社の付近である高瀬里で憤死している

当社は[[延喜式神名帳]]に記載されている<ref name="高瀬神社"/>。

[[建治]]元年[[1275年]]、常称寺縁起によれば[[一遍]]が荒廃していた高瀬寺の伽藍を再興し、[[時宗]]に改宗したとされる。

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[[明治]]時代になると、当社は[[村社]]に列せられている。

現在の社域は非常に狭く民家の壁が迫っている。[[京阪電気鉄道|京阪電鉄]][[土居駅]]前商店街の南端に鎮座し、民家や商店街上に高く突き出した[[クスノキ|]]の巨木が神域の森の名残を残す。

== 境内 ==
* 本殿 - [[貞享]]4年([[1687年]])再建
* 拝殿 - [[文化 (元号)|文化]]10年([[1813年]])
* 参集殿
* 社務所

=== 摂末社 ===
* 楠木[[稲荷神社]]
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画像:Takase shrine2 osaka.jpeg|扁額
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== 神事 ==
* 歳亘祭:1月1日
* 初午祭:2月初午
* 夏祭:7月23日
* 御例祭:10月23日

== 所在地 ==
* 大阪府守口市馬場町1丁目1-11

== アクセス ==
* [[京阪電気鉄道|京阪電鉄]] [[土居駅]]より徒歩約2

== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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[[Category:河内国の式内社]]
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[[Category:大阪府の旧村社]]
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[[Category:守口市の歴史]]
[[Category:守口市の建築物]]
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2024年3月22日 (金) 02:01時点における最新版

高瀬神社
所在地 大阪府守口市馬場町1丁目1-11
位置 北緯34度43分45.7秒 東経135度33分45.1秒 / 北緯34.729361度 東経135.562528度 / 34.729361; 135.562528 (高瀬神社 (守口市))座標: 北緯34度43分45.7秒 東経135度33分45.1秒 / 北緯34.729361度 東経135.562528度 / 34.729361; 135.562528 (高瀬神社 (守口市))
主祭神 天之御中主神
社格 式内社(小)、旧村社
創建 伝・聖武天皇の時代
本殿の様式 一間社流造
例祭 御例祭:10月23日
地図
高瀬神社の位置(大阪府内)
高瀬神社
高瀬神社
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高瀬神社(たかせじんじゃ)は、大阪府守口市にある神社式内社で、旧社格村社

祭神

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歴史

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社伝では、聖武天皇の勅願で行基によって高瀬里に創建されたものであるとする。ただし、主祭神の天之御中主神は当時の主神天照大神よりも古い神であることからもう少し時代を遡るとする説もある。現に、当社の付近から出土した流水文様の弥生式土器は西暦紀元前後の土器と推定され、この地では約二千年も前から祭祀が行われていたと推測されている[1]

行基年譜によれば、行基は高瀬付近で高瀬川(淀川旧流)に架けた高瀬大橋と、橋を管理する高瀬橋院(行基四十九院の一つ、高瀬寺華厳宗。現在は浄土宗常称寺に縁起が伝えられている。現在の高瀬寺とは異なるとされる)を建立し、当時の淀川南流(現在の古川筋)から高瀬川へ通ずる運河・大庭溝を開いており、高瀬寺は当社の宮寺としても機能したものらしい。昭和30年代には高瀬寺跡から飛鳥時代の古瓦が出土しており、聖徳太子が建立したとされる茨田寺がこれで、高瀬寺はその跡に創建されたのではないかとの説もある(守口市史本文編第1巻・昭和38年刊)。

また、当社は難波宮の鬼門に位置することから鬼門の守護神として崇敬されていたという[1]

延暦4年(785年)には早良親王淡路国へ配流の途上、当社の付近である高瀬里で憤死している。

当社は延喜式神名帳に記載されている[1]

建治元年(1275年)、常称寺縁起によれば一遍が荒廃していた高瀬寺の伽藍を再興し、時宗に改宗したとされる。

南北朝時代には、当地の荘園河内十七箇所南朝北朝との争奪の場となり、当社と高瀬寺は再び荒廃してしまうが、北朝の後光厳天皇の勅願により足利義満が高瀬寺を再興する。これは河内十七箇所で大きな勢力となっていた南朝方の来迎寺を抑えるためといわれる。

室町時代中期に河内国榎並荘に起こり、やがて五流能の一つ金春流に吸収された榎並猿楽(榎並座)の人々から当社は手厚い信仰を受け、芸の上達を祈願されたと伝えられる[1]

浄土真宗本願寺派の法主が8代蓮如の時、下仁和寺郷は本願寺派(一向宗)の勢力下に組み込まれる。同郷守口(この頃、森口よりこの表記が多く見られる)に寺内町が築かれる。後に大坂本願寺織田信長との間で石山合戦が始まると、守口城(森口城)は大坂本願寺51塁の筆頭として信長に対抗した。そのため、当地は戦場となってしまい天正年間(1573年 - 1592年)に当社と高瀬寺は再び焼失し、衰徹してしまった[1]

江戸時代に入ると高瀬寺の後裔として常称寺が再興され、当社は貞享4年(1687年)に再興された。現在の社殿はこの時のものである[1]。また、当社は江戸時代には八幡宮とも呼ばれていた[2]

明治時代になると、当社は村社に列せられている。

現在の社域は非常に狭く民家の壁が迫っている。京阪電鉄土居駅前商店街の南端に鎮座し、民家や商店街上に高く突き出したの巨木が神域の森の名残を残す。

境内

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摂末社

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神事

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  • 歳亘祭:1月1日
  • 初午祭:2月初午
  • 夏祭:7月23日
  • 御例祭:10月23日

所在地

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  • 大阪府守口市馬場町1丁目1-11

アクセス

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脚注

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注釈

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出典

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